現代の平凡サラリーマン、悩みが尽きない

クッソ・フヴィン

第1話

 飼い猫が死んだ。名前は花子。14歳まで生きた、大往生だった。


 2011年、東日本大震災。

 当時会社のテレビで原発事故の様子をリアルタイムで見ていた俺には、現実味がまったくなく、今の自分の状況が大きく変わることを全く予想出来なかった。




「塩野。ちょっと葛尾村に営業行ってくれ」

「なんですか部長?葛尾村?そこって入れましたっけ?立ち入り禁止区域じゃなかったですか?」

「いや、現場は避難区域だから入れるよ」

「え~、行きたくないな~。絶対に線量(放射線量)高いじゃないですか。そんな所の廃棄物を受け入れしてくれる所なんてないですって」

「分かってるよ、だから断ってこい。懇意にしている祖田建設さんからの依頼だから無下に出来ないだろ。事情を説明して丁重にお断りするんだ。いいな、うちを使ってくれるゼネコンなんてあまりないんだからな。丁重にだぞ」


 祖田建設は準大手ゼネコンである。そんな大きな会社が仕事をくれるのだ。繋がりが切れないように必死である。


「はあ……、仕方ないですね。しかし、うちの会社が断りの営業をするなんてちょっと前までは考えられなかったですね」


 俺が務める会社は福島県内中通りにある産業廃棄物運搬等を生業とする宮澤産業という零細企業だ。幸いな事に原発事故の被害はほとんどなかった。

 震災前は仕事量が多いとは決して言えない業界であった。さらには県内に存在する競合他社に押され仕事を貰えないことは決して珍しくない。それ故に昔からお世話になっている会社は大事にしていた。しなくてはならなかった。

 しかし、震災以降はこの状況が一変する。県内の至る所で復興のための工事が始まり営業をかける必要はまったくない状態に突入する事になるのだ。むしろ顧客のほうから仕事を頼みに来る程である。不謹慎な話だが「震災バブル」などと言われる程に潤った業界になってしまった。


「これ現場の連絡先と住所な、アポ取って近日中に行けよ。それとこれ持ってけ」

「なんですかこれ?玩具みたいなクオリティですね……」

「空間線量測定器だよ。1万もしない中国製だからな、正確かどうかもわからん」

「意味ないじゃないですか……。つまりこれを使って説得しろと。なかなかの無茶ぶりですね」

「無茶でもやるしかないんだ、しっかり頼むぞ」


 震災以降の仕事は無理難題ばかりだった。それでも会社全体が必死に努力しているのだ。腐ってはいられない。




 アポイントメントを取り、次の日には打ち合わせの段取りをして現場に向かった。葛尾村までは片道1時間30分と言ったところか。事務所のおばちゃん達が「遠い所まで大変ね」と労いの言葉をかけてくれるが騙されてはいけない。オートマで普通車の運転など慣れればそれほど苦にならないし、途中コンビニでもあれば短時間だけならサボり放題なのだ。もはやドライブ感覚である。


「あー、やっぱり線量高いですね、0.5マイクロシーベルトあります」

「それって高いの?全然分からないな」

「ちょっと脇の溝の方も測ってみましょうか?……やはり高いですね、1マイクロシーベルト以上にもなります」


 現場の監督さんは30代くらいの方だった。やはり歳の近い年代の人とは話がしやすい。玩具みたいな線量計を使っているせいか説明中に首をかしげる様子が見られる。気持ちは非常に分かる、もし相手の立場だったら同じ気持ちになっただろう。


「高いみたいですよ、震災前の空間線量は平地で0.1マイクロシーベルト程しかなかったそうです。民間の処分場では0.4マイクロシーベルト以上は受け入れしない方針なんだとか」

「行政の発表と少し違うんじゃない?えーと……、たしかベクレルとかなんとかだったか」

「はい、行政の発表では8,000ベクレル/kg以下であれば問題ないとされています」

「じゃあ、なんで?」

「そもそも人が受ける被ばく線量、空間線量ではなく放射能の量で判断している時点で考えに違いがあるみたいですよ。処分場としては放射能の影響がある空間線量に注目しているらしく、やはり地域住民への配慮が強いみたいです。たとえ放射能の量であるベクレルが基準値以下でも、空間線量が高ければ断固として受け入れしない方針なんだそうです」

