第2話 怪談愛好家の憂鬱

「この人形が、そうなんですよ」


 風呂敷包みを開けようとする浮田利光の姿に、その場に居合わせた客たちの視線が食いこんでくる。

 32の目には、恐怖があった。そして怖いもの見たさの好奇、賛嘆、そしてわずかな嫉妬があった。

 利光は得も言えぬ心地よさで、ゆっくりと風呂敷を解く。

 包みが開いた。 

 中身は、50㎝ほどの大きさだった。


 金色の髪と青い目、頭部は陶器で出来た少女は、口元に淡い笑みを浮かべて虚空を見つめている。

 古ぼけた緋色のドレスと帽子、色あせた金髪に指の塗装の剥がれが、年代を物語っていた。

 部屋の熱気がぶわっと膨張した。


「うわぁ……見てもうたわ」


 利光の前にいた青年が、大げさに顔を覆った。この部屋の主であり、この会の主催者である田中壮三は、真剣な顔で人形を見つめている。

 その壮三の表情に、利光は浮き立った。

 利光は持って来た人形を抱き上げ、周囲によく見えるように持ち上げた。

 十五畳ほどのリビングに詰め込まれた、男女老若16人は、座ったまま後退したり、悲鳴を上げて目を覆ったりと、反応は様々だった。


「アンティーク・ドールなんですね」


 この会では常連客で、保険外交員をしている主婦が、恐る恐る人形を見つめた。


「古い人形って、ただでさえ怖いんですよね。何だか、人の念がこもっていそうで……それに感応して、そのお話の娘さんは悪夢を見ちゃったのかしら」


「うわあ、このお人形さんの目って、本当の人間みたい」


 薄気味悪そうに、誰かが言った。


「肌の感じも、なんだかとってもリアル。まるで小さな人間みたい」

「実際に、何かがこもっていたんでしょうかね……」


 利光は続けた。ついに怪談話のクライマックスだ。この場にいる全員を恐怖に陥れる自信はあった。緩みそうな顔を引き締めるのに、苦労する。


「この人形を恋人にもらってから、人が殺される夢を毎日のように見ていた、そのお嬢さんなんですが、彼女は……殺されたんですよ」


 部屋がざわめいた。


「この人形をくれた、その恋人の手によって……」


 小さな悲鳴。恐怖と嫌悪に引き歪む表情が、部屋を埋めた。

 利光は、主催者の田中壮三の様子を伺った。彼は目を閉じ、話を聞き入っている。


「あの、何でそんな怖い人形が、浮田さんのトコにあるんですか?」


 この会に初参加の男子大学生の質問。

 その通りだ。鷹揚に利光は答えてやった。


「被害者の娘さんのご両親が、この人形のせいで娘が殺された気がする、でも娘が大事にしていたものだから捨てられないと、知り合いにあげてしまった。しかしその人も、殺された娘さんと同じような夢を見るようになったそうです……赤い服を着た女が、誰かに殺される夢」


 うわ、と空気が再びざわめいた。


「その知り合いが、気味悪がってまた誰かに譲って、そうやって人の手を渡ってきたらしいんですよ。僕にこの人形をくれて、話をしてくれたのは、行きつけの飲み屋の奥さんなんです『トシちゃん、こういう話好きでしょ。もらってよ』って、押しつけられちゃいました……いやね、もうすぐ四八にもなる、独身男がこんなもん持っている事も、怪談ですよね」


 部屋に笑いが起きた。


『怪の宴』作家の田中壮三が主宰する怪談の会は、不定期に開催されるが、これで6回目になる。

 田中壮三は、以前は古代史や民俗学の研究本を出していた作家だったが、数年前、趣味で人から聞き集めた怪談を、古代史や民俗学からの見地でアプローチした研究本を世に出し、ヒットさせた作家だった。

 今では、本業の古代史よりも、元々趣味だったはずのオカルトや怪談が仕事の中心となった。最近は怪談関連の本の出版や、イベントの活動をしている。


 その活動の一環が、この『怪の宴』だった。壮三のファンや、怪談を好む人間が壮三の自宅のリビングに集まり、車座になって、自分や知り合いが直に体験した怪異を、必ず一話は語る。常連もいれば、初参加もいる。

 毎回、わざわざ飛行機に乗ってやってくる参加者もいる。

 ネットや本で拾った話は除外される。

 この会で語られる怪談は必ず誰かの体験であり、実話である。ネットやメディアのフィルターを通さない怪談の、生々しい肌感覚は、普通の怪談本や心霊テレビ番組とは全く別格のものだった。


 何よりも、自分が話した怪異体験が、田中壮三の目に止まれば、彼の筆によって構成され、本の中に収められて出版される。

 この会に参加するためには、披露するにふさわしい、怪談の質と量が必要だ。この会に出席出来る事は、市井の怪談好き、怪談コレクターの一種のステイタスにもなっていた。

 利光は、元々子供の頃から怪談好きな子供だった。夏の心霊番組、怪談本を読むのを好んでいたが、数年前、たまたま手に取った壮三の怪談研究本を読み、その変わった視点に感銘を受けた。


 しかも、田中壮三は同じ市内に住む作家だった。

 彼の主催する『怪の宴』を知り、そこで知り合いが遭遇した幽霊の目撃談を語ったところ、それが壮三の手によって怪談本の一話に入れられた。

 利光は有頂天になった。

 自分の語った怪談が、壮三の手によって更に精密に構成され、鮮やかな怪異として記録されている。己の語った話が出版され、多数の人々が読むのだ。

 それは、自分の存在が認められた喜びでもあった。

 それから利光は、いっそう怪談にのめりこんだ。


 知り合いや居酒屋主人、タクシーの運転手に「何かコワイ話はありませんか」と聞きまわり、その努力の怪談も数話、壮三の著作に納められた。

 壮三の怪談イベントには欠かさず参加し、イベントの後に行われる、出演者と客同士の懇親会にも必ず参加した。

 そうしている内に、熱心なファン、常連として壮三に顔を憶えてもらえた。酒の席では、必ず自分から率先し、壮三の隣に陣取って座る身分となった。

 今の自分は立派な怪談コレクター、壮三の協力者であると、利光は自負している。


「それで、浮田さんはこの人形が来てから、悪夢を見たりするんですか?」


 小さなイベント会社を経営しているという、青年社長が聞いてきた。


「まあ、それっぽいものは」


 利光は含みを持たせた。実は悪夢など見ていないが、怪談は余韻を残さなくてはならない。


「知り合いの霊感ある女性に人形を見てもらったら、この人形は何かが憑いているそうです」


 ざわめきが起きかけた。しかし、それを女の声が無遠慮に払いのけた。


「でもー、その霊感っていうのが私、よく分かんないんですよねえ。だって、実際に私には視えないんだもん。霊感ある人の言葉って、霊感ない人間にとってはホントかウソかわかんないし、証明も出来ないし」


