第5話 純粋な無職の男は、人形を持つ5歳の少女の魂に惹かれる

 この世の中を生きるのに、自分は純粋過ぎるのだと屋代礼二は思っている。


 礼二は自分を偽るのが嫌だった。人に合わせて自分を押し殺し、言いたいことを言わずに、言いたくない事を言うことは、礼二にとっては自分への裏切りであり、汚れた迎合と精神の敗北だった。

 そして、その考えは自分の素直さの表れで、純粋さであると思っていた


 当然、人付き合いは悪い。礼二の評判は「変人」「協調性なし」という看板と値札だけがつけられた。しかし、それでも礼二は相手に受け入れて欲しいという願望はあったし、自分に素直な事が何故悪いのかと思っていた。

 現に「あなたはありのままでいい」と詠う詩人がいて、彼の詩は添えられた墨画もセットで世の中に受け入れられているではないか。


 それなのに、同じことを礼二が言えばバカにされる。

 礼二は落胆した。そして、周囲が無理解だと考えた。そんな精神的に格下な奴らと付き合うなんか、こっちから願い下げだと心のドアを固く閉じた。

 しかし残念ながら、礼二の周囲はそんな格下ばかりが溢れていた。就活の面接で立ち会った面接官も、同様だった。


 就職活動は、面接で全て落とされた。

 世界でただ一人、礼二の味方である母親はそんな結果に深く心を痛め、自分の従兄が経営する会社に口を利いて、礼二を入社させた。

 しかし、残念と不幸の二乗で、従兄の会社は礼二の嫌う「下等な人間」ばかりだった。


 礼二に対して偉そうに、協調性や礼儀をねちっこく図々しく押し付けてくる。

 回してくる仕事は、奴隷や召使がするようなゴミ捨てや書類整理ばかりだった。

 礼二は能力を持て余した。


「この仕事は、俺にとって仕事なんかじゃない」

「もっとマシな仕事はないのか」


 礼二の訴えに、上司はその願いを受けとめてくれるどころか「その前に、まずこれをしろ」「お前の能力じゃ任せられない」と説教まで垂れて、礼二そのものを否定した。

 礼二は絶望した。

 会社は礼二そのものを貶め、価値を剥奪する場所だった。

 礼二は机に座っただけで、呼吸困難に陥るようになった。


 窒息死せずに済んだのは、どうしても会社に行きたくなかったので一週間、無断欠勤をしたからだ。

 会社からの連絡を受けて、実家から母親が飛んできた。

 そして一緒に心療内科に駆け込んで『うつ病』と診断された。

 おかげで、礼二は会社を悪者にして、堂々と辞めることが出来た。


 そのまま実家に戻ってしまおうと思ったけれど、実家は仲の悪い姉とその亭主に占拠されていて、夫婦そろって礼二の出戻りを拒否した。収入の無い礼二に、母親がマンションの家賃と生活費を援助してくれることになった。

 礼二の母親は、礼二を就職させたことを悔やんでいた。


「私があんな会社に礼ちゃんを入れたから、礼ちゃんは心の病気になったんだ」

「礼ちゃんが元気になるまで、面倒をみるのが私の償いだ」


 会社へ行く必要もなくなった礼二は、毎日昼前に起きる。

 そしてマンションの向かい側の道に建つコンビニへ行き、弁当と雑誌を買う。部屋に戻ってテレビや雑誌を楽しみながら弁当を食べ、プリンやコンビニケーキなど、デザートも済ませてから部屋をそのままに外に出る。

 そして、適当に周辺をぶらりと散歩する。礼二が外に出ている間に、母親が実家からやってきて、掃除や洗濯など家事をしてくれる。

 時には食事に野菜が足りないからと、野菜たっぷりの常備菜の保存パックと、小遣いを置いていってくれる。


 生きるために、何もすることはなく、何かをする必要のない暮らしだった。ケッコンとかカテイとかコイビトとか、礼二の耳に雑音が入って来る時もあったけれど、雑音以上にはならない。

 外に出て、働いている他人が目に入ると、礼二は自分だけが時間から切り離された、透明な箱に入っているような気がする

 多分、自分はずっとこのままなんだろうなと、礼二は思っている。


 自分を偽れず、人に迎合できない性根ゆえに、蛇と犬が混じり暮らす社会に溶け込めない。礼二に対し何を考えているのか想っているのか、分からない他人なんかとは交われない。

 事実、会社員は人生最悪の暗黒時代だった。もう戻りたくない。

 下等な相手と交われない以上、孤高が自分の運命だ。



 その日も、いつもと同じ日だった。

 礼二は昼前の11時頃に目を覚まし、ベッドから起きて、枕元の財布を掴んで、寝間着のまま部屋を出た。マンションと道を挟んで向かいのコンビニに入る。

 レジで雑談をしていた女性店員が、店に入って来た礼二を見るなり無表情になった。礼二は唐揚げかハンバーグか、そしてプリンかチーズケーキと、それぞれ手に持っていじり回し、40分以上悩んだ末、ハンバーグ弁当とプリンを選び、そして雑誌を手に取った。


