黒羽根導くその未来

霜山美月

第1話 望まずして手に入れたもの

 変わらない日常というものがどれだけ幸福であったことか、自分の甘ったれた欲望を後悔した。

 単純な話だ。環境が不変であるならば、いつでも自分なりに挑戦を嗾けることができる。それが優位に働くことがなくとも、決して不利な状況をスタート地点に選ばなくていいことは恵まれているのだと、受動的に怠惰な日々を送っている男子高校生は今の今になって思い知った。


 世界の命運を左右するヒーローになるとか、異世界に転生して摩訶不思議な能力を目にすることになるとか、道端に捨てられていた謎の少女を拾って養うことになるとか、そんな大それた奇跡を望んでいるわけじゃない。

 ただ、変わり映えしない毎日のちょっとしたスパイスとして、新学期らしく新しい出会いがあったりしないかなどと叶いもしない妄想を弾ませていただけなんだ。


 その結果がこのザマだ。

 夢であることを願うほどの運命など、一度たりとも望んじゃいない。

 まるで物語の主人公のような体験なんてこちらからお断りだっていうのに、これは努力もせずに変化を夢見た少年への天罰だと思うほかなかった。


 走る、走る、細い路地裏を挟みながらひたすらに走る。

 錆びた鉄のフェンスに引っ掛けてクリーニングしたばかりのスラックスを汚そうが、なりふり構ってはいられなかった。

 履き潰したスニーカーの靴底が悲鳴を上げる。春休み中に切り損ねた前髪が額に汗で張り付いて気味が悪い。教科書類はすべてロッカーに保管してきたから軽いとはいえ、地に足を着く度に背中をノックしてくるリュックが鬱陶しくてしょうがない。


 けれど、そんなことを気にしている余裕などなかった。頭の中にあるのは、走ることをやめてはならないということだけ。

 中学卒業以来運動不足の身体が堪えようと、不可解な現実から逃れたい一心で闇雲に足を動かしていた。


 マラソン大会のラストスパートをいつまでも繰り返しているような。春である故気温が落ち着いていることだけがせめてもの救いの、気が遠くなるような地獄の時間。

 喉が焼けるように痛み、血の味が滲む。隠し続けてきた限界が露わになり始める身体が、日が落ちて灯り始めた街灯の方へふらふらと誘われていく。

 目を凝らしてみれば、その灯りの下には見慣れた赤塗りの自動販売機が見えた。数十分にわたって欲していた水分という餌をちらつかされて、考えるまでもなく足はそちらへと向かっていた。


 ――もしそれが罠だと気付くことができたなら、また結果は変わっていたのかもしれない。

 路地裏の出口を警戒することくらい慣れ切っていたはずなのに、最後の最後で甘い蜜に誘き出されてしまったと理解したのは、その先を遮るように数人の男の影が現れてからだった。


「いやあ、長い長い鬼ごっこ、お疲れ様でした」


 ご機嫌で余裕を含ませた声を発したのは、正面に立つ大学生ほどに見える金髪の男。

 七分袖の明るいジャケット、皺ひとつない新品のシャツの真ん中には街灯に反射するネックレスを下げた今時の若者といった風貌の青年が、ジーンズのポケットに両手を突っ込んでこちらを見据えていた。


「いい運動になったでしょ。俺はスポーツ好きなんでよくわかんないんすけど、聞く話によると高校では部活入ってないんだって? 中学時代長距離好きだったんなら、このくらい走り込んでおかないと勿体なくないっすか」


 けらけらと笑う男に対して、呼吸を整えることで精一杯な俺は反論することもできない。

 部活? 中学時代? こいつは急に一体何の話をしているんだ、と。

 しかし、それらの言葉を反芻してみて、血の気が引いていくのを感じた。


 冗談じゃない。

 この男のことなんて、俺は何ひとつ知らないし見覚えだってあるわけもない。

 なのに、彼が発したエピソードは、他の誰でもない、俺に向けられたもの。

 そして、自分はその人物像に見事に合致する。

 ――しかも、鬼ごっこだと。これまで撒くために全力を尽くしてきた自分の動向はすべて、相手に筒抜けだったということ。


 決め手に、一字一句違わず、金髪をかき上げながら彼は言ってのけた。


「ね? 『米石よねいし和希かずき』クン」


 堂々と一歩踏み込まれるのに合わせて、震える右足が一歩後ずさる。

 動いているのは彼だけではない。彼の後ろで待機していた、サラリーマンにしか見えないスーツ姿、学生の溜まり場で見かけそうな黒いパーカー姿、深夜のコンビニ前で屯っていそうな革ジャン姿、そして見覚えがあるのかないのか判断がつかないほど特徴のない学生服姿と、統一性の欠片もないあらゆる服装の男たちが、囲むようにして前進してくる。

 尾行の気配なんて毛ほども感じなかった。その姿を目の当たりにしてみて、道理で周囲に紛れ込める連中だと納得するしかなかった。


「さ、我々と一緒に来てもらいますよ。大丈夫です、決して手荒な真似はしませんから」


 本心の見えない明るい笑みを浮かべながら、彼はこちらへ手を差し伸べる。

 この手を取ってしまったら、どうなってしまうのだろうか。

 用件も目的も何も聞いていないのだ。少なくとも無事で済まないことはわかっている。だとしても、急ぎ足な口ぶりから察するに恐らく答えてくれる雰囲気でもないだろう。


 だからといって、俺に何か対抗手段があるわけでもない。今から道を引き返しても逃げ切れる可能性は間違いなくゼロだ。

 じゃあ反撃すればいいのか。ふざけるな。相手は複数だし、差し出された右腕は自分よりかは明らかに鍛えられている。勝てない勝負を挑むほど愚かではないし、痛いのは何より嫌だ。


 万事休す、か。

 もはや返す言葉もなく、目を伏せた――


 その時だった。


「……!?」


 この場に集まる数人を除いて、人の気配はなかったはずだ。

 なら、徐々に大きさを増す路地裏の反響音は何か。

 電線を占拠していたカラスたちが波を描くように飛び立ち、微かな夕日に照らされて黒い羽根が舞う。

 いち早く招かれざる客の気配に気付いた金髪が振り返ろうとするが、寸分の差で間に合わないとその場の誰もが悟った。


――ドンッッッ!!


「ぐ……ッ!?」


 突如向こう側の路地裏から飛び出してきた黒い影が、彼の背中に全体重を乗せたタックルを食らわせる。

 しかも、それだけには留まらない。彼が大きくよろけた一瞬の隙に前へ回り込んだかと思えば、見事な払腰で一本を決め、一八〇センチはある体躯をアスファルトへ沈めた。


「リーダー!」

「誰だ!?」

「おい、やるぞ!」


 何が起こったのか、この場の誰も理解し切れていないだろう。確かなのは、真正面に立っていたリーダー格の金髪の青年が謎の黒い影に一発KOされたこと。

 それだけわかれば十分だとばかりに、男たちは口々に叫びながら乱入者へ向かって殴り掛かった。


 ついに理由もわからず追われていた俺を蚊帳の外にして喧嘩が始まってしまったかと、関東の都会の治安はこんなにも酷いものなのかと絶望しつつ。

 目も当てられなくなり、どさくさに紛れて逃げることも一瞬考えたが、一対多の乱闘を背中に向けるのはリスクが高い。相手はひとりだけだ、場が落ち着くのを待って観念するしかないだろう。

 ……そう諦めをつけるのは、あまりにも早計だった。


「いっ!?」

「ぐぉッ!?」

「がぁッ!!」


 そいつは、比較にならないほど強すぎた。

 まず革ジャンの右フックを最小限の動きで軽々と躱して、鳩尾に反撃を入れる。羽交い締めにしようと後ろに回り込んできたパーカーは頭突きと肘打ちを食らわせた後に背負い投げを決めて前方の学生諸共吹き飛ばし、隙を突いたつもりで斜め後ろから飛び込んできたサラリーマンには華麗な回し蹴りを打ち込んだ。とても何十キロとある物体とは思えない吹っ飛び方に感動すら覚えた。


 ……とても喧嘩慣れしているだとか、そんな生易しい言葉で片付けられるレベルじゃない。

 服の上からでも鍛え上げられた筋肉がわかる男たちが、ものの十数秒しか経たないうちに、冷たいアスファルトの上に転がっていた。

 呻き声を発するそれらを一瞥して、膝丈ほどもある黒いフードコートに身を包む人物はこちらを見る。


「……な、何なんですか」


 いつもと変わらない帰り道、正体不明の男たちにつけ回されただけでも現実を疑うというのに、彼らはたった一人の人物に敗れて無様に街灯に照られている。

 その原因たる人物も、フードと逆光に隠れてその表情までは窺い知れない。

 なんとか震える声を絞り出すと、その人物は若干の早歩きでこちらへ歩み寄ったかと思えば、考える隙を与えずこちらの左手首を取った。


「逃げるぞ」


 自分も組み伏せられてしまうのか――そんな恐れを裏切り、そいつは落ち着いた声音でそう呟いた。

 聞き取れなかったわけではない。言葉の意味を飲み込めずに耳を疑って、聞き返そうとするや否やこちらの手首を離さずに走り始めた。

 つられて俺も最後の力を振り絞り、なんとかペースを合わせて駆け出す。向かい合うのも一瞬だったから顔はやはりよく見えなかったが、少なくとも敵ではないことが察せられた。


 なら、選択肢を悩んでいる暇はない。

 正直、こんな現実受け入れたくはないけれど、今はこの自分より少し背丈の低いフードコートに従うしかない。仮に歯向かったところで、先程の喧嘩を目の当たりにしていたのであれば末路は言うまでもないのだから。


 それから少し走り続けた後、明らかに俺のペースが落ちてきたのを見かねてか、奴は少しずつペースを弛め、また少ししてから走るのをやめた。

 俺の手首から右手を離し、ゆっくり俺の斜め前を歩く。

 顔も名前も知らないのに何と滑稽な絵面だろうか。すっかり夕日も見えなくなった夜道をふたりで歩く奇妙さに耐えかね、数分かけて呼吸を整えてから俺は言葉を紡いだ。


「どうして、助けてくれたんですか」


 素直にありがとうの一言でも言えばいいものの、どうしても疑問が先行してしまうというか。

 米石よねいし和希かずきは自他ともに認める、かつ疑いようもなく、ごく普通の公立高校に通うごく普通の齢十六の少年に過ぎない。

 勉強は上の下から中の上、運動は中学を卒業してからほぼ縁がなく、何の特徴も特別な価値もない男。無論、謎の男たちに追われる理由なんて見当もつかないし、法や規則に触れるような悪事を働いた覚えもなかった。

 なのに、今日突然俺の身に何が起こったというのか。この理解に苦しむ状況のわけを知りたくて、最初に出た言葉がそれだった。


「狙われているんだろう」

「そうらしいですけど」

「だから助けた」

「事情とか知ってるんですか?」

「……いや。通りがかりだ」


 答えは簡潔だった。また、求める回答は得られなかった。

 不審な集団に絡まれているところを助けてくれたあたり、このコートの人物は信用していいのかもしれないが、優しさを見せて騙そうとしている可能性も否定できない。

 あの金髪と裏で手を組んでいるのかもしれないし、本当に通りすがりで助けてくれた真の善人なのかもしれない。喧嘩の腕は只者ではなかったとはいえ。


 起こった出来事と解決手段を整理するには、あまりにも余裕がなさすぎた。

 あいつらの狙いはなんなんだ。どうして俺なんかを狙っているんだ。どこに行けば安全なんだ。何をすればまた自由になれるんだ。

 今の俺には何もわからない。ひとつ、『謎の人物に狙われている』という事実を突きつけられてしまった以上、今隣を歩く人物に従うのが最もリスクが低いと判断せざるを得なかった。


「家の人には、友人の家に泊まるとでも伝えた方がいい」


 突如として、こちらも見ずにフードコートはそんなことを口にした。

 それ即ち、今日は帰さないということだろうか。変な意味ではなく、まさか匿ってくれるとでも言うのか。


「確かに、明日からゴールデンウィークなんで小言は言われないと思いますけど。どうしてそこまで」

「下手に出歩くのは危険だ。この先に私の借りている部屋がある。そこなら数日くらいは誤魔化せる」

「……警察、とか呼んだ方がいいんじゃ」

「できればそうしたいところだが、犯行として捉えるには証拠がないと警察は動かない。それに……見てくれからして只者じゃない。こっちの身を晒して敵に回すには危険すぎる」

「……やっぱり何か知ってるんじゃないですか」

「ただの勘だよ」

「勘で済まされるようなことじゃないでしょ」


 俺の本名や中学時代のエピソードまで調べ上げている相手だ、住居くらい特定していると考えるのは容易である。それにしても家に来いとは唐突すぎやしないだろうか。そりゃホテルに泊まり込む金もないけど。

 真剣な声音で、確かに俺の身を案じてくれているのがわかったけれど、妙に手馴れているような態度が気にかかる。どうやって慣れたというのか。やっぱり都会は怖いということか。


 ともかく、警察も頼れないのであれば、尚更どう解決に導けばいいのか。少なくとも俺にできることは何ひとつないと理解する。

 考えるのも嫌になって頭を振り、リュックを前に回して財布を取り出した。


「すみません、ちょっと待ってください」

「……?」


 通りがかった自動販売機に千円札を挿入し、大手メーカーのスポーツドリンクのボタンを二回押す。

 お釣りを財布にしまい、一度にまとめてしまったせいで二本目のペットボトルを取り出すのに少しだけ苦労しながらもそれを手に取ると、片方をフードコートに差し出した。


「とりあえず、助けてくれたお礼ということで」


 そいつは僅かに照らされて見える口元をぽかんとさせていたが、数秒おいてから何も言わずに受け取った。

 無言の空間が気まずくなった俺は、すぐさまキャップを回して長らく欲していた水分を喉に流し込む。

 欲求に任せていればいつの間にか残り五分の一ほどになってしまったペットボトルをリュックにしまい、一応飲んでくれてはいるらしいフードコートに並んで再び歩き始めた。


 あからさまにボロいとまでは言わないが、住みやすそうとも思えない微妙なラインに乗るアパートの手前に着くと、フードコートはその敷地内へ曲がっていった。

 丸ドアノブに鍵を差し込み、半回転させて解錠すると、先に中へは入らず、ドアを押さえたままこちらを見やる。『先に入れ』の合図だと察した俺は、恐縮しながらも狭い玄関へ足を踏み入れ、勝手を承知で入ってすぐの居間の電気のスイッチを押した。


「お、お邪魔します」

「何もないけど……自由に寛いでくれていい」


 どうやら玄関はひとり立つのが限界の広さのようで、俺がリビングに収まったのを見てからフードコートも上がってきた。

 居間もさして広くはないどころか狭く感じるのは壁際に並ぶ家具のせいだろうか。あまり物色するのも褒められたことではないが、居間六畳、洋室四畳半がいいところの1DKらしい。欲を言い始めればキリがないものの、一人暮らしを考えると不自由はない部屋だった。


「……狭くて悪い」

「いや、全然――」


 とりあえずローテーブル前の座布団に腰掛けてフードコートを見ると――いや、その表現が今は間違いとなってしまうだろう。

 まるでバトル系の漫画やアニメに登場する暗部のように顔を隠し続けていたフードは、もうその役目を外れて背中側に流されていた。


 露わになった顔つきは芸能人かというほどに整っており、直視するのが恥ずかしくなってくるほどで。

 思い返してみれば、喧嘩の腕っぷしなんか抜きに、俺より低い背丈や、少し高めで綺麗な声と会話していた時点で気付くべきだった。


 息を飲んで、視線を上へなぞらせた先。


 


 もしかしたら、これは夢なのかもしれない。差し支えなければ夢であって欲しい。いや、こんなのは夢だと言ってくれ。

 共感してくれる友人もいないけれど、普段から明晰夢は見慣れている。何ならある程度コントロールして夢を見始められるとも最近気付いたし、明晰夢であれば現実から夢に入る瞬間だって明確にわかる。役立たずで噂にも聞かない変わった特技だ。

 だったら、どうして目覚めることができないのか。これほど有り得ない事象が続いているのに、現実に戻ることができないのか。

 問い掛けるまでもなく答えは単純明快だった。その答えから目を逸らすなと言わんばかりに、見慣れない綺麗な深紅の瞳が現実を突きつけてきていた。


 二〇一九年、四月末。誰もが待ちわびていたゴールデンウィーク直前の夜のこと。

 ごく普通の男子高校生こと米石和希は、所属も目的も不明の男達に襲われるという非現実的な体験を賜った後。


 滅茶苦茶に可愛い初対面の女の子の家に、何の心構えもなく上がり込んでいたのだった。




「……冷たっ」


 お湯と水の蛇口を間違えて凍えるような冷水を浴びかけ、壁のホルダーに掛けられたシャワーヘッドを反射的に浴槽側へ逸らす。

 この短時間で三度目だ。非が俺にあると言われようものならぜひとも抗議したい。何故なら、水と給湯器を介したお湯のふたつの蛇口がついている混合水栓タイプは通常、それぞれのハンドルに区別が付くよう青と赤の色違いの部品が付けられているものだが、それがこの部屋の設備を担当した人は反対に取り付けてしまっているらしかった。

 そんなミスがあっていいものなのか管理会社に問い合せたいのは山々だけれども、生憎この部屋は俺のものではない。


「……ふー……」


 泡を流してお湯を止め、指先で軽く温度を確認してから浴槽に浸かる。普段はシャワーで済ませがちなので、こうしてゆっくりできる時間は久しぶりだ。

 蛇口の些細な施行ミスなど気に留めていないらしいこの部屋の借主といえば、こちらからとやかく言う前に汗を流したままでは不快だろうと俺を風呂に通し、自分は夕飯を買いに行くと言い残して出て行ってしまった。

 仮に彼女が夕方に遭遇した連中の仲間であるとするなら、せっかく確保したのに再びひとりにさせるのは不自然だ。今こうして風呂に浸かれているのも彼女のおかげなのだから、今は信じておいて差し障りないだろう。


 無事に進級して新学期を迎え、それなりに変化したクラス環境に一喜一憂しつつ、友達と連休前最後のカラオケを堪能した帰りに正体不明の連中に身柄を狙われ、今は窮地を救ってくれた少女の家で身を潜めている。

 文章に書き起こしてみるとどうしてこうなってしまったのか自分でもわからない。正直なところ、今すぐにでもすべてを投げ出して現実逃避したいところだが、そんな自分に救いの手を差し伸べてくれた彼女の労力をふいにするのも罪悪感に苛まれるものだ。


 この先数日は帰らないかもしれない、と母親に送ったSMSの返事の第一声は驚きの顔文字だった。

 母親の身になって考えてみれば、そうなるのも仕方がない。俺は生まれてこの方友人の家に泊まったことはないし、こうやって風呂でのんびりするなんて以ての外。決して親しい友人がいないわけではないものの、他人のプライベートに深く踏み込むのには抵抗があるためだ。ただでさえ自室のベッドで転がっていることくらいしかやることがないのに、それを他人の家で決行する勇気を持ち合わせていないだけとも言える。何にせよ余計な心配だけはかけたくないので、念を押してその旨を伝えておいた。


 十分ほど経過した頃、玄関の鍵と、次いでドアが開かれる音が聞こえた。風呂場まではっきりと聞こえるその音に一瞬身構え、それができるのはこの部屋の借主しかいないと思い出して緊張を解く。

 ほどなくして、扉に取り付けられた樹脂パネルの向こうに人影が現れた。


「服も買ってきたから、洗濯するまではこれで我慢してくれ。タオルも洗濯機の上に置いておく」

「あ、ありがとうございます」

 

 そう言い残し、気配はふっと扉の前から消えた。それを確認してから、のぼせる前にと俺は立ち上がった。扉を開けた先に彼女が見えないことから、恐らくは風呂場の壁を介して隣に位置する寝室にでもいるのだろう。バスタオルをお借りして身体を拭くと、新品のボクサーパンツを袋から取り出し、丁寧に畳まれていた紺色ベースのジャージの袖に腕を通した。


「熱くなかったか?」

「あ、いえ、むしろ熱い方が慣れてますんで」


 開けっ放しの引き戸の先で、居間から差し込む僅かな電球色の灯りのもと、彼女はベッドに腰掛けながら文庫本サイズの本と向き合っていた。読書の邪魔をするのには気が引けるので、声をかけるべきか否か逡巡していたところ、彼女はこちらの視線に気付いて顔を向けてくる。


 その顔つきは見れば見るほど現実を疑いたくなるものだった。

 一言で言って――可愛い。これに尽きる。

 目鼻立ちがよく美しいというよりは、歳相応でどこかあどけなさを感じさせる表情。

 つり目気味で無表情ではあるものの、どこかこちらを慮っているような雰囲気があって威圧感は感じない。


 暖かさを醸し出す真紅の瞳を持つ彼女は、文庫本を傍らに置くと、ベッドに投げ出されていた艷めく毛先を整えるように、長い黒髪を払いながら立ち上がった。


「またどこかへ?」

「……いや」


 部屋の隅に置かれているコンパクトサイズの引き出しを物色した後、俺の横を通り過ぎた彼女は、洗濯機の前で立ち止まった。

 おおよその家賃が想像できてしまう1DKのこの部屋はお世辞にも広いとは言えず、洗濯機のすぐ向かいには洗面所、振り向けばキッチンと冷蔵庫、正面は脱衣場すらなく風呂場へ直結といったように、あらゆる生活領域がそこへ凝縮されていた。


「……あの」

「はい」

「……そこにいられると」

「あっ」


 伏し目がちに振り向いた彼女は、上着に手をかけている。その短い一言に含まれた意味を一瞬で読み取り、寝室へ飛び込むようにその場を去ると、電気のスイッチの場所を見つけるより早く引き戸を閉めて暗闇の中に閉じこもった。

 数秒してから薄ら聞こえ始める衣擦れ音。邪な妄想が捗らないよう、最近のマイブームであるロックバンドの楽曲を精一杯脳内で再生しつつ、思考を切り替えるためにベッドが大部分を占めている寝室を見回した。


 他に避難できる場所が玄関、トイレ、あるいは外の三択しかないとはいえ、女子の寝室に入るのは如何なものかと咄嗟の自分の選択を後悔する。

 とはいえ、見方を変えればこれは状況を整理するチャンスにもなるはずだ。風呂でリラックスして、ある程度は冷静さを取り戻していることを再確認し、壁のスイッチは見つからなかったので本体から伸びる紐を引っ張って蛍光灯を灯す。

 その後、すぐ傍にある枕から、女子特有の甘い香り――恐らくはシャンプーの匂いなのだろうが、変に中毒性と背徳感を感じるそれから視線を逸らしつつ、底の知れない彼女について手掛かりになるものを探し始めた。


 手始めに、彼女が先程枕元に置いた文庫本を手に取ってみる。自分にとって馴染み深いライトノベルと同じくらいの大きさでありながら、栞の挟まれているページを開くと一目では情景を想像しがたい複雑な比喩表現の羅列が目に飛び込んでくる。当然、著名イラストレーターの挿絵など挟まれているはずもなく、最後までペラペラとページを捲り終えたところで興味を抱くまでには至らなかった。

 一般論として、読書を習慣付けている人というのは教養があるから、彼女も頭は回るのだろう。喧嘩の強さも相まってあたかもインテリヤクザのようだ。彼女に反して一般教養に欠けている俺にはこれくらいの感想しか思い浮かばないし、実際のところインテリヤクザがどのようなものなのかはわからないけれど。


 次に何か目に付くものはないか首を回してみるが、そもそもこの部屋には探すほどものが置いていないことに改めて気付かされる。

 小さな本棚には似たような文庫本が並んでいるのみで手に取って読む気にはならないし、よしんばこの状況を打開できる重要な何かが隠されていたとしても、彼女が下着を取り出していた引き出しを開ける勇気は毛ほどもない。ただでさえ人の家を漁るだなんて低俗な行為は良心を痛めるというのに、とりわけ女子の部屋ともなると神経のすり減り方が尋常ではなかった。


 それらを除いて収納があるとすれば、残るのは幅一メートルに満たないくらいの納戸だけだ。音を立てないようゆっくりその扉を開くと、その中は棚板で上下にスペースが仕切られ、下にはいよいよ今期の役目を終える分厚い毛布が畳まれており、上にはハンガーパイプに黒いフード付きコートが掛けられていた。

 このコートもつい先程まで彼女が着ていたものだし、他にこれと言って注目すべきものもない。


 結局どこにも手掛かりはなしか、とため息をついて扉を閉めようとしたところ――ふと、そのコードの内ポケットが僅かに膨らんでいるのに目が留まる。

 着られている間は気が付かなかったというか、仮にわかっていても気には留めなかっただろう。

 しかし、普通は無視するこういうところにこそヒントが隠されている可能性も否定できない。夫の胸ポケットから風俗の名刺を見つける昼ドラの主婦さながらの気構えで、その内側へと右手を滑り込ませる。


 最初に感じ取ったのは、金属のような無機質な冷たさ。次いで、触り慣れていない不思議な造形、サイズ感に不釣り合いな確かな重量感。

 初対面の男に部屋を物色されているとは露知らず、引き戸の向こうで水音を響かせている彼女には心の中で謝罪しつつ、問題の物体を取り出そうと指を引っ掛けて――予想だにしなかった手触りに背筋が凍った。


 そんなはずはないと先走った憶測を否定しようとするが、今触れている妙な曲線が確定的な証拠を物語っている。

 いや、厳密に言えば実際に触ったことはない。ないはずなのに、その正体が何なのかは予想できてしまう。それが普通ではない、本来触れるようにあってはならないものだと、震える指先が警告していた。


 今年一番と言っても過言ではない緊張感を抱きながら、一思いにその物体を引き抜く。

 白い光の下に姿を現したそれは、ついぞ俺の予想を裏切ってくれることはなかった。


 シャワーの音が鳴り止み、部屋に静寂が流れる。

 風呂上がりに似つかわしくない冷や汗が背筋を伝う。

 蛍光灯に眩しく照らされる俺の右手には――、




 ――映画やゲームの世界から飛び出してきたかのような、一丁のが握られていた。




 スマートフォンなる文明の利器を得てインターネットへ手軽にアクセスできるようになった現代人は往々にしてスマホ依存症と揶揄され、その目的が友人との連絡だろうと、ソーシャル・ネットワーキング・サービスの閲覧だろうと、もはや身体の一部だとでも言わんばかりにスマホを手放せなくなっている者が多い。

 ご多分に漏れず、青春の高校生活を送っている俺、米石和希もそのひとりだ。夕飯にコンビニのねぎ塩豚カルビ弁当を平らげ、今は食卓に向かったまま友人への個人チャットを飛ばしていた。


『おつかれ』

『おつー。俺もカラオケ90点超えたい』

『今の機種は適当に加点要素連発すれば95くらい超えるよ。あとは音程を外さないこと』

『歌上手い人は簡単に言うやつ』

『ところで話変わるけど家帰れなくなった』

『方向音痴直せ笑 また遊ぼ笑』


 特にわざわざ面白い話を広げなければいけないような仲でもないので、既読を付けて去年からの友人――『平澤祐樹』との会話を終える。高校に入学して初めてできた友人で、今年度はクラスこそ別になってしまったが、今更付き合いを変えるつもりもないので、とりあえず今日、一発共にカラオケに行ってきた次第だ。


 また、個人チャットの画面を閉じるのに丁度いいと判断したきっかけはもうひとつ。このスマホの充電は今しがた20%を切って低電力モードに切り替わっており、充電用のLightningケーブルも持ち歩いていないためだ。

 コンビニへ行けば間に合わせにモバイルバッテリーを買うことはできるものの、親からの小遣いでしか私物を入手できない高校生は、その出費と現代人としての心の安泰を天秤にかけるのを惜しんでいた。


「コーヒーかお茶でも用意できればよかったんだが……」

「あ、いや、自分基本どっちも苦手なんで大丈夫です」


 腰ほどまである黒髪を揺らし、申し訳なさそうに少女が差し出したマグカップを満たしているのはミルクココアだろうか。お子様舌な俺は苦味のあるコーヒーも渋味が売りの日本茶も馴染みがないので、むしろ身の丈に合っていると言える。極論、この千葉のソウルドリンクこと、マックスコーヒーくらいの甘さが丁度いいまであるというのは俺の持論だ。


 彼女は自分の分のマグカップも置き、丁寧な所作で対面に正座する。来客時のお茶出しとは即ち商談や会議の合図。事件の被害者として話の舵を取るべきである俺は、強い不安感を隠しながらも、マグカップに口をつける前に先手を打つことにした。


「通りがかりだって言ってましたけど。本当に俺のこともどうしてこうなってるのかも知らないってことで間違いないですか?」

「ああ」


 短く答え、彼女は湯気の立つココアを一啜りする。まずは状況整理と情報交換から始めたいところだが、こちらとしては持ち合わせている情報も皆無なので気休めにしかならないかもしれない。それでも、先行きが見えない以上、差し当たっては彼女と明確な繋がりを持っておくべきだと判断しての行動だった。


「じゃあまず……俺の名前は米石和希です。あなたは?」

「……周りからは『エアスト』と呼ばれている」

「エアスト……?」

「『erst』――ドイツ語の序数で『一番目』の意味だ。英語における『ファースト』と同じ」

「ああ、なるほど。……なるほど……?」


 アインス・ツヴァイ・ドライのアインスの序数にあたるわけだ。そういえば、国民的ロボットアニメシリーズの一作に、その名前を冠した機体がいたような気がしないでもない。いや、あれは基数のままだったか。

 意味がわからなかったわけではない。知識が限定的すぎるのはさておくとして、疑問を抱いたのは彼女の言ったそれがとても本名だとは思えないということだ。たとえ外国人名であったとしても、自分の名前は序数だとか語りはしないだろう。

 けれど、そこを詮索するのも無礼にあたる。深い意味を持たない渾名の可能性だってあるのだ。ふと脳裏に蘇るコートのポケット内の代物と紐付けようとした思考を止め、喉まで出かかった疑問も飲み込み、マグカップに手を伸ばしつつ口を噤んだ。


「……ところで、色々と話をする前に」

「ん?」

「敬語を使うのはやめて欲しい。私と年齢もさして変わらないだろう」

「とはいえ親しい間柄でもないじゃないですか」

「そう改まるほど敬意のこもった言葉遣いには聞こえないが」


 数秒、返す言葉に詰まる。

 昔から無駄な諍いを起こさないように敬語から人間関係を築き始めるように心がけていたつもりだったが、その表現方法はといえばいつも投げやりだった。自分の癖というものは指摘されない限り気付けないものだ。口答えする気にもなれず、視線を落として首肯した。


「……本題に入ろう」


 ひとまず自己紹介が済んだところで、彼女――エアストは、こちらの目を見据えて紡いだ。


「私が今わかっているのは、お前――和希はあの男たちに追われていて、それを私が助けたということだけ」

「あの人たち、俺の逃げる先を把握していただけじゃなく、どうでもいい昔話までひけらかしてきた。それだけ情報網張ってるってことだろうし、住所なんて訳ないんだろうなとは思う」

「だからこうしてここで匿ってはいるが、本当に安全だとは断言できない。見つかるのも時間の問題だ、あの男たちについて心当たりは?」

「いや、全く。身に覚えはないしマジで意味不明。正直、エアスト……さんが、何か知っていればって思ってた」

「……申し訳ないけれど、私は通りがかりだから」


 エアストは目を伏せ、マグカップに口を付ける。

 張り切って切り出したはいいものの、特に共有できる情報もないことを察して、ため息をつくしかなかった。


 ――八方塞がりだった。

 どうして襲われたのかもわからないし、どうすれば助かるのかもわからない。数人の追っ手であればまたエアストが返り討ちにしてくれるかもしれないが、本気を出した相手方が多方面から現れてしまえば、たったひとりの守り手から狙いを掠め取ることくらい難しくないだろう。


 それに――確かにこの目で見た数時間前の彼女はとても勇ましかったが、今目の前にいる姿は同い年くらいの美少女にしか見えないのだ。気の知れた親友ならともかく、お互いよく知らない彼女にいつまでも手を焼かせるのは気が引けるし、男の風上にもおけない。しかしながら、今自力で解決策が思い浮かぶわけでもなかった。


「……なんでこんなことになったんかな」


 拳を握り締め、行き場のない絶望感と無力感に打ちひしがれる。

 何も非行らしい行為を働いた覚えはない。外面は優等生ぶって規律には人一倍厳しく生きてきたつもりだし、他人様にも迷惑をかけないよう人畜無害な人間を演じて十七年目の人生に至った。

 なのに、どうして俺が危険な目に遭わなければならないんだ。あいつらの目的は何なんだ。誰が俺を助けてくれるんだ。さながらライトノベルの主人公のように代々受け継がれる異能を持ち合わせているわけでもないのに、俺をしつこくつけ狙う理由は何なんだと。


 待ちに待ったゴールデンウィークが始まるというのに、明日を迎えることすら怖くなって。


「……大丈夫」


 渦巻く疑問に苛まれながら頭を抱えている俺の思考を引き裂いたのは、中身の飲み干されたマグカップをテーブルに置いて優しげな視線を向けてくるエアストの言葉だった。


「私ができる限り手を尽くして和希を守るから。……だから、私のことは信用して欲しい」


 理性が反対しつつも本心では待ち侘びていた甘い言葉を受けて、思わず目頭が熱くなる。同時に彼女と視線を合わせるのが男としても恥ずかしくて、眉間をつまんで疲れ目を訴える仕草をしながら誤魔化した。


「疲れていると物事を悲観的に考えがちだ。今日はもう休んで、明日から対策を考えよう」


 エアストはそう言い残して席を立ち、こちらのマグカップをちらりと見る。その視線の意味することを感じ取った俺が温くなったミルクココアを喉に流し込むと、彼女は空になったマグカップを受け取って台所へ向かった。それを会議終了の合図として、俺は再び嘆息する。


 彼女が言うことも一理あるだろう。普段学校に通うだけでも疲れるというのに、今日は色々と非日常に巻き込まれすぎて、身体的にも精神的にも疲弊し切っていた。だからこうも悲観してしまうのかもしれないし、一度眠って思考をリセットすれば打開策が見えてくるかもしれない。


 そう願って、この日はスマホに触ることもなく床に就くことにした。

 不安を持ち越しているのに、付け加えれば枕だっていつもと違うというのに、瞼の裏に考えを馳せるまでもなく意識はぷつりと途切れた。




 ――知らない天井だ。

 窓から差し込む日光に照らされて徐々に覚醒しつつある脳が、最初に抱いた感想がそれだった。


 むくりと上半身を起こし、軽く伸びをする。少しばかり腰に痛みは感じるものの、再び布団の中へ誘われるような眠気はないし、見慣れない部屋ではありながらも寝惚けて夢の中と誤認している感覚もない。ここ数日の中では最もすっきりした目覚めである。


 記憶を整理すると、この平成ももうすぐ終わろうとする日本の千葉に住むごく普通の男子高校生こと米石和希は、昨日の夕飯時、友人とのカラオケの帰りに謎の怪しげな連中に拉致されかけ、窮地を救ってくれた少女の家の床でつい今しがた目を覚ましたところだ。

 趣味で読んでいるライトノベルばりの急展開に自分でも思考が追いつけていないが、悲しいことにこれが現実である。普段から明晰夢を自在に見られるという誰に自慢することもない特技を抱えている俺にとって、この状況が夢でないと断言することくらい容易いことだった。


 そして、今直面している問題は、どうやって追っ手を撃退するかということ。奴らの素性がしれない以上、悪手を打つことは許されない。

 また、スマホの地図機能で確認したところ、この家の位置も実家から遠く離れているわけではないから、油断して外出してしまった末には奴らの情報網の餌食になる可能性も否定できないときている。

 絶望的状況に立たされてはいるものの、たったひとりの協力者を得たことで、昨夜よりは落ち着きを取り戻せていることを自覚した。


 さて、その協力者は今何をしているのかと立ち上がってみるものの、開かれた寝室の引き戸の奥に人影は見えない。

 昨日は、来客用の布団も用意できていなかったからとベッドを勧められたが、年頃の少女の寝床を専有しろという誘いに女性免疫の薄い男子高校生如きが合意できるはずがなく、納戸に仕舞われていた冬用の掛け布団や毛布をこうして居間で敷くことを選んでいた。

 エアストは不服そうにしていたけれど、今回ばかりは正しい選択をしたと思う。おかげで若干腰は痛むものの、この行動によって守れた尊厳と比較すれば些細なことである。


 寝室に彼女の姿が見えないとなると、どうやら俺が広くスペースを取って眠っていた居間を跨いで外出したらしい。身体のすぐ横を歩かれても一切勘づかなかったあたり、相当熟睡していたようだ。日頃の寝不足の影響も少なからずあると見える。

 主人がいなくなってしまえば勝手に歩き回るのも気が引けるが、かと言って何もせずじっとしているわけにもいかない。ひとまず布団類を畳んで壁際に寄せ、新品の歯ブラシやタオルを拝借して洗面所へ向かった。


 最低限身嗜みを整え、やることをなくしてふらふらとお手頃価格の家具をチェックしていると、玄関の鍵が開く音が聞こえた。


「おかえり」

「……ただいま」


 匿われている身で烏滸がましいとは思いつつもとりあえず居間のドアを開けて迎えてやると、エアストは一瞬きょとんとした顔を見せた後、視線を逸らしながら短く返してきた。


 彼女は昨日とは違って髪を高めの位置で二房に結い上げている。所謂ツインテールというもので、子供っぽい髪型だとか揶揄されている通り現実ではほとんど見たことがなかったものだが、童顔な彼女にはこれまでに見た誰よりも似合っていた。

 服装もモノクロカラーのシャツとジャケットにショートデニムと、昨日の身を隠すようなコートとは正反対の薄着で、白い脚から強調される異性らしさが大変よろしくない。彼女は追っ手に顔が割れていないから隠す必要もないとはいえ、肌を出されてもこちらが目のやり場に困るだけだというのに。


「朝食。好きな方選んで」


 靴を揃えて居間へ踏み入れた彼女は、右手のコンビニ袋を軽く持ち上げて見せる。サイズの割に高値な気がして自分では買う気になれないサンドイッチが、半透明の袋から顔を覗かせていた。


