唯一の場所

みずの しまこ

唯一の場所

 来客を告げるチャイムが部屋に響く。仕事を終えて帰宅し、残り物のおかずを適当につまみ、シャワーを浴びてさっぱりしてからのことだ。

 こんな時間に訪ねてくるやつなんて一人しかいない。解錠した扉の向こうから突き刺さるような冷気とともに現れたのは、予想通り、困った笑みを浮かべる幼なじみの詩音しおんだった。

「よっ、奏多かなた

「ここは避難所じゃないぞ」

 言いたいことも聞きたいことも山ほどあるが、さっさと部屋に上がるよう促す。

「急にごめんね」

 無遠慮なのはいつもだろとこぼしながら、さり気なくエアコンの温度を上げる。俺が詩音に甘いのだっていつものことだった。

「腹は?」

「空いてないけど、温かい飲み物が欲しい」

「コーヒーでいいか? 今インスタントしかないけど」

「たまには奏多の本気コーヒーが飲みたーい」

「仕事は家に持ち込まないって言ってるだろ。飲みたいなら店に来い。ちゃんと財布を持ってな」

「ちぇ」

 マグカップを二つ並べて粉と湯を適当にいれる。こういうのは飲めればいいのだ。いつのまにかこたつに入ってくつろいでいる詩音の前にカップを置いてから、俺はふと思い出す。

「そうだ。お前ラッキーだな」

 なにが、と少しだけむっとした表情を見せる詩音に、冷蔵庫から取り出した手のひらサイズの器を渡した。

「なにこれ。プリン?」

「試作品の余り物。感想よろしく」

「仕事は家に持ち込まないんじゃなかったの?」

「かわいくないやつ。プリン好きだろ?」

「……好き。いただきます」

 行儀よく手を合わせ、まずコーヒーに口をつけるとようやくひと心地ついたらしい。俺も詩音のすぐ隣に腰をおろし、器の中身をスプーンですくう姿を眺める。詩音が好きな、弾力と硬さがある昔ながらのプリンだ。

「おいしい。お店のやつみたい」

「だから店に出すんだっつの」

「コクがあっていい卵使ってるのがわかるし、カラメルのほろ苦さが大人向けだね。コーヒーにもすごく合うしこれは絶対売れる。採用!」

 屈託のない笑顔はずっと変わらないままで安心する。

「……お褒めに預かり光栄です」

 その緩みが俺を動かす。嫌だなと思いながら手を伸ばしてしまう。詩音の、赤く腫れた頬に。

 冷やしたほうがいいのか、冷凍庫に保冷剤はあっただろうか、痛々しいあざになってしまったら困る。思考するだけで行動には移せず、無意味に時間が過ぎていく。なぜだか少し息苦しい。

「なにも聞かないの」

 詩音は感情を閉じ込めたような声でつぶやいた。

「お前が言わないなら聞かない」

「……ま、さすがにもう別れるよ。見えるところ殴るようになったらおしまいだね」

「場所なんて関係ないだろ」

 むしろ見えない部位の方がタチが悪い気がするし、詩音には申し訳ないが、終止符を打てるのならこれでよかったのかもしれない。

「そうだよね。色々麻痺しちゃってたのかなぁ、だめだね」

「ちゃんと逃げられるのか?」

 いざとなったら匿う準備だってできている。しかし詩音は「殴り返しちゃったから逆に訴えられるかも」といたずらな笑みを見せた。

「心配して損した」

 似たような笑みを返し、俺はようやく手をおろすことができた。

 詩音は空になった器をテーブルに置くと、珍しくごちそうさまも言わないままに切り出す。

「悪いんだけど、今晩だけ泊めてくれないかな」

 そんな頼みごとは初めてで少なからず驚いたが、次の瞬間には「いいよ」と答えていた。詩音がこれ見よがしにため息をつく。

「奏多ならそう言ってくれると思った。でもやっぱりだめだ、彼女さんに悪いし」

 今さらのように胸がちくり、一本の針が刺さったように痛む。これが罪悪感なのかは自分でもわからない。

「あいつは気にしないし、ここで詩音を追い返す方が怒ると思う」

「相変わらず信頼度マックスか。嫉妬に狂いそう」

 恨めしげな視線を無視して俺は続ける。

「それにもし立場が逆だったら? 詩音は俺を、大事な幼なじみを見捨てるのか?」

 詩音は別に俺と一緒に過ごしたいわけではない。腫れた顔のまま実家に戻れば家族がひどく心配するだろうから。つまり俺にだけは心配をかけてもいいと、詩音は考えているのだ。

「絶対に見捨てない」

 その答えが聞きたかっただけなのかもしれない。

「ごめんね。持つべきものは優しい幼なじみだ。襲ったりしないから安心して」

「お前は俺に優しくないけどな。……風呂入るだろ、用意してくるから」

 立ち上がり詩音に背を向けると、引き留めるような声で「奏多」と呼ばれる。

「プリンごちそうさま。今まで生きてきた中で一番おいしいプリンだった」

 ちく、ちく。胸に刺さる針は二本、三本と増えていき、そのうち剣山のようになってしまうだろう。

 付き合っていた彼女とはとっくに別れている。

 詩音にとっての唯一でいられるならば、自分の痛みなんてどうでもよかった。

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