笑顔のパスポート
あなたの笑顔が好きだった。
あなたはどんな時でも笑っていた。苦しくても、悲しくても、いつだって笑顔で私の手を引いてくれた。
今もまた、彼女は笑っている。こよらせた無地の紙切れを手に歯を見せて、愕然とする私に、書類の挟まれた小さな手帳を突き付ける。
「さ、行って」
「私は――」
躊躇する私の胸に手帳を押し付けて、構わず手を離した。私が大慌てでそれを胸元に取ると、彼女は私の腕を掴んでぐいと押し上げる。
嫌だ。私は嫌だ。そんな筈はない。そう叫ぼうとするも喉は渇いて張り付き、うろたえる私をよそに彼女は声を張り上げる。
「通してください! ビザです! この子、ビザがあります!」
ざわついた人込みが割れた一瞬、どんと背が押された。あっという間に彼女の姿が遠ざかり、ぶつかり合う人波に押し出されるようにして兵士の前へつんのめる。
「私、違う。私は……」
口ごもる私を、血走った眼をした兵士が睨みつける。奪い取るようにして手帳を開き、私と書類を一瞥すると、何かを怒鳴り散らす。何を言っているかが解らない。唯一解ったのは私たちの名前だけ。
私は頷いた。確かに頷いて、違うと言った。
だけど兵士は私の肩を掴むと、乱暴に人込みからゲートの外へと引きずり出してしまう。
「離して! 違うの! 私じゃない!」
慌ててゲートに戻ろうとする私を、また別の兵士が掴んで引きずっていく。小さな私が抵抗したところで、どうしようはずもない。わあわあ喚く私はタラップに押し込まれ、流れに逆らえる訳もなく輸送機へと段を上がって行く。
既にエンジンはごうごうと唸りをあげていて、私たちが機内に足を踏み入れるや、タラップを上げる間もなく景色が流れ出す。
窓際に座っていた人を押しのけて、私は薄汚れた窓ガラスに顔を押し付ける。
フェンスに押し寄せる人々の片隅に、笑顔で手を振る彼女を見つけた。
「――!」
その名を叫んだ。生まれた時からずっと一緒だった彼女の名を。泣き虫な私の手を、いつも笑顔で引いてくれた彼女の名を。
小さな手を握り締めて窓を叩くと、その手から無地の籤がこぼれ落ちた。私が先に引く筈だった。けれど彼女は、私が止める間もなくさっと籤を引いて、いつもと変わらぬ笑顔で言った。
「残念。残るのは私」
彼女は笑った。これまでに見せたことがないほどの満面の笑顔で、なおも明々と。
あなたの笑顔が好きだった。
それでも今日だけは、あなたの笑顔を見たくなかった。
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