 人々の注目が、利光から声の主に移った。田中壮三の秘書である耳野裕子だった。


「このお人形、何か憑いているとかはとにかく、結構値打ちものかもしれませんよ。古いけど顔は綺麗だし、この赤いドレスも帽子も細かく作ってあって、よく出来てますよね。その手の趣味の人が好きそう」

「髪の毛は、本物の人毛ですよ」


 利光の言葉に、ひぇっと誰かが叫んだ。キモチワルっと声がした。

 顔を引き攣らせた裕子へ、利光は笑顔を投げつけた。


「まあ、人の髪の毛には念が宿るって言いますからねえ。お菊人形なんか有名でしょ」


 裕子が口を閉じた。ざまあみろと利光が無言で笑った時だった。


「なあ、浮田さん」


 さっきから黙っていた壮三が口を開いた。


「その持ち主が恋人に殺されたって話、どれくらい前の話?」

「さあ……そこはハッキリと聞いていないです。飲み屋の女将さんに人形を寄越した人は、もう引っ越ししてしまったらしいし、一応、過去の殺人事件でそれっぽいものは調べて見たんですけどね」

「ふーん」


 壮三が目を再び閉じた。



 怪談会が終わった。始まったのは夜の23時頃で、終了は明け方の5時だった。

 一晩中、同士で怪談を語り合い、始発電車で帰宅するのが会の習わしだった。

 利光は、会合のスケジュールを公開されたその時にすぐ、職場に休みを申請している。

 病院給食の調理師という仕事なので、休暇は土日祝と決まってはいない。

 立ち仕事で重労働だが、シフトの融通が利くのは有難い。


「浮田さんの怪談、コワかったですよお」


 リビングからそれぞれが立ち上がり、帰り支度をする中で利光に声をかけてきたのは、今回二度目の出席だという男子大学生だった。


「お噂は聞いていますよ。田中先生の本に、何度もお話を採用されているそうですね」


 へええと、今回初参加の数人が目を丸くし、利光を見た。

 徹夜明けて、のぼせた頭に高揚感が戻って来た。

 確か、三年前死んだおばあちゃんが、受験の前日に応援に夢枕に立った。朝に起きたら、寝る前に閉めたはずの仏壇の扉が開いていた……という話をした学生だ。

 聞きながら、ふん、つまらねえと内心利光は唾を吐いていた。


 怪談は怖がらせてこそ価値がある。死んだ人間が夢に出るのは良くある話で、仏壇の扉もただの閉め忘れだ。「ちょっと不思議」と「怪談」は、人間と猿以上に違う。

 時に、本当に寒気がする話を持ってくる者もいるが、半分以上は金縛りだの、虫の知らせだの、本人の思い過ごしともいえる、つまらない話も多い。

 そんな話は、独りで勝手に不思議がってろ、と言ってやりたくなる。

 この集会は、もっと肌に食いこむような恐怖を求め、愛してやまない人種のものなのだ。


「すごいですよねえ、ワタシ、前に先生の本に出ていた、浮田さんの怪談を読みましたよ。夜中に散歩していたら、子供がずっと後をつけてきて、だんだん子供の数が増えてくるだなんて、どうやってあんな怖い話を集められるんですか?」

「まあ、何と言うか、人とのつながりです。僕は人との対話を大事にしているから、それで相手に安心感を抱かせるらしいんですよ。あなたなら聞いてもらえる、みたいな。こういっちゃなんですけど、田中先生にとって、僕は非常に重要な協力者なんですよ」


「非常に重要な、とか、先生は人に順位をつけられない方ですけどね」

 振り返った。耳野裕子と視線が衝突した。


 瞬間、間に険悪な火花が飛び散ったが、利光はすぐに笑顔を作った。


「この会が始まって間もなくの頃に、ここで皆と一緒にお酒を飲んだんですよ。その時、先生が私に向かって『怪談集めには結構苦労するんや、あんたみたいな、質のエエ話をたくさん持っている人は貴重なんや。これからもよろしく頼むな』と、そう言ってもらえました……ああそうだ、その時アナタは、先生の秘書じゃなかったんだ。耳野さん、最近のヒトなんだよねえ」


 裕子が怒気で赤くなる。ざまあみろと利光は思う。

 そうやって顔を歪ませると、中年女の顔が出る。童顔なのを良いことに20代を装っているが、30はとうに過ぎていると利光は踏んでいる。

 耳野裕子が会合に参加したのは、半年前が最初だった。以前から、壮三の古代史のイベントに来ていた常連だった。怪談ではない。

 そのイベントに参加している内に、裕子はスタッフと顔なじみになり、舞台裏にも出入りするようになったという。


 裕子の古代史の知識に感心し、現在本業は休職中と知った事務所スタッフが、彼女を田中昭三の秘書として事務所に誘ったのだ。

 それだけなら良いが、裕子が怪の宴に顔を出すのが、利光には面白くない。

 裕子は怪談を語ることも、集めることもしない。壮三の秘書という役割だけで、そこにいるだけだ。

 それだけならまだしも、さっきのように余計な口をはさんでくる。


 ここは、純粋な怪談好きの集いなのだ。怪談も語らない、集めもしない奴がここにいて、あれこれ口を差し挟むなと、本来なら部外者がでかい顔しやがってと、裕子の澄ました顔を見るたびに腹が立っていた。他の女性客も、裕子の出席を快く思っていない。