「ごめん、いくらした?」

「いや、いい。私が勝手に買ってきただけだから」

「さすがにここまでしてもらって一銭も払わないでいるわけにもいかないでしょ」

「事が片付いたらその時に報酬として貰うよ」

「……なんかボディガードの仕事みたいだな」


 肩を竦めて見せるが、全くその通りの状況なので笑い飛ばすこともできず口を噤んだ。自分がボディガードを必要とする立場になるのも納得がいかないのに、解決しようにも彼女に守られていない限り家を出ることさえ許されない現状が歯痒くて仕方がない。

 夢であって欲しいとは散々願ったけれど、こうして朝目が覚めてしまった以上、現実と向き合う覚悟を決めざるを得ず――それからあれこれ考え始めるより早く、育ち盛りの高校生の腹が情けない音を立てた。


「腹が減っては戦は出来ぬ。考えるのは後でいい」

「……どうも。ありがたくいただくよ」


 目尻を下げて微笑む彼女に続き、食卓のテーブルに向かい合って座る。たった一晩泊まっただけなのに、不思議と昨日よりは打ち解けているように感じる。

 それはただ粗雑な敬語をやめたからなのかもしれないし、いくらか会話を重ねて少しずつ彼女のことを知りつつあるからなのかもしれない。


 ともあれ、事件の解決に際して彼女との出会いが無駄にならないことを祈りつつ。


「いただきます」


 まずは目の前の空腹を対処することに決めた。




 スマートフォンが素晴らしい文明の利器であり人類史上最高の発明と言っても過言ではないことは先述の通りだが、そのスマホが日常生活において担っている役割はひとつやふたつではない。理由は即ち、携帯としての機能よりアプリ面に比重を置き、携帯型PCとでも呼ぶべき利便性への進化を遂げたことにある。

 俺が多用するSNSの他にも、例えばいつでもどこでも好きな時に調べ物をしたり、お気に入りの漫画や小説を端末ひとつで読み漁ったり、あらゆる企業がリリースしているゲームを遊んだり、動画サイトや音楽アプリへアクセスして時間を潰したり……探そうと思えばやれることはいくらでもあるものだ。これらの基盤を作ったスティーブ・ジョブズには感謝してもしきれない。


 つまり、何が言いたいのかと言うと……暇なのだ。


 食後の運動はまず外に監視がいる最悪のケースを危険視して却下。それを除外するにしても元来インドア派として育ってきたから平気だと高を括っていたが、いざスマホを手放してみると他人の家ということもあって驚くほどやることがない。

 とは言ってもバッテリー切れの近いスマホを酷使するわけにもいかないし、よくリュックに入れて持ち歩いているライトノベルはこの日に限って家に置いてきた。それならもう授業の予習でもするしかないのかと考えたが、教科書やノートはひとつ残らず学校のロッカーに突っ込んできたのでとにかく退屈極まりなかった。


 本来やらなければいけないことはわかっている。わかってはいるけれども……こんな非日常のワンシーンに立たされて、どこで見張っているかもわからない追っ手から逃げ切る方法を編み出せなんて無茶がなかろうか、なんて無理に自分を正当化しながら頭を抱える。

 こっそり助けを求める眼差しを横に向けると、ローテーブルの向かいに座るエアストは整然とした態度で文庫本と向き合っていた。


「……その本、面白い?」

「まあ、そこそこには」

「微妙そうに聞こえるけど」

「物語の展開が強引だし、心情描写も軽薄。設定の掘り下げが足りないと思う」

「散々すぎない? 本当に面白いの?」

「……否定はしない」

「さっきより評価下がってるだろ……」


 クールな立ち振る舞いに見合う通り、彼女が本を読む姿は絵になるし、内容に対する意見を述べられるほどには教養もあるらしい。一年生の時、夏休みの課題の読書感想文をすっぽかした俺とは大違いだ。

 もし面白そうであれば少しだけ借りてみようかと身構えていたが、親しくもないのにそう申し出るのは迷惑かとコミュ障特有の遠慮が勝ったところで、彼女はふと視線を上げて呟いた。


「でも……ストーリー自体は嫌いじゃない」

「はあ……ちなみにそれはどんな感じ?」

「代わり映えのないつまらない日常が、たったひとりの変わった人物の介入で非日常に化かされる、というか。ちょっとしたSF」


 言われてその手元に目線を落とすが、彼女の言葉はすんなり腑に落ちなかった。ああいった類の本は父親が大量に持っていたが、どれも限りなく現実的で味気ない物語だったような記憶がある。それが偏見だったとしても、彼女の感想はライトノベルだと付け加えてもらった方が合点がいくだろう。


「……とてもそんな変わった本には見えないけど」

「読まずに決めつけられるものじゃない。私も初めて古本屋に立ち寄った時はそんな感じだった。でも、案外見た目によらないものだよ」


 そう言って微笑む彼女は――やはり、これまでに出会ってきた誰よりも美少女然としていて、思わず目を逸らしてしまった。女性免疫はある方ではないし、まともな恋愛なんてしたことがない。これは一目惚れしてしまっても言い訳は許されるだろう、だなんて冗談を脳内に押し留めながら、俺も小さく笑った。


「もしよかったらでいいんだけど、何か俺にも読めそうなのってあるかな」

「好みはあると思うが……いくつか読んでみる?」

「ああ、ちょっと貸してくれると嬉しい」


 俺の言葉に軽く頷いたエアストはその場を立ち上がり、寝室の方へと向かった。彼女が手を伸ばしたのは、ベッドの傍にある腰の高さほどの小さな本棚だ。そこから何冊か見繕って取り出すと、俺の方へ差し出した。


「どういったものが好きかわからないから、とりあえず私の好みだけど」

「構わないよ、どうも」


 受け取ると、エアストはその場にあるベッドに腰掛け、居間の方へ戻るものかと立ち尽くしていた俺に目配せをした。どうやら座っていいとの合図らしいが、別に一緒にいる必要はあるのかというか、女子のベッドになんて座って許されるのかというか。

 躊躇っていると、こちらの葛藤に気付く様子もない彼女が不思議そうな視線を向けてきたので、不審感へと変わる前に彼女の隣に腰掛けた。


 余計に焦ったせいか座り場所に選んだ位置が意外と近く、かと言ってこれみよがしに座り直すわけにもいかないから、あまり心臓に優しくない緊張感を隠しながら文庫本の表紙を捲ると――数ページと立たないうちに、意識は創作の世界の中へ吸い込まれていった。


 それから部屋の中に響いたのは、古紙のページが捲られる音と、新しく本棚から文庫本が取り出される掠れた音のみ。

 真隣に座るエアストの息遣いも、窓の外で鳴り響いている自動車の音もすべてが意識の外で、まるで最初からそうだったかのような自分だけの世界に浸り続けた。


 いつも通りの日常を過ごす主人公は、自分の生き様に不満を隠せず、他人任せに変化を求めていた。

 そんな彼の元に訪れたのは、他の誰にも真似できない――フィクション感満載の異能を持った少女。

 彼女を中心に巻き起こる非日常に取り込まれた主人公は、初めこそ元の世界に戻りたいと彼女を拒絶するも、周囲の人間と関わっていくうちに自分が本当に求めていたものに気付き、目的を見据えて彼女と共に前に進むようになる――そんな破天荒な物語。


 無論、異能なんてものは実在しないから、純粋に創作の世界として見るほかないけれど。

 それだけでも現実的な――例えば優れた趣味特技なんかに置き換えてみれば、現実に有り得ない話ではない。交友関係を介する人間的成長なんてよくある題材だし、友情には確かにそれだけの力があるのだろう。根本的な部分ではスポ根だとかに似通っていると言っても過言ではない。

 でも、俺には異能も特技もないし、それらに精通した人物が現れてくれるかなんて知ったことじゃない。

 だから、こういうのはあくまで架空の物語として楽しむだけでいい。微かな憧れは胸に隅に留めておいて、今は物語の中身だけに集中することにした。


 数多の世界がついに終焉を告げたのは、手元にあった何冊目かの文庫本が最終ページを迎え、後書きの文字を読み取るのに苦労するほど部屋が暗くなっていることに気付いた時だった。

 パタンと本を閉じて隣を見ると、それに反応した彼女と視線が交わる。ふたり並んで夕方になるまで没頭してしまう滑稽さに笑いを堪えつつ、電気のスイッチはどこかと部屋を見回した。


「ああ、この部屋だけ壁のスイッチはついていないんだ」

「……そういえば」


 言われてみれば、昨夜もあの紐を引っ張って明かりを点けていた。築三十年は経っているであろうアパートともなれば珍しくないのだろうかと考えながら、その場を立ち上がろうとして――、


「――――ッ!?」


 思わぬ平衡感覚の乱れを察知する頃にはもう遅く、いつの間にか床に落ちていた文庫本を踏み付けた左足は半回転。バランスを保とうと反射的に伸ばした手は空を切るかと思いきや、予想より早く薄闇の中で触れるものを捉えた。

 そのままバランスを崩した半身はベッドへ倒れ込み、なんとか腕で身体を支える、上半身だけ位置の高い腕立て伏せのような体勢になってしまう。


 頭をぶつけるだとか鈍臭い事態は避けられたことで一瞬安堵したその瞬間、倒れ込む際にベッドより早く触れたものの違和感に気付き――、


 俺の両手に細い肩を挟まれるようにして横たわるエアストを見て、しでかしてしまったことの重大さを自覚した。


「……っ」


 先程よりも近い距離で向かい合っているせいで、暗闇に慣れた視界は彼女の呼吸に応じて上下する胸元、頬を伝う一筋の冷や汗を明瞭に捉えてしまう。

 ふと視線が合ったかと思えば彼女はすぐに横へ逸らしてしまい、何か言葉を紡ごうと開けてはまた閉じてを繰り返している。

 この状況を引き起こした張本人さえ、焦りと戸惑いで身体が硬直してしまっていて。


 何秒か、何十秒か計り知れない時間が続いた頃。


「……ぁ、あの……っ」

「……、ごめんッ」


 声になりきらないか細い呟きが耳朶を叩き、それを得て正気を取り戻したかのようにこの身体は両腕をバネにして立ち上がった。

 そして急ぎ誤魔化すようにして蛍光灯の紐を引き、半歩後ずさりながら明るさに満ちる部屋の中で再び彼女を見やる。


 明かりが点くと同時に上半身を起こしたエアストは、ほんの一瞬だけ硬直した後、俺が名前を呼ぶより先に立ち上がり、顔を隠すようにしながら居間へ出て行ってしまった。


「な、どこへ」

「……夕飯買いに行ってくる……っ」


 そう言い残してからそう経たないうちに、玄関のドアが開いては閉じる音、鍵を掛けられる音が続けて聞こえる。

 それを合図に、俺は放心して再びベッドに倒れ込んだ。


 ――美少女をベッドに押し倒すだなんて、どこのラノベ主人公なんだ。

 飛び起きていったエアストの頬が赤みを帯びていたのは恐らく気のせいではないし、それに関しては俺も負けていない自信がある。


 ――なんて小っ恥ずかしいことをしてしまったのだろうか。

 今すぐこの記憶を消し去りたい。それができないなら誰か殺して欲しい。殺されなくても自分から死にたい。

 犯した罪は容易に消えるものではない。ラノベの暴力系ヒロインなら間髪入れず全力のビンタが飛んでくるはずだ。むしろ制裁を加えてもらった方が気は楽になっただろうに、無傷で取り残されているせいで余計に良心の呵責に苛まれた。


 俺も基本的に本を読むことは好きだからと趣味の共有まで漕ぎ着けて、やっと彼女の素が見えるようになってきたかと思った矢先にこの有様だ。

 今世紀最大のドジに言い訳ひとつ浮かばない。対策としては暗くなるまで周りが気に留まらなくなるほど読書に没頭しないこと、異性の近くでベッドに座らないことだろうか。そんなヒヤリハットあってたまるか。


 兎にも角にも取り返しのつかない後悔に対してやれることは償いのみ。

 買い物から帰ってきたエアストにはどう手をついて謝罪するべきか熟考し、三十分と経たないうちには人生初の土下座が炸裂することになったが、ギクシャクした態度が元通りになることは就寝に至るまでついぞなかった。




 小学校に入ってからも姉の影響か異性に対する苦手意識が強く、義務教育も終盤に差し掛かるまで恋愛はおろか交友関係すら避けてきた。顔は姉に似て中性的、背も高校生男子の平均には届かず、運動が特別得意なわけでもないの三点セットで男性的魅力はたかが知れているので、こちらからアプローチをかけない限り話しかけられることもない完璧な非モテが完成する。

 同性の友人が少なかったわけではない。勿論、クラスの中心に立つ運動部たちとは相容れない存在だ。彼らのようにクラスの男子みんな友達だなんて薄ら寒い冗談は勘弁だが、それでもよく遊ぶ友人はそれなりにいた。


 それだけで満足だった。それがずっと続けばいいと思っていた。ずっと続くものだと思っていた。

 中学三年生に上がった日、ある女と関わるまでは。


「……ん」


 深い眠りの底から浮上し、この天井を見上げるのは人生二度目になる。今日も今日とてすっきりした目覚めだった。

 休日の朝というものは、通常であれば憂鬱さの滲むものだ。やりたいと思っていたことが何もできずに土曜日を浪費し、残る日曜日は平日へ向けて心身を休めるべく惰眠を貪ることしかできない。そうして毎週趣味に打ち込む余裕もなく過ごしていれば、いつしか高校二年の春を迎えていた。


 だがしかし、今日に関しては例外である。

 何を隠そう、サービス業の方々を除く日本国民誰もが待ち遠しく感じていた大型連休ことゴールデンウィーク、今日がその二日目だ。

 しかも、今年のゴールデンウィークは異例も異例。本来であれば、三連休、平日を三日挟んでまた四連休の如何にも中途半端で釈然としない休暇になったところだが、今年、更に言えば明後日には天皇陛下の即位礼正殿の儀が執り行われる。

 来る五月一日は即位の日、即ち新元号・令和の記念すべき一日目となり、前後の平日が祝日に挟まれるため、それらもすべて祝日法に則って国民の祝日となるのだ。

 最終的に出来上がるのは前代未聞の十連休。その前半すら終えていないのだと改めて認識した朝、俺はいつもより遥かに晴れやかな気持ちだった。


 ……まあ、ここまで気持ちを軽くしたつもりでいられるのも、目の前の問題から目を逸らしているからに過ぎない。他人の力に縋っているのも事実だから、いつも通り怠惰でいるのは許されないのだ。

 今日こそ……やっぱり明日から……いや、今からでも動き出さねばならない。


 そうハリボテの決意を塗り固めて起き上がった、その先に。


「…………ぁ」

「…………えッ」


 困惑の色の滲んだ赤い瞳と目が合う。……だけならよかったのに。


 視線の先、脱衣場に立つエアストは、


 昨日一日一緒に過ごしてわかった通り、彼女はまるでモデルかのような無駄のないスレンダー体型だ。あの喧嘩の腕から推測して、筋力的にも申し分ないと見える。

 細く靱やかで、それでいてどこか柔らかさを感じさせる美少女の肉体が、今まさに布一枚越しにこの視界に捉えられている、これこそ夢を疑う状況。脳内でシミュレーションしたこともないシチュエーションに思考がフリーズし、昨夜にコートのポケットからとんでもないブツを取り出した時とはまた違った意味で冷や汗が止まらない。


 落ち着け、落ち着くんだ俺。そうだ、こういう時は素数を数えればいいととある漫画の人物が言っていた。よし、2、3、5、7、11、13……違う、そうじゃない! 今は冷静さを取り戻すことより、いち早くこの場を脱しないと……!


「すみませんでしたッ!」


 声も出ず、今にでも泣き出しそうなほどに顔を紅潮させるエアストの表情を見て我に返り、中学時代に習得した首跳ね起きを若干失敗して首を痛めながらも狭い玄関へ飛び出した。建てつけのよくない扉を後ろ手に全力で閉め、目を瞑り両耳を塞ぎながらその場にへたり込む。

 二日連続、これは到底許されるべき行為ではない。出会って間もない美少女をベッドに押し倒したその翌日には、火照ったバスタオル姿に出くわすときた。まるでラノベ主人公そのものじゃないか。

 台所のすぐ横に直結している浴室は脱衣場すらないため、居間との間を仕切るものは何もない。とはいえ、物音がしていたなら気付くことくらいはできていたはずだ、寝惚けてさえいなければ。


 実に数秒かけてしっかり脳裏に焼き付いた白と肌色の映像は、いくら別のことを考えようとしても瞼に浮かんで離れようとしない。気を紛らわす方法が何かあるわけでもなく、これまでに見た刑事ドラマの記憶から昨日の土下座を上回る謝罪方法について模索していると、背を合わせていた扉がひとりでに開いた。

 二〇センチほどの隙間からこちらを覗き込んでいるのは、着替え終えたらしい可哀想なセクハラ被害者のエアストその人。死刑判決待ちの被告人・米石和希を見下ろすその表情がほんのり赤みを帯びているようにも見えるのは風呂上がりだからだ、そういうことにして記憶の消去を試みた。


「…………」

「……あ、あの、本当にわざとじゃなくて、不可抗力で」

「……いい。私も、朝から風呂に入るとは伝えていなかったから」

「にしても、タイミング良すぎというか、疑われても仕方ないというか」

「和希は疑って欲しいのか?」


 光の差し込まない薄暗い玄関の中で、彼女の深紅の瞳に睨めつけられる。当然のことながら、大層ご立腹のようだった。

 女性はよく男性の理解できない原因に対して怒りがちと聞くが、今回の件に関しては擁護しようもなく俺に非がある。しかし、自己弁護するのであれば意図的でないのは事実なのだから、減刑くらいは申し出てもいいのか否か、彼女の言葉を受けて揺れていた。


「……本当、昨日今日と続けてすみませんでした」

「き、昨日のことは掘り返さなくていいから!」

「うえっ」


 言い淀みながら一際大きな声を放ったエアストは、それほどに忘れたい記憶を刺激されて焦ったかのような様子で勢いよくドアを引く。それに体重を預けていた俺もつられて後ろへ転がり込み、フローリングから彼女を見上げる体勢になってしまった。


「……私にも非はあるけど。次から、気を付けてくれればいいから」

「は、はい」


 エアストは視線を逸らしがちにそう呟く。ラノベ主人公ならもう二回は顔の傷が増えていてもおかしくないのに、またもや許しが確定してしまった瞬間だった。

 本を正せば初めて出会った時から勘づいてはいたが、彼女はあまりに優しすぎる。俺が今のところ平穏に……とは言い難いものの、健康的に朝を迎えられているのはエアストのおかげだし、彼女のような人物ともっと早く知り合えていれば、俺の人生もこれほと空虚にならずに済んだのではないかと疑うほどだ。

 ただ、彼女はある意味で鈍感な一面も持ち合わせている。こうして裸体を見られるのには強い抵抗があるとはいえ、昨日の事件の発端は、彼女が隣に腰かけるよう目配せしてきたこととも推測できる。こっちは健全な男子高校生なんだ、度重なる罪の裏で異性として意識せざるを得なくなっている今、過度な距離感の詰め寄りは毒にしかならない。そんな意思を少しは汲み取って突き放してくれれば楽になれるのに、こうして危機感も持たずに近寄ってくるから。


「……エアストも、気を付けてよ」

「……何?」

「何でも」


 俺は首を横に向けながら投げやりに言い、床に手をついて起き上がった。

 白、肌色と続いて記憶に刻み込まれた艶やかな黒色は、しばらく忘れることはできないだろう。

 口調が中性的で態度も男前とすら感じるエアストだが、スカート姿は想像以上に似合っていた。




 長閑な昼過ぎ、そろそろ西日が差し込み始めるかという頃。

 相変わらず現実逃避に尽力する俺は、許可を得てエアストの本棚を漁り、おすすめのシリーズものを数巻にわたり読破していた。


 ライトノベルのような著名イラストレーターの美少女イラストこそないが、実際に読んでみれば飽きの来ない物語の情景が次から次へと浮かんでくる。エアストの言葉に違わず、父親の影響もあってなんとなく忌避していたそれはなかなかどうして面白い。文中の難解な表現方法に相見える度、本棚に紛れ込んでいた国語辞典で引きながら知識として吸収する読書もまた乙なものだった。


 しかし不満があるとすれば、やはりエアストと同意見で物語の展開が強引すぎる。よく知るラノベであれば序盤のインパクトでどれだけ読者層を獲得できるのかが重要なので、案外これくらい型破りな方が人気は得られるのかもしれない。それにしても、作中特有の用語が次から次へと羅列され、登場人物も阿吽の呼吸で急展開に追随していく様は、必死に読者を引き離しているようにしか思えない。

 総合して見るなら、伏線は巧みで登場人物の魅力も伝わってくるから面白いのは確かなのだけれど。結局異能がどういうもので自分はどういう立場に置かれているのか、この主人公は理解できているのだろうか。そんな点が気がかりで仕方なかった。


 そうして読み進めながら一風変わった比喩表現に首を捻っていると、玄関のドアの音がこの部屋の主の帰還を告げる。その右手には、俺のものより数世代新しいスマホが握られていた。そういえば、彼女が一度部屋を出ていったのも、そのスマホのデフォルトの着信音が鳴り始めたためだった。


「電話?」

「ああ」


 短く答えると、エアストは昨日の出来事を警戒してか距離を取り、壁にもたれ掛かるようにしてベッドに腰掛ける。

 そして、スマホの画面を見つめながら、こう続けた。


「協力者の目処が立った」

「……え?」


 驚きに言葉を詰まらせる。

 望んでいた類の言葉ではあった。何せ彼女曰く警察も頼れないとのことなのだから、他にどんな人に縋ろうと言うのか甚だ疑問ではあるが、助けてくれるのであれば文句を言える立場ではない。彼女自身素性の知れない人物なので、そういった公には言えない繋がりである可能性もあるかもしれない。


「どんな人なんだ?」

「……会ってみればわかるよ」


 エアストはこちらに目も向けずに返すと、スマホを脇に置いてベッドに倒れ込んだ。

 言葉を濁された俺はまた問い直すのも躊躇い、途中だった文庫本の、栞の挟んでいたページを開く。


 思い返してみると、解決策を考えようと宣言してこの家に居座っているのに、俺は何ひとつ案を出すことはできなかった。そんな見ず知らずの俺を慮ってツテを見つけてきてくれた彼女に、俺はどうお礼すればいいのだろうか。


 この人生、他人の世話になったことこそ星の数ほどあるが、命の恩人ともなれば恐らくその限りではない。そんな相手に伝えるべき言葉を求めて文庫本のページをペラペラ捲りながら台詞を流し読みしていると。


「……ごめん」


 静まり返った部屋に、消え入りそうな一言の謝罪が響く。

 無意識に俺から切り出してしまったのかと錯覚する言葉に振り向くが、反対の壁側を向いている当人の表情までは見えない。


「何が」

「それは……色々と。この家も狭いから不自由させたし」

「どこがだよ、家賃のコスパ考えると住みやすい物件だろ。むしろこっちの方が助けてもらってるんだから感謝してるよ」

「……その、軟禁状態のようにもなっているし」

「元々引きこもりだから心配には及ばない。それに、さっきの協力者の件が通れば自由になれるんだろ? そしたら今度は友人として遊びに来れれば……ってのはさすがに烏滸がましいか」


 妙に歯切れの悪いエアストは、何を迷っているのがすぐに返事はしてくれなかった。

 いまいち元気のない彼女の様子に疑問を抱きつつも、スマートな流れでお礼の一言を伝えられたことに一旦満足した俺は再び視線を手元の文庫本に戻そうとする、が。


「お人好しだな、和希は」


 上半身を起こしたエアストが、こちらを見てどこか悲しそうに微笑む。


「……初対面の人を救うあんたほどじゃないよ」

「私は……どうだろうな」


 未来は明るいはずなのに、どうして悲痛な面持ちをしているのだろう。

 その選択に何か心残りでもあるのか、と余計な詮索を始めてしまう。

 予想される最悪のケースとしては――俺を救うために、彼女自身が代償を払っている可能性か。彼女なら実行に移しかねないが、生憎俺はそこまで手を尽くされるほど価値のある人間じゃない。それは杞憂だと願いつつ暗に聞き出そうとると、俺の言葉を遮るようにエアストは立ち上がった。


「明日の午後七時。そこでなら落ち合えるらしい」


 そう言い放った彼女の眼差しは、もういつも通りの真剣なものに切り替わっている。

 それが本題の切り出しであると認識し、見上げて続きを促した。


「相手はグループだ。力こそあるが、全面的に協力的とは言い難い。まずは交渉が必要になる」

「交渉……やっぱりそうなるか」


 先程の予想を辿ってしまうようで癪に障るが、表には出さずにこの場は話を合わせる。


「場所は? 俺は行くべき? 遠出すると奴らの監視網に引っ掛かるリスクがあると思うけど」

「ここから徒歩圏内の会館を貸し切るという話だ。和希は当事者として、見つからないことを祈って同行して欲しいとのこと。あとは……万が一のためにも仲間内で警備も付けるとか」

「やけに大事だな……」

「和希は自分の身だけ心配していればいい。相手方とは私が話を付けるから」

「……悪い」


 とても男子高校生が経験する日常のワンシーンとは思えない会話に慣れつつあることに呆れながらも、ようやく事態が改善しそうな雰囲気に心が軽くなる。

 明日の午後七時、近くの会館にてエアストと共に相手方と合流。複数人いるという話だから、尚更失礼のないように留意しなければならない。粗雑な敬語や立ち振る舞いなんかはどうにかして誤魔化さなければ。エアストの身分については聞かされていないものの歳が近いことに違いはない、就活向けのビジネスマナー本でも置いていないだろうか。


 そういえばこの文庫本用の本棚以外にも居間に何らかの書籍が置いてあったな、などと思い出す俺の横で――本題について一通り話し終えた彼女は、緊張を解いてしばし瞑目し、そして軽く口元を綻ばせた。


「この三日間、気を張り詰めていただろうから……今日はゆっくりしよう」


 エアストはそう甘い言葉を投げかけてくれるが――それを素直に受け取る気にもなれなかった。


 たかが三日、されど三日。俺は信じ難い現実から目を逸らし、彼女の厚意に甘えているだけだった。

 事態が好転しそうになった今になってやる気を見せたところで卑しいだけだとはわかっている。それ以上に、身に余る彼女の優しさが理解できない。

 まだ会って三日の相手に、これほど献身的になれる理由は何なのか。文庫本を置き、俯きがちに問い掛ける。


「……俺に何かできることある? 正直ここに来て何もできてないし、任せっきりで申し訳ないんだけど」

「それで構わない。自分の心配だけしていればいいと今言っただろう」

「……どうして」


 一呼吸置いてから、ごく単純な疑問をぶつける。


「どうして、そこまで俺に尽くしてくれるんだ」


 赤い瞳を揺らすエアストは、すぐには答えない。真剣な表情に相応しい回答を探しているかのように視線を彷徨わせてから、その重い口を開いた。


「……困っている人を放ってはおけないだけだ」

「なら、せめて俺に仕事をくれ。ヒモになった気分で居心地が悪い。その相手が初対面の異性とか尚更救いようがなさすぎるだろ」


 彼女の表情に陰りが見えた気がして、すかさず誤魔化すように吐き捨てる。

 もし彼女の言を信じるなら、お人好しにも程がある。何か言えない理由があるのであれば、俺も今回のお返しに彼女の助けになりたい気持ちはあるものの――きっとそれを聞き出せるほど彼女の信頼を得られてはいないだろうから、またいずれの話になるだろう。


 借りを返すチャンスが目に見えているのであればそれに越したことはないと企む俺には見向きもせず、エアストは寝室の入口へと歩いていく。そして、立ち止まると小さく呟いた。


「……明日、協力はしてもらう」

「ん? ああ、勿論」


 一瞬聞き返そうか躊躇う声量ではあったが、その意図を解して素っ気なく返す。その返事も待たずに、エアストは無言で家を出て行ってしまった。

 連日の行動パターンから察するに、夕飯でも買いに行ったものと考えられる。キッチンもほとんど使った形跡がなかったから、毎日買い食いで済ませているのだろう。こんなボロアパートに住まうような金銭感覚なら食費も節約すればいいのに、と残された部屋でひとりごちた。


 昨日より部屋が暗くなるのを早く感じてカーテンの隙間から空を見上げる。お天道様の姿はどこへやら、上空は遥か彼方まで暗い雲に覆われていた。

 明日の交渉が上手くいくようにとも祈れなさそうな空模様だ。エアストが帰ってくるまでに降り始めなければいいけれど。

 そこはかとなく陰鬱な気分から逃れるように、また別の文庫本へと手を伸ばした。




 施工ミスで青塗りのビスが取り付けられた蛇口を捻り、中途半端に伸ばした黒髪を後ろへ流しながら浴室を後にする。洗濯機の上に畳んで置かれたタオルで顔を拭って鏡を見ると、驚くほどオールバックの似合わない中性的な顔立ちが映っていた。

 睫毛は長く、顔は小さく、昔からインドア過激派だったおかげか肌も男とは思えないほどに白い。これでも中学時代は部活で土色のように焼けたことがあるのだが、退部してから元の色に戻るまでそう時間はかからなかったあたり、肌の細胞も興味深い働きをするものだ。日焼けの段階で酷く真っ赤に腫れて痛むので、もう二度と試したくはないが。


 新品の下着を身につけ、柔軟剤の効いたワイシャツの袖に腕を通した。芳しいアロマの香りを身に纏いながらドライヤーの熱風を存分に吹かし、概ね乾いた辺りで冷風に切り替える。ドライヤーの冷風機能の役割について調べたことはないが、仕上げに必要だという聞き齧った知識だけで冷風を浴びながら手櫛で髪型を整えていく。

 最後に伸びた前髪が目にかからないよう軽く分けてから、改めて鏡に向かってみると、そこに写る少年の瞳は不安と憂鬱の色に染まってどんより曇っていた。


 中学時代のニキビ地獄の反省を活かして付け始めた化粧水も持ち歩いてはいないので、お肌への配慮もそこそこにしてネクタイを締め、一張羅のブレザーを羽織って目立つ埃を払う。今日の目標からして正装ではあるべきだろうが、事情が事情なので持ち合わせはこれしかない。学生の正装と言っても差し支えないだろうし、文句を付けられるようなものではないと思いたい。


 身嗜みも整ったところで肺の隅まで息を吸い、吐き切ると同時に両手で頬を叩く。さながら最終面接の待機室で呼び出しがかかった就活生の如く、緊張を鎮めるようにしばし瞑目した後、洗面所の電気を消して振り返った。


「準備はできたか?」

「……いつからいたのさ」


 鏡には写らなかった角度に、心なしか呆れ顔のエアストが壁を背にして腕を組みながら立っていた。

 それが彼女にとっての正装なのか、ここ数日と同様に黒を基調としたジャケットとプリーツスカートの上に膝下丈のロングコートを羽織っている。異性のファッションに疎い俺は時と場合に対して相応しいのか否かコメントすべきではないものの、とりあえずスタイルのいい彼女に似合っていることは確かだった。


「随分時間をかけるんだな」

「待たせたんなら悪かったよ」

「いや、問題ない。……けれど」


 視線をこちらに見据えたエアストは、そのまま一歩、二歩と詰め始めて気付けば二者の距離は人一人分。あれ、俺また何かやっちゃいました? と後ずさるのも許さない彼女の右手が捕らえたのは、俺の首元から垂れる紺色のネクタイだった。


「緊張しすぎだ。曲がってる」

「……えっと」


 身動きも取れぬまま、目線を何となく斜め上に逸らしていると、「これでよし」の一言で細い指先から解放される。

 時々距離感の掴みにくいエアストの口元が緩んだのを直視するのも気恥ずかしくて、わざとらしくブレザーを羽織り直して咳払いした。


「それじゃ、行こう」

「……ああ」


 踵を返して玄関へ向かう彼女に二つ返事でついていく。

 数日ぶりの外出にこれほど覚悟を要したことは未だかつてないだろう。去年の長期休暇なんて毎日部屋にこもってオンラインゲーム漬けになっていたものだが、それは学生が選択できる特権であって居場所のない無職の逃げ道ではないので、久方ぶりの外出の抵抗感が増すようなものではなかった。


 だのに、履き潰したスニーカーに伸ばす左足は、中学時代のソフトテニスの大会の時以上に震えている。

 敵の目的は不明瞭どころか何の手がかりもないままだ。運が悪ければ、今日この日が、俺が自由に出回れる最後の日になるかもしれない。それでも、エアストが俺のために掴んでくれた一本の藁を、俺の身勝手で手放すわけにはいかないのだ。くたびれた靴紐を入念にきつく結び直すと、すっくと立ち上がってドアノブに手をかけた。


 感動の再会を果たした外気はじめついていて、ちっとも気分を晴らしてはくれなかった。




 方向音痴とは、方向・方角に関する感覚の劣る人のことをいう。

 人間の身体はGPS機能のように絶対的な座標を感覚的に把握することなどできるはずもないので、通常、視界に映るランドマークを記憶して相対的に座標を推測する。見渡す限り一面が切り貼りされたかのような大自然の中であればその限りではないが、人工物の多い街中ならば建物や施設の形状だとかその用途、あるいは周囲のそれらとの紐付けによって、大方の居場所を記憶することが可能なのだ。


 ……一般的にはそう言われているものの、どうやら俺にはその空間認識能力が欠如しているらしい。

 例えばあるランドマークを記憶できたとして、それは当然別の方向からも同じ姿に映るわけではない。周囲との紐付けから推測しようとしても、視点が違うというだけで全く知らない道にも見えかねない。

 そんな人たちを救済すべく生まれたスマホのGPSを用いた地図アプリも、地図上の名称と目に映るものの紐付けすら満足に行えない地図音痴にとっては余計に混乱を招くだけだ。


 よって、九十度真横を向きさえすれば自宅が見えるような交差点でさえ迷ったことがある悲しき方向音痴の申し子こと米石和希は、エアストの玄関から出たその直後、真新しい世界を記憶に出迎えていた。


 この道を前回通った時は夜、つまり日も落ちていた頃だから、景色が違って見えるのも仕方がない。それに過日の精神状態にも余裕がなく、走ることで精一杯だったのだから、注視しなければ記憶に留まらないというのはよくあることだ。

 いつもの如く自分を正当化しながら、エアストの後に続いて住宅街を歩き、四車線の車道を横断して更に歩を進めることものの五分ほど。彼女が立ち止まって見上げた方へ振り向くと、一見して八部屋程度のアパートくらいの敷地を持った建物が建っていた。

 会館と聞いて真っ先に合唱コンクールや演奏会なんかで使われそうなコンサートホールを想像したが、とてもそれほど大規模なものには見えない。『あおぞら会館』と書かれたプレートを引っ提げているこの建物は、どちらかと言えば、土地の有力者の方々が集うこじんまりとした町内会館のような印象だ。


「……本当に近いな。特に変わった建物には見えないけど」

「あくまで貸切という話だから。普段は小中学生の習い事の教室に使われているらしい」

「そんな民間施設を、他人が簡単に貸し切れるものなのか?」

「一般の個人であれば難しいだろう。……それができるだけの相手だということだ」


 物憂そうに吐き捨てたエアストは、ガラス戸を押して中へ入る。それに続いて俺も、見知らぬ場所できょろきょろと挙動不審になりながらカーペットの敷かれた玄関へ足を踏み入れた。


 軽く見回してみても、人っ子一人いない雰囲気だ。協力者の貸切ともなれば不思議なことではないが、それにしても日の落ちる頃に人気がなく薄暗い公共施設にお邪魔するというのは、興味半分、不気味さ半分といった感じだった。

 その後も彼女に続いて角を曲がりながら奥へ進んでいくと、やがて突き当たりに辿り着く。そこには、他と一風を画した両開き戸が設えられていた。恐らくはこの先が会館の中でも最大の大広間――そして協力者との約束の場所だ。

 エアストがひとつ深呼吸をしてから、迷いのない瞳で厳かな扉をノックする。付き添いかのように突っ立っているだけの俺まで手に汗を握って待つと、ギイィ、という年季の入った音とともに内側から扉が開かれた。


 中から現れたのは、頭の天辺から爪先までを白と黒で統一した――新品のように皺ひとつなくスーツを着こなしている三十代くらいの男だった。

 背丈の高いその男は何の用かと俺たちを見下ろしていると思われるが、その双眸はこれまた黒いサングラスの奥に隠れていて窺い知れない。

 全身をビジネスマンらしく威圧的に固めた成人男性の前には、統一性のない服装の少年がひとりと少女がひとり。眉尻が困惑しているかのようにも見える彼が何か口を開きかけた時、エアストが彼を見上げながら先を取った。


「エアストだ」

「ということは、そちらが件の?」

「ああ」

「……どうぞ、中へ」


 両名が短く一言二言と交わした後、黒服は両開きの扉を前回にし、深くお辞儀をしながら大広間の中を指した。

 こいつの得体は知れないがこれが俗に言う顔パスというものなのだろうか、なんてくだらないことを考えながらエアストに続いて大広間へ入り、蛍光灯の眩しさに慣れないまま部屋の奥へ目線を投げかけた時――その景色の異様さに息を呑んだ。


 こちらから見て縦に長く連結された長机、一番向こう側に腰掛ける男がひとりと、その両脇にもふたり。振り返ってみれば、ドア番をしていた男は今、扉の右手前で待機しており、その反対側にもひとり凝然と立っていた。

 全員が黒のジャケットとスラックスで統一されている中、向こう側の壁の隅で腕を組んで佇んでいる、深緑色の長髪をポニーテールにまとめた同じくらいの歳の少女だけは、白基調の私服姿らしく浮いていたが――そもそもどうして少女がこの中に紛れ込んでいるのかはさておき――彼ら協力者が一般人でないことを悟るのに時間はいらなかった。