 レジに商品を置くと、店員の顔がわずかに歪んだ。

 料金を払って出て行く時『クサイ』と背中から聞こえた気がした。

 5階建てのエレベーターのないマンションは、オートロックでもない、築年数も古い灰色の箱だった。

 錆びた手すりを掴み、狭い階段を昇って3階まで昇る。礼二は、階段を昇り切った踊り場でポケットから鍵を出した、その時だった。


「あっ」


 小さな悲鳴が上がり、太腿に柔らかいものがぶつかった。拍子に手から鍵が生き物のように飛び跳ね、踊り場から下の階段へ滑るように落ちていった。

 弁当とデザートは無事だ。

 しかし、階段の一番下に鍵が落ちている。礼二は舌打ちした。

 その時、礼二にぶつかって来た影が階段を降り、鍵を拾った。そしてまた駆け上がって来た。


「ごめんなさい」


 怒鳴りつけてやろうとした衝動が、立ち止まった。

 その子は、礼二を見上げて鍵を差し出した。

 頼りないほど小さく、可憐な手だった。


「ぶつかってごめんなさい。よそ見してました」


 素直な謝罪。

 大人とは違う、濁りの無い瑞々しい声の音色に、礼二の耳は癒された。 

「あ、う」礼二はどもった。

 相手は、小学生かそれ以下の幼女だった。

 まるで、子ウサギのようだと礼二は思った。

 つぶらな瞳に礼二はうろたえた。

 少女は、怯えた顔で礼二を見上げた。頼りなげな可憐さに、礼二は自分が悪役になった気さえした。


「べつに……」

「何やっているの、ありさ!」


 割り込んできたのは、ヒステリックな声だった。

 髪の長い若い女が、階段の踊り場にいる二人に向かって来る。見た瞬間から、荒々しくて険しい女だった。


「勝手に行くんじゃないって、待ちなさいって言ったでしょ!」


 女は礼二から少女を乱暴に引き剥がした。

 少女は震えだし、ガクガクと壊れた玩具の動きで女を見上げた。


「でも、まま、さっき、はやくいきなさいって……」

「待ちなさいって言ったのよ!」


 礼二の前で、女が手を振り上げた。少女の頬に破裂した音が鳴った。

 女は礼二を壁のように無視し、少女の腕をもぎ取るように掴んで、引きずり下ろすように階段を降りて行く。礼二と少女の目が合った。

 白い頬につけられた、赤い殴打の跡を見た礼二の心臓は、宝物を横取りされた犬のように鳴り響いた。


 言葉に出来ない焦燥感と怒りが頭を駆け巡った。

 気が付くと、階段を駆け下りていた。マンションの入り口に女と少女がいた。女は少女を乱暴に捕えたまま郵便受けを探り、そして外へ出る。

 礼二は、その後姿が見えなくなった後、女が探っていた郵便受けを確認した。

 隣の部屋の住人だった。


『303号室・山瀬美也・ありさ』


 色の無い世界に咲く純白の花のように、礼二の脳裏に少女の顔と名前が焼き付いた。

 

 次に少女を見たのは、近所の公園だった。

 一度しかまともに顔を見ていないのに、礼二の中で永遠となっていたそのシルエットは、礼二の目に鮮やかに飛び込んできた。

 母親の邦子がマンションで掃除洗濯をする間の、散歩の途中だった。姉や父親のように、礼二に対して叱責も小言も言わない、献身的な奴隷のような母親だったが、礼二は何故か母親の愛情にうっすらとした嫌悪感があり、顔を合わせないように、母親と入れ違いに家を出る。



 住宅街の隙間に、無理矢理押し込めたような小さな公園に、少女はいた。

 狭い砂場と、錆びたブランコしかない寂れた景色、色あせたベンチに腰掛けて誰かと向かい合っている。

 向かい合う相手は、赤一色の奇妙な子供だった。

 しかも、やけに小さい。

 赤ん坊だとかそういうのではなくて、体の縮図が小さいのだ。

 礼二は目を凝らした。


 奇妙な子供は、人形だった。

 それが分かれば、変哲もない光景だった。しかし、静かな小さな公園で、人形と何かを話している少女の姿は、静謐な一枚の絵だった。

 ……愛らしい。

 礼二の胸に、感動が込み上げた。芸術や詩を理解したことがない感性に、初めて染み入って来る感情だった。


 今まで、礼二が見てきた『女』という性と同じものでありながら、全く違うもの。

「未完成」というあどけなさと「可能性」という希望が具現化したもの、それが目の前にいる少女……山瀬ありさだった。

 花弁が開く前の固く閉じられたつぼみには、欠落感と生命力が内包されている。その瑞々しさが、礼二の心を打つ。

 ここ数年、礼二の心は砂のように乾き、石のように固まっていた。


 しかし、ありさの潤いに満ちた姿によって、変化が起きた。

 今までにない衝動が湧き上がる。それは破壊なのか庇護なのか、自分にも分からない複雑なものだったが、この少女に近づきたいと、ありさと関わりたいと、強く思っていることは確かだった。

 女という生物は、美人でも醜女でも、礼二を馬鹿にするか嫌うか、そのどちらかだった。


 だから、礼二にとって女は全て敵だ。

 しかし、ありさはきっと違う。「女」という性を持つが、「女」ではない。

 あの階段での態度からもそうだ。ありさは素直で、しかし礼二より非力で、うさぎのように礼二を恐れていた。

 礼二は傷つけられる恐れはない。


「……あの……」


 それでも、かけた声はかすれた。

 ありさが顔を向けた。

 その小さな顔にすうっと浮かぶ警戒心に、礼二は悲しくなった。


「あの、おれは……おぼえてる?」


 ありさは礼二から顔を背けると、助けを求めるように人形を見た。

 そして礼二を見る。


「ここ、すわっても、いい?」


 ありさは、明らかに怯えていた。


「お兄ちゃんはね、キミのお隣にすんでいる人だよ」


 ありさが礼二を知っているのかどうなのか、しかし初対面に近い男に怯えるのも、無理はない。礼二はそれをほぐそうと猫なで声を出した。


「かわいい、お人形だね」


 見せてくれる? そう言って手を伸ばす礼二から、ありさは人形を抱きしめて後退した。

 そのまま背中を向けたありさに、礼二は小さな舌打ちをした。

 その時だった。威圧感が不意にぶつかって来た。

 礼二は思わずたじろいだが、威圧感の正体が人形の視線であることに気が付いた。

 人形は、少女の肩越しに礼二をじっと見つめている。

 非人間的なガラスでありながら、奇妙な光が宿る人形の目に見つめられて「厭だ」礼二はとっさにそう思った。


「……なあに? びびあんぬ」ありさが小さな声を出した。

 そう? うん? そうなの? 小声が聞こえた。人形と会話している。

 くるりと、ありさは振り向いた。


「……ビビアンヌが、おはなししてもいいって」

「びびあんぬ?」

「この子のなまえ」


 礼二の顔を見ようともせず、ありさは人形がかぶっている赤い帽子の位置を直した。


「あんた、いや、きみ……おじょうちゃんが名前を付けたの?」

「ビビアンヌが、じぶんでそう言ったから」


 礼二は隣に座り、改めて人形を観察した。

 厭な人形だ。さっき咄嗟にそう思った人形は、金髪と青い目の西洋人形だった。

 薄汚れ、古ぼけた赤いドレスと帽子をつけている。


「どうしたの、その人形」


 小さな声が返って来た。


「ついてきた」

「……ありさちゃん」


 ようやくありさはまともに礼二の顔を見た。しかし、何故知らない男の人が自分の名前を知っているのかと、目には驚きと警戒の色がある。


「だって、ボクは、ありさちゃんのお家の、隣のお兄ちゃんだよ。だから、おともだちだ」


 精一杯優し気に、ありさに逃げられないように、小鳥に近づくように用心した。


「隣に住んでいるから、怖いこともないし、悪い人じゃないよ。ありさちゃんが一人でいるから、心配になっただけだよ。どうしてこんなところにいるの?」

「……ママ、あたまがいたいから、おそとであそんでなさいって」


 ありさは、悲しそうな顔で呟いた。


「おばちゃんのところへ行きたいけど、おばちゃんの家、遠いし、ママはおばちゃんキライっておこるし」


 半袖から出ている白い腕に、赤い筋や痣がいくつもある。惨い模様だった。


「その腕、どうしたの?」

「ころんだの」


 ありさの言い訳に、礼二の腹がざわりとうねった。

 よくよく耳を澄ませてみれば、マンションという箱の中は生活音の詰合せである。

 ドアから、窓から、ベランダから、壁を伝い、隣人の気配や声がひそやかに、はっきりと聞こえてくる。

 礼二も、その中の一人に間違いない。

 テレビの音や母親の家事の音、足音を振り撒いているはずだった。


 礼二の隣も、ありさと若い母親の生活音を振り撒いていた。

 子供がいる家庭は、明るさと騒々しさに満ちている。

 子供の笑う声は甲高く、悪気はなくても騒がしいのが子供だというのに、隣は違った。

 静かだった。しかし、それは静謐や穏やかというものではなく、気配はあっても居留守を使っているような、陰湿な不吉さがあった。


 しかし、時に険しい声と泣き声が聞こえた。

 ありさだけではなく、若い女の泣き声の時もあった。

「死ね」「みんな、死んでしまえばいいんだ」被害妄想と恨みと憎悪がこもった罵声が聞こえてくるときもあった。あの罵声と憎悪のはけ口が、ありさにも向けられているのは間違いなかった。

