黒玻璃の夜、地下鉄道を往く。

美治夫みちお

黒玻璃の夜、地下鉄道を往く。

……。――!

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<Selection>

-Version:Office Word

-From Me to You

-Date:20XX.X.XX.AM2:00?→AM5:20?

>OK?


ウインドウズのモニターに映ったそれは、俺がエンターキーを押した途端に黒く消え、代わりにローディングの白い文字だけが画面に映った。



僅かな疑問がある。

あの日、猫に出会ったあの時、俺のあらゆる行動や、今となっては不可解の極まったそれら現象たちを受け入れていた自分が、あの場で確かに存在した。

それは何故なのか。

いま木製のチェアーに座り、この文章を君に向けて書いている俺にも、その事実に関して何一つ分かりはしないのだ。


それは、俺が閉じかけていた目蓋を引っ張り、二三度まばたきしてから始まった。

地下鉄の終電はとうに過ぎていた。

自分以外誰一人いない駅のホームに俺は両足を揃えて、若干の浮遊感を残しつつ立っている。薄い照明に照らされている足もとには一匹の猫の死体が転がっていた。


ちらりと一見したところ、そいつの毛色はとても黒い、けれど光のように透明でもあった。開いた口から次々と流れ出す血は、古いのから順々に何百何千というミミズに姿を変えていった。全長三寸ほどの太いミミズどもは血だまりの中を蠕動し、次々と猫の穴という穴へ潜り込んでいく。


そうして俺はしばらくの間、猫とミミズとの沼のような交わりを見つめていた。入り口からは冬の冷たい風が流れてくる。ごうごうと低い音が壁いっぱいに響きわたり、その冷たさは厚手のコートを羽織っていなければ今にも倒れていたぐらいだった。俺は粟立つ二の腕を強く摩った。


その時だったと思う。突然のことだ。固まった風が俺の顔めがけて、目も開けられないぐらいに強く吹きつけてきて、それは起きた。


「おい、おれ」


狂言師のような通る声に自分の理解が追いつくまで、少し時間がかかったのを今でもぼんやり覚えている。

下を向くと、足もとに転がっていた猫が横たわりながら俺に口をきいていた。


「おい、おれ」


ミミズの覗く口をなめらかに動かして猫は喋る。

透明な体の中をおびただしい数のミミズが蠢いていた。それなのに目だけは鋭い金色をしていて、俺をじっと睨んでいる。まだ周りに転がっているミミズたちは一瞬のうちに溶けだして、シナモンの香りのする血液になってしまった。


「おれだよ、おい。聞こえないのか? おれ」


「聞こえてるよ、おれっていうのは俺のことか?」


「おお、やっと聞こえたか、ついて来い、おれ。向こうの駅に、おれを呼んでるやつがいる」


「ちょっと待て、なんで俺をおれと呼ぶんだ?」


「歩くから大変だ、ほら、早く。おれ、時間がないぞ」


まったく話が通じない猫はそう言って後ろ足で立ち上がると、直立二足歩行をして、線路にためらいなく降りた。


ガラス容器みたいなそいつを俺は黙って見ていた。身体中の毛穴からずるずると空気の出入りを感じる。そして頭上を輝く照明はいっそう激しい銀色だった。


「なにをしている? 行こう、急がないと夜が明けてしまう」


せかせかと腕を回して催促する猫を見て、俺もゆっくりと線路に降りた。

猫は真っ暗な靄もやの湧き出すトンネルを指差し、そちらに向かって歩き出したので、俺も後ろからついて行った。


   *


トンネルの中を俺たちは歩いた。

途中、線路が幾つにも枝分かれしていたが、猫は迷いなくあっちだ、と指差しながら言って先々へと進んで行く。その少し後ろから俺はゆっくり追いかけた。


線路の舗石にはいっぱいの紅玉や翠玉、トルコ石、金剛石に熔けた琥珀、他にも俺の知りもしないような宝石がごろごろあった。あの後、宝石図鑑で調べて見たが、そこに載っていない物もいくつかあったはずだ。それら数十種は互いに色を交じり合わせて、幾重にも絡まる不思議な光を出し合っていた。


壁は瑪瑙で造られている。何年も前からあるのだろうか、いたるところに罅がはいっている。割れたところからは靄が湧いており、トンネル内は不快なアルコール臭で満たされていた。しかし呼吸は全く変じゃないし、視界も歪んだり震えたりはしなかった。