「早かったな。社会人は十分、十五分前行動がマナーとはよく言ったものだが、学生のうちから癖付けられるのは大変素晴らしいことだ」


 静まり返った大広間に、荘厳な声が響く。

 声の主は、唯一椅子に腰掛けている初老の男性――この中のボスと見て取れる人物だ。こちらの姿を確認するや否や、口元に笑みを浮かべながら椅子に大きくふんぞり返った。


「時間の無駄だ。本題に入らせていただきたい」

「約束の時間より早いのだ。焦ることはなかろう。ゆっくりお茶でもどうだ?」

「彼はお茶もコーヒーも苦手だ。遠慮する」

「……ほう。それはすまない」


 眉間に皺が寄り、サングラスの外された鋭い眼光の先がエアストから俺に移る。

 張り詰めた空気の中、胸騒ぎのしていた嫌な予感が真実であることを確信した。

 エアストがどういった人脈を持っていたのかはわからないし、知りたいとも思わない。しかし、今ご対面している男たちは、間違いなくヤのつくご職業か、そういった類の方々だと思われる。


 彼らは暴力を背景に収入を得ている組織として行政からは反社会的勢力と扱われているものの、その反面、地域貢献に手を尽くして住民から信用を得ている場合もあるらしい。そういったお得意様であれば――もしそうでなくとも組織としての力があるなら、小さな会館を貸し切ることくらいは朝飯前だろう。


 そして、彼らは暴力を武器にしつつも、任侠の心を持ち、仕事としてそれを用いている。百科事典より。

 また、俺たちの敵は目的こそわからないが、力づくでも俺を確保する気でいる。

 導き出されるエアストの狙いは。

 ――毒を以て毒を制す、といったところか。


「君が米石和希君かい?」

「は、はい」

「はは、そう畏まるな。君とはいい関係を築いていきたいと思っているんだ」

「はあ……」


 この推理が正しいとすれば、尚更下手な行動は取れないことになる。指定暴力団が徹頭徹尾信用できる相手だなんて、温室育ちの俺が断定できるはずがない。

 できる限り刺激せず、相手方の要望には寄り添い、事が済んだらすぐに関わりをなかったことにする。

 今後の方針について脳内で大雑把にまとめておきつつ、かえって不自然なほどに優しげな物言いの男には愛想笑いを返しておいた。


「では、お望み通り話に入ろうか。好きに座ってくれ。何か欲しければ持って来させるが……」

「気遣い無用だ。長居する気はない」

「お嬢ちゃんは相変わらず堅いねぇ」


 その場に立ったまま動かないエアストを見て男はまた小さく笑い、ジャケットの胸ポケットから見知らぬ銘柄の煙草の箱を取り出す。そして中から一本取り出すと同時に側近の黒服が近寄り、手にしていたライターで火をつけた。

 先端を赤く燻らせながら数秒かけて吸い込み、ゆっくりと白い煙が吐き出される。切れかかった心許ない蛍光灯に照らされながら立ち上っていくそれをぼんやり眺めるヤーさんは、気怠そうな所作で反対側の側近から灰皿を受け取った。


「まず自己紹介をしておこう。私は秦野、カタギにゃ説明しにくいが見ての通り親分みたいなもんだ。彼らはうちの組員だが、要望があれば遠慮せず何でも言ってやってくれ」


 二口目を吹かし、周りで静止しているかのように直立する黒服たちを顎で指し示す。

 耳にたこができるほど聞いた社交辞令の代表的フレーズではあるけれども、こと今回のケースほど微塵にも発問する気になれないのも珍しい。たとえ体育会系チームの陽キャだろうと、反社会的勢力の方々と馴れ馴れしく会話できる奴はいないだろう。


「我々は君たちに協力するつもりでいるが……君たちがまず知りたいのは、敵の情報だろう」

「ご存知なんですか」

「そりゃあもう、忌まわしき抗争相手って奴よ」


 秦野と名乗った男は苦虫を噛み潰したような顔で最後の煙を吐き切り、煙草の先を灰皿の底に擦り付ける。それから目の前に置かれた缶コーヒーの縁をなぞり、険しさを滲ませた眼差しで俺の目を見た。


「米石君。君にとって、正義とは何だと思う?」

「……はぁ……?」


 欲していた共通の敵の情報をこれから集中して聞こうという姿勢に切り替えていたせいで、思いがけない問いかけに対して気の抜けた声が出る。

 ひどく抽象的かつ夢想的な質問だ。真正面から受け止めるにしても、それについて考えたのなんか厨二病を患っていた三年ほど前が最後だろう。……意外と最近だった。


 漫画の中でしか見ないような台詞にどう答えるべきかしばし逡巡し、エアストの持っている文庫本に登場していた言葉を借りる。


「一般的には人としての正しさ、その実独善的で相容れない個々人が解釈する正しさ、ですかね。正義の反対はまた別の正義だとか言いますし」

「面白い考え方だ。合格点をあげよう」


 秦野はわざとらしく手を叩き、歯を見せて笑う。


「正義の反対はまた別の正義。その通り、あいつらは自らを正義と信じて行動するひとつの組織だ。そして、あいつらにとって絶対的な正義は法のもとにある」


 秦野の主張に混じり、外からしとしとと水滴がコンクリートを殴りつける音が聞こえ始める。

 コーヒーを飲み干して立ち上がった彼は、窓際に近づいて揺れる木々を眺め、億劫そうに続けた。


「一方、我々の目的は勿論組の勢力拡大ということもあるが、一番に望むのは経済の拡大、そして国民の平和だ。世間の鼻つまみ者とて好き好んで悪事を働いているわけじゃあない。自らを正義と信じて疑わない理不尽な連中に爪弾きにされた者を救うため、我々も存在しなければならないのだ」


 雨音は次第に強くなり、立て付けの悪い窓がカタカタと鳴く。

 緊迫したムードの静けさはとっくに消え去っていた。


「あいつらは我々の正義を真っ向から否定し、シマを食い荒らす害虫だ。法を盾に取る行動が必ずしも善であるとどうして証明できようか。あいつらの正義によって弱者の救いが断たれた時、一体誰が責任を取れるというのか」


 単刀直入に言って――彼の演説は綺麗事だ。

 個人が掲げた目標は、一見誰もが賛同し得る正論であったとしても、実現するためには同情を買った全員が提唱者の傀儡になる必要がある。

 そんなことができるのであれば政治家なんていらない。少なくとも、全国民がカルト的宗教団体でもない限りは。


 それでも彼の声音はどこまでも真剣だ。だからこそ、そのカリスマに憧れたアウトローは彼の背を見て学べるのであろう。夢想家と揶揄されようが、自分の正義を貫く覚悟を。


「そんな時、君は我々に助けを求めた。我々には君を救う義務があり、そして力を合わせれば、あいつらの不条理な独裁を止めることができる」


 一呼吸置いて振り向いた彼の瞳は、確かな希望に満ちている。

 そして、きっとこれまで何度もして来たように、今日も弱者に手を差し伸べるのだ。


「我々と共に――脅威に立ち向かおうじゃないか。米石和希君」


 これで後光でも差し込んでいれば教祖のようにも見えたかもしれないが、運悪く本降りを背景にしているせいでいまいち締まらない。

 けれども、差し伸べられた手を取らない選択肢はないのもまた事実。誘いに乗るか否かより気にかかるのは、彼の強調した『力を合わせる』という発言の方だった。


「ありがとうございます。正直、俺は自分を助けてもらうためにここに来たんで、できることならなんでもするつもりではいました。ただ……俺に求めるような特別な力はないと思いますけど」

「米石君はいてくれるだけでいい。あいつらの目標は君なのだろう。であれば、君がこちら側に付いているだけで、あいつらへの抑止力になる」

「人質、ってことですか」

「はは、そんな乱暴な扱いはせんよ。君の安全は保証しよう」


 ええ、本当にござるか……? と疑問を抱きつつも口に出しはしない。ヤーさんに舐めてかかってこんなところで野垂れ死にたくはないので。


 差し当たり、彼らに歯向かわない限りは俺の身に安全が訪れると安心していいのだろうか。

 もう、朝目が覚める度に憂鬱な思いをしなくていいのだろうか。


 重ね重ね申し上げるが、法のもとに動いているらしい謎の組織に追われようと、指定暴力団に助けを求めようと、俺自身は何の取り柄もない一般の男子高校生に過ぎない。今俺の目に映っている初老の男性が仮に法を犯していたとしても、俺目線では俺の身柄を狙っている奴らの方が絶対悪だ。

 正義の反対はまた別の正義。言い換えれば、始めから終わりまですべて正しい奴なんていやしない。数日前に出会った金髪の青年も、法に触れずに俺の身柄を拘束するなどできないはずなのだから。

 そうあることがこの世の摂理であるのならば――俺は選択を渋る必要はない。


 覚悟を決め、微笑む秦野の手を取ろうとした時――、


「今日の対談の代表者は和希じゃない。私だ」


 ――束の間の安寧に水を差すような、冷たい声が割り込んだ。


「私には、あなた方につくメリットがない。私が求めるのは、約束のだけだ」


 それは、この数日間で最も信頼を寄せている、俺をこの場まで導いてくれた力強い声。

 得体の知れない連中から俺を助け出し、守り抜くと誓ってくれたまっすぐな声。


 少女の声色に乗せられたたった数秒の言葉を処理できず、俺は思わず振り向いていた。


「おい、エアスト――」

「交渉の条件にあのを提示したのはそちらの方だ。契約を守っていただけないのであれば、私は向こう側につく選択だって取れる。私があなたから得た情報を持ち帰れば、そちらの勝算は限りなく低くなり得るが」

「……ほう」


 つらつらと続く冷静な声音から、話の趣旨が読み取れない。

 情報とは敵のことか。確かに、秦野の語った情報は極めて主観的で、具体的にどういった抗争相手なのかまでは聞かなかった。それ以上に正確な情報を、エアストは要求しているのか。


 彼女は、交渉に関しては自分に任せておけと言っていたが、こちらから手を引くように見せかけるなど初耳だ。もしこの発言が目論見を含んでいるならせめて前もって打ち合わせしておくべきではないか。


 そもそも。

 ――『あなた方につくメリットがない』とは、どういうことだ。


「勿論、事が片付いた暁には、お嬢ちゃんの望む情報を渡すと約束するよ。今は共通の悪を打ち倒すため、君たちとの協力関係を大切にしたい」

「私にはあなたに従うメリットがないと言っている。請け負った依頼は果たしただろう。それが件の情報との交換条件だったはずだ」

「私の依頼はまだ終わっていないさ。それに、ここで情報を知ったとしてどうするつもりだ。それこそ私に協力する理由がなくなるじゃないか」


 わからない。理解できない。

 謎の連中に狙われている俺は、日常に戻るために助かりたい。謎の連中を目の上のたんこぶ扱いしている秦野は、組織のために奴らを打ち勝ちたい。

 両者の利害関係は一致しているから、協力して邪魔者を排除しようという流れになるはずだったのに。

 ふたりは今、一体何を争っているのか。

 ――エアストの目的は、何なのか。


「まさか、連れてきた仲間を見捨てるとは言うまいな?」

「……それはあなたの回答次第だ」


 眉根を寄せ、低く重く厳粛に問われると、エアストは俯きがちに答えた。

 ほんの数分前までの、協力関係が生まれようとしていた温和な雰囲気はそこにはない。気圧されているのか、何か後ろめたいことでもあるのか、視線を合わせようとしないエアストに突き刺さる鋭い眼光が、冗談ではないことを裏付けていた。


「私は約束を守る男だ。出世してこの場に立てていることが何よりの証明と言える。それでも信用してもらえないのなら……交渉は平行線、即ち決裂する」


 窓の外が一瞬眩しく光ったかと思うと、数秒おいてから雷鳴が轟く。しばらく止みそうにない豪雨を背景に、秦野はジャケットの内ポケットに手を忍ばせた。

 煙草を取り出す時と何ら変わらない動作に、今になって既視感を覚える。

 蘇るのはつい先日、エアストの寝室での記憶。そして眼前に迫るのは、仕事のためなら法律の拘束力すら無視できる一組織の人間。


「正義の反対はまた別の正義。正義を貫くためには、時に悪を演じなければならないのが面倒だ」


 答え合わせなんて望んでいないのに、躊躇なくその右手は引き抜かれる。

 握られていたのは、彼の大きな手のせいで不格好にも見える一丁の回転式拳銃。

 いつの間にか四方八方から殺気と呼ぶべき未知の気配を感じ、長らく静止していた前方の黒服も各々指なり首なりを鳴らしている。

 最悪な結論であろうことくらいわかっていながら、恐怖で足は地面に縫い付けられてしまったかのように動かなかった。


「――誠意の見せ方も知らない小娘には、教育が必要だ」


 ドンッ――!!


 広間に一発の銃声が響く。

 それはあまりにも一瞬で、反応するには遅すぎた。

 まずは自分の身体をぺたぺたと触ってみるが、粘ついた液体の感触があるわけでもなければ痛みを感じるわけでもない。

 慌ててエアストの方を振り向くと、彼女の足元の床が小さく凹んでいた。


「……次は当てるぞ」

「…………」


 そのくすんだ瞳は、猛獣の如き鋭さでエアストを射ている。とても冗談を言っている様子でないことは自明だった。

 相対するエアストは、銃口を突きつけられているのにも拘わらず、身震いせず部屋中の殺気をその身ひとつに受けている。返事のない彼女を見かねてか、秦野は慈悲を与えるような眼差しで続けた。


「最後にもう一度問おう。本当に、協力するつもりはないんだな?」

「……今、件の情報を渡す気はないんだろう」

「繰り返し言わせるな。我々の目的のために貢献さえしてくれれば、報酬として差し出す準備はできているのだ」

「なら、こちらこそ何度も訊くな」


 顔を上げたエアストは、秦野を睨めつけながら前は出る。銃口に追われる歩みが止まった時、彼女は射線を遮るように、俺の前に立っていた。

 本当にやり合うつもりなのか。その後ろ姿から確かな覚悟を感じるが、身体能力の高い彼女でも無理がある。相手は拳銃で、両者の距離は五メートルと離れてはいない。しっかり足元を狙えるほどの腕があるなら、逃げることも躱すことも不可能だ。


 そんなこと、彼女だってわかりきっているはずなのに。


「――初めから、ヤクザと組むなど真っ平御免だ」


 それは怒りか、それとも諦めか。

 静かに、けれどもはっきりと告げられた一言に、秦野は眉を顰める。彼女を挟んでいてよく見えないが、銃口の先が少しずつ上がっていくのだけは視認できた。


 次の一発が放たれる時。それが俺たちの終わりだ。

 秦野は敵に対抗するために俺を欲していたようだが、こうなってしまった以上、五体満足で帰って来れる保証はない。どちらが撃たれたとしても結果は変わらない。変わるのは、せいぜい死ぬ順番くらいだ。


 だのに、何故エアストは、俺を庇うようにして立っている。

 既に決裂した交渉の最中、彼女が言っていることも、何を考えているのかも一切わからなかった。情報の話も気にかかるし、彼女が実は敵なのではないかと疑うほどだった。


 初めて出会った日、エアストは言った。『私が和希を守るから』と。

 もし、彼女が本当に俺を守り抜く決意をしていて、俺を逃がすつもりでそこにいるなら。


「……そうか。残念だが……」


 今、俺ができることは――、


「さよならだ」


 ――ドンッ――!!

 ――ダァ――ン……ッッ――!!


 ほぼ同時だった。

 空が瞬き、うねる閃光が地を揺るがす。

 その合図を待つまでもなく、既に足は宙に浮いていた。


 十六年余りの短い人生で、かつてこれほどまでに恐怖心を抱いたことはないだろう。けれども、この取るに足らない命でも、まだできることはある。


「エアスト――ッ!」

「……!?」


 タックルするような勢いで後ろから彼女の身体を抱え込み、そのまま床へ倒れ伏す。受身を考えていなかったせいで右肘を強く打ったが、人の命に比べれば何ということはない。


「和希……!?」

「逃げるぞ!!」


 状況を呑み込めていない様子のエアストの手首を掴み、強引に立たせると扉へ向かって走る。

 数瞬前の落雷でブレーカーが落ちたらしく、狭まりきった瞳孔を介する視界はあまりに暗すぎる。しかし、それは相手も同じはずだ。かつて同じように彼女に助けてもらった日のことが脳裏に過ぎる中、扉を肩で押すようにして飛び出た。


 後を追って響く銃声が二発。

 今にも重い扉が閉まろうとう時、手を引くエアストが支えを失ったように大きくよろけた。

 まさか。反射的に振り向くが、窓から差し込む月明かり程度ではその全貌まではわからない。しかし――微かに照らされている彼女の額には汗が滲んでいる。


「おい、無事か!?」

「……ッ、私のことはいいから、和希は早く――」

「そんなこと言ってる場合じゃないだろ! 相手は本気だぞ!?」


 一面が同一色の染料で塗装されているはずの廊下が、赤黒模様で歪に染まる。液状のように、ゆっくりと広がっていくそれは――、


「何をしている! 追え!」

「親父ィ! 身体が、動かなく……!」


 部屋の中から聞こえる大声を借りて嫌な胸騒ぎを抑え込み、肩で息をしているエアストに背を向けてしゃがみ込む。この行為に関しては様々な問題が生じかねないが、選択肢に悩んでいる余裕はない。目を見開いている彼女のために俺がしてやれることは、これくらいしか思いつかないのだから。


「……何のつもりだ」

「いいから! 早く!!」

「…………っ」


 首元に冷たい掌が触れる。こちらの掌には細く柔らかな感触が、そして背中には一定のリズムを刻む鼓動が。それらすべてを全身で確認すると、まっすぐ出口へ向かって駆け出した。

 かつてはこうやって姪――米石三兄弟長女の二人の娘をよく背負って走り回ったものだ。もう相当に昔の話だから、今その立場にいる少女は恐らく記憶の倍近くは重いはずだが、それでも大した妨げにはならなかった。それは彼女が平均体重より軽いからか、火事場の馬鹿力が働いているおかげか。


 叫び声があっただけで、黒服の追っ手が来る気配はなかった。外へ出ると大粒の雨が耳障りなほどに地を打ち付けていたが、傘を用意しているはずもないので、冷たい雫を全身で浴びながら水溜まりを飛び越えていく。

 幸い複雑な道筋ではなかったので、アパートまでの帰路を思い出すのは難しくはなかった。車通りもそれなりの横断歩道を駆けた時、停車している車両の運転手が俺たちを見てどう思うかなんて気にしている暇もない。段々と重くなってくる両脚に鞭打たせ、ただひたすらに来た道を戻ることだけを考えていた。


 数分とかからずにアパートへ到着し、エアストを降ろして鍵を開けてもらう。玄関に足を踏み入れるだけでも体勢を崩しかけたので、お互いびしょ濡れのまま肩を貸し、室内へ運び込んでベッドに腰掛けさせる。シーツは濡れてしまうが、それより大事なのは彼女の身体の方だった。


「とりあえずこれで拭いて」

「…………」


 物干し竿に掛かっていたバスタオルを適当に手に取り、エアストの頭に被せる。彼女は髪が長いので、乾かすのもまた手間が掛かりそうだとか考えた瞬間、視線は更に下へ奪われる。

 左脚の脹脛あたりから、雨と交わって色素を薄くした血が流れ出ている。自分が昔よく体験していた、スピードを出した自転車で転んで擦り剥いた時の様子なんかとは比較にならない。会館にいた頃から止まっていないのであれば、尚更馬鹿にならない量だった。


「……っ、そこの棚の下段に、救急箱、あるから……」

「あ、ああ」


 傷口を見ながら顔をしかめるエアストに応え、居間の棚から取り出した、十字マークの描かれた小さな箱を手渡した。


「救急車とか、呼んだ方が」

「出血はあるが掠り傷だ……大したことはない」

「まだ止まってないだろ。手伝うよ」

「……こういうのは、慣れているから」


 俺の手を力なく押しのけると、彼女は救急箱からガーゼやら包帯やらを取り出し、洗浄と止血を経てから手際よく処置を進めていく。保健室の先生でもない俺がいても足手まといだと確信できるほどに、あっという間にして彼女は手当を終え、救急箱の蓋を閉じた。

 ガーゼの上から包帯で固定され、痛々しい傷口はもう見えなくなっている。タオルで髪の水気を拭き取りながらそれを確認して、眼前の難を逃れたことに安堵した。


「訊かないのか」


 バスタオルを被ったままの彼女のか細い声が、長い沈黙を切り裂いた。

 聞き返すまでもなく、会館であった言い争い、そして彼女の選択のことを言っているのだろう。納得のいかない点はいくらでも挙げられるが、命からがら逃げ帰ってきた俺にそんな気力はない。ひとつため息をつくと、頭からタオルを下ろして首を振った。


「そりゃ、訊きたいことはあるよ。でも、今はそんな気分じゃないだろ」

「……すまなかった」


 視線を足元に落としたまま、消え入りそうな声で呟く。悲痛な面持ちをしている少女に返すべき言葉が見つからず、壁にもたれ掛かりながら黙り込む。

 もう過ぎたことだとか、誰にでも過ちはあるだとか、そんな気休めの言葉を投げかけてやれるのが所謂できる男なのかもしれない。でも、米石和希は本心でもないことを軽々しく言葉にできるほど口達者ではないし、きっと彼女もそれを望んではいない。雨に濡れた前髪に隠れる目元が、弁解するほどの気迫がないことを物語っていた。


「私は悪になりきれなかった」

「……やっぱ俺を売ろうとしてたのか」


 悪事を働いて叱られるのを待つ子供のように、エアストは縮こまりながら首肯する。


 ――正義を貫くためには、時に悪を演じなければならない。

 秦野の言葉を借りれば、彼女の正義の行動のためには、秦野と約束していた『情報』が必要で、それを交換条件として俺の身柄を差し出そうとしていたのだろう。

 雨で頭を冷やして考えて、今ようやく合点がいった。


 初めて出会ったその日から、彼女は不自然過ぎるほどに親切で、決して俺の要望を拒むことはなかった。度が過ぎるお人好しもいたものだと与えられるがままに甘えていたが、目的あっての行動だったと考えれば納得できる。それだけ、彼女の言う『情報』は価値のあるものなのだろう。

 問題は、その交換が平和的に行えなかったことで。


「協力する気は最初からなかった。警察の敵と手を組んで罪を被る度胸なんて、私にはない」

「その結果がこれだけど、どうするつもりだったんだよ。力づくで聞き出すには人数的に不利だろ」

「奴に揺さぶりをかけた通りだ。奴は和希を欲しがっている。和希を盾にしてでも日を改めて、奴らの敵側について好機を狙うのが最善だと思っていた」


 吐き出した方が楽だと言わんばかりに、エアストは計画していたであろう流れを連ねる。

 それは行き着くところ、諦めを意味していた。

 奴らの敵側こと、俺を狙っている金髪の青年たちの陣営。彼らの側につくプランは、再びエアストが俺を裏切らない限りは選べない。

 では、今から彼女にそれができようか。恩を着せるわけではないが、そんな自分を助けた相手を裏切るような真似ができるなら、今頃こんな結果にはなっていないはずだ。


 ああ、そうだ。

 エアストは確かに強い。

 彼女の助けがあって俺が無事でいられているのは事実だし、自らの命を危険に晒してまで俺を庇おうとする意志まで見せた。

 ――だけれど。


「……私には、和希を見捨てる覚悟はなかった」

「あんた、悪役向いてないよ」

「……私もそう思うよ」


『悪』を演じ切るにはあまりに弱すぎる。警察を敵に回すことも、人ひとり裏切ることもできないような、罪悪感に打ち勝てない人間だ。

 不自然過ぎるほど親切であったのも、それがエアストという人物の元来の性格。


 自虐的な笑みを浮かべる彼女は、正真正銘、度が過ぎるお人好しだった。


「協力者との交渉は決裂、そいつに賭けていたんで代替案はなし……また振り出しか。とはいえ第一歩に失敗しただけだから戻ってはいないのかな」

「……本当に、申し訳ない」

「もういいよ、匿ってくれてるんだからそれでプラマイゼロってことにしてくれ。今はそっちも被害者なんだし謝られても釈然としない」


 頭を下げられるものの、結果的にふたりとも生きて帰れたことだし、振り返る必要はない。第一、彼女がいなければゴールデンウィーク前の下校中の時点で俺の自由は終わっていたのだ。むしろ感謝してもしきれないというのに。


「俺も、迷惑かけて悪かった。邪魔者はそろそろお暇するか」


 これ以上、彼女に謝罪させまいと自分から話を切り出す。

 エアストの目的は変わらない。なら、彼女の目的の負担となっている俺さえいなければ、彼女はまた『情報』のために踏み出せる。その時は敵として出会うかもしれないけれど、俺に付き合わせるよりは気が楽になる気がした。


 しかし、エアストは予想とは異なる反応を示す。お互いが必ずしも得をする方法があるとは限らない。消去法で編み出した次善の策に対して、彼女は目を点にしたかと思うと、取り繕うように言った。


「敵がどこを監視しているかもわからないのに?」

「少なくとも、俺を売らない限りはエアストはそっちにつけないだろ」


 あの日のエアストは明かりの乏しい時間でフードを被っていたはずだから、相手にまだ顔が割れていない。協力を申し出ることはできるだろうが、俺との対立を避けられないのは確かだ。彼女にその決断ができないというのなら、俺が断ち切ってやればいい。

 したがって、彼女にも損はないことを言ったつもりなのに、不服そうに視線を彷徨わせるばかり。

 何にせよ、次の解決策が提案できる状態ではないが……荷物をまとめようと居間に向かいかけた時、決意の込められた声に呼び止められた。


「チャンスはなくなったわけじゃない。私が次の案を考える」

「……俺たちふたりとも目的を果たせる方法をか?」

「いや。和希が助からないと意味がない。『情報』なんて二の次だ」

「もし怪我の件で恩を感じているなら忘れてくれよ。俺さえいなければまず起こり得なかったことなんだ」


 俺の目の前でこそ弱音を吐くことはなかったが、彼女のプライベートを侵食していたのは紛れもない事実だ。俺が家に居座る限り、彼女の自由が奪われる。パーソナルスペースの広い俺が今の彼女の立場であれば、大して仲良くもない他人を助けるためと言って味方を演じ続けられる自信はない。

 それでも、エアストは引き下がらない。次にその口から出たのは、聞き覚えのある言葉だった。


「『私ができる限り尽くして守るから』」

「……それは」

「一度言ったことを嘘にしたくない。だから――今更言えた身分じゃないことは承知の上で、言わせて欲しい」


 迷いひとつない深紅の瞳で、訴えかけるように、切実に。


「私が絶対に守るから。――どうか、もう一度、私を信じて」


 エアストという少女は、どこまでもお人好しである上に、面倒なまでに諦めが悪いようだった。




 このボロアパートの借主が左脚に怪我を負ってから約二日。

 具合を聞いたところによると、掠り傷だったのは本当らしく、もう歩く分には支障ないとのことだった。銃を相手にたったこれだけの犠牲で帰って来れたのは不幸中の幸いと言ったところだ。

 あとは、タイミングよく明かりを奪ってくれた雷に感謝しておくとしよう。あの時、どうして足が動いたのかは自分でもわからないし、二度とああいった命のやり取りなど体験したくはないが。


 何故か秦野らは追って来なかったが、それからこちらの居場所が特定されたかのような気配もない。しかしながら、身を晒してはならない陣営が増えたのに加え、エアストまで狙われる身になってしまったのは悔やむべき点だ。

 あおぞら会館については、雷雨で銃声を誤魔化すまではさすがに無理があったらしく、あれから間もなく近隣住民による通報があった。だとしても相手が相手だ、到着される前に引き払っているか、あるいは警察とも上手くやっていたことだろう。まさかないとは思うが、このアパートの訪問客には警戒しなければならない。


 俺はと言えば、暇を趣味に費やすことも許されず、ゴールデンウィーク後半戦へと突入してしようとしている。

 そろそろ母親に疑いを持たれていてもおかしくはない頃だ。放任主義な家庭ではあったものの、ここまで愛する息子が家に帰って来なかったことは未だかつてない。事が解決するのが先か、嘘がバレて学校や警察に連絡がいくのが先か。やるべきことがありながら解決方法が定まらずに足踏みしているこの気の休まらなさは、自由課題を抱えたまま夏休み最終日を迎えたある日の苦い思い出を彷彿とさせた。


 あれだけの体験を経て平穏のありがたさを実感できる昼下がり、一昨日とは打って変わって主張の激しい太陽光をカーテンで遮るアパートの一室にて。

 ダイニングのローテーブルを前に座り、リュックの中に辛うじて残っていたプリントの裏にシャーペンを走らせる。いつまでもエアストに頼りっきりでいるのは男が廃るというものだ。自分にもできることはないかと、現在の状況を書き留めていた。


 まずゴールデンウィーク開始前日、俺は金髪の青年を中心とする謎の連中に襲われた。これを敵勢力Aとしよう。Aは俺を狙っているらしいが、そこにエアストが割って入り、俺を自宅に匿った。

 次に、ゴールデンウィーク三日目、秦野引率の指定暴力団が登場する。彼らはAと敵対しており、俺の身柄を以てAに対抗しようと交渉に至るものの決裂。その原因は、味方だと妄信していたエアストがかねてより秦野の持つ情報を得るために行動しており、その約束を反故にされたため。約束の対価は俺の身柄の受け渡しであり、元々彼女が俺を助けたのは自分の目的のためだった。その交換が失敗に終わったため、彼らは敵勢力Bとなり、俺とエアストはふたりとも、捕らわれればただでは済まないであろう標的となっている。


 AとBは対立関係にあるのに、一方の力を借りてもう一方から逃れることは叶わない。

 何とか生き延びたゴールデンウィーク五日目の今日、俺たちはまた力を貸してくれる勢力と出会う必要がある。秦野は、Aにとっての正義は法律だとか、そんなことを宣っていた。万が一バックに国家でもついているとしたら、最初にエアストが忠告していた通り警察に縋るのも悪手と言えよう。そうともなれば手の付けようがない大事にもなりかねないので、できればこの勘は当たらないでいてくれと祈りつつ、書き殴ったメモにさっと目を通した。


「……どうしたもんかな」


 線の汚い図解を眺めながら頭を抱える。

 指定暴力団に頼るというプランが既に、悩んだ末に捻り出した最終手段のような風格があったというのに、他にどんな解決策があるだろうか。灯台もと暗しと言われる通り身近な人物を適当に頭に浮かべてみるが、国家や暴力団と渡り合える知り合いなど、ごく普通の一般人たる俺にいないことは明々白々だ。


 成功したこともないペン回しをしようとしてシャーペンを床に落とし、拾おうとしてテーブル端の消しゴムまで落としてとやる気も削がれていく中、砂糖たっぷりのカフェオレを渇いた喉に流し込む。自分の作業が上手くいかない時ほど周りの様子が気になるもので、寝室を見やると、エアストが左脚の怪我のガーゼを交換し、包帯を巻き直していた。


「怪我の具合はどう?」

「心配には及ばないよ。この程度なら完治までそうはかからない」

「歩くだけでも痛むんだろ」

「気にしなければ済む話だ。歩行に支障の出る捻挫なんかより軽傷だろう」

「傷口見えちゃう方がメンタル的にな……」


 小学時代は身体を動かすのが好きな子供だったから、友達と遊び回って頻繁に捻挫をしてはサポーターの世話になっていた。歩きにくくなるのは確かだが、あのサポーターが格好よく見えていたのも小学生らしい思い出だ。

 対して、転んで擦り剥いた日は決まってわかりやすく落ち込んでいた。外側からひりひりと痛む感覚が苦手で、白い肌に真っ赤な傷ができるのは何より不快だった。何年も前に自転車で転んだ時に擦り剥いた左肘近くの傷痕は、今でも微かに残っている。


 立ち上がって出したものを片付けて歩くエアストは、怪我など負ってなかったかのように平然としていた。銃弾は回転しながら命中するため、掠っただけでも肉が抉られるだとか聞いたことがある。注視するのも憚られたので彼女の銃創が如何ほどかは覚えていないが、その様子を見るに運が良かったと考えるべきだろう。もしくは相当に無理をしているか、痛覚に異常があるかのどちらかだ。


 そしてまたいくらかした頃。

 昼食の消化が進んでいることもあってか微睡んでいると、突如として部屋のチャイムが鳴り響いた。


 はっと目を覚ましてエアストの方を見ると、狙っていたかのように目が合った。

 お互いに頷き合いながら意思疎通を図り、俺はエアストの寝室へ、エアストは玄関の方へと入れ違うようにして向かう。

 その一、アポなしの訪問者は総じて警戒すべきだ。その二、無力な俺は身を隠しておくのが無難だ。その三、ボロアパートにインターフォンなんて便利な設備はないので、ドアスコープから確認して居留守を使うかどうか決めるしかない。

 彼女とそうアイコンタクトを交わすと、俺は寝室奥のクローゼットの中へ隠れ、それを確認するとエアストは玄関へ向かうドアを開けた。


 クローゼットの中にもいればそれなりに音は減衰して聞こえるが、玄関との距離がそう離れているわけでもないため、聞き取れなくなるレベルには程遠い。

 玄関とダイニングを仕切るドアが閉じられた音からたっぷり十秒ほどおいて――ついに玄関のドアが開かれる音が聞こえた。

 それはつまり、招かれざる客ではなかったことを意味する。とはいえ、このタイミングで堂々とクローゼットから出ていいのはせいぜいストーカーくらいなので、俺は客がいなくなるまで大人しく待つことにした。


 よく耳を澄ましてみると、会話の内容まではわからないが、聞き覚えのない男の声がエアストと言葉を交わしていることだけは何となく察せた。

 男の正体に関しては重要ではないと判断する。エアストが許可したのだ、近隣住民か、今回の件に無関係な知り合いであるかのどちらかである線が濃厚と考えられる。


 話をするのに玄関のドアを挟んだままというのも気が引けたのだろう、一度ドアが閉まる音が聞こえ、遠くなった声が続く。やけに話し込んでいるが、宗教の勧誘でも来たのだろうか。俺だったら間違いなく居留守を使うが、人の良すぎるエアストなら無視できなさそうな印象がある。話を最後まで聞いた上で反論してすっぱり断りそうではあるものの。


 微かに耳に入ってくる環境音というものはどうにも心地よいもので、暗所ということもあってかまた意識が切れかかる。普段から明晰夢や白昼夢というものは見慣れているが、この度もまた夢と現実を行き来しているような感覚に呑まれていく。

 クローゼットの中が遠くまで広がっているように見えたり、それを夢と認識して現実に戻ろうとするとそれがまた夢だったり。そうして何分経っただろうか、夢の中の俺はある異変に気付く。


 ――急ぎ意識を現実に引き戻すと、誰の声も聞こえなくなっていた。


 違和感を覚え、クローゼットを開けて外に出る。

 玄関口まで出てみるが、先の客はおろかエアストの姿すら見当たらない。念のためトイレも確認しておくが当然の如く無人だ。


 大袈裟に言えば護衛役のようなエアストは、俺から目を離して外出する際はどこへ行くと必ず一言告げていた。俺ひとりは無力に等しいのだからすれ違いが起きないように、そしてもしものことがあれば合流できるように、という意図によるものだ。

 律儀なエアストが何も言わずに姿を消すのはあまりに不自然と言える。判断するのは早計かもしれないと、あり得るケースについて考察する。


 その一、単に忘れていた説。普段であればこれで片付けられるものの、来客に警戒してクローゼットに引っ込んでいる居候を果たして放っておくだろうか。一言くらいくれてもいいはずだ、今回限り可能性は薄いと見る。そも、財布とスマホすら忘れてどこへ行こうと言うのだろうか。


 その二、新たな協力者と打ち合わせに出た説。これに関しては俺の願望だ。しかし、信用できる協力者なら俺を連れて行ってもいいはずだし、同じくクローゼットに放置する理由がない。


 その三、俺の存在を悟らせないようにしている説。この場合は更にいくつか分岐して考えられるだろうが、あえて最悪のケースを想定してみる。


 まず、ドアスコープの視野角には限界がある。無害な一般人を装うか囮にでもしてドアを開けさせ、エアストと相見えるまでは難しくない。そうした場合、俺は靴を隠してまではしていなかったはずだから、エアストと俺が一緒にいるものと察している秦野の手先である可能性は極めて低い。暴力団の名を冠する彼らなら、強行してでも本来の標的である俺を連れ出そうとするはずだ。


 だが、金髪の青年らの勢力であると仮定すると、一昨日の外出が監視網に引っ掛かったとなればあり得ない話でもない。

 彼らはエアストを疑ったとしても、すぐには俺に辿り着けないだろう。ただし、エアストが事情聴取を拒否すれば猜疑心は生まれるだろうし、ガサ入れが入れば一発アウトだ。そうなると彼女は要求に応じて無関係であることを証明する必要がある。

 そして一番の懸念点だが……彼女はお人好しかつ悪を演じきれないほど素直すぎることが災いして嘘が下手だ。思い返せば秦野に問い詰められている時も、前日に交渉の予定について話している時も、不審な点はいくつかあった。いずれ俺の居場所は割れる上に、一度牙を剥いたフードの人物だと判明すれば、彼女もきっとただでは済まない。


 さて、最悪のケースへの対処方法は大きく分けてふたつ。

 ひとつめ、彼女が時間を稼いでいる間に姿をくらます。

 ふたつめ、どうせ見つかるならこちらから出向いて彼女と合流する。


 俺も他力本願を座右の銘にして生きてきたが、命懸けで着せられた恩を仇で返すような不心得者ではありたくない。

 取れる選択はふたつにひとつ、俺は先程までお邪魔していたクローゼットを開けた。


 ハンガーから下ろしたのは、黒一色のフード付きコート。知人止まりの女性の服を身につけるなど失礼極まりないが、不在の彼女には心の中で頭を下げつつそれを羽織る。空気中に漂う甘い香りからは少し息を止めることで気を逸らしつつ、フードを被って姿見の前に立った。

 女子の平均身長くらいの彼女が裾を余して愛着しているこのコートは、男子の平均身長を下回る俺が着ても窮屈には感じない。決して彼女に何か言いたいわけではないが、胸囲も丁度いいくらいだった。