「やっぱりネックなのは地域住民なんだ」

「そうですね、元々あった工場が後からできた住宅街の住民からの苦情で閉鎖したなんて事例もありますし」

「でも、流石に何かしらの手は打つんでしょ?」

「一応は行政のほうで地域住民に対しての説明会を開く予定みたいですよ。いつになるのかはさっぱりわかりませんし、それで解決するかどうかもわかりませんけどね」

「困ったねぇ……、これじゃ工事は止めざるを得ないよ。撤退になりそうだ」

「大変申し訳ないです、産廃を生業としているのにお力になれず……。詳しいご説明を弊社からしているはずですがご連絡行きましたか?」

「ああ、連絡来てたよ。たしか御社の社長さんと処分場の理事長がうちの支店に説明に来てくれたんでしょ。状況が状況だからね、こちらも無理は言えないよ」


 話の通じる人で本当に良かったと思う。しかし、この現場に限らないがこの先福島県内の工事はどうするのだろうか……。


「しかし、本当に人の気配がありませんね……、車が走っている様子がまったくないですよ」

「避難区域内だからね、みんな中通りにある避難所や仮設住宅のほうに移って行ったよ。この先少し行った所にも住宅街があるんだけどさ、新築もけっこうあるよ。それなのに誰もいないんだ。もし帰還困難区域になれば当分帰れないだろうね」

「気の毒な話ですね。……あそこにも家が建っていますね。もう森の中じゃないですか、なんであんな所に?」

「さあ?色々な人がいるからね。建築確認申請出してるのかな?」


 程々に雑談を楽しみ、迷惑にならない所で帰る事にした。しかし、今考えると通常の何倍も放射線量が高い所に防護服なしで行っていたのだ、狂気の沙汰である。




 週末は専ら友人と飲みに行っている。


「そんな所に行って、おまえ被爆してるんじゃねえの?」

「いきなり酷いこと言うな。まあ、否定できる材料は何一つないんだけどさ」


 酒が入っているとはいえハッキリ言ってくれる。ナベさん(田辺)とは高校からの付き合いだ。一時期はお互い地元を離れていたが、結局どちらも帰って来てしまい再開したのだ。10年以上の付き合いになるのでもはや遠慮は微塵もない。


「世間一般では県内から脱出している人ばかりだというのに……。なんで仕事とはいえそんな危険な所に行くんだよ」

「別に好きで行ってるわけじゃないよ。というか俺だって本当は行きたくないよ、ナベさんだって県内から出る気はないだろ?」

「会社があるからね。でも、嫁と娘達は山形にある嫁の実家に行ったよ」

「え、そうなの?それは寂しいね」

「本当だよ、一番下の娘なんてまだ2歳だぞ。今が一番かわいい時期なのに……」


 酒も入り軽口をたたいていると少し離れた席から怒鳴り声が聞こえてきた。


「東電は福島県から出ていけ!おまえらのせいで福島は滅茶苦茶だ!」


恰幅の良い親父が、痩せた親父に言っている様だった。突き飛ばされたのかフラフラとこちらにやって来る。


「大丈夫ですか?」

「ああ、すみません。ご迷惑をかけてしまい……。私ね、東北電力の者なんですよ、たまたま口に出したのを隣にいる人達に聞こえてしまったみたいでして。福島原発の事業者は東京電力なのに、なぜか東北電力と勘違いしている人がいるんですよね、はは……」


 東電東電と言われる弊害なのか、乾いた笑みを浮かべる姿は本当に気の毒である。




 俺も友人もそれほど酒が強いわけではないので、いつも遅くならない時間にはお開きになる。


「ただいま、花。起きてるか?」

「にゃ~」


 何時に帰っても頭突きをしてお出迎えしてくれる愛猫が家にはいる。俺が実家を離れている時に両親が保健所から貰ってきたのだ。連れてきた当初はダニやノミで相当苦労したらしい。