 一度、壮三に聞いてみたことがある。


「秘書として、彼女はどんなもんです? 怪談がそう好きでもないようですがね」


 うーむ、と壮三はその時唸った。短く刈り込んだ白髪をかいた。


「まあ、事務所の奴らが連れてきた子だしな。ワシはその辺り、まかせっきりにしとるんで、何も言えないんだわ」


 60も近いが、大人に面倒を見てもらっている子供のような事を言う。田中先生らしい答えといえば、そうだった。

 利光は、毎日一日三回、田中壮三のブログをチェックする。壮三のブログは専門の怪談や民俗学ばかりではなく、映画や小説を語り、時には政治経済に関して本音を吐いている。

 利光は、必ず何かしらのコメントを書き込む。

 特に映画は、若い頃は散々映画館に通っていた。小津だって黒澤だって、ヴィスコンティだって、映画論に関しては、壮三と同等に渡り合える自信があった。


 毎日、欠かさず壮三のブログを読みこんだ。自分の見解を書き込み、感想を述べる。

 壮三に対して反論することなんかあり得ない。あるのは感銘と共感だけだ。そこに熱が入って長文になるが、それも先生への熱意の証だから仕方がない。

 時に先生は、ブログ上で、作家志望の弟子の素行に嘆くこともある。そんな時、利光は先生と同じ気持ちになって、散々その弟子をこき下ろしたりするのだ。

 自分が他の誰よりも、一番田中先生と近しい人間であり、理解者であり、協力者であると、利光は思っていた。


 そして、今回拾ってきた人形の怪談も、採用される自信があったのだが。



 田中壮三の事務所が主催する怪談イベントが開催されたのは、怪異の宴から数週間後の事だった。

 開演は午後一九時から三時間。繁華街にある演芸ホールで行われる。

 壮三が集めた怪談を語る舞台。最後に締めくくられるのは、壮三が手に入れた最新の怪談である事が多い。

 自分の語った人形の話が出る事を、利光は期待して出かけた。そして落胆した。

 トリに語られたのは、旧家に伝わる壺の話だった。代々、長男の妻は必ず結婚三年目で死を迎える一族と、その一族に代々伝わる古伊万里の壺。


 閉鎖的な田舎の風習と呪いと絡む怪異談は、利光以外の体験者の話だった。


「今回、僕のあの人形の話は全然出ませんでしたねえ。残念ですが」


 イベント後に行われた懇親会で、利光は慎み深い態度で壮三に文句を言った。


「僕は、あの話は先生にお話しした中で、一番怖いって自信があったんですけど」


 恋人から人形をもらった日から始まる、彼女が毎晩見る同じ夢。

 赤い服を着た女が、男に殺されるという生々しさと不吉さに怯え、不安を恋人に訴えるが当然相手にされない。

 その後、彼女は恋人に殺される。赤い衣装を身に着けて……。


「うーん」


 壮三はビールを煽り、天井に顔を向けた。


「客観性がないんだわ」

「客観性?」

「そう、人形をもらった彼女は、赤い服着た女が殺される夢を見ていた。でもそれが、本当に人形のせいなのかという説得力がない。夢と実際に起きた殺人の関連性も薄い」

「何でもかんでも、怪異に結びつけるのも節操がない、かえって説得力が無いってことですよね?」


 横から耳野裕子が口を挟んできた。

 利光と裕子の間で、壮三は頷いた。


「そうやなあ」


 そして、悪気の全く感じられない口調で、利光と裕子へ続ける。


「それに、怪異とは連続性がないとなあ。だって、人形のせいで命落としたの、その女の子だけやろ? 今までの持ち主はどうやったん? ホントに呪いの人形か分からへんわ」

「そうですよねえ」


 頷く裕子。


「もしかしたら、お人形さんは無実かも」


 笑いだした裕子の声が、利光の神経をバリバリと毟った。その顔と服にビールでもかけて、焼き鳥の串を、目玉と脳天に刺してやろうかとすら思う。

 全く今でも反吐が出そうだった。イベントの開演ベルが鳴り、上がっていく幕に心を躍らせた瞬間に、舞台に出てきたのがこの耳野裕子だった。

 耳野裕子が司会者として現れた瞬間、利光は怒りと驚愕で、椅子を舞台に投げつけて、そのまま帰ろうかと思ったほどだ。

 タダの秘書が、何で先生の大事な舞台に出ているのだ。


 怪談の部外者が、何故怪談本のベテランである先生と、着飾った態度で肩を並べ、スポットライトに当たっているのだ。


「事務所の奴が耳野さんを、これから司会者として使ってみてはどうだって、言ってきたんだわ。耳野さん、昔は司会のバイトやってたいうし、試しのリハーサルで上々やったからな」


 裕子は、壮三の隣で微笑んだ。


「ちょっと、キンチョーしちゃいましたけど、上手く出来たのも皆さんのおかげです」

「今まで司会していた、タレントの杏奈ちゃんは?」

「あの子、打合せの席に必ず20分は遅刻してくるんだわ。まだ大学生やし、タレントも兼業だから忙しいんやろ思うてたけど、数も重なると責任感を疑うわ。イベントは遊びや酔狂ではない。こっちは生活かかっとるんや。だから杏奈はクビ」


 利光は、死んだ目で裕子を見た。

 会社でお局様にイジメられて体調を崩し、仕事を止めて実家で暮らし、親にお小遣いをもらってイベントにせっせと通う30過ぎのカンチガイ無職女よりも、本業のタレントの方が、裕子よりも見た目も若さ、断然上に決まっているが。


