君の声で目を覚ます

秋月流弥

君の声で目を覚ます

「お前、これから俺を起こす係な」

「……は?」

 葉桜が目立ち始めた卯月の終わり頃。

 保健室にて、私、宮原千恵みやはらちえは養護教諭兼保健室の主と呼ばれる男、民谷たみや先生に命令をされた。

 オレヲオコスカカリナ。

 はて、起こす? 先生を? 誰が……私か。

 え、ってことは先生今から寝るの? 保健室ここで?


 急に命じられた内容がいまいち理解出来ず、同じワードを反芻してしまう。

「ってことで、おやすみ」

 頭に疑問符を浮かべる私をそっちのけに、先生は患者用の備え付けベッドに横たわる。保健室には自分たち二人しかいないとはいえ、ベッドを仮眠に使うのはめちゃくちゃ私用だ。

 先生は秒で眠りの世界へ誘われたのか、もう安らかで計測的な寝息をたてている。寝てしまった以上約束通り起こさなければならない。

「どうしてこうなった……」

 私はこのやりとりが発生する数時間前のことを思い出す。


***


 昔から病弱だった。

 五十メートル走で息切れをし、三十分の朝礼では立ち眩みを起こし、セレモニーでは緊張感から椅子に座ったまま転がり落ちた。

 どの時も担架で運ばれ、気がつくと保健室の白い天井を見て覚醒する。


 先日までここの養護教諭だった佐藤先生は名字通りお砂糖のように優しく、いつも私に「無理しなくていいのよ」とウォーターサーバーの水を渡してくれた。

 ただの水なのに、優しさという養分を含んだ水は私の不調を癒してくれる。命の水と呼ぶに相応しい。


 活力を取り戻し、一時間出遅れた教室に戻ると、待っていたのはクラスメイトからの心ない言葉だった。

「やっと来た。仮病女!」

「ずる休みできて良いですね~」

 仮病じゃない。

 いくら私がそう弁明しても、この人たちは信じてくれないだろう。いや、実際は体が弱いことを知ったうえでからかっているのかもしれない。


 こんなことが保健室に運ばれる度に何度もあった。

 優しかった佐藤先生も産休でしばらく学校に来られなくなってしまった。

「もうすぐ代理の先生が来るから、それまであんま倒れてくれるなよ! わっはっは」

 佐藤先生がいなくなってからは、担任が私を保健室で介抱した。寄り添う気持ちゼロの介抱に回復どころか心がすり減らされた。

 代わりの養護教諭が来るらしいけど、佐藤先生のように良い先生かはわからない。クラスに戻ると飛んでくる野次。デリカシーのない担任の手当て。

 もうこの学校に私の理解者はいない。


「幼稚、ほんと幼稚……!」

 戻ったクラスを早々に出て、私は今日の分の荷物を全てつめた鞄を持って昇降口まで来ていた。

 乱暴に靴を地面に弾かせ、上履きから外履きへ。

 無論、早退するために。

「こんなとこ、もううんざり!」


 もっと言えば、私は登校拒否を決意していた。


 こんなに具合悪くしてまで学校に通う必要あるだろうか。

 クラスにいても友達も喋る子もいす、仮病と悪口を言われるだけの劣悪環境に。

 学校に行かなくたって勉強は出来る。

 そう考えると、真面目に毎朝校門を通過する自分が馬鹿らしく感じた。

「二度と来るかバーカっ!」

 校舎の目の前で言ってやった。


 すると、目の前の一階の窓がガラガラと開いた。

 しまった、人がいた。

 自分が向かって言っていた所は保健室だった。

保健室に教師が残っていたらまずい。罵声はともかく、早退しようとしたことがバレてしまう。

 そんな思考が脳内を駆け回り、体を硬直させ立っていると、窓からひょっこりと顔が覗いた。

 見たことのない若い男の顔だった。

 二十代後半辺りだろうか。おっさんと呼んだら怒りそうな年代。

「何やってんの」

 男は欠伸をしながらやる気のない声で私に問いかけた。

「か、帰るんです」

「体調悪いの? 保健室来たっけ」

「今日はまだ行ってないけど、その……」

「ああ、サボりね」

 私が言いにくそうにしていると、男はさも当然のようにそう言った。

「怒らないんですか」

「あー、そうか。怒った方がいいのね。俺の立場として」

 ポン、と手のひらを軽く叩く。

「あの、先生だったりします?」

「この白衣が見えんのか。養護教諭だよ。代理の。産休の佐藤先生の代わりで俺がきたの」

「はあ……」


 これはまた佐藤先生とは全く違うタイプの先生だな。やる気もなさそうだし。


 失礼なことを思いながら見つめていると、先生が「おい」と話しかける。

「お前、サボりなら暇だろ。ちょっと保健室来い」

「へ?」

「ダッシュ!」