 まだ確証もないというのに大胆な行動に出ようとしている自分に苦笑しながらも、財布とスマホだけポケットに突っ込み、玄関で履き潰したスニーカーの紐をきつく結び直す。

 もし杞憂であったのなら、無駄足になるだけで済む話だ。けれども、極力考えたくないことが起こっていたらと考えると何も手を打たないわけにはいかない。

 かつてエアストは悲観的に考えすぎないようにと俺に諭したが、悲観的に考えることが被害の軽減に繋がることも多い。今度こそ自分の意思で、一歩踏み出す必要があるのだ。


 ドアノブを回し、フードで視界を遮りながら明るさの差に目を慣らしていく。

 内ポケットの確かな重みを再確認しながら、俺は恩人のために初めて身を投げ打つ覚悟を決めた。




 外には出てみたものの、当然近くにエアストの姿は見当たらない。それもそのはず、彼女がここを去ってから短く見積っても十分は経っている。

 最悪のケースを想定までしていながら後を追う方法までは考えていなかった自分の浅はかさに失望していると、アパートの敷地の入口辺りに、歩道に散らばった砂利を掃いている高年の女性を見つけた。

 現場の聞き込み調査ほど手掛かりになるものはない。俺はその女性のもとへ向かい、気配を察して視線を受けると軽く会釈した。


「すみません、ここに住んでいる高校生くらいの女の子なんですけど、十分くらい前に見ませんでしたか?」

「女の子? ああ、あのいつも挨拶してくれる可愛らしい子ね。白衣の男の人といるのは見たけれど……お友達かい?」


 訊き方によっては不審者にもなり得るところだが、この女性は俺がエアストの家から現れたことに気付いているはず。人畜無害な友人のふりをして、適当に話を合わせることにする。

 不器用そうではあるものの、人のいいエアストがご近所さんと上手くやれているのは容易に想像がつく。しかし、気にかかった点はそちらではない。


「はい、そんな感じです。どこへ行ったかはわかりますか?」

「ふたりからは訊いてないの?」

「用事があって後で追いかけるからって先に行かせたのはいいんですが、場所を訊き損ねちゃいまして」


 この数日間に出会った人物の中に、外を白衣で出歩くような変人はいなかった。一般的に白衣というと、医療関係者や科学者の仕事着というイメージが強い。他、身近なところでは理系教師だろうか。うちの高校では、理科ではなく数学の担当教員が白衣を愛着していた。チョークは粉が舞う上に取れにくいものもあるから、服が汚れないようにするために羽織っているだとか聞いたことがある。

 それは仕事上避けられないことだから活用しているのであって、何もお洒落着として白衣を好んでいるわけじゃない。ましてやこの住宅街にまで目立つ白衣姿で現れる人間だ。感性は人それぞれであると批判を受ける覚悟で言わせてもらうが、それにしても只者だとは思えないのが率直な感想である。


「でも、お友達なら直接訊けばいいんじゃない。ほら、今若い子たちみんなしてるでしょ、『らいん』とかっていうやつ」


 そんなことを考えながらも作り笑いを浮かべて談笑を試みていると、真っ当な正論を返される。一歩間違えれば不審者だと勘違いされかねない見かけと話題の切り出し方をしていることを思い出し、一旦フードを脱いでから、ポケットからスマホを取り出す。俺はそれを、横の電源ボタンを押しながら顔の前で振って見せびらかした。


「……えーと、今スマホの充電切れちゃってて、急いでるから充電する時間もなくて。ほんと急いでるんで、どこ行ったか知りませんか」

「災難ねぇ。あの子たちは、そうねぇ……。確か、駅の方に行くとは聞こえちゃったけど。ところでボク可愛い顔してるじゃない、お名前は?」

「ありがとうございます! ではまた!」


 それだけ聞ければ十分だと告げるまでもなくその場から駆け出す。遠ざかる彼女の声を背にフードを深く被り直し、交差点を曲がったあたりでスマホの電源ボタンを長押しして起動した。嘘も方便だ、実のところ肝心な時に使えなくなってしまわないよう電源を落としておいただけで、充電は僅かながら残っている。

 俺は真っ先に地図アプリを起動し、最寄りの駅までの経路を表示した。自宅の周辺ですら迷いかねない俺が、他人の家から駅まで自力で歩けるはずがない。もしこのスマホがもう少し古く、バッテリーが劣化していたら、今日この時点でお手上げになっていたことだろう。


 駅までにかかったのは十分足らずといったくらいだった。ゆっくり歩いていれば十五分はかかりそうな距離だ。次の便までの待機時間を加味してまだエアストがいることを祈り、入口を潜った。

 当然、駅周辺に来た辺りから人通りは何倍にも増えているが、ここで陰キャ特有の人を避けて歩くスキルが遺憾なく発揮される。更に人混みに溶け込みやすい特性までが掛け合わせられ、向こうに気付かれるリスクまで低いと来ている。

 対する相手はあまりに目立ちやすい白衣姿と、絶好の尾行条件を引っ提げた俺は、バッテリー残量がとっくに一桁台を突破しているスマホの電子マネーで改札を抜け、今まさにホームを見渡そうとしたタイミングで、停車していた車両のドアが開かれた。


 ――いた。

 これ以上ないほどにわかりやすく、エアストが白衣の男に続いて乗り込んでいくのが見えた。ファミレスで待ち時間の暇潰し用に置いてある間違い探しも、これくらい見つけやすければと愚痴を垂れる。

 気を引き締め、急いで隣の車両へ詰め込まれていく人たちの後ろについた。相手の素性もわからないのだ、人の多い駅内で騒ぎを起こすなどあってはならない。ここは大人しく機会を窺おうと、デッキのドア横から隣の号車の車内を横目で見た。それなりに混んでこそいるが、日本の風物詩たる通勤ラッシュほどじゃない。ここからでも、ふたりが吊革に捕まっているのは無事確認できた。


 アナウンスとともに発車すると、景色が高速で流れ始める。俺は遠い目でそれを眺めるふりをしつつ、停車の度に入れ替わる乗客の中にエアストが紛れていないか注意を向ける。エアストというよりは、白衣の男の方が目印として優秀すぎることに感謝しなければならない。


 一駅目、乗ったまま通過。

 二駅目、降りる様子なし。

 三駅目、移動したのは他の乗客に押されたためでやはり降りることはない。


 数えるのも面倒になってきてしばらくした頃、停車してようやくあちらの動きに変化があった。俺も俺で人波を縫って外へ出るのに苦労しつつ、流れからはぐれて手頃な柱に隠れる。やや不審と見て取れなくもない行動だが、今見つかってしまえばせっかく気合いの入れた尾行も台無しだ。

 行くところまで追い詰めて、いざとなったらこいつで対抗する。自分に扱える自信や覚悟はないとしても、そうせざるを得ない時が来るかもしれないと身構えておいた方が気は楽なものである。この数日間で幾度となく予想だにしなかった選択肢に行き着いてしまっている事実に自嘲しながら、隣駅の案内に目をやった。


「船橋駅……?」


 千葉県船橋市。東京から三十分圏内と近く、都民、千葉県民どちらにとっても遊び場として人気のある、都市と自然が融合した町だ。

 有名なところでは自然の風景が楽しめるふなばしアンデルセン公園、超大型ショッピングモールのららぽーとなんかは聞いたことがある。あとは、かの有名な梨の妖精もこの町のマスコットキャラクターらしい。


 ……と、俺が持ち合わせている船橋市の知識はこれくらいだ。何しろ俺の出身は千葉じゃない。見知った町から一歩外へ踏み出せばスマホなしでは歩けない。何なら今の今まで乗っていたのがどの鉄道路線なのかもわかっていない。エアストを連れ帰ってナビゲートしてもらうこと前提の見切り発車だった。


 柱の陰から細心の注意を払ってこっそり覗いた先には、白衣の男の数歩後ろをエアストが追って歩いている。歩調こそゆったりしているものの、とても仲良く談笑しているような雰囲気ではない。

 怪しさ満点の二人をつける怪しさ満点のフード男が、近すぎず遠すぎずの適切な距離を距離感を心がけて次の陰に移動しようとした時――、


「ぎゃん!」

「――っ!?」


 突如、柱の死角から音も気配もなく飛び出してきた人影と接触する。こちらは肩をぶつけられた程度で大事ないが、相手はというと、口の開いたショルダーバッグの中身を盛大にぶちまけてしまっていた。


「す、すみません」

「ごめんなさい! 私急いでて、怪我とかありませんか!?」

「あ、いや、俺は別に……」


 交通ルールに喩えると前方不注意で俺に過失割合が傾くであろうところ、駅内で走っていたことに非を感じているのかその人物は早口でまくしたてるように言う。でも、それより目が向いてしまうのは地に散らばってしまった持ち物たちの方だった。

 が、当事者の俺が特別注目を浴びてしまうといたたまれなくなるのでありがたい。俺は急いで財布、ポケットティッシュ、絆創膏の箱、折り畳み傘、手鏡、メイク道具……? 等々その他諸々をショルダーバッグに詰め直して差し出した。勝手に女性のものを触るのは如何なのかと立ち上がってから気付きつつ。


「本当すみません、なんか壊れてたら弁償しますんで……」


 捻り出した言葉に謝る気はあるのかと自問しながら彼女の顔を見ると――、うちのエアストに負けずとも劣らない美少女がそこにいた。

 夜空を思わせる紺色のぱっつん前髪に分け目を付ける黄色のヘアピン、ゆるくウェーブのかけられた後ろ髪。活発さを醸し出す明るい茶色の瞳は、より丸くなってこちらを見つめていた。

 エアストが流行に左右されない正統派の美少女と呼べるのに対して、こちらは今時の女子高生らしい美少女といった印象だ。


「……どうかしました?」


 差し出したバッグを受け取ろうともせずに呆然としている少女に一声問いかけると、彼女は呼吸すら忘れていたかのようにはっとした後、奪い取るようにして肩にかけ直し、大袈裟にぺこりと一礼した。


「ありがとうございます! 失礼しますっ」

「あ、はい」


 慌ただしく走り去っていった少女を見送り、襟足を掻く。急いでいるところを邪魔してしまったのなら申し訳ない。心の中から届かぬ謝罪をしつつ、改めて前へ向き直った。


「……急ぐべきなのは俺もか」


 ちょうどこの瞬間に、離れた曲がり角の陰へ白衣が靡きながら消えていくのが目に入る。俺は改札を通過し、役目を終えて満足そうに充電切れを迎えたスマホをポケットにしまうと、通行人にぶつからないようできる限りの早歩きで後を追った。




「……ここか」


 目の前には、五階建ての古びたビルが聳え立っている。あれからしばらく歩き、駅周辺の賑わいからは離れた場所だ。それにしても、このビルは窓から明かりの漏れている場所が一部屋しかなく、剥げた壁の塗装や人気のない路地裏という立地も相まってなかなか不気味だった。

 今はゴールデンウィーク真っ只中なのだから、休業中で人がいないだけなのかもしれない。どちらにせよ、標的を部外者の邪魔なく追い詰められるのであれば好都合だ。見慣れない建物に入って失敗したつい最近の記憶の二の舞を演じることになるのではと怯えながら、慎重に正面入口のドアを押した。


 中に入るもやはり人影はない。監視カメラがある様子もない。会社が使用しているのなら何かしら警備体制があるものと考えていたが、予想に反して窓口すら閉止されていた。

 エレベーターを通り抜けて奥へ進むと曲がり角の先に階段があり、手前には辛うじてセキュリティに関する電子機器が設置されていた。カードを翳してオフィスのセキュリティシステムをON/OFFするタイプらしく、見たところによれば緑のランプが解除中、赤のランプが動作中だ。数分前に明かりがついたオフィスを示すであろう番号以外すべてのランプが赤く点灯しており、それらすべてに借用している会社名の表記がなかったのは不思議としか言いようがなかった。


 ……つまり、あの男はこの廃墟のようなビルを仲間内で占領し、この『研究室』とだけ書かれたふざけたオフィスに閉じこもっているということになる。一体どんな研究をしているのか、エアストをどう利用しようとしているのかはわからないが、どの道彼女を早く連れ出さなければならないことは言うまでもない。


 癖になってんだ、音を殺して歩くのってくらいには音を出さずに階段を昇ることには慣れている。中学の部活で、冬に毎日一階から三階までぐるっとランニングしていた時についた癖だ。

 抜き足差し足忍び足、向かい合うは四階の三番目の扉。いつか刑事ドラマで見たように扉の横の壁を背にして、コートの内ポケットに手を突っ込んだ。

 息を殺してしばし瞑目し、右手に握るそれをそっと引き抜く。最初に見たあの日に一度興味本位で調べたが、やはり特徴は一致する。


 世界的に有名な自動拳銃――ベレッタ92F。愛読しているラノベ以外にもありとあらゆる作品によく登場する、イタリア産の人気のハンドガンだ。

 何故エアストがこいつをコートのポケットの中に隠し持っていたのかはわからないし知りたくもない。それでも、利用できるものは利用すべきである。

 銃社会のアメリカだって、銃は人の命を守るためにある。なら、俺も恩人を救うために、それに従うまでだ。


 昔、映画で見たような構え方をイメージして、それから鉄扉のドアノブを回し――、


「――動くな」


 左脚に体重を乗せて押し開くと同時に、前方へ両手でベレッタを構える。

 オフィスの中心のテーブルを挟み込むようにソファがふたつ。奥にも何やら書類がタワーのように積まれた作業デスクが見えるが、注目すべきは下座のソファからこちらを振り返って見ている男だ。


 逆だった銀色のツンツン頭にキリッとつり目気味の淀んだ青い瞳、そして自己主張の強い太めの白縁眼鏡。二十代後半から三十代前半ほどに見える日本人離れした彫りの深い顔と、低いソファから床へ伸びる長い脚。秦野のような悪人顔でこそないが、科学者は無害そうな奴ほど黒い本性を隠しているものと相場が決まっているものだ。

 男は微動だにせず、言葉も発さずにこちらの手元を見つめている。なお、一般男子高校生の俺にこの引き金を引く勇気はない。


 要は駆け引きだ。俺が発砲する気のないことを勘づかれる前に、捕らわれの姫を攫って颯爽と去る。脳内でシミュレーションした通りに銃口の先を定めたまま、オフィス内に何歩か踏み込んだ時。

 この状況をひっくり返したのは、思いもよらない人物の声だった。


「和希、銃を下ろせ。それに銃弾は入っていない」


 そう言ったのは、上座に座って困り眉の攫われた姫ことエアストその人。弾倉を確認していないどころかスライドを引いてすらいなかったことを恥じつつも、俺は言われた通りべレッタを下げて目で説明を求める。

 男はエアストと俺とを交互に見ながら、対面に座るエアストに問うた。


「状況が飲み込めないんだが……エアスト、彼は君のボーイフレンドかい?」

「……友人だ。それについてはこれから話す」

「ああ、なるほど。大体読めたよ」


 彼は白衣を靡かせながら立ち上がってこちらへ見る。白人らしい長身故、若干俺が見下されてしまっているのに居心地の悪さを覚え、視線はシャツの襟元に固定した。


「エアストの言う通りだ、銃はしまっておくれ。君が彼女の味方であるというのなら、僕は君の敵じゃない」

「……あなたは何者なんですか」

「見ての通り、しがないただの科学者さ。『クリス』でも先生でも博士でも好きなように呼んでくれ。少年、君の名前は?」


 クリスと名乗る科学者は白縁眼鏡を人差し指でくいっと上げ、貼り付けたような笑みを浮かべた。

 ここまで不審者を演じてまで尾行してきた相手に敵じゃないと言い張られて、俺はどんな顔をすればいいすればいいのか。にわかに信じ難いことだが、エアストが何事もなく会話を済ませていたとのことなので、ひとまずはこの敵意を収めるべきかと判断した。


「……米石和希です」

「米石君か。わかった、よろしく頼むよ。さ、暑いコートは脱いで寛ぐといい」

「はあ……」


 付け足すかのようにクリスは握手を求めてきたが、どっと疲れの押し寄せてきた俺はそれどころではなく、横を通過して奥のエアストの前に立った。


「……エアスト。説明してくれ」

「黙って出たことについては心配をかけた。申し訳ない」

「その様子だと、僕のことは伝えてなかったようだね」

「これから話すが、和希は追われる身だ。敵がどこに情報網を張っているのかわからない今、下手に所在が知られるのはまずい。今日はお前が信頼に足るかを確かめに来たんだ」

「酷いなぁ。まるで僕のことを疑っているかのように」

「私は科学者を信用していない」


 エアストにきっと睨めつけられ、クリスはおお怖い怖いと大袈裟にリアクションしながら肩を竦める。敵ではないと言ったが、やはりと言うか何と言うか、エアストの振る舞いは友好的には見えなかった。その飄々とした態度は、誠実で真面目そのもののエアストとの相性を考えるとお世辞にも良いとは言えない。彼が何者であれ、恐らく彼女のあたりは変わらないだろう。


「……迷惑をかけた。本当に申し訳ない」


 俺の格好と行動から成し遂げようとしていたことを察したらしく、エアストは後ろめたそうに頭を下げた。


「いや、俺の方こそ余計なことをしたみたいでごめん。判断が甘すぎた。脅されてついて行っているものだとばかり」

「脅し? 私がそんなこと――」

「するような奴だろ、エアストは。自分ならともかく、俺の情報を天秤に掛けられればな」

「……返す言葉もない。次からは一報入れる」

「なるほど、なるほど。突然銃を向けられた時は何事かと思ったけど、僕が悪人だと思って助けに来たってわけか。エアスト、いい友人を持ったじゃないか。とても初めての友人とは思えない、最高だね」

「お前は黙っていろ。余計な口を利くな」


 互いの行き違いを消化して、クリスには冷たいエアストを横目にほっと胸を撫で下ろした。

 俺が警戒しながらつけてきた相手は、エアストが次の協力者の候補とした者だった。彼女はクリスと名乗る協力者候補を信用しておらず、一旦は俺の存在を伏せて交渉に出ることにした。

 しかし、疑問なのは彼の方からエアストの家を訪ねてきたことだが――、


「ま、そんなに警戒しなくても大丈夫さ。僕は彼女の保護者みたいなものだ。最近彼女が顔を見せに来ないから、何かあったのかとこっちから出向いたってわけ。君たちの関係に横入りするつもりもないよ」


 当の本人は掴みどころのない態度でそう語り、俺の横に座るエアストにまた睨みつけられている。どうやらふたりは前々からの知り合いらしく、信頼関係はともかくとして互いに敵視していないことは明らかだった。


 壁に掛けられた時計を見上げると、そろそろおやつ時だ。とりあえず当事者の俺を含めてメンバーが揃ったということで、エアストが予定していたであろう交渉を切り出そうとすると。


「エアスト。客人もいるのに何も差し出さずに話をするわけにはいかない。飲み物でも買ってきてくれないかい?」

「……そのくらい置いておけばいいものを」

「今朝の分でティーバッグを切らしてしまってね。ちょうどいい時間だから、ケーキを合わせてもいいだろう。代金は後で払うよ」

「……行ってくる」


 エアストは立ち上がり、財布の小銭を軽く確認してため息をついた。そして扉の前に立ち止まり、クリスではなくあくまで俺の方へ軽く会釈をしてから外へ出て行った。俺も会釈し返して彼女を見送り、初対面の科学者とふたり取り残される。

 エアストが俺のもとを離れたということは、警戒すべき相手ではないということは真実なのだろうが……いまいち信用しきれないのも確かだった。


「さて、ふたりきりになってしまったわけだが。今回集まった件に関してはエアストが話してくれるだろうから、別の話題を見つけなければいけないね」

「話題の切り出し方としては最悪ですね」

「それについてはどうか許して欲しい。知識を持つ者は多くのことを伝えようとするあまり、かえってコミュニケーションの方法を誤ることが多い。日本の老害と揶揄される高齢者の方々もそういったケースだ。それは僕も同じであると認めるわけではないけれど、否定するにも判断材料が不十分なのが悲しいところかな」

「そういうところだと思いますけどね」


 独りでに辛辣な言葉が口をついて出てしまい、俺ってそんなに他人に影響されやすいタイプだっただろうかという小さな疑問が生まれる。コミュニケーションが得意ではないとはいえ、初対面にしては不躾が過ぎたかとクリスの顔を見るが、彼はエアストを相手にしている時と同じようにわざとらしく笑うだけだった。


「冗談はさておきだ。少し昔話をしようじゃないか」

「唐突すぎませんかね。まずお互いの自己紹介から始まるものじゃないですか。昔話とか言われても俺たち初対面ですけど」

「いいから聞きたまえ。ためになる話だ。昔と言っても、ほんの数年前の話だけれどね」


 クリスは大振りに手を広げて俺の提案を遮る。背丈に負けず無駄に大きい態度を見せつけ、彼はそのまま話を続けた。


「イングランドに類い稀な才能を持つ遺伝学者がいた。彼は飛び級で大学へ入り、君くらいの歳で博士課程を修了するほどの鬼才だった。成人を迎えることすら待たずに数々の研究論文を発表し、一躍科学の世界に名を轟かせる有名人となった」


 彼の昔話とやらの第一の登場人物はいきなり名も知らぬ他人だ。初対面なのだから共通の知人という線はもとよりないにしても、話の始まり方からして強引すぎるのは言うまでもない。

 その科学者が今の俺たちとどんな関係があるのか。速やかに質問を投げかけようとした時、先手を打ったのは彼の方だった。


「時に米石君、君は『超能力』を信じるかい?」


 人差し指を立てて如何にも重要な話であるかのように問い掛けられるが、尚のこと前後の話の関連性が見い出せず困惑する。とうに真面目に話を聞き入れる気が失せていた俺は、記憶の中をそうそう日常で使わないその単語で検索して、適当に答えておくことにした。


「念力でスプーンを曲げるだとか、動物と会話するとかいうのはテレビで見たことありますけど、全部やらせだと思ってますね。超能力は異能バトル系の作品で十分です」

「その通りだ、テレビに取り上げられるのはやらせばかりだからね。それほどにもし現実に存在していればという夢を見せてくれる、超能力というロマンは架空の作品の題材にうってつけだ。君の認識は一般的に正しい」

「で、超能力とさっきの科学者にどう関係が?」

「焦るんじゃない、話は始まったばかりだよ。……信じられないことにだ。『超能力』っていうのは実在したのさ。それを、彼は証明した」


 彼は言葉に重みを持たせて言い、モデルのように長い脚を組んだ。

 超能力は科学で証明できないから超能力とされているのに、そんな嘘八百が通じるとでも思っているのか。それが最初に抱いた感想だ。研究室にこもりっぱなしで頭のネジが外れたんじゃないかと冷ややかな視線を送ろうが、彼は現実離れした話をやめようとはしない。


「彼はたちまち超能力の魅力に取り憑かれた。研究というものはどの分野においても共通して未知の探究だ。自らの探究心の赴くままに研究を続けてきた彼は、世間一般的に信じられていない超能力の存在を確信するや否や、それを人為的に発現させられないかという研究に舵を切ったんだ。馬鹿げた話だろう?」

「……まあ、本当だとするなら相当な馬鹿ですね。そもそも、どうやって実在するだなんて確信したんですか」

「彼の身内にいたのさ。彼がその人生で蓄えてきた膨大な知識を以てしても証明のしようがない、本物の超能力者が」


 政治家と科学者はすぐ嘘をつく。身を以て体験した俺は、呆れながらため息をついた。

 超能力が実在したらどうなるか。それはもうテレビにニュースに引っ張りだこだろうし、世界的に知れ渡っているはずだ。虚しいことに、そんな噂が流れてきた試しは微塵にもない。

 俺だって電気を操って攻撃したりだとか、特殊な右手で相手の超能力をかき消したりだとか、そういう妄想をしたことくらいはある。だがもしそんな能力が実在してしまうとなると……それこそ異能バトル小説みたいな世界になりかねないのではないか。できれば、そんな現実と妄想の区別がつかなくなる世界にはなって欲しくない。


「超能力の魅力は彼を狂わせた。世界中の科学者が慕っていた彼はもうそこにはいなかった。確かに憧れはするけど、超能力なんて所詮フィクションめいた存在なんだよ。一体どんな野望が彼を変えてしまったのかわからない。彼は、研究のためならどんな犠牲も厭わない――例えば幼い少女を被検体にすることすら躊躇わない、冷酷非道な人間へと変わり果ててしまったのさ」

「そんな前代未聞な研究が行われているんなら、どうしてどこのニュースにも載ってないんですか」

「まだ公にはなっていないからね。彼ほどの権力者であれば、情報統制なんて容易いことだ」


 なら、何故目の前にいる科学者がその話を。


「つまり、何が言いたいんですか。まさかとは思いますけど、盛大な前置きをした自己紹介ではないですよね」

「はは、それは面白い話だね」

「……あなたは何者なんですか」

「言っただろう。僕はただのしがない科学者さ」


 質問には答えず、肯定も否定もせず、ただただ彼は不敵に笑う。

 エアストが彼を苦手としている理由もこれで心底理解した。どうして俺に見知らぬ科学者の話を聞かせたのかも、その上で俺に何を求めているのかも、彼の考えていることは何ひとつ読めない。IQが高い人とは話が通じないとはよく言った通り、あまりに掴みどころがなさすぎるのだ。


 長い昔話とやらは完結したもののこれ以上返せる言葉はなく、思考を放棄して今の話に対する感想文でも書かされたら嫌だなとか小学生並みの感想を抱いていると――ガチャリ。


「……何の話をしている」


 扉が内側に開き、ひょっこりとエアストが首を出してきた。その右手には、小さなコンビニのレジ袋が提げられている。


「いやあ、科学というものは如何に素晴らしいものなのか、ちょびっとね」

「常人に通じる話じゃないだろうに。……和希も困惑してるだろう」

「反省するよ。次はもっとわかりやすい分野から行こう」

「和希にお前の話なんかを聞いている余裕はない。控えろ」

「そこまで言わなくていいじゃないか。勉強にはなる話だよ。それとも、米石君を取られるのがそんなに気に入らない?」

「いい加減口を慎め。無駄に発達した脳味噌でも一発貰わないとわからないのか?」


 エアストが空いた左手で握り拳を作って見せると、クリスは引き攣った笑いを見せながら両手を軽く上げた。

 それを降参と受け取った彼女は睨みを利かせながら彼の横を通り過ぎ、俺の座るソファの横へ来るとレジ袋の中身をテーブルに並べた。


「……これ、口に合えばいいけれど」


 差し出されたのは、割高で買う機会はないけれど食べると美味いコンビニのチョコレートケーキと、千葉県民のソウルドリンクことマッ缶のセット。この組み合わせを甘ったるいだとか諄いだとかほざく人はその生き様こそが甘い。まずはたった数日間で俺の味の好みを分析し、この黄金ペアという結論を見出したエアストに心からの拍手を。


「エアスト……あんた天才だよ」

「なら良かった。甘いものなら好きだと思ったから」

「エアスト、僕の分は?」

「お前はこれだ」


 クリスの前には、見向きもせず乱雑にナチュラルミネラルウォーターのペットボトルが置かれる。ここまで扱いが雑だと嫌がらせにお汁粉缶でも買ってくるんじゃないかとヒヤヒヤしていたが、彼女の中でも人付き合いとしての最低ラインは弁えているようだった。


 当の本人も最後にレジ袋から最後のマッ缶を取り出して俺の横に腰掛ける。それを開けて少し口に含むと、暴力的なまでの練乳の甘ったるさに慣れていなかったのかその姿勢のまま固まってしまった。

 マッ缶は原材料が加糖練乳、砂糖の次にやっとコーヒーが続くような悪魔の飲み物だ。ブラック党がコーヒーという名前につられて飲むと百パーセント後悔する。カフェオレでもここまでしないだろと文句を言いたくもなるほどのこいつは、俺たち甘党にとってはこの体を流れる血に等しい存在なのだ。

 そしてここにまたひとり、動き出したかと思えばそれを一気に喉に流し込むほどの、素質のある甘党が誕生することとなった。


「さて、三人揃ったところでいよいよ本題に参ろうか」


 扱いに慣れているのか天然水どころでは愚痴のひとつも零さないクリスが、腕を組みながら切り出した。それに続いて、俺とエアストの目つきも真剣なものに変わる。


「改めて、僕はクリス。このオフィスに寝泊まりしている科学者だ。とは言っても、今はそれといった研究もしていないから無職のようなものだけれどね。本人から聞いているかは知らないけど、エアストはちょっとわけありなもんで、仕方なく面倒を見たりもしている」

「わけありとは何だ」

「そのままの意味だよ。脚に銃創作って帰ってくるような娘が普通なわけないでしょ」

「……気付いていたのか」

「歩き方と姿勢を見ればわかる。これも初めてじゃないしね」


 確かに、暴力団と繋がりがあったり拳銃を隠し持っているような子が普通じゃないということには同意せざるを得ない。

 それはさておき、俺すら今クリスの口から出るまで忘れていたくらいには平気そうにしていたというのに、ジーンズに隠された傷を彼は物珍しくもなさそうに指摘して見せた。初めてじゃないだとか、そんなことが頻繁にあっても困りものどころの話ではないのに、特にその事実は気に留めずに彼は続けた。


「で、エアストはこんな僕を初めて頼ってくれたわけだけれど……きっと只事じゃないんだとは覚悟しておくよ」

「それは……そうだな」


 元はと言えば俺のせいなんだけど。話が始まった時点で既に機会を逃してはいたが、そう考えるとますます美味しそうなチョコレートケーキにフォークが伸びなくなる。


「和希は身柄を狙われている。しかも、敵勢力はひとつじゃない。片方は暴力団、もう片方は……わからない。わかっているのは、表沙汰にすべき相手ではないということだ。とにかく、安全な居場所と、敵への対抗手段が欲しい」

「で、僕ほどの名の知れたエリートともなれば、裏社会的なあれこれに助けを求めることもできるんじゃないかって?」

「……申し訳ない」


 脚を組み替え、顎に手を当てながら考える素振りを見せているのは、嘘か真か判断しかねる科学者の昔話を拾ってくるような男だ。世話を焼いているという話のエアストでさえ暴力団とコンタクトを取れたのだから、彼はもっと広い人脈を持っているに違いない。

 であれば何故最初から頼らなかったのかという疑問は残るが……何となく見えてきた性格以外にも、そうしたくない理由があったのだろう。一般人から足を踏み出したくない俺は、底知れない闇には深入りしないに尽きる。


「不可能ではないけれど、こちらの世界には変わり者が多い。簡単な問題でないのもまた事実……ただし、エアストの頼みとあれば断るわけにはいかないね」

「恩に着る」

「……ありがとうございます」


 予想以上にあっさりと了承されてしまい、マッ缶へ伸ばしかけていた手を引っ込めながら変わり者代表に頭を下げる。エアストも剣呑な表情を一旦解いて、大人しく一言の礼を述べた。


「その、追われているという話だが。君たちの拠点は安全なのかい?」

「ヤクザの方はわからないが、もう片方はかなりのやり手だ。和希の個人情報まで掴んでいるらしい。それだけの情報収集能力がある相手となると、見つかるのも時間の問題だと考えてる」

「となれば、まずは安全圏の確保から始めないといけないね。思い切って県外に逃げるのも手だが……米石君、君は学生かな?」

「そりゃまあ……普通に高校生やってますね」

「そうか。連休が終われば学業に響くだけでなく、休む理由を無理に捏造することで後で自分の首を絞めかねない。何より同居人に嘘を突き通そうものなら表沙汰になるのは避けられない上に、相手に情報を拾われるリスクまで生まれるわけだ。時間は限られてくるな……」


 彼が黙り込むと、秒針が時を刻む音と、カラスの縄張り争いの声だけが残る。

 つい数分前までのおちゃらけた態度からは打って変わり、妙に親身になってくれているようで、彼のことを何も知らずに強く当たっていたのが申し訳なくなる。


 ああ、わかっている。彼は俺たちとは違って、自分の力で生きている大人だ。それも科学者という一般人には想像できない世界に身を置くほど博学で、現実にエアストの保護者だとか言っていたから、他人の面倒を見る余裕まであるできた人間なのだ。

 彼を頼れば、助かる希望はある。そのためなら、学校を休む口実くらいいくらでも考えよう。母親には……下手に隠すよりは打ち明けて協力してもらう方が安全な気さえしている。


 俺は顔を上げると、もう一度彼の顔を見た。切れ長の目は、ふざけている時よりも真剣な表情の方がずっと似合っている。

 視線に気付いたクリスは、もう一唸りしてから白縁の眼鏡を外し、取り出した眼鏡拭きでレンズを拭き始める。こちら側ではエアストも彼の発言を噛み砕いた上で対策を考えてくれているらしいが、次に口を開くのは彼の方が早かった。


「ひとまず、隠れ場所を提供してくれないか知り合いを当たってみよう。いずれはこちらから反撃を仕掛ける必要があるだろうけれど、相手の素性が知れないのだから現段階では無謀だ。あるいは、相手が求めるものを交渉で持ちかけて平和的に解決させられるかだけれど……」

「暴力団の方で無理が生じるだろうな。あいつらはもう一方を倒すことを目標に掲げている。少なくともその敵を消せる何かが得られるまでは引き下がらない。消すものと考えるなら……まずそいつらとの交渉は成立しない」

「どうして複数勢力を敵に回しちゃったのさ。君が賢いことは誰より知っているつもりだ、どちらかについていれば漁夫の利を狙えたでしょ」

「……それは……」

「ま、まあ成り行きで色々あったんですよ」


 突如として返答に窮したエアストを庇うように、言葉に含みを持たせて誤魔化しに入る。そういえば、エアストが求めていた情報の話も聞き損ねていたが、クリスはそれを知っているのだろうか。いや、知っていればエアストはここで言い渋りはしないはずだ。後で、またふたりの時に訊けるよう覚えておくことにしよう。


「ま、事情は大まかには掴めたよ。ちょうど仕事もなくて暇だったところだし、できる限り手を尽くすと誓おう」

「本当にありがとうございます。あの、お礼とかは絶対いつかしますんで、払える範囲で」

「いいよいいよ、大体金なんて有り余ってる。もっと別のものがいいね。代わりと言っちゃなんだけど、そう、例えば研究対象として身体を差し出すとかはどう?」

「クリス。冗談でも言っていいことと悪いことがあると思うが」

「ごめんごめん。反省してるよ、もう言わない」


 本日何度目かのガンを飛ばされた彼はまた降参のポーズを取る。そしてミネラルウォーターのペットボトルを開けて一口飲むと、組まれた脚を解いて話の終わりを促した。


「動いてみないことには始まらない。あえてこっちが動いて、相手を誘き出すのもありかもしれないね。そのためにも、安全な場所の確保が先決だ」

「わかった。それに関してはお前に頼ることしかできないが……私も和希を助けたい。何か思いつくようなら是非共有して欲しい」

「勿論さ。久々に目標ができて腕が鳴るよ、僕は」


 本人の返答を待たずして、米石和希救出大作戦は進んでいく。

 自分の身に危機が迫っているとして、身を挺して救ってくれる友人がこれまでいただろうか。組織を相手取ったのは初めてだから比較対象にはならないかもしれないが、これほどにまで他人が頼もしく感じたのは生まれてこの方初めてだ。

 そうして第一歩はクリスに預けることに決まり、やっとマッ缶に手を伸ばそうかと思った――そのだった。


「そうですねー。もし逃げられたら、の話ですけど」


 瞬間、空気が凍った。

 嘲弄するのは若い女の声だ。

 部屋の中に、人の気配なんて感じなかった。エアストが帰ってきた時を除いて、扉が開かれることもなかったはずだ。

 一体いつの間に、誰が。


 もうひとつ、信じられないことに気が付いた。

 この件に関わっている人物の中に、エアスト以外の女性はいない。だから、今耳に飛び込んできた声の主は、正真正銘まだ出会っていない未知の人物のはずなのだ。

 そのはずなのに。


 ――俺は、この声を知っている。


「なんか見覚えのある顔だなって思ってついてきちゃいました。それに、ずっとそこの人を追いかけてて不審だったんですもん。そしたらもうドンピシャ。尾行はもっと上手くやるものですよ、米石和希さん」


 ドアを背にするエアストと同じか少し低いくらいの身の丈、綺麗に切り揃えられた前髪と肩まで伸ばした後ろ髪で成り立つ紺色のボブヘア。オフショルダーのブラウスに脚を大きく見せるショートデニムを身につけ、大きな茶色の瞳を鋭く光らせているその人物は。


「私は白峰しらみねしずか。あなたを捕まえに来ました」


 間違いない。彼女は――駅内にて、音もなく俺にぶつかってきた少女だ。

 だけど、どうして。脳の理解が全く追いつかない。


 一体いつからオフィス内にいたんだ。窓もブラインドも締め切った埃まみれのオフィスは、出入口の扉以外に侵入経路がない。それらが開けられようものならまず気付くはずだし、それにしても今の今まで存在感を殺し切れていたことの証明にはならない。


 加えて、白峰静と称する少女は何と言った? いや、訊き返すまでもない。

 捕まえに来た。その一言が表す事実は、つまるところ――、


「じゃあ、俺がいれば理解できるかな? 和希君」


 またひとり、闖入者の声が聞こえたのは扉に面する壁の端、何もない持て余された一角のスペース。壁に寄りかかるようにしてこちらを見ていたのは、


「あなたは……!」

「どうもどうも。数日じゃ忘れるわけないっすもんね」


 ああ、忘れもしない。俺が今この見知らぬ地の研究室にまで追い込まれることになったすべての元凶。

 あの夜、街灯に照らされながら嘲笑を浮かべていた金髪の男が、あの日と変わらない格好で立っていた。


「クリス、お前まさか……」

「悪い冗談はよしてくれ。……にしても、尾行か。よく見つけられたものだよ、都合が良すぎる」

「……来る時に偶然あいつに駅でぶつかられて。その時に顔を見られたらしい」

「はは、偶然にしちゃ運が悪すぎるな……」


 クリスは乾いた笑いを浮かべるが、その眼はちっとも笑ってはいない。エアストは秦野の時のようにまた欺かれたのかとクリスに視線を投げるが、彼の無実が確定すると、また一昨日のように進んで俺たちの前へ出た。

 そんな彼女を見て金髪の青年は白峰の横へ歩み寄る。出口は完全に塞がれた。助けを呼ぼうにもこのビル内には人がいない。仮に呼べたところで……こいつらの相手を穏便に済ませられるかはわからない。こちらの圧倒的不利を察してか、白峰は前に立つエアストに視線を向けながら微笑んだ。


「ターゲットを匿っている人物は私と同じくらいの身長、声から察するに女性。あの女の人が、兄さんが負けた黒フードの人で間違いないよね?」

「悪役演じて悦に浸ってたら隙を突かれたの。断じて負けたわけじゃない」

「敗者の言い訳はいいってば。私が相手するから、兄さんは手出さないでよ」

「手荒な真似はしないって選択肢は?」

「ないでしょ。だって、あっちがやる気なんだから」


 両者の視線がぶつかり合う。発言は大儀そうにしていながら、その表情は好戦的だ。

 けれども、その体躯は筋肉質だとか、喧嘩慣れしているような印象は毛ほどにも感じられない。服装だって今時の陽キャの女子高生が着ていそうな私服だ。その身なりで一体何をしでかすつもりなのか、白峰はゆっくり一歩、二歩とエアストの方へ歩み寄った。


「名前、訊いてもいいですか?」

「エアストだ」

「エアスト……? もしかして外国人の方?」

「……どうだっていいだろう。お前らの目的は何だ。何故和希を欲しがっている」

「お名前訊いただけなのに話が飛躍しすぎてません? もっと楽しくお喋りしましょうよ。どこからいらっしゃったんですかー?」

「ふざけている暇はない。答えろ」

「せっかちだなぁ。焦らなくたって、これからゆっくり――」


 刹那。


「――ッ!!」


 互いの距離は僅か二メートルほど。その距離から――白峰は、目にも止まらない速さで右ストレートを打ち込んだ。

 対するエアストは半身で躱し、瞬きもせず白峰の目だけを見つめている。

 俺とクリスは反射的に後退り、その様子を見守ることしかできない。喧嘩においては無力な俺たちのために立ちはだからざるを得ないエアストは、白峰の細い右手首をそっと掴みながら吐き捨てるように言った。


「訊くだけ無駄か」

「わかってるじゃないですか。なら、全力で抵抗してみてくださいよッ!」


 言い終わるや否や、手首は掴まれたまま白峰は左脚で高く蹴りを放つ。エアストが両腕をクロスさせて防ぐと、次は自由になった手で空手家の如く体重の乗った拳を繰り出し、合気道のように背後へ受け流されるのをわかっていたかのように、勢いを殺さず後ろ回し蹴りへと繋いだ。

 数日ぶりに目にしたエアストの戦闘は、日曜日の朝に放送されている戦隊モノの役者かというほどに無駄な動きがなく、見とれてしまうほどに華麗だった。

 そんな彼女に、互角に渡り合うどころか押しているようにすら見える少女が目の前にいる。

 防がれた右手を引くより早く左手を突き出し、半身の体重移動を活かして肘撃ちと回し蹴りを同時に放ち、顎を狙いながらバック転を切って距離を取ったかと思えば、低姿勢で足元を狙って飛び掛かる。

 この広いとは言えない一室で、攻撃の隙を与えずに跳ね回る白峰に対して、エアストは防戦一方だ。同じくらいの年頃の女子だから、もしかしたら躊躇っているだけなのかもしれないが、この猛攻を避けながら一体どこに反撃できる余裕があろうか。


「やるじゃないですか。ボディガードとしては最適ですね」


 まるで型にはまらない新しい格闘技の試合でも見せられているかのような。白峰は床を蹴るようにして数歩分下がり、呼吸ひとつ乱さずにくすりと笑った。すべての攻撃を捌ききったエアストの方は、 何も言わずに睨み続けるだけだ。

 片や戦いの楽しさについて同意を求めるように。片や明確な敵意を含んだ視線を突き刺すように。

 求めていたものとは異なる反応を受け取った白峰は、気怠そうにやれやれと肩を竦めた。


「……ちょっと、顔が怖いんですけど。試しに笑ってみてくれません? せっかく可愛いんですし」

「黙れ。くだらない話をしている暇があったら続けてみろ」

「……あーもう、仕方ないな」


 エアストは俺たちを逃がそうとこうして時間を稼いでくれている可能性もあるけれど、出口は白峰に塞がれている。先程の攻防で何度か白峰の拘束を試みていたが、それもすべて躱され反撃のもとになっていた。

 俺もクリスも、きっと喧嘩の腕においては彼女らの足元にも届かない。今はタイマンで済んでいるものの、もし増援でも来られたら尚更のこと袋の鼠だ。

 冷や汗を流す俺の方をちらりと見ると、白峰は嘲笑うかのように言った。


「じゃあ、こういうのはどうでしょう?」


 その右手には、どこから取り出したのか、一丁の拳銃が握られている。

 黒光りする物騒な造形を見たのはもう三度目になる。正面に立つエアストを通り過ぎ、その銃口が向けられたのは――彼女らの標的である、俺の方だった。


「ごめんなさい、ちょっと痛いかもですけど、我慢してください」

「なっ――!」


 口答えする間もなく、引き金は引かれ――パァン!