「それになあ、この耳野さんは、古代史マニアの男連中の間じゃファン多いねん」

「へえ」

「この娘を怪談イベントの司会に使えば、古代史マニアの男の集客につながるかな~とか思うてな」


 壮三は、どこまでも安直で無邪気だった。

 利光は、鈍くなった味覚と重い咽喉でビールを飲んだ。

 うきたさあん、と若い男の声がした。


「でもあの人形、俺はアリだと思いますよ。見た目もすっげえ怖いし」


 以前、怪の宴で利光に話しかけてきた大学生だった。


「そう?」

「本当に、呪いの人形に仕立て上げちゃえばどうです?」


 楽しそうに学生は言った。


「俺、ヤバい家知っているんです。今は空き家なんですけど」


 聞き耳を立てていたらしい、周囲の出席者たちがざわめいた。

 学生は、手にしたチューハイを一気に飲み干すと、話を続けた。


「俺、新聞配達のバイトしているんです。配達の区域に、どうもヤバい家があるんですよ」


 ヤバいの連発に、壮三は身を乗り出した。


「どうヤバいねん」


 壮三の目が光る。


「住人が入居しても、すぐに出て行っちゃう一戸建ての家です。その家に引っ越ししてくるのは、大抵は小学生くらいの子供のいる家族なんですよ。親は子供が通う学校の校区とか考えて、その家の住所を選ぶんです。それなのに居つかない。子供のためにそこをわざわざ選んで、それなのにすぐに出て行くってヘンじゃないですか? 住んでも長くて半年です」

「何で、キミはその家に住む家族がすぐに引っ越すとか、そんなこと知っとんねん?」


「引っ越ししてくるでしょ、その時に勧誘員が新聞の勧誘に行って、契約を取ってくるんですよ。でもすぐ引っ越しのせいで解約になっちゃうんです。それも必ず半年以内。新聞販売店って、横のつながりが結構あって情報交換しているんですけど、どこの店でも、あの家は有名らしいんです」


学生は続けた。


「昔、あの家で何かあったのか、バイト先のご主人に聞いてみたんですが、頑なに教えてくれないんですよ。仲間に聞こうと思ったんだけど、ウチのバイト先、人の定着悪いから、俺が古参です。聞ける人が誰もいないんですね……まあ、ずっと昔に殺人だとか自殺があったとかって噂は聞いたけど」

「蓋を開けたら、ツマンナイ理由かもよ。隣がヤバい人とか、虫が多いとかね」 


 裕子が話題をなぎ払った。


「私のマンションの部屋の下、しょっちゅう人が入れ替わるから、幽霊でも出るのかって噂されていたけど、本当の理由は、窓を開けたらゴミ捨て場の匂いが、部屋の中まで入ってくるからだったの。現実はそんなもんよ」

「それはどうなんでしょうね。でも、面白いと思いませんか?」


 そこでですねえ、と彼は笑った。


「浮田さんの人形を持って、その家に一晩置いてくるのはどうでしょう」


 ヤバい家は良いが、人形を置いてくるのは子供の悪戯じみている。バカらしさを感じなくもないが、裕子の態度に腹が立って仕方がなかった。

 そして、壮三が妙に喜んでいる。


「ええなあ、それ」


 はあ? と素っ頓狂な声は裕子だった。

 あきれ顔の秘書を、壮三は笑顔で見返した。


「面白いやんか。ホンマにヤバいのかどうかは知らんけど、人がクルクル入れ替わっているのは事実やろ? ちょいとキミ、今はその家、本当に空き家か?」

「ハイ」

「ええなあ、廃屋の人形、絵になるなあ。カメラ入れて撮りたいわ。ええもん撮れへんかな」


 あきれ顔の新米秘書へ、壮三は諭す。


「怪談はなあ、語りもいいけど、イベントに使う出し物として映像は説得力あるねん。夏の心霊番組見ていても、分かるやろ。もしも、噂がホンマで、エエもん撮れてみい。大収穫や」


 壮三に呼応するように、皆が騒ぎ出した。いいなあ、それ面白そうだと、飛び交う無責任なエールと熱意が、利光を押し上げた。


「じゃあ、それやりましょうか」


 利光は声を張り上げた。


「人形を空き家に置いてきます、それで人形にカメラを仕掛けて、空き家の映像を撮ってきますよ。何か映っていたら先生にプレゼントします」

「ホントか!」


 壮三が叫んだ。



 懇親会の後半は、呪いの人形を心霊スポットに置いてきたらどうなるか? という話題の一色に染まった。正に怪談好きならではの話題だった。

 利光は、その先頭に据えられた形だった。築40年の、古い自宅マンションに帰った利光は、不要品を入れている押入れを開けた。

 段ボール箱の外で、無造作に転がっている人形を掴み上げる。

 人形は無抵抗に、空にぶらんと揺れた。


 顔の造りが完全な左右対称ではなく、両目の形がわずかに違う。眼球は非常に精巧な造りをしており、まさに人間の光彩だった。

 まるで、薄い笑いのままで死んだ少女のようだ。

 この人形が座り、利光を見つめていたのは居酒屋のカウンター奥。忙しく立ち回る女将の背後だった。

 飾り棚の花瓶の横で座っている西洋人形は、家庭的なお惣菜料理がメインの店に、随分不釣り合いなものだった。


 薄く笑いながら、店の客を観察しているようにも見える。人形と視線が合った利光は、一瞬人形が本物の子供に見えた。

 その時、客は利光しかいなかった。

 何だか、怪談チックだねえこの人形。思わず、女将にそう話しかけた。

 女将は、利光の怪談趣味を知っていた。魚の煮つけを皿に移しながら、目を細めて人形を見やった。


 ――気持ち悪いのよ、この人形。

 飲み屋の女将は言った。


 ――知り合いのお客さんからもらったんだけど、元の持ち主は殺人の被害者だって言うの。お客さんは、そこのご両親から娘の形見にって頂いたんだって。

 ――そのせいか、人が殺される厭な夢を見るようになったんだって。そう言えば、殺された娘も、誰かが殺される夢をずっと見ていて、怖がっていたことを思い出したとか。それで、気持ち悪くなったって。


 ――私がこういう古い市松人形とか、西洋人形集めているの知った途端に、じゃあママにあげるって。え~って思ったけど、無理矢理押しつけられてねえ。家に飾るのも何だかイヤだし、店にこうやって置いているの。


 立派な怪談話だ。収穫に喜ぶ利光に、霊感らしきものがあるという女将は言った。


 ――でもこの子、実質的な悪さはしないのよ。欲しいなら持って帰って良いわよ、浮田さん。こういう話好きなら平気でしょ?


