勝負のゆくえ
今度は、九一郎さんの両手が迷いなく私の胸元にのびる。思わず息を飲み込む。
襟の合わせを掴まれた──と思ったら、彼の手はするりと肩の後ろにまわる。
そのあとすぐ、後ろでひとつに結んでいた私の髪が、ふわりと広がった。
「かなり伸びたな」
彼は感慨深そうな声で、私の肩にかかる髪を一房掴む。指の腹でそっと
この世界にきた時は胸もと位だった私の髪。もうすぐ腰に届きそうだ。
着物は何事もなく。髪をほどかれただけだった。
「まもなく、そなたがこの世に降って一年か」
ゆっくり見上げると、髪を見つめる九一郎さんの目は優しい。
一年。あっという間だった。毎日忙しくて。
九一郎さんがいつも傍にいてくれる。でも最近、距離を感じていて。
気が付くと彼の左手には私の髪を結んでいたリボンがほどかれ、少しだけ日焼けした赤い布きれとしてそこにある。
布を広げた九一郎さんは、中に折りたたまれた紙を見つけ出したようだ。
「何でわかったんですか」
「帯と言った時点であるいは、と。いまだに着ておるものをよく理解しとらんなら、まぁ髪じゃろ」
彼は疲れたように肩をすくめた。
「策に乗ろうかとも思ったが、止めた。腹を切ることになりかねん」
でも彼は結局、ろくに私に触れもしなかった。
「本気で手を出す気はないくせに……」と、思わずこぼした私の小さな呟き。それを拾ったらしい九一郎さんは、小さく呟き返す。
「怖がっておったろうが」
うっ、図星をさされた気がした。でもちょっと緊張しただけで──なんて、意地になっている自分を自覚しだしたとき。
彼は頭をかいて言いにくそうに語りだした。
「近頃は辛い。ただ触れるだけではおさまらん。欲が張ってきたというか、いつまで己を律せるかわからん」
辛い。そう告げる九一郎さんは、私から大きく一歩引いて床に腰を下ろす。
「その……近頃の
床を見つめてつっかえながらでも、彼はそうハッキリと言った。
彼の言葉は時間をかけて頭に浸透してくる。少しずつ力が奪われ、私はその場で崩れるように腰をつけた。
私はただ目の前の床を見つめる。
九一郎さんに飽きられたんじゃないんだ。違ったんだ。胸の中が熱いもので埋まっていく。
「嬉しい、です」と口にするのがやっとだった。
しばらく部屋の中は、温度の高い沈黙で満たされた気がする。温泉の中──みたいに。
バサ!
乾いた音がひびく。驚いて背すじがのびる。
顔を上げると、九一郎さんが急に腕を振って大げさな音を立てながら紙を広げていた。そして目を通し始めてからピタリと動きが止まる。
「紗奈、これは何じゃ。意味がわからぬ」
やっぱり上手く読めないんだ。ローマ字で書いたから。
先代巫女様が残してくれた木片もローマ字。巫女守人には何故か読みにくいらしい。
「え、えーと……書いたものはありますが、九一郎さんに読めるものとは言ってません」
ちょっと気まずい。
九一郎さんは喉をつまらせたように言葉を飲み込んだ。でも深く息を吐くと「わかった」と一言呟いた。
「俺の降参で良い。もともと勝ち目はない」
彼は続けて「情報源が俺だけなら、そなたは知らぬ方が良いと思った」と戦が起きることを黙っていたと認めた。
それから彼が口にした内容は、私の想像よりもはるかに規模が違っていたようだ。
「
彼の話では、やはり物の怪の出現のしかたから想起したということだった。
連日波紋が広がるように、斉野平の領地に物の怪が出現する。
それは沿岸からはじまるものと、日をずらして北東の山脈──国境付近から少しずつ広がるという。そう言えばそっちもあったような。
北東に位置する国である『
すでに物事が動いていた。
「綿野原は降伏しておる」
「え? 降伏って……斉野平に?」
「
みかど?