 あの傷だらけの腕は、どう見ても折檻の痕だった。


 それなのに、ありさは「ころんだの」そう言って母親を庇っている。

 礼二は心が潰された。



「あのさあ」


 ある日、礼二はマンションに、掃除のために通って来る母親に聞いた。母親は滅多に部屋にいない息子がいるのを見て「珍しいわね」と言った。


「隣の部屋に、若い女と子供が住んでいるの、知ってる?」

「ああ、まあ、見かけたことはあるわ」

「どんな感じ?」


「どんな感じって、あんた……」母親は、ゴミ袋に弁当箱やスナック菓子の空袋を放り込みながら、壁にちらりと目をやり、声を低くした。


「シングルマザーですって」


 ああ、そうと礼二は言った。母親は続けた。


「旦那さんが女作って、逃げたんだって。お気の毒にねえ」 

「へえ」


 管理人さんに聞いたんだけど、前置きの後に母親は続けた。


「それでちょっと頭がおかしくなったみたいね。マンションの住人と、よくトラブル起こして困るって、もう出て行って欲しいってマンションの管理人さんがぼやいていたわ……何だか、消費者金融に借金もあるらしくって、借金の取り立てらしい変な男がうろついていたこともあったとかねえ。そんな人が隣なんて、オオイヤだ。シングルマザーだの、もめごとだの借金だのって、出て行って欲しいなら、さっさと追い出せばいいのにさ」


 まるで荒んだ公衆便所の中を語るかのように、ぶるっと身を震わせる。


「娘はまだ5才らしいけど、母親がそんなんじゃ、その子もお終いよね」


 可哀そうにねえと、子供に対する機械的な同情の後、母親はふいに掃除の手を止めた。


「いくら隣で若いからって、あんな女と関わっちゃ駄目よ。礼ちゃん。そんなのロクな事にならないわよ、分かってる?」


 何を想像したのか、鋭い目と声で息子を睨みつける。しかし、礼二が関わりたいのは母親ではなかった。

 ありさなのだ。


 可哀そうにと思う。あんな頭のおかしい女が母親だなんて、礼二は心の底からありさを想い、同情した。あんな女が母親としてのさばっている内は、ありさに明るい将来どころか、笑顔の瞬間すら訪れない。

 その日も、ありさは小さな公園にいた。

 あの赤いドレスの人形と一緒にベンチに座っていた。

 礼二はそれをずっと見ていた。


 あんな小さい子が、何も知らないまま過酷な状況に置かれているのだ。それを想うと、可哀想でいたたまれない。

 ここに味方がいると教えてやりたい。ありさを懐かせたい。

 こんな自分が、世間ではどんな風に見られてしまうのか、礼二も分かっていた。幼女趣味だという犯罪者予備軍だ。

 しかし、自分のそれは違うという自負と矜持があった。


 自分はありさが持つ、穢れの無い透明な部分に惹かれている。弱い存在を守り、救いたい。それはグラビアアイドルの胸の谷間に感じる欲望や性欲ではなく、同じ純粋な者同士が惹かれ合う、魂同士の崇高な触れ合いだった。

 友達も無く、薄汚れた人形を相手にしているありさの姿が痛々しかった。こんなガラクタを大事にし、心の拠り所にする無力さがいじらしい。


「その人形と、毎日あそんでいるんだね」

「にんぎょうじゃない、ビビアンヌよ」


 ありさは言った。


「ありさのだいじなおともだちよ。ビビアンヌも、ありさとずっといっしょにいたいって」


 子供らしい擬人化だった。


「でも、ママはビビアンヌがキライなの。キモチわるいんだって」


 悲しそうな顔をするありさだったが、礼二にとってその点だけは、あの女と同感だった。

 ありさは随分とお気に入りのようだが、礼二にとって中途半端に大きく、古ぼけた人形など不気味でしかない。

 金髪の髪の色は妙にくすんでいるし、色あせた赤いドレスや、陶器の肌のねっとりした質感が中途半端に生々しい。

 しかも、目の光彩が本物の眼球のようだ。

 もしかして、人形のふりをした生き物じゃないかと思わせる存在感があった。


「ビビアンヌは、ありさにいろいろお話をしてくれるの」


 ありさは、ビビアンヌには子供らしい笑みを向ける。


「ずっとずっとむかし、エソンヌってところに住んでいたって。ありさとおなじくらいの女の子とおともだちで、そのこもビビアンヌってなまえだったって。その子が大きくなって、ママになって、おばあちゃんになってしんだ後に、ここにきたんだって。それから……」


 礼二は、ありさが紡ぐ人形の物語に聞き惚れた。 

 自分へ向かって一生懸命に語る声を、音楽のように聞いていた。

 山で男の人に拾われて、男の人からうるさい女の人にもらわれたとか、おじさんから変な家に連れていかれただの、たくさんの布の下にいたとか、土の中に埋められ、いやになってその家から逃げてきたとか、突拍子もない冒険譚が、実に子供の創作らしい。


