第3話 万引きの濡れ衣を着せてやった女がヤバすぎる

 その女を見るたびに、ムカつくようになったのはワケがある。


 名前は知らない。でも住んでいるマンションは知っている。私のアパートの、公園を挟んで向かいにあるマンションの住人だった。

 朝に仕事に出る時、ドアを閉めてから、外付けの錆びた鉄屑の階段を降りる途中、この女が向かいの公園を突っ切ってやってくるのを、毎日のように見ていた。

 私と同じ駅、同じ時間帯の通勤電車を利用していた。毎朝のプラットホームでも、この女に遭遇した。


 いつもボケっとしているか不機嫌な顔で、ホームの時計と腕時計を見比べている。

 だから、どうという事も無い。今まではそれだけだった。

 共通点は性別と、年が20代くらいだってことだけ。

 私にとっては、今までは朝の風景の一部でしかない存在だったんだけど。

 それが、ある夜のことだった。

 バイトが終わって、アパートに帰る途中、この女が私の前を歩いていた。


 男と手をつないでいた。女も男もスーツ姿で、血統書付きの犬が2匹、横顔を見せてじゃれ合っているようだった。

 女が、突然立ち止まった。私の住んでいるアパートの前だった。


「ここが、私の家」

「え?」


 男がアパートを見上げた。


「ウソだろ?」


 男の顔がわずかに引き攣って、女とアパートを見比べた。

 女はケラケラと笑って、男の腕を引っ張った。


「う・そ・ホントはあそこ」


 公園の向こう側に見える、赤レンガ造りの気取ったマンションを指さした。男がなんだあと間抜けた声を上げた。

 後ろに、そのアパートの住人が立っている事に気が付かなかったのも、私もこの女もお互い不幸だったとしか言いようがない。


「当たり前じゃないの、寝ている間に床が抜けてしまいそうな、こんなアパートに私が住めるはずないでしょ」


 そして、明るい声で付け加えた。


「こんなボロボロのアパートでも人が住めるんだって、感心しているくらいよ。私にはとても無理、こんな場所に住むくらいなら舌噛んで死ぬわ」


 頭の中が、熱くなって、冷たくなった。これって怒り? と、自分でも分からないぐらいの獰猛な感情だった。

 今の私は、一日を時給何百円のバイトで潰して、ようやく生活している。

 中学高校時代、タバコと反抗とオトコの極彩色で、お祭りな日々を送っていた。

 それでも親は一人娘の私を、学歴というセーフティネットをつけるつもりで、超お高い入学金と授業料がかかる、そのかわりに入試に名前さえ書ければ合格出来る、超お馬鹿大学に私を入学させた。


 学生がそうやって集められたキャンパスじゃ、まともに講義を受ける生徒なんかいるはずないし、教える方だって無気力。

 そんな学生と教授がうようよと泳いでいるキャンパスで、就職活動とか資格習得とか、将来に備える意識なんか芽生えるはずもない。

 将来? まあ何とかなるでしょとフワフワとお水バイトをしていたら、バイト先でウチの会社に就職しない? という社長に出会ってしまった。


 それでもう就職活動は上がり、就職ゴールインとばかりにラッキー気分で卒業したら、同時に入る予定の会社が潰れてしまったんだ。

 同時に、父親までがリストラにあった。

 リストラと就職浪人がいる家庭に嫌気がさした、温室育ちの母親は、現実逃避に宗教に入って、そのまま教祖様と修行の旅に出て音信不通。

 おかげで、私は家事手伝いどころか、ニートにすらなれなかった。


 運が悪いというには非情過ぎる急転直下だった。生活レベルが一気に地べたに叩きつけられるって、こういう事。

 生活の面倒見てくれそうな男もいない、彼氏もいない。ブランドのバックも靴も、生活のために質屋へ売った。

 今までのキラキラが一気に消えて、あるのは毎日、安い靴で錆びた階段を降りて食品工場へバイトへ向かい、帰ってから、毛羽だった畳で転がる生活。

 暖房は毛布、冷房はうちわ。


 私だって、住みたくて、住んでいるんじゃない。でも、3万円以上の家賃なんか、今の私に払えないんだ。

 あのクソ女は、そんな私の境遇を思い切り馬鹿にして、嘲笑ったんだ。



 次の朝から、私はそのクソ女に怨嗟の視線を投げ続けた。

 視線で殺せるなら、もう何回も殺しているほどの強さで、アパートの階段からプラットホームまで、あいつの背中や横顔が目につく限り、ずっと睨んでやっていたんだけど、私にとって今までアイツは風景だったのと同じように、アイツにとっても私は風景だった。

 多分、アパートの前で私を侮辱した事も、記憶のゴミ箱にポイってやつなんだろうな。


 でも、見れば見るほど、細かい部分が見えてくるほど、厭な女だった。

 大した美人でもないくせに、履いている靴からバッグ、ハンカチまで、海外旅行先で買ってきました、みたいな高そうなもの。

 今の生活じゃ、どうせ買えないんだからコンビニで表紙しか見ないけど、あの女の服は、ファッション雑誌のモデルみたいだった。

 見れば見るほど、今の自分が惨めになる。でもバカにされた怒りで、目を逸らすことも出来ない。負のサイクルだ。


 ホームから突き落としてやる想像、ヤンキー時代の知り合いに、ヤクザになった奴がいるから襲わせてやろうかとか、夜道でグッサリ刺すとか、一日の内、どれだけの時間を、こいつを殺す想像に使ったか。

 最後の方には、もう想像するのも疲れ、かといって、現実的に手を出せない不甲斐なさに、ああ、この女が目の前で、車に引き潰されるとかして、物凄く残酷な死に方をしてくれれば、頭も心もすっきりするだろうなあって、そう思い始めていたのだけど。



 実際には、殺すなんてそう簡単には出来やしない。

 でも、痛い目に遭わせることは出来る。

 殴る蹴るも悪くないけど、もっと良い方法があるんだって、私は知っていた。

 高校2年の時、成績が良いだけが救いの、クラス担任のお気に入りがいて、そいつが放課後、担任一緒になって、私とその仲間のことを、裏でバカにして笑っていたのを聞いたんだ。


 校舎裏に呼び出して、皆でフクロにしても良かったんだけど、後々ショーガイだのサイバンだの、引っ張られるのも敵わない。

 それでどうしたかっていうと、こっそりそいつの鞄の奥に、タバコとライター突っ込んでやって、匿名で密告してやった。


『優等生のオギノさんは、隠れてタバコを吸っています』


 緊急で行われた持ち物検査で、自分の知らないタバコとライターが、鞄の奥から見つけられた時のオギノの顔ったらなかった。ボー然として、次は爆発。

 泣くわ喚くは「信じてくれない!」と狂い出して、あんなに仲良しだったクラス担任に掴みかかって顔を引っ掻くし。

 結果、オギノは傷害で停学。心病んで転校。

 私たちは、憂さを晴らせてすっきり。


 そんな事を思い出したのは、夕方の仕事帰り、駅前のドラッグストアのコスメコーナーで、うろついているあの女を見つけたからだった。

 腕にトートバッグをかけているんだけど、口が大きく開いて、ハンカチの柄から財布まで、中身が丸出しになっていた。

 私は適当に、商品棚から口紅を選んだ。せいぜい2000円くらい。

 クソ女と通路ですれ違いざま、ひょいとそれを、ぱっくり開けっ放し、無防備なトートバッグの中に放り込んでやったの。


 どんな色やクリームを塗りつけても、気休め効果しかなさそうな顔だけど、アイツは随分熱心に商品棚を物色して、自分のバッグに口紅が飛び込んだなんて、全然気が付いてやしなかった。

