第4話 我儘な妹は悪趣味なオブジェにされた

「気をつけなさいよ」



 それが第一声だった。


「あなたたち、二人の相性自体は悪くないのよ。でもね、どんなに素晴らしい素材を組み合わせて、手間暇かけて、美味しい料理が出来上がっても、変な味の調味料入れたら、料理は一瞬で台無しよね。そういうものよ」

「それって、どういう意味ですか?」


 里香が俺を見た。俺は頭を振りたくった。

 浮気? とんでもない、そんなことするもんか。俺は里香に惚れている。俺から里香に告ったんだ。入社式で一目惚れだったんだ。

 付き合って下さい、お願いだからと、半年前の新人社内研修の最終日に、死ぬ気で告ったんだ。


 もしもフラれたら、新社会人一年目にして失恋ゾンビ状態となり、仕事でミスしまくって出世の道どころか、せっかく就職した会社をクビになるかもという弱気と、でも可愛い新入職員の里香が、他の先輩や同期の男どもに盗られでもしたらという不安を天秤にかけて、もしもフラれたら、会社の屋上から飛び降りてしまえばいいと覚悟を決め、告白したのだ。

 黒いボックス席の中で、紫色の髪の毛に紫色の衣装、まるで夜に浮かぶ巨大なナスのような占い師のオバサンは、半眼で俺を見た。


 巨大ナスビは、手元の水晶球を覗き込んだ。何が視えているかはしらないが、俺には何も見えない。

 そして、タロットカードとか言うものを、裏向きにテーブルに広げた。


「この中の1枚を、取って御覧」


 俺はカードをめくり、巨大ナスビは目を細めた。


「そのカードが、二人の今後を現わしているの」


 帽子をかぶり、変な棒を持った男の絵が逆さになっていた。その位置を戻そうとした俺の手を、巨大ナスビは「ダメよ!」と制した。


「カードの上下もね、意味を持っているのよ。これは『魔術師』本来は感性の相性の良さとか、新しい恋を意味するカードだけど、逆位置だから、混乱と不誠実を意味するわ」

「どんな事が起きるという意味なんですか? 不誠実って浮気とか?」

「浮気とか、そういった誘惑じゃあないの。でも、二人の間に障害が入るわね……これは」


 彼氏サイドで起こるわ。彼がキーワードよと、巨大ナスビは俺を見た。

 里香が湿った目で俺を見た。

 ちょっと待ってくれよと俺は叫びかけた。

 カードを1枚めくっただけで、そんな曖昧で、はっきりしない煙のような言葉で何を想像したか、心配しているかは知らないけど、里香が好きなんだ。浮気も何もしちゃいないし、するつもりはない。浮気だ誘惑だ、それ以外の障害ならば、二人の結びつきさえ強固なら、乗り越えられる問題じゃないのか。


 事が起きる前から、不穏な目で見ないでくれ。

 そして、もう1枚のカードをめくらされた。

 里香が息を呑むのが分かった。


「死神と悪魔の正位置ね」


 巨大ナスビは、カードを見つめて、そして俺を見た。目の前の俺を見るというより、俺の中を探るような半眼だが「ん?」わずかに戸惑いの色が見えた。

 俺と里香の間をじっと見て「なにかしら、これ……ねえ……」独り言なのか、の問いかけか、意味あり気な響きが口から洩れる。

 低く唸るナスビへ、声が投げ込まれた。

 

「ねえ、それって二人は別れちゃうって事?」


 声は、俺と里香の間から飛んだものだ。

 そうねえ、と呟く巨大ナスビ。

 妹の優愛が立ち上がり、黒いテーブルの前に身を乗り出した。


「それってお兄ちゃんが可哀想だよ。何とかならないの? オバサン」


 里香が黙って、椅子から立ち上がった。



『占いの館・アール・デコ』から出てから、里香の口数は少なかった。あの占い師の言う事を気にして、落ち込んでいたんだ。


「気にすることはないよ」


 俺は努めて明るい声を出した。


「当たるも八卦、当たらぬも八卦って言うだろ。第一さあ、雑誌とか口コミで、いくら当たるって有名だからって、じゃあ今までに来た地震や台風を、完全に予知した占い師がいたかってことだよ」


 変わらぬ浮かない里香へ、俺は懸命に言葉を続けた。


「それに、何かあるとしたら原因は俺にあるって分かったんだ。俺が気を付ければ、何かあっても不運は避けられるって話じゃん」


 そうだけどね、と里香が呟いた。

 あの占い師は、里香の友達のおススメの占い師でもあるらしい。よく当たると薦められて、休日に二人の間を視てもらおうと来た。その結果がこうだから、気にするのも無理はない。

 だけど、見料の30分、カップル割引きで6000円は俺持ちだ。

 財布を痛めた挙句、30分かけて延々と、時間の向こうにある未定の罪状を上げられる、俺の方こそ気分が良くない。


「でも、当たってるじゃないの」


 里香が呟いた。


「晃君の性格を、言い当てたじゃない。浮気はしないし誠実だけど、気を使って何も言えずに、状況に流されやすいタイプだって」


 変なところで気を使い、状況に流されやすいって、確かに多少なりとも自覚はあるけれど、そんなもの、誰しも少しは持っている部分だ。それを言えば当たるよと、俺の腹の中はさざ波が立った。

 いつまでもグズグズ悩むんじゃないと言い返したいけれど、そうすると二人の間に亀裂が入る気がして、俺は黙った。

 最近の里香との間は、いつもこうだった。薄い雨雲が上を覆っている。はっきりとした雨は降らないけれど、陽が射すことはない。


 そんな倦怠の間で、ふんふんふんと明るい鼻歌を流しているのは、俺たちのデートに付いてきた、10才年下の妹の優愛だった。

 まだ中学生なので、友達同士で遊びに行けるのは、せいぜい近所のショッピングモールだから、今歩いている話題スポット、ターミナル駅に直結した大型複合施設にはしゃいでいる。

 最近オープンしたばかりで、ニュースでもネットでも話題になったここは、休日だけあって、人が多かった。


 家族連れから一人客まで、色々なグループが、吹き抜けでガラス張りの近未来的イメージのアーケードを歩き流れている。

 噴水やグリーンガーデン、そして高級ブランドからプチプライスの雑貨と、買い物好きのおもちゃ箱だ。

 車の新作発表のイベントスペース、家のインテリアショールームも、人で溢れていた。


 家と学校の通学路風景が日常の優愛にとって、この喧騒と賑わいは刺激的らしく、華やかな色彩と商品の数々にいちいち目を見張り、立ち止まっては歩きだす。

 迷子になる年齢ではないけど、目が離せない。

 突然、前へ走り出したかと思うと、外国の玩具専門店のショーウィンドウに貼りついた。

 ガラスの向こうに展示された、赤い上着に黒い毛皮の帽子をかぶった衛兵のクマのぬいぐるみに「かわいー」と無邪気に歓声を上げている。


「なあ、里香」


 俺は、努めて明るい声を出した。


「今日は、ここのアップルパイの専門店に行きたいんだろ。甘いもんでも食べて、さっきの不吉な占い結果を忘れてしまおう」

「そうね」


 里香が、思い直すように微笑した。


「大学時代の先輩が、そこで店長を任されたんだって。先輩の顔を見るついでに、食べに行かなきゃ」


 カスタードクリームが入った、サクサクのアップルパイらしい。テイクアウト専門の店が、イートインスペースのある店舗をここで出したそうだ。


「えー、いやだあ」


 衛兵のクマに貼りついていた優愛が、突然振り返って異議を唱えた。


「私、果物焼いたケーキって好きじゃない」


 そう言いながら、手にしていた携帯を突き出した。


「この店、このお店行きたい! ケーキが50種類もあるんだよ。これから行くそこって、アップルパイしか無いんでしょ?」

「……」

「行きたい行きたい行きたい!」


 里香が困惑している。

 優愛の地団太に、俺は弱った。

 優愛が通っている私立中学校は規律が厳しく、生徒同士で繁華街に遊びに行くことを校則で禁止している。

 なので、保護者がいないと派手な場所へ遊びに行けないのだ。

 だが、ウチの親は出不精で、休日は家にいる。したがって俺と一緒に出かける時くらいしか、雑誌やネットに載って話題の店に入るチャンスが、優愛には無い。


「お兄ちゃん、明日里香さんと出かけるんでしょ? どうしても、どーしても行きたい場所があるんだ、一緒に行こうよ!」


 昨日もそう言われて駄々をこねられて、仕方がない、良いよとつい頷いてしまった。

 妹に甘すぎると我ながら思うけれど、10才も年齢が離れると仕方がない。

 我儘を言われても、喧嘩する相手じゃなくなってしまうのだ。

 おまけに、優愛は見た目が可愛すぎる。

 兄の欲目を差し引いても、有り余るほどの美少女だ。


 優愛の制服姿を盗撮しようと、近所のロリコン野郎が通学路で待ち伏せし、祖母が孫娘自慢にモデル事務所に写真と経歴書を応募したら、即効スカウトマンがやって来て、父親が怒り狂い、母親が将来のアイドルを夢見て調子に乗り、俺が仲裁、優愛がはしゃぎ、家庭内大争議になったほどだ。