 オフィスの中に高い銃声が鳴り響き、俺は反射的に胸元を押さえた。


「いっ……!」

「和希……!?」


 エアストが振り向き、焦りの表情を浮かべている。

 嘘だろ。普通の高校生にしか見えない少女が、そんなに容易く人に向かって引き金を引けるものか。俺に覚悟がなかっただけで、彼女たちの世界ではそれが普通なのか。

 ヒリつく痛みに耐えながら――俺は違和感を覚えた。


 素人が胸を撃たれようものなら激痛に耐えられるはずがない。待つこと数秒で撃たれた胸元からはほとんど痛みが引いていた。ショックで痛覚がおかしくなってしまったのかと疑ったが、恐る恐る離した手には何の液体もついていなかった。

 そもそも、撃たれた瞬間を思い返してみるけど、実銃にしては音が甲高く、衝撃も軽すぎる。サプレッサーがあってもこんなにチンケな音にはならないはずだ。

 疑惑の視線を上げた先には――床に、玩具用の小さなBB弾が跳ねて転がっていた。


「何……!?」


 理解が追いつかない。今の今まで素人の介入できない喧嘩を繰り広げていたのに、あいつはどうして唐突にふざけたことを。

 そして、顔を上げてみて、やっと気付く。


 そこに立っていたはずの白峰静は、姿を消していた。


「どこへ逃げた……!?」


 俺もエアストもクリスも、全員がオフィス内を見回してみるが、どこかに隠れたような様子はないし、隠れられるような場所があるわけでもない。窓もブラインドも閉まったままで、扉が開いた音だってしなかった。天井裏か? それはない、点検口は人が全身丸ごと乗り込んでいい場所じゃない。

 日光の射し込まない埃塗れのオフィスはより一層静まり返り、だんだんと自分がここにいることすら自信がなくなっていくような、不可思議な感覚に呑まれていく。


 ――現実感の喪失。あるべきものに対する知覚の欠如。

 あたかも五感を奪われてしまったかのような虚無の空間に。


「ここですよぉ」


 はっきり明瞭に響く声がひとつ。

 そこにいるはずのない声が――いや、違う。

 間違いなく彼女はそこにいた。。幻術にでもかけられたかのように、俺たちが気付けなかっただけで。


 正面を向いていたのなら目に入らないはずがない、そんなことはわかりきっている。なのに、そうとしか形容できなかった。

 認識できた時にはもう遅い。背後から迫り来る歳相応の体躯は、油断し切ったエアストの背を蹴り抜く。彼女は受身を取るように作業デスクに手をついて宙を舞い、書類でできたタワーを崩しながらデスク裏の壁に激突した。

 小さな文字がびっしりとプリントされた紙がひらひらと舞う。飛び交う数百枚とありそうなそれらを頭から被るエアストは、埃の中で咳き込みながら立ち上がった。その様子を見て、白峰はわざとらしく驚いて見せる。


「見事ですね。でも、次は受身も取らせませんよ」

「……お前、何をした」

「種明かしですか? やだなぁ、今教えたら、次引っ掛かってくれなくなるじゃないですか」


 心底楽しそうに笑いながら、彼女は両手を組んで軽く伸びをする。余裕の色を存分に滲ませた表情で、エアストの視線を撥ね退けながら。


「超能力、って信じてます?」


 たっぷり数秒おいてから、彼女は問う。

 突拍子もない奇問に聞こえるそれは、俺がこのオフィスに来た小一時間前、隣で呆然としている科学者にされた質問と同じだった。

 ――まさか。胡散臭くてもひとりの科学者が仰々しく語っていた話だ、小さな可能性として、ひょっとすると、もしかしたら、奇跡が起こるとすれば程度に留めていたものが、本当だったとするならば。


「通常の人間にはできないことを実現できる、科学的には合理的に証明できない不思議な能力。信じられないかもですが、たまに生まれながら超能力に目覚めてしまう人がいるらしいんですよね」

「……何……?」

「と言っても、派手なものばかりじゃないです。例えば私は――気配を消す能力。より正確に言うと、他人の五感に干渉して、自分の存在を察知させなくする能力ってところですかね。一度気を逸らす必要がある上に見破られることもありますし、接触されれば一発で気付かれちゃいますけど。便利な超能力ってわかりやすく穴があるんですよねぇ」


 エアストでさえ現実からかけ離れた発言に対して返答できずにいる中……俺はやっと納得がいった。

 今さっき俺たち全員は、玩具の拳銃に気を取られてしまったことで白峰の姿を見失った。その時、彼女が塞いでいた出入口の扉が目に入らなくなっていることにさえ注意が向いていなかった。たまに見破られるというのは、そういった他の人や物との関係性から見出せたのかもしれない。

 そして、駅での出来事。彼女は、。俺の不注意だったと言えばそれまでだが、人の声も靴音も反響し放題のあの場所で、近づく音にすら気付けないことがあるだろうか。

 何より、俺と白峰がぶつかって彼女の持ち物が散らばった時、。見て見ぬふりをしながら奇異の視線を浴びせるのが得意な日本人が、だ。それは即ち――比喩でも何でもなく、彼女が気配を消し去っていたからだと結論付けるだけで腑に落ちた。


 彼女が人差し指でくるくると回している玩具の拳銃で、また気を逸らされてしまえば即座に能力が発動する。そうでなくても、彼女から視線を逸らすというだけで、思わぬ方向から反撃を受けかねない。

 ……何が超能力者だ。ただのインチキじゃないか。異能なのだからもっと炎を出すとか水を操るとか、見た目通り飛び抜けて非現実的な攻撃を想像していたが、現実は小説ほど浪漫を映し出してくれないのだと思い知った。


 この前に読んだ小説の内容を思い出す。あの時の展開についていけなかった読者が、程度は違うとはいえ現実で異能に遭遇してついていけるはずがない。異能なんてフィクションだ、そんな言葉こそ今となっては戯言に過ぎないのだ。

 この状況下で勝つためにはどうすればいい。ラノベであればここでエアストも超能力に目覚めて激熱展開と来たところだが、現実にそれを求めようなどどだい無理な話だ。


 あり得ないはずの現象を目の当たりにしてしまい、唖然とするほかなかった俺たちに対して勝ち誇った笑みを浮かべていた白峰は――次第に表情を曇らせていった。

 彼女の視線を追ってみて、その意味を理解する。デスク横から進み出たエアストは――重心が、不自然に右に寄っている。

 

「……怪我してるんですか?」

「……っ」


 核心を突く不機嫌そうな一言に、エアストは少しだけ顔を歪ませる。まだ塞がりきっていないのに、無理に動きすぎたのだろう。あれだけアクロバティックな攻防を続けていれば、予想できたことだ。それでも構わないといった様子で、エアストは再び俺たちの前に立ちはだかった。


「今できた傷じゃないですよね。怪我人相手に闘ってもアンフェアじゃないですか。先に言ってくださいよーそういうの」

「……情けのつもりか?」

「違いますー。……いや、違わないかもですけど。私は純粋に全力であなたを倒してみたいだけで、弱いものいじめをしたいわけじゃないんですよ」


 やる気が削がれたと言わんばかりに、白峰はため息をついて首を振る。

 何がしたいのか全く真意が読み取れない。俺を確保したいなら、さっさと邪魔なエアストを倒して強引に攫えばいいのに、彼女はそれをしようとしないどころか戦意喪失するとまできた。

 それは俺の確保を諦めたということか。いや、せっかく追い詰めておいて美味しいところを見逃すなんて馬鹿のやることだ。なら、他にもやりようがあると言っているのか。


 ――待て。何かを忘れている気がする。

 エアストと互角以上に闘えて、彼女を引き止められるだけの力を持つ少女がいる。

 エアストの相手はそいつに預けて、隙を狙って本命を狙うことは難しくない。


 ――白峰静は囮。ならば、本命を狙うのは。


「ま、そういうこと」


 もはや忘れかけていた声が聞こえたのは、背後から。

 カシャン、という音とともに、金属でできた輪の中で背中側に回された両手首が拘束される。


「静が使えるんだから兄の俺も使えんのよ。マジで気付かなかったでしょ?」


 それが手錠だと気付いて振り返ると、金髪の青年が人の良さそうな笑みを浮かべてこちらを見ていた。

 声も出ず、当然両手が使えなければ殴り掛かることもできない。隣では、狙いではないクリスも同じように手錠を掛けられていた。ますます彼らの目的がわからなくなる最中――青年は俺の耳元に口を近づけて、


「大人しく言うことを聞いて。和希君の家族や友人に、迷惑かけたくないでしょ?」

「……何、を……」

「俺たちの情報収集能力は君もよくわかってるはずだ。だから、抵抗はしないでくれると助かるよ」


 言うまでもない。これは、脅迫だ。

 それだけ告げて青年はまた下がると、整った顔でにこにこ笑顔を浮かべる。俺たちから引き離そうとしてかエアストが飛びかかろうとするが、後ろから殴り掛かった白峰の拳を交わすようにしてまたそちらへ向かい直る。それをよしとして白峰は拳を引っ込め、青年の方を見た。


「ってか目的は和希君の確保であって、その子を倒すことじゃないんだけどさ。そこのところ覚えてる?」

「だからやめたんでしょ。兄さんの準備が終わったと思って」

「いや、俺はずっと待機してたんだけど。さっきの言い草だと、その子が怪我してなかったらずっと闘り合ってたんじゃないの?」

「……まあ、ちょっとやりすぎたのは認める」


 白峰は頬をふくらませて、不機嫌そうに床を蹴る。その様子だけを見るといかにも普通の少女らしく、つい数分前まで激闘を繰り広げていた張本人だとは思えないのが腹立たしい。


「さて、じゃあ和希君と……関係者だから、君と、あとハカセにもついてきてもらおうか」

「僕の頭が不出来なようで恐縮だけれど、状況が飲み込めない。君たちは何者なんだ。何が目的で米石君を追っていたんだい?」

「着いたらわかりますよ。ハカセ、特にあなたならね。いいから黙ってついてきてください」

「待て、何のつもりだ! 和希を離――」

「エアスト。ごめん、今はじっとしていてくれ……頼むから」

「な……」


 俺の諦めきった表情を察してか、エアストは愕然としていた。それも仕方ない、出会った時から今までずっと俺のことを救おうとしてくれていて、やっと助かる道が見い出せたところで窮地に追い込まれ、傷を隠してまで庇っていたその本人から諦めの言葉を告げられたのだ。

 俺のために身を擲つ覚悟までしてくれていた彼女にとってそれは、裏切りにも等しい行為と言える。でも、今はこうする以外の方法が思いつかない。彼女には悪いけれど、更に無関係の家族や友人たちを巻き込むわけにもいかないから。それは、また後で話させて欲しい。


「じゃ、行こうか」


 白峰がエアストの手首に手錠を掛けたのを確認して、青年はオフィスの扉を開ける。俺たちは為す術もなく彼に続き、エレベーターで一階に降りると、外には黒塗りの車が停まっていた。車種には疎いので何と言うのかはわからないが……お子様を持つご家族がよく乗り回しているイメージの強い、六人乗りのタイプだ。娘を二人持っている姉も、似たような車に乗っていた。

 運転席には、何となく見覚えがあるような気がすると思えば、確か始まりの日に青年の取り巻きの中にいたようないなかったような、スーツの男が座っている。青年は彼と少し話をした後、黒い布帯のようなものを持ち出して俺たちのもとへ戻ってきた。


「これからちょっと言えないところに行くんでね。着くまでの間、目隠ししててもらうよ」

「人目につかないやばいところってことですか」

「ま、そうね。そう長くかからないから我慢してくれな。何なら寝ててもいいから」


 青年は意地悪く冗談めかして言うが、そう呑気でいられる場合じゃないと突っ込む元気もなく、俺はため息で返事をした。


 まずエアストが白峰に目隠しを付けられて、ふたり一緒に中部座席へ乗り込んでいく。次にクリスと俺が同じように帯を巻かれた上で後部座席に押し込まれた。最後に助手席のドアを閉める音を響かせたのが青年だろう。広さにも座り心地にも文句はなかったが、これから向かう場所だけが気がかりだった。

 目隠しを付けられる寸前のエアストの目配せだが……彼女は、まだ諦めていない。きっとまた隙を見て俺を助け出すつもりでいる。しかし、今まさに敵の懐に飛び込もうというのに、そのチャンスがそう訪れるものとは到底思えない。


 誰の力も借りられなかった。

 俺たちは敗北した。

 今日、俺はどうなってしまうのだろう。

 不安に心が支配されそうになる中、俺の苦労を知る由もないエンジンは唸り声を上げ、旅の終わりの方向へと発進していった。




 あれからどれだけ経過しただろうか。

 時計を見ることもできず、聴覚に頼りっきりな状況下では、時間感覚すら曖昧だ。

 ただ、かえってその分気付いたこともある。今乗っているこの車以外のエンジン音が、何ひとつ聞こえなくなっていた。

 ――目的地に近づいている。言われはしなくとも、それだけは直感的に理解できた。


 やがて――これはシャッター音だろうか。金属が擦れ合うような音が響き、一度停止した車体が再び動き出す。その後はそれまであったはずのあらゆる環境音が止み、エンジンの音だけが反響していた。

 トンネルか、それとも立体駐車場のような建築物の中なのか。視覚を奪われてしまってはそれすら見当がつかないが、俺の判断に構うことなく車は走り続ける。

 それから間もなくして車体はバックで駐車し、俺たちは手を引かれて車の外へと出た。


「ちょっと歩くけど、足元に気を付けてね」


 見えもしないのにどう気を付けろというのか、なんて喉から出かかった愚痴を押さえ込み、先導する声と靴音の方へ向かって歩き出す。視覚が奪われると聴覚が研ぎ澄まされるというのは本当で、彼に続くこと自体は難しくはなかった。

 両手を縛られている都合上、躓いてしまえば幼稚園児のような怪我の仕方をしかねないことに警戒するも、地面はずっと平坦なコンクリートが続いていた。


 これはエレベーターだろうか。言われるがままに歩みを止めると、声も響かなくなったところで何とも言えない閉塞感を覚え、間もなくして僅かな振動とともに身体が宙へ引っ張られていくような妙な浮遊感に襲われた。

 それが止まると、そっと背中を押されて再び歩き始める。さっきと明らかに違うのは、地面を踏みしめる感覚、そして靴音の広がり方だ。離れていても聞こえるような反響は止み、コツ、コツと乾いた音だけが鳴る。青年の手で何度も進む方向を補正されてはいたものの、ここでわざとらしく少し脇に逸れてみると、滑らかな素材の壁にぶつかった。紛れもなく、屋内へ入った証拠だった。


「はい、ストップ。この辺で目隠し外してもらおうか。静、その子の方よろしく」


 何分か歩き続けたところで青年の号令だ。俺たちは一斉に歩きを止め、目隠しの布が外されるのを待つ。そんな中、俺の耳に届いたのは、エアストが息を飲む音だった。


 布の擦れる音から察するに、きっと俺が最後。この邪魔な拘束を取り払い、眩しい視覚を取り戻した先にあったのは――、




「ようこそ、皆さん。対テロリスト国際連合『Atlantisアトランティス』、日本東京第三支部へ」




 高い天井に吊るされる昼光色のシャンデリア、床に隙間なく敷き詰められるのは赤を基調としたカーペット。

 ホテルのフロントのようにしか見えない煌びやかな空間で、青年はわざとらしく深くお辞儀をして俺たちを迎え入れるのだった。




 誘拐とは、犯罪である。

 勿論、その事実に関しては言うまでもなく、誘拐罪に該当すれば誘拐犯には懲役が言い渡される。

 ニュースではよく幼い少女が被害者として報道されているが、稀なケースと言えなくもない俺の場合とて対処は変わらない。親告罪ではあるものの、俺は未成年なのだから、法定代理人にあたる親が告訴することはできる。叶うことなら、あの極悪非道な青年らをさっさとしょっぴいて欲しかった。


 千葉県在住の高校生、米石和希は誘拐された。

 理由は不明。身代金目的なら労力を費やしてわざわざ俺ひとりを付け狙う意味がわからない。第一、あれだけの情報収集能力があるなら、誘拐に頼らずとももっと上等なやり方があるだろうに。


 冗談はさておき。問題はかの金髪の青年の発言だ。

 ――対テロリスト国際連合『Atlantis』。

 どこを取っても理解に苦しむ単語の連なりに、俺は首を捻るほかない。

 後に続いた『東京第三支部』なら辛うじてわからないこともない。この得体の知れない施設は東京に居を構えていて、今俺が捕らえられている場所以外にも複数が点在する。

 だが……対テロリスト、とはどういうことだろうか。


 アトランティスとは――俺が持っている知識はほとんどゲームで得たものだが、ギリシャ神話に関する大陸の名前だ。

 別称、『失われた大陸』。あくまで伝説に過ぎないものの、遥か昔に海中に没したから実在するだとかしないだとか、近年まで数々の論争が起きている題材でもある。

 そのアトランティスになぞらえてか、この施設は相当な地下にある。目隠ししながら案内された際、エレベーターで降下していく感覚があったし、この部屋に外を眺望できる窓はひとつもない。そして――恐らく、そうやって案内する必要があるほどには、一般人の寄り付かない、機密の場所だ。


 俺は今、拘束をすべて外され、それなりに値の張るホテルの一室にしか見えない部屋に放り込まれている。所謂、軟禁状態だ。

 ふかふかのダブルベッドに腰掛けながら、部屋の中を見回してみる。

 壁際に設置されたデスク、小型冷蔵庫、丸テーブル、大画面のテレビとマッサージチェア。窓はない代わりに、間接照明が部屋の中を心地よく照らしている。入口近くの方を見ればクローゼットとトイレ、そして浴室まで別に設けられている。ドアはオートロック式で、部屋の電気もキーホルダーを挿してつけるタイプだ。これをホテルと呼ばずして何と呼ぼうか。


 状況さえ忘れてしまえば数日だけとは言わず暮らしていけそうな部屋だ。閉塞感が気になってしまう人にはおすすめできないが、引きこもりの性質の強い俺にとっては十分すぎる物件と言える。問題は、この部屋を寄越してきた相手が誘拐犯だということだけで。


 デスクの上のコンセント周辺にはご親切にLightningケーブルが置いてあったので、勝手にお借りしてスマホを充電させてもらっている。一旦復活した時点で試してみたところ、どうやら施設内ではモバイルデータ通信が使えないらしい。機密性の高い施設なのだ、意図的に遮断されているに違いない。こうなってしまっては文明の利器も無用の長物だった。


 さて、今の俺にできることは適当にチャンネルを切り替えてテレビ番組を漁ることだけである。部屋の外へ出ること自体は咎められていないものの、廊下へ出たところで施設の出口はわからないし監視もあるだろうから脱出という選択肢は絶望的だ。

 敵に捕まらないために練ろうとしていた策も捕まってしまえば無意味なもので、抵抗手段は残っていない。これだけの窮地に立たされていながら、思考は酷く落ち着いている。もう踏ん切りが付いているのかもしれない。覚悟と呼ぶには杜撰すぎる、将来性のない感情が心を埋め尽くしていた。


 スマホの時刻を見ると、まだ夕刻だ。中途半端な時間に俺好みの番組は放送されておらず、消去法でクイズ番組を選んでリモコンを置いた。

 俺と一緒に捕らえられたあの少女なら解けるだろうが――素養の足りない俺には少々問題がハイレベルで、画面に映る回答者と一緒に視線を左上に彷徨わせていると、ピンポーン、とチャイムの電子音。

 立ち上がってドアを開けると、俺を魔の手から必死に救い出そうとあの手この手を尽くしてくれた結果、一緒に捕えられることになってしまった少女・エアストが、オフィスに置き去りにしたものと思い込んでいたチョコレートケーキとマックスコーヒーの缶を持って立っていた。


「……それは」

「組織の人間が取ってきてくれたらしい。食べ物を腐らせるべきではないという常識はあいつらにもあったということだ」

「そりゃありがたいね。……入る?」

「……ああ」


 立ち話もなんだし、というか囚われの身になったとはいえ体裁上何か話しておくべきかとエアストを中へ招き入れる。今朝まで彼女の家に入り浸っていたので、逆に彼女を入れるというのは不思議な感覚だった。


「クリス博士は?」

「チャイムに出なかった。たまたま離席中か、あるいは奴らについて行ったか、だが」

「トイレも部屋の中にあるのにわざわざ外に出る理由はないよな。……何事もなければいいけど」


 自称エアストの保護者であり、俺たちの手助けをしてくれようとしたものの、タイミングが悪くただ巻き込まれるだけの形になってしまった哀れな科学者・クリス。相談事をするなら是非彼も交えたかったが、不在なのであれば仕方がない。エアストが備え付けの小型冷蔵庫にケーキとマッ缶を入れに行くのを見送りながら、せめて彼が無事であることを祈った。


「見ての通り窓もなく、部屋から直接外へ出ることは不可能。地下だからいくつも出口があるとは考えにくい上、フロントまで出たとしてもセキュリティを突破できる手段はない。どう脱出するかより、どう奴らに上手く付き合うかを考えるべきか。そうして隙が生まれる可能性は低いけれど……」


 エアストは困難さの増した問題に直面していながらも、まだ助かることを諦めてはいない。一人分のスペースを空けてベッドに腰を沈み込ませ、軽く伸びをしてから額を押さえた。


「今のところは何しても無駄だと思うよ。監視カメラなんかそこら中にあるし、この会話が盗聴されている可能性だってある。作戦立てたって全部筒抜けだ」

「なら、説得しよう。対テロリスト国際連合……どういった組織なのかは名前程度にしかわからないが、きっと百パーセントの悪じゃない。話のわかる奴が中にいるはずだ」

「……無駄なんだよ」


 できる限り優しく諭すように、ゆっくり息を吐くように。

 俺は静かに笑いながら、仰向けにベッドに倒れ込んだ。


「それだけでかい組織なら上層部の命令で動いてるんだろうし、情に訴えかけたところで何も変わらない。というかまだ悲惨な目に遭うものだと決まったわけじゃないんだから、少しくらい楽観視させてくれ」


 それが本音だった。

 思い返せばこの数日間、色々なことがあった。

 始まりは友人と行ったカラオケの帰り。

 所属も目的も明かさない連中に拉致されかけたところをエアストに助けられ、彼女の家に匿われることになった。

 奴らを振り切るための手段を出来損ないの頭で考えられるだけ考え、特に思いつかないまま数日を過ごし、エアストに頼りきって暴力団に持ちかけた交渉は白紙に、何とか生還したかと思えば彼女が連絡もなしに消え、救出に向かえば相手は味方、今度こそ助かると思ったその時に奴らの手に落ちることになった。


 物事を悲観的に考えることは昔から慣れている。そうした方が失敗のリスクは未然に防げるし、言い訳を用意しておけば仮に失敗したとしても精神的ダメージを軽減できるからだ。

 それにしても、もう色々と考え疲れた。どちらかといえば、どう解決するかを考えるより、どうメンタルを保つかを考えていたことの方が多かったかもしれない。

 策を練らない限り助からないことくらいわかっている。でも、今はそれ以上に休息が欲しかった。他のことはどうだっていい。用事が終われば帰してくれるだろう、そんないい加減で根拠のない願望に逃れて、思考を放棄することを俺は選んだ。


 エアストが黙り込んでしまうと、クイズ番組の司会者の問題を読み上げる声だけが残る。

 ああ、この程度なら俺の頭でもわかる。初めて見たのは確か、授業前の暇潰しに古典の教科書をぺらぺらと捲っていた時。ひとつの災難を逃れても、また別の災難に襲われるたとえの故事成語は、前門の虎、後門の狼だ。今の俺を皮肉っているようで何とも気分が悪い。回答者より早く答えられてしまったことに満足することもなく、狼の胃の中で抵抗する気力も残っていない俺は、目を閉じて温かな光を遮った。


「……ごめん、俺は何もできてないのに」


 掌の熱で目を休めながら、謝罪する。

 嘆きたいのは、巻き込まれたエアストの方だろうに。

 彼女の顔を直視するのが怖かった。彼女はこれほどまで尽くしてくれているというのに、俺は自分の面倒すら見ることすらできない。挙句の果てに投げ出したくなる始末だ、行き場のない罪悪感に苛まれながら、実家暮らしの無職もこんな気持ちなんだろうかと誤魔化すようにため息をついた。


 お互い、口を利くことなく、数分が経過した。退屈なクイズ番組もいよいよ終盤で、誰が優勝するかだの一発逆転なるかだのと騒ぎ立てている。

 冷静になってみれば、ホテルの客室にしか見えない部屋のベッドの上に年頃の男女が一組というのも精神衛生上よろしくないシチュエーションだが、もう思春期ではないのでそれ以上に考えることはしない。

 もういっそ眠ってしまおうかと思考を停止させかけた時、少女の優しげな声が沈黙を破った。


「少し、昔話をしてもいい?」

「……何、クリス博士の真似?」

「あいつは……確かに口癖のようなものだけど。これは他の誰でもない、私自身の話」


 それは、クリスと同じ切り出し方だった。

 一度として自分語りをして来なかった彼女が昔話だなんて、どういった風の吹き回しだろう。真意は掴めないまま、俺は無言を答えに続きを促した。


「私は自覚がないんだけど、どうやら白峰静たちのような超能力の適性があるらしくて。昔、とある科学者に目を付けられた私は、超能力開発の研究の被検体に選ばれた。あの頃の私は信憑性の低いオカルトに関心があったんだろうか、どうして了承したのか覚えていない。超能力の適性なんて、どうやって調べたのかも想像がつかないのに」


 語り口で紡がれたのは、ほんの数時間前にクリスから聞いた話と一致していた。超能力に魅入られた狂気的な科学者と、被検体の少女の昔話。

 思わず息を呑みながら彼女の方へ目を向ける。エアストは、ふかふかの手触りを確かめるように掛け布団を撫でながら、過去を懐かしむように続ける。


「被検体の仕事も楽じゃなかった。超能力開発の過程で禁忌と言われる人間のクローン技術にも平気で手を出すような奴だった、そんな奴の研究に付き合って無事でいられるはずがない」

「……超能力とクローンにどういう関係があるんだよ」

「和希が思っている以上に、超能力という存在に酷く取り憑かれた奴でね。開発が上手くいった素体を複製できるか、なんて課題もあったんだろう。どこを目指していたのかはあいつにしかわからない」

「超能力者を自分の手で増やそうってか。ロマンではあるけど、現実でやろうだなんてさすがは科学者だな」


 人権もへったくれもない話だ。

 知っての通り、日本では人間へのクローン技術は法律で禁じられているし、世界的にも禁止する枠組みが存在している。全く同じ能力を持つ人間がふたり存在するというのは一方では便利かもしれないが、便利に感じるということは我々のいいように利用するということであり、クローンに人間としての尊厳を認めていないのに等しい。

 倫理的に問題があるのは勿論、行き過ぎれば奴隷制度の復活にも繋がりかねない。高い能力を持つ人間を思いのままに生み出せるというのはそういうことだ。その地獄を超能力者で生み出そうとしているのであれば――科学者とは言えどもたちが悪いことこの上ない。


 アニメやラノベの世界におけるキャラクター設定としては優秀な属性であるものの、現実で許されるべき行為ではない。

 それに関連して彼女の呼び名をふと思い返し――俺は少し戸惑いながら問う。


「こういうのを訊くのも気が引けるけど、エアスト――一番目というのも、それに関係していたりする?」

「いいや。私はそっちには無関係だ。正真正銘オリジナルだよ。あいつが本格的に手を出し始めたのは、私より後の世代だと聞いている」

「後の世代……?」


 愚問を力なく笑い飛ばしたエアストは、朧気な眼差しでクイズ番組のエンディングを眺めている。どこか物寂しそうな彼女を見ていられなくて、俺は上半身を起こしながら聞き返した。


「最終的に、私の超能力開発は失敗に終わった。奴は粘ったけど、他にいい被検体が見つかるや否や躊躇なく私を見捨てた……乗り換えたんだ。それ以降の研究は私もよく知らない。当時理解できたことはただひとつ……超能力者になることも許されなかった私は、数年の自由を奴に奪われただけだったということだ」


 コマーシャルに入ったタイミングでリモコンを手に取ってテレビの電源を切る。それだけでふたりの会話以外の音が何もなくなって、静寂が訪れる。

 間接照明に照らされて温かく燃えるような瞳は、そこではないどこか遠くを見つめているようで。


「あの科学者を許すつもりはない。復讐……というのは言い方が悪いが、これ以上犠牲者を増やさないためにも、あいつの研究を止める必要がある。だから、裏で繋がりのある――あいつの『情報』を持っているヤクザ連中とだって、コンタクトを取った」


 やがて決意を示すかのように、エアストは俺の方へ向き直って告げる。


「私は絶対にあの科学者を突き止める。そのために、まずはここから抜け出す。和希も助ける。私の我儘で、私の勝手だけど、ここで諦めるつもりはないから」


 据わった瞳に迷いはない。この一言で、俺は彼女に何を言おうが無駄だと悟った。

 俺の意思に関係なく、彼女は俺を助けようとする。

 俺が自ら動くことを諦めていても、彼女は強引に俺を動かそうとするだろう。

 好きにしてくれ、と小さく呟いた。そこまで言うなら、彼女の言う通りにするだけだ。上手く行けば感謝するし、裏目に出れば彼女のせいにするだけ。そう考えると、多少気が楽になった。誰かに責任を押し付けるというのは、メンタル回復の常套手段なのだから。


「でも、いきなりどうしてこんな話を?」

「この状況で私だけ事情を話さないのも不平等だろう。和希になら、わざわざ隠す必要もないだろうし」

「別に平等とか不平等とか俺は気にしないけど」

「……私の行く末を見守っていて欲しいんだ。私を知る、唯一の友人として」

「……保証はできないな」

「構わないよ。所詮は自己満足に過ぎないから。でも……和希と出会えたことに、私は感謝してる。今はそれだけでいい」

「……何だよ、今から死にに行くみたいに」


 エアストはおもむろに立ち上がると、ドアの方へ向かって歩き始めた。

 この短時間で彼女のことを多く知ることになった。

 超能力の適性があること。それ故にクリスの話していた科学者に目を付けられたこと。何年も被検体として自由を奪われていたこと。暗い過去を抱えていても、諸悪の根源に報いを受けさせるべく強く生きていること。


 平凡な俺なんかと比べればよっぽど凄惨な生き様をしているのに、俺の前で一度として挫折する様子は見せなかった。一番報われたいのは自分だっただろうに、俺のことばかりを考えてくれていた。

 そんな身なりで身勝手な恩を売られてばかりいるのは懲り懲りだ。ドアを開けて振り返るエアストに対して、俺は不敵に笑って見せた。


「じゃあ、また後で。私なりに、どうにか考えてみるから」

「ああ。頼りにしてるよ」

「……勿論」


 結局、作戦なんて何ひとつ決まっちゃいない。つまるところ行き当たりばったり、出たとこ勝負だ。

 俺とエアストにとってはある意味それが合っているのかもしれない。消去法と言われてしまえばそれまでだけれども。

 ドアから手を離し、踵を返してホテルで一度はやってみたいベッドダイブを試みようとした時――、


「和希」


 振り返ってみると、手慣れたセールスマンの如くドアの隙間に爪先を挿し込んでいるエアストの姿。何か忘れ物かとまた彼女の方へ戻ると、


「……鍵、部屋に忘れてきた」


 オートロックなる防犯機能に牙を剥かれた彼女は、心なしか頬を朱に染めながらぼやいた。

 俺たちの意味を為さない作戦タイムは、もう少し続くようだった。




「……クリス博士か?」


 眩しすぎず目に優しい昼光色の灯った、対テロリスト組織を自称しているらしい施設の一室に、チャイムの音が鳴り響く。

 ご丁寧に俺たちひとりひとりに個室が割り当てられていながらオートロックの部屋の中に鍵を忘れたことで俺の部屋で寛いでいたエアストも、姿勢を正してドアの方を向いている。


 どうやら施設内では通信が制限されているらしく、せっかく充電できたスマホもそのほとんどの機能が意味を失っていたが、辛うじてオフラインでも使用できるアプリなら起動できる。そうしてエアストに大して面白くもないゲームを触らせたり、過去に購入、ダウンロードしておいた電子書籍版のラノベを読んでもらったりしてしばらく過ごした頃、予期せぬ来客が訪れた。


 クリスは俺たちが軟禁状態になってからまだ顔を合わせていない。どこで油を売っていたのかはともかく、やっと来たかとドアスコープの確認もせずにドアを僅かに開けると、


「どーも。夕飯のお迎えに上がりました、なんてな」

「……あなたですか」


 外に立っていたのは、俺たちをここに捕らえた張本人。この得体の知れない組織に属する金髪の青年だった。


「せっかくの来客なんでね。今日は人が少ないらしくて時間はかかるけど、食堂でご馳走を用意してもらってるから案内するよ」

「あなたたちってホテル経営者か何かなんですか」

「わざわざ客を誘拐してくるホテルだなんて客足に困りすぎじゃない? まず人目につく場所に建てろって話でしょ」

「冗談ですけど」

「わかってるよ。そんな経営難のホテルで働く俺は雷豪恭介だ、よろしく」

「いや……」


 握手を求めてきた雷豪と名乗る青年は、ここだけ切り取ると悪者に見えない気さくさでどうも気が狂う。仕方なしにその手を取ると、彼は満足気ににこにこと笑い、不審がっている奥からの気配を察したのかドアを大きく押し開いた。