 私はアイツの動きを目の端に入れて、さりげなく店内をうろついた。

 その内、アイツは顔を上げると、店の外へと歩き出す。買いたいものがなかったらしい。

 自動ドアが左右に開く。

 足が一歩、外に出る。そしてもう一歩。


 完全に、アイツは店の外に出た。そして、自動ドアが閉まった。

 瞬間、ブザーが店内に鳴り響いた。

 万引きを知らせるけたたましいブザーの音に、店内の空気が変わった。

 店員がレジから離れた。

 商品棚を整理していた店員も、段ボール箱をほったらかしにして、女のところへ。

 ガラスのドアの向こう、店から離れようとする女を、前と後ろから挟み撃ち。

 もつれあうように、女と店員がまた入って来た。

 それから始まる押し問答。


「何言ってんのよ!」「私がそんな風に見える?」


 金切り声が続くその内、紺色の服を着た警備員がすっ飛んできて、店側三人に囲まれたアイツの顔は本当に見ものだった。

 赤から青へ、赤から青へと、次々切り替わる顔色のスイッチが、実に痛快だった。

 店にいた女子高生や主婦が何事かと振り返り、トイレの消臭剤を片手にしたサラリーマンも、面白そうな顔で、この騒ぎを見物している

「そーお、分かったわ。一緒に行ってあげる。でも、もしも冤罪だったら、アンタたち訴えてやるからね!」


 この事態を、無遠慮に遠巻き見物している客たちひっくるめて、女は威嚇して怒鳴った。

 青ざめてはいるが、無実を信じて朗々と宣言する女の顔に、私は哀れさと爆笑が同時に押し寄せた。

 でも、同情はしない。

 女と目と目が合った。

 ちょっとひるむ気は起きたけど、でも見返してやった。


 店員2人と警備員に、がっちり固められて、女がどこかに連れられて行く。

 その間も、女は闘争心たっぷり、負けてやしない。

 冤罪、名誉棄損と単語を繰り返し、延々と怒鳴り、罵り、なかなか頼もしい。

 きっと店の事務所に連れて行かれて、あのバッグの中を全てぶちまけられるんだろう。


 私が放り込んだ口紅が出てきたら、あの女は何て言うんだろうか。

 きっと狂ったように叫びまくるんだろうな、何かの間違いだとか、無実だとかなんだとか。

 きっと防犯カメラも、一応証拠としてチェックするんだろうけど、中学高校と、万引きはゲームとして嗜んでいた私にとって、カメラの死角を突くなんて、別にワケないよ。

 口紅をあいつのバッグに放り込むところが、カメラに映っていない自信はあった。

 店から出るまでは我慢していたけど、外に出た瞬間、華麗なほどの復讐成功に、私は腹がよじれて、窒息しそうになるほど笑った。


 たった一つ残念なのは、あの女が警察に突き出されて、取り調べられるのを見られない事。

 次の朝から、あの女はマンションから出てこなかった。

 家を出る時間帯が変わったんじゃない、ドラッグストアでの万引きで、何か起きたのだと確信があった。

 さあ、何があったのかなあ。私は想像を楽しんだ。


 万引き犯は、商売人の天敵。

 店側にしてみれば、盗人に情けをかける理由も余裕もない。

 あの駅前のチンケなドラッグストアでだって、万引きはタダでは済まされないだろう。

 警察に通報、職場や家族に連絡、会社をクビ、白い目、ケチな万引き犯その後の転落、女の生活を想像すると、楽しくて仕方がなく、胸がすっとした。

 バイトの単純作業も、無意識に鼻歌を歌いながらこなしていたほどだ。


「最近、キノシタさん楽しそうだねえ。カレシでもできた?」

「やだあ、現場長、セクハラですよお」


 妖怪ぬらりひょんに酷似の上司の、センス皆無の冗談にも、センスマイナスのセリフで応じてやれるほど、機嫌が良かったのだ。

 本当に、良い気分だった。

 こんなに上手くいくなんて、世界が私に味方をしてくれているんじゃないかって、そう思ったほど。


 或る日、いつものようにバイトを終えて、私はアパートに帰った。

 夕暮れに浮かぶ2階建てのアパートは、赤錆び色と灰色で出来上がっていて、壁に入っている塗装のひび割れが、ひどくわびしい。

 小さな一戸建てが並ぶなか、みすぼらしい年寄りのようなアパートを見て、隙間風が吹く外と同じ室温の部屋を思うと、ああ、もう引っ越したいなあとか、エアコン欲しいとか、せめて新しいコートを買えるお金が欲しいなあとか思ってしまう。


 その灰色の中に、ぼうっと立っている影があった。

 こんなアパートに住む人間に会いに来る奴なんて、借金取りかヤクザかだ。どうせロクな人種じゃない。目を合わさないように、私は横をすり抜けようとした。

 その時だった。


「待って」


 うっすら聞き覚えのある声。鼓膜がショックで震えた。

 足が勝手に走り出そうとしたが、その前に私の腕は掴まれていた。


「な、なんですか」


 相手の顔に、心臓がでんぐり返りした。声までが裏返った。


「ナンのようです?」


 私の腕を掴んでいるのは、あの女だった。


「あなた、21日の火曜の18時頃に、駅前のドラッグストアにいたわよね?」

「……」

「私のこと、憶えてる?」


 女は、歯茎を見せて笑った。好意とか愛想とかじゃなくて、不吉な蛇の笑いで畳みかけてきた。


「ねえ、私のこと、憶えてるでしょ」


 何で、この女がこんなところにいるんだ? でも、すぐに自分で答えを出せた。

 私に会いにだ。

 ヤバい。どう相手すればいい? 女に対してイエスかノー、何て返せば良いのか。

 でも、女は「憶えている」という返答以外、認めてくれそうにない。

 まさか、万引きの罪をなすりつけたのがバレたのかと思った。でも、もしそうだとすれば、最後までしらばっくれるしか手はない。


「……憶えてます」

「はあああああ、そうでしょうねぇぇぇ」


 女は、芝居がかった悲劇の声を吐き出した。


「頭に染みついて離れないでしょうよ。だって、あんなに騒がれちゃね。そりゃあ、私みたいな如何にも上流階級で一流企業勤めって女がね、ケチな盗みだなんて、そんな場面見たら、そりゃあビックリするわよね」