 今は実家に住んでいるのは俺と猫一匹だけだ。両親は何年か前に他界してしまった。ローンも残っていない一軒家を残してくれたのだ、両親には感謝している。


「花、おまえ最近ふらつくことが多いな。それによく壁にぶつかってるし……。病院に行った方が良いかな?」


 返事が返ってくるわけでもないのに猫に話しかけるクセが付いている。そんな心配を他所に布団に入ると必ず一緒に寝てくれる。間違いなく俺の方が花子に依存しているだろう。




「白内障でしょう」


なんとなく聞いたことがある単語を言う動物病院の先生。それじゃわからないよ。


「水晶体全体が白く濁って症状が進行すると視覚障害となる場合があります」


だから、なんとなくしかわからないよ。


「治らないんですか?治療薬とか」

「難しいですね、それに花ちゃん大分歳ですし。薬を与えるよりも経過を見守ってあげた方が良いでしょう」


 両親が健在だった時からずっとお世話になっていた動物病院だったが、結局のところ「看取りの準備をしておけ」と遠回りに言われただけだったような気がした。




「祖田建設さんの月舘総合病院の現場に打ち合わせに行ってくれ」


飼い猫の事で頭がいっぱいだというのに部長から指令が下された。


「担当たしか菅野さんでしたよね、電話じゃダメなんですか?」

「工事の遅れがかなり出ているらしい、とにかく会って打ち合わせがしたいんだと」

「こっちで何とか出来る事ではないじゃないですか。俺、書類作りで今すごい忙しいんですけど」

「こっちも手いっぱいなんだよ。とにかく会って話をして来い」


 総合病院の古い棟を解体し、新しく立て直す工事である。規模も大きく年単位の施行工事だ。しかし、震災で予定が大きく狂う事になる。それでも準大手ゼネコンとしての責任があるのだろう。どちらにせよ非常に厄介な案件であった。




「廃棄物の処分、なんとかなりませんかね……」


明らかに担当者の顔色が悪い。


「あの……、菅野さん体調大丈夫ですか?」

「いやはや申し訳ない。全然大丈夫じゃないんですよ、体調もスケジュールも……。こんなこと言っても仕方ないですが産廃だけじゃないんですよ。設備や内装も全部遅れています。問題ないのは足場くらいですかね、はは……」


 現場で産廃を担当している菅野さんはとても元気がなく体調も悪そうだった。


「とにかく現場監督に会ってもらえますか?柳沼というんですが……」

「おい!菅野!何しているんだ!また工事の遅れが出ているぞ!」


 怒鳴り声を上げて近づいてくる人がいる。おそらくはあの人が現場監督の柳沼だろう。


「すみません、今産廃の運搬をしていただいている宮澤産業さんに来ていただいた所です。何とか予定を早めてもらえないか話をしていまして……」

「おい!おまえ!何故産廃を運ばないんだ。現場を見ろ!あちこちに産廃が溜まっている、邪魔で仕方ないだろうが!」


 あちこちにあるのは監督の指示と対応が悪いんだろ。と言いたい所だが我慢する。


「大変申し訳ありません。廃棄物に関しましては現在震災の影響により処分先の受け入れに制限がありまして弊社でも難航しております。もちろん少しでも運搬量を増やす努力をしているのですが……。その点のご説明を御社にしていたはずですがご連絡はありませんでしたか?」


「そんな連絡はない!廃棄物の処分を出来ると言うから使ってやってるんだ!それを今になって出来ないなどと無責任ではないのか!このまま廃棄物が増えれば場所を取られ工事に支障が出る。そうなった時おまえに責任が取れるのか!?」


 工事が始まったのは震災前だ、流石にこんな状況になるとは予想できない。しかし、それでも震災を理由に「出来ません」と言うつもりはない。常に企業努力は行っている。

 それでもこうまで言われると完全な責任転嫁である。


「いいか!今週中にはここを綺麗にしろ!わかったな!」


 無理難題だけを言い残していなくなってしまった、本当に憂鬱である。


「すみません、監督いつもあんな調子でして……。みんな参っているんですよ」

「心中お察しします。そりゃ、あんな人を相手にしていたら体調崩しますよ」




 廃棄物の多くはまず中間処理場と呼ばれる所に運ぶ。廃棄物を破砕や焼却し、減却してから最終処分場に埋め立てを行うのだ。


「鈴木さん、もっと廃棄物の受け入れ出来る量増えませんか?」

「増えねえよ、今でもギリギリなんだぞ。宮澤産業さんの廃棄物だけ受け入れしているわけじゃねえんだからな。こっちだって線量の調整大変なんだよ」

「ですよねぇ……」


 現在最も立場が強いと言える処分場だが、だからと言ってずっと有頂天でいるわけではない。この震災の影響がずっと続くわけではないことは理解している。そのため先を見据えて懇意にしている会社には「線量が高い廃棄物の受け入れ枠」を用意してくれているのだ。