 子供が作った人形の物語だけあって、現実と想像があちこちで混ざり、筋が奇天烈な方向へ飛ぶのは仕方がない。

 それに、内容などどうでも良かった。


「ビビアンヌは、さいしょのビビアンヌはスキだけど、ほかのひとはキライだったって。だけど、ビビアンヌ、ちゃんとしたお家がほしいんだって。ありさのことスキだって」

「お兄ちゃんの事を、ビビアンヌはどう思っているんだろう?」


 礼二は人形に媚びた。

 ありさを懐かせるには、この人形も大事な小道具だ。

 人形に取り入るフリを見せれば、おのずとありさも心を許すだろう。


「ええとね」


 内緒話を利くように、人形に自分の耳を寄せる。

 そして、人形と礼二を交互に見比べて、困った顔になった。

 ありさは母親に辛くあたられているせいで、幼いながらに世の中の全てに警戒心を抱いているのだと、礼二は思う。

 そのせいで、本当の味方である自分に対しても、すぐには信じられないのだ。

 ありさは、じっと人形を見つめていた。

 まるで、人形の無言の声を聞いているように。


「お兄ちゃんは、ありさちゃんの事が大好きだよ」


 礼二は、力を込めに込めた。


「信じて欲しい、お兄ちゃんは、ありさちゃんを叩いたりする悪い大人じゃないよ」


 ありさは、悲し気に呟いた。


「あのね、ママは、ありさのことがスキじゃないって、ビビアンヌがいったの。だから、たたくんだって。だから、ありさはママといっしょにいたら、ダメだって」


 その通りだと、礼二は頷いた。

 子供ながらに、あの母親の人間失格ぶりを理解しているのだ。


「ビビアンヌがね、ありさをしあわせにしてくれるのはね、どんな人でも、ありさをスキだって言ってくれるひとだって……」


 礼二の頭の中に、歓喜の花が咲き乱れた。

 その通りだ、やっぱりこの子は聡明な子だ。清らかな目で、自分にとって必要な存在を見つけているのだ。

 礼二の前で、ありさはじっと人形と見つめ合っている。

 きっと、人形という分身を通したメッセージという形で、礼二に助けを求めているのだ。


「ありさちゃん」


 次なる力を、礼二は押し出した。

 二人はもっと話し合い、互いの理解を深めるべきだった。


「お兄ちゃんのおうちに来ないか?」


 ありさが戸惑いの顔を見せ、顔を背けた。礼二は続けた。


「ありさちゃんちの隣だから、すぐ帰れるし怖くないよ。ずっとこんな公園にいても、何もすることないだろ?」


 ありさの顔を追いかけて、大きな瞳を覗き込む。

 真一文字に口を引き結ぶありさに、礼二は業を煮やした。まだ俺を信じられないのか。変なところで強情だと、それならと少女の左腕を掴んだ時だった。

 ありさの右腕の中で、人形が顔を上げた。

 眼球がぐるりと動き、礼二を見た。


「ひぃ!」礼二は思わず、ありさの腕を放した。

 ありさが礼二から腕を遠ざけるように、人形を両腕で抱きしめる。

 動いた? 

 礼二は人形に目を凝らした。

 動いた、しかしそんなはずはない。きっとありさの腕がどこかに当たり、頭が動いたのだ。 


 人間と同じ眼球が礼二を見つめる。その目の色に腰が引けた時だった。


「何をしているの!」


 女の声が、公園全体を切り裂いた。


「ありさ、何しているのっそんなところで!」 


 公園にやって来たその女を見て、礼二の背筋は冷たい針で一直線に貫かれた。

 女は、まるで悪鬼のようだった。

 顔は煮詰めた負と憎悪で染まっている。

 見覚えがある。間違いなく、ありさの母親だった。

 人形を抱きしめたありさの顔が引き歪む。一瞬だけ、助けを乞うような視線を投げてきたが、礼二はそれに応えられなかった。


「ママに黙って何をしているの、そんなところで!」

「……」


 女の声は、ヒステリックにありさを潰さんばかりだった。


「あんたがそんなだから、ママが近所から色々言われるんだ! 鬼母だとか、ギャクタイとか、あんのせいで、ママは皆から虐められるんだ!」


 母親は、ありさの肩を突き飛ばした。

 はずみで手から落ちた人形を、ありさが拾い上げようとしたが、サンダルを履いた足が人形を蹴り飛ばした。

 人形が礼二の足元に転がってきた。

 礼二は呆然と悪鬼とありさを見つめた。

 怖いのも痛いのもイヤだ。暴力は、昔から苦手だった。炎のように吹き荒れる女の怒気に、足がすくむ。


「ちょっとあんた」


 悪鬼の母親が、こっちを見た。

 ありさは観念した無気力な顔で、死んだネズミのように首を掴まれていた。服の襟がゴムのように伸びている。

 礼二の勇気と口の中は、一瞬にしてカラカラに蒸発していた。


「娘に何の用? なにをしようとしていたの?」

「ち、ちが、ちが……ちが……」


 礼二にとって、大事なはずのありさの目からは、透明な血が流れている。しかし、赤く濁った母親の目つきに睨み据えられ、礼二は気力とも全て凍結した。

 ふいに、母親の片頬が嗤いに動いた。


「あんた、ウチの隣の部屋に住んでいるデブじゃない?」

「……」

「毎日毎日、朝にこの辺うろついている、有名な変質者ってあんたでしょ。あんたの母親らしいババアと、よく廊下で会うけど、あのババアすっごくいけ好かないツラで私を見てさあ、ムカついてんの」

「そ、そ、そんなの……俺、しらない……」


「隣に住むデブ男が、ウチの娘にヘンな事をしているって、ロリコン犯罪者ですって警察に通報してやろうかしら」

「……いやだ……」

「ああそう、警察が嫌ならババアにばらしてやるよ。あのババアに、毎日この時間、外をうろついているオタクの息子、小さな女の子を物色しているんだって。ウチの娘にイヤらしい悪戯をしようとしているって言ったら、どうするかしらね」

「ちがう、ぼぼぼ、ぼくは……」

 

 思いがけない言いがかりと攻撃に、礼二は呑まれた。

 ありさが地面の人形に手を伸ばして、母親を振り切ろうと、はかない抵抗を続けていたが、頬をぶたれて動きが止まった。泣くことも出来ない悲しみの目が、一瞬礼二に向けられたが、礼二の筋肉は凍ったままだ。

 そのまま引きずられていくありさを、氷漬けのままで礼二は見送った。



 礼二は敗退した。

 礼二はマンションに戻ると、布団をかぶってうずくまった。

 夜が来ると、衝動が怒涛のように押し寄せた。

 野獣のように吼えた。唸り、叫んだ。壁を蹴り、布団に枕を叩きつけた。

 部屋は、台風と合戦が同時に起こったような惨状となったが、肝心の礼二の心は手当のしようもない。屈辱と怒りで脳みそが焼けただれた。


「雑巾女!」


 家のベランダから、隣の部屋に向かって礼二は吼えた。地獄に堕ちろ、カラスに食い荒らされてしまえ、生きたまま皮を剥いで熱湯をかけてやると、声が枯れるほど叫んだが、隣は静まり返り、全く反応はない。


「シカトすんじゃねえよ!」


 ベランダの手すりに身を乗り出し、隣のベランダを覗き込んだが、反応は返ってこなかった。留守ではなく、カーテンの隙間からわずかな明かりは見えている。

 無視されているのだと、更なる屈辱が生まれた。

 ありさの前で、何も出来なかったのが悔しかった。

 ありさの前で、あの女に罵声を浴びせられ、笑われただけだった。

 もしもあの母親に勝てていれば、ありさに男らしさと頼もしい姿を見せられたのに、失敗したのだ。


 礼二は打ちひしがれた。二人の魂は、呼び合っている。それは礼二の中で間違いなく、動かしようもない事実だった。それなのに、大きな障害物がある。

 このまま黙って引き下がってしまえば、ありさは自分に失望してしまう。

 それだけは、礼二には許されなかった。

 ありさは、この世で礼二がようやく見出した相手だった。小さな世界に一緒にいられる、いたいと思える唯一の存在だ。

 どうすればいい。


 どうしたら、あの女からありさを奪える?

 ベランダから部屋に入った。

 心臓が不吉に鳴り響く。汗を滴らせながら、礼二は部屋の真ん中に突っ立ち、考えにふけった。その耳に、玄関のドアを叩く音が小さく聞こえた。礼二は無視をした。

 音は小さかったが、執拗だった。


「うるせえ!」


 隣の糞オンナだったら殺してやると、頭から灼熱の溶岩を垂れ流したまま、礼二はドアを乱暴に開けた。

 そして、立ち尽くした。

 誰も何もない。

 夜が見える、ただの廊下だった。

 思い違いだったと、礼二はドアを閉めようとした。

 その時、足元に何かが転がり当たった。


「?」


 その赤いものに、礼二は目を疑った……座った体勢で横に転がっているのは、ありさの人形だった。ありさの手から離れ、公園に置き去りにされた人形だ。

 礼二もあの女の毒気にあてられ、人形の存在を失念していた。

 誰が持って来た? 礼二は廊下を見回した。

 公園で礼二たちを見かけた親切な誰かが、忘れ物だと思って届けてくれたんだろうか。だとすれば、きっと隣同士の部屋を、間違えたに違いない。


 しかし、廊下に人の気配は皆無だった。階段を降りる音の反響も聞こえない。

 不審だった。


「まさか、自分で歩いてきたとか?」


 人形の頭と目が動いたことが、急に思い出された。見間違いだと思っていても、自分の冗談に寒気がした。

 どう見ても人形だ。人形以外、何物でもない。

 しかし、不気味さは拭えない。人形のふりをしている妖怪が、ここを訪ねてきたような気がした。

 怖くなり、外に捨ててこようと人形を掴み上げた時だった。


「ビビアンヌ!」


 自分の部屋の中から聞こえてきた声に、礼二は仰天して振り返り、更に仰天した。

 部屋のベランダに、ありさがいた。

 ありさはベランダから部屋に飛び込み、突風のように玄関に飛んできた。


「ビビアンヌ!」


 礼二の腕から、人形を奪い取って泣き出した。

 激しい喜びと安堵の泣き声だった。


「ママがね、おくすり飲んで寝ちゃったから、こっちにきたの……ビビアンヌが、ここにいるっていうの、きこえたの」


 玄関から出ようとしても、かかっている鍵のチェーンに手が届かない。椅子を使えば、物音で母親が目を覚ますので、ベランダを伝ってこの部屋に来たのだという。


「危ないじゃないか、落ちたらどうする」


 それでも、危険を冒してまでこの部屋に来てくれたのだ。

 感激のあまり、ありさを抱きしめようとしたが、ありさは人形を抱きしめて部屋の隅へ逃げてしまった。

 まるで、怯えて逃げる子猫だ。しかし、それでもありさが自分の部屋にいる、この空間で二人きりだという事に、礼二は喜びではち切れた。

 しかし、ありさの人形に対する執着は強すぎるように思えた。

 いくら子供とはいえ、あんな母親を持っているとはいえ、ありさの人形への愛情は、度を越している。


 人形を可愛がっているというより、ありさが人形に甘えているようにも見える。

 人形の髪に顔を埋める仕草は、まるで金髪の姉に甘える妹だった。

 ありさの小さな体に対して、人形が大きめのサイズであり、しかも造りがリアルであるのも、どこか厭な感じだった。

 まるで人形が意志を持ち、ありさの愛情を手に入れようとしているような、彼女をどこかへ連れて行こうとしているような気さえしてしまう。


 厭な人形だ、と礼二は改めて思った。

 母親からもだが、この人形も何とかしてありさから取り上げてしまいたい。

 ありさの腕に、赤い痕がふえていた。細い足にも血が滲んでいる。よく見れば、頬も腫れていた。


「ママから、殴られたのか?」

「……ママは、びょうきだから……」


 暴力をふるっておきながら、それでもありさに庇ってもらえる母親に対して、礼二の腹は煮えくり返った。

 それは、自分が欲しくてならない宝を持ちながら、その価値を理解せず、粗末に扱う宝の持ち主に対する嫉妬と憎しみだった。

 あの女は、細胞の隅々まで毒が回った女だ。

 そんな女に、ありさの母親なんて上等な芸当が出来るはずがない。

 俺の方が、ありさを愛している。


「……ありさちゃん」


 礼二はありさへ本気を込めた。


「ママから逃げよう、お兄ちゃんとどこかに行こう」


 ありさの目が緊張した。


「お兄ちゃんは、ありさちゃんが心配なんだ。ママといっしょにいても、ありさちゃんは怖くて痛い目にあうだけだよ。あのね、君のママは、ありさちゃんがキライなんだよ、分からないかい? 本当は分かっているんだろ?」

「……」

「ありさちゃんは、ビビアンヌを殴らないだろう? それはビビアンヌが好きだからだ。でもママは、ありさちゃんを殴るじゃないか」


 子供が母親を慕い、母親が子供を愛するのは当たり前だ。

 でも、必ずしもそれだけが現実ではない。

 特に、ありさは虐待を受け、それを体感しているはずだった。

 体感していても子供の悲しさで、母性愛という願望に惑わされているのだ。その思い込みを捨てさせなければ、ありさの目は開かない。真の幸福を見失ってしまう。

 礼二の眼差しと言葉に、ありさは泣きそうな顔で人形のビビアンヌへ話しかけた。


「わかんない……びびあんぬ、どう、おもう?」

「ママから、助けてやるって言っているんだよ!」


 頼りないありさの答えに、苛立ちが込み上げた。


「分からないのか? お兄ちゃんはね、こんなにありさちゃんの事を心配しているんだよ、君のように純粋な子が、あんなクソみたいな女に、犬みたいに殴られているのを見るのがたまらなくイヤなんだ、いいか、あの女はママじゃなくてクソだ! お兄ちゃんはね、ありさちゃんのせいで苦しんでいるんだよ! ありさちゃんはお兄ちゃんが苦しめば良いと思っているのか?」


「……わかった……」


 ひくつく声で、ようやくありさが頷いた。


「ビビアンヌが……いうこと、ききなさいって」


 ありさは礼二へ、怯えた声で呟いた。




 ありさがついに「ママからおにいちゃんとにげる」と言った時、礼二は勝利感に酔いしれた。ありさは母親よりも、自分を選んだのだ。

 だが、ありさはまだ子供で、自分の意志ははっきりと持てない年齢だ。ウソをつくとは思えないが、場合によっては「やっぱりやめる」という恐れもあった。

 礼二は、ありさから人形を取り上げた。

 自分から逃げないようにするための人質だった。


「持って帰ったら、ママは、きっとビビアンヌを捨てちゃうよ。お兄ちゃんが預かってあげる。ありさがママからにげる時に、返してあげるからね」


 泣き出すかもと思っていたが、ありさが素直に頷いたのは意外だった。

 こんなもの、飾るなんてとんでもない。人形は物入れに放りこまれた。


 ありさに母親を捨てさせ、自分についてくると約束させた礼二だったが、また壁が現れた。

 ありさが外に出て来なくなったのだ。

 あの母親に監禁されている。ありさが礼二と接触しないように、部屋の中に閉じ込めていることは明白だった。

 礼二は歯軋りする思いだった。このままでは、ありさから引き離されてしまう。せっかく結んだ「一緒に逃げる」約束が、立ち消えになってしまう。


 まさか、と礼二は思い当たった。ありさが礼二との約束を母親に話したのか?

 裏切られた? いや、そのはずはない。

 礼二は、取り上げた人形のことを思い出した。

 ありさにとって、あの人形は宝物だ。礼二と離れたら、人形が自分の手に戻ってこないことくらい、子供でも分かるだろう。

 そうなれば、ありさをどうやって連れ出すか? 礼二は悩んだ。

 家に押し入ってありさを連れて出る? あの糞オンナが出てきても所詮は女だ。抵抗されたって、力ではこっちが勝っている。


 もしも誘拐だとか何とか喚くようなら、ありさに警察の前で、虐待のことを証言させればいいのだ。

 そうすれば、俺は誘拐犯ではなくて善意の救出者だと分かってもらえるだろう。

 だが、家に押し入る方法が分からなかった。

 インタホンを押して「ごめんください」と言えば良い話ではない。

「ありさと母親を引き離して連れて出る」その後、ありさと自分はどうやって生きていくのか、ありさの教育や生活の面倒をどうするか、現実的な問題は礼二の中で後回しだった。


 礼二の中では、ありさを連れて出ることが第一で、優先事項だった。

 そこをクリアしないと、ありさの今後の問題も始まらないし、考えても無駄だ。

 しかし、イメージだけは湧き上がる。

 ありさと、ずっと一緒に暮らす。その事が、礼二の頭の中で飛翔した。

 打算や見栄、欲が全くない無垢な少女なら、礼二を慕い、孤独を癒してくれるはずだ。


 他人に理解してもらえず、今まで傷ついてきた心を、ありさならそっと包んでくれるに違いない。

 そして、今は怯えているようでも、ありさの素直な目なら、礼二の純粋な愛情とその深さをきっと分かってくれる。

 その証拠に、幼いながらも本能的な部分で礼二を理解したからこそ、母親よりも礼二を選んだのだ。


 ありさとなら、男女間という世間の尺度では計れない、もっと深淵にある特別な関係を築けるはずだった。

 だからこそ、礼二はありさを連れ出さなくてはならない。

 突破口は、礼二の母、邦子によってもたらされた。

 朝の散歩中、携帯が鳴った。部屋に掃除しに来ている、母親の邦子からだった。


『れいちゃん! すぐ部屋に帰ってらっしゃい!』


 子供の頃、飾っていたマイセン窯の人形割った時以上に、凄まじい剣幕だった。

 流石の礼二も、慌てて部屋に戻った。

 邦子は、部屋の中央にへたり込んでいた。

 礼二の顔を見た瞬間に泣き出した。ひとしきり泣いてから、ようよう声を出す。

 部屋でいつものように掃除をしていたら、隣の住人の女がやって来たという。

 息子の礼二に会いに来たのだと、そう母親は思ったが、隣に住む女は言った。

『あのデブの飼い主ね? あんたに話があるんだけど』


 愕然とする礼二に、邦子は再びわっと泣き伏した。


「トナリのおんなが……となりの部屋のおんなが……あんたに100万円払えって!」

「100万円?」

「こどものことだっていうのよぉっ」


 邦子は、押し潰した悲鳴を上げた。


「なにがあったの、ねえ、れいちゃん、こどもって何よぅっ何をしたの!」

「何をって……」


 絶句する礼二へ、邦子は声を叩きつけた。


「あの女、笑うだけで理由を教えないのよ! あんたのむすこに理由を聞けって、そればっかりくりかえすの!」


 体を二つに折り、頭を床に叩きつけんばかりにむせび泣く母親の姿に、礼二の頭の中で空白が出来たが、じきに浮かび上がった……ありさか。

 そうか、俺を性犯罪者だと罵ったあの糞オンナは、母親にそれをふきこんで、金を強請ろうとしているのか。


「こどもって、なにを、なにをしたのあんた……教えなさい、あのおんなに、礼ちゃんはお金を払えっていわれることしたの?」


 あんなおんな、あんなおんなと、邦子は全身から見えない血を噴き出さんばかりだった。

 邦子の価値観の中で、あの山瀬美也は下位にあるのだ。

 男に捨てられ、気が狂ったシングルマザーで、マンションのトラブルメーカー。

 そんな人種と関わり合いになり、可愛い息子が弱みを握られたなんて、邦子にとっては、どぶ川の中で相手と一緒に泳いでいる心境なのだろう。


 幼女淫行などしていない。あの糞オンナの思い込みだと、そしてありさの事を話そうかと礼二は悩んだ。ありさに対する自分の愛情、それは世間でいう幼女愛なんかではなく、もっと崇高なものだと。

 だが、その気持ちを邦子に理解してもらえるかどうかが疑問だった。邦子は礼二には甘い母親だが、世間の一部だ。

 しかも、ありさをあの女と同一視しかねない。

 それは我慢ならない事だった。


 ふいに頭に雷鳴が轟いた。天啓だった。


「母さん、100万円を出してくれ」


 ひぃ、と邦子は声を詰まらせた。金の問題ではなく、息子が相手の要求を呑むその意味に、絶望の色を浮かばせる。礼二は言い募った。


「たのむよ、何も聞かないで、俺のためにお金を出してよ。100万円を女にくれてやって欲しい」

「あんた、まさか……」

「理由は聞かないで。言っても母さんには理解できないと思う」


 邦子の口が、虚ろに動いた。


「ききたくない……あのおんなと、礼ちゃんに何があったなんて……かあさんも、ききたくないわ……」


 何を想像したのか、ショックで白くなっていた顔が、灰色に変わった。頭をゆるゆると振り、呆けた呟きを漏らした。


「なんてことだろう……あんな頭の狂ったバイタに……れいちゃん……」

「ごめんなさい」

「あんなおんな……あんなおんな……あんなおんなに……」


 ごめんなさい、ごめんなさいと礼二はくり返し口を動かした。

 これで作戦が上手くいくのなら、謝罪などいくらでもくれてやる。

 情けないねえ、情けないと、邦子の呪詛が繰り返された。

 精神的スクラップとなった邦子はひとしきり呻いていたが、息子の不始末とあの女との関係を、100万円で切り捨てられるならと頭が切り替わったようだ。

 これで良いと、礼二は内心ほくそ笑んだ。


 可愛い息子の血を吸おうとする、人間の姿をヒルから遠ざかるために、邦子は100万円の出費を決意した。


「もう、この部屋から引っ越ししなさい!」


 邦子は鬼の顔で息子に命令した。


「明日にでも、お母さんがあの女に会って、金をくれてやります。その間に、あんたは部屋を出て、どこかホテルにでも泊まりなさい!」

「家に帰っちゃダメなの?」

「お姉ちゃんたちに、この事が知られちゃうでしょう!」


 金切り声の指示が飛んだ。


「お母さんが、次に住むマンションを探すから、その間はホテルにいなさい! 分かった? もう二度と、キチガイ売春女と会うんじゃない!」


 計算通りだ。礼二は内心小躍りした。

母親は金の受け渡しに、あの糞オンナをきっと、どこかに呼び出す。糞オンナはありさを部屋に置いて出るだろう。

 糞オンナの留守の間に、俺はありさを隣の部屋から連れ出して逃げる。

 母さんの言う通りにホテルに泊まり、そして新しいマンションに、ありさと一緒に移れば良い。


 ありさの母親が、消えた娘を探す可能性を礼二は全く考えなかった。

 例え探したとしても、肝心のありさは自分を選んでいるのだ。ありさは、母親の元に戻る気は無いに違いなかった。


 可愛い息子のために、母親の行動は早かった。

 次の日には銀行の窓口へ訪れ、預金を引き出した。そしてその足で、ありさの母親の美也を呼び出した。


「あんたは、着替えだけ持ってホテルに泊まりなさい」


 邦子は息子のため、用意周到にホテルの予約も済ませていた。

 市の中心部にあるビジネスホテルだった。邦子は、ありさの母親……美也を近所の駅前の喫茶店に呼び出して金を渡し、息子に二度と近づかないように、念書を書かせると言っていた。

 礼二は玄関ドアのスコープに張り付いて、自分の部屋の前を、ありさの母親が横切るのを見張っていた。

 ガチャ、と隣のドアが開き、魚眼レンズの前を美也が通る。

 足音が遠のくと、礼二はマンションのエントランスが見下ろせるベランダに走った。


 美也の頭頂が出てきた。真っすぐ駅の方へ、そして姿が見えなくなるのを礼二は確かめた。


「ありさ!」


 着替えの入ったバッグを持って部屋から飛び出し、礼二は隣の部屋のドアを叩いた。


「ありさ、出るんだ!」


 前はベランダを伝ってきたが、美也の目さえなければ、ありさは椅子を使って玄関のチェーンを外せばいい。

 ありさが、玄関から飛び出してきた。


「ねえ、これから逃げるの?」


 ありさの顔は、希望にあふれて輝いていた。

 初めて見る喜びの表情、それを与えたのは自分であるという誇らしさに、礼二はありさを抱きしめようとした。

 だが、ありさはすばしっこく礼二をかいくぐり、叫んだ。


「ビビアンヌは?」


 どっと歓喜がしぼんだ。


「……部屋だよ」


 物入を開けると、ビビアンヌが座っていた。目を剥く礼二の前で、ありさは人形を抱きしめる。

 礼二は、自分の目をまず疑った。

 そして人形に対する疑惑と恐怖が、はっきりと沸き起こった。

 物入に放り込んだ時、人形は死体のように仰向けだった。それから一度も触っていないのに、何故、行儀よく座っているんだ?

 生きているようだ、とは何度も思った。目の錯覚だと思った。思い違いだと考え直したが、不可解が何度も重なっている。


 人形と目が合った。もしかして、本当に生きているのか。

 曖昧なまま、科学的に解明できない疑惑は、顔に見えないクモの糸がかかったような気味悪さだった。


「……その人形、捨てろ」


 声が震えた。


「捨てろ、その人形」

「イヤ」


 ありさの目は、揺るがなかった。


「ビビアンヌと一緒じゃなきゃ、ありさは、どこにもいかない」


 大きく舌打ちし、礼二はありさを引っ張った。

 仕方が無い、ありさを連れ出すのが先決だ。

 駅前の喫茶店は、ここから10分くらいの距離にある、雑居ビルの二階にあった。

 母親同士の話がどれほどかかるかは分からないが、時間は豊富とはいえない。

 ここで駄々をこねられて時間を食い、ありさの母親が戻ってきたら、全ておじゃんではないか。


 自分たちが珍妙で、人目を引くことは疑いようもなかった。ボストンバッグを下げた若い男と、古ぼけたドレスを着た、大きな西洋人形を抱きしめた五才の幼女だ。

 駅で邦子と美也と鉢合わせになるのを防ぐためにも、礼二はタクシーを呼んだ。

 タクシーはすぐに捕まった。二人は車に乗り込んだ。

 人形はホテルについたら取り上げて、捨ててしまおう。車の中で礼二は考える。市の中心部にあるホテルまで、タクシーで30分ほどかかる。


 家から距離が遠ざかるにつれて、ありさの表情は明るくなってゆく。

 後部座席の礼二の隣に座り、人形と一緒に窓の風景を見ている。

 目的地のホテルに着いた。タクシーには父親のクレジットの家族カードで支払いし、フロントに向かおうとした時、携帯が鳴った。


『……礼ちゃん』


 母親の邦子だった。ありさの母親の美也と会えたのか? 金は渡したか? 礼二は咳き込むように身を乗り出した。


「かあさん、どう? あの女は……」言いかけて止めた。携帯の向こうから、尋常ではない空気が伝わってくる。邦子の震える息が聞こえてきた。


『れいちゃん、どうしよう……』

「何だよ、何があったんだ?」

『おかあさん……ひとをころしちゃった……』

「え?」

『わざとじゃ、ないの……わざとじゃ、ないのよ……』


 だって、だってと携帯の向こうから声が流れた。


『この女、れいちゃんの、こどもを妊娠していたんでしょ?』

「え?」

『だって、このおんなは、子どもの話だって……』


 空気に頭を殴られた。母の言葉が突然、異国語に聞こえる。


『堕ろす気は、ないのって聞いたら……この女、なんのこと?って、げらげら笑い出して……れいちゃんと、母さんのこと馬鹿にして……こんな女が、このまま、れいちゃんの子供産んで、けっこんを迫ってこられたらって……だから、母さん、このおんな、階段から突き飛ばしたの……そしたら、そしたらね……首が、首がね……』


 礼二は絶句した。目の前の現実が割れて飛び散り、それぞれが意味不明のパーツになって漂っている。それをどうやって回収し、組み立てれば良いのか分からない。

 空気が漏れたような、泣き声が流れてきた。


『おなかを打てばいいって、お腹を打って流産すればって、それだけだったのよぅ』

「しんだの?」

『……しんじゃった』


 礼二は、呆然と携帯を見つめて、邦子の言葉を反芻し、意味を組み立てて考えた。

 美也が死んだ。

 母親が、美也を階段から突き飛ばした。それで……?

 礼二は、ありさを見た。

 人形を抱いたありさは物珍し気に、ホテルのフロントの中を見回している。

 衝撃は、ようやく現実の形になった。その形を認識した時、礼二は声を上げた。美也が死んだのだ。


「ありさ!」


 ありさが振り向いた。


「ありさは、もう俺と、ずっとずっとずーっとずっと一緒だ、その意味わかる?」


 ママは? ありさが小さく聞いた。ママは、どうするの? 逃げてきたとはいえ、自分の生活にとって、外すことが難しいパーツは理解できているのだ。


「死んだんだよ」


 ありさの目が、大きく見開かれた。


「しんだ?」

「そう、しんじゃったんだ」


 礼二の心は、天に飛翔した。

 今の状態では、ありさを誘拐したと訴えられる恐れがあることくらい、礼二にも分かっていた。

 ありさとの今後のために、合法的な手段を取る必要があったが、美也がいる限り、難しい事に思われた。

 そのためどうすれば良いのか分からず、問題を後回しにしていたのだ。

 その難題が、勝手に溶けてしまった。

 計算外の誤解、天から贈られた幸運だ。大きな壁が大いなる力によって破られ、目の前に進むべき道が現れた。


 そして、道につながる素晴らしい景色が、ありさとの将来が、礼二を待っている。

 まま、しんだ……ありさは人形へ話しかけた。しんだんだって……。


「もう、ありさは俺のモノだよ」


 邪魔者はもういない。

 ありさという純粋な魂の伴侶を得た礼二は、夢見心地だった。

 ありさは、まん丸い瞳で礼二を見上げていた。

 まだ幼い心は、状況を確実に把握できていないのだ。

 しかし、その内に分かるだろう。もうあの糞オンナの鎖から解き放たれ、目の前にいる本当の保護者、自分を本当に愛してくれる存在に気が付くのだ。


 あと、邪魔なのは人形だ。

 邪魔、それ以上に厭わしいが所詮は人形だ。

 多少動くことは出来ても、叩き壊すのは簡単だと思われた。


「まま、しんだ……」


 ありさは、人形を見つめて呟いた。自分の今の状況を口に出し、自分に言い聞かせているのか、人形に話しかけているのか。

 ありさの口元がほころんだ。

 そして、人形に向かって小さく頷いて見せた。

 ありさが淡い微笑を浮かべ、礼二を見た。

 ありさを抱きとめるために、礼二が抱擁の手を広げた時だった。


「たすけてぇ!」


 ありさの絶叫。礼二は思考が停止した。


「たすけて、おじちゃんたち!」


 周囲の従業員、客が棒立ちになった。視線が矢のように降り注ぐ。

 人形を抱きかかえ、フロントへ走っていくありさを、礼二は停止した思考で見つめた。



 警察から連絡を受けた時、久坂亜矢の心臓は4秒停止した。

 亜矢は夫の時雄と共に車に飛び乗って、姪が保護されている警察署へ向かった。

 高速道路を爆走し、計算なら3時間の道のりを、2時間弱で目的地に着いた。

 警察署の中を走りながら、姪の名を呼びながら涙があふれた。

 何故、姉から姪を奪い取らなかったのか。

 姉の美也が、子育てどころか社会生活にも向いていない人間なのは分かっていた。

 美人だが、気まぐれで我が儘。


 妹である亜矢は、子供の頃から美也の一番被害者だった。

 美貌しか武器の無い、中身が浅い女はその上手をいく相手が現れたら、たちまちの内に手玉に取られて失速する。案の定、男に捨てられ、人に騙されて生活にも人生にも行き詰った美也だったが、亜矢は姉を見捨てた。

 これで最後だと手を差し伸べた時、夫の時雄を誘惑しようとしたからだった。

 絶縁したものの、姪のありさが心残りだった。しかし、姉がありさの母親としての自覚に目覚める希望も、わずかに抱いてもいたのだ。


 それなのに。


「山瀬美也さんが、階段から女性に突き落とされて……」

「死亡が確認されました」

「姪のありさちゃんが、若い男に……」

「今、保護されてます」

「加害者の女性は、殺人の容疑を認めて……」


 頭の中に、電話で受けた言葉がグルグルと回る。一つ一つの意味を考えるゆとりはなかった。姉が死んだ、姪が若い男に連れ回された、それだけで十分すぎた。

 夫の時雄が、警察の話を聞く役目を引き受けてくれた。

 亜矢は姪のありさの元へ走った。


「ありさ!」


 署の2階、白い小部屋の中で、婦警と一緒に椅子に腰かけているありさを見た瞬間、安堵と涙が決壊した。

 抱きしめたありさは細かった。叔母の取り乱しようにたじろいでいた。

 やがて、時雄が戻って来た。


「義姉さんは、加害者の女性を恐喝しようとしていたって……加害者の息子と、義姉さんは交際していたんだ。それで妊娠したって嘘をついて、母親である加害者から金を取ろうとしたんだよ。それでもめて、階段から突き落とされたらしい。でも、当の息子は、本当はありさに目をつけていたんだよ。それで義姉さんが留守の間に、ありさを連れ出した」

「……なんてこと」


「その息子は、ありさと魂の結びつきとか、ありさが俺を選んだんだとか純粋な絆とか、何だか腐った寝言を、取り調べでまき散らしてるらしい」


 時雄は体をかがめ、ありさと目線を合わせた。


「可哀そうに、怖かっただろ?」


 ありさが頭を振った。

 体にそぐわないほど、大きな西洋人形をしっかりと抱きしめている。

 余程気に入っているらしい。


「ううん、ビビアンヌがね、いっしょだったから」


 誰かにもらったのか、随分古いアンティーク・ドールだ。


「ビビアンヌにね、おばちゃんのおはなししたら、ビビアンヌの言う通りにしたら、おばちゃんにあわせてくれるって、ありさと約束したの。ビビアンヌも、かわいがってくれるおとなが欲しいんだって」


 人形ではなく、まるで人間の友達のような口ぶりだった。


「だからね、ありさ、あのお兄ちゃんについていったの。それから、ビビアンヌの言う通りに、ホテルでタスケテって」


『ビビアンヌ』は、ありさの腕の中で話を聞いているような風だった。陶磁器の肌の質感に、ガラスの光彩といい、よく出来た造りの人形だ。


「ビビアンヌは、ありさのお友だちなのね」


 うん、と嬉しそうにありさが頷いた。


「じゃあみんなで一緒に、おばちゃんのお家に帰りましょう」


 亜矢と時雄の間には、子どもはいない。どちらに問題があるのかは分からないが、原因を突き止めようとは思わなかった。

 このまま夫婦二人で過ごすものと、暗黙の了解が出来ていたが。


「みんなで帰ろうか」


 ずっと抱っこして重いだろと、時雄がビビアンヌへ手を伸ばす。

 ありさは素直にビビアンヌを時雄に託し、亜矢の手を握った。

 時雄と共に欲していたが、叶えられず、諦めていた子供の感触だった。

 ありさと手をつなぎ、署の外に出る。外はもう暗かった。

 駐車場に車を止めている。歩く時雄が、突然立ち止まった。


「どうしたの?」


 振り向く亜矢。

 立ち止まっていた時雄は、両手で抱いている人形をじっと見つめていた。

 やがて、戸惑った顔を上げて見せた。


「いやね、何だかこのお人形さん、笑ったような気がしてさ」


―― 了

                            


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流転人形 洞見多琴果 @horamita-kotoka

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