 俺が連れて行かなければ、独りで行ってしまいかねない。だがそんな美少女、兄としても独りで繁華街なんて華やかな地獄を歩かせられない。


 犯罪と誘惑の大量生産だ。

 ケーキの店は、優愛のリクエストが通った。「こういう時じゃないと、このお店に入れない」「お兄ちゃんと里香さんは、いつでもこんなお店に入れるじゃないの」と優愛が半泣きになってしまい、里香も折れた。

 ケーキ屋は、ネットで話題になるだけあって、1時間待ちだった。疲れたから休みたいのに、休むために1時間待ちという事態に陥ってしまった。

 ようやく座れたテーブルで、里香が優愛に聞いた。


「優愛ちゃんは、お休みの日は友達と遊ばなくていいの?」


 優愛の表情が、わずかに歪んだ。


「だって、最近ずっと休日、私たちと一緒じゃないの」

「同級生と遊んでもつまんない」


 優愛が、頑なな答えを打ち返す。その答えに他意があるのかどうか、里香が何かを求めるような目で俺を見た。

 里香の目は、はっきりと優愛の答えを拒否していた。俺は決まりが悪くなった。

 優愛が俺たちと一緒に出掛けたがるようになったのは、里香が一度、俺の家に遊びに来てからだった。


 付き合い始めて一年も経っていないし、結婚という話も出した事はなかったけれど、交際を家族にオープンにすることで、俺の誠実さを里香に分かってもらおうと思ったのだ。

 実際、家の招待に里香は少し驚いたようだけど、両親ともすぐに打ち解けて、優愛を見て「すっごく可愛い! アイドルになれるわ」と叫んだ。

 ウチは弟で、しかも喧嘩ばかりしていた、妹が欲しかったとまで、その時言ったのだ。


 そして、最初に優愛がデートに付いてきたとき、里香は「優愛ちゃんはお兄ちゃんと仲が良いのねえ」と笑っていた。

 あの時は、本当に楽しかった。本当は美術館へ行くはずだったけれど、優愛が行きたがっていたのでテーマパークになったんだっけ。

 優愛と里香は、まるで年の離れた姉妹のように一緒にはしゃぎ、女の子同士のおしゃべりを楽しんでいた。


 俺としても、里香と二人きりになりたいのはもちろんあった。だけど、里香と俺の間に優愛がいて、保護者二人に子供が一人、どこか疑似家族的な空気感が、まるで俺と里香の将来を示唆しているようにも思えて、悪い気分でもなかった。

 しかし、あれから優愛は必ずデートについてくるようになった。

 三回目を超えたあたりから、デートの時の里香の態度が変わり出した。

 はっきりと邪険にはしないが、デート中は薄い倦怠が漂い、笑う事も激減りした。


 里香には申し訳ないと思っている。

せっかくのデートに優愛が付いてきて、しかも、さっきみたいに我が儘を言われて、デートの主導権を取られて、プランを変更されてしまうのだ。

 面白くないに違いない。

 前も、里香が観たがっていたクラシック映画のリバイバル上映は、優愛のお気に入りのアイドル主演の映画に変更になった。

 行きたがっていた美術館は猫カフェになった。ディナーは、中学生に合わせて、話題のビストロからファミレスに変更。毎回、デートの内容が優愛一色に塗りつぶされる。


 俺も、もちろんこんな事で良いとは思っていない。俺は里香が好きだ。優愛の我が儘のせいで、里香に我慢を強いているのは、俺としても不本意ではあるのだ。

 だけど、優愛の無邪気な喜びようを見ていると、もうデートについてくるなとは言えない。

 優愛は、中学に入ってから友達が少なくなった。

 小学校の友達と離れ離れになったこともあるけれど、可愛さに対する同性の嫉妬と、両親が甘やかした成果の我儘さの相互作用だ。


 自己中心的な姫君は、大人になれば恋愛相手の需要はあるけれど、子供の遊び相手の世界では全く人気が無い。

 私学の中学だから、友達が近所に住んでいるとは限らない事もあって、優愛には休日に一緒に遊ぶ相手がいないようだ。

 俺たちについてくるのは、その寂しさもあると思う。


「ねえ、今日は楽しかったね。私、里香さんが好き」


 兄妹2人のデートの帰り道、毎回優愛はそう言う。何を図々しいと思うけれど、無邪気な笑顔を見せられると、そうか良かったなとしか言えない。

 年が10才も離れてしまうと、兄は妹に対してもう一人の保護者みたいなものだった。

 兄妹喧嘩なんか一度もしたことは無い、妹は庇護の対象だ。 

 親父とお袋に、助けを求めたこともあった。


 優愛をどこかに連れて行ってやって欲しい、俺はデートなんだ、いつもついてこられても困るんだ、分かるだろ? そう懇願したのだが。


「でもねえ、あの子が私たちと一緒はイヤだっていうのよ。里香さんが好きなのね」


 何か問題でもあるのかと、全く意に介さない口ぶりで投げられた。

 両親としては理想的な監視役が、優愛と一緒に遊んでくれているようなものだ。

 だけど、俺と優愛は、里香の忍耐という薄い氷の上を歩いている。

 もうすぐ、里香の誕生日が来る。

 付き合い始めて、初めての彼女の誕生日だった。誕生日の当日と、週末が重なっている。ここで里香が感激するようなプレゼントとイベントを休日デートにぶち込んで、これまでの不機嫌を一掃してしまおうと思っていたのだが。



『ウソ、買ってくれるの? どれだけするか知ってるの?』


 仕事の帰り、ラインで、里香が欲しがっていたブランドの指輪をプレゼントするとメッセージを送ると、里香の感激した返信が返って来た。


『だって、前から欲しがっていただろ?』


 俺は、いい気分でメッセージを送った。


『せっかくの誕生日だし、相手が欲しいものを送るのがプレゼントだ』


 里香の反応は、素晴らしい手ごたえだった。そして、里香が行きたがっていたレストランを予約した事も伝えた。だから、今度の休日にも会おうと。


『じゃあ当日、楽しみに待っているね』


 今回ばかりは、絶対に優愛を割り込ませないつもりだった。里香の文面からも、二人きりで会えるかもという期待が立ち昇っている。今までの罪悪感を一気に覆せる喜びと、里香の心を掴み直せる恋の勝利感で、俺の心は一気に飛翔した。次の週末がひたすら待ち遠しかったのだが。