「おーい、そこの――えー、エアストちゃんだっけ? そろそろお腹空いたでしょ? ご飯の時間よー」

「ちょっと、何なんですか。いや、本当に何なんですか」

「だってもうすぐ七時よ、腹減らない?」

「減りますけど。あなたたちは俺たちを捕まえて監禁したいのか親切に飼い殺したいのか、どっちなんだって訊いてるんです」

「どっちも何も、俺らは和希君を監禁するつもりなんて一切ないけど?」

「……はぁ?」


 思わず素っ頓狂な声が出てしまい、雷豪とふたり同時に頭にハテナマークが浮かぶ。


「俺の知人を人質に取ってまで俺を拉致する理由があるんじゃないんですか」

「あー、あれは嘘。ちょこっと協力してもらいたいことはあったんだけど、薄っぺらい嘘並べてもエアストちゃんが了承しないでしょ。和希君に説得してもらわない限りはね。その代わりと言っちゃなんだけど、この部屋の住み心地はなかなかよくない?」

「はぁー……」


 つい、我慢していたため息が漏れてしまう。

 監禁するつもりはないし、家族や友人を盾に脅迫していたのも誘い出すための嘘。楽観的に考えたいだとか考えるのにも疲れただとか、先程まで嘆いていた自分が馬鹿みたいだった。

 とはいえ、彼らが俺たちを誘拐したという事実に変わりはない。今はそれを突き止めるべきなのではないか。


「あなたたちはどういった組織なんですか。俺に協力してもらいたいことって?」

「そこら辺はちょっと長くなるからさ。ま、飯食いながらでも話そうや。ハカセももう向こうで待ってるよ」


 雷豪は親指を後ろに向けて指しながら言った。間髪入れずに鳴った腹の音は誰のものか、雷豪の視線を追って振り向くと、お腹を押さえて頬を赤くするエアストの姿があった。


「そういうわけだから。とりあえずついて来なさいな、はぐれるとすぐ迷子になるぜ、ここ」


 正直なところ、困惑は拭い切れないし、納得もできない。最初から説得で済むならそうすればいいものを、個人情報を調べ上げオフィスにカチ込んでまで拉致する必要はあったんだろうか。交渉下手なだけとは考えにくいが、その辺りはぜひ後程問い詰めたい。

 ともあれ、今は彼に従おう。エアストに外へ出るよう目配せし、スマホだけポケットに入れてから彼女と同じ轍を踏まないよう鍵を抜き取った。


 模様の入ったカーペットはなかなか遠くまで続いており、同じような客室のドアがいくつも並んでいる。数歩歩くだけでも自分のいた部屋の位置に自信が持てなくなり、キーホルダーの部屋番号を確認した。これだけの部屋数ともなれば維持費も馬鹿にならないだろうが、どう捻出しているかは恐れ多くて訊く気にもなれなかった。


「それにしても、男女だから部屋分けたのにわざわざ同じ部屋にいるなんて相当仲良いんだな。俺、邪魔しちゃった?」

「とやかく言われるのも面倒なんではっきり言いますけど、やましいこと考えてるなら違いますよ」

「いいっていいって、戻ったら監視とかは切っておくよう伝えるから」

「今、エアストのあなたに対する信頼が地に落ちましたけど」


 妙に機嫌のいい雷豪の戯言を捌きながら、エレベーターを求めて同じ景色の続く廊下を歩く。

 真横を歩いていたはずのエアストは、雷豪から離れるようにして壁際に寄っていた。




 エレベーターで上階へ昇り、出た廊下をまた少し歩いていた。相変わらず廊下の壁には薔薇やら何やらの造花が一定間隔で飾り付けられており、これをよしとした施設の人間のセンスにうんざりする。赤が好きなのは構わないが、床も壁も何もかも赤で埋め尽くされるといい加減諄かった。


 雷豪は俺に反して静寂を好まない性格なのか、度々こちらを振り向きながら話題を投げかけてきた。家族の話だの学校の話だの、既に預かり知らぬところで存分にプライバシーを侵害しているだろうに、面と向かって訊く必要があるのかは甚だ疑問である。

 コミュニケーションにおいて重要なのは、相手が振ってきた話題を訊き返して相手にも喋らせることだというのをマナー講師が言っていた。それに倣ってみると、白峰と兄妹なのに苗字が違うのには家庭の事情が絡むだとかで微妙な空気になってしまったので、二度とマナー講師の言葉は信じないと決めた。


「さて、ここだよ」


 雷豪は両開きの扉の前で立ち止まる。両開きといえばつい先日の嫌な思い出が蘇るが、頭を振って記憶の底へ押し込んだ。この扉はあの日の質素で安っぽい素材とは違い、傷も手垢も付いておらず装飾過多、そしてセキュリティ装置までついている。

 彼がカードを翳し、その後指静脈の二段階の認証を経てロックを解除してからその扉を引くと、そこには最早言い逃れのできない、広々としたホテルのような食堂が設えられていた。


 彼の後ろに続いて俺とエアストもその中へ踏み入れる。テーブルクロスで継ぎ目の隠されたテーブルが長々と続く様は、まさに有名な魔法使い映画に登場する魔法学校の食堂の姿そのものだ。

 滅多にお目にかかれない壮大な景色に感動すら覚えるものの、その分とてつもなく違和感が際立つ。それだけ席が用意されているのにも拘わらず誰も着席していないのだ。既にキッチンの準備が進んでいるなら、ひとりくらいはいてもいいはずなのに。


「妙に空いてますけど、人気ないんですか」

「別に普段から使ってるわけじゃないのよ。掃除の手間はかかるしシェフも必要でしょ? いつもはみんな大体自分らで済ませてんの、今日は客人を饗すためにやってるだけ」

「勝手に社食みたいなもんだと思ってました。宝の持ち腐れみたいですね」

「これまで歩いて見てきた個室の数覚えてる? そんな施設なんだよ、ここは」


 雷豪は俺の質問にかったるそうに答える。

 言われてみれば確かに、俺たちが放り込まれた客室からエレベーターまでは結構な距離がありながら、その間に全く同じドアが無数に並んでいた。中に人がいるなら多少は音漏れしてもおかしくないのに、それすら一切なかった。エレベーターのフロア表示によれば更に階下が存在しているらしいが、いくつもこの様子が続いているなら大層なものだ。

 社員寮と考えると優良物件ではあるものの、利用者より管理者側の維持費が気になるところだった。


「つーか、わざわざ好き好んで職場に寝泊まりする人なんていないしね。そもそも仕事で常駐している人もほとんどいない。あの一帯はいつも無人だよ」

「施設として大丈夫なんですか、ここ……」

「さあ、下っ端の俺らにはわからんね。お偉いさんが上手いことやってくれてんじゃねーのかな」


 対テロリスト組織とは聞いたが、素性を疑いたくなるほどに施設の在り方との整合性が取れない。第一にホテルにしか見えない上に、人はほとんどいないときた。

 根底から覆すようだが、大体対テロリストだなんてご立派な看板を掲げる組織が、まだ二十歳前後に見える雷豪や女子高生くらいの白峰を雇うだろうか。バイト感覚で請け負える仕事ではないし、超能力者を学生のうちから利用しているのだとすればそれはもうラノベの世界だ。

 まだ人手不足のホテルマン候補として俺をでっち上げようとしていると考えた方が現実的だった。ますます俺を選んで拉致する理由を見失うけれど。


 先頭の雷豪が向かう先は、厨房の入口に近い端も端の席。そこだけ五人分の食器が予め用意されており、全体的に見渡すと笑いが込み上げてくるほどに不格好だった。料理は後程運ばれてくるのだろうか、用意されているのは取り分け皿と赤茶色のカラトリーケースだけだ。

 また、端すぎて今の今まで気付かなかったが、角の席には既にクリスが退屈そうにしながら腰掛けている。こちらの視線に気付くと小さく手を振って来たので、俺も軽く会釈を返した。


 俺、エアスト、クリス、雷豪、白峰。席の準備から察するに、どうやらこの広大な食堂で会食を楽しむのはその五人だけらしい。それを贅沢と捉えるかうら寂しいと捉えるかは人によるだろうが、俺は特に気にしないタイプだ。客の入っていないラーメン屋を探して入るのも、意外な発見があって損ばかりではない。


「ハカセ、白衣脱ぐと普通のお兄さんっすね。大学で必ずひとりはいる意識高い系の奴。特に白縁眼鏡が本物感を醸し出してます」

「はは、褒め言葉として受け取っておくよ」


 雷豪がクリスの向かいの椅子を引き、カトラリーケースに手を伸ばしたのを見て、俺とエアストもクリスの横に並ぶように着席した。

 あとこの場に足りないのは白峰の姿だ。


「白峰さんはどこへ?」

「静はまだ用事があるんだとさ。和希君の件の話でもしに行ってんのかな。料理ができるまでには来るよ」

「上層部の人はいるんですね。普通こういう時って、偉い人から直々に俺に話があるんじゃないんですか?」

「じゃあ、ここは普通じゃないんだろうな。きっと上の人も部外者に構っていられるほど暇じゃないのさ。横目でここを監視くらいしてるかもしれないけどね」


 すると、厨房からコック帽を被った女性が現れ、こちらへ向かって一礼した後、俺たちの背中側へ回る。何をしているのかと思えば、ドリンクバーのディスペンサーの準備をしているらしかった。五人しかいないのに機械を使用する必要があるのかと疑問をぶつけたくもなるが、ファミレスでもファストフード店でもお馴染みのメロンソーダがセットされたのを見届けると黙って正面へ向き直った。


「で、もっと訊きたいことあるんじゃないの? 今なら答えるよ、エアストちゃんもハカセも」


 雷豪は全員に取り分け皿とナイフやフォークを配りつつ切り出した。訊きたいこと、と言えばいくらでもあるけれど。彼に第一問を投げかけたのはエアストだった。


「何度も訊くようだが、和希を欲しがる理由は? 対テロリスト国際連合とは何の話だ?」

「和希君を欲しがる理由ね。これはうちの組織の目的に絡んでくるんで、後者から話すとするか」


 左手の指でテーブルをトントンと叩きながら、彼は最初の問いに答え始める。


「対テロリスト国際連合『Atlantisアトランティス』。そりゃあ皆さん初耳だろうけど、それもそのはず。俺らは決して表には出ず政府のバックで暗躍する、その名の通り反社会的勢力を撲滅せんとする武力組織だ」

「武力組織? 日本にどうしてそんなものが」

「自衛隊を国同士の戦争に備える対抗力とするだろ。それに対して俺らは国内の小規模のはみ出し者を片っ端から叩くのが仕事だ。誰もが口を酸っぱくして平和な国と言うけど、本当にどうしようもないアウトローは表に出て来ないだけなのよ。となると、それ専用の掃除屋が必要なわけ」

「警察に任せておくんじゃ駄目なんですか」

「警察もやれることが限られてるからね。報道に掴まっちゃあ大変だし、表沙汰にしたくない仕事をうちが請け負うようなイメージ。あとは……日本の法で裁けない国際問題になってくるとうちが活躍することになる。そのための国際連合だな。会うのは基本アメリカンばっかだけど」


 要約すると、この組織は政府をバックに裏社会で動いて、武力を以て悪を裁いている。にわかに信じ難いことだが、証拠もなしに疑いにかかれるほど単純な話でもない。

 ただし気になるのは、そんな危険極まりない仕事を手がかけているうちのひとりが、正面に座るへらへらした男だということだ。


「雷豪さんや白峰さんはどうしてそんな組織に?」

「まー、何かの縁だな。幸い俺たちは一般人に見せびらかすのも憚られる超能力者で、その能力も隠密行動には持って来いってもんだ。裏の仕事はやりやすいし大学の学費も賄えるし、いいこと尽くめさ」

「大学生なんですか……」

「一応な。恭介先輩って呼んでくれてもいいぜ、後輩君」


 そう格好つけて彼はウィンクを飛ばしてくる。俺はそれを躱すように、視線を横にいるクリスの方へ逸らした。


「それで、反社会的勢力に抵抗するための裏社会の組織が、どうして米石君を捕らえようとするんだ? 彼の家族は債権回収会社に追われでもしているのかい?」

「それなんですけどね、和希君にはうちの組織のもんに協力して欲しくて」


 答えながら雷豪は席を立ち、俺の後ろの壁に設置されたドリンクバーへ向かった。まず自分の分かコーラを八分目まで入れ、それからこちらへ振り返る。


「みんなは何飲む?」

「エスプレッソを貰おうかな。ホットで」

「俺はメロンソーダで」

「……烏龍茶を」

「はいよー、了解」


 彼は全員の注文を受けてそれぞれグラスとコーヒーカップに用意すると、器用にすべて一緒にテーブルへ運ぶ。そうして席に着くなりコーラを呷り、くぅーと鳴く。それには見向きもせずに、クリスは受け取ったカップの縁を手元のフォークでなぞった。


「この食器、銀製だね」

「ああ、そうだったっけ。さすがハカセ、触っただけでもわかるんすね」

「銀は銀イオンによる殺菌作用がよく働く金属だ。それはそれは遠い昔から、世界中のあらゆる文明が抗菌剤として使用してきた。そこから転じて、銀は神聖なもの、魔除けだとか退魔の道具として利用されたりもしたね」

「あ、そういうの俺も知ってますよ。確か毒殺予防に使われてたんでしたっけ? あれも殺菌作用?」

「よく知っているね。そう、中世ヨーロッパではヒ素化合物――硫砒鉄鉱による毒殺が横行していた。銀がそれに含まれる硫黄に反応して硫化するとわかりやすく変色するんだ。だから、一般に銀食器は毒に反応するだとか言われている」


 カップの縁をフォークで軽く叩いて鳴らしながら理系らしい豆知識を披露するクリスは、その先をコーヒーに付けて見せた。


「……それ、ここでも試してみる価値あると思う?」

「……はっ、それは俺らをまだ信用してないってことっすかね?」


 挑発的な眼差しを受けて鼻で笑い飛ばす雷豪。彼はこれを宣戦布告と受け取っているかもしれないが、クリスはもとよりこういう人間だ。それをこの場で一番理解しているエアストがため息をつき、彼の右手をテーブルの上に押さえた。


「……クリス」

「わかってる。冗談だよ、冗談。話の腰を折ってすまない、続けてくれ」

「……へぇ。ま、いいっすけど」


 俺もその様子を見て呆れながら、手元のメロンソーダのコップを手に取った。

 冷たい炭酸が弾けながら渇いた喉を潤していく。マックスコーヒーや激甘のカフェオレに次いで俺が好んでいるのがこういった炭酸飲料だ。刺激が欲しい時はこちらを選ぶこともしばしばある。特に真夏の炎天下で飲むサイダーなんかは厭う人の方がいないだろう。


「……で、何の話だっけ」

「どうして和希を狙っていたか」

「あ、そうそう。そうだったね」


 コップと一緒に頭まで空っぽにしてしまった雷豪は、エアストの苛立ち混じりの言葉を受けながらそれそれ! といった様子で指を指す。既にエアストの中で雷豪の信用度はクリスと同レベルに落ち着いてしまっていたようだが、本人がそれに気付く様子はない。


「で、話を戻すと、まず俺はこの日本東京第三支部を主な拠点として、組織の情報科に所属してるんだけど」

「……東京だけでいくつもあるのか」

「ああ、関東は特に多いけど、それを除いてももうそこかしこにあるよ。こんなだだっ広い地下施設が。……で、同じく東京を拠点にしてる特務科の子がいるんだけどさ」

「特務科?」


 情報科と言えば、情報収集と整理が主な仕事であろうことは容易に想像がつく。実際、彼は俺の個人情報を中学時代にまで遡って調べ上げてきたわけだから、そこは疑う余地もない。

 しかし、特務と言うと……意味的には特別な任務ということだが、何が特別なのかまではわからない。外部の俺からしてみれば、他人のプライバシーに土足で踏み込んで来られるのも特別かつ卑劣な任務に思える。どこがとりわけ特別なのだろうかと考えを巡らせる前に、雷豪が右手で拳銃のジェスチャーを示しながら答えた。


「一言で言ってしまえば、戦闘専門よ。正面から突撃して悪を懲らしめるエリートだね。銃の携帯だって許可されてる」

「銃……」


 ふと俺はエアストから借りたパーカーの内ポケットに入れたままにしているベレッタを思い出す。

 当然、一般市民は銃刀法による取り締まりがあるので、持っているだけで罪となるが、あれはエアストのものだと心の中で言い訳をする。というかエアストのものだとしても問題だ、きっと入手ルートは裏社会と繋がりのある欧米人のクリスだろうから、また後で彼に問い質すとしよう。


「その沢山いるエリートの中でも特に上から数えられるほどの超エリートがいるんだけど、その子に和希君の協力が必要でね」

「何の能力も持たない俺の協力が? 無理矢理拉致して来なきゃいけないほどに?」

「俺はこういうのに疎いから説明するのも難しくてさ。実際に会ってもらった方が話は早いかな……ちょっと予定合わせてみるか」

「簡単にでもいいんで、説明できませんか」

「んー、そうね……」


 俺が若干身を乗り出してせがむと、彼は渋々といった表情で答えた。


「和希君、超能力適性ってわかる?」

「……正直よくわかってませんけど、文字面だけならなんとなく」

「あれってね、本人は自覚ないことが多いんだよね」


 それを聞いて、客室のエアストの話を思い出す。

 彼女は幼い頃から超能力適性というものがあって、それがどうやって存在するものなのかはわからないけれど、見つけた科学者の研究対象となって長い年月を過ごしたという昔話。

 彼女も確かに、超能力適性を持っている自覚はないと言っていた。はっきり超能力者であるなら操れる超能力がその証明になるが、超能力の発現に満たない適性の有無などどう判断するというのだろうか。答えられる者は恐らくこの中にはいない。


「その超能力適性の中にも、かなり特殊なタイプが存在するって話なんだ」

「特殊?」

「ああ。超能力適性って言うと、普通は『超能力が発現し得る適性』を指す」


 そして、エアストの場合は超能力開発の研究の被検体となった。その他、成長途中で偶然目覚めてしまいましたなんてケースもあるのかもしれない。


「けど、その特殊なタイプは――、」


 俺だけでなく、こちら側に座る一同が揺れる人差し指を見つめながら集中して耳を傾けている。

 文字通りの意味に含まれない、特殊な超能力適性とはどのようなものを示すのか。

 彼が唇を動かし、その続きを紡ごうとした時。


 ――――ドォン!!


 突如として乱暴な音が入口の方から聞こえる。

 そちらを注視すると、両開きのドアを両手で勢いよく開けるスーツ姿の男の姿があった。


「……三上?」


 雷豪がそう零したのを聞いて、俺も記憶を掘り起こす。あの短髪と営業向きの好青年じみた印象は、ここまで移動する際の車を運転していた男だ。初めて雷豪と会った時、俺を囲んでいた取り巻きの中にもいたのを薄らと覚えている。

 つまるところ雷豪の同僚だということだが――胸のざわめきが収まらない。雷豪の納得のいっていない表情も一因だが、あの好青年に不気味なほどの無表情を向けられるのは、誰だって寒気を感じるはずだ。


「三上、お前今日は帰ったんじゃなかったのか」


 あの中でもリーダー的存在だった雷豪が立ち上がって歩み寄るが……三上と呼ばれた男は答えない。


「……聞いてる? おい、三上?」


 堂々と扉を開けて入場した手前、唐突に気を失うなんてこともないはずだが……あまりに微動だにしなくなってしまったため、ついに駆け寄った雷豪が名前を呼びながら彼の肩を揺さぶる。

 まるで生気の感じられない瞳をした彼がされるがままになって――数えること、約五秒。


 三上は雷豪の肩越しにこちらを見るなり、ニィと顔を歪ませて笑った。


「――いたぞ!! 女だ!!」


 直後、開けっ放しの扉から雪崩込んで来たのは数人の黒服。

 全員が真っ黒のスーツを着込み、グローブをはめ、そしてサングラスを掛けている。

 ――この軍隊じみた統一感には、見覚えがある。


「秦野の……!?」


 愕然とするエアストを横目に見て確信した。

 でも、どうやってここが特定できたんだ。一般人の寄り付かない辺鄙な地下に作られた施設まで、どうして目の敵にしている反社会的勢力の秦野の手下が。


 黒服の声に応じるように、三上は雷豪の両腕を振り解く。ヤクザの登場に追いつけていない様子の雷豪は、何やら口の中で呟きながら俺たちの前まで下がった。


「三上、これはどういった了見だ……?」


 彼は苛立ちを含んだ口調で訊ね、エアストも臨戦態勢で前へ出る。

 そのふたりを三上は興味津々に見つめ、そして鼻で笑うと、ゆっくり、間延びした声で言うのだった。


「見つけた……米石和希さん……!」




 高い天井に吊るされた照明は、背丈も服装もバラバラの数人の男女を温かく照らしている。

 なのに、張り詰めた空気の中、背筋を伝う冷や汗が大変心地悪い。

 向かい合う先には、三上と呼ばれた男を先頭にするスーツの男が八人ほど。頭数だけ見ればこちらの倍である上に、こっちの男子高校生と科学者は壁にもならない。単純戦力は四倍だ。


 若頭気取りなのか前に立つ三上は、両手をふらふらと揺らしながら歪な笑みを浮かべている。服装だけならひとりだけサングラスやグローブを身につけていない点で一際目立っており、リーダー格として捉えられなくもないが、それ以前に俺たちは彼と雷豪が会話していたところを見ている。雷豪の同僚であるのは疑いようもない事実だ。


 あり得る線としてはスパイだったくらいしか思い浮かばない。何しろ対テロリスト国際連合『Atlantis』の情報科だ、情報欲しさに身分を偽って在籍することさえできれば、あとは得たものをヤクザに横流しするなり外部へ高く売りつけるなりすればいい。国家についている組織にそんな嘘が罷り通るとは思えないけれど。


 三上の斜め後ろから、秦野の手下である大柄の男が進み出た。身長は目測でも優に一八〇センチを超えている。一九〇、いや、もしかすれば二メートルにも届きそうな巨漢が、ポキポキと指を鳴らしながらエアストただひとりを見据えていた。


「親父が大変お怒りだ。弱者に差し伸べた手を振り払われ、自分の正義の在り方まで踏み躙られたんだからな。挙句の果てには、約束していた少年の身柄を敵に引き渡すと来た。勿論、無事に済むとは思ってないだろうなァ?」


 指が鳴らなくなると今度は首を左右にゴキゴキと鳴らしつつ、彼は歩みを止めることなく近づいてくる。

 エアストは過去の自分を痛めつけた科学者の情報を求め、俺の身柄を対価に秦野へ協力を持ちかけた。そしてその報酬がすぐに支払われないことを察すると即座に約束を破棄し、最初から協力する気はなかったなどと吐き捨てて逃げてきたのだった。

 交渉が失敗したところで銃を取り出す秦野も秦野だが、これほどにまで事態が悪化してしまうと呆れてばかりもいられない。

 殺気を受け取ったエアストは静かに左足を前に出して身を傾け、握り拳を作った右手を引いて大男を睨み返した。


「女のガキだからって容赦しねェぞ。自分の仕出かした罪の重さ、その身でしっかりと受け止めんかァ!!」


 しゃがれた叫びと共に地を蹴り、彼は拳を振りかぶった。その軌道を読んだエアストはいとも容易く回避し、その胸元に視線を落とす。四〇センチ近くの身長差に筋骨隆々とした肉体だ、女子のパンチ一発如きでダメージを与えられるようには思えない。

 しかし、エアストは臆することなく脇を締め、その一点を目掛けて――右肩で自らの体躯を打ち込んだ。


「ぐ……ッ!?」


 撃力とは速さと重さの掛け算だ。ただ殴って倒せそうにないなら、数十キロの肉体を全力でぶつけるまで。

 エアストはそれだけに留まらず、よろけた大男の胸倉を掴むと、足を掛けて床に叩き伏せた。僅か数秒でノックアウトが決まった華麗な一連の動作を目の前にして、その場の誰も言葉を発せずにいる。


「私を倒しに来たんだろう? 本気ならまとめてかかって来い」


 大男の方にはもう見向きもせずに、彼女は冷たく言い放つ。それを合図に、残った男たちも次々と飛び出した。


「かかれ! 相手はひとりだッ!」

「調子に乗るんじゃねェぞ女ァ!!」


 一人目の走り込みながらの大振りのフックも、横から角度をつけて飛びかかる二人目のアッパーも、すべてをエアストは最低限の動きで躱し切る。惜しい、あと少し軌道をずらせばと相手に次の希望を抱かせたところで、一発ずつ丁寧にカウンターを打ち込んでいく。

 有り余っている食堂の椅子を持ち上げて振り回す男でさえも、振りかぶった際に大きく生まれた隙を利用して背中から蹴り飛ばされた上に、手から離れた椅子の投擲を受けて沈んでしまった。


 あたかもアクションゲームをリアルに映し出しているかのように軽々と動き回るエアストを見て、俺は感嘆の吐息を漏らすほかなかった。

 しかし、集団戦で油断している暇などなく、彼女の死角から飛び込む影がひとつ。


「――もらったァ!」


 集団戦のメリットといえば、注意を分散できること。誰かがヘイトを買って他の誰かが裏から叩く、これを繰り返すだけで戦況を有利に持ち込めるのはゲームでも現実でもきっと変わらない。

 彼も最初から狙っていたことが成功したとこの時ばかりは思い込んだだろうが――一方で重要なことに気付いてはいなかっただろう。


 エアストの隣にいたはずの青年が、気配諸共いつの間にか消えていたことを。


「……あッ…….!?」


 それは先程からそこにいたかのように、獲物を捕らえる毒蛇の如く音もなく現れて背後から締め上げると、膝を何発か入れてから床へ蹴り伏せた。


「俺は情報専門なんだけどな。悪者退治は静に任せてやりたいよ」


 雷豪は頭を掻きながら男を一瞥し、余裕そうにしながら文句を垂れる。一瞬のうちに背後で起こった出来事には特に驚く様子もなく、エアストは彼を横目で見ながら鼻を鳴らした。


「つくづく便利な能力だな」

「ときとばよ、ときとば。俺でも喧嘩が強くなれるのはいいけどやり方は卑怯だしな」


 そう言ってふたりの視線は再度三上へと戻る。ものの数分としないうちに、彼の後ろにいたはずの黒服たちは、全員エアストと雷豪の周りで伸びていた。

 ここまで来れば二対一、それもこの人数を一瞬で蹴散らした喧嘩のプロと卑怯な超能力のペアだ、勝率はぐんと上がっていたと見てもいいだろう。とはいえ、雷豪の同僚である以上、彼を即座に組み伏せるわけにもいかない。まずはリーダーたる雷豪が一歩前へ出て、彼に真剣な眼差しを向けた。


「説明してくれ、三上。お前、何をした? こいつらはお前が連れて来たんだろ? それに、上層部は何してる?」


 何が面白いのか、三上は気味の悪い笑顔を崩さない。この絶望的な戦況で笑っていられるなどよっぽどのドMだとしか言いようがないが、その余裕は一体何によって保たれているのだろうか。

 あのスーツジャケットの内ポケットの中にでもとんでもないものを隠していたりするのか。そうしたとして、この二人を突破できるようなものなんてあるのだろうか。

 それ以前に、三上は雷豪の取り巻きのひとり、つまり下っ端だ。それでいてリーダーの雷豪を上回る戦闘力を持っているとは考えにくい。いや、それもスパイとして潜り込むために爪を隠していたのか。


「……雷豪さん、部下からの信用そんなにないんですか」

「馬鹿言うなって。俺めちゃくちゃいい先輩だよ。先日だって飯おごってやったばっかだ。あいつの様子がおかしいのは和希君だって見てわかるでしょ」

「……でしょうね」

「三上はいつでも愛想良くてハキハキしてて、よくできた新社会人の模範みたいな奴だ。けど、今のあいつは……何というか、何かに乗っ取られでもしているような――」


 言い終える前だった。

 ガタガタと何かがぶつかり合う音がする。揺れは感じないものの、関東ではよく起きる地震を思い出させるような音だ。

 三上が発生源を手にしている様子はない。別の何者かが故意的に音を立てているわけでもない。

 なら、その音は誰が、一体どこから。

 それがふと止み、はっと息を呑んで振り返った時。


 テーブル上に置いていたはずの陶器の取り分け皿のひとつが、空気を切り裂きながら彼の後頭部に激突した。


「が……ッ!?」


 それだけに留まらず、次は視界内の椅子が独りでに揺れ動いたかと思うと、バランスを崩した雷豪目掛けて突進する。床に叩きつけられた彼の背には、おまけのつもりかさほど重量もない残りの皿が降り注がれ、当たらずに床に落ちたものは次々と乾いた音を立てて割れていった。


 一瞬のうちの出来事に、理解が及ばず思考が停止する。

 今、俺は何を目にしたんだ。

 皿が、椅子が、長机が、誰にも触られていないのに勝手に宙を舞い、そして雷豪の体勢を崩した。たった今起きた意味のわからない現象を振り返っている間にも、彼の動きを封じようとでもしているかのように、更に複数の椅子と長机が彼の背に積み重なっていた。

 信じられるはずもない。しかし物事は捉えようで、例えば今やられた雷豪は超能力者だ。

 これが意味する異能とは、つまり。


「念動力……超能力者……!?」

「いや……三上はこの手の超能力者なんかじゃない……!」


 咄嗟に出た答えを、見えない力で床に押し潰されている彼は否定する。

 黒服がエアストに対して振り回せたくらいのサイズと重さの椅子だ、彼がそれをどけることなど造作もないはずなのに……それをしようとしない。

 いや、できないんだ。あの腕の筋肉は、床から掌を突き放そうと強張らせているはずなのに。


「雷豪!!」

「クソ……金縛りか!? 今の念動力といい何なんだよ! 三上じゃない、何モンだ!!」


 エアストが彼の上の椅子を取り除こうとするものの、抵抗する力が働いているのかびくともしない。

 その様子を見て嘲笑うかのように、三上――いや、三上だと思われていた人物は、


「念動力というのも、いい響きですが……『ポルターガイスト』……私はそう呼んでいます」


 やっと口を開いたかと思えば、普段聞き慣れない横文字が紡がれる。

 それは、作り物感満載のホラー番組なんかでたまに耳にする単語だ。勝手に物が動いたとか、誰もいないはずなのに音が聞こえたとか、説明のつかない現象を幽霊の仕業とする――早い話が、心霊現象そのものを指す単語。

 何が言いたいんだ、自分は幽霊だとでも馬鹿げたことを抜かすのか。超能力者だけでお腹いっぱいなのに、次は幽霊だなんて――、そう苦情を申し上げるよりも先に。


 三上は重心を背中側に傾けると、意識の糸がぷつりと切れたように、その場に倒れた。

 こちらの動きが封じられたかと思えば気絶?

 そう判断するのも早計だということくらいわかっている。ただ、どうしてもこの展開についていけないだけなかった。

 次の瞬間には、三上が立っていたはずの場所に――、


 今の今まで三上に『乗り移っていた』とでも主張しているかのように。

 一昨日、あおぞら会館の大広間で見た、深緑色の髪の美少女が、微かな微笑みを湛えながら立っていた。


「どうも……改めましてこんにちは、米石和希さん、エアストさん……♪」


 たった今、開けっ放しの扉から入ってきたわけではない。雷豪や白峰のように気配を消していたわけでもない。

 何故なら、その瞬間はこの目でしっかりと捕らえたから。

 未知の現象については相応しい表現も思いつかないが、彼女は、間違いなく三上の内部から姿を現したらしかった。


 直前に野郎をひとり行動不能に追い込んだことには目も向けずに、彼女は俺とエアストを交互に見ながら挨拶の言葉を述べる。

 腰の位置より長い、ポニーテールに結い上げられた深緑色の髪。眠くもないだろうに半目気味の黄銅色の瞳。白を基調に青や黄色のワンポイントが入った白のシャツを着こなし、下は同色で大きくスリットの入ったロングスカートという一風変わったお洒落をしている彼女は、語尾に音符でも付いていそうなご機嫌な様子で、ブーツを鳴らしながら距離を詰め始めた。


「……あの場にいたということは、お前も秦野の手下か」

「……ルア、です」

「何……?」

「ルア、と、お呼びください……♪」


 エアストの視線に臆することなく、お行儀よくスカートを摘みながらぺこりと一礼する。

 妙に演技臭い挙動には文句のひとつも言いたくなるはずだが、無駄にいいスタイルとよく噛み合っているおかげで思わず目を奪われてしまう。ブーツの底を差し引いても身長はエアストより僅かに高く、何より決定的な違いは――女性の象徴たるバストの発育に恵まれているといった点だろうか。だからといって特に優劣をつけるつもりはないが、ともかく彼女の容姿が優れていることに間違いはなかった。


「お前は話が通じる相手だと思っていいのか?」

「……だとしたら、何か?」

「お前らに和希を渡すつもりはない。今日は帰って、組長にそう伝えろ」


 不意打ちで雷豪をポルターガイストやら金縛りやらで捩じ伏せたルアと名乗る幽霊少女は、望み薄の説得を受けてわざとらしく考える素振りをする。そして短時間で結論を導き出したと言うよりはきっと最初から答えを決めていたのであろうが、スローテンポな口調ではっきりと返した。


「……却下します」

「だろうな。一応訊いただけだ」

「帰るつもりは、ありませんが……米石和希さんの身柄の方は、どうだっていいです」

「……何? 秦野の目的は和希なんだろう?」

「私は……確かにこの男の身体を借りて、彼の記憶を頼りに……あの男の思惑に沿うように若衆を連れて、ここへ来ました」


 秦野の手下が、俺の身柄はどうだっていいとはどういうことだ。今の口ぶりからすると、親分ではある秦野を軽視しているようにも見て取れるが、そこらの若衆とは事情が違うのか。

 さらっと『身体を借りる』だとか『記憶を頼りに』だとか超能力に関連するであろうとんでもない言葉が聞こえたような気がしたが、今考え始めると終着点が見えなくなってしまいそうなので一旦触れないでおくことにして。

 彼女は床に転がる黒服の残骸を一瞥して、それからエアストの方へ向き直った。


「でも……それは彼に会うため、です。捕らえるためでは……ありません」

「……なら、これで満足か?」

「……いえ」


 彼女が否定すると同時に――余っている椅子やら床に散らばる皿の鋭い破片やらが、彼女を取り囲むように宙に浮いた。

 それらを操るような仕草はしていないし、わざわざ目を向けてもいないけれど、この非現実的な現象を起こせる人物は他にいない。


 ポルターガイスト……幽霊少女ルアの超能力だ。

 どうしてこのタイミングで、なんて考えるまでもない。

 これは、彼女らしい宣戦布告の合図にほかならないのだから。


「私は米石和希さんに……興味があります」

「……!」

「そこ……どいてください」


 曇りのない可愛らしい微笑みに、答えを待つ意思はない。

 触れることなく正面へ飛んだ椅子の足を、エアストは後ろに下がりながら両手でそっと掴み取り――次いで襲いかかるいくつもの皿の破片を、椅子の背もたれを盾にして防いだ。


 弾かれて落ちるものもあれば木目の上に突き立つものもある鋭い欠片が、もし薄い衣服の上から当たっていたらと思うと身震いがする。

 しかし、ルアの視線が射止める先はエアストただりとり。雷豪は床に押さえつけられ、俺とクリスは手出しもできない。今日の昼過ぎに傷痕を思い出していたはかりなのに、再び彼女ひとりに苦しい超能力者とのタイマンを強いてしまっていることに苛立つ。それでも、この拳があいつに辿り着かないという予想も容易い以上、かえってエアストの迷惑になる動きをする気にもなれなかった。


「……エアスト。相手はこれまた相当な超能力者だ。ここはひとつ年齢の近い淑女同士の話し合いで、平和的に解決とはいかないかい?」

「……それで快く聞き入れてくれるような相手が、組織の人間を乗っ取ってアジトにまで乗り込んで来ると思うか?」

「ま、そうだよね。これはまずいことになったな」

「呑気に言ってる場合じゃないでしょ……! クリス博士、何かないんですか、超能力者に勝つ方法とか」

「彼女の超能力は僕も初めてお目にかかる。ごく僅かな資料から仕入れた知識で超能力を知った気になっていた自分が恥ずかしくなるよ」


 声色だけでは余裕ぶっているようにも聞こえるが、首筋には冷や汗が伝っている。この状況に焦りを感じているのは彼も同じだと気付いて、喉まで出かかった悪態を飲み込んだ。


 こんな時に、組織の上層部は何をやっているんだ。

 あの緑髪の少女ひとりだけなら可能性はある。彼女が文字通り三上の中から現れたのはこの場の全員が目撃しているから、幽霊の如く他人に憑依する超能力を持ち合わせているのは想像に容易い。

 それに、先程の言い草によれば憑依した人間の記憶まで盗み見られるというのだ、これほどお近づきになりたくないと思える人間も珍しいが、ともかく帰宅途中の三上を襲撃して肉体と所持品を奪うことさえできれば、ここまで突破してくることまではまだ考えられるだろう。


 しかし、ヤクザのおまけを付けてくるとなると怪しいどころの騒ぎではない。完璧に三上を演じられたとしても、果たしてこの部外者である黒服集団を招くことが許可されるだろうか? 仮にそれが通ったとしても、今この騒ぎが見えているなら誰かしらは駆けつけるはずだ。確かにこの施設は無駄に広大で、移動に時間を取られるのかもしれないが……たまたま増援が遅れているのか、それも俺たちにはわからない。

 ふと静かになった厨房の方を見やる。彼らはさすがに非戦闘員なのか姿を現さなくなったが、上層部への連絡くらいはしてくれているはずだ。


「ここの組織の人間を待つつもりでしたら……無駄ですよ」

「……何言ってんの。確かに今日は人少ないけど、この状況見て上が放っておくと思うか?」


 すると、さすがに憑依していない相手の思考まで読み取るエスパーだとは思いたくないが……彼女が先読みするかのように忠告する。それに対して雷豪が天井に設置されたドーム型の監視カメラを見やりながら反論すると、彼女は悪戯っぽく微笑んだ。


「ここに来る前に、組織員のミスを装って監視システムと通信システム、あとはこの部屋に繋がる経路のセキュリティシステムを落としてきました。……復旧には、まだかかるはずです」