 しかし、そんなものを受け入れして大丈夫なのか。そのために取った方法が水増しして線量を調整する作戦である。線量の低い廃棄物と高い廃棄物を合わせる事で放射線量を調整し、最終処分場に「まあ、ちょっと線量高いけど許容範囲だしこれくらいなら大丈夫かな?」と思わせる作戦なのだ。そして、最終処分場側も事情を理解しているのだろう、案外上手くいってしまった。


「先日役所の廃対課(廃棄物対策課)からも連絡あったんだよ。依頼があった廃棄物の受け入れを断らないでください、だってさ。もう理事長すごい怒ってて怒鳴りつけてたぜ」

「容易に想像できますね。関わりたくないな、それは……。まあ、たしかに未だになんの対策も出来ない行政にそんなこと言われたら誰だって怒るでしょうけど……」

「だろ。だから今の状況がほんとギリギリなんだよ」


 そんな会話をしているとポケットに入れている携帯電話の着信音が鳴った。


「すみません、電話来ました。ちょっと失礼します」

「どうぞ」

「げ……、月舘総合病院の現場事務所からだ……」


 電話に出たくないという気持ちを抑えて、仕方なく電話に出る。


「もしもし、宮澤産業の塩野です。いつもお世話になっております」

「おい!いつになったらコンテナ(廃棄物を入れる箱)を交換するんだ!もう入りきらないぞ!明日中に必ずやれ!」

「……失礼ですがどちら様でしょうか。まずお名前をお願いできますか?」


 柳沼監督からか。誰か分かってはいるが横柄な態度を取られると、ついこういう返しをしてしまう。


「なんだその口の利き方は!生意気な奴だな!そんな事言わなくてもわかるだろうが!」


 聞いても名乗らないのだから本当に図太いと思う。


「……申し訳ありません。しかし、それでしたら菅野さんと話をしており三日後に予定しております。弊社でも最大限の努力をしており、他の現場との擦り合わせや処分場の状況を見て最短でやらせてもらっております、ご理解いただけないでしょうか。予定の件に関しましては御社関係者様にメールでもご連絡させてもらっています」

「ふざけるな!そんな連絡は来ていないし、ここの現場を最優先にしろ!このままでは現場が止まり工事の進行が止まる。おまえ責任取れるんだろうな!社長に苦情の電話を入れるぞ!」


 もう好きにしてくれ……。メールだって送信した記録が残っているんだ、そんな言い訳通用しない。


「……申し訳ありません。もう一度社内で検討した上でご連絡差し上げます」

「検討じゃなくてやれと言ってるんだ!分かったな!」


 相手は言いたい事だけ言うと一方的に電話は切れてしまった。


「すごい相手だね、こっちまで聞こえたよ。あんなの相手にしないといけないんだから塩野君も大変だね」

「そうでしょう、嫌になりますよ。なんで俺達よりずっと年上なのにあんなに自己中心的なんでしょうか……」

「年齢重ねても自己中な奴はいるよ、むしろそのせいで態度もデカくなっているんじゃない?年下には言いやすいんだよ」

「そういうものですかね、がっかりしますよ。でも、今の話聞いていたならもう少し何とかなりませんか?お願い、鈴木さん!」

「ならねえよ。もし月舘総合病院の廃棄物増やすなら、他の現場の廃棄物減らせよ」


 全力で媚びを売ったが効果はなかった。




「あ、塩野君戻ってきた。相談あるんだけど時間大丈夫?」

「ん?大川さんですか、お疲れ様です。」


 報告を兼ねて一度会社に戻ると雑工事担当の大川さんから声をかけられた。


「あのさ……、柳沼さん何とかならない?」

「なりません、絶対なりません。無理です」

「あー……、塩野君もそんな感じなんだ。気持ちわかるよ」

「月舘総合病院の現場ですよね?もうウンザリですよ、柳沼監督の相手は」

「いや、違うよ。平田村の現場。なんか山の中に家だか小屋を建ててるんだよね。まあ、あそこ郡山から少し離れてるから土地も安いのかな?いわきにも行けるからそんなに立地も悪くないんだよね」

「へー……、そうなんですね」

「でさ、今どこの現場もすごい忙しいでしょ。それなのに個人的とも思える現場に人工を出せと言うんだよ」

「個人的?どうしてそう思うんですか?」

「だってさ、本当に山奥だよ。現場じゃ柳沼さんの別荘でも建ててるんじゃないのか?とか言われてるし」

「まあ、たしかに変ですけど祖田建設さんからの仕事なんでしょ?」

「まあね。でも、本当に少数でやってて現場に入ってるのうちの会社の人間くらいしか見ないんだよ。それで、せめて月舘総合病院に行ってる人数を減らしてくれとお願いしたらさ、すごい怒ってね」