「お兄ちゃん、今日は何時に出るの?」


 里香の誕生日デート当日、いそいそと支度をしている俺の目の前に、優愛が現れた。

 何と、もう外出着に着替えて用意も万端、当然のようについてくる気だ。

 俺は仰天した。


「今日はダメだ」

「何で?」

「里香の誕生日なんだ」


 俺は短く言い切った。


「今日は里香とプレゼントを見て、里香のお祝いの食事をするんだ。二人だけの日だ」

「えーっ」


 悲鳴に似た抗議の声が、部屋を揺るがした。

 優愛にとっては、予想外の拒絶だったらしい。


「ずるいよそんなの!」

「何がずるい」

「だって、優愛はあさって誕生日じゃない!」

「あさってな」

「いやだいやだいやだ、一緒に行く! 一緒にお祝いして!」


「わがまま言うな!」

「いやだ、いやだあっ」


 またもや地団太踏み始めた。その音に驚いて、両親が二階にやって来た「絶対にダメだ!」流石に俺の剣幕に驚いたようで、必死に優愛をなだめにかかる。


「ほら、お兄ちゃんが駄目だって言うんだから、我慢しなさい」

「優愛が今日、お誕生日のお祝いして欲しいなら、そうしてあげるから」

「ちがう! そんなのじゃないの!」


 金切り声を上げて泣き、暴れる優愛を両親に押しつけて、俺は部屋から逃げ出し外に出た。

 門から家の二階を振り返ると、優愛が窓から身を乗り出して俺を睨んでいる。

 待ち合わせの時間にはまだ余裕があったが、俺は、そそくさと駅へと歩き、いつもの待ち合わせ場所へ向かった。

 人が行き交う地下街の噴水前で、俺は息を吐いた。優愛には可哀想だが、今日ばかりは特別な日だ。


 それにしても、友達の前でもあんな風に聞き分けの無い態度を取っているんだろうか……そう思うと、優愛の性格に改めて不安がわく。もしかして、友達がいないどころか、嫌われいるんじゃないか。

 大学に入ったあたりから、バイトや遊び、社会に出てからは仕事で遅くなることもあって、家族そろった夕食の機会が少なくなった。

 そうとしても、優愛の口から学校生活の話題が最近出ない。

 しばらく、俺はその意味に、妹について考え事にふけった。


「みーつけた」


 声が背中に当たったとき、全身が硬直した。妙だ、これから来るのは里香のはずだ。優愛の声であるはずがない。

 無意識下で、背中がざわりと粟立った。目の前向こうに、里香がやってくるのが見えた。

 咽喉が一気に乾いた。俺は、本能的に横に動いていた。後ろにいるであろう優愛を、失敗を、里香の目から隠すために。


 だが、俺の目の前1メートルで、もう里香は優愛に気が付いていた。優愛が藍らしい笑顔で、図々しく俺の横に立っていたからだ。しかも腕を絡めて。

 あのクソオヤジにオフクロは、何やっているんだ役立たず。

 娘一人、抑え込めないのか、優愛はお前らが年甲斐もなく作ったものだろう。

 力技で負けたのか、我儘に負けたのか、どちらにしても同じだ。

 優愛を制止しきれずに、家から逃がした失態演じた両親2人へ、俺はあらんばかりの罵倒を無言で浴びせた。そして、里香には精一杯の笑顔を作った。


「あ、その……」


 誕生日、おめでとうと言うはずだったのだ。

 香の喜ぶ顔を見る、俺にとっても里香にとっても、最高の一日になるはずだった。

 それが出てきたのは、尻つぼみの言い訳だった。


「めん、振りきったつもりだったんだけど……」里香の顔を見た瞬間、それ以外の言葉を俺は失くしていた。

 最初に、俺を見つけた里香の顔は花が咲き誇った。そして、優愛に気が付いて不意打ちを食らったように立ち止まり、表情がかき消えた。

 今、俺の目の前にいるのはしおれた花どころか、ドライフラワーだった。かろうじて花の形は保っているが、瑞々しい生気は無い死んだ花。


「ねえっ 優愛の誕生日プレゼント!」


 優愛が俺のシャツの裾を引っ張った。


「お兄ちゃん、私、欲しい靴あるの。ねえ、お誕生日だよ。買ってくれるんでしょ」


 優愛は、里香が傍にいるのもお構いなく声を上げた。家に置いて行かれたことで、里香に逆恨みして張り合っているのだ。

 里香は黙って俺と優愛を見比べていた。

 久しぶりの二人きりのデートを楽しみにしていたんだ。

 ごめん、本当にごめんなさい。

 ちゃんと置いてくる努力はしたんだ、それなのに付いてきてしまったんだよ。


 本当ならこの場で土下座したいが、そうなると変な注目を里香まで巻き込んでしまう。その衝動を必死で殺した。


「ねえったらっ」

「……分かった」


 とにかく、優愛を黙らせよう。その安物の靴を先に買い与え、黙らせてから実家に連絡して強制送還だ。そして里香と指輪を買いに行くんだ。

 俺は顔を上げて、里香へ目で謝罪した……もう少しだけ、待ってくれ。


「じゃあ、靴を買いに行こうか」

「わーい、やったあ」


 無邪気に喜ぶ優愛。やっぱり笑うと可愛い妹なのだ。ため息一つついて、俺は指輪を買いに行く先の百貨店ではなく、ショッピングモールに足を向けた。

 その時だった。


「じゃあ、私はもう帰るわ。さよなら」

「え?」


 突然、崖から突き落とされた。

 俺は里香を食い入るように見つめた。怒りでも悲しみでも、何でもいい。その表情から、今の里香の心を探り当てて手当てをし、この場の収拾をつけないと、とんでもない事になると、本能が慌てふためいている。

 だが、里香は無表情だった。感情の残滓も手がかりも、何も残してはいない。

 ゆびわ、俺は口を動かした。

 欲しがっていただろ? 喜んでいただろ?


「もういいわ、さよなら」


 里香は、優愛にも視線を放り投げた。

 優愛に対しては憐憫の色が一瞬だけよぎったが、それだけだった。

 優愛がポカンと口を開けた。この場の空気の意味が理解できているのか否か、どちらにしても不吉な事が起きているのは分かっているらしく、俺をすがるように見る。

 里香が、背中を向けて歩き去る。

 俺は追えなかった。


 追え、追えと恋心は悲鳴を上げて俺を急かしたが、里香の背中は冷たかった。

 動けなくなった俺の目の前で、里香の背中は雑踏の中に沈んで消えた。



 何度もラインで、メールで、携帯で里香と話をしようとした。

 いっそ、罵って欲しかった。私と妹、どっちが大事なんだと怒ってくれたら、決まっている、里香だと言えた。もう二度と、絶対に優愛にデートの割り込みをさせないと、土下座して謝ることが出来た。

 だけど、着信は拒否されていた。ラインは既読すらつかない。こうなれば、メールも読んではいないだろう。俺からの一方通行になっていた。


 支店は違うけれど、同じ会社なので里香の支店に電話をしたら、何度電話しても『離席中です』『折り返しさせます』の繰り返しだ。でも、返電は来ない。

 いっそ里香の家まで行こうと思ったけれど、彼女は実家住まいだ。

 家の人にストーカー扱いされてしまったら、もう完全にお終いになる。

 俺は何も言わなかったけれど、優愛は、俺と里香の間に何が起きているのか、何が原因か、察するくらいの頭はあったらしい。でも、謝ろうとはしなかった。俺の様子を見て、おどおどと遠巻きに伺っている状態だった。


 里香が好きだった。俺が告白した時の、あの恥じらいとくすぐったさが混じった笑顔を思い出すと、胸が潰れた。交際を重ねるうちに、里香だって俺の事を好きになってくれていたはずだった。

 俺だって、良いと思って優愛を許していたんじゃない。

 仕方が無くだったんだ。優愛だって、邪魔してやろうという悪意で付いてきたんじゃない。


 休みの日に相手をしてくれる人がいなくて、寂しかったから俺たちに甘えて構って欲しかったんだ、多分。

 それでも、容赦なく関係を切られたのは事実だった。

 あまりにもあっけな過ぎて、落ち込むとか泣くとか、恨むという感情が頭に追いつかない。

 朝が来て、昼が来る。そして、夜。

 里香にフラれてからの俺は、一日というベルトコンベアに乗って、ただ時間を移動している日々だった。


 聴覚や視覚の外で、優愛が学校で仲間外れにあっているらしい、登校しても、ずっと保健室にいるだの、お兄ちゃんに嫌われたと毎日泣いているから、仲直りしてあげて欲しいだの、両親の相談混じりの懇願が聞こえていたが、今の俺は生者のなりをした死人だった。

 だけど、死人ではいられない事態が起きた。


「晃、ちょっと来てちょうだい!」


 仕事から、家に帰ってドアを開けた瞬間、蒼い顔の母親が飛び出した。

 夕食そっちのけ、背広姿のままで俺は居間に引きずっていかれた。父親が世界の終りを見ているような顔で、ソファに座っていた。向かいには優愛。

 応接テーブルの上に、ぼろ切れがあった。同じものが3つ。

 だが、只のぼろ切れというには明らかな形があった。胴、頭、手足。だが、それは玩具というには雑過ぎて、嫌に禍々しい気を放っていた。


 しかも、ぼろに何を詰め込んで作ったのか、内側から汚い茶色の染みが滲みだして、それが夏の炎天下にずっと放置された、生ごみの腐臭を放っている。

 それをまじまじと見て、俺は声を上げそうになった。

 ぼろ人形の腹と頭の部分に、縫い針が何本も突き刺さっていた。


「お部屋のゴミ箱の中に、捨ててあったのよ。ポリ袋に入れて、口を縛っていたんだけど、何だか変な臭いもするし、開けてみたら……こんなもの」


 母親が、声を震わせて言った。


「優愛ちゃん、あんた、こんな……何をしているつもりなの、一体何なの、この変な人形は? 優愛ちゃん、このお友達の名前は……」


 どう見ても、呪いの儀式を行った人形だ。


「何だこれは!」


 俺は、声を上げた。汚い汁の染みと、滲んだ文字がすぐには読めなかったが、人形の腹部分に名前が書いてあるのだ。


『杉山ミチル』『秋野まなみ』


 そして『高上里香』


 絶叫した。


「何をやってるつもりなんだお前!」


 慄然とした。優愛の頭の中が分からなくなった。まさか呪いなんて思いつくとは。

 人を呪う儀式だなんて、迷信的で、非科学的だ。馬鹿馬鹿しいの一言に尽きる。だけど、目の前にある人形は人を呪う、負の感情を具現化した悪意の象徴だった。

 呪ったからと言って、実際に相手が死ぬかどうかは分からない。

 だけど、相手の知らない場所で、そんな闇のエネルギーを発散する歪みと悪意は、間違いなく許しがたいものだった。

 しかも、呪っているのは里香だ。


「どうして里香なんだ、里香がお前に何かしたか!」


 脳みそが炎に包まれた。優愛は青ざめた顔で呪いのぼろ人形を凝視し、俺の方を見向きもしない。

 あまり怒鳴るなと、父親の声が聞こえたが俺はもう止められなかった。


「もうこんな馬鹿な真似、しないわね、優愛ちゃん。約束してちょうだい」


 俺の剣幕に恐れをなし、母親が守備に回った。

 こう来ると、優愛を甘やかして育てた、こいつらも同罪だ。

 優愛の肩が、ガタガタ震えている。真っ白い顔からは涙が流れ落ちているが、俺はボロキレ3体を掴むと、ゴミ箱が割れる勢いで叩き入れた。



 ボロキレに、腐った土や食物を詰めて人形を作り、呪いたい相手の名前をマジックで書いて、針を顔や心臓部分に突き刺す。

 ネットでも得られる『人を呪い殺す方法』の知識だった。

 効果はあるかどうかは知らないけれど、呪われる側の想像をすると、毒蛇から陰で見つめられている気分になる。気分が悪いこと間違いはない。


「優愛ちゃんを許してあげて。里香さんにお兄ちゃんを盗られたくなかったのよ」


 母親はそう言って、俺をなだめようとしてきた。

 呪いに効果があるとは信じたくないけれど、里香が心配だった。

 携帯にも出てくれないので、里香の支店に電話をかけた。

 やはり離席中だった。同僚に、彼女の様子をさりげなく聞いた。


「風邪気味とか聞いてますけど、それ以上は特に変わりはないです」


 声を聞けない失望はあったけれど、安心して内線電話を切った。

 優愛は部屋から出て来なくなった。

 家族にあんな真っ黒な秘密を見られたのだ。子供とはいえ余程ショックだったに違いないと、両親は口を揃えた。


「学校でも色々あるようだし、担任の先生にも連絡して、少し休ませてあげようと思うのよ」


 そこまで追い詰められていたのなら、可哀想な気もした。

 反省しているなら、その内、優しい言葉でもかけてやるかと思ったのだが。



 事の始まりは、お袋が俺に聞いてきた事だった。


「晃、居間のお人形、どこにあるかしらない?」

「人形?」

「ほら、お父さんの会社の方に頂いたアンティーク・ドールよ。真っ赤なドレス着て、赤い帽子をかぶった女の子の人形」


 そこまで言われて、ようやく俺は金髪に蒼い目のフランス人形を思い出した。

 親父の会社の人がくれたものだった。もらいものだけど、家は息子ばかりで奥さんも興味がない。だから、お宅の娘さんにどうだと言ってくれたのだが、何だか変に顔がリアルだから気味が悪いと言って、優愛は部屋に持って行くのを嫌がった。結局、居間の飾り棚に置いていた人形だ。


「優愛が要らないならって、オヤジが別の誰かにあげたんじゃないの?」


 今どきのピカピカの人形ではなく、古びているもの特有の変な存在感があって、正直、可愛いとは思えない人形だった。

 目の光彩が本物そっくりで、人形というよりは動かない小さな人間に見え、気持ちが悪かった。

 髪の毛が伸びそうだなコイツ、と思ったものだ。


「あれ、ブリュよ」


 骨董品好きのお袋は言った。


「フランスの、昔の有名な人形メーカーよ。もう会社も工場も無くて、人形も作ってないから今じゃすごく高い人形なの。そう簡単に人にあげられてもねえ」


 そう簡単に、とは言うけれど、あれは簡単にウチが人からもらったものだ。

 だけど、高価な人形とは知らなかった。だから可愛がってはいないが、居間に飾っていたのだろう。

 夕食になった。今日も優愛は降りてこない。最近の優愛の食事は、お袋が作ったものを、部屋の前にトレイで置いている。

 お袋が、深刻なため息をついた。


「難しい年頃だからね」


 そっとしてやらないと。そう言いながら、お袋は嘆いた。


「優愛ちゃん、最近、酷く何かに怯えているのよ」

「何かに怯えているって、何を相手に怖いんだよ。いじめっ子もヤンキーもいない、この世で一番安全な部屋にこもっていて、怖いも何もないじゃないか」

「でもねえ……何だか、びくびくしているの」


 何がコワいのかは知らないが、俺にとって、優愛の引きこもりは深刻な家庭問題ではあったけれど、いつかは直面する問題だという予感はあった。

 優愛は、両親からちゃんと怒られたことが無い。

 遅くできた一人娘、温室の花で育てられた愛らしい姫君は、傍若無人な暴君の芽も摘まれなかったおかげで、可憐で棘だらけの花に成長してしまった。

 諦めるとか妥協するとか、自分なりに物事の決着のつけ方を学ぶ機会は、自分の思い通りにならなかった時にこそ覚えるものだけど、両親は優愛にそのチャンスを与えなかった。


 それを友達との人間関係で学べれば良かった。だけど、そのためには友達が優愛をどこまで許容してくれて、どう諭してくれるかにもかかっている。

 不運な事に、優愛の周囲には、そこまで心の広い相手がいなかった。

 その結果がこれだ。

 優愛は学校で孤独になって、その寂しさが悪意になり、小心な悪意が呪いに転化したんだろう。


 夜中、俺は目が覚めた。3時だった。

 喉が渇いていた。水を飲みに行こうと部屋を出た。

 台所に降りて行く。家の中は真っ暗だったけれど、明かりを点けたらドアの外に光が漏れて、両親を起こしてしまいかねない。俺は階段の手すりにつかまり、音をたてずに台所へゆっくり降りた。

 冷蔵庫を開けた時、横の勝手口の鍵が開いているのに気が付いた。


 閉め忘れかと思ったけれど、以前近所で空き巣があった以来、お袋も親父も家の戸締りには用心深い。

 特に勝手口は必要以上に神経質で、外出前と寝る前は何度も鍵を確認するほどだ。

 不思議に思いながらも、俺は鍵をかけようとして、気が付いた。

 三和土にサンダルが無い。

 鍵の閉め忘れじゃない。真夜中の3時なんて時間に、家の誰かが庭に出ているのだ。俺は外に出た。


 外は、完全な静寂だった。夜と朝の間の、一番濃い闇の時だ。

 虫の声さえない、生の営みが一時的に死に絶える時間。

 その闇の中、庭の片隅に、ぼんやりとした影が浮かんでいた。

 うずくまっている。

 まるでそれは、人間ではなくて幽鬼のようだった。

 そのシルエットに心臓が跳ねた。

 まるで、幽鬼のように蠢く影へ、俺は名前を呼んだ。


 優愛、と小さく名前を呼ばれ、優愛は俺に気がついた。ひぃ、と咽喉から漏れる、小さな呼吸が聞こえた。

 俺に余程驚いたのか、中腰のままで後じさり、バランスを崩して手を土の上についた。


「何しているんだ、お前は」


 月の明かりが、優愛の顔を薄く照らし浮かばせた。

 優愛は、震えていた。その表情は、泣きそうというよりも、ぐちゃぐちゃに顔を歪ませた般若だった。涙がこぼれていたが、それは見られたことに対する恐怖ではなくて、この場に現れた目撃者、俺に対する憎悪だった。

 スコップが落ちていた。花壇の土が掘り返されている。花壇の隅に何を土に埋めていたのか。嫌な予感がして俺は優愛を押しやった。


「おい!」


 土から覗いているのは、半分埋まった人間の顔だった。土の奥から俺を見つめる目に腰を抜かしかけたが、目のサイズが小さすぎる。

 人形だった。お袋が探していたアンティーク・ドール。


「優愛! 何をしているんだ!」


 何のためだ、狂ったのかと戦慄した。夜中に人形を埋めているなんて、狂気以外考えられない。

 優愛は頭を振りたくった。顔を覆い、泣き出した。


「だって、こうしないと私が呪われるんだもん!」


 震える声が、聴覚を貫いた。


「ママが悪いんだ! 呪ってから、後はちゃんと分からないようにして棄てたのに、ママが人形を見つけちゃったから、呪いが返って来ちゃう! あの子たちの代わりに優愛が呪われて死んじゃう!」


「……」

「だから、このにんぎょうを、優愛の代わりにして埋めていたんだ、そうすれば、呪いはちゃんとあの子たちにいって、優愛はたすかるの……」

「おまえ、なにいって……」

「キライだもん、あの子たち。あの子たち死んじゃっても、全然優愛は困らない!」


 呪いの儀式が見つかって、怒られた時の優愛の涙、怯えの態度の本当の理由に気が付いて、俺は呆然となった。

 あれは、人を呪った反省や、羞恥ではなかった。

 失敗して、呪いが自分に返ってくると思い込んで、怯えていたのか。

 優愛に人の心はあるのか。自分以外の誰かに、愛着や親しみはないのか。怒りや恨みを押し戻すような、優しい思い出はないのか。里香にはあんなに親切にしてもらったのに。


 俺は、優愛を孤独だと思っていた。性格の問題はあるにしても、それは親の責任でもある。甘やかされて育った犠牲者でもあるんだ、可哀そうな妹だと。

 優愛は友達から孤立し、孤独に苦しんでいると思っていた。

 だけど違った。優愛は孤独ではない。世界に自分しかいないのだ。

 血縁という地続きの妹、その妹の持つ本性のねじれ具合がおぞましかった。

 俺は、怒りと恐怖で優愛の頬を張り飛ばしていた。


 優愛は軽かった。悲鳴も上げず、中腰のままで吹っ飛んで、仰向けで頭を下に叩きつけた。

 あ、と思った。優愛の頭の下に、花壇の石があったのだ。


「優愛!」


 小さく叫んで、駆け寄った。


「優愛、優愛、お……」


 反応が無い。目と口を魂の抜け口のようにぽっかりと開き、体全体をガクガクと地震のような痙攣を起こしている。

 え? え? え? 俺は優愛の異常に面食らった。頭を打ったその意味と、どんな症状が起きているのか理解できず、応急処置とかするべきこと全てが、頭から吹っ飛んだ。

 優愛は痙攣している。


「優愛、おい優愛」


 このままではいけない、優愛の意識を何とかして戻さなくてはと、焦るその一心で体を揺らせ、頬を叩いていた。やがて痙攣が小さくなった。


「優愛、優愛」


 痙攣は収まったけれど、優愛の目は開いたままだった。「救急車」俺はようやく気が付いて、優愛を横抱きにして家に飛び込んだ。

 救急車を呼んで、こんな真夜中に庭で倒れている優愛を見られたら、一体何があったと近所で変な噂が広まってしまう。

 優愛をベッドに入れた。だが、優愛の口は開きっぱなしで、目は瞬き一つせず、目蓋を閉じる事もしない。

 ようやく気が付いた。


 優愛は死んでいたんだ。



 あっけな過ぎた。

 妹を殺してしまった、目の前に、優愛の死体もあるというのに、あまりにあっけな過ぎて唐突で、その現実が頭に収まらない。

 優愛そっくりな人形を使ったシュールな舞台劇に、突然放り込まれた気さえする。

 何で俺はこんなところにいるのか、どんな役を演じれば良いのか、セリフも何も皆目見当もつかないし、解決策も分からない。

 自分がしたことが、頭に入らない。


 なす術も見つからず俺は部屋に戻った。

 ベッドの中に潜り込み、自分のだけの闇を見つめた。

 気が付いたら、朝だった。

 目の前から目を背けるために、今後の事も分からないまま、俺はプログラムに従うロボット状態で日常の動作をなぞった。

 出勤の服を着て、階下の朝食のテーブルに降りる。


「お早う、目玉焼きでいいわね?」


 お袋が朝飯のプレートを差し出した。ロールパンと目玉焼き、コーヒーと果物を、俺は摂った。優愛の席は空いている。親父が新聞を読んでいる。

 こんなありふれた、普通で凡庸な朝のテーブルを前にしていると、優愛を殺したという記憶はまがい物ではないのか。そんな希望に俺はすがりついた。

 だけど、お袋が優愛の朝食のトレイを手にして立ち上がった。

 俺はお袋を止め損ねた。


 ここで「夜中に、優愛を殺してしまった」そう言えるはずもなく、階段を昇るお袋の背中を、痴呆のように見送った。

 お袋は優愛の部屋に入る。そしてベッドの中で死んでいる優愛を見つけるだろう。お袋の足音を聞きながら、俺は観念した。

 お袋が、食堂に降りてきた。

 俺は、ポカンとした。お袋の態度は、普通そのものだった。

 ゆあは、と口を動かす俺に、お袋は言った。


「内側から鍵がかかっていて、部屋のドアが開かないの」


「ば……」ばかな、声が咽喉ではなく、前歯の裏まで押し寄せた。


 背中が粟立った。言いようもない歓喜と、恐怖に似た混乱が頭を埋め尽くした。

 優愛の部屋の鍵は、内側からしか閉められないのだ。俺は優愛の部屋から出て行った、その後で誰かが、部屋の内側から鍵を閉めた?

 そんなまさか。あの部屋にいるのは、優愛だけだ。

 優愛は生きている? そんなはずはない。あんなリアルな悪夢があってたまるか。


「優愛! 優愛!」


 俺は二階に駆け上がった。しかし、ドアノブを掴んだところで、親父とお袋に取り抑えられた。


「やめなさい! 晃、優愛が吃驚して怖がるでしょう! あの子は心の病気なのよ、これ以上悪くなったらどうするの!」


 お袋と親父、二人がかりで部屋のドアから引き剥がされた俺は、庭へ飛び出した。

 優愛は庭に人形を埋めていたのだ。

 庭には、掘られた穴がある。俺はそれを凝視した。

 人形がない。

 明らかに掘った穴が、そのまま放置されている。

 深くもなく、広くもない。

 子供が作ったような大きさは、せいぜい人形一体分だった。


 穴は、昨夜の出来事が、現実であることを教えてくれた。だが穴に埋まっているはずの人形は、庭のどこにも落ちていない。

 どちらの記憶を信じれば良いのか、妹殺しかマヌケな悪夢、どちらにつけば良いのか、俺は混乱して膝をついた。

 ふらつきながら、俺は家の中に戻った。そして、居間の飾り棚に目を疑った。

 あの人形がある。


 間違いなく、お袋が探していた、あの埋められていた人形だ。

 どうしてここにあるんだと、やっぱり優愛の事は悪夢だったのかと、確かめようと手にし、悲鳴を上げた。

 人形のドレスや髪の毛には、土があちこちについていた。

 俺は、会社へ逃げ出した。 


 考えたくない。会社の業務の中に逃げ込んで、自分が狂っているのか、それとも世界が狂っているのか、結論を誤魔化しながら時間を潰した。

 昼休みにメールが着信した。

 差出人を見て、俺はめまいすら感じた。里香だった。里香の誕生日に別れてから、全く連絡が取れなくて、もう恋は終わったんだと諦めていた。それなのに、こんな時にメールが来たんだ。

 俺は、指をガクガク震わせながらメールボックスを開けた。 


 簡素なショートメールだった。


『もう一度だけ、会いましょう。ちゃんと話をして、今後の結論を出したいと思います。分かっているとは思うけど、二人きりで』


 もう一度会ってくれる。思いがけない文章は、例え気まぐれや憐れみとしても、俺にとっては天からの贈り物だった。里香から与えられたチャンスに、俺は狂喜した。


『勿論だ、里香にはひどい事をしたって反省してる』


 俺は誠心誠意を込めてメールを打った。


『もう、二度と妹を俺たちの中に割り込ませることはしない。里香の方が大事だ』


 メールの返事の間が、少し空いた。


『有難う』


 里香の素直さが嬉しくて、悲しかった。

 彼女の態度が軟化している。きっと里香は、不甲斐ない俺の行いは、妹に対する弱気な優しさでもあると気が付いてくれたのだ。結果的に里香の機嫌を損ねたわけだが、でも許してくれるかもしれない。

 もう一度、やり直したかった。里香のいる世界にいたい。

 だけど、俺は妹を殺してしまったんだ。そのことを改めて思い知らされ、暗闇に吸い込まれた。


 優愛に対しては、悪いと思っている。

 例えどんなに出来が悪くても、血を分けた妹なんだ。

 困った奴だけど、大人になったら、ちゃんとした優しい娘になっていたかもしれない。

 好きな男が出来て、幸せな結婚と家庭を作っていたかもしれない。


 はずみとはいえ、俺はその可能性を奪ってしまった。

 だけど、あくまではずみだった。誓っても故意ではない。

 全くの加害者というには酷すぎる。角度を変えてみたら、そんな運命を背負わされた俺はもっと被害者じゃないか。

 乱暴な事をしてしまったけど、あんな「呪い返し」なんて性根が腐ったものを見たら、家族とはいえ殴ってしまうのが常人だ。

 そう、事故だ。


 仕方がなかった。あの場では、誰だってそうしていただろう。

 俺はそう言い聞かせた。

 それは優愛に対する謝罪なのか、己に対する逃げ道なのかは分からない。

 だから俺は、自分から優愛の部屋をのぞこうとする勇気が無かった。ドアを開ける手も足も、1ミリも動かすことが出来なかった。

 朝食と夕食に両親と顔を合わせ、優愛のいないテーブルにつくたびに、真実をぶちまける勇気と罪の意識が一緒に爆発しかけた。


 しかし、目の前にいる両親は、引きこもりの娘に戸惑っている、世間でありふれた悩みを持つ親だった。

 その世間並みの苦悩しか持たない姿に、その決意はいつも潰された。

 お袋は3食をトレイにのせて、食べるはずの無い食事を、優愛の部屋の前に置いていた。

 優愛が部屋から出てくるはずはなかった。まったく姿を見せない娘に、お袋は不思議に思っているそぶりはなかった。


「優愛は、お夕飯は夜中に起き出して食べているみたいなの」


 食事のトレイが、朝になったら食い散らかされているという。


「たまに夜中、台所に誰かがいる気配もあるの。きっと起き出しているのね」


 俺は、お袋の顔をまじまじと見てしまった。我ながら、間抜けな質問をした。


「優愛の部屋に、入らないのか?」

「だって、あの子、内側から鍵をかけているんですもの。無理矢理こじ開けることは出来ないでしょ。ショックを与えて、悪化でもされたらどうするのよ。あのねえ、カウンセラーの本を読んでみたら、引きこもる子は世界を自分の敵だらけと思って怖がっているの。だから、家族だけはその子の徹底的な味方にならないといけないのよ」


 親父も頷いた。

 父親として、優愛を無理矢理部屋から外に引きずり出す気はなさそうだった。

 強弁な手段が必ずしも正しいとは言えない、そういう事ではなく、自分が下手に手を出して、事態が悪化するのを避けているのだ。

 俺は身震いした。

 優愛が死んでいることは、俺しか知らない。

 それは世界からはみ出している事だった。


 優愛の死は、俺以外に知る者がいない地獄だ。犯した罪を抱え、罪が露見する怯えの檻に一生囚われる孤独。

 安らかな、蜜のような眠りを失った。俺の無意識は、罪とその場面を遠慮無く再生し、夢のなかで何度も俺を責めた。

 優愛は何度も俺の前に出てきた。

 ボロキレの人形を手にして俺を見つめていた。

 夜の庭で、俺の部屋を見上げていた。


 花壇の隅にうずくまっている影がある。

 死者は夢と現実の間を行き来し、自分の死から目を逸らそうとする俺の罪を、恨めし気に、容赦なく責め立てた。

 その執拗さに疲れた俺は、ついにドアノブに手をかけた。

 優愛を殺して3日目の事だった。


 夜、両親が寝静まったのを見計らって、俺はそっと部屋を出て、暗い廊下を歩き、向かいにある優愛の部屋の前に立った。

 足元には、ラップをかけた夕食のトレイが置いてある。蹴らないように気を付けながら、そっと名前を呼んだ。ゆあ、出したつもりの声は、咽喉にへばりついた。

 お袋は言った。内側から鍵を掛けられて、入ることが出来ないと。

 そのドアノブが回ったのだ。

 開いていた。ドアノブを回し、ゆっくり押した。ドアをわずかに開ける。


 淡い獣臭が、ふわりと俺の横をかすめた。あるはずのない不快な臭気。それはすぐに消え失せ、同時に俺の足元を、何かがかすめて部屋から出た。

 ドアを全て開ける勇気がなく、まず10センチほど開けた。

 限られた範囲の中で、出来るだけの情報を得ようと目を凝らし、優愛の気配を探った。

 部屋の中は静かで真っ暗だった。


 それなのに、部屋の奥で、何かが蠢いている気配がした。微妙な空気の振動を肌に感じた時、氷の針が背中に刺さった。俺はドアを叩きつけて閉めた。割れるような音が、暗闇に冴えわたって響いた。

 腰が抜けた。

 俺は涙を流していた。ドアを開ける事がどうしても出来ない自分が、いかに意気地なしで臆病で、罪を後生大事に抱え持つしかない卑怯者だと自覚したんだ。

 みしり、と静かな音が鳴った。俺は粟立った。下の廊下が軋み、階段から気配が近づいてくる。ドアの音で一階の両親を起こしてしまった。


 静かな声が降って来た。


「何をしているの」


 のろのろと、俺は壁に体をこすりつけながら立ち上がった。そして自分に呆れ果てて、笑いそうになった。

 確かに、何度も言い出そうとして失敗はしていたけれど、まさかこんな形で、お袋と親父に知られてしまう羽目になるとは、世界一のトンマだ。

 ははは、と俺はうつろに笑った。だが、そんな俺を見つめる二人の顔に、表情は無かった。


「ドアを開けたのか?」


 親父が聞いた。俺は頷いた。


「中に入った?」


 お袋の問いに、俺は頭を振った。

 お袋は、優愛の部屋のドアを開けた。親父がそれに続く。

「おい……」その極めて自然な動きに、俺は叫びかけた。二人とも、優愛の部屋に入らないと言っていたはずだ。

 お袋は電気を点けた。部屋に光が満ちた途端、何かが部屋で蠢いていた気配は、はじけるように消え失せた。

 明るい部屋に出現したのは、もっとおぞましい光景だった。


 優愛を寝かせたベッドの上に、丸く膨らんだ毛布がある。

 あの時、俺はちゃんと優愛を寝かせてから毛布をかけた。それが今、毛布の形が丸い山になっている。俺はすぐに察した。とうの昔にばれていたのだ。

 お袋は、黙ってベッドの前に立つと毛布をめくり上げた。優愛は毛布の下にいた。その姿に、俺は目を疑った。

 優愛の真空パックだった。


 まるで、巨大な保存食だ。優愛は全裸にされ、丸まった胎児のポーズを取らされ、大きなビニール袋に入れられていた。空気が抜かれたビニールは、べったりと隙間なく優愛に貼りついて、横顔はガラスに顔を押しつけたようにひしゃげていた。まるで悪ふざけをしている子供の顔だった。

 悪趣味な前衛芸術、イカレた芸術家のオブジェだ。


「布団圧縮袋に入れて、掃除機で空気を吸ったの」


 お袋の声が淡々と耳に入った。


「腐ったら、匂いが漏れるし虫も湧くからな」


 親父が嘆いた。


「まあ、応急処置だ。最初はどこかに埋めようかと思ったがな。人目につくし、やっぱり優愛をバラバラにするには忍びなくて」


 これなら臭いも漏れない、腐敗もある程度防げる。お袋の発案だったらしい。


「気が付いていないと思った?」

 夜中に、家であんな大きな音を立てたら聞こえるわよと、お袋はため息をつた。

「おふくろ、おやじ……」


 俺は喘いだ。


「ひどいよ、これは……かわいそうじゃ、ないか……」


 殺したのは俺だ。

 だけど、その後にされた処置がグロデスク過ぎた。死の悲劇性も尊厳もない、保存という身も蓋もない実用だけを念頭におかれた悪ふざけだった。


「何を言っているのよ」


 お袋の声が尖った。


「晃、あんたそんな事言える立場?」

「じゃあ、他にいい案があるのか? こんな事を仕出かして、これからどうするつもりだったんだ? お前は」


 親父が低い声を漏らし、睨みつけてきた。俺は咽喉が重くなった。


「自首か? 逃げるのか? その間に優愛をどうするつもりだったんだ。俺たちが黙っていたら、ずっとフラフラ呑気に悩みやがって。ごめんなさいと悩んでいれば、そうしている内に優愛の死体は消えてしまうとでも思っていたのか? 死体はズルズル放っておけば腐るんだぞ」


「だって……だって、お袋が、ゆあが生きてるみたいに……」

「自分のやったことくらい、分かるでしょ」


 はーっとお袋はため息をついた。


「ああもう、こんな情けない息子とは思わなかった」


 何で、と俺は泣いた。


「優愛をこのままにするの? まるで真空パックの総菜だよ、可哀そうじゃないか」

「真空パックって、それも仕方がないでしょう。じゃあ埋めるの? どこに? 庭? 山? どうやって優愛を持って行くの? このまま運ぶの? あんたが妹の首切って、手足切ってバラバラにしてくれるの? そっちのほうがよっぽど可哀想よ!」

「でも、こんなのあんまりだよ……」


 俺は真空パックに涙した。

 たった一人の妹が、こんな滑稽で馬鹿らしくて非情な扱いをされているのは、俺のせいだ。

 罪悪感が疼いた。

 死を隠している間は、優愛はずっとあんな情けない姿で保管されてしまうのだ。

 だけど、お袋は鉄の声を放った。


「仕方がないでしょう。バレたら、普通の暮らしが出来なくなっちゃうのよ。あんた、それが分からない?」


 あまりにも当たり前に、力強い答えが俺の頭をガツンと殴り飛ばした。

 酷い、俺は繰り返し呻いた。優愛が可哀想だ。だが、親父も言い放った。


「分かっているのか、お前は妹を殺したんだぞ」

「……それは」


「家族が人殺しになるっていうのは、我が家だけの問題じゃあない。何度でも言ってやる、良いか、お前は人を殺したんだ。人殺しってもんは、とんでもない大火災だ。焼け落ちるのは我が家だけじゃない、その親戚まで巻き込んで、大やけどを負わせるんだぞ。お前のせいで、従姉のさおりちゃんの結婚や、セイヤ君の将来も台無しだ。それを考えたことはあるのか?」

「……」


 親父の声こそ、炎のようだった。子供の頃から仲の良い従姉たちを思い出した俺は、完全に力を失った。

 看護婦のさおりちゃんは、長年付き合っていた彼氏と来年結婚する。高校生のセイヤは、弁護士になるのが夢だ。

 お袋の鉄の声が、湿り気を帯びた。


「あのね、あんたが警察に捕まっちゃえば、分かるでしょ? お父さんもお母さんも、普通の暮らしが出来なくなっちゃうのよ。普通がどれだけ尊いものか、あんた分からないの? 犯罪者家族に対する世間の目がどんなものか、新聞やネット見たら分かりそうなものでしょうに。兄が妹を殺害だなんて、家族の闇だの近親間の憎悪だの、知識の欠片しか持たない専門家でもないエラそうな人間が、笑いながら我が家を解剖するのよ。ワイドショーや週刊誌の娯楽にされるなんて、ああ、想像しただけで吐き気がする。私はねえ、こんな事になるために、子供二人産んで育ててきたんじゃない」


「お前だって、好きで優愛を殺したわけじゃないだろう」


 親父は、くたびれた吐息をついた。


「優愛のせいで、お前と彼女がどうなったかくらい知っている。お前の事だ。何かはずみだったんだろう。お前は優愛を殺したんじゃない、優愛が運悪く死んでしまったんだ。殺す気もなかったのに、はずみで起きた人死になんて妹とはいえ、家族の代償を考えたら割に合わなすぎる……そう思わないか」

「優愛はね、引きこもっているのよ」


 お袋が、パック詰めの優愛を毛布で覆った。


「もう、部屋からは出て来ないの。いつになるかは分からないけど、でもそれも仕方がないわね、10年20年は引きこもる子もいるんだから」


 俺と親父、お袋は部屋を出た。ドアを閉める時に、俺は二人に聞いた。


「優愛が庭に埋めていた人形、お袋たちが戻したのか?」


 二人は、ぽかんとした後、互いの顔を見合わせた。お袋が言った。


「知らないわよ、そんなの」



 俺が知る限り、親父もお袋は平々凡々な小市民の見本だった。

 世論調査やアンケートの数字の一つ、テレビニュースに映る雑踏やレポーターの背後に一瞬顔が映るくらいの書き割りだった。だから、自分たちが犯罪に巻き込まれる、関わることなんて夢にも思わず、生まれて死ぬまでの時間は、ずっと平坦な道が続くと信じていた。


 善良そのものだから、最悪の事態に対する想像力もなく、日常の転覆という危機感もない鈍感さが、優愛への教育にも表れていたと思う。

 親父は中堅の食品会社をつつがなく勤め、後は管理職のままで退職を待つだけだった。お袋は名も無き普通の専業主婦で、毎日の家事ローテーションをこなし、子供を無事に成人させれば母親業は完了だった。

 二人とも、平凡以外の暮らしを知らず、そこからはみ出す想像も出来なかった。世間から爪はじきにされる事を恐れた。だから壊れたものを修復するではなく、徹底した隠匿を選んだのだ。


「晃、ちょっと手伝って」


 ある日、親父とお袋が俺の部屋に入って来た。


「家にネズミが出たのよ」


 真空パックにされていても、腐敗そのものは止められない。腐敗は内臓から進行し、ガスを発生させる。腹をさばき、内臓を取り出して肉を乾燥させれば、永久保存のミイラに出来るんだけど。

 優愛は、ビニールの中で、ぶよぶよと薄赤く膨らんだ饅頭になっていた。布団の圧縮袋は、完全な密封ではない。腐敗臭はわずかに漏れていて、クソとドブとゲロとションベンを混ぜ合わせて煮詰め、さらに発酵させた臭いといっても過言じゃない。肺の中を汚染する威力があった。


 足元を黒っぽい何かがさっと横切り、壁を伝って走る。ネズミだった。不潔な生き物に、俺は気分が一気に悪くなった。

 上の蓋が開くプラスチックの大型の箱があった。お袋は、その箱の蓋を開けた。


「それを、ベッドからこの中に入れて頂だい」


 え? と俺は躊躇したが、親父の顔は諦観そのものだった。

 優愛の顔は赤黒く崩れ、目玉も溶けて元の形はなくなっていたが、面影がわずかに残っていて、それがかえって生々しい。

 あんなに可愛い顔だったけれど、腐ってしまえば元も子もない。

「おい」親父が顎をしゃくった。俺は自分が感情もないロボットであると言い聞かせた。人の命令に従うプログラムを今、実行しているのだ。


 俺は場所を移動して、ベッドの上の布団圧縮袋の端に手をかけた。

 ビニール越しに掴む優愛の肉は、まるで煮込み過ぎた肉のように柔らかかった。下手したら、骨から肉が外れてしまう。親父は反対側を持った。


「せーの」


 こんな時のマヌケなかけ声で、あ、と俺は慌てた。袋のファスナー部分を持ってしまったんだ。ファスナーの形が崩れて、間に空気が入る。拍子に圧縮袋を落としそうになり、慌ててつかみ直す。


「いってぇ!」


 つかみ直した拍子に、衣装ケースの角部分で手の甲を削った。ファスナーから殺人的臭気の汁が漏れて、ぬらぬらと俺の手の甲を濡らす。人糞を100人分全身に浴びるくらいの臭気に、俺は危うく衣装ケースの中に吐き戻すところだった。

 諦観から苦行に顔を歪ませて、親父がブルブルと腕を震わせ圧縮袋をケースに入れた。


 ケースに入れた後、匂いが漏れないように、蓋を閉めてガムテープで厳重に目張りをした。

 もう、優愛は優愛ではなく、凶悪で殺人的臭気の塊だった。

 俺は速攻風呂場に飛び込み、封を切ったばかりのボディーシャンプー一瓶を全部使いきってしまった。それでも臭いが細胞に染みこんでいるような気がして、何度も自分で自分を嗅ぎ、擦り傷の出来た手の甲は、消毒薬で何度も洗った。

 衣装ケースに入った後でも、まだ優愛は世間の中では生きていた。


 優愛のクラス担任が、優愛に会いたいと何度か家を訪れ、教頭に学年主任、学校専属のカウンセラーも生徒指導にやって来た。優愛を訪ねてきたクラスメイトもいた。


「優愛さんが好きでした。彼女の力になりたいんです」などとのたまう同級生の男子もいた。

 お袋はそれに応対しながら、優愛は会いたくないと言っている、精神が不安定だからそっとしておいてくれと、壊れたオルゴールのように言葉を繰り返し、優愛につながろうとする外部の人間を排除し、遮断した。


「ああ、厭だ厭だ。家に一体誰が来るのやら思うと落ち着きやしない」


 髪の毛をかきむしるお袋へ、俺も親父も何も言えなかった。

 仕事で日中不在の俺たちの代わりに、孤立無援状態のお袋が訪問者全て応対しているんだ。

 お袋は、外に出ることが全く無くなった。

 優愛の学校関係者や友達が、いつ家にやって来るか油断が出来ないと言う。


「もしも奴らが優愛の姿を見たいとか思い詰められでもしたら? 電信柱や塀の上を伝って、二階の部屋を覗き込まれでもしたらどうするのよ!」


 勝手に家に上がり込まれ、2階へ上がられたら大変だと恐れてもいた。


「近所のお節介焼きが親切っぽく、いかに心配げに「優愛ちゃん最近見ないけど大丈夫? 学校へ行っていないって噂で聞いたわ」とか、遠慮も無しに、道ばたでウチの事を探ろうとしてくるのよ。きっとあいつら、何かを掴んで私を脅迫しようとしているんだわ」

「優愛があいつらを操って、ケースから脱出しようとしているんだ」

「優愛に一目会わせてって、来る奴来る奴。みんないつも判で押したように言うのよ! もしかしたら、皆同じ人物なのかもしれないわ、きっと色々な人間に化けて、ここに来ているのよ!」 


 夜中に突然起き出して、優愛の腐敗臭が家に充満していると、家じゅうの窓ばかりか、玄関のドアまで全開にし、夜が来ても閉めようとしなかった。

 やがて、買い物や外の用事は全て親父と俺がするようになった。

 おふくろは、家の中で絶えず訪問者を警戒し、迎え撃つとうと構え、怯えていた。

「いつあいつらがくるかわからない」お袋はそう口走り「あいつら」の侵入に備えて玄関から二階の隅、家の中から庭を何百往復、ぐるぐると一日中歩き回るようになった。


 お袋が家事を放棄し、掃除も食事も俺たちが自分でするようになってからも、親父はこの凶事の原因を作った俺を、責める事も罵ることもしなかった。

 けれど、俺が罪悪感に負けて警察に駆け込みやしないか、それだけをじっと監視し、無言でもって圧力をかけていた。

 おれは深い諦観の沼に浸かっていた。


 あの時、優愛の腐った汁を浴びた手の甲は発赤し、二倍に膨れ上がっていた。

 擦り傷の出血もダラダラと止まらず、何度包帯を変えても、白い包帯はすぐに黄緑の膿と濁った血で染まった。

 優愛の怒りを俺は感じた。

 だけど、病院へ行くことは出来ない。どう見たって深刻なケガだった。それでも原因を話すことは出来ない。


医者に『腐った妹の汁がかかりました』なんて言えるものか。

やがて、手の甲は血膿で出来たグローブのようになり、酷い臭気を放つようになった。

 こんな手では、仕事にも出られなくなった。

 里香とも、もう連絡を取っていない。

 手首から徐々に腐っていく我が身を想像したけれど、罪悪感に突き動かされて自首したところで、今更どうなるものでもなかった。


 優愛はもう衣装ケースの中で黒い泥と骨になって浮遊しているのだ。

 お袋の頭の中も、もう戻らないだろう。よしんば正気に返っても、次に差し出されるのは息子の逮捕と世間の好奇の目だ。

 俺が自首したって、救われるのは誰一人いない。

 居間のアンティーク・ドールは、ずっと居間に飾られていた。

 家族の誰にも見向きもされず、俺も汚れを払ってやる気も起きずそのままだった。

 飾り棚に挙げられながら、土がついたまま放置されている姿は、我が家の闇をひっそりと表現しているようだった。


 優愛がコイツを土に埋めていたのが、発端でもある。

 優愛を殺した時の目撃者であり当事者でもあるのに、人間ではないというだけで、事態の蚊帳の外にいるコイツが羨ましかった。

 だけど、気のせいか顔が変わった気がする。以前は薄く笑っていた顔が、不機嫌そうに見えた。


 コイツは庭からどうやって家の中に戻ったのか、今でも分からない。

 穴から自分で這い出し、ここに戻って来たとでもいうのだろうか。

 だけど、それもどうでも良い。もしもそうだといっても、衣装ケースに腐乱死体があって、狂人が朝から晩まで家を歩き回り、自首出来ないまま、手を腐らせていく殺人犯とその監視者がいる家にとって、どれほどの問題があるというんだ。



 でもある日、人形は家を出て行った。

 その時、俺は夜中にふと目覚め、居間で見たものを思い出していた。

 どうしてこんなことになったのか、もっと厄介なことになったと思ったけれど、もう厄介と思う感性そのものが擦り切れていて、もういいやと休むことにしたのだ。

 それでも目が覚めて、胸がドシンと沈んだ。

 どうにかしなくてはと思う。ずっと放っておくのも出来ない。もう、手伝ってくれる親父もお袋もいない。そう思うと眠れなくなって、下に降りた。


 階段を降りきったそのとき、玄関へ向かう後ろ姿があった。


「……」


 玄関から出て行こうとしている、その後姿に声が出なかった。

 この家には、もう俺しかいないはずだった。

 しかも、それは赤いドレスを着た少女だった。

 かぶっている帽子から、長い金色の髪が覗いていた。

 瞬きを一つ、その間に彼女は消えた。

 居間へ走り、飾り棚を確かめた。想像通りだった。


 人形が消えていた。

 俺は居間のガラス戸から庭に飛び降りて、寝間着のまま裸足で家から表に出た。

 何も見えない……誰もいない道が、夜の奥へ続いている。

 冷え冷えした空気に包まれて、俺は身震いした。裸足でアスファルトの上に立っている事に、俺は気が付いた。

 家へ方向を転じた。

 背中を懐中電灯の光に襲われた。緊張した声が俺にぶつかってきた。


「こんな時間、何をしているんですか?」

「裸足じゃないですか、どうしたんです?」

「……ああ……」


 声をかけてきたのは、警官二人だった。俺は、わけもなく嬉しくなって、彼らにフフフと笑いかけた。

 警官は俺の笑顔に応じるどころか、険しい顔になった。

 もう良いよな。

 もう、荷物を下ろしてしまいたい。誰かにぶちまけてしまいたい。

 衣装ケースで黒い液体になった優愛。

 居間で並んで吊り下がっている、親父とお袋の姿が浮かぶ。


 ここに警官がいるのも、何かの導きと思うことにしよう。

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