「は?」

「偉そうな人を捕まえて記憶を見れば、重要な部屋を把握することくらい簡単ですから……しかしそれだけで彼らが侵入できたのは、まともな警備がいなかったからでしょうか」

「……だから第三支部にも人員よこせって言ったのに。第一第二ばっか贔屓しやがって……ッ」


 今は周囲で伸びている役立たずの黒服たちを見回した後、ルアは再度こちらへ向き直る。

 彼女の解説はあまりに要約されすぎていて、雷豪のぼやきに耳を傾ける余裕もなく思考処理がフリーズしそうになった。


 よりわかりやすく噛み砕くとすると――まず、何を手がかりに見つけたのか三上を捕らえてここを特定し、セキュリティを突破して侵入。三上を一度置いて上層部の誰かに乗り移り、管理室かどこかは知らないがその場所へ。監視システムを利用して俺たちの居場所を突き止めると今度はそこの組織員に憑依してシステムをダウンさせ、自分はまた三上の肉体に戻って黒服たちと共に現れた――あくまで憶測に過ぎないが、そんなところだろうか。


 想像のつかないスケールの話をされている気がして目眩がしてくる。

 この僅か数秒の間に立てた仮説に矛盾や不審な点はいくらでも見当たるだろうが、これ以上に考察できるほど俺の頭はよくできたものじゃないし、それ以前に今考えている余裕はない。


 果たしてその真相について問えば時間稼ぎになるだろうか。ただ、小賢しく侵入を果たしただけあって相手もその意図を先読みできたのか、次は長机を左右にふたつ浮かせ――緩やかな回転を加えながらこちらへ飛ばしてきた。

 俺たちの前に立ちはだかるエアストは、恐れる様子もなくまずその一方に目を向ける。盾に使った椅子を逆向きに構えて飛びかかったかと思うと、滑らかなカーブを描く四本の猫足で長机を絡め取るようにして床に叩き落とし、素早くポルターガイストの効力を失ったらしいそれに持ち替えるや否や、華麗な回転投げでもう片方の長机を吹き飛ばした。


 相変わらずあの細腕のどこからそれだけの力が生じるのかはさておき、激突の衝撃で表面の凹んだ長机を見送ると、今度はルアの方へ向かって低姿勢で飛び込む。


「お望みならくれてやる……ッ!」


 向こうの表情が一瞬硬直したのが見て取れる。今目の当たりにした力を以てすればそれなりのダメージは必至だ。

 エアストは最後の一歩を大きく踏み込むと、腹部目掛けて渾身の右ストレートを繰り出し――、


 そして、空を切った。


「……!?」


 その場にいた誰もが目を疑う。

 今、確かにエアストは全力の拳を打ち込んだ、そのはずだ。

 なのに、まるで反作用が一切生じていないかのように。空気抵抗以上の手応えもなく全体重を前方に放り出してしまったエアストは、ロンダートからバック転を切って体勢を戻しながら改めて敵の方に向き直った。その表情には驚愕の色が浮かんでいる。


 目の前から消えたわけではない。終始俺の視界には収まっていた。

 間一髪で躱したわけではない。むしろエアストの特攻を読み切れていなさそうな表情すら感じ取れた。

 なら、信じたくはないがこう言い表すしかない。


 ――エアストの攻撃は、少女の身体をすり抜けていったのだと。


「……ご存知ないですか? 日本の幽霊は実体を持たないんですよ」


 幽霊少女ルアは、半身を傾けながらエアストに向かって不敵に微笑む。

 何度瞬きをしても非現実的な事実は変わらない。大柄の男たちさえ撃沈した拳を受けたというのに、彼女は何事もなかったかのようにけろりとしていた。


「……何?」

「ちなみにこんなことも……できたりして」


 余裕を含んだ声色で言い終わるより早く、今度は彼女の姿が空気の中に溶け始める。

 まるで彼女のレイヤーだけ透明度が徐々に上がっていくかのように向こう側が透けて見え始め、やがて彼女の姿は文字通り消えてしまった。


 わかりきってはいたが、辺りを見回しても当然見つからない。それから数秒と待たずに、


「ここ、ですよ?」

「……ッ!」


 エアストが斜め後ろに飛び下がると、先程まで彼女がいた位置のすぐ右、密着していたかのような距離にルアの姿が現れる。

 もしナイフでも持っていれば確かに命を狙えた距離感だった。今回はたまたま相手が武器を持っていなかっただけで。この短時間で、超能力という名の絶望的な力の差を思い知らされたのだった。


 雷豪や白峰の例であれば、気配を消す――言い方を変えれば他人に自分を認識させなくするわけだから、メンタリストの如く心理術を介して相手の認識力を狂わせているのだと、無理矢理自分を納得させられなくもない。超能力の原理なんてわからないし、不特定多数が相手となるとさすがにフォローしきれないが……ひとつの可能性として留めておくこともできるわけだ。


 それに対して――こいつは何なんだ。念力は使えるわ、金縛りにもかけられるわ、憑依して支配権を奪うだけに留まらず記憶まで見放題、おまけに物理攻撃は通用せず透明にまでなれると来た。

 ……勝てるビジョンが全く見えない。攻撃が通らない相手をどうやって倒せばいい。先程エアストの身体ごと貫通するところを見てしまったのだ、どこかへ逃げられたとしても障害物を無視して追ってくることだろう。三上の時と同じように、憑依した目撃者の記憶を漁りながら。


「……私を倒したいなら雷豪のように金縛りにでもかければいいだろう。何故それをしない。何が目的だ」


 立て続けに宙を舞っていく長机や椅子を踏み台にして飛び越え、時に身を屈め、華麗に避けながらルアを中心に半円を描き、俺たちの盾になるべく戻ってきたエアストが疑問を零す。

 その質問にルアは答えない。答える必要もないといった態度で、ふふっと小さく可愛らしい笑みを浮かべたのと同時にまた周囲の長机も宙に浮く。


 その様子を見て――しばらく沈黙していたクリスが、腕を組みながらゆっくり息を吐いた。


「……憑依、念動力、そして霊体化……いや、まさかね」

「何か知ってるんですか……?」

「証拠も信憑性もない聞き伝だが……そんなとんでもない異能を持つ超能力者には心当たりがある。それも個人ではなく、大勢。小さな集落ごと、ほぼ全員が高い超能力適性を持ち、その能力を生まれながらにして受け継いでいるという話だ」


 俺が催促したのに対し、記憶の糸を辿るように話し始めた彼の表情は至って真剣だ。

 初対面の時のように冗談を言っている様子はない。どちらの彼が一体本当のクリスなのか、それすらわからなくなるくらいの雰囲気に俺が気圧されているのにも気付かずに、彼は眉を顰めて呟いた。


「……でも、あり得ない。だってその集落は数年前にもう――」

「そろそろ飽きてきました」


 その続きを遮るように。

 冷たい声が発せられた直後、腕組みを解きかけたクリスが静止する。


「……!?」


 声の主を見やろうとすれば、エアストさえもが構えようとした右腕を腰より上にも上げきれずにいる。本人たちが意図的にそうしているわけではないことは、対峙している少女の佇まいを見ればすぐにわかった。

 いつの間にか、こちらへ歩み寄ってくる少女の顔から少女らしい微笑は消えていて。


「『倒したいなら金縛りを使えばいい』――簡単に勝負がついてしまうのはつまらないと思っていましたが……やっぱりどうでもいいです」

「あ……?」

「私が会いに来たのは……あなた、なんですよ?」


 小さく口元を緩め、真意の読み取れない眼差しが俺を射抜く。

 来るな。俺たちをどうするつもりだ。

 口ではどうとでも言えるだろうが、今となっては時間稼ぎにもならない。


 クリスの発言が気に障ったのか、その詳細を憶測する余力はないが、結果としてこの目に映る絶望は、大型連休前の金曜日、雷豪たちに追い詰められている時と似ていた。

 非力な子供の相手でもしているかのようにこちらを弄べるほどの力を持つ者は、その気になれば弱者を仕留めることに苦労するはずがない。

 俺は汗の滲む右手を開き、そしてまた閉じて握り拳を作ってみる。俺の身体は辛うじてまだ動く。でも、仲間たちは総じて動きを封じられてしまっている。助けを呼ぶこともできない今、俺が誰かを頼ることなど不可能だった。


 やるなら得意のポルターガイストとやらで一撃だろうに、彼女は情けのつもりかそれをせずに一歩、また一歩と歩み寄る。

 この状況で俺ができることなんてあるのか。

 相手はラノベの世界から飛び出してきたかのような超能力者。対する俺は何の力も持たない一般人。

 先程の攻防のおかげでモノは散らばり、すっかり荒んでしまった食堂の中を見渡しても解決しないことくらい理解している。それでも焦燥感に駆られていれば他に何ができるわけでもなく後ずさる俺は――、


 ふと視界の端に、一抹の違和感を覚えた。

 今頃俺たちが豪華な料理を迎えて談笑しているはずだった、食堂の一角にある長机。その周辺に置かれていた椅子も長机も、威力不十分に見える小皿でさえポルターガイスト御用達の道具と化していたのに、唯一それらだけが微動だにせず、長机の上に鎮座している。


 最早考えている暇などない。

 俺は元来確実性のない選択肢が苦手だった。されど今回ばかりは因果を頭の中で証明するより先に、藁にも縋る思いでそれを掴む。


 その中でシャンデリアの灯りが反射しているのを見た瞬間、僅かに彼女の表情が凍ったのを、俺は見逃さない。


「それ以上……近づくな!」

「……っ!?」


 俺は手に取ったカラトリーケースを振りかぶり、彼女に向かってフリスビーのように横投げで放った。

 蓋のないそれは中のナイフやフォーク、スプーンを空中に投げ出しながら飛び、彼女から逸れていくように軌道を描く。

 エアストやクリスはこの想像が及びもつかない行為に呆然としていることだろう。心理的ストレスでついに気が狂ってしまったのかと勘違いされているかもしれない。あるいは、最後の抵抗さえ大きく外して気の毒に思われているかのいずれかだ。


 けれど、俺の狙いは。


「痛……っ」


 本来なら遠心力に基づいて遠くの床に放り出されるはずの食器たちのうちひとつのナイフだけが、壁に妨げられたかのように弾かれて飛ぶことを諦め、その真下へ音を立てながら落ちた。

 直後、彫像のように静止していたエアストの右腕がぴくりと動く。その反応さえあれば十分だった。


「エアスト!!」


 俺が声を張り上げてその名を呼ぶと、彼女は振り向きざまに頷きながら地を蹴った。赤い瞳が捉えるのは勿論正対しているルア――ではなく、手前に落ちる銀製のフォーク。

 飛び込むようにしてそれを拾い上げると、勢いを殺さぬように片手でハンドスプリングを決め、そのままルアの左手首を――確かに掴み、カーペットの上に張り倒した。相手と自分の手の間に、たったひとつフォークを挟みながら。


「……なるほど。幽霊も退魔の標的になるんだな」

「……っ」


 成功させた本人すら驚嘆の言葉を述べているが、そうしたいのは俺も同じだった。

 飛ぶナイフを弾いた壁とは他の何でもなく、ルアの身体だ。至極当然のことのように思えるが、それは彼女が普通の人間であった場合の話。

 でも彼女は幽霊のように何もかもすり抜け放題のチートの具現化である。なら、どうして今床に伏す事態になっているのか。


『銀は銀イオンによる殺菌作用がよく働く金属だ』

『そこから転じて、銀は神聖なもの、魔除けだとか退魔の道具として利用されたりもしたね』


 明確な科学的根拠なんてありゃしない。科学者が教えてくれた史実に素直に従ってみただけに過ぎないのだから。

 ――便利な超能力には、わかりやすく穴がある。数時間前の白峰の言葉が脳裏に過ぎった。

 強すぎる力が暴走しないように天が施したかのような。非現実的な超能力と、非現実的な抑止力に呆れながら、俺はため息をついた。


「形勢逆転だな」

「……いいんですか? そんなに近づいて。私の最初に見せた能力、忘れたとは言わせませんよ?」

「お前にナイフが当たった時、私の金縛りは解除された。それに、今お前はすり抜けることも透明になることもできない。これに超能力で干渉することはできないし、触れている間は超能力自体が使えないんだ。違うか?」

「……してやられちゃいましたね」

「今日のところは大人しく帰るか、それともここに捕まるか選べ」

「選ばなかったら?」

「いずれここの人間が来る。ただじゃ済まないだろうな」


 勝利を確信しながら冷酷に処分を告げられても、ルアはあっけらかんとした態度を崩さない。何か算段でもあるのかとエアストも疑問に思っただろうが、左右の手首は地に押さえられているし、何より喧嘩慣れした相手に対してこの体勢だ。

 戦況が変わらぬまま数秒したところで、ルアはゆっくりとした口調で続けた。


「私の能力の弱点が見破られたのは初めてです。まぐれとはいえ……感服せざるを得ません」

「わかったから、大人しく確保されろ」

「でも……それはできない相談ですね」


 その時、ガタン、とどこからか物体のぶつかり合う音が聞こえる。その発生源はこの視界内にはないように見えた。

 厄介な念動力は銀製フォークの力で封じられている。開けっ放しのドアの向こうに誰かがいるわけでもない。振り向くもクリスが行動を起こしたわけではなさそうだし、一体どこから。

 そうしてふと正面に視線を戻した時――、俺はその異変に気付く。


「――エアスト!! 上だ!!」

「――ッ!?」


 瞬時にエアストが横に転がり出ると、コンマ数秒前まで彼女がいた位置に長机が落下し、位置エネルギーの減少が生じさせた衝撃に耐えきれず一本の脚が本体を離れて飛んでいった。


 見上げると、高い天井に取り付けられたシャンデリアに、もうふたつほどの長机がアンバランスに引っかかっている。

 ルアは自分が捕まることを想定してか、攻撃を続けることで意識を逸らしながらシャンデリアの上に長机を積み重ね、自重で滑り落ちる時限式の罠を仕掛けていたらしかった。


 その発想に脱帽する前にルアの安否を確認するが、当然のように彼女の姿はもうそこにはなかった。すり抜けも透明化もできる彼女のことだから今更何も不思議ではない。

 獲物を取り逃してしまったことに焦燥しながらエアストの名を呼びかけようとして――俺たちはもう一度絶望を味わわなければならないのだと悟った。


「……軽いですね、この身体」


 まるで別人のように――実際に別人ではあるのだが――柔らかで裏のある微笑みを浮かべるエアストの表情は、この数日で見た中で最も不気味だった。

 くるりと一回転しながらその身体を見回し、ついでに必要なのか彼女本体と比べれば明らかに慎ましやかな胸をなぞったりしてみてから、見知った顔でこちらへ向き直る。

 その視線の先に立つのは、喧嘩なんて全く経験のないであろうクリスと俺のふたりだけ。

 憑依している状態で銀は効くのか、でも食器はすべてカラトリーケースごとあちらへ散らばってしまった。絶体絶命の境地に立たされていると、廊下から複数の足音が響き始め、やがてそれが大きくなったかと思えば入口に人影が現れた。


「――動くな!」

「――大丈夫ですか、エアストさ――!?」


 そこに立っていたのは、いつの間にか喋らなくなったかと思えば気配を消して直接増援を呼びに行っていたらしい雷豪と、エアストの表情を見て唖然とする白峰、そして雷豪の部下らしき不揃いな服装の数人の男たちだった。

 確か、ルアはここに来る過程であらゆる主要システムを落とし、ここまでの通路すら塞いでしまったと言っていた。雷豪は仲間に連絡しつつ、彼らと復旧作業を急いでいたということか。


 いつになく真剣な表情に焦りの色を浮かべている雷豪の手には、エアストのロングコートのポケットに入っていたような自動拳銃が握られている。法だとかライセンスだとかはこの際置いておくとして、今、何より問題なのは。


「待ってくれ! 彼女は――」

「わかってますよ、ハカセ。……クソッ、一足遅かったか」


 傍から見れば数で大きく優り、出口も塞いでいるともなれば大変有利な戦況に見えるかもしれない。

 だが、たったひとりの敵が操るのは知人の身体だ。この状態ですり抜けや透明化が使えるのかはともかく、無闇に攻撃する勇気は俺にはない。対テロ組織の人間であってもそれは変わらないらしく、雷豪は拳銃を下ろすことしかできずにいる。一般の民間人を銃撃してしまえば、彼の立場も無事では済まないだろうから。


「なあ、今回は見逃してやるからその子の身体返してくれない?  こっちも大事にしたくないんだよ」

「……」

「正直、その子を人質に取られたんじゃ降参だ。でも、直に対超能力者の特殊部隊が来る。俺らなんか足元に及ばないマジモンのスペシャリストだよ。そうしたら君も無事では――」

「部外者は、黙っていてください」


 苛立ち混じりのエアストの声音とともに、雷豪の口元が硬直する。

 ――しまった。雷豪たちには、彼女に銀が有効だということが伝わっていない。それに、せっかく増援に駆けつけてきてくれた全員がその場に拘束されたかのように動かなくなっている。……あの金縛りの能力は、一体何人にまで有効なんだ。


 無意味で哀れな援軍を満足げに見やってから、ルアはこちらに視線を戻した。


 ――かと思えば、軽いステップを踏むようにしてこちらへ迫る。望みを断たれた俺達には命乞いの暇すら与えず、自分はその状況を楽しんでいるかのように微笑みながら。


 二の腕を掴まれてからは一瞬だった。押し返そうとはしたもののもう遅い。少女の細腕に力負けする自分の筋力を嘆いた時には、既に床の上に押し倒されていた。


「その顔。もっと、よく見せてください」


 数日前、俺が躓いてエアストを押し倒してしまった時と、演者が入れ替わったシチュエーション。

 ただ確実に異なるのは、今俺を支配している感情は羞恥や後悔ではなく、恐怖と焦燥であることだった。


 エアストの身体を操るルアは俺の身体に跨り、生気がないと揶揄される俺の黒い瞳をまじまじと覗き込んでくる。

 対する赤い瞳の奥では一体何を考えているのか。不気味な視線から逃れようとしても身体が言うことを聞かず、再び彼女の金縛りにかけられてしまったことに気が付いた。


「やっぱり。に、そっくり」


 やがて、彼女はぼそりと呟く。

 聞き取れなかったわけではない。密着しているほどに距離が近いのだ。

 なのに咄嗟に反応できなかったのは……言葉の意味が理解できなかったから。

 

 思えばこいつは、顔を見せたその瞬間から今に至るまでずっと、目的をぼかし続けている。わざわざ対テロ組織の本拠地に乗り込むのだから相当の理由がありそうなのに、『興味がある』『会いに来た』だなんてラブコメチックな台詞しか吐いていないのだ。

 彼女の真意と、先程の発言との関連性。それを問い質そうとしたものの。


「……、おい……っ」

「ふふ、可愛い……♪」


 変に擽ったさを覚え、首は固定されているため眼球だけを下に動かしてみると。

 エアストの細い指先を、俺の上半身の上に滑らせている。雷豪たちと比べると頼りない胸筋や腹筋を確かめるように、不規則に踊る柔らかな手つき。

 幽霊らしく何らかの呪いを刷り込んでいるのかとも一瞬考えたが、やはり違うと断定した。根拠には乏しいけれど、どこか嗜虐的な雰囲気がそれを否定する。


「……な……何なんだよ……」

「……米石和希さん」

「……?」


 やがてそのねちっこい動きを止めると、彼女は俺の名前を呼ぶ。

 そして、一呼吸置いてから。


「私と……一緒に来てください」


 その言葉は、ますます俺の脳を混乱させた。

 結局は彼女も俺を連れ去るのが目的だったのか。しかし、秦野の指示に背いているようなことも言っていた。支離滅裂だ、一体何がしたいのかわからない。

 勿論イエスと答えるつもりはないが……気に障らないか恐れつつ、俺は記憶を辿って口を開いた。


「……最初、俺の身柄はどうだっていいって」

「今、気が変わりました。善は急げ、と言いますから」

「だから、何が目的なんだよ」

「……それは――」


「さすが姐さんだ。ご協力、助かりました」


 突如として、聞き覚えのない男の声が遮る。

 この数日間で多くの人と知り合い、その声を聞いてきた。その中の記憶にない声となれば、と入口の方を見るが、彼らの表情から別人のものと察する。

 ならば一体誰が。その答えを示すように、床に散らばる長机のひとつがガタリと音を立てた。


「派手にやられてこのザマだ、俺らだけだったら無理だった。でも、姐さんは敵を操れるんだ。その上、姐さん本体にはダメージがない。……その能力があれば、安全に各個撃破できる、そういうことですね」


 長机の陰から姿を現したのは、エアストが撃破し、気絶させていた黒服のひとり。ひび割れたサングラスを外しながら起き上がり、代わりにその手に取られたのは――拳銃だった。


 不穏な空気に威圧されて口元が震える。

 彼との間合いはそう遠くない。よほど才能がなくはない限り、少なくとも外しはしない距離。


 その銃口は、ゆっくりとこちらへ――エアストの身体を操る、ルアの方へと向けられる。


「まずはその目障りな黒髪の女を……殺す!!」


 人差し指が引き金にかけられて――そこからは、まるでスローモーションの世界だった。

 このまま引き金が引かれてしまえば、彼女の身体は鉛玉に撃ち抜かれることになる。被害者の身体の持ち主はルアじゃない、俺を何度も助けてくれたエアストだ。

 仮に今の状態でもすり抜けが発動するのであれば杞憂に終わるが、確証がなければ彼女は助からない。もしルアが支配権を放棄したとしても、エアストが自力で避けるまでには至らないだろう。


 また、俺は何もできないのか。

 この数日間、エアストの力を借りてばかりで、自分の問題を自力で解決できたことは一度としてなかったくせに、彼女に恩を報いることすらできなかった。そんな彼女を俺の都合でもし死なせてしまったら――俺は、罪悪感に苛まれながら生きていく覚悟なんて持てる自信はない。


 既に俺の身体は動いていた。

 何度だって自慢できることだが、俺は普段から明晰夢を見慣れている。

 明晰夢というのは、夢の中だと自覚して行動できる、けれど身体を動かすことを意識しすぎると目が覚めてしまうほどには浅い眠りの時に見る夢だ。

 脳が半覚醒状態にあるにも関わらず唐突な目覚めを迎えると、当然身体はついていけずに金縛りになる。一時期には日常的にその体験をしてきた俺は、金縛りの抜け出し方だって経験則として身に染みついていた。

 まさかそれが知人の命の危機に役立つだなんて、過去の俺はまさか思いもしなかっただろう。


 身体が自由を手にしたのは、引き金が引かれた後だった。

 白峰が持っていた玩具の銃とはまるで違う、火薬の重い炸裂音が響き渡る。

 起き上がった俺は咄嗟に彼女を押しのけ、そして庇うように背を向ける。


 そのまま倒れ伏せるまで余裕があればよかったのだが。


「…………う……っ!」


 直後、腹に想像を絶する激痛が走り、一歩遅くその場に倒れ込んだ。

 背中が燃えるように熱い。呼吸をするのも苦しい。自分が撃たれたと悟るのに、わざわざ血を見る必要はなかった。


「――てめえ!!」

「……がッ!?」


 雷豪の怒号に続いて、ダァン――! と銃声が響き、先程の男が呻き声を上げる。どうやら彼らの金縛りも解除されたらしいが……とてもそれを喜べる状況でないのは明らかだ。


「米石さん……米石さん!!」

「白峰君、落ち着きたまえ! 雷豪君、ここに救護隊はいないのかい!?」

「わかってますよ! 今呼んでます!!」


 様々な声音がいずれも切羽詰まっているように飛び交い、俺の顔を覗き込む紺色髪の少女は顔を青白くしながら額に冷や汗を浮かべている。出会って間もない他人だというのに、随分情に厚い子だと、そう思った。


 映画では一発二発撃たれた程度じゃ死ななかったり、海外のニュースでは凶器を持ちながら暴走した市民を止めるために警察側は何発も要したりというのは見たことがある。

 実際はどうなのだろう。急所に当たっているかとか、出血量にもよるだろうが、今の俺に判断することは不可能だった。


 そういえばこうしてまで守ろうとした彼女はどうなったのかとゆっくり首を回せば……一メートルほど先に、エアストの身体が倒れていた。

 俺の覚悟が無駄になったわけではないということは、彼女に出血のないことが証明している。何を考えているのかは最後までわからなかったが、恐らく中身のルアがこの場を去ったのだろう。思い返せば、三上の時も憑依を解除すると本体は気絶していたようだったから。


 エアストの無事が確認できただけで、不思議と心は安堵した。

 こんなことでしか役に立てない俺よりも、ここまで他人のために行動できる彼女の方がずっと必要とされていることは自明だ。そんな彼女を守れただけで、満足感に浸るには十分だった。


 明晰夢へ入る瞬間を認識できるように、次第に視界と意識が薄れていく。

 白峰やクリスの呼びかけに応じる気力も尽き――


 俺は、そのまま目を閉じた。




 見渡す限りの水平線。

 遮蔽物ひとつなく遥か遠くまで見渡せる、どこまでも続いているようにすら感じる無の世界。


 一歩踏み出すと足元に波紋が生まれ、それは音もなくあっという間に広がっていく。

 床の代わりに空間を満たしている透明な水は、どれだけ深く続いているかわからない。表面張力を用いて水上を歩行するアメンボの如く、その上に立ち尽くす俺以外に、何の物体も存在しない世界。


 五億年ボタンでも押したかのような無の空間にいながらも、特段驚きはしない。

 何故ならば、断言できるからだ。これは夢の中だと。

 明晰夢に慣れている俺でなくとも、記憶もなしにここへ置き去りにされているようであればさすがに気付くだろう。だが俺は更にその一歩先を行って、まずは状態の確認を始める。


 明晰夢を見る時、大抵は現実の身体の感覚が残っており、場合によっては動かすことも不可能ではないし、自分の意思で意識を浮上させることも容易い。そのつもりがなかったのに誤って目を開けてしまい、現実と夢の視界が混ざり合った時もなかなか面白い体験だった。

 手始めにそれを試みたが、腕が鉛のように重い上に、意識にもどうしてか変化が訪れない。現実の俺は目を覚ますことを拒んでいるのだろうか。

 目覚めたくない興味深い夢であれば進んでこんなことはしないが、悲しいかな、水平線以外に何も見えないこの夢は何の面白味もないのに。


 無意味な行動を諦めようとしたところで、横腹がズキリと痛む。

 そうだ、俺、撃たれたんだったか。

 ということは、どうやら生きていることは保証されたらしい。間違っても天国に来たわけではないとわかると、意識していなかった死への恐怖を思い出してしまい、一筋の冷や汗が伝った。


 ともあれ、自力で目を覚ますことができないなら、これ以上何もすることがない。経験上、明晰夢は非常に浅い眠りであるため、認識できてから長くても十分程度で勝手に目覚めてしまう。

 そんなわけで、黙って食べ損ねた夕飯のことでも考えながらその時を待ち侘びていると。


「ここも、なかなか居心地いいわね」


 耳新しい女の声。

 この空間には俺以外何も存在しなかったはずでは。

 そう疑問に思うより、視界の認識が先行した。


 雷豪や白峰と同じ超能力者なのかと勘繰るほどに気配は感じられなかった。と言っても、夢の中なので詮索するだけ無駄かもしれないが。


「……あなたは、一体」


 俺の声に応えるように、横を向いていた彼女は首をこちらへ回す。

 膝丈ほどもある綺麗な銀髪。一四〇センチにも届いていないと見える小柄な体躯。

 ツインテールに結い上げられた髪も相まって子供っぽさを演出しようとしているが、飾りっけのない灰色のワンピースと二の腕まである黒の指貫グローブがそれを否定するように異質さを醸し出している。


「どうも。お邪魔してるわ」

「邪魔も何も、夢の中の登場人物に文句言ってたらキリないんじゃないですかね」

「夢……か。じゃ、起きたらあたしのことは忘れてるでしょうね」

「明晰夢に関しては見慣れてるんで、きっと起きても忘れられないと思いますよ」


 風はないはずなのに、ワンピースの裾はゆらゆらと揺れている。

 太陽はないはずなのに、銀髪の一本一本が光を反射して煌めいている。

 得体の知れない少女の赤い瞳に光は感じられず、俺を通り越してどこか遠くを見通しているかのようにも見えた。


「こんなところが居心地いいなんて、変わってますね」

「そう? あたしは好きよ。何も考えなくていいし何もしなくていい場所。ベッドすらないのが玉に瑕だけど」

「退屈しませんか」

「面倒な仕事に追われるよりマシだわ」


 こんな小さな子供を社畜にするなど何て非道なと非難の対象を探すも、結局はこの夢を見ている俺の責任だと気付いて項垂れる。

 彼女はそんな俺を不審な目で見つつも、警戒心は見せずに歩み寄ってくる。近づいてみるとその小ささはより明らかだ。頭の天辺の高さでも俺の鎖骨に届かない。俺ですら男子の平均身長よりは低いので、差分を測るとせいぜい一三五センチ程度しかないのではないか。

 欧米人のように完璧に整った、色白で可愛らしい顔の彼女は、身長差の都合上、上目遣いで俺に問う。


「あなた、名前は?」

「米石、和希ですけど」

「……そう。和希、これからよろしくね」

「これからって……一日、というか一夢限りの関係じゃないですか」

「どうかしらね。それはあたしがこの環境にどれだけ馴染めるかによると思うわ」

「……そうですか」


 日本語は通じており、言葉遣いは見た目にかけ離れて大人びているのだが、言っている内容までは理解が及ばない。

 夢の中だからそれは仕方ないと片付けるほかなく……せっかくなので逆に名前を訊き返そうとすると、妙に現実の身体の感覚が強く感じられるようになってきた。

 何度も経験しているからわかる。これは合図だ。ここに来てから、もう十分以上経過しているのだから。


「そろそろ、お目覚めみたいよ」

「……わかるんですね」

「勘よ。じゃ、せいぜい頑張りなさいな」

「まあ、言われなくても」


 少女は全く心のこもっていない表情のまま、黒の指貫グローブを着用した手を胸元で小さく振っている。俺は気持ち程度にそれに応え、ひたすらに真っ白な空間が広がっている空を見上げた。

 間もなくして、視界は段々と暗くなり、『何もない白』から『何もない黒』へと切り替わっていく。


 それが表すのは、若干の明かりに照らされる瞼の裏側だった。




 瞼を開けると、赤を基調とした高級感のある図柄の天井が飛び込んでいた。ぼやける視界では細部まで見えないが、どうやらそれは薔薇模様らしく、天井のシミならぬ薔薇を数えているだけで時間を潰せそうなくらいには大量に描かれている。

 そういえば廊下にも薔薇の造花がいくつも飾られていたな、とデザイナーの趣味の悪さを再認識しつつ、それから逃れるようにして首を横に向ける。


 ここは、俺たちが誘拐されてきた時にも案内された客室だ。俺は今やたらと寝心地のいいふかふかのベッドの上に寝かされていて……部屋の壁際に配置された机では、クリスが何やらペンを右手に作業をしているらしかった。

 こうして座って机に向かっているその筋の人間らしい姿を見ていると、喧嘩に巻き込まれて狼狽えていた男と同一人物には見えないことをなんだか面白おかしく思いながら……俺は、ゆっくりと上半身を起こした。


「……おや。ようやくお目覚めかい」

「……クリス博士」

「ああ、まだすぐ起き上がらない方がいい。雷豪君たちにも連絡を入れるから、休んでいなさい」


 彼が俺の起き上がり動作を手で制止し、手元の端末の画面をタップして何やら操作し始めたのを横目に、俺は撃たれた場所を確認する。

 傷は塞がれているようだが、想像していたよりは横に逸れていた。人体構造には疎いものの心臓級に致命的な臓器があるわけではないだろうし、気絶したのは単なるショックということか。少しばかり情けなく感じながらも、銃で撃たれるという達成率の極めて低い実績を解除してしまった俺は、複雑な気持ちに惑わされながらため息をついた。


「幸い、内臓に損傷はなかったとのことだ。傷は塞いだし、内部に至ってはそれ専用の興味深い治癒系能力を持つ超能力者が医療科にいたみたいでね。あとは君の身体の再生能力次第といったところさ」

「治癒能力ですか。何でもありですね、超能力って」

「米石君も気付いたかい? 超能力の魅力に」

「皮肉ってるんですよ。もう懲り懲りです」


 今回たった一日の間に、一生分の超能力を体験した気がする。というか一生分の超能力って何だろう。こんなもの一生関わらない方が平和に暮らせたのに。ひとまず最たる原因であるルアというチート級超能力者の名前だけは忘れないでおくことにした。


「……そういえば、エアストは」

「無事だよ。君のおかげだ」


 クリスが視線で示した先を追うと――ベッドの反対側の縁に背をくっつけるようにして、体育座りで顔を俯かせたまま寝息を立てているエアストがいた。ちょうど上半身を起こしてクリスと話していると死角になる角度だ。予想外の位置取りに反射でビクつくと、クリスは小さく笑いながら立ち上がる。


「米石君がいつ目を覚ますものかと何度も確認しに来ていたみたいでね。自分を庇ってこうなったんだ、満足に眠れていなかったんだろう。いかにも彼女らしい」


 それなら変なところに座っていないで、この部屋に残された唯一の椅子であるマッサージチェアにでも座っていればとは思ったものの、今起こしてしまうのは気が引けるので口には出さない。

 彼女も俺のために数日尽くしてくれたのだから、ゆっくり休んでほしいと願ったのも束の間、その頭がぴくりと動いて持ち上げられる。その直後、部屋のドアの鍵が外側から解除される音がした。


「お、本当に起きてる。調子はどう?」


 ドアの向こうから現れたのは、タブレット端末を小脇に抱える雷豪。その背中からひょっこりと顔を出すように、白峰の姿も見えた。


「はい、ご飯持ってきました」

「……お粥……じゃない、お湯……?」

「重湯です。お粥の米なしバージョンみたいなやつ。しばらく食べてないと胃がびっくりしちゃいますし、消化のいいものをと思いまして」

「んな大袈裟な……」


 白峰がベッド横に丸テーブルを移動させ、その上にミニサイズの土鍋を置きながら解説してくれた。

 そうは言われてもやはり白濁したお湯にしか見えない俺は首を傾げる。そもそも、胃腸を心配するような断食を計画した覚えもないのだが、彼女の厚意であれば受け取っておくべきだろう。だからと言って食欲があるわけでもなく、ましてやこう人に囲まれながら自分ひとりだけ食事に勤しむのも大変居心地が悪くてできたものできたものではない。


「……あの、和希」

「……ん?」


 そんな俺を見かねたわけではないだろうが、ベッドの横で立ち上がったエアストは、遠慮がちに声を発する。俺がそちらへ視線を向けると、彼女は何か思うことでもあるのか何度か目を逸らそうとした後、諦めがついたかのように口を開いた。


「……憑依とでも呼ぶべきか、あのルアって奴に乗っ取られた時、心の中というか……よくわからない場所に拘束されて、自分の身体を取り返すことができなかった。でも、感覚は共有されているのか、和希が何をしたかはしっかり見えていたんだ」

「……そう」


 エアストが食堂で戦った超能力者、幽霊少女ルア。

 彼女は、個人に憑依することで身体を思いのままに操るだけではなく、記憶までもを読み取る力を携えていた。

 エアストはその能力の犠牲となり、終盤は小っ恥ずかしいことをされたような気もするけれど……ともかく、超能力なんて常識外れの概念なのだから、エアストは精神世界のような場所にでもいたと考える。皮肉にも、あらゆる架空の創作ではよく見る展開だった。


「助けてくれたのは……礼を言う。でも、和希は私たちとは違う、何も悪くない一般人なのに。どうしてあんなことを」

「あんなことって……助けられてばっかだから恩を返したかっただけ。俺は戦えもしないから絶好のチャンスだって思ったわけよ」


 不服そうに俺の目を見る彼女に対して、かっこつける言葉も思い浮かばなかった俺は本音をそのまま口にする。

 実際、死ぬ可能性を考えるのは怖い。それは俺だって同じだけど、俺のために尽くしてくれた人に俺のせいで死なれたなら、現実に耐えられず自ら身を投げてしまうかもしれない。

 どうせ今のところ生きる目的なんて見出せていないのだ、なら自分を犠牲にしてでもその人を助けた方が俺も悦に浸れるし悪い話じゃない。

 故に咄嗟にできた行動に後悔はしていないのに、エアストは眉を吊り上げて口調を強めた。


「もしものことがあったらどうするつもりだったんだ! 相手は銃、当たりどころが悪かったら和希は今頃――」

「エアストさ、俺は一般人で自分は特別みたいに言ってるけど」


 高いベッドに手をついて抗議する彼女を右手で制しながら、俺は負けじと睨み返す。

 ……ああ、わかっている。彼女は俺のために怒ってくれているんだと。ここ数日間の彼女の行動原理を見ていれば、俺の勝手な行動に反感を抱くのは想像に容易い。けれど、彼女に匿われていた俺だからこそ、彼女を相手にすると言われっぱなしではいられなかった。


「まあ深い事情があるのはお察しするとはいえ、俺からすりゃあんたも喧嘩が強いだけの一般人、対等だよ。自分は何も言わずに俺を庇うのに、俺がエアストを庇ってどうこう言われるのは納得いかない」


 エアストは、優しすぎる。

 冷徹に見えて気が利いて、人付き合いを好まないように見えてお人好しで、まだ会って数日の男のために命を張るような、超弩級の聖人君子だ。自己犠牲が売りの日本人の中でも、その程度は馬鹿げているほど飛び抜けている。

 彼女自身、自分の性格が世間の理想とされているものだと自覚しているのかは俺の知ったことではないが、その行動で引き起こされる他人の感情まで汲み取れていないのは確かだ。俺は彼女を全面的に信頼しているものの、その身勝手さだけが気に食わなかった。


「俺だってエアストが自分を庇うだけ庇って勝手に死んだら一生分のトラウマになるよ。だからこのくらいは勝手にさせてくれ。結局こうして助かったんだし」

「でも、それは結果論で」

「ふたりとも無事助かりました、それで話は終わりよ。めでたしめでたし」


 すると俺たちの口論に割り込むように、雷豪が間に立って両手を広げた。つい数秒前までベッドの逆側に立っていたはず、とすればまた気配を消して現れたことになる。こんな日常のワンシーンでまで超能力をアピールしてくるのもどうかと思うが……不満を吐き捨てる気も削がれた俺は、へらへら笑う彼の顔を見上げた。