猫の姿は透明から黒に移り変わる。風の音もよく聞こえた。あの時、俺の感覚は異様に鍛えられた鋼のように冴えていたと思う。


こんなに美しいのだ。いくつかいただこうと俺は敷かれた宝石の砂利に手を伸ばす。足を折り曲げ、地面に膝をついた。


「やめておけ、おれ。そいつを求めれば、二度とここから出られなくなるぞ、それは一番なんかじゃない」


猫がこちらを振り返ってそう言った。

その声はトンネル内を反響して、低いオーボエのような音楽に変身した。


「どうしてさ、ひとつくらい貰ってもいいじゃないか」


「それはおれを壊した。あらゆるおれは、いつもそれを欲しがった。……それはいいものじゃない、見ろ、後ろのおれを」


後ろを見るとさっきまではいなかった、豚のような白い肌の男がそこにいた。肩に麻の袋を担いでせわしく石を拾っている。血走った目は何度も何度も涙で濡れた。


「もうずっと、そうして宝石を拾っている。飯も食わず、風呂にも入らず、ねむりもせず、ずっとだ」


「ずっと、ってどのぐらいだ?」


「ずっとだ」


「……」


「行こう、急がないと夜が明けてしまう」


猫は前に向き直って、また歩き出した。

俺がもう一度後ろを見ると、そこに男はいなかった。

ただ、トンネル内を照らす照明に、無数の黄色い蛾が群がっていた。


   *


猫は先を行く。俺はその道をなぞるように歩く。


「なあ、あとどれぐらいしたら向こうに着くんだ?」


「もう疲れたのか? まだ半分も歩いてないぞ、おれ」


振り向きもせずに、猫はそう言った。思えば随分と愛嬌のない猫だった。俺はそうか、とだけ言ってついて行った。線路が鈍く光っている。そこを青白い電流が這うように流れる。


「……なんでお前は、俺をおれと呼ぶんだ?」


もう一度、俺は訊いた。


「おや、桜が咲いているね。おれも見てみろよ」


さっきと同じように、猫はまた話を聞いてない。大げさな素振りで俺をうながす。ゆっくりと俺が周りを見ると、さっきまで影も形も無かった桜が何本も何本も地下トンネルに咲いていた。風が抜けて、枝葉は鈴のようにさわさわとそよいで揺れる。


ソメイヨシノさ、と猫は鼻を鳴らして答えた。


「全部もとはひとつなのさ」


「でも、ひとつひとつはみんな違う花だろう?」


「いいや、同じさ。姿も年月も、咲くのも枯れるのも。みんな、同じさ」


「そんなはずないだろ」


「いや、同じさ」


「違うよ、ほら、見てみろよ。あれは他の木とは違う」


俺は一本の、葉桜になりかけた、他よりも少しだけ大きい桜の木を指差した。

俺の言葉に猫はため息をついて、よく見てみろ、と静かに言った。


見ると周りの桜は、俺の示した桜と同じ姿に変わっていた。花がわずかに残り、青い葉が同じ所に同じ枚数、同じ大きさ、同じ配列の葉脈をして生えていた。


「どうして」


「見ろ、あそこの木におれが立っている」


猫はすぐ近くにある一本の桜を指差した。示された木のそばに、針金のように痩せ衰えた男が立っていた。特徴のない顔に、特徴のない服装をしている。そうして、常に周りを見ては木の陰に隠れて何かしている。


「何をしてるんだ? あいつは」


「あいつだけじゃない、あいつらが、だ」


猫の言うように、一本一本の桜の木の陰には、一人ずつ男が立っていた。しかもそいつらは、さっきの男と全く同じ容姿をしているのだ。唯一違うのは、全員がピンクのスーツを着ているところだけ。