二ヶ月ほど前にはるか東から、海を渡り使者が書状を携えてやってきたという。
「『この地は神の血を引く
九一郎さんは、斉野平の成り立ちやこの土地の歴史を簡単に説明してくれた。
それによると、この大陸にもともと住んでいたのは
「八百年ほど昔、この地に神社仏閣を建て服従を強いた、
でも朝廷軍の数に押し負けた。
この地は他の土地よりも山追が多い。長い戦で損耗も激しかった朝廷は直轄することをあきらめ、退いていった。生き残った
その前後で、札巫女を呪術で縛ったと言われているようだ。斉野平家のご先祖というのは
長い歴史の中で朝廷から逃れてきた様々な土地の者が集まって、
ちなみに『
そして、私に言わなかった最大の理由があった。
「札巫女と巫女守人の首を差し出せと迫っておる。従わぬならば、
首。
こくり、と自分の喉が鳴った。
以前、綿野原の矢文を見た時も思ったけど、さすがにぞっとする。
私は斉野平に雇われて領民のために占術をしている。それだけなのに。一度も会ったことがない人たちから、簡単に「死ね」と言われる。「殺せ」と言われる。
古の巫女にたぶらかされているって、私が火ノ巫女だと思っているの? 火ノ巫女はそんなに悪い巫女なの。
ううん、そんなに怖い──のかな。
「朝廷は、斉野平の呪いを知らないんですか。札巫女を火ノ巫女だと思っているんでしょうか」
「おそらく。綿野原と同じく、斉野平の呪いをまやかしだと思っておる。確かに、今呪いができるものはおらぬ。証拠もない」
証拠もない。その言葉は重かった。
確かに、私が火ノ巫女じゃないとどうやって証明したらいいんだろう。呪いの書物も残っていないというし。
綿野原の矢文も、私を火ノ巫女だと思っていたからだったんだ。
「神社仏閣を広めたのは確かに
服従すると、海外との交易も制限されるし、領地を奪われたり引っ越しさせられる。もちろん年貢とか税をおさめないといけない。人質を取られて弱みを握られ、遠い場所での
都合の良い道具のように扱われるのが嫌で、一時は従った
「斉野平は
そう胸を張る九一郎さんは、いつもの力強い眼差しを
彼は、広い意味では綿野原も河童国主の国も同じ
ちょっと、まだ頭が混乱しているけどもう少し状況を知りたい。
「
「この地に自らの意志で残り、長く斉野平と協力してきた。朝廷とも斉野平とも争いたくはないというがな」
九一郎さんが言うには、彼らは中立の立場を主張している。でも、どちらに転ぶかわからないといった口調だ。
「お坊さんたちに、札巫女のことを朝廷に説得してもらえないんでしょうか」
「それは斉野平の肩を持つことになる、と逃げる」
うっ、そういうことなんだ。
「河童の国はどうしたんですか」
「俺たちは河童の重臣を幾人か討った。すると親子で国が分裂、酷い有様じゃ。領民にとっては朝廷軍が救い主となるやもしれん──」
ここまで話をしてきて、九一郎さんが不思議そうに私を見ていることに気づいた。
「八百年ぶりの
怖くないかと言われたら。
「もちろん……怖いです。でも何もせず相手に従うことはできません。皆が戦うのに、当の自分が何もしないなんてそれ以上にできません。私も皆と一緒に、九一郎さんと一緒に、できることを考えます」
それだけは決まっている。『私と九一郎さんの命』と具体的に言われているならなおさら。
「また私だけ何も分からず待っているなんて、絶対に嫌です」
九一郎さんは目を少し細めると、口を結んだ。胡座をかいた膝の上の手が動き、ゆっくりと腕を組む。
やがて少しうつむいて噛みしめるように語りだした。
「……確かに、さくの言う通りじゃ。綿野原の矢文を見ても、そなたは一歩も引かんかったと聞いた」
さくさんがそんなことを?
九一郎さんは自嘲気味に笑みを浮かべる。
「わかっとらんのは俺も同じか」
やがて彼は居ずまいを正すと、まるで大昔から決まっていたように感じる
「わかった。八百年ぶりの国難も共に越えよう、札巫女──
紗奈ノ巫女守人 はやひり @hayahiri
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