 言われるがまま校舎へ戻り、保健室内へ来てしまう。

 保健室には代理の先生という男の養護教諭一人だけだった。


「お前、これから俺を起こす係な」

「……は?」

「俺、今から仮眠とるから。休み時間になったら起こして」

「寝るって、保健室のベッドでですか。それってギリギリアウトじゃありません?」

「アウトよりのセーフだ。えっと、お前は……」

「宮原です」

「おう、宮原。ちなみに俺は民谷だ」

「民谷先生、私が先生を起こす理由がわかりません」

「俺は目覚ましじゃなく、人の肉声で起きるタイプなんだ。ほら、朝母親がお玉で起こしてくるやつ」

「はあ」

「俺はマザコンじゃないけど」

「いや、そこじゃなくて……」

「ってことで、おやすみ」


 先生はもう一度欠伸をすると、ベッドに横たわり寝てしまった。

「えぇー……」

 私が声を漏らしても、もう返事は返ってこない。

 後は寝息と時計の秒針が動く音だけ。

 仕方なく、ベッド脇のパイプ椅子に腰をおろし、鞄の中に入っていた文庫本を読んで時間を潰した。


***


 時計の針が授業終了の時刻をさした。今から休み時間だ。

 私は約束通り眠っている先生を起こす。

「先生、時間です。起きてください」

「んお?」

 閉じられていた目蓋が重そうに持ち上がる。

「おはようございます」

「……おはよう」

「もう昼ですけどね」

「お前、なんで帰り支度してんの?」

 鞄に読んでいた文庫本を詰め、保健室の扉を開けようとする私に先生は疑問の声をかける。

「もともと帰るつもりだったので。そこを先生に止められたんですよ」

「あー、具合悪いの?」

「サボりってさっき先生が当てたんじゃないですか」

「おーそうだった」


 まだ寝起きのためか覚醒しきらない意識で話す先生の返事はふわふわしている。

「なんか嫌なことでもあった?」

「……なんでですか」

「お前は一見真面目そうで平気で授業をサボる不良には見えないから。嫌なこととか辛いこととか、理由があるのかなと」


 鋭い。

 さすが養護教諭。やる気はなさげでも観察眼に長けている。


「そうですね。心が重症です」

「このくらいのガキは誰だって思春期という名の重症さ」

「……もう無理なんです。限界なんです」

「おい」

「私、明日から学校来ないから。止めたって無駄だよ」

「まあ何があったか話してみろって。起こしてくれた礼に聞いてやる」


 登校拒否宣言をする私に先生はそう言った。頭をかきながら、たいして興味がなさそうに。

 教師特有の真摯に生徒の悩みを聞く熱血さは感じられないのが逆に良かったのかもしれない。


 私は力を抜いて今までのことを話した。

 生まれつき体が弱いだけなのに仮病とからかわれること。理解も共感もしてもらえないこと。面白がって悪意をぶつけられること。それがたまらなく辛いこと。


 全てを話し終え、ふぅと息をつく。

 ずっしりと、肩に下げた鞄が重い。鞄の中には、おかずの入った弁当箱と口のつけていない水筒が入っている。


 まだ、お昼休みにもなっていないのに。

 どうして自分が早退しなくちゃいけないの。

 だんだんと自分のしていることが虚しく感じてくる。


「なんで私、こんなことしてるんだろ……」

思わず弱音を呟いてしまう。きっとこれが本心だ。

 こんなことして、なんになる。状況は変わる? 未来は変わる?

 きっと何も変わらない。

 だからといって何をしていいのかわからない。何が正解かわからない。


「じゃ、保健室ここで過ごせばいいじゃん」


「……え?」

 かけられた言葉は実にあっさりとしていて。

 先生はバッサリと言ってみせた。

「ここならフラついたらすぐベッド使えるし、ウォーターサーバーの水飲み放題だし、なんなら勉強だって俺が見てやるよ?」

 きょとん、と首をかしげ先生は言う。

 予想もしていなかった提案に、私はしどろもどろになってしまう。

「で、でも」

「それに宮原が俺を起こす専用の係になってくれれば助かるしな」

「起こすの、今日だけの話じゃなかったんですか」

「でも、まんざらでもなかったりするだろう」

 先生の言葉を無視しガラガラ、と扉開ける。廊下から入ってくる冷たい空気がひんやりと頬に触れた。

「宮原」

 去り際に民谷先生が声をかける。

「明日も来るか?」

「……気分が良ければ」

「具合じゃなーのかよ」ツッコむ声が扉越しに聞こえた。

 何故だか廊下を歩く足取りが軽く感じられた。


***


 結果から言うと、私は保健室に入り浸るようになった。私ってチョロい?

 あんな出来事があった次の日、私は律儀に保健室の前にいた。

 あくまで仕方なく、先生が提案を持ちかけたからという体で。

 ムスっとした表情をつくり、スライド式の扉をノックする。


「おお、来たか」

 扉を開けると先生はノートパソコンを広げていた。机の上には束になった資料とコーヒー。作業中だったらしい。

 出会い頭があれだったため寝ているイメージが強いが、この人もちゃんと仕事してるんだなと失礼なことを考えてしまう。


「そこの机使いな」

 指差す先には長テーブルとパイプ椅子。

 椅子はこちら側に三つ、向かいに三つと計六脚あったので、なんとなく手前の真ん中を選ぶ。ちょっとしたプチ贅沢。

「わかんないとこあったら聞け。基本自習な」

「は、はい」

「んじゃ、しっかり進めるよーに」

 それだけ告げると先生は作業に戻る。

 え、それだけ?

 なんかもっとこう「よく来たな」的なリアクションがあるかと思った。いや、別に先生に何か期待しているわけじゃないけれど。

 パチパチとキーボードを叩く音が聞こえる。

 私は一応時間割通りに国語の教科書とノートを取り出し、問題に取り組んだ。


 二時間目になると、先生は仮眠をとった。


約一時間経過。

 昨日と同じように休み時間になると先生を起こす。

「おはようございます」

「……おはよう」

 そして各々作業に戻る。

 こんな感じで一日は過ぎていった。

 ちなみに、お昼は先生がはす向かいの席に座り、お互い何も言わずに黙々と食べた。

 一緒に食べてるのかよくわからないが、私を一人にさせない、彼なりの優しさが感じられたので及第点。


***


 民谷先生はガサツだ。

 それは性格だけでなく、手当てでも伺い知れる。

 保健室で過ごしていると、授業中でも生徒が訪れるのに遭遇する。

 主に多いのが怪我。体育の授業中にこさえたものだ。

 その他にも気持ち悪くなったり、頭痛が酷かったりして訪れる生徒もいる。

 擦り傷、捻挫、頭痛、吐き気……それらを先生が手当てするのだが、その手当ての仕方が実に雑だ。

「先生、擦りむいちゃって……」

「そんなもん水で流しとけ」

「捻挫しちゃって……」

「とりあえず冷やして固定」

「眠いんで寝かしてください」

「帰れ」

 て、適当……!

 あまりの雑さに驚愕したが、もっと驚いたのが、意外にズル休みをしようとする生徒がいることである。


 たまに、そういう生徒が私を見て「ズルい」と言ってきた。なんだか申し訳ない気持ちになる。

「いちいち気にすんな。お前はやるべきことをやれ」

 先生はそう言ってキーボードを叩いていた。

 フォローしてくれたのかな。


 しばらくすると、先生から話題がふられた。

「この前生活指導の教師から授業をサボる生徒が激減したと称賛された。俺が保健室から追っ払ってるからだと」

「それは素晴らしい」

 取りかかっている計算問題がいいところなので、適当に相槌をうつ。

「……そのかわり、俺が怖くて保健室に来にくい生徒が激増したようだ」

「ああ、先生態度がぶっきらぼうですからね。初見さんは怖いかも」

 先生はわしわしと頭をかく。

 天然パーマなのか量の多い髪は、彼が白衣を着ていることから、養護教諭というより、「実験に失敗ですか」系の役職に見える。

「お前もそうだった?」

「私は特に。ベッドを自分のために使う最低な教師にしか思えませんでしたけど」

「……寝る」

「言われた矢先にベッドですか。はいはい、おやすみなさい」


 私と民谷先生の保健室生活は、奇妙ながらも居心地の良いものだった。

 私にとって安らげる最高の居場所になったのだ。


***


 保健室登校を続けて三週間目。

 いつものように仮眠をしにベッドへ向かう先生を見送り、私は長テーブルの自分の席で、プリントの穴埋め問題を解く。

 すると、なんの合図もなくガララッと勢いよくドアが開けられた。

「こんな所でサボっていたのか宮原!」

 保健室に入ってきたのはクラスの担任だった。

「なんだ宮原一人か」

 担任はズカズカと保健室内に入り、当然のように私の隣のパイプ椅子を引いて座る。

 カーテンの向こうでは民谷先生が寝ているが、正直に言う必要はないだろう。

 早く帰ってほしい。

 テリトリーを荒らされた感じがして心がざわつく。

 私の無言が肯定だと捉えたのか、担任は好きなように喋り始めた。

「宮原がいなくなってクラスの奴らも悲しんでるぞ。クラスの輪ってのは、誰一人欠けちゃいけないんだ。なあ宮原、いったい何が気にくわないんだ?」


 この人の、こういうズレた認識とか熱血なところが苦手だ。

「大丈夫。皆いい奴らだから、宮原のことだって許してくれる。心配はない」

しかもクラスに馴染めない者、私だけが悪者みたいな扱いになっているし。

 目頭が熱くなる。どうして私がこんな目にあうんだろう。

 誰も私のことをわかってくれない。

 居場所なんて何処にもない。

「さあ、クラスへ戻ろう」

 担任は私の腕を掴んで強引にクラスへ連れて行こうとする。


 その時、

「うるせえなぁ、ちっとも眠れやしない」


 欠伸をしながら、民谷先生がカーテンを開けながら出てきた。

「先生!」

 民谷先生は私の腕を握る担任の手を払いのけた。

「困りますよ~先生。俺の教え子を無理やり他所に連れてかれちゃ」

「それはこっちの台詞だ! うちのクラスの生徒をこんな隔離場所に連れてきて、クラスの輪が乱れるじゃないですか」

「クラスの輪って、宮原がどういう思いでクラスにいたか知ってます?」

「多少のトラブルも人間関係を築くための基礎だ。学校とは人間関係を学ぶ場でもある。それが“普通”の人間だ」

「普通、ねぇ……」


 民谷先生の顔に影が射す。

 その表情は冷ややかで、しかし静かに怒りを燃やすような鋭い目つきだった。

「こいつはアンタの言う“普通”の奴が経験しなくていい痛みを経験して、“普通”の奴らが進んでいく未来を掴めなくなるところだったんですよ」

「そ、それは」

「誰にとってどの環境がベストなんてアンタが決めることじゃねぇ。宮原本人が考えることだ」

 先生は私を見て言う。

「宮原。お前はどうしたい?」

「……私はっ!」

 先生に聞かれ私は答えた。

 堂々と、背筋を伸ばして。

 自分の答えを。

「“ここ”で学校生活を過ごしたい!!」

 いつになく大きい声で私は言った。


***


 あれから時間は経過し、太陽の陽射しが眩しい文月の頃。

 私は今日も保健室で過ごしている。

 あの出来事以来、担任は何も言ってこなくなった。

 だからといって保健室登校を認めたというわけではないだろう。

 それでも、ここを居場所と認めてくれた先生がいる。自分を理解してくれる人がいる。

 それだけで私は充分だった。


 夏の保健室は冷房がきき、空気がひんやりとしていて、ノートを走る筆が進む。

 最近は熱中症気味で倒れる生徒の来訪が多いため、先生が仮眠をとる機会は減っていた。


 さすがの先生でも具合の悪い生徒を差し置いて自分の睡眠を優先するような真似はしない。若干不機嫌そうだったけれど。


 そんな中、めずらしく今日は誰も保健室を訪れる者がいない。

 先生はこれはチャンスといわんばかりにベッドに倒れこんだ。


「久々のおやすみですね」

 私が微笑みながら言うと、先生は枕に後頭部を沈めながら返事をする。

「ああ、懐かしささえ感じる」

「私も久々に役職復帰です」

「役職だったの?」

「ええ、先生を起こすことは私が保健室ここにいるための立派な責務ですから」

 私がそう言うと先生が笑った。

「……もうお前の居場所なんだから堂々といりゃいいのに」

「なんか言いました?」

「誰かに起こしてもらえると思うとぐっすり眠れるよなーって話」

「本当にその話です?」


 私が追及しようとする前に、民谷先生は目を閉じた。その次には安定した安らかな寝息。

「おやすみなさい」

 私は先生に声をかけそっとカーテンを閉めた。


 陽射しがだんだんと強くなってきた。

 この調子だと保健室を訪れる者が早々にもやってくるだろう。今日も忙しくなりそうだ。

 どうかそれまで先生の睡眠が穏やかなものになるように。

 私はこの保健室の主の眠りを護る、番人になろう。

 そして彼の目蓋が開いた時、笑顔で目覚めの言葉を告げるのだ。


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