 人形は、ヒトガタとはよく言ったもので、人の形を模倣した器である。魂や念がそこに納められるのに、ピッタリの形なのだという。

 だから、人の悪意を受けとめる呪術や、願いを込める祈りに使われる。その一方で、子供と成長を共にする相手、持ち主の愛を受ける容器でもある。

 容器に何が入れられるのか、正に使い方ひとつ、入るものひとつで、穢れか祝福か、人形が持つ性質は全く異なってくるのだ、と女将は語った。


 ――人形にも、人間がキライなコがいるからね。

 ――この人形、悪さはしないけど、何というのか……良くはないわね。


 人形を持ち帰るための紙袋に入れながら、そう言った女将の忠告の意味は曖昧だったが、とりあえず普通の人形ではない事は確かだ。

 しかし、現実は人間臭いだけの、動かない無機質だった。

 この人形をもらって数週間が経った。

 流石に一緒に布団に入ることはしなかったが、枕元には置いていた。

 そうやって、この人形が一体何を見せてくれるのか、ポルターガイストでもいいぞと利光は怪異を心待ちにしていたが、何も異常は起きない。


 夢や幻覚を使って、利光の精神に何かを訴えてくる事もなく、知らない間に位置が変わっていたり、夜中に動き回ることもない。

 人形に対する興味が、拍子抜けから失望となり、無関心になっていたところだった。女将の霊感とやらにも、疑惑が芽生え始めていたところだ。

 女将の言う通り、本当に霊的な要素を持つ人形であれば、そのヤバい家に置けば、何らかの反応を起こすかもしれない。

 呪いの人形に仕立て上げる、それも面白そうだった。


 お前にチャンスをやろうではないが、何かあったら儲けの気持ちだった。

 何といっても、何か撮れたら壮三が喜ぶ。怪談仲間も自分に更に一目置くだろう。

 裕子は、何だかんだ言って難癖をつけるのは目に見えているが、壮三に感謝され、褒められる自分の姿を見れば、きっと悔しがるに違いない。

 バカな女だと、利光は裕子に思う。

 怪談を生業にしている壮三の秘書で、そのイベントの司会をしているくせに、何故怪談に難癖をつけるのだろう。


 利光以外にも、裕子の言動を快く思っていない者はいる。

 特に女性客の大半は、裕子を嫌っている。

 しかし、壮三は怪談が大衆娯楽として広がる可能性を信じ、怪談を幅広く広めたいという考えを持っていた。

 その手段の一つとして、怪談を語るアイドルを育てたいと思っているらしい。


「数十年前、地下鉄サリン事件なんて宗教テロがあって以来、怪談も胡散臭いカテゴリに入れられてもうたんや。でも今は違う。色んなメディアが発達して、発信する手段も増えたし、怪談ファンが顔を出し始めた。イベントも、最近はあちこちでやっとるし、映画も本も、ホラーは安定したファンがおる。怪談の面白さを広める、ええチャンスや」


 人を惹き付ける道具が、人を怪談に入れるきっかけが必要だ。それがアイドルだという論だった。最初に司会に使っていたタレントの杏奈も、その目的もあって採用したのだ。

 裕子は、どう見ても怪談を好きなようには思えない。

 そんな女が、怪談イベントの司会を引き受けるのは、一体どういうつもりなのだろうか。


 古代史マニアの男連中の中では「姫」と呼ばれているらしいが、それは古代史愛好家に女がほとんどいないせいだ。競争相手がゼロのグループ故での扱いだが、男連中からちやほやされて、変な花を頭に咲かせたのだろうか。

 まさか、30を超えた女が、司会から怪談アイドルという枠を、可能性として狙っているのだろうかと、利光は不穏な気分になった。


 行動を起こしたのは早かった。

 空き家が、いつまでもそのまま空き家である保証はない。その内すぐにまた、何も知らない家族が入居する可能性が高い。

 空き家の住所は、あらかじめ男子学生に聞いていた。利光の職場から、2駅ほどしか離れていない場所だった。

 仕事帰りに向かう事にした。

 もちろん、空き家だったら、そのまま侵入なんて考えてはいない。もしも近所の人間に見咎められ、不法侵入で通報でもされたら、目も当てられない。


 しかも動機が怪談のネタ作りだ。もしも世間にばれたら、笑いものどころか、マナーを守らない鉄道マニア以上の不名誉になる。

 この物件を扱っている不動産屋を調べて、客のふりをして入る手を考えていた。

 人形を持って行く気になったのは、もしかしたら、不動産屋の営業時間内、そのまま家に入れるかもしれないという下心だった。

 そうすれば、不動産屋に気がつかれないように人形とカメラを置いてくる。そして、後日何とか理由をつけて、回収に行けばいい。


 早朝出勤だったので、終業時間は夕方少し前だった。

 問題の空き家は、駅から1キロも離れていない、昔ながらの住宅街の中にあった。

 区画整理が中途半端で、古い家が多い。門を入ればすぐ玄関の、庭の無い小さな一戸建てがスクラムを組んで、無造作に並んでいる。

 その角地に、その家はあった。

 見た瞬間、すぐに見当がついた。立ち並ぶ庭の無い家は、塀の上から路上を鉢植えの置き場所にしていた。道路にまで鉢植えがはみ出している家のある中、目的の家には何もなく、窓は全て閉め切られている。


 表札も無く、玄関すぐ前の門には、不動産屋の看板がかかっている。

 周囲から沈んでいる、普通の空き家だった。

 何の変哲もない、住宅地の中で利光は落胆した。

 すぐ横を、下校する小学生の集団が騒がしく駆け抜けていく。目の端には柴犬と歩く、買い物帰りの主婦がいた。


 隣の家に住んでいる老女が、家の前と塀に並べた鉢植えに水をやっている。

 あの老女に、この家の事を聞いてみようかと思ったが、老女は猜疑心が強そうな顔つきだった。質問に答えてくれるばかりか、こっちを詮索してくるタイプに思える。

 利光は、人形を入れたボストンバッグを下げて、さりげなく家の周りを半周した。

 家と家の間は狭く、人は通れないので、一周は出来ないのだ。


「普通じゃないか」


 楽しみにしていた遊園地が、休園していた子供の落胆に近かった。物々しさも、禍々しい気もない。

 霊気や不吉さも全く感じない。佇まいも周辺も全て、見飽きた現実、夕飯のおかずらしい煮物の匂いが漂ってくる、間の抜けた平和な風景だ。

 利光は、空き家の二階へ目を凝らした。家の窓から、誰かがこちらを見下ろしているという事も無い。

 閉め切られた雨戸は、まるで家の殻だった。


 日常にぽっかりと浮かぶ、ただの無人の家に利光は落胆した。

 霊感があるわけではないが、本能的な何かを感じるわけでもない。こんな感覚では、不動産屋へ行って内覧させてもらい、人形を置いて帰っても、ただのくたびれ損な気がしてきた。