「あの、私、急ぐ……」

「あれはね、冤罪よ。無実よ、私は盗みなんかしない」


 女は私に顔を近づけた。口臭がむわりと顔に降りかかった。


「だって、アナタだって見てそう思ったでしょ? こんな素敵な女性が万引きなんかするはずないって、そう思ったはずよ」

「……」


 バレた、バレない以前に、女に対する本能的な危機感が内臓を押し上げた

「あのドラック屋の店員に警備員ども、まとめて名誉棄損で訴えて、死刑台に送り込んでやりたい。生きたまま手足と首を、斧で叩き切られりゃ良いんだ」


 ムンムンと身体中から発散されている毒が見える。

 店での女の発狂は気楽な見物客でいられたけど、捕まってしまった今、相当我が身がヤバい。

 でも、どうやら私が陥れたとは気が付いていない。安心したけど、それならそうと、私を待ち伏せていた目的が分からない。


「あなたを、友達にしてあげるわ」

「……は?」


 あまりの突拍子もない言葉。我ながら、アホっぽい声しか出なかった。


「私のお友達にしてあげるのよ。分からない? 友達の意味」

「ともだちの、意味は分かるけど」


 言語のモンダイじゃない。


「いいわね。じゃあ、いらっしゃい」


 女は、ぐいっと私の腕を引っ張った。



 女は、鎌田真美といった。


「わたしはねえ、結婚するのよ」


 私を部屋に引きずり込んで、着ていた自分のコートを放り投げた瞬間、そう言った。

 オメデトウ、私は、意味なく口だけ動かした。

 トモダチ、ケッコン、それがあの万引き劇の何に繋がってくるのか、てんで見えない。


 真美の住んでいる、この低層のマンションは流石に私のアパートよりは数倍新しく、壁も綺麗だが、それがかえって凄惨な荒れようだった。

 散らかり方が、普通とは言えない。それはだらしないというより、異常だった。

 テーブル、椅子、テレビの上にまで、服やバッグどころか、下着までがだらんと死体のように引っかけられていた。

 テーブルの上にあるのは、広げられたジャケットだ。ジャケットの上には、高級パン屋の紙袋とコーヒーカップ。


 テーブルクロスがジャケット?

 だけど、ジャケットのタグに私は目を疑った。

 ミラノのハイブランドだった。この扱いを本国の店員が見たら、ショックで倒れること間違いない。

 床のショルダーバッグの上にはファッション雑誌が、大口を開けるようにページを開いて放置されて、その上にまたバッグが乗って形が潰されている。

 これもモノグラムが有名な、フランスの高級ブランドだった。私も大学時代、バイト代で買ったり、バイトでプレゼントされたりと、いくつか持っていたブランドだった。その160年の歴史を持つ老舗はここで蹂躙されていた。


 部屋は温まっていた。

 だけど、換気をしていないせいで、汚れた部屋を温風で発酵させているような臭いが漂っている。

 その据えた臭いに、甘ったるいルームフレグランスの匂いが混ざる複雑な悪臭だった。

 私を、クッションも座布団もない床の上に直座りさせて、真美は唾を飛ばして言い立て始めた。


「口にするのも汚らわしいし、本当の悪夢よ。私は盗んじゃいないのよ。それをあのチンケな薬屋の奴ら、この私を万引き犯呼ばわりしたのよ。あなたも友達なら、私のこと信じてくれるわよね?」


 信じるも何も、真相は知っている。でも友達じゃない。

 でも、この言い分だと、私の所業はバレていない。つまり仕返しは完全に成功だった。

 だけど、この成功の後にこんな崖があって、その下にこんな怪物が大口を開けて待ち構えていようとは、想像も出来なかった。


「初犯だから、警察と職場には通報しないでおく、もうこんな事を二度とするんじゃないよって、あんな下層の奴らに見下されて、恩を着せられた私の気持ち、分かる?」


 気持も何も、言うべき感想を間違えたら、とんだ肉食獣が出てきかねない。

 それにしても、この女にはドラッグストアに与えられた温情に対する感謝は、一ミクロンも無い。

 その理由は、冤罪じゃなくて、この真美の価値観にあった。

 わざわざ、社員証を私に突きつけてきた。


「御覧なさい! この会社、日本人なら知っているでしょ。私はね、この一流の企業に勤めているのよ」

「……」

「この社員証を見せてやったのに、あの薬屋の奴らときたら改悛するどころか『女性には月に一度、イライラしてついやってしまったという人多いですけどね』ですって! 何が言いたいの、頭悪い奴らの言葉はわっかんないーだわ!」


 私はアンタがわっかんなーいだ。しかし、真美は毒を垂れ流し続けた。


「私はね、見ての通り高給取りよ! あんな下層階級どもの何倍もボーナスもらっているし、ちんけな安物の口紅なんか、盗るはずがないって、私と社員証を見た瞬間に分かりそうなものじゃないの。本当なら、あんな小汚い店なんか、利用する身分でも無いのよ。真実が見えない目なんか、両目とも潰してしまえばいいのよ」


 その割には、熱心にチープコスメ見ていたよなと、とても言えるはずがない。

 真美は延々と、ドラッグストアの店員たちへの呪詛と怨嗟と優越感と差別発言を繰り返し、死ね非国民と罵り、立ち止まっては「分かる? 分かるでしょ?」と、私に同意を求めてきた。

 その同意の強要は数十回を超えた。悪臭が頭に回り、酸素不足と毒気でもうろうとしていた時、ようやくセリフは最初に戻った。


「わたしはねえ、結婚するのよ」


 思い浮かんだのは、いつか真美が男と二人、いちゃついていた風景だった。

 あの血統書付きのイヌみたいな奴か。


「こんな馬鹿らしいこと、彼の耳に入れるわけにいかないのよ」

「ソウですか」


 もう声を出す力も無い。ただこの時が過ぎて欲しいと、死にかけて身を横たえている動物の状態だった。

 スマホの時計を見た。部屋に連れ込まれて、もう2時間経っている。

 でもお茶の一杯も出ていない。

 そこでね、と真子は力を込めた。


「だからね、あなたがそのバカげた話を、周囲に触れ回るのはゆるさない。分かる? 分かるでしょ、友達のためよ」

「……」


 バッカじゃないの、コイツと本気で私は怯えた。頭が悪い奴は見ていて笑えるが、制御不能のバカは危険だ。


「友達になったんだから、そんな嘘っぱちを広めるなんて酷いこと、私にしないわよね」


 真子は、爛々と目を光らせて笑った。

 ようやく帰宅を許され、解放されたとき、私はもうくたくたどころか、気力というか体の芯が溶けていた。公園の中を数十メートルも歩けば家なのに、登山をしているようにきつかった。