「ま、ふたりとも痴話喧嘩はそれくらいにしてさ。俺から報告なんだけど、エアストちゃんに朗報。さっき、北海道支部の連中から連絡があってね」


 思わぬところで名前を呼ばれたエアストがぴくりと反応し、その言葉の続きを待つように睨めつける。俺に向けられていたはずの不満の眼差しを代わりに受けることになってしまったことにも臆せず、雷豪は端末を操作してその画面をエアストへ見せた。


「超能力開発に囚われた天才科学者、チャールズ・スクルド博士の身柄を確保したって」

「……は……?」


 その言葉を聞いて、横の俺もエアストと同じように気の抜けた反応を示してしまう。

 超能力の魅力に魅入られた科学者。液晶に映し出された写真の銀髪痩せ型の男こそが彼であることを悟るまでは一瞬で。

 エアストは、その科学者の『情報』を求めてヤクザと接触し、復讐を企てていた。

 雷豪の言い放った情報の欠片を記憶の中で結びつけることに成功した時、俺は再びエアストの表情を窺わざるを得なかった。


「……私、は……」

「あいつの身はうちで受け持つことになったから、新たな犠牲者も生まれないし生ませはしない。元々あいつの『情報』を追ってここまで来たんだったら、もうエアストちゃんの仕事はないよ」


 それは喜ぶべきことのはずだ。彼女は雷豪の述べた通り、自分と同じような犠牲者が生まれることを阻止すべく立ち回っていたのだから。

 なのに、自分の目的を見失って返すべき言葉も見つからないといった様子で――放心しているエアストをそのままに、次に彼はクリスの方を向いた。


「……その件に関しては、気の毒でしたね。――クリストファー・スクルド博士」


 先程の話でも既に脳の処理が追いついていないというのに、立て続けに聞こえた名前にすべての思考メモリを持っていかれる。

 ――スクルド、博士。その短い苗字を小声で復唱しながら、黙って聞く側に徹している白衣の男を見た。


「ハカセについてもきっちり調べさせてもらいました。まさかあの天才科学者の弟さんだなんて思わなかったっすけど」

「……僕では兄の暴走を止められなかった。むしろ、君たちの働きにはお礼を言いたいくらいだ。感謝してもしきれないよ」

「あら、随分と潔いんすね」

「僕はもとより兄と対立していたからね。どうせ今はどこの研究所にも属していないんだ、君たちがそうしたいなら煮るなり焼くなり好きにしてくれていい」


 クリスは煽るような口調の雷豪の挑発には乗らずに踵を返し、椅子に戻ると深く腰掛けて長い脚を組む。相変わらず、この中で最も長身で脚の長い彼がそうしている様はよく似合っていた。

 彼らの話から察するに、クリスが語っていた狂気的な科学者とは彼の実兄を指しているということになる。どうしてそれを初対面でいきなり昔話と称して教えてくれたのか、そうしながらもどうして中途半端に自分の身分を隠していたのか。


 何しろ笑い事で済む話ではないのだ、何か彼の中でも思うことがあるのだろうと詮索するのを躊躇うが……俺はそいつを目的とする少女に一度売られかけた身だ。俺にも知る権利があると言わんばかりに視線を投げかけると、クリスは手を挙げて降参の意を示しながら苦笑した。


「米石君、エアストの出自については聞いているかな?」

「まあ、超能力開発のことであれば一通りは」

「であれば話が早い……と言いたいところだけど、これに限っては少し長くなりそうだ。付き合ってくれるかい?」


 俺は黙って首を縦に振る。

 彼の話が長いのは今に始まったことではない。寝起きで先程までうまく働いていなかった脳が覚醒してきているのを確認してから、視線で続きを促した。


「イングランドのとある研究所でのことだ。かつて僕は兄に従って超能力開発に協力していたんだけれどね。恐らく君が聞いた通り、兄は超能力の魅力に取り憑かれたあまり、まだ幼い少女を被検体にするような極悪非道な男だった」

「その辺の恨みつらみは聞きましたね。……それがエアストだって」


 横を見ると、エアストはばつの悪そうな顔をしながらそっぽを向いているものの、話を遮るような真似はしない。この続きはきっと彼女の真実にも触れることになるだろうが、もう隠す意味もないといった意志の現れだろうか。

 これ以上深い話に完全な一般人たる俺が踏み込んでいいものかと訴えかけてくる良心を押しのけ、俺は少しの間黙り込む。情報科である雷豪や白峰は既に知っているのだろうか、そんな疑問へ気を逸らしながら。


「兄は失敗を重ねていったある日、新しい被検体を手に入れた。……自分の姪だ」

「姪……?」

「病死した僕たちの姉のもとから引き取った一人娘は、生まれつきの超能力者だった。……兄が何より求めていた彼女の存在が、兄の研究のすべてを変えた」


 ……エアストの口からも聞いた、彼女に続く被検体の話だ。彼女曰く相当辛かったらしい研究の対象に選んだのがまさか身内だとは思わなかったが。

 前提として、超能力を第一に考えるような奴だ。自身の行為が姪や世間体にとって悪と看做されるという判断すらできなかったのだろう。

 赤の他人の話ともなると今更憤りも感じない。けれども、知人として少なからずお互いを知ってしまったエアストが絡んでくると考えると、非力な正義感が芽生えては行き場を失くして霧散する。

 もどかしい思考に蓋をするように、俺はしばし瞑目してから口を開いた。


「……それから? エアストやクリス博士が今ここにいるあたり、想像はつきますけど」

「ああ、兄がエアストから興味を失って間もなく、僕は彼女を連れ出して、彼女の母国である日本に逃亡した。あのままゴミのように棄てられるのを見ていることなんてできなかったさ。それがもう三年前の話になるかな」

「そんな天才でもみすみす見逃すんですね。マスコミに知れたら大変なことになりそうなのに」

「兄は失敗と判断したものには一切興味を失くすからね。超能力者になれなかったエアストも、兄の意見に反対した僕も、兄にとっては失敗作だ。ただただ無関心だったんだろう。……それに、僕だって命は惜しいさ。情報提供なんてこっちから丁重に断った」


 自嘲気味に笑った後、彼は「おかげで今は無職だけれどね」と付け足す。

 狂気的な科学者、チャールズ・スクルドの研究から外された彼の弟ことクリストファー・スクルドと、被検体であったエアストはイングランドの研究所から逃げ出し、今この日本で生活している。最初、クリスがエアストの保護者を自称していた理由もやっと理解した。

 そんなすべての元凶たる科学者が今しがた、この対テロリスト国際連合『Atlantis』に確保されたのだ。


「ハカセ、そんなお兄さんがどうしていきなり北海道に現れたのか不思議に思いませんか?」

「兄のことだ。大方、成功作である姪が脱走でもしたんじゃないのかい?」

「ご名答。で、その女の子もうちのメンバーが確保しました。勘違いした高校生に邪魔されはしたけど……最後は協力してくれたみたいだし、これで一件落着って感じっすね」


 それはつまり、科学者の姪は保護されて、エアストも呪縛から解放され、誰もが納得するハッピーエンドということで。

 俺の知らないところで勝手に事が進み、解決された。それに難癖をつけるつもりはない、俺は架空の物語の主人公ではないのだから。

 思いのほか早く訪れたひとつの結末の呆気なさから気を逸らすように、せめて救われたエアストを心の中で祝福して、俺はゆっくり肩の力を抜いた。


「で、どうする? 僕は武器も何も持っていないよ」

「俺たちだってハカセを捕らえろとは言われてませんよ。ただ……あなたが贖罪を望むなら、世のため人のため我が組織に協力してもらうって手もありますけどね」

「……それは面白い。勿論、給料は出るんだろうね?」

「保証はできないっすね。うちは歩合制なんで」


 背の高い二人が冗談交じりの口調で、けれども真剣な商談を持ち掛けている様子を見て――俺はもうひとつ重要な勢力を思い出す。というか、俺の相手はこっちだったはずだ。

 自分に人生初の銃創を作らせた相手方すら忘れかけているような寝起きの頭を掻きながら、俺はそいつの名前を口にする。


「……秦野たちの動きは」

「そっちもご心配なく。和希君がぐっすり眠っている間にうちの特務科が始末したよ。罪状ならいくらでも挙げられる、今頃みんな豚箱だ」

「はい、話によると単身で事務所に乗り込んで全員やっつけちゃったみたいなんですよね。私も会ったことない人なんでめっちゃ気になってます」

「……とんでもない話ですね」


 壁に寄りかかり、どこからともなく取り出したリンゴの皮を器用にペティナイフで剥いている白峰が、目線は手元に集中させたまま付け加えた。

 それは八分の一サイズに切り分けられて土鍋の横の皿へ乗せられていったかと思えば、最後の一切れは白峰の口の中へ放り込まれた。その瞬間のあざといウィンクは見なかったことにするとして、重湯レベルに胃を気遣うならすり下ろすくらいはしないと釣り合わない気がするが、善意を無下にしないよう黙っておく。俺自身、それほど弱っている自覚もないし。


「予想通りと言っちゃなんだけど、あの幽霊の女の子はいなかったよ。和希君との接触だけが目的だったみたいだし、本当に秦野たちを利用していただけなんだろうな。ま、一応彼女の調査も進めておくさ」


 ひとまず俺が知りたかった情報を、雷豪は問い直す暇も与えずに教えてくれる。それを聞き終えて、俺は少し胸につっかえていた不安が取れた気がした。

 敵対関係にある対テロリスト国際連合ことアトランティスと、秦野率いる反社組織。その争いに巻き込まれながら流れで俺たちは前者に引き込まれ、彼らが勝手に後者を片付けてくれたことで事なきを得た。代償として銃弾をひとつこの身で受け止めることになってしまったが……この事件の始まりに出会った少女を守れたのであれば、それで良かったのだと自分に言い聞かせる。


 とはいえ、まだ俺が理解できていないことも少なくない。

 雷豪たちは何故俺の身柄を欲しがっていたのか。幽霊少女ルアは何故俺と接触したがっていたのか。結局のところ超能力とは何なのか。ついでに俺が撃たれ寝込んでいる間、裏で進行していた科学者に纏わる物語にも興味はあるが、一般人の俺が踏み込むべき領域でないことは察しがつくので口には出さない。


 ともかく、気になる点を質問として並べれば彼は答えてくれるだろうか、それとも深入りしないようにしておくべきか――一考していると、布団の上、手元の辺りに宛先の書かれていない一封の封筒が落ちる。通販でトレーディングカードゲームのカードをまとめ買いした時のような、やけに分厚いそれを投げ込んできたのは雷豪だ。


「忘れないように渡しておくよ。それ」

「何ですか、これ」

「見た方が早いよ」


 封もされていなかったようなので、その口を開けて中を覗いてみると。


「……は?」


 反射的に呆れと驚きが混じったような自分でもよくわからない気の抜けた声が漏れた。

 どういうことかと雷豪に目で説明を求めると、彼は苦笑しながら答える。


「迷惑料と謝礼金、あとはうちの組織についての口止め料って言ったとこかね。俺に返されても困るから、受け取っといて」


 中に入っていたのは――一言で言えば札束だ。しかも、表面から福沢諭吉の顔がこんにちはしている。

 一枚一枚が薄っぺらい紙である一万円札が、封筒の中に一センチほど。確か一枚の厚さは〇・一ミリだったはずだから、つまりこの封筒の中の総額は……約百万。

 あまりの衝撃に封筒を落としそうになるのを堪え、その中の一枚を抜き取って間接照明に向けてみると、透かしもはっきり入っている。素人目ではそれくらいでしか判断できないが、偽札の線の可能性は低い。


 とても高校生が手にしていい大金ではない。それが現金で物理的に俺の手の中にあるのだから、落ち着いていられるわけがない。


「迷惑料と口止め料ならまだわかるんですけど、謝礼金って何なんですかね。また俺なんかやっちゃいました?」

「ごめん、呼び出しだ」


 俺がこの大金について説明を求めようとしたところで、雷豪のポケットから流行のアイドルポップの着メロが鳴る。最初の一小節で素早くポケットのスマホを抜き取った彼は、画面を見るや否や真面目な表情を取り戻した。


「静、あとはハカセも一緒についてきてもらいましょうかね。和希君はいつでも帰ってもらっていいよ。フロントには客人の案内するようこっちからも話通しておくから」

「あの、まだ訊きたいことが」

「連絡先ならその封筒の中に入れてあるから。悪い、また今度」


 どうやら急ぎの用事らしく、雷豪は返事も待たずに部屋を出て行ってしまった。それに続いてクリスも振り向きざまに手を振り、白峰はぺこりと一例してから彼に続く。

 封筒の中には確かに携帯の電話番号が書かれたメモが入っていた。話の続きは、彼の手隙を狙ってこちらからかけなければ聞けなさそうだった。


 部屋に取り残されたのは、謎の大金を右手に持ったままの俺と、呆然とドアの方を眺めるエアストだけ。

 雷豪が止めに入るまでくだらないことで言い争っていたふたりだ。気まずい空気の中いたたまれなくなって……視線を泳がせようとするエアストに対し、俺の方から先に言葉を紡いだ。


「……さっきは強く言い過ぎた。今度から素人が出過ぎた真似はしないよう気を付けるよ」

「いや……私も責めるようなことを言ってすまない。助けられた立場だというのに……こう、気を遣われる側には慣れてなくて」

「だろうな。ここまで人助けに身を尽くす人は初めて見たよ。正義感が服を着て歩いているのかと」

「……そんなの意識した覚えはないけど。秦野じゃあるまいし」

「自覚がないからまずいんだよ、エアストはさ」


 謝罪から口にしたにもかかわらずつい十数分前の続きが始まってしまいそうになるのを落ち着いた口調で誤魔化しながら、俺は彼女の赤い瞳をまっすぐ見据えた。


 エアストの優しさは、いつも自分を犠牲にして生み出されている。

 一度俺を秦野に売ろうとしたことの罪滅ぼしということもあるだろうが、この数日間一緒にいて、彼女が俺に不満を吐露したことは先程の口論を除いてなかった。その口論だって、内容は俺を気遣ってのことだ。個人的な理由で俺を非難したことは一度としてなかっただろう。

 その上、会ったばかりの俺を身を呈して守り続けてくれた。たとえ銃口を突きつけられても臆せず、その傷の痛みを我慢してまで俺を庇うべく超能力者との戦闘に進み出た。

 そもそも彼女の目的が、自分と同じ犠牲者が生まれないようイカれた科学者を取り押さえることとのことだったので、他人第一という行動理念は疑いようがない。


 自分の世話で精一杯なのだから他人との付き合いなどやっていられないと、人間関係において消極的であり続けた俺とは正反対の人間だ。そんな俺が言えた口でないことはわかっているが、そんな俺だからこそアドバイスできることだってある。

 少なくとも今回、エアストを助けたいと思ったのは本心なのだから。


「エアストがそうしているのと同じように、エアストを気遣っている人間も少なからずいる。その行動くらいは否定しないでいてくれ」

「……」

「あとは……他人のことばっか考えてないで、多少我儘になってもいいんじゃないの。科学者の件は片付いたことだし、これから自分のためにやりたいこと見つけて他人を頼ってみるとか」

「……考えたこともなかった。自分のため、なんて」


 エアストは眉尻を下げ、力なさげに笑う。日本生まれの彼女がどういう経緯でイギリスに渡ったのかは知らないが、帰国して数年、ずっとひとつの目的のために行動してきたのだ。そんな彼女にいきなりやりたいことを見つけろというのも酷だけれど、ここで前言を覆すつもりもない。


「……少し、考えてみる」

「……ま、何かの縁だし、俺にできることがあれば協力するよ」


 やがてそう答えたエアストに対し、俺は目を逸らしがちに返した。

 思い返せば不思議な出会いをしたものだ。これほどに生きる世界が違えばいつまた会えるかはわからない。ともすれば無責任な発言かもしれないが、彼女の家なら知っているからその気になればまた会えるだろう。かと言ってこちらから会いに行くなどという小っ恥ずかしい真似をする勇気もないが。


 長いため息をついてから、静寂を誤魔化そうとテレビのリモコンを手に取った。画面を何度切り替えてみても面白味のないニュース番組か知らない芸能人のバラエティが交互に映し出されるだけで、吟味する時間すら勿体ないと言わんばかりに早くもリモコンを定位置に戻す。

 食欲のそそられる食品会社のコマーシャルをぼんやりと見つめながら意識に上るのは、ここ数日間の非日常のことだった。


 思いがけない結末を迎えることにはなったものの、俺を取り巻く一連の騒動は確かに収束し、別の目的を掲げていたエアストも別の事件の解決によって救われた。

 雷豪曰くいつでも帰っていいとのことだが、これほどに刺激的で非現実的な体験をしておきながら、果たしてまた普通の学校生活に戻れるのだろうか。

 確かに今回のような命の危険に瀕するようなピンチに陥るのは二度と御免だ。さはさりながら、信じ難い事象であるからこそ日常よりかは充足感に満ちた感覚を覚えている自分が不思議で仕方ない。


 けれども――そうやって個人的な願望が叶う界隈でないことくらい百も承知だ。俺は超能力者でも政府の関係者でもない、ごく普通の一般人なのだから。

 潔く諦めて傷痕の周りを擦りながら新しく始まった日本国民お馴染みのアニメ番組を眺めていたところで――それに対する違和感を引き金に、もうひとつ知りたかったことを思い出して。


「ところで俺、何日寝てた?」

「今日は五日だから……丸四日。明後日火曜日から平日だ」

「……マジかよ」


 あっさり告げられた残酷な現実に打ちひしがれながら、俺はベッドに倒れ込んだ。

 もう二度とないほど貴重な俺の十連休は、組織の抗争に巻き込まれながら横腹の銃槍とともに幕を閉じたのだった。




 灯りのついていない薄暗い廊下に、ひとり分の靴音だけがコツコツと鳴る。

 留守のつもりなのか、それとも灯りを消せば不覚を取れるとでも考えているのか。

 せっかくの客人に対して失礼ではないかと内心ぼやきながら、私は向こう側に見える階段へ向かって歩き続けた。


 昨日、うちの組織の任務に巻き込まれた少年が撃たれたらしい。当たったとはいえ内臓には掠りもせず、弾も貫通していたから大事には至らなかったとのことだ。ただし本人は撃たれたショックによってか数秒と待たずに気絶してしまったと聞いた時には、上司の前で笑いを堪えるのに必死だった。

 その犯人を従えている組織の事務所が、この人気のない立地にひっそりと建つビルに構えられていた。

 いよいよ向こうから手を出してきた以上容赦はしなくていいとのことだが、任務を担当する私にとっては面倒なことこの上ない。互いに冷戦状態のまま大人しくいてくれれば誰も駆り出されなくて済むだろうに、こんな面倒なことをしてまで手に入れたいものとは一体何なのだろうか。


 突き当たりの階段まであと数メートルといったところで、不気味なほどに静まり返ったこの一角で人の気配を感じた。こういったものは尽く経験則であり、他人に伝える表現には形容しにくい。ただそれでも、それなりに場数を踏んできた私には、直接この目に映っているかのようにわかってしまう。


 ――そこに、いる。


 ゆっくり音を立てずにロングスカートの片側を捲り上げ、右脚の太腿に巻き付けられたホルスターから――この薄暗さに溶け込むような、漆黒の銃身に手をかけた。


「間抜けが! 食ら――、えっ……?」


 静寂を切り裂いた銃声は一発。

 利き手を撃ち抜かれた大柄の男は呻き声を上げながら蹲り、手を離れた拳銃はカツンと床に落ちると、勢い余ってこちらへ滑ってきた。

 ……グロック17か。かの有名なオーストリア産のシリーズの初代モデルだ。よくもまあこんな代物を調達してくるものだ、銃刀法の規制はどこへ行ったのかと憂いたところで、今自分のした行動を振り返ってみると乾いた笑いしか出なかった。


 私は他人の血を見て喜べるサイコパスじゃないから、無駄な殺生は望んでいない。やってしまえば後始末が面倒だし、かと言って回りくどいやり方を選ぶのも面倒臭いしなので、敵の無力化に一番向いているのはこいつだと判断した。

 失血死しない程度に、適当に相手の戦力を削げる部位を撃ち抜くだけ。そして、そうしなければならない気配はまだふたりほど残っている。


「畜生! やれ!!」


 背後から聞こえた怒号に続いて、大きな銃声が二発。

 方向は真後ろとやや斜め後ろの廊下の角といったところか。

 前者の弾は振り向きざまに横へ一歩ずれて躱せる軌道にあったが……もう片方はこの至近距離でありながら恥ずかしいほどに腕が悪い。まともに訓練も積まずに銃を持ってしまったらしい彼の弾は、真横に移動したはずの私の眼前へと迫っていて――それを私は、自らの銃弾で弾き落とした。


「な……っ!?」


 この薄暗さの中で意味を為していないサングラス越しにもわかる、ふたりの男の信じられないものを見たかのような驚きの表情。

 別に手品を演じたつもりなんてさらさらない。至極単純に銃弾の軌道を読んで、そこを狙って撃っただけの話だ。それすら目で追えないような下っ端の相手をしているほど今の私は暇ではない。


「ぐゥ……っ!!」

「ああァッ!?」


 左脚のホルスターから抜き取った拳銃はシルバーモデルで、窓から差し込む月明かりを微かに反射している。二丁の拳銃から同時に放たれた銃弾はいずれも彼らの利き手を正確に撃ち抜き、哀れな叫び声が大音量の銃声に負けじと続いた。


 痛みに悶え苦しむ男たちを一瞥して、私は散らばったグロックから弾倉を抜き取る。私の愛銃の口径に合うかどうかはともかくとして、弾薬だってタダでは買えないものだ。持ち帰って仲間に譲ればそれなりの金と引き換えられるだろう。

 手早く回収しきってスカートの内側へ収めた後、まずは最初に無力化した男へ再び銃口を向けた。


「ねえ、私も忙しいの。あなたたちのボスの居場所まで案内してくれない? 面倒だったら教えてくれるだけでもいいわ」

「うるせぇ、このガキ……っ!」


 ――ドォン――ッ!!


「……ヒィッ!!」

「聞こえなかった? ボスの居場所。それとも私にこの部屋数全部見て回れって言いたいの? やってらんないわ、こっちは早く終わらせて帰りたいって言うのに」

「わ、わかった、言う、言うから……ッ!」


 当てる気のない銃弾一発の弾痕を前に降伏宣言する男に呆れながら、三階の奥の部屋との情報を聞き出すと、今度こそ踵を返して階段に足をかける。

 もう何人といるかわからない標的を私一人で連れ帰るのは無理がある、どうせ事が片付く頃にはうちの人間が集まってくることだろう。それまで放っておいたところで彼らにできることはもうない。親を捨てて逃げ出す覚悟があるならまた話は別だが。


「……あ、もし間違ってたらあなたたち全員覚えてなさい」

「う、嘘はつかねぇよ!」


 こちとら無断で敵地に殴り込んできた身だ、罠である可能性を疑うのが妥当だろうけれど、ほかに手がかりもないのだから利用させてもらうのが早い。嵌められるものならやってみろという話だ。

 最後にそう釘を刺してから、足音を殺して階段を上り始めた。




 結論から言うと、情けない子分の情報は真実だった。ノックもせずにドアを開けると、一般人には価値のわからない抽象的な絵画の額縁をバックに、一際貫禄のある初老の男性が腰掛けていた。

 開け放たれたドアから差し込む月明かりに照らされる皺の寄った額と頬の傷が、この組織における彼の立場を物語っている。護衛すらつけずにひとりデスクに向かいながら待ち受ける度胸を評して、私は丸腰を装いながら部屋に足を踏み入れた。


 建物の中でも角部屋にあたるこの部屋は、ドアから入って正面、男が腰掛けているデスクの斜め後ろと、向かって左側の二方向にブラインド付きの窓が設えられていた。

 背後から差し込む光を頼りに周りを見回すも、特に興味を惹かれるものはない。何らかの資料が所狭しと並んだ棚と壁にいくつも飾り付けられた風景画を見たくらいでは、ここがヤクザの事務所のボス部屋だという事実にはそう辿り着けないだろう。

 その疑問の余地もない普遍的な認識を覆す唯一の存在を見て――私は、足を止めて口元を歪ませた。


「正直、驚いたわ。もう逃げ出しているものかと思ってた」

「ここまではるばるお越しになられたのだ。失礼な真似はできなかろう?」

「あなたの子分は平気で不意打ちしてきたけど?」

「許してやってくれ。彼らはまだ血気盛んな年頃なんだ」

「冗談でしょ、自分で指示したくせに。それに庇ってるつもりかもしれないけど、その可愛い子分は尋問するまでもなくあなたの居場所を吐いたよ」

「構わないさ。すべて想定の範囲内だ」


 男は椅子に座り込んだまま、腕組みを解いて冷ややかな笑みを浮かべる。使い込まれているはずなのに新品同然にも見える小綺麗なデスクの上は整理整頓されており、彼の手元に凶器となりうるものはないように見えた。

 縄張りにうるさいヤクザが事務所凸なんてされれば、問答無用で攻撃してくるものといった偏見を持っていた。それは先程までの様子を思い返せば事実だと証明できたが、少なくとも今の彼からは攻撃の意思が読み取れない。

 それだけ確認した私は、腰のベルトに取り付けられたポーチから一枚の紙切れを取り出し、お国からの恨みつらみが長々と書き綴られた面を前方へ向けて突き出した。


「秦野緑郎。殺人未遂、威力業務妨害、恐喝、器物破損、銃刀法違反、面倒臭いので以下略。簡潔に言うとちっぽけな三次団体の秦野組もろとも確保しろってお達しが来てるわ」

「……それは結構なことだ。だが、私とてそれなりに対価を払ってきたつもりだ。公的機関にしては筋が通っていない。少々強引すぎる気もするが?」

「だからこそうちの仕事なのよ。こんなのヤクザに飼い慣らされた警察には任せられるはずがないでしょ」


 余所行きのいい顔をして市民の味方を自称している公務員ほど、裏ではお上の顔色を窺いながら媚びへつらう。私がこの仕事で出会ってきた人間たちの中にも、金と地位を得るためなら反社と手を組むことも厭わない者がごまんといた。

 純度一〇〇パーセントの正義なんて存在し得ない。彼らの尻拭いをするために、自らグレーゾーンに浸かっていくのが我々の組織だ。

 かと言ってその行為の正当性を公平に判断してくれる審判がいるわけでもない、つまり私たちの行動原理を訝しむ権利は彼らにもあり、始まるのは権力者によって演じられる正義の正当化のいたちごっこだ。


 そう理解した上で私は丁寧な折り目のついた一枚の紙切れをポーチの中へ雑に押し込む。結局のところ下っ端に決定権などなく、今の私にできることは目の前の悪党を排除することだけなのだから。


「喧嘩は先に手を出した方が負け。うちに喧嘩を売ったあなたの運の尽きね」

「我々のシノギの稼ぎ頭を告発したことを忘れたとは言わせんよ。軌道を修正するのにも手間がかかったものだ」

「堂々と法を犯しておきながら被害者ヅラ続けるつもり? 笑わせるわね」

「では君に問おう。法の網では掬い取れず爪弾き者にされる命がこの国でどれだけ存在するか考えたことはあるかね? 彼らに居場所を与えられる法が整備されていないとしたら、助けたいと思うのも悪なのだろうか?」


 大仰に両手を広げた男――東京に本部を置く指定暴力団の三次団体こと秦野組の組長・秦野緑郎は、私がここに訪れた理由すら認める気がないといった様子で立ち上がり、ニヒルな笑いを浮かべながら窓の外を見やるように振り返る。


「我々にとっての正義とはそういうものだ。唯一の居場所すら潰しにかかる悪の組織に抵抗する権利は我々にもあると思うが、どうだろう? 人様の寄り付かないこんな場所に、それもまだ幼いというのにひとりで寄越されるなんて、どうやら君も相当に訳ありのようだ。私の話に耳を貸してはくれないか?」

「その崇高な正義のために無関係な人間を犠牲にしようとしておいてよく言うわ。悪いけど老人の長話に付き合ってる暇はないの。私だって明日も食べていくために、早くあなたたちを片付けないといけないんだから」

「……ふむ。それは残念」


 若衆を蹴散らしてカチ込んできた敵に背中を向ける男は、心底残念そうにしゃがれた声を絞り出す。

 彼の勧誘を笑い飛ばすのは簡単だ。正義がどうとか他人がどうあろうが私は興味がないし、自分の生活のために目の前の仕事を片付けること以外は考えるにも値しないのだから。


 なのに憂鬱なため息が漏れてしまったのは、自分にも思い当たる節があったからなのかもしれない。口から出任せを言っているようにも聞こえない彼の熱演に聞き入ってしまわないように、そっとスカートの上からホルスターに触れる。


「全く、君たちの組織のやり方には憤りを覚える。もし我々がもっと早く出会っていれば、こんな鉄砲玉に成り下がらないよう、君を救ってあげられたかもしれないのに」

「余計なお世話。ヤクザのお手伝いなんてこっちから願い下げよ」

「そうじゃないさ。我々のシノギは児童養護施設にも手を伸ばしているからね。しかし運命とは時に残酷だ、我々がこれほどにも救いたいと願っている存在を、我々の手で葬らねばならないなど――」


 再びこちらへ向き直った秦野が意味深長な間を置くように見せかけながら、デスクの引き出しの位置へ手をやったのを私は見逃さなかった。

 照準を合わせる時間は不要。西部劇のガンマンよろしく引き抜く動作とともに銀色の愛銃から放たれた銃弾は彼の手元を撃ち抜くはずだったが、それを見越してか身体を反転させながらデスクの陰に潜り込んだ彼に命中することは叶わず、木目調の壁紙に似合わない銃痕が生まれたのみだった。


 外した一発に同調するように複数の銃声が鳴り響く。方向はドアが開け放たれたままの入口、後方だ。

 空いている右手で素早く右側へ側転を切りながら横目で後ろを確認し、上下逆さまの視界で二発ほど撃った先に敵の姿はない。今しがた撃った二発は、躱し損ねる軌道上にあった相手の銃弾を弾いてくれたものの、これは防御であって反撃ではない。

 けれど、その手掛かりを掴むのは簡単だった。入口の陰に隠れる動作に一足遅れて揺れたジャケットの裾がちらり、それさえ目に入れば相手の位置取りくらい手を取るようにわかる。


 入口の壁が妨害している以上、部屋の中から相手を射線上に捕らえることは不可能だ。確実に始末するために部屋から飛び出ようものなら、隙と見た秦野からの攻撃を背に受ける危険性もある。


 よりにもよって敵側だけがバリケードを有する不利な挟み撃ちの状況で、私が取った選択は。

 後ろに引かれた左手の銀色の愛銃で入口右側の陰を狙うように一発。誰が見ても当たるはずのない銃弾は、威嚇射撃だと捉えられたかもしれない。そんな無駄な真似を私ができるとでも? 弾薬だってタダじゃ買えないのに。


 一発目が撃たれてからコンマ数秒と経たない数瞬の後に、今度は右手の黒色の愛銃が唸りを上げる。私自身が右にずれたことで開いた角度で、


 入口まで辿り着いた一発目の銃弾は、斜め後ろから追ってきた二発目の銃弾に弾かれて入口向こうの左側の陰へ。そして軌道の逸れた二発目の銃弾は、ジャケットの裾が見えた右側の陰へ。

 ドアの前で交わった二発の銃弾がビリヤードのように互いの軌道を狂わせ合ったその直後、ふたりの男の呻き声のようなものが聞こえた。最初の銃声は複数だったから両側に隠れているものと仮定して撃ったが、どうやら予想は的中していたようだった。


 彼らに続く足音も銃声も聞こえない。残るは組長、秦野のみ。

 そう確信して彼の潜り込んだデスクを目で追うと――金属が擦れるような乾いた音がひとつ鳴り、デスクの陰からころころと見慣れない楕円体から転がり出た。


 シンプルなデザイン故に玩具と見えなくもないそれを視認するや否や――私は反射的に入口の方へ振り返るが、その瞬間にはドアが外側から閉められ、鍵が掛けられる音までした。小癪な、小物らしくせめての抵抗か。

 舌打ちしながら地を蹴った私の目が見据えるのは、M67破片手榴弾――人間の殺傷を目的とした立派な小型爆弾だ。

 貫通性能には劣るため障害物さえあれば脅威ではないものの、そうでなければ殺傷範囲は十五メートル、殊に五メートル以内にもなれば確実に致命傷。そして、入口に鍵が掛けられ、唯一の隠れ場所と言えるデスクには秦野が身構えている。


 逃げ場のない私に与えられた猶予は――五秒。それが、信管に点火されてから爆発するまでの時間だ。最早、対処に悩む余裕なんてなかった。


 ――一秒。

 両手に構えた愛銃で、入口から向かって左側に設けられた窓ガラスを撃ち抜いた。

 一発二発では全体破壊には至らない。銃弾という接触面積の小さい衝突物によるヘルツ破壊では、それが通過した穴と周囲に僅かな亀裂が生じるのが関の山だ。


 ――二秒。

 爆発物のもとへ向かう足は止めることなく、最初に命中した弾痕を囲うように、二発三発と連射する。値の張る銃弾をこんなことに使いたくないと歯噛みしつつも、あの破片の雨から逃れるためにはこうするしかなかった。第一、一組織をひとりで相手させているのが非常識なのだ。上には弾薬代を上乗せして相応の報酬を提示してもらうほかない。


 ――三秒。

 弾倉に残っていた銃弾を撃ち尽くすと、床に転がる危険物のもとへ滑り込み、下段回し蹴りの要領で爪先に乗せ蹴り上げた。両手の愛銃をしまう手間も惜しい私は、頭上に上がった手榴弾を、先程の勢いを殺さぬままハイキック。狙う先は、勿論暗い窓の向こうだ。


 ――四秒。

 十数発もの銃弾が精密な軌道で抜けていったガラスの穴は、弾痕とは思えないほどにまで肥大化していた。

 ――それこそ、には。


 ――五秒。

 放物線を描いたそれが庭へ落ちていくのを見届けながら両手の弾倉を引き抜くと、両脚のホルスターから薬指と小指で摘むようにして取り出した替えの弾倉を放り、空中で同時に装填する。


 そして。


 ――ドォォォォン――――!!


 破片手榴弾の威力はひとつひとつの破片が銃弾そのものと例えられるほど強力だ。しかし、爆発した場所が階下ともあれば三階に位置するこの部屋への影響はないに等しい。

 耳を劈く勝鬨を背に、リロードを終えた漆黒の愛銃を構える。その射線が捕らえるのは、様子見のつもりか顔を出した秦野の額だ。


「大層なもの仕入れてるじゃない。不良品じゃなくてよかったわね」

「……ほう」


 開き切った瞳孔では彼の表情もよくわかる。限りなくこの世のものとは思えない異端者を見たかのような視線は、この仕事のおかげで慣れっこだ。

 ただひとつ眉を顰めざるを得ないことがあったとすれば、その瞳が徐々に慈愛の色へ変わっていることだった。


「……しかしだ。君もどうやら限界らしい。無理はしない方が賢明と見える」

「……何のことかしら」


 道化を演じて誤魔化そうと試みたものの、どうやら隠しきれなかったらしい。銀色の愛銃をホルスターに戻し、残った震える銃身を左手で支えて標的を睨んだ。


 ――また、例の副作用だ。

 鼓膜に直接響いてくるかのような動悸。求めていない酸素を過剰に得ようとしている呼吸。

 鼓動に合わせて締め付けてくる頭痛に顔を顰め、額に脂汗が浮かぶのを感じながらも銃口の先は逸らさない。

 意図せず生じた反動が、日に日に強くなっていることは自覚していた。特にここ数日の間は、ベッドの上から動けなくなることも珍しくなかった。仕事に呼び出されない限り望んで寝床から動きたいとは思わないとはいえ、今こうして仕事に駆り出されている時にまで主張してくるとなると話が違う。

 止まぬ疼痛を悟らせないようにするのも無理だと判断した私は、口元を歪ませながら汗を拭う。


「今なら、反撃のチャンスかもね」

「……いや、いい」


 虚勢を張ったと見せかけてせめて油断を誘えればという策だったのだが……秦野はかぶりを振って立ち上がり、隠し持っていたグロックもセーフティをかけてデスクの上に置く。

 呆気に取られる私と向かい合うと、背の高い彼は見下す姿勢のまま、ゆっくり落ち着いた口調で続けた。


「負けは負けだ。潔く認めよう」

「私、これでもひとつの組織を解体しに来てるんだけど。今になってそれを飲めるって言うの? これまでの抵抗は?」

「勝算のない抗争を意地張って続けることで称えられる時代はもう終わっている。君のような存在すら救えなかった時点で、我々は既に負けていたのだ」

「……何が言いたいのかわからないんだけど」


 まるで私の出生に心当たりがあるかのような口ぶりでに聞こえて、心の中でその可能性を否定する。

 この情報はそれなりの機密だ、日本のこんなちっぽけな暴力団組織が得られるはずがない。

 銃の構えはそのままにポーチから手錠を取り出そうとしている間も、秦野はそれ以上深く語る気を見せなかった。


 そしてその両手首に手錠を掛けられた時、彼は温和な笑みを浮かべて問う。


「いずれ知ることになるだろう、君はまだ若いのだから。だが最後に……この秦野組を打ち破った、その名前を教えてくれないかね?」


 動悸の治まってきた私は、それに答えるべきかしばし逡巡した。

 私の今日の仕事はこれで片付いたのだ。これ以上面倒の種を撒くつもりはないし、関わりのないヤクザに身分を教えてやる義理もない。

 さりとてそれに従わないことで厄災が降りかかるわけではないのも事実といえば事実。大人しく身柄を拘束されてくれた見返りという口実にして、私はため息をひとつついてからその質問に答えてやることにした。


「――ツヴァイト」


 今となっては自分の口で言うのも嫌気が差す名を。

 ツインテールに結い上げた長い銀髪を割れた窓から吹き込む夜風に靡かせながら、今一度吐き捨てるように口にする。


「対テロリスト国際連合『Atlantisアトランティス』特務科所属、ツヴァイトよ。覚えておきなさい」

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黒羽根導くその未来 霜山美月 @fireflyCOBRA

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