 どうしようか。


 利光は、門にかかっている不動産屋の看板を眺めながら、門の閂に手をかけた。

 何となく、回してみた。

 門が開いた。開いた門に利光は驚愕した。

 門の中に入る。まさかと思い、玄関のドアノブを回した。開いた。

 隣の老女が、再び外に出てくる。慌てて利光は家の中に入り、ドアを閉めた。


 ドアを閉めた瞬間、外の陽光と喧騒が一気に断ち切られた。

 むわっと雪崩れ込んできたカビと埃に、思わず利光は口と鼻を手で覆った。換気もされていない、放置されたままの家だ。

 玄関には何もなかった。空の傘入れが、人が住んでいたかろうじて残った生活の残滓だが、人の気配は全くない、荒廃した空間だった。

 雨戸を閉められている、家の中はうす暗い。

 ネズミの糞が落ちていた。利光はそのまま土足で家に上がった。


 人形を置いていくかどうかはとにかくとして、噂の「やばい」家ではあるのは間違いない。

 怪談好きの好奇心にせっつかれ、後日のレポートのためにも、家の中を見て回るだけはしようと考える。

 まず一階からだった。台所、和室、風呂場にトイレ。

 錆びや埃が、生活空間を包み込んで守っている。


 台所のシンクは乾き切っていた。腐った水の匂いが淡く漂い、小さな黒い虫が衛兵のようにぶんぶんと空を回っている。

 侵入者の目の前を横切り、しつこくまとわりついてくる虫を、利光は手で追い払った。

 台所の隣は、8畳の和室だった。

 歩くだけで、平衡感覚が失われそうな傷んだ畳だった。先住者が置いていったままなのか、家族で囲むような、大きな座卓テーブルがある。

 多分、ここで家族が揃って食事をしていたのだろう。


 だが、それだけだった。

 利光は、階段を軋ませて二階へ上がった。

 まず、最初の部屋の襖を開けた。6畳間の和室だった。子供がいる家庭なら、子供部屋に使われていたのだろう。

 窓は閉め切られていた。

 押入れを開いた。ランドセルも、破れた教科書やノート、散乱する文具も玩具も、古ぼけた本もない。


 あまりにもつまらない、只の空き家だった。利光はそれでも機械的に、後の二つの部屋を見て回った。

 本当に、ただの空き家だった。ノスタルジーや想像力を刺激する落とし物もなく、全て引き上げられた空っぽな空間。

 霊気どころか、ゴミや廃棄物はなく、不法侵入の痕も見当たらない。

 過去の事件や猟奇を連想させ、好奇心をときめかせる跡も、興味を引く落とし物もない。


 過去、ここに住んでいた家族がどのような暮らしを営んでいたのか、そんな家の記憶も朽ち果てて、惨めさすら残っていない空っぽさた。

 ここに来るまでの期待が大きいかった分、腹が立った。壮三へ怪談の手土産どころか、完全に時間の無駄だった。話を持って来た男子学生へ、利光は悪態をついた。


「あのクソガキ、適当なこと言いやがって」


 蒸し暑く、濁った家の中で呼吸している内に、咽喉に熱気が溜まりそうだった。汗ばんだ肌に埃がべたべた付着してくる。冷えたビールの苦みが、咽喉に恋しい。

 世の中そう云うものだ、さっさと帰ってビールを飲もうと、利光は自分を慰めた。

 コレクションしている怪談話や心霊体験だって、タクシーの運転手や飲み屋の客に聞いて回っても、収穫は十何人かに一人である。

 時には聞いた怪談話を大げさに盛って、皆に披露することもあった。そうでもしなければ、話は集まらないのだ。


『心霊スポット行っても、何もないのが普通やで』


 壮三もそう言っていたではないか。

 何もないのが普通だから、怪異は貴重なのだ。

 心霊スポットへ取材レポートを売りにしているタレントがいるが、彼もまた、心霊スポットで「何もない」ことが多く、何とかしておどろおどろしい絵になるよう、編集に工夫を凝らしていると聞いた。

 悔しいが、住人が頻繁に入れ替わる理由は、心霊的要因ではない、他の現実的な要因……虫とか臭いとか、裕子の言う通りかもしれなかった。


 帰ろう。

 時計を確認すると、外はもう日が落ちかけている時間帯だった。利光は、足元が見えにくくなった階段を降りた。このままさりげなく、外に出てしまおうという算段だった。

 階段を降りきって、玄関へ近づいた、その時だった。

 危険信号が頭に鳴り響いた。ドアのすぐ外から声がする。それも数人。

 おかあさあん、と子供の声がした。


 はやくはやく、おなかすいたあ。

 まってね、鍵をどこにやったのかなあ。

 女の声に、違う子供の声が重なった。

 コートのポケットだよ、さっき入れたじゃない。

 パパに開けてもらえばいいんじゃないの? 

 ううん、お父さん、二階できっと寝ているわ。

 はやくぅ、おかあさんあけてよお。

 ちょっとまって、カギをさがしてるから。


 ガチャガチャと、急き立てるようにドアノブが回った。

 利光の全身の血液が一瞬で凍結した。母と子のやり取りで一気に毛穴が開き、氷の霜がおりた。

 なぜ、いや、まさか、まさかまさか。

 二階に父親が? 混乱し、狼狽する思考を置き去りにして、足は隠れ場所を求めた。廊下から続く、和室の襖が開いている。

 目についた座卓テーブルの下に、利光は逃げ込んで体を縮めた。


 腹這いになり、手足を引っ込める。

 ぐにゃぐにゃした畳に、鼻は触れんばかりだった。腐った草の匂いが鼻を突いた。

 顔を上げると、テーブルの下から和室の外の廊下が見える。

 ピンク色のソックスを履いた女の子の足と、灰色の靴下を履いた男の子の足が廊下を駆け抜けた。その後にストッキングを履いた女の足が続く。


 おかあさあん、ごはん早く。

 待って、すぐ支度するからね。


 廊下に明かりが点いた。

 目の前に、母子の何でもない会話が、生活があった。それは戦慄の風景だった。

 ――空き家と間違えて、他人の家に上がり込んでしまったんだ。

 それ以外、考えられなかった。

 住所は何度も確かめた。この家は、間違いなく男子学生に教えてもらった家だが、今ここにいる家族が、すでに入居していたのだ。


 そして、母子は鍵をかけ忘れて外出していた。

 門に下げっ放しの広告は、きっと不動産屋の外し忘れに違いなかった。

 二階には誰も人はいなかった。父親も外出していたに違いない。

 そこに自分が上がりこんだのだ。

 どうしよう。

 血が体中をガンガンと激しく流れた。目の奥は白くなり、吐き気が込み上げた。

 こんな場所に隠れていても、すぐに見つかる。こうやっていても時間の浪費だ。不法侵入だ。間違いなく通報されてしまう。警察に逮捕される。


 パトカーで連行され、厳しく取り調べを受ける想像が頭を直撃した。職場にもばれる想像が、脳を切り裂いた。

 いっそ、このテーブル下から飛び出してしまうか? いや、飛び出してどうする? 玄関へそのまま走って逃げることが出来るのか? いや、逃げずに謝る? 何と言い訳が出来る? 門が空いていたので、つい入ってしまいましたとでも言えば、許してもらえるのか? 誤魔化せるのか?

 腹這いになった利光の前で、男の子の灰色のソックスが、ぱたぱたと走り回っている。女の子のピンクのソックスが近づいてきた。


 来ないでくれ、下を覗き込まないでくれ。

 己の存在の全てを願いに捧げ、利光は目を閉じた。

 台所が、二階の和室の風景が、頭の中でグルグルと回っている。今、自分の心臓が止まっているのか、動いているのか、もう分らなくなっていた。

 声が聞こえる。


 ねえ、ママ、ごはんまだあ?

 まって、今、作っているからね。


 いや、待て。利光の頭は冷えた。

 この家の台所には、レンジも鍋も、調理器具も何もなかった。皿どころか食器棚さえ、もちろんなかった。

 二階の和室にも押入れには布団や家具、あの子供たちのランドセルや机、生活用品は何もなかった。ここは空っぽの家だ。

 この家族は、家具もなく、布団も何もない家で暮らしているのか?

 自分がさっき見たものと、今の光景がかみ合わない。


 コートのポケットに鍵? 今は6月だ。

 恐怖が、別の恐怖に裏返った時だった。

 ねえ、ママあ、階段に知らないお人形があるよ。

 女の子の声。利光は気がついた。持って来た人形を放りだして、ここに逃げ込んだのだ。

 女の子の足と、男の子の足が近づいてきた。


 人形を入れていたボストンバッグが、目の前に落下した。

 座卓のテーブルの前に、小さな膝が二人分、ペタンと座った。女の子のスカートの上に乗せられている赤いドレスは、間違いなく自分が持って来た人形だ。

 来ないでくれ、あっちへ行ってくれ。

 いつかは見つかるとは分かっている。だが、覚悟はまだ出来ていない。社会的な破滅の時を、少しでも先に伸ばしたかった。

 誰のお人形? 持って来たのはサンタさん?


 子供の笑い声が2つ重なった。

 灰色のソックスが突然立ち上がり、和室の外へ走って出て行く。

 あー、と女の子が声を上げた。膝から人形が畳の上に転がり落ちた。

 目の前に、人形が転がってきた。

 畳に、女の子の両手と膝がついた。逃げ場のない空間で、利光は無言で絶叫した。

 女の子の顔が、座卓テーブルの下を覗き込む。

 目が合うはずだった。だが、そうはならなかった。


 女の子には、眼が無かった。縁が歪んだ、黒い空洞だった。

 利光は、見つめた。

 ひたすら、空洞の目を見つめた。呆然と。

 白く小さな手で人形を引きずり出すと、女の子の顔が遠ざかった。

 ピンク色のソックスが和室を出て行く。

 動けない。警察、通報、その現実的な恐怖が、違った形に変わっていた。ここはどこなんだ? 利光は問うた。俺は何を見ている? あの子の目は、見間違いなのか。


 きゅ、きゅ、と階段の泣き声が聞こえた。誰もいなかった二階から、誰かが降りてくる。和室から見える廊下に、獣のような男の素足が歩いている。

 素足は、台所へと消えた。

 突然、男の子の泣き声が爆発した。

 やめてええええっおとうさんっ

 母親の悲鳴。それは、怪鳥の音声だった。

 空き家の台所で、割れる音、倒れる音が、母親の悲鳴と男の子の泣き声に、男の唸り声がかぶさった。


 ……くんっ……しっかりしてぇ! やめて、やめてあなたぁああああ……

 男の子の泣き声が止まった。


 母親が錯乱し、哀願する声が、父親らしき男の獰猛な呪詛が部屋を満たす。

 この空き家で何が起きているのか、何を見ているのか、何を見せられているのか。

 無理心中という言葉が、頭に渦を巻いた。

 テーブルの下で腹這いのまま動けない利光の視界に、ピンク色のソックスが、奇声を上げて泣きながら走って来る。

 そのすぐ後ろに、父親の素足がやってくる。足の指にこびりついた黒い血が、畳になすりつけられていく。

 いつのまにか、母親の声は消えていた。


 やめろ、こっち来るな。

 利光の念じた通りとなった。父親の足が、娘の足に追いついた。ピンク色のソックスが畳から浮き上がった。子供の悲鳴。人形が畳の上に落下した。

 ごろりと転がった人形の青い目が、利光を凝視した。

 ぐふぇぇぇと、気道が潰れて塞がる音。

 なむあみだぶつ、なむあみだぶつ……と父親の念仏が重なる。

 やめてくれ、もう終わってくれ。


 利光は声にならない声で泣き叫んだ。目を閉じたい、耳を塞ぎたいのに、目をつぶることも、耳を塞ぐ事が出来なかった。

 見えない指に、まぶたと腕を抑えられている。

 これ以上見せられるのなら、狂ってしまいたいと願った。

 狂ってしまいたい。

 例え一生を、この家のこの座卓の下で、腹這いで送ることになっても、心だけは逃げられる。


 男が泣きながら念仏を唱えている。畳の上に女の子がどさりと落ちた。

 念仏が止んだ。

 男の足は、娘の死骸を前にしばらく棒のように突っ立っていたが、ぐるぐると部屋の中を回り、止まり、また回った。何かを探しているのだ。

 俺だ。

 直感した。


 利光を求めて、足は畳に血の跡をまぶしながら和室を歩き、廊下に出た。そしてすぐに戻り、和室を回る。

 血の池を歩いてきた、黒い爪の足の指先が利光に向く。

 赤黒く染まった手と、ざらついた膝が、畳についた。

 顔が降りてきた。その目は、娘と同じように二つ開いた黒い穴だった。

 利光は背中で卓上テーブルを押し上げ、ひっくり返して立ち上がっていた。


「あああああああああああぁっ」


 和室を飛び出し、ロケットのように玄関へと駆けた。

 玄関のドアに体当たりし、壊れるほどにノブを回した。ノブを何度も回し、ドアを押した。

 開かないドアを殴りつけ、悲鳴と鳴き声と絶叫で助けを求めた。


「だずげてぐでぇっ」


 体当たりをした。肩の骨が砕け、膝が曲がってしまわんばかりだった。

 殴った。殴った。体当たりした。

 ふ、とドアが消えた。


「わあああああっ」


 外に転がり出た。周囲で悲鳴が上がった。

 気が付くと、仰向けだった。人々に囲まれている。


「花に水やってたら、ドンドン音が聞こえてねえ。何や思ったら、いきなりあの空き家から、この人が飛び出してきたんよ」


 隣人の老女が、泣き叫ぶ利光を見下ろした。


「酔っ払いかい?」


 犯罪者か、狂人を見る目が一気に押し寄せた。利光は否定しようとした。見たものを説明しようとしたが、声は悲鳴と泣声しか出せない。

 手足を千切れるほどに振り回した。人垣がざわめき、後退した。

 ちがう、みたんだ、おれはみたと絶叫をくり返し、恐怖と身の潔白を訴えたが、回らない舌では、麻薬中毒者の放つ咆哮、奇怪な音声にしかならない。

 しばらくして、パトカーのサイレンが聞こえてきた。



 通報され、署に連行された利光は、取り調べでも泣き喚き、空き家で見たものを、言葉にならない言葉で訴えた。

 しかし、警官たちに言葉が通じず、麻薬中毒を疑われて尿を取られた。

 盗みや器物損壊はなかったおかげで、書類送検と罰金で済み、職場にはバレずに済んだものの、散々警察で油を搾られた。

 だが釈放後、落ち着いてから利光は気が付いた。あれこそ怪異だ。空き家の異形は、誰がどういおうが間違いなく本物だった。


 人形を、呪いの人形に仕立て上げる必要は無い。

 自分の目で、本物の恐怖を視たのだ。

 あれは掛け値なしの怪異だった。異界の住人とついに接触したのだ。壮三の驚く顔が、ライバルたちが悔しがり、尊敬の目を向ける姿を想像したのだが。



 話を披露する「怪の宴」を待ちきれず、利光は壮三の家に押しかけた。

 熱意を込めて話終えた後、壮三は一声呻いた。


「どうでしょうか?」


 声が期待で上ずった。


「全て本当です。本当に、視たんですよ」


 耳野裕子が、たまたま秘書の用事で居合わせていた。一緒に話を聞きながら、ひどく不快そうな目で壮三と利光を見比べているが、今はどうでもいい。

 う~と壮三が、再び呻いた。そして、利光ではなく、裕子を見た。


「どう思う?」


 コイツの感想なんか、どうだっていい。壮三の感想が聞きたいのだと、じれったくなった。

 利光を裕子は一瞥した。


「正直、大げさというか」


 利光は固まった。


「話もそこまで来たら、ほとんどホラー映画ですよ。リアル感も無いし、信じられないっていうか……」


 利光へ対する侮蔑と呆れを、全く隠そうともせずに裕子は言った。

 利光は怒りを込めて壮三に向いた。さっきから、壮三は呻いてばかりだ。


「先生、どうなんです?」

「……ちいと、やり過ぎ感があるなあ」


 壮三のセリフに、利光は呆けた。意気揚々と差し出したダイヤが、石ころだと言われた衝撃だった。


「いやでも」


 利光は、言葉ですがりついた。


「本当なんです」


 それ以前にねと、裕子が割り込んだ。


「浮田さん、自分のしたこと分かっているのかなあ。空き家に入って探検って、それって頭の悪いヤンキー高校生がする事ですよ。立派な犯罪でしょ? 頭のいい小学生ならしませんよ。で、さっきから、褒めて褒めて俺すごいだろオーラ垂れ流しているけど、その体験、警察に引っ張られて、書類送検って話でしょ? それって普通人生の汚点じゃないの?」


 嬉しそうに、裕子は攻撃を続けた。


「浮田さん、私のことキライでしょ? だって、いつも人の怪談話に感心するどころか、文句をつけるもん。この女、黙って話を聞けよと思っているんでしょ?」


 その通りだよ、分かっていてその態度かこのゲス女。

 視線にメッセージを込めるが、裕子に全くダメージは無い。


「私ねえ、怪談がキライって言うより、浮田さんみたいな怪談マニアが気持ち悪いのよね。何ていうの、怪談が好きってレベルを超えて、怪談至上主義。死んだおばあちゃんが夢にとか、自殺の名所で白い影見えたとか、何でも怪異に結びつけて喜んでいるだけならいいけど、怪談のためなら法をも犯して、それですごいだろって自慢している態度がムカつくの」


 直球が腹に突き刺さった。

 裕子は、明らかにそのダメージを楽しