ノルデンブルク城

 ザルツブルクの薄暗い森には、かつてノルデンブルクと呼ばれた廃城がある。

 ノルデンブルク城にはとある言い伝えが残されている。

 十二世紀初頭、アギロバルド侯位を巡って起きた戦乱の中、息女レギントルドのいたノルデンブルク城が陥落した。だが敵方が城内に雪崩れ込んだ時、レギントルドはその身辺を護る騎士と共に姿を消していた。

 包囲下の城から姿を消した姫と騎士。人々は、二人がいずこかへ落ち伸び、継承争いを避けて穏やかに暮らしたのだろうと噂しあった。廃城の片隅には崩れかけたかつての礼拝堂が残されており、今でも時折、言い伝えに想いを馳せる人々が訪れている。



 敵襲だ。誰かが叫ぶ。切り開かれた森、残された切り株を、三騎の騎兵が飛び越えていく。朝靄より突如現れた騎兵は、明け方のまどろみの中にあった兵らには目もくれず、一路ノルデンブルク城を目指して駆け抜けた。

 愚かな兵士が慌てて槍を手に立ちはだかり、先頭を駆けてきた騎士に一刀の下に斬り伏せられた。

「突っ切るわ!」

 叫ぶその声は、低くとも確かに女性の声だった。

 騎士らは馬の足を止めずに駆け、うろたえた敵兵は追われるがまま行く手を明け渡す。それでも野営の中団に差し掛かったころには、指揮官に叱咤された敵兵が各々得物を手に襲い掛かってきた。

 最後尾を走っていた馬がいななきをあげて立ち上がる。馬の首からばっと赤い血が広がり、馬上の騎士を振り落とす。騎士がもんどりうって転がると、間髪入れずに槍を掲げた兵らが殺到する。

 先を行く二騎はちらりと背後を振り返ったが、決して足を止めなかった。

 まだ態勢の整わない徒歩の兵らをなぎ倒し、ついに野営地を突破する。死体の打ち棄てられた戦場を抜けて城へと向かうと、ゆっくりと城門が開かれていく。

「あと少し! 遅れないで!」

 泡を吹いて馬が地を蹴る。あと一歩というその距離で、背後の敵兵が次々と矢を射かけてきた。グレートヘルムが矢じりを弾き、チェインアーマーの鎖が弾け散る。彼女は自らの肩を貫く痛みに、しかし歯を食いしばり、決して手綱を放さなかった。

 姿勢低く馬にしがみ付き、最後に降り注いだ矢を辛うじて突っ切る。

 城兵らが慌てて駆け寄って来る。

「無事か!」

「城門を閉めろ!」

 馬は力尽きて膝を揺らし、彼女は転がりながらその背を降りた。振り返ると、続くもう一騎が駆けこんでくる背後で、再び城門が閉じられていく。けれどその騎士は馬上でぐらりと揺れると、そのまま声も無く地面に崩れ落ちる。背には数本の矢が深々と突き立っており、そのいずれかが致命傷であるように思われた。

「私だけ、か……!」

 彼女は毒づき、グレートヘルムのベルトを緩めた。力任せに兜を脱ぐと、生きていることを確かめるように大きく肺を膨らませる。

 彼女の顔を認めた兵士らから驚きに目をしばたかせる。

「メルバ殿だ! メルバ殿が戻られたぞ!」

 あっという間に周囲を取り囲む兵士たち。彼らは口々に援軍は、戦況はどうかとまくしたてる。メルバは暫しぜえぜえと喘いでいたが、やがて高らかに宣言した。

「援軍は来ます! 侯は既に居城を出陣なされたわ!」

 わっと歓声が上がった。

 助かるぞ、もう少しの辛抱だと兵士たちは互いを励ましあい、守将は力強く物見櫓へと走っていく。兵から差し出された気付けのワインをぐっと煽ったメルバは、その視線の先、塔の窓からこちらを見下ろす瞳に、小さく手を振った。



 その部屋には、少し縮れた黒髪をした十代前半の少女が待っていた。アギロバルド侯の一人娘、レギントルドだった。

「メルバです。ただいま戻りました」

 土と血にまみれたメルバが足を踏み入れると、レギントルドは栗色の瞳を揺らし、自らが汚れるのも厭わずメルバへ抱き着いた。少し戸惑った様子のメルバが、そっと肩に手を回す。

「姫様」

「よくぞ無事で……よく……」

 少女は涙をこらえているのだろうか、その声は微かに震えていた。

「包囲を突破するのみならず、舞い戻るなんて。援軍を伴って戻ればよろしかったのに……」

「よいのです。必ずあなたを救うと、そうお約束したではありませんか」

 城が包囲されて数日。日に日に強まる包囲を前に衆寡敵せずと見て、メルバは援軍を求めるため、僅かな手勢と共に城の包囲を突破した。だが彼女は援軍を乞うのみならず、こうして突破時より更に厚くなった包囲をかいくぐり、単身城内へ戻ってきた。レギントルドは目じりに涙をにじませ、その細腕でメルバの首を精一杯に抱きしめた。

 メルバもまたその背を抱き、柔らかな縮れ毛に鼻先を埋めて暫し目を伏せる。

 けれどやがて、彼女は意を決したように唇を結んだ。その耳元に口を寄せ、そっと囁きかける。

「姫様、心してお聞きください」

 いつになく苦し気なその声に、心ざわめかせるレギントルド。メルバは少女の薄い肩を抱きよせたまま、静かに、だがはっきりと告げる。

「援軍は参りません」

 驚愕に瞳が震える。

「え……?」

「侯は討死なさいました。ザルツブルク大司教は手を引く構えを見せており、もはや頼みになりません。我等は見捨てられたのです」

「そんな……嘘よ。だってあなた、さっき下では援軍が来るって……」

 振りほどこうとする彼女を、メルバは強く抱きしめた。今その腕をほどいてしまえば、少女の戸惑いは悲嘆の叫びへと変わると思われたからだった。

「お許しください。兵らを奮い立たせるための方便です。いずれこの地にも、戦況が一変した報せは届きましょう。そうすれば兵らの戦意は萎え、抵抗する力を失いかねません……」

「どうして、そんな」

 そこまで問われた時、メルバはようやく少女の身体を離した。

「姫様をお連れする。その時を稼ぐためです」

 レギントルドの顔からさっと血の気が引くのにも構わず、とまどう瞳を真正面から見つめ、言葉を選び言い聞かせる。

「地下に、城外へ通じる秘密の抜け道がございます。私は、姫様をそちらからお連れするために戻ったのです」

「メルバ……」

 息をのむレギントルド。メルバは彼女の前に片膝を突いて屈むと、その手を取り、心に決めたただ唯一の主をじっと見上げた。

「お約束したではありませんか。必ずあなたをお救いすると」

 掌の上、少女の指が微かに震えていた。メルバはレギントルドに逃げろと言う。けれどそれは、とりもなおさず、援軍という偽りの希望にすがる城兵らを見捨てることを意味している。その事実に対する恐怖と羞恥心。それらが入り混じった戸惑いが少女の指を震わせていた。

 その指を、メルバは優しく握りしめる。

「どうか、私に誓いを果たさせてください」

 そう告げられて、少女は遂に手を握り返した。



 意気上がり熱気に包まれた城内。二人は手を取り合って塔を降りると、人目を避けつつ地下倉庫へと足を踏み入れた。誰にも見られていないことを確認すると、メルバは戸にしっかりとかんぬきを掛け、倉庫の中を見回した。

 レギントルドが不安そうに見守る中、松明の頼りげない灯りが倉庫の片隅を照らす。そこには石蓋で封のされた古井戸があった。

「確かこれって……」

「えぇ、枯れ井戸です。姫様、少し松明をお願いできますか」

 促されるまま松明を受け取ると、メルバが石蓋をずらしていく。松明で底を照らしてみると、そこに水の流れは無く、確かに湿った地面が見えた。メルバが頑丈な縄をレギントルドに結び付けると、少女の身体はゆっくりと吊り下げられる。慎重に底まで下ろされると、続けてメルバが井戸へと潜り込む。彼女は自らの四肢で身体を支えながら、できる限り蓋を戻して降りてきた。

 井戸の底には水が流れていた筈の横穴がある。小さなそこを潜ると、その先にはひとが立って歩けるだけの十分な通路が掘られていた。

「ここへ……?」

 不安そうな眼差しでその奥を見つめるレギントルド。メルバはそれに気づくと、彼女の先に立ち、手袋を脱いで掌を差しだした。その手を取ると、僅かに熱が伝わってくる。ちらりと顔を上げると、メルバは静かに微笑んで先を歩き始めた。

「参りましょう」

 その通路は石で補強され、所々僅かな板と柱に支えられ、所々には周囲から崩れたと思しき小石も転がっていた。明滅する松明と、メルバの背。互いに握り合った手の暖もりだけを頼りに、レギントルドは恐れる心を奮い立たせた。通路はやがて大きく曲がりくねり、その先に開けた空間の照らされるのが見えた。

「こちらです、姫さま」

 先に中へと入ったメルバに促され、彼女は足を踏み入れる。

 そこは周囲一面に何かの掘削跡が残されたまま、傾いた柱や板で壁や天井を支えた小さな空間。

 すなわち行き止まりだった。

「そんな……」

 レギントルドがふらふらと壁に近づく。岩と土が積みあがったそこから先に、通じる道は無い。崩れてしまったのか。そうも思ったが、何かが違う。見れば土壁からは僅かばかりの水がしみ出して土を湿らせていて、打ち棄てられたままの土くれや岩から、ここでは穴が掘られていたのだと解る。

「枯れた井戸を、もう一度掘ろうとした跡です」

 メルバが静かに告げる。

「結局もう一度水が湧き出ることはなく、ここまで掘り進んだところで諦めたのでしょうね。結局は掘削を切り上げ、ああして石蓋で封がなされたのです」

 そう告げられて、レギントルドはなんとなく理解できた。けれど、メルバがそれを知っていることがどうしても呑み込めない。それなら、どうしてここへ降りてきたのか。あるいはこの地下道がいったいどこに通じているというのだろうか。

 その疑問に答えるようにして、メルバの静かな声が告げる。

「その向こうにも、道はありません。わずかに地下水が染み出るだけです」

 冷静な口調に、背筋がぞっと震える。

 レギントルドは振り返ることができず、肩を強張らせながら、松明にゆらめく自らの影を見つめた。

「どういうことなの……?」

 少女が辛うじて絞り出した問いに、答える声は無い。ただ金属の擦れる音がした。理解を超えた、けれど直感的な恐怖が背筋を駆けあがり、少女の頭を引っ掴み、無理やりに振り返らせる。

 そこではメルバが、あの優しげな微笑みをしまい込んで剣を鞘から抜き放たんとしていた。

「メルバ……?」

「お静かに。なるべく楽にお送り差し上げますから」

「嘘。やだ。いや……」

 後ずさるも、すぐに壁が迫る。その瞬間にメルバが剣を振り上げた。鈍い音を立てて刃が空を切り、壁に縋りつくレギントルドが足を滑らせた。

「いやぁ!」

 その切先が肩口に食い込み、ばっさり腹の方へと切り下げられる。どっと赤い血が噴き出し、けれど足を滑らせたために傷は浅く、転がり倒れたレギントルドは痛みも忘れ、出口を求めて這いつくばる。

 だがここは一方通行の行き止まりだ。唯一の出口は二人が潜ってきた小さな穴しかなく、その前にはメルバが立ちはだかっている。当然に逃げ場などなく、レギントルドはただ悲鳴を上げながら転げまわるだけだった。

「やめて! なんでなのメルバ! どうして……!」

 喘ぎ、歯をがちがち打ち鳴らしながら後ずさるレギントルドを見下ろして、メルバは再び剣を構える。

「……解りませんか。城は遠からず落ちます。お父上が討死なされた今、敵は残された侯位継承者たる姫様を生かしてはおきません。よくて処刑、ともすれば戦の狂熱の慰み者にされるばかりです」

 一歩、メルバが近寄る。

「そんな……やだ。いや! 私はそんな、こんなの……!」

 近寄るメルバにレギントルドの顔が引きつった。彼女は手に触れた石を掴んでは投げつけ、石がなくなれば砂利をぶちまける。

「お願い、助けて……何でもする。だからお願い。死にたくない!」

 縋りつくような瞳を向け、見上げてくるレギントルド。

 メルバは刃を下に、剣を逆手に掲げた。

「お約束したではありませんか。あなたをお救いすると」

 冷たい瞳が、血に濡れた彼女を見下ろす。レギントルドが大きく息を吐いた瞬間、一直線に剣を振り下ろした。胸に突き立てた刃が鈍い音を立てて骨を割り、肉を引き裂く。一拍遅れて、レギントルドの腕が空をかく。息を吐いたばかりの肺は空気を吐き出せず、喉からは掠れた声が空気と共に漏れるばかりで、無様な悲鳴を響かせることもない。

「が……や、ぁ……!」

 呻くレギントルドが、己が胸に沈み込む刃に爪を立ててかきむしる。けれど痛みはとうに飛んで、涙ばかりあふれ出る。

「たすけ……」

 粘ついた命がこぼれ落ちていくのを感じながら、メルバはただ静かに、可憐でかわいらしかった主の顔が歪んでいくのを、ただじっと見つめている。


 この人は、何故私の忠誠心を理解して下さらないのだろうか。

 ふいにそう感じて寂しくなった。

 私は何も変わっていない。始めてお会いした時からこれまで、ただの一度も変心は無く、貴女を裏切ろうなどと考えたことすらない。ただ一人、貴女だけに変わらぬ忠誠をささげてきた。

 お約束したではないですか。あなたをお救いすると。

 私はあなたの魂を清いまま送って差し上げようというのに。お慕いする我が手で最期を迎えていただこうというのに。

 それなのに、何ゆえ、かようにも顔を醜く歪ませ、命乞いをなさるというのか。

 やはり正しかったのだ。そう思った。

 家臣たる私にすらこの様なのだ。敵の手に掛かれば、どれほど惨めで卑しき醜態をさらした事であろうか。きっとこのお方は、卑しくも媚び諂い、縋りついて命乞いをなさったことだろう。


 レギントルドの顔が憎悪に歪む。頬を涙と涎にまみれさせながらも、凄まじい形相で剣を掻きむしり続ける。刃の腹にがりがりと爪を立てるうち、爪は剥がれて血が滲みだす。

(ああそうか……)

 メルバは嘆息した。

(違う……違うわ。姫様がこうなろうことは、どこかで解っていた)

 逃げるよう伝えた時も、城兵を見捨てて逃げる後ろめたさに躊躇しながら、誓いを守らせてくれるよう願えば、それを言い訳にしてしまうような少女だ。いつでも誰かが道を照らしてきた。その手足を取り、幼子のように愛でてきた。

 愛でられ、慈しまれることが当然の少女だった。今わの際まで、誰一人として彼女を害したり、理不尽に暴力を振るう者などおらなかった。

 突然に降りかかった、初めての暴力。それを前に少女が見せた、最初で最後の、絶望に染め上げられた苦悶。それを愛でたるは、他でもない自分だけなのだと知る。

(ならば、なぜ)

 最後にもう一度刃を押し込む。

 突き立てた刃になおのこと力を込め、ぐっと捻りを加える。確かな手応えと共に肉が引き裂けていく。歪み切ったレギントルドの顔がひと際強張り、腕は力を失って萎えていく。

 ねじられた傷口から鮮血が絞られ、ほとばしる。

 メルバの冷たく醒めていた瞳が、浴びる返り血ににわかに微笑みを取り戻す。

(そうか。私は独占したかったのね……)

 レギントルドの苦悶と絶望に潰れた表情を眼下に慈しみ、彼女はその死体を折り曲げると、横穴の一角に力任せに押し込んだ。そうして立ち上がると、通路に戻り、柱を打ち壊し、楔を払っていく。軋む支柱がぐらりと揺れ、岩や土が次々と崩れ落ちていく。一度崩れ始めた壁や天井は連鎖的に崩壊しはじめる。やがてはレギントルドとメルバが残された、二人だけの空間もまた。

(姫様の魂が安らかなることを)

 歪み切ったレギントルドの顔を今一度目に焼き付けて微笑んだ。

 投げ捨てた松明が燃え尽き、完全な闇が訪れる。祈る想いに重なって、地上からは地鳴りのような鬨の声が響いている。彼女は安らかなるままに、心よりの思慕を抱いて亡骸へ身を寄せた。



 十四世紀中ごろまでに、ノルデンブルク城は廃城となった。

 五十年代初頭、ザルツブルク州はノルデンブルク城の学術調査を行った。城跡周辺からは打ち棄てられた武器や装飾品、戦の痕跡が出土した他は、何ら新しい報告はなされていない。

 ノルデンブルクは、ザルツブルクの薄暗い森に今なお佇んでいる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

殺伐感情戦線短編集「私の死だけが貴女の救い」 御神楽 @rena_mikagura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