 玄関に入った瞬間、毛羽だった畳にダイブしてしまった。

 バッグの中身が畳の上に飛び散った。

 あーあと私は身を起こして、のろのろとバッグの中身を戻した。

 財布、ハンカチ、ロッカーの鍵、のど飴にコスメポーチ。


 あれ? 私はバッグの中を探った。引っ掻き回し、中を覗き込んだが無い。

 心臓がすうっと冷えた。

 携帯が無かった。



 その日から、真美は毎日仕事からアパートに戻って来た私に、声をかけてきた。


「お帰り、奇遇ねえ」


 そんな事を言っても、アパートの前で私の帰りを待ち構えていたのは間違いない。


「ねえ、遊びに来なさいよ」


 そう言うなり、獲物に飛び掛かる獣のように私の腕を掴むと、ぐいぐいと遠慮のない力で私を引っ張る。

 うす暗い公園を突っ切って、私をマンションに連行しながら、真美は毎日毎回、同じことを聞いてきた。


「ねえ、あなた誰にも、あのことしゃべってないわよね? バイト先の人にも、親にも友達にもよ」

「言わないよ」

「あなたに、黒カビ生えた大福みたいな変な女が近づいてこなかった? そいつが私のことを何か、しつこく聞いてこなかった?」


 黒カビは会わないけど、変な女ならいたよ。それはあんただと返す代わり、私は毎回頭を横に振る。


「そお? なら良いわ。友だちだもの。信じてあげる。でもね、そのおかしな女が私のことを聞いてきたら、口を利かずにすぐに逃げて、私に教えるのよ」


 アパートに戻らずに、友達の家に避難しようにも、携帯がない。

 誰にも連絡を取ることが出来なくなっていた。実家は離散中だ。

 携帯のGPS機能を使って、失くした場所を探す方法もあるけれど、運が悪いことにバッテリーが切れていて、電波が拾えない。

 携帯を失くした次の日、待ち伏せていた真美に私は聞いた。


「あのさ、私、あんたの部屋に携帯忘れてなかった?」

「さあ、知らない」


 真美はそう言ったけど、私には確信があった。

 コイツが私の携帯を盗んだんだ。

 最後に携帯を見たのは、真美の家だった。あの時、私はバッグをかきまぜて携帯の時計を見たのを憶えている。

 その後、私は真美の部屋のトイレを借りたんだけど、そのトイレは公園の古い公衆トイレよりも臭いがきつく、鼻どころか目に突き刺さる刺激臭だった。

 涙を拭きながら、トイレから戻ったらバッグの位置が動いていたんだ。

 間違いない。


 真美は、私を自分のマンションへと引っ張っていく。

 部屋に入ると、真美は私を床に座らせて、うっとりとした顔で言い聞かせ始める。


「私はね、子供の頃から、優雅に、そしてエレガントであれと、そりゃあもう厳しく厳しく躾を受けて育てられたの。裏千家に表千家、池坊から遠州まで、家元が束になってかかって来ても、礼儀作法では私に敵わないくらいよ。フランスの元貴族のマダムは、私を見て、こう感心されたわ『あなたこそ本当の姫君だわ! マドモアゼルほど教養と洗練を合わせ持った女は、この世にいやしない!』ですって。そんな女が、盗みなんか下等なことをすると思う? それにね、私の親戚も一族も、仕事の肩書には、皆「一流の」が付くのよ。分かるかしら? ただの「大学教授」じゃなくて「一流大学の教授」医者、それだけじゃなくて「一流の外科医」なのよ。私はかろうじて「一流の企業」に就職して、単なる事務じゃなくて総合職だけど、一族から見れば、下位よ。恥ずかしい限りだわ。分かるかしら? そんな家柄の人間が、薄汚い万引きなんかに手を出すと思う?」


 服が散らかっている隙間にも、バッグだのアクセサリーだの散らかっている部屋で、上品だ礼儀だの聞かされていると、異次元に落ちたような気になってくる。

 なぜこの真美が私に目をつけたかというと、万引きの見物客の中で、真美が「見たことある」顔が私だったんだ。


 つまり、真美も以前は私のことを「朝の風景の一部」として、近所に住んでいる女だという認識はあったんだ。

 それが万引きを見られたことで「風景の一部」は「目撃者」に格上げされた。

 もしやこの貧乏ったらしい女が、面白おかしく自分の恥を言いふらすかもと、真美は心配になった。


 そこで私を「友達」という鎖につなぎ、この異空間に引っ張り込んで、自分の身の潔白というか、自分がいかに、エリート階級で、万引きなんかするはずの無い素晴らしい人かを、私に言い聞かせているのだ。


「私の婚約相手は、そりゃあ素敵な人なのよ。同じ会社の上司で、仕事が出来て、皆から尊敬されているのは当たり前、しかも趣味のトランペットはプロ級で、テニスまでプロの腕前なのよ。そんな彼は、長い間自分の半身となる伴侶を探し求めていて、ようやくこの私を見つけ出したの」


 分かるでしょ? と真美はニタァ、と笑った。


「その彼のためにも、私は汚れてはいけないの」


 その後、彼はどんなに素敵で選ばれし男で、私たちはどれだけ熱く愛し合っているか、でも二人の間を邪魔する女がいて、その女が、まるで下水で染まったような、身も性格も黒いデブで、ブスと下品の三重苦で……と、優雅でエレガントな女なら、口にするどころか、ボキャブラリーにない形容詞が延々と続く。