「そうでしょうね。基本的に聞く耳持ちませんし、あの人」

「だからさ、塩野君からも説得してくれない。このままじゃ他の現場がまわらないよ」

「無理です」




 適当なところで話を切り上げた俺はさっそく部長に報告に行った。


「部長、月舘総合病院に打ち合わせ行ってきましたよ」

「おう、どうだった?大変だったろ」

「……。分かってて行かせたんですね、最悪でしたよ。これから井之頭主任のところに相談に行くんで部長も一緒に来てください!」

「えー、塩野だけで行ってくれよ」

「ダメですよ、井之頭主任怖いんですから。それにこれ以上仕事が増える説得なんて俺一人じゃ絶対に無理です」

「わかったよ、しょうがないなあ……」




 運搬車両の手配をしている事務所は会社から少し離れた所にある。大型トラック等の車両が複数台あるので相応の広さが必要になり町中には作れなかったのだ。

 部長に先に事務所に行くように言われた俺は、外で作業をしていた井之頭主任に声をかけて一緒に事務所に向かった。


「井之頭主任、お疲れ様です」

「おう。お疲れ、塩野君。営業大変だろ、コーヒー飲むか?」

「ありがとうございます。で、早速ですが仕事の話いいですか?」

「はあ……、しょうがねえな。いいよ、何?」

「月舘総合病院の現場なんですか、コンテナ交換の予定を入れてもらいたいんです、明日」

「は?明日?おまえ予定表ちゃんと見てんのか?どこにそんな余裕あるんだよ!」


 さっきまで笑顔だったのに、あっという間に憤怒の顔に変わってしまった。


「毎日みんな残業して無理してんだぞ。震災以降はろくに休みもない、分かってんのか!?」

「分かってます、それでも無理を承知でお願いしてるんです」

「客の言いなりになってるだけだろ!そんなに言うんならおまえが運転して行けよ!」

 ダメだ、多忙と休みなしのストレスで物凄い怒っている。人は余裕がないと本当に気が短くなる。


「わかった。じゃあ、俺が運転するから空いてる車両あるか?」

「部長……」


 ここでようやく部長が登場。井之頭主任もさすがに部長には露骨に怒りを表さない。


「……。……わかりました、こっちでなんとか調整してみます。でも、こんな状況が今後も続くようでは、そのうちみんなまいってしまいますよ。現に何人かは体調を崩し始めています」

「分かってるよ。順番で休みを与えられるように社長とも相談している」

「それに回収した産廃はどうするんです?処分場の制限以上になりますよ、受け入れなんてしてくれない」

「廃棄物は一時的ではあるがコンテナに入れた状態で駐車場の隅に置いておく。処分場の許可が下りたら持っていくようにする」

「それ、廃掃法(廃棄物の処理及び清掃に関する法律)的にいいんですか?」

「良くはない、グレーだな」


 グレーではない、完全に真っ黒だ。


「上に遮水シートをかけておけば外からも見えない、大丈夫だ」


 言う程大丈夫か?


「……わかりました。部長がそれでいいと言うならそうします。塩野君、後で予定決まったら連絡するから」

「わかりました、お願いします」




 地獄のような一日を終えて俺は帰路についた。


「ただいま、花。あー、疲れた。……あれ?」


 いつも帰ると玄関まで来てくれる花子が今日は来てくれない。

 どうしたものかと居間に行ってみると隅の寝床で横になっていた。


「にゃあ~」

「お、いたいた。おまえ最近ずっとそこにいるな」


 以前は居間の日当たりの良い窓辺やサンルームにいたりと動き回っていたが、最近はずっと同じ場所にいる。

 それでも食事と入浴を終えて自分の部屋の布団に入ると、のそのそと布団に入って来るのだった。


「お。来たな、花。……あ~、可愛いなあ~」

「にゃ」

「聞いてくれよ、花。もうさ、毎日毎日仕事がしんどいよ。遅くまで残業してさ……、こんなに忙しくなるなんて想像してなかったよ。見てくれよ、この着信履歴。毎日30件以上来てるんだぜ、こっちからもかけてるんだから一日に何時間電話してるんだよ俺は……」

「にゃにゃ」

「前のほうが良かったな……。仕事が少なくてのんびり自分のペースで作業出来て……。今は毎日激務過ぎる……。そうだよ、激務なんだ。会社は間違いなく儲かっている、それは自分が担当している現場の請求書だけでも明らかだ。それなのに会社から社員に還元される気配もない、こんなんでどうやってやる気を出せと言うんだ……」

「にゃにゃにゃ」

「申し訳ありません、と言わない日がないよ……。なんで俺は毎日誰かに謝罪してるんだよ。はあ……。もうやめようかな、仕事。井之頭主任も円形脱毛症になったと言うし……。俺はまだハゲたくねえよ」

「にゃあ~~~あ~~おあ~~~」

「っ!!……久しぶりに聞いたな、その鳴き声」


 実家に戻って就職活動が上手くいかず、やる気を失くしていた時もこんな鳴き声を出したことがある。言葉は通じないはずなのに、何かを感じ取った花子なりの叱咤激励なのだろうか。


「はあ……、もう少し続けるか。再就職も面倒だし……」


 目をつぶると疲れが出たのか、あっという間に意識がなくなった。




「塩野君、おはよう。ちょっといいかな?」


 朝、会社に出勤すると事務員の沢田さんに話しかけられた。


「おはようございます、どうかしたんですか?」

「祖田建設の請求書なんだけどね、平田村の現場の請求を月舘総合病院の現場に含めてくれと言われたのよ。大丈夫なのかしら、これ?」

「現場の柳沼監督からですか?」

「そう、請求書に記入する工事名と送り先を確認するために電話したらそう言われたのよ」

「別に大丈夫ですよ、よくあることですし」


 こういった事は特に珍しい事ではない。現場が始まるとまず工事に必要な予算を決めることになるらしい。そして基本的には決まった予算内でやりくりをするのだが、当然イレギュラーが発生すれば費用が多くかかる場合もある。状況にもよるが増額する場合もあるし、そうでなければ担当している他の現場で確保している予算で調整する場合もあるそうだ。


「月舘総合病院の現場はまちがいなく予算を多く取っているでしょうし、まさか会社に了承を取っていないわけはないですよ」


 了承を取っているはずである。……少額であれば現場監督の独断だったりもするらしいが……。


「そう?それならいいんだけど」


 結局のところは他社の事情だ、こちらで追及することではない。……それに単純に柳沼監督とそんな事で会話をするのも嫌だった。




「お世話になっております、菅野さん」


 昨日依頼があったコンテナ交換の予定と、簡単な打ち合わせをするために月舘総合病院の現場に来ていた。


「お世話になってます」

「今日はコンテナ交換の時間を連絡しに来ました。遅くなり申し訳ないのですが、16時から17時くらいを見てもらえます?」

「……もう少し早くなりませんか?というか、なんで俺に言うんです?催促の連絡をしたのは柳沼さんですよね、そっちに言ってくださいよ」


 中々嫌な言い方をする。しかし、こちらも柳沼監督と会話をしたくないので菅野さんに伝達をお願いしたのだ。露骨に卑怯ではある。


「あはは……。すみません、その通りですね。柳沼監督と話をしたくないんで菅野さんに言っていまいました」


 菅野さんとは今後のことも考えると良好な関係を築いておきたい。少し世間話でもしようかと思ったら、つい気になった事をしゃべってしまった。


「そういえば菅野さん、ご存じですか?」

「何です?」

「柳沼監督、平田村にも現場持っているんですね。この現場も忙しいのに大変ですね、もしかしてそのせいで菅野さんの仕事が増えているんじゃないですか」

「?……ここ以外にですか?聞いた事ないですね……」

「そうなんですか?なんでも平田村の山奥に家だか小屋を建てているみたいですよ。祖田建設さんの仮設住宅として使用するんですかね?遠方から現場に来るのも大変でしょうし、中継地の拠点にでもするんでしょうか」

「いや、聞いた事ないですよ。社内でもそんな話あったかな……」

「そうなんですか、そこの工事にかかった費用も月舘総合病院の工事に含めてくれと言われているみたいです。いや、俺が聞いたわけではないんですけどね」

「……ふうん、そうですか」


 世間話を切り上げ会社に戻ることに、仕事は山積みなのだ。それに菅野さんには悪いが柳沼監督と会話をせずに済んだ、良かった。




「塩野君、お疲れ様」


 夕方になり運搬車両を手配する事務所に顔を出すと運転手の坂東さんに話しかけられた。


「坂東さん、お疲れ様です」


 この人は俺より会社の古株だが、物腰が柔らかく優しい性格だ。それ故に話がし易い反面、見下される事が多い。かく言う俺も入社して数年後、生意気盛りだった頃に色々と失礼な態度を取ってしまった。それでも俺に対して横柄な態度を取らないこの人から、大人とはこうあるべきだと学ばせてもらった。


「坂東さん、今日は忙しいのに追加の現場までありがとうございました」

「いやいや、そんなことないよ。コンテナ運ぶだけで処分場まで持っていく手間もなかったしさ。それほど大変じゃなかったよ」

「それなら良かったです。現場で嫌味とか言われませんでしたか?ほら、柳沼という現場監督いたでしょ?」

「うーん、いたかなあ……。ああ、そういえば帰り際なんだけど遠くで怒鳴り声を上げている人がいたな」

「ああ、多分その人ですよ。大丈夫でした?」

「いや、僕に怒鳴っていたわけじゃないよ。周りにいた人達に怒鳴ってたんだ。内容まではわからなかったなあ……。」


 きっと他の業者の人達に文句を言っていたんだろう。




 次の日。予定していたコンテナの交換が終わり元々予定していた日が空いたため、そこに場内の清掃と廃棄物運搬を予定しようと、もう一度打ち合わせをするために月舘総合病院の現場に来ていた。


「菅野さん、お世話になっております」

「塩野さん?ああ、お世話になっております!」


 すごい元気になっている……。


「……あの、どうかしたんですか?すごい体調良さそうですね」

「そうかな?そんなことないよ。あはは!」

「……今日は空いた日の打ち合わせに来ました。先日頼まれた場内の清掃と産廃の運搬を出来そうです」

「本当に?それは助かるな!何時頃に来るの?うちでもその時間に空いてる人がいたら手伝いをさせるよ!」

「……それは助かります」


 ……先日の憂鬱な様子が信じられない。


「今日は柳沼監督はいらっしゃらないんですか?直接話をしたほうがいいですかね?」

「ああ、今日はいないよ。というかもう来ないんじゃないかな」

「え!?何かあったんですか?」

「社内で調査が入ったんだ、柳沼さんの。そうしたら不正がたくさん出て来たらしい、きっかけは些細な事だったんだけどね。ほら、平田村の建築物。あれ、建築確認申請を出していなかったみたいなんだ。別にそれ自体は大した事じゃないんだけどさ。会社名義で建てていたでしょ。建築指導課から会社に連絡が入ったんだよ」


 個人で建てている場合、知らずに申請をしていないことは多々あるらしい。それ故に規模が個人の趣味みたいな範囲ならば厳重注意で終わる事もあるそうだ。しかし、今回のケースは申請しなくてはならない事を知っていて申請せずに工事を進めた上に、表向きは会社主導だ。行政も施工停止や是正処置を命じることになったのだろう。


「これがきっかけで本格的に社内で調査が入ったんだ。ほら、請求をこの現場に含めてくれ、という話もあっただろ。あれも会社には通してなかったんだよ」

「そうなんですか。しかし、何回かは通ったんでしょ?よくバレませんでしたね」

「震災後は以前とは比べ物にならないくらい県内の工事が増えたからね。それに震災の影響か、実際に施工してみると予想していない出費がたくさん出るようになったんだ。もちろん最初のうちは全部確認していたよ。でも、どれも正当な内容だったからね。そのせいで段々と確認が甘くなっていたんだと思う、誰も不正なんてするわけないと思うようになったんだ。慣れと多忙でそういう意識になってしまったんだろう」

「なるほど……」

「でも、発覚すれば話は別だよ。うちは準大手とはいえゼネコンだ、クリーンなイメージがとても大事なんだよ」

「そうでしょうね」

「しかも、調べた結果キックバックなんかもやっていたらしい。ああ、宮澤産業さんではない別の会社とですよ」

「たしか水増し請求の事でしたっけ?」

「そう。昔は平気でやっていたらしいけどさ、違法ではないとか言って。十分に違法だよ、結局のところ頭が昭和で止まっているのさ」


 すごい饒舌な菅野さんはその後もイキイキと話を続けた。その上に感謝までされてしまった。俺は特に何もしていない、あった事をそのまま話しただけだ。色々と動いていたのはまちがいなく菅野さんだろう。


「やはり不正は出来ないですね」

「その通りだよ!」


 終始上機嫌だった菅野さんと会話を終え、俺は会社に戻った。




 久しぶりに晴れやかな気分で仕事を終えて帰路についた。


「花、ただいま!元気でいたか」


 今日も頭突きのお出迎えはなかった。でも、きっといつもの寝床だろう。そう思い居間に向かった。


「お、いたいた。やっぱりいつもの寝床だったな。ただいま、花。具合どうだ?……花?」




 休日、今日は友人のナベさんと遊びに出かけていた。


「知ってるかい?ナベさん。ペット霊園て平日しか営業していないんだぜ」

「いきなり何の話だよ。……飼い猫死んだのか?」

「そう、先日ね。びっくりしたよ、前日まではあまり変わりなかったからさ。……家に誰もいないから余計に混乱しちゃって、何故か動物病院の先生に助けを求めちゃったよ。で、落ち着くように言われてペット霊園の連絡先を教えてもらった」

「今はそんな所あるんだな。俺が昔飼っていた犬は庭に埋めたぞ」

「そうなの?でも、ナベさんの所は実家兼会社だし、農業もやっているから土地広いでしょ。住宅街の一軒家とは話が違うよ。で、電話したら平日しか営業してませんと言われた」

「休み取ったのか?」

「うん、有給」

「会社に文句言われただろ」

「いや、それが全然」

「そうなんだ、よかったじゃん」

「まあね、むしろ良くやったとまで言われたよ。結局のところさ、震災以降みんなほとんど休まずに働いていたから自分だけ休みを取りづらかったんだろうね。今回、俺が有給使って休んだ事で周りに「休んでもいいんだ」という雰囲気が出来たと思う。いや、当たり前の事なんだけどさ。案外この当たり前が難しいわけですよ」

「まあね……。わかるわ、それ。有給使わないで余るんだよな」

「そうそう。でも社長も今後は積極的に有給使わせたり、休日に出勤した人には振替休日を与えて半ば強制で休ませるという話も出たよ」

「当たり前の事だけど、おかしい事でもそれが日常になると感覚がズレるんだよな。疑問に思わなくなる」

「ほんとそれ。今、言った事て何一つ特別な事じゃないからね」


 雑談が愚痴に変わってきた辺りで話を戻すことにした。


「これでついに本当の一人暮らしですよ。はあ……、悲しい。今、俺まちがいなくペットロス症候群です」

「まあ、こればっかりはなあ……。何年くらい一緒にいたんだ?」

「両親が花を保健所からもらって来て半年後くらいに俺が実家に帰ってきたから……、14年くらい?」

「けっこう長かったんだな」

「まあね、なんだかんだで14歳ですよ。……いや、保健所にいた期間がわからんから14歳が正確かどうかはわからないな……」

「いや、別にそこはカウントしなくていいだろ……」


 本当に……、本当に花子は俺の心の支えだった。今は心にぽっかり穴が開いている。


「仕方ないな。昼飯おごってやるよ」

「よし、じゃあ焼き肉屋に行こう」

「それはダメだ」




 家に帰る。玄関を開けても花子はやって来ない。


 そんな当たり前のことで花子が死んだ事を改めて実感してしまった。


 花子の寝床の隣には新品のエサやトイレ用の砂が残っている、それがたまらなくつらい。


 悲しい……。本当に悲しい……、こんなに悲しいと思う感情がある事にびっくりする。




 しばらくの間惚けていたせいか、携帯電話の着信音に盛大に驚いてしまった。


「うわ!びっくりした……。誰からだよ、今日は日曜だぞ、仕事の電話だったら居留守だからな」


 ぶつくさと文句を言って確認すると、お世話になっている動物病院からだった。


「あ、もしもし。塩野さんですか?今、大丈夫?」

「はい、大丈夫ですよ。どうかされましたか」

「いや、実はさ。お客さんの中に猫の里親を探している人がいるんだよ。塩野さん、寂しいだろうなあと思って連絡したんだ。どう?飼ってみない?」


 この先生、間髪入れずに悩ませてくれるぜ……。




 その後、ペット霊園からは毎年お盆になるとハガキを送ってくれるようになった。年に一回だけだが、花子のお参りを欠かした事はない。


 ちなみに動物病院は紹介した手前責任を感じているのか、新しい家族を連れていく度に一割引きしてくれるようになった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

現代の平凡サラリーマン、悩みが尽きない クッソ・フヴィン @whitemouse59

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