「ほら、出てきたぞ」


猫が囁く。俺は驚いた。さっきの男が彼らと全く同じピンクのスーツを着て、特徴のない顔で出てきたのだ。みんな同じだ。誰かの変化に合わせて、誰もが同じ動きをした。


「どうなってるんだ、これ」


「おい、枯れるぞ、おれ。ほら、みんな枯れるぞ」


猫が騒いでそう言った。


その瞬間、桜の木は急激に萎び、かさかさと音を立てて灰になった。続けて男たちも、足もとから身体が珊瑚に変わり、割れてさらさらと地面に崩れ落ちた。

風だけが管内を吹き抜けた。


「もうずっと、そうして咲いては枯れて、その間、おれはずっと人の真似だけをしている、ずっとだ」


猫の言葉を俺は黙って聞いていた。桜の灰とサンゴの砂は混ざり溶け合い、透明な水になって流れた。


「行こう、急がないと夜が明けてしまう」


猫はまた先を行く。俺も後ろをついて行く。

鈍い光をたたえる線路に沿って、俺たちはさらに歩いた。


   *


随分と長い距離を歩いた。トンネルの中の靄は増えて、管内は重たい水底のようだ。寒さは熱く感じる。景色はあまりに極彩色だ。


「どうして、俺をおれと呼ぶんだ」


「おれだからさ」


何度目の問いだったろうか、猫は俺の言葉に答えた。けれど、やはり意味は分からない。


「だから、なんでさ」


猫は振り向かない。ガラスか黒曜石のような尻尾をなめらかに揺らして、ゆっくり、ゆっくりと先を歩く。

俺は再び問う、問い続けた。


側壁の照明が激しく光る。猫が照らされる。黒い身体の中のミミズが僅かに見える。足もとの宝石の乱反射。後ろを歩く俺を、おれと呼ぶ猫。それは振り向いて、俺の目を凝視した。


「お前はいつから俺だった? おれはいつから俺という存在だと確定された? 俺はいつからおれを俺と認識した? おれは何を定義に俺となる? 俺はおれでしかないぞ、おれはおれでしかないぞ」


ひと息で言い放つ。

それきり、猫と俺は無言のまま見つめ合った。


一帯はもう灼熱だった。線路は熱されて白く歪む。汗は全身を舐めるように流れ、喉は血のように錆びた苦しさだ。感覚は宇宙にまで拡張された。思考は完成されたバベルの塔だった。


あの時、あらゆるものは俺の理解の対象となっていた。

道中に見た男たちも宝石も、桜も珊瑚も蛾も理解された。瑪瑙の壁はガラガラと崩れ落ちて、天井からはネジの溶けた雪が降り、雪原となったトンネルには一羽の美しい純白の鶴が降り立つ。蝉の死骸がそこら中に転がって、赤黒い眼をしたカエルがそれを喰いあらす。そいつの最期を蟻がすべて分解して、さっぱりした一面に干ばつや、または豪雨が注いだ。そうして、何もない土地に一輪の花が咲いたのを俺は根元から引きちぎり、そこに巣食うミミズや幾千の微生物の声の構造も、なべて等しく理解した。


だが、猫、眼前に立つ、おれと名乗るそれ一匹でさえ、理解できないのが思考だった。


「俺は、おれじゃない!」


叫びにも近い言葉を、俺は吐いた。しかし猫は首を横にふる。


「俺はたった一人の俺だ! 産まれてから今この時まで、俺は、ずっと俺だった!」


「いや、おれだ。紛れもなく、おれはおれなんだ」


「お前は何なんだ! なんで俺がおれだって、お前は分かる? なのに、俺はお前が、どうして俺にはお前だけが分からないんだ、答えろよ!」


もう、おれは分かっているよ。

俺は分かっているのか? 俺には分からないぞ、いや、本当は分かっていた? 俺は。


猫はぶるぶる震えている。身体の中のミミズたちは発光して、管内はもう太陽みたいな明るさになっていた。


光は膨張する。限りなく拡張される。あらゆるものが侵食されていくのを俺は感じた。

そうして限界まで引き絞った弓のように輝く空気は、放たれた矢のように、一転、深い暗闇になった。

意識はあるが、俺は何一つ受容できない存在になった。


時間の尺度の下では、それはものの数秒のことであった。しかし、それは確かに一つの永遠でもあったのだ。


何も感じない中で、俺の思考は猫に訊いた。


いつ、俺はおれになったんだろうな?

行こう、もうすぐ夜が明ける。


ああ、冷えた管内を風が吹き抜けるのを感じる。感覚が戻っているのだろう。

気づけば、俺のそばから猫はいなくなっていた。代わりに目の前には柔らかな明かりが灯っていた。濃縮された太陽の源泉、風のわずかな流れの音、それらをはっきりと感じる。向こうからは誰かの声がする。ひどく懐かしい感じがした。


俺は光のこぼれる地下トンネルの出口を目指して、線路の上を、ゆっくりと歩いた。


   *


そこはビルの屋上だった。この街で、空にもっとも近い場所だ。


穏やかな風が吹いている。辺りは澄んだ冬の空気を孕んでいるようだった。天上は星が散り、薄く月明かりと雪が頭上に注ぐ。


目の前に、六歳ほどの男の子がいた。緑色のチェック柄をしたパジャマを着て、暴れるなにかを上から座布団で押さえつけている。


「なにをしてるんだ」


俺は尋ねた。


男の子は振り向かない。一心不乱に押さえつける。小さな、高い叫びだけがあたりに響いていた。それが止むと男の子は座布団をどけた。


そこにあったのは生まれたばかりの黒猫の、動かない、柔らかい小さな身体だった。


「死んだのか」


俺は訊いた。


「うん、もうこいつは、きみじゃなくなっちゃった」


寂しそうに男の子は言った。


景色は白に沈んだ。吐かれた息は霞んで、針のように刺す冷たさに融けていく。雪は激しさを増す。肌がはがれて血が流れそうな痛みだ。けれど、俺はなにも辛くはなかった。


「おまえは、俺なんだな」


「そうだよ」


「そいつは、おれなんだな」


「そうだよ」


短い言葉を、俺たちは交わした。


俺は、すこしだけ古い日々を思い出していた。

そこにいる男の子は六歳の頃の自分だった。殺したのは昔飼っていた、自分で殺した猫だった。あの痩せた男も俺だ、太った男も、ここにいる俺も。みんな、「おれ」だった……。


「さよならだね」


男の子は手を振った。おれも泣きそうなのを堪えて、手を振りかえした。


「ばいばい」


途端、おれの立っている床が音もなく消え去った。

おれは重力に従って、加速しながら落ちた。上を見上げると男の子はおれを見つめていた。男の子は泣いていた。


激しい光の波が一面を覆った。夜が明けたのを感じた。おれは焼かれるように太陽に照らされて、肉体を失った。そして、思考だけが最後に残った。


生まれた時を感じた。


おれはひとりの、豚のように太った男であった。針金のように痩せ衰えた男でもあった。少しの眠りの後に一匹のカエルにも生まれた。地面に転がる蝉の死骸から黄色い一匹の蛾となって飛び、おれという蟻が毛の生えた黄色いその腹を食い破った。蟻は青い蛹になり、一羽の白い鶴に変態してまた空に飛んだ。翼が凍りつくまで生きて、身体が砕けると、ネジや種々の宝石となり空に浮かびあがった。溶け出した質量は雪になって地上にもどり、おれは一本の桜の木になる。数えきれない季節を過ごし、いつしか枯れると、母の胎内でおれは次の意識の始まりを感じた。


辺りはすでにきらめく春であった。一面の桜は満開を迎えた。この世界の中心を、凄まじい喜びの中を、おれは絶えず落下していった。


落下は速度の限界を超えた。何もかもが見える。太陽の光の筋や土の匂いや血の粒子や雪どけの温度。ああ、目の前を猫が横切る。それと同時だった。全身を貫く鈍い衝撃とともに、おれはおれを失った。


ばいばい。


目を覚ました時、俺は駅のホームにいた。


分からないことだらけの事象を脳内にたずさえて、判然としないまま俺は家へと帰りつき、今こうしてやっとこれを書くにいたったのだ。


注意!

(このファイルは不特定多数の方に一斉送信しています)


   *


文章はそこで終わっていた。


昨夜、自分宛てのメールに添付されていた資料であるコレを読んだが、何を言いたかったのか、俺には全くわからない。ただウイルスの類ではないらしい。俺のウインドウズは正常に起動している。


「フロムミートゥーユー……フロムミートゥーユー……」


パソコンをシャットダウンして、俺は学校に行くために家を出た。


駅までの道はひどく寒い。昨日の夜に降った雪が積もって、ひどく滑りやすくなっている。一面は濡れて銀色に輝いている。転ばぬよう、慎重に歩きながら先を急ぐ。


その道の途中で俺は見た。


死体だ。

生まれたばかりの、死んだ猫の身体だ。


ちらりと一見したところ、そいつの毛色はとても黒い、けれど光のように透明でもあった。

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黒玻璃の夜、地下鉄道を往く。 美治夫みちお @jawtkr21

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