 仕事帰りの疲労と部屋の悪臭で頭は朦朧、何を聞いているのか聞かされているのか、もううつろに頷くだけだった。


 中高時代のヤンキー時代、女同士の罵声合戦や。素手の殴り合いを経験しているおかげで、喧嘩には今でも抵抗無い。

 酔っ払いに絡まれて、何だこの野郎と股ぐら蹴り上げることくらい、全く平気の私だけど、この女には、例え口であっても抵抗するなと、本能が怯えていた。

 この真美から、明日からでも逃げようと思えば、逃げられる。

 引っ越しして、バイト先を変えればいいんだ。


 部屋に突然転がりこめる相手もいるし、いざとなれば、誰かの家で居候という手もある。

 でも、それが出来なかった。

 この女の得体のしれない壊れっぷりを見ていると、もしも私が姿を消せば、絶対にどこまでも追いかけてくる気がしたんだ。

 そして捕まったら、とてつもなく恐ろしい目に遭いそうな気がする。

 そうなると、逃げ出して見えないところから蛇のように狙われるよりも、こうやって目の届く場所で様子を見ている方が、まだお利口な気がしていた。




 でも、ここに来る度に、魂が消しゴムのように擦り減る。

 何度目かの苦行の時だった。

 精神的にも呼吸的にも酸欠状態で、目をぼんやりと彷徨わせていた先に、異物が飛び込んだ。

 真美のいつものキチガイ話と、彼への愛の言葉と、黒いデブの恋敵への悪口が途切れた一瞬、私は時間稼ぎに聞いた。


「ねえ、あんなもの持っているんだ?」


 私は指さした。

 古い西洋人形が、ベランダのガラス戸の前、脱ぎ捨てられたスカートとストッキングの山に埋もれるように、放り出されている。

 まるで、外国の女の子が抱いているような金髪の人形。目は蒼く、大きさは50㎝くらい。


「ああ、あれね。ママンが持って来たの」


 赤いドレスと帽子、靴も随分凝った造りだった。この一流好きの真美が置いているなら、きっとお高いのだろうと、それだけは見当がついた。


「何? 欲しいの? あげないわよ」


 心の中で返事をした。

 あんたのストッキングかぶった人形なんか、要るはずないだろ。

 でも、欲しくない理由はそれだけでもない。

 人形と目が合った瞬間、ひどく厭な気分になったのだ。よれて臭そうな、使用済ストッキングのせいだけじゃない。

 只の人形だった。持ち主に恵まれていない、可哀そうな人形である。

 だけど、妙な生々しさを感じた。


 ガラスの目が人間そっくりのリアルさで、まるで人形が意志を持ち、目を光らせているように思えたんだ。

 可哀想な仕打ちを受けながらも、微笑んでいるその表情は、いじらしいではなくて、部屋の片隅で、持ち主の奇行をあざ笑っているように思えた。

 私は部屋の時計を見て、ため息をついた。もう夜中である。

 もう帰りたい。この狂った看守の檻に比べたら、隙間風が吹くツンドラ地帯のような我が家でも、自由の楽園だ。


 ――その時だった。携帯の呼び出し音が鳴った。


「まあ! マサオさん!」


 真美が携帯に叫び、耳にあてた。

 話に聞く、ゲテモノ食いの真美の婚約者の名前だった。

 あの婚約者は、この部屋に上がったことがあるんだろうかと、私は今更のように思った。


「え、うそ、すぐそこの公園? 分かった、すぐ行くわ。ええ、うんうん」


 ひどくはしゃいでいたが、はっとしたように私を見た。


「独りよ、もちろん」


 客だと思った。喜び一杯でさっさと立ち上がったのだが。


「ダメよ! 私が良いというまで、この部屋にいなさい!」


 真美が通せんぼをした。


「はあ? あんたの婚約者が公園にいるんでしょ。早く行きなよ、私はお邪魔だから帰る」

「許さない、この部屋からまだ出てはダメ! 今外に出たら、あなた、彼と鉢合わせするかもしれないじゃないの!」


 髪をうねらせ、叫ぶ真美。


「じゃあ、私はいつ、どうやって帰るの?」

「そんなのどうだっていいでしょ!」


 ショックのあまり、私はポカンと口を開けてしまった。


「あなたなんかに、マサオさんの姿を一目でも見せるわけにはいかない! アンタがマサオさんを見たら、一目で恋をするに決まっているのよ!」


 もう、肯定も否定もする気力が失せた。

 どっちにしても、真美は他人の言い分を受け付けない、全ては自分だけの思い込みの世界の住人なんだ。

 そう言えば、真美は私に、のろけ話は浴びせていても、マサオさんとやらの写真を見せたことは無かった。いや、別に見たくもないけど。

 真美は怒鳴り続けた。


「マサオさんはね、あなたの周囲なんかには存在しない、奇跡の人よ! その彼に恋狂ってしまったら、あなたは、必ずどんな卑怯な手でも使うわ! 彼が私を嫌うように、あのおぞましい出来事を彼に吹きこむに決まってる! 私たちの間を裂こうとするのよ! あの太ったメスのカラスみたいに!」


 真美の目は、恐ろしいほどに本気だった。

 冗談や誇張ではなく、人を殺す人間の目だった。



 結局、帰宅は許してもらえず、私は真美が出て行ってからベランダに出た。

 風が強くて寒かったが、ぬるくて酸っぱい臭いの部屋よりははるかにマシだった。

 3階のベランダから、公園の向こうにある私のアパートが見える。

 帰りたいのに帰れない、目の前にある自分の部屋に、切なさと恋しさと情けなさが、疲労と一緒にのしかかって来た。

 下を見ると、マンションのエントランスの明かりが、外に漏れて道を照らしている。


 真美の頭のてっぺんが出てきた。公園の中に入っていく。

 児童公園は、中央に外灯が一つ。植えられた樹や植込み、滑り台やブランコ、パンダやトラの丸っこいオブジェを淡く照らし、濃い夜の影を作っていた。

 公園の中に、闇に溶け込む男のシルエットが見えた。公園の街灯に、赤いコートを着た真美が浮かび、男の傍の闇にまた消える。

 この間に、部屋から逃げてしまえ! 凶暴な発想が噴き上がった。


 逃げたその後に何が待ち構えているか、考えるのも面倒だった。

 疲れも我慢も限界。次の日にどんな目に遭うか分からないけど、このままだと発狂してしまう。

 ベランダから部屋に入ろうとした時だった。

 風の音に、真美の甲高い声が混じった。続く男の鋭い声。

 ツマとかカテイとか何とか聞こえる。


「うそよ!」

「あなたは、あのおんなにあやつられているのよ!」


 内容は不明瞭だったけど、険悪なのは間違いなかった。私はベランダに戻り、手すりから身を乗り出して公園へ目を凝らした。

 街灯の作る闇と灯の中で、真美と男がいる。

 真美が男に近づくと、男は後退する。接近と後退が繰り返されて、二人は公園の敷地の中をグルグルと巡った。

 自分から遠ざかる「マサオさん」への真美の声がどんどん悲痛になり、セリフに怨念が混じり始めた。


「しんじない! ぜったいにしんじないわ、あんな黒デブをとるなんて、きがくるったんだ!……そうか、あんたはマサオさんの偽物ね! あのおんなが差し向けた罠だ!」


 男に飛び掛かった真美を見た時、チャンスと私は外に飛び出した。

 あれだけこじれたケンカなら、しばらく公園から出ないだろう。部屋の外で鉢合わせの危険はない。

 階段を駆け下りて、魔宮から脱出したゲームキャラのように、エントランスを飛び出した。

 公園を突っ切れば、すぐにアパートの前に出るけど、公園にはあの二人がいる。

 外周を回っていこうと、公園を囲む植込みの影から、二人の様子を伺う。

 二人が見えた。


 あらま、と私は少し、驚いた。

 男が突っ立っていた。真美が、大の字になって仰向けに倒れている。

 部屋から出て、ここに来るまでの間に何か急展開があったらしい。あれあれと感心しながら、私は外灯の下に白く浮かぶ、真美を眺めた。

 相手の顔は、逆光と影で黒く染まって見えない。表情は分からないが、倒れた真美を抱き起そうともせず、ただ見下ろしているだけとは冷たい話だ。

 だけど、代わりに私が駆け寄って、真美を介抱してやる気は全く無いので、私は様子を伺いながら我が家へ向けて移動を始めた。その時だった。


 男が、真美に近づいて片腕を取り、肩に回して真美を引きずり上げる。

 真美が、壊れた案山子のようにだらんと上がった。

 だが、男は真美ごとズルズルと崩れ落ちた。

 腕がすり抜けて、真美の顔が思い切り地面に叩きつけられたのを見て、私は「あーあ」と、無言で笑った。鼻が潰れているかも。

 外灯の明かりで、男の顔が見えた。


 やっぱり、いつかの血統書付きの犬男だ。多分、30代くらい。以前見たのはスーツ姿だったが、今はセーターとズボン、コートの私服だった。

 3回ほど、男は真美を起こそうと挑戦し、二人一緒にバランスを崩した。

 周囲を見回しながら、意識の無い真美を何とか立たせようとして失敗し、砂地に膝をつく男の姿が、可哀そうだけど笑える代物だった。

 さあ、どうするかな? と楽しむ私の目の前で、男は大胆な行動に出た。

 何と、真美の両の足首を掴んだのだ。


 そして、引っ張り始める。スカートもコートも、地面の摩擦で裾がまくれ上がり、下半身が恥もなくさらけだされた。

 背中や後頭部を砂地に削り、地面に髪の毛で文字を書くように、真美はバンザイしてズルズルと引きずられていく。

 一応、真美はカノジョのはずなのに扱いがひどい。彼氏もここまでやるかと、もう感心するしかない。ある意味、性格がお似合いすぎる二人だ。

 だけど、妙な事に気が付いた。


 意識が無いにしても、何度も地面に落とされ、足首を掴まれて引きずられていくのに、真美は全く反応しない。

 ずるずると、地面の砂に道を作って、真美はどんどん引きずられていく。

 途中、何かが砂の道の上に落ちたけど、男は気が付かずに真美を引きずり、ついに公園の出入口まで来て、ゲートにガンガン真美の頭をぶつけながら、反対側の外に出て行った。

 あ、真美は死んでいると私はようやくここで気が付いて、身が固まった。


 見つかるはずはないけれど、息を殺して身を限界までに縮ませた。

 ようやく、男の影が公園から消えた。しばらくすると、外周の向こうに車の白いライトが現れた。

 そして、音もなく発車した。

 私はしばらく、そのまま動けずにいたけど、公園の中に入ってみた。

 公園の中心に立って、周りの家の窓を見回したけど、冬の夜風のせいで、周辺の窓は全て閉め切られていた。窓明かりはあるけど、それだけ。

 てんで無関心なのか、それとも気が付いていないのか、真夜中の静寂だけが浮かんでいる。


 引きずられた真美の跡が、風によって消されていく。

 道の脇に落ちている、キーポルダー付きの真美の鍵を私は拾い上げた。



 まず、私は真美の部屋に引きかえして、自分の携帯を探す家探しに取りかかった。

 生活の大事なツールの携帯が最優先。携帯を買い直す余裕なんて無い。

 警察に通報するつもりも、真美への憐憫も、一粒の砂もない。

 殺す場面は見られなかったが、絶対に、あの「マサオさん」が真美を殺したのは確かだった。別にそれならそれでいい。

 真美の死体を車でどこかに運んで行ったようだけど、山に埋めようが鳥葬にしようが、海に捨てようが、後始末はあのマサオさんの役目だ。


 真美にとっては凶事でも、世界にとっては吉事。私はもちろん、ドラッグストアの人たちだって、あの女の呪いから解放だ。

 部屋に入ると、また胸の悪くなる臭いに包まれた。私は窓を開けた。

 真美の奴が、私が自分の噂を広めてやしないか、メールの内容とかチェックするために、私の携帯を盗んだという確信があった。きっとどこかに隠している。

 床に広がる、衣料品の海をひっくり返す必要は無い。まず調べたのは、ベッドのそばにあるサイドキャビネット。


 貴重品や、お金などを入れる場所は、目につく場所、すぐ手が届くとこが定番だ。それに、部屋の中でそれらしい空気を匂わせているものなんだ。

 案の定だった。

 一番下の引出し、ぐちゃぐちゃの紙や文房具に混じって、私の携帯が見えた途端、ほっとしたどころか超ムカついた。

 怪奇の万華鏡みたいなあの女。やっぱり殺されて当然だ。

 地獄に堕ちてしまえ。




 あのマサオさんが、真美を殺して自首するなり逃げるなり、それはどうぞお好きにして下さいだ。

 でも、誰かが真美の異変に気が付く前に、私にはすることがあった。

 当日の夜から、拾った鍵を使って私は真美のマンションに通った。

 真美さえいなければ、この部屋は宝の山だった。乱雑と混沌の中に浮かぶ服のタグは、私だって知っている高級ブランドばかり。

 慰謝料、出張費、話相手の手間賃を、私はこの部屋からせっせと回収に通った。


 正に宝のつかみ取りだった。とても手の届かない値段のブランド服が、目の前に積まれていて、さあ持って帰って連れて行ってと、口々に騒ぎ立てるのだ。

 夢中になって、紙袋に突っ込んだ。何度も部屋を往復した。

 カシミヤ、革にダウン、冬のコートだけで、26着もあった。そしてスプリングコートや麻や革のジャケット、春物から冬物まで、その量は店が開けるほどあった。

 アクセサリーやバッグに靴も入れると、更に膨大。気に入ったもの、サイズが合うものはもらって、他はリサイクルショップへ売り払った。


 今まで着ていた安物の服は片っ端から捨てて、真美の服を代りに詰め込んだ私の服の収納ケースの中身は、みるみる膨れ上がった。

 押入れにブランドバッグをいくつも押し込んだ。アパートの砂壁に何着もコートが並んで、エアコンを買った。

 真美の失踪は、3日経っても静かだった。

 死体が見つかったと、ニュースにもなっていない。


 あのマサオさん、真美の死体をどこに隠したんだろうなとか、会社の上司とか言っていたけど、素知らぬ顔で出社しているのかなとか、ちらっと想像はしたけど、それだけだった。

 彼の行く末なんて、私には関係ない。

 アパートと往復している内に、真美の部屋の床はだんだん服が無くなって、残るのはストッキングに下着類と、金にならない安物服だけが目につくようになった。

 そろそろ、潮時かなと思いつつも、でもまだ、良いものが残っているかもしれない。根こそぎ頂いてやるつもりで、せっせと私はマンションに通っていたんだけど。


「真美ちゃん!」


 耳に声が飛び込んだ。

 その時、私は真美の寝室に入って、クローゼットを開けていたところだった。

 作り付けのクローゼットなんか、アパートなんかには無い代物だ。

 ここにも何か良いものは無いかと、夢中で物色していたせいで、人が入って来たなんて気が付かなかった。

 心臓が止まり、また大きく跳ね上がった。

 私はゆっくりと振り返った。


 女は駆け寄ってきて、私の顔を見て大きく口を開けた。私を真美と思ったら、別人だったので吃驚したらしい。


「あああ、あなたは誰!」


 悲鳴を上げた。声のトーンが真美そっくり。


「何でここにいるの! あ、あ、そのカーディガンは真美のものじゃないの? 私が買ってあげたものだわ。何で真美の服をあなたが着て、ここにいるの!」


 床で発掘した、プラダのミントグリーンのカーディガンだった。

 可愛いので、私が頂戴したんだ。

 真美がそのまま年を取ったような顔。初老の女は、母親に間違いなかった。

 安っぽくはないけど、高級でもないセーターとスカート姿の、普通のオバサンなのは意外だった。


「真美ちゃんはどこ!」


 母親は私に掴みかからんばかりに声を張り上げた。


「真美ちゃんの部屋に、何で知らない人が勝手に入っているの? 警察へ……」

「待って下さい!」


 瞬時の思い付きだった。


「おかあさんですね? 真美さんを探しているんですね?」


 携帯を取り出しかけた母親は、ポカンと私を見た。


「私は真美さんの友達です」

「……え?」

「真美さんと連絡が取れなくなって、心配して様子を見に来たんです。真美さんと私は大親友で、お互いに何かあった場合に備えて、家の鍵を交換していました。どこへ行っちゃったんだろう、何か手がかりはないかって、ここを探していたんです」


 母親が携帯を取り落とした。私はそれを拾い上げた。


「このカーディガンは、真美さんが着ているのを見て、私も欲しくなって、お揃いで買っちゃったんです」


 はにかむように笑ってやると、母親の目には見る見るうちに羞恥が浮かんだ。


「どうもごめんなさい、つい誤解してしまって」


 頭を下げられた。顔は似ていても、あんな娘とは違って母親はまだ話が出来る。私は安堵した。


「会社から、真美ちゃんが無断欠勤していて、連絡もつながらないって言ってきたの。私の方から連絡しても、全然つながらないし、ここに来たのよ」


 上司が殺していました。きっとどっかに埋められてますよとは教えてあげられない。


「どこへ行ったのかしらあの子」


 床に残った娘の残留品を踏み、蹴り飛ばしながら、おろおろと動き回る母親は、何も知らない悲壮さがあって、同時にシュールだった。私は笑いを堪えた。


「ねえ、本当に何か真美ちゃんから聞いていない? 思い当たらないの?」

「……」

「あなた、真美ちゃんの友達でしょう。それなら何か、聞いているはずよねえ」


 あーやっぱり、中身にもDNAが垣間見えるなあとか思う私の目の前で、母親は手掛かりを見つけるために、更にグルグル回っていたが、いきなり止まった。


「ねえ、真美ちゃんのお人形知らない? 見当たらないわ」

「え?」

「赤いドレスと、お帽子のアンティーク・ドールよ。お部屋に飾ってあったはずなんだけど」


 ああ、あの嫌な感じの人形かと、ストッキングかぶせられて、部屋の隅に放り出されていた人形が頭に浮かんだ。

 あの状態を、飾っていたというらしい。


「ヘンねえ……どこへ行ったのかしら」


 母親は、次は人形を探し始めた。食器棚の中まで確かめている。そのあまりのしつこさに、私はつい、聞いてしまった。


「あのお人形、何かあるんですか?」


 答えは簡潔だった。


「あのお人形、生きているのよ」

「へえ」


 咄嗟に思ったのは、ああやっぱりこの女は、あのトンデモの母親なんだという感慨だった。


「元々、私の親戚の形見分けでもらったのよ。ずっと独身の男性で、そんなに親しくはなかったのだけど」

「独身の男性が、赤いドレスのお人形ですか」


 人形を思い出す。男のフィギュア趣味とは、ちょっと着地点がずれているし、しかも、万人の審美眼を揺さぶる可愛さはない。


「あら、別にヘンじゃないわ。レオナール・フジタだってお人形を集めていたんだから」


 誰だそれ? そう思った私へ、母親の目にちらっと憐憫っぽいものが見えた。


「有名な画家よ」


 知らないの? と無言で呆れた後「可愛いお人形だったから、私が頂いたの。それを持って帰ったら、真美が気に入ったからあげたのよ」

 そしたら、この間にねと、母親は息を吐いた。


「ハクサイセンセイが、私にこう仰ったの『鎌田さん、あなた古い人形を持っていないか?』ってね」

「ハクサイ?」


 思わず、鍋で煮えている葉物の想像、白菜の発音で切り返してしまった。

 母親の目が吊り上がった。


「そうじゃありません。ハクサイ先生の漢字は、色の『白』ものいみの『斎』よ。手探りしながら進む、人生という暗闇の道を温かな灯で照らし、進むべき方向を教えて下さる、偉大な先生です。毎週一度は必ず先生のところにお伺いし、アドバイスを頂くんです。先生は、凡人にはない第三の目を開かれて、私たちの背後を霊視して下さるの」


 新興宗教に入って、現実逃避を兼ねた修行生活を送っている奴と言い、占い信者といい、なんでこう、母親というものは、ご神託好きが多いんだろうか。

「白斎先生が仰るには」母親は、ハクサイの発音に力を込めた。


「ハクサイ先生がね、あなたのところにある古い人形は、生きている。あまり性質の良いものじゃないって私に告げられたの。持っていたら、良くない影響を受ける。手放したほうが良いって」

「はあ」

「そうしたら、この事態でしょう。もしやお人形のせいじゃないかって」


 その後、真美のスーツケースが無いことを母親は気が付いた。あんまり騒ぎ立てて、後でみっともないとか言われてもイヤだし、あの子フラッとどこかに旅行でもしているなら良いんだけどと、真美の母親は、そう言いながら帰って行った。

 ドイツ製のスーツケースは、実は私の部屋にある。



 今のところ、真美は見つかっていないし、母親も上手く誤魔化せた。結構上手く行っている……けど、厭な夢を見るようになった。 

 赤い何かを破裂させたような、べっとりした赤黒い中で、私も真っ赤に染まっていた。赤いものを身に着けて、赤黒い背景に取り込まれている。

 私は逃げ惑っていた。私を追っているのは、黒い何か。

 その黒いモノの正体は分からないけれど、それは私を酷く憎んでいる。


 その憎悪が手になって、私を捕まえようとし、激しい怨念が足になって、私を追い回している。私は必死で逃げる。

 こんな血の中で溺れているような空間が夢であるくらい、意識のどこかで分かっていても、この憎悪や怨念は、間違いなく、私が作り出したものではない。

 私は自分の夢で、誰かに追い詰められ、そしてついに捕まってしまう。

 そして、首を絞められる。

 私は足掻きながら、死んでいくんだ。


 首を絞められているのは夢のはずなのに、息苦しさや恐怖は肌を突き刺すほどにリアルで、起きたら、冬なのに汗をびっしょりかいている。

 心臓も、バクバクしていた。夢の中で殺されて、ホントに心臓止まったらどうしようって、心配になった。

 同じ夢が続くのも、流石に気味悪かった。これって、真美の奴が祟ってんのかなあなんて、ちらりと考えてしまったほどだ。


 真美の性格だと、殺されてからは大人しく、土に還っているとは思えなかったけど、だとしても化けて出るなら、自分を殺したマサオさんだ。

 相手を間違えるなよって腹が立つ。

 マンションに出入りして、あんたのもの沢山頂いたけど、あんたもう死んでるじゃん。

 服もバッグもアクセも、もう使う必要無いし、そもそも使えないし、あの世へ持っていくにも量が多すぎて、棺桶に入りきらないよって思う。


 現実的に考えるのなら、あの時、真美が殺されたのは、私が階段を駆け下りている最中で、直に殺人の場面は見ていない。

 でも、真美のモノを売り払った事に、私はなにがしかの罪の意識があって、その潜在意識とか無意識とか、脳みそのよく分からないシステムが、あんな夢を見せているんじゃないかなって、そう思っていたんだけど。

 ネットオークションを経由して、出品者の私に質問のメールが届いた。


『この人形は、どこで手に入れたんですか?』


 真美の人形だ。めぼしいものは大方売り払って、残ったのがこの人形だった。

 もしかしたら売れるかもと期待して、スマホで撮影してネットオークションに出したんだけど、中々買い手がつかなくて、ちょっとイラついていたところだった。


『知り合いからもらいました。人形は趣味じゃないので、オークションに出しました』


 返信が来た。


『この人形、ヤバいです』

「はあ?」


 人形の画像を見直したけど、どこから見ても「フツーの人形」にしか見えない。

 思わず、人形を入れっぱなしにしている紙袋の方を見てしまった。


『この子、生きてますよ』


 なんだよこのオカルト野郎って思った。

 人形が生きているなんて、そんなやりとりを他のユーザーに見られて、入札止められたらどうしてくれるんだ。

 でも、ハクサイ先生といい、オークションの質問メールといい『この人形は生きている』同じことを言われてしまうと気持が悪い。

 だからどうしたっていうんだ。

 紙袋から人形を掴みだした。

 人形の感触は、体温も柔らかさもない、間違いなく玩具だった。


 人形は、ニヤニヤした顔で私を見ていた。陶器で出来た顔の内側に蠢くものがある。その蠢く意思みたいなものを、口元に滲ませて私を見ている。

 人形のくせに、人間様を小馬鹿にしている笑いだった。あーあ、大変ねとか、可哀そうにねとか、溺れている相手を面白そうに見ているような。

 オークションに出しても売れないし、気味悪い事言われるし、そう思うと、見ている内に、ふつふつと腹が立って来た。


 何が生きているだ、この人形がヤバいって、どうヤバいんだ。

 生きていようが死んでいようが、そんなものはどうでも良くなってきた。

 ただ、この人形そのものに我慢が出来なくなってきた。たかが人形で、この笑いだって作り物だって分かるけど、この顔が私を見ている、それだけでムカつきが止まらない。


「あんた、生きてるんだって?」


 私は、人形の腕を掴んでぶら下げた。


「生きていても、死んでいてもどっちでも同じじゃん。あんた、お人形だから抵抗も出来なもん。壊されても何も言えないしね。ああ、残念ね、カワイソー」


 こんな奴に負けてたまるかと、ぶん投げてやった。

 人形は砂壁に叩きつけられて、畳の上に落ちた。

 足で踏みにじり、サッカーボールのように蹴ってやった。人形は抵抗なく、ただゴロゴロと転がっているだけだった。

  それでも頭も割れないし、手足もとれない。

 忌々しいほど、丈夫に出来た人形だった。

 当たり前だけど、人形だから抵抗もない。


 手ごたえ無い人形相手に、腹いせをしていたら自分がバカのように思えてきた。

 私は人形をゴミ箱に叩き入れて、真美の部屋へ、これが最後の宝漁りと出かけることにした。



 走って行けば、一分もかからずに行ける場所だけど、私はジャージの上に、ガウンコートを引っかけた。コートは濃いレッドのカシミヤで、もちろん真美の部屋からもらったもの。

 これで、真美の部屋に行くのは最後にしようと思った。部屋にはもうめぼしいものは無いし、そろそろ潮時かなって予感がしたんだ。

 戦利品入れの空のボストンバッグを持って、アパートから出て公園に入った。公園を突っ切ってマンションのエントランスに着いたら、鍵を使って自動ドアを解除し、ロビーに入る。女が続いて入って来た。


 私は階段を上がった。

 真美の部屋の前に立ち、手にしていた鍵を使ってドアを開けた。そして玄関に足を踏み入れた時だった。

 背中に、何かがぶつかって来た。

 床に投げ出され、私は這いつくばった。ガチャンとドアが閉まった。背後から髪を引っ張られ、私は悲鳴を上げた。


「いたいいたいいたいっ」

「マサオを返せっ」


 怒鳴り声が鼓膜を突き刺した。


「この泥棒女! マサオはどこ?」

「誰あんた!」


 髪の毛ごと、頭皮が剥がされそうな激痛に私は喚いた。


「マサオって、なに、ちがう、わたしじゃない!」

「ウソ吐け、この便所の汚物入れ!」


 尖りに尖った、女のキンキン声が私を罵倒した。


「さっさとウチのバカ亭主を出せ! でないと顔を血と肉のストライプにしてやる!」


 目の前に、肉切り包丁が迫った。

 真美に間違われている。そう気が付いて、私は気が遠くなりそうになった。

 マサオと亭主、この二つのキーワードで私は分かった。マサオの嫁だ。

 結婚するとか純愛とか抜かしておいて、真美とマサオは不倫だったのか。

 マサオが真美を殺した後、車で消えたのを私は見ているけど、その後どこへ行ったかは知らない。


「知らない!」


 思い切り、後ろへ頭突きした。女が顔を抑えて尻もちをつく。

 私は中に逃げ込んだ。

 リビングに入って、私は武器になるものを探した。ソファ、椅子、テーブルの上。

 マサオの嫁が、リビングに入って来た。

 改めて顔を見ると、40代くらいの色黒の小太り女。あ、真美が散々黒デブだと罵倒していた女と分かったけど、今はそれどころじゃない。真美に間違われて殺されるなんて、とんでもなさすぎる。


 何とか誤解を解こうとしたけど、マサオ嫁の目は真っ赤に血走って、人間の言葉なんか理解できない怪物のようだ。

 肉切り包丁を腰だめにしている。

 亭主の浮気相手の顔くらい、調べて知っておけよこのド級クソマヌケ。

 理不尽と恐怖で、頭が燃え上がる。

 こんなところで、真美として殺されてたまるかと、私は椅子を掴んで振り上げた。

 こんなマヌケに、情けなんて上等なものは勿体ない。


 マサオ嫁は目を見開き、包丁を持ったまま腕で椅子を防ごうとしたが、腕の骨ごと頭を割ってしまえと、椅子を脚から振り下ろす。


「ぎゃぁっ」


 椅子攻撃にマサオ嫁はよろめいたけれど、根性あって包丁を手放そうとしない。包丁を奪うために、頭に腕、顔を私は椅子で滅多打ちにする。

 でも滅多打ちにすればするほど、マサオ嫁は怒り狂い、包丁を振り回した。死なないバケモノを相手にしているようだったけど、一打撃が側頭部にクリーンヒット。

 切り倒された木みたいに、ばったーんとマサオ嫁が倒れた。

 私の心臓は、酸素不足で何度も小爆発していた。包丁をそっと奪い、終焉に膝が砕けかけた時、私はテーブルの上にあるものに気が付いた。

 爆発を繰り返す心臓が、氷漬けになった。


 テーブルの上にあるもの。

 それと目が合い、私の中は木っ端みじんになった。

 テーブルの上に、あの人形が座っていた。ついさっき、アパートのゴミ箱に突っ込んだはずの人形だった。


「……あんた……」


 私は呻いた。

 混乱した。同じものが元々2つあった? タイムスリップ、夢、錯覚。どれが正しいのか、いや、正しいとか間違いとか、そんなのじゃない。

 人形は、ニヤニヤして私を見ている。私を嘲っている。何の目的でここに来たのか、本当に生きている人形なのか、これは。

 闇が追ってくる気がした。人形から逃げようとして、私は転んだ。

 マサオ嫁が、私の足首を掴んでいたんだ。


 マサオ嫁の頭を蹴り、私は立ち上がった。マサオ嫁はそれでも立ち上がり、襲い掛かってくる。

 まるで私を殺すという意志だけで動く、ヤク中のヒグマだった。純粋な憎悪と恨みを込めて、私へ手を伸ばしてくる。私は逃げた。

 グルグルと部屋を回り、テーブルを倒し、椅子を倒して逃げ回った。

 私は死に物狂いだったけれど、クッションにつまづき転んだ。


 マサオ嫁が体重をかけて襲い掛かって来た。首に手をかけられた。

 仰向けにされて、首を絞められながら私は抵抗した。顔をふりたくった。手足をばたつかせ、マサオ嫁を振り落とそうとした。

 ベランダのガラス戸に、赤いコートを着た女の首を絞めている、黒い影が反射して映っていた。

 喉の骨が砕かれ、呼吸を絶たれながら、あ、と思った。

 あの夢だった。

 殺される赤い服を着た女は、私か。


「ウェ……」


 咽喉から音が出た。死んだ能面の顔をしたマサオ嫁から顔を背けると、目に飛び込んできたのはあの人形だった。

 テーブルから落ちて床に転がったまま、目を輝かせて私を面白そうに見ている。

 あ、コイツは、と分かった。

 コイツは生きていると、目の光で確信した。

 そして、ゴミ箱から抜け出して、ここにわざわざ来た目的は。

 ……それは……見物を楽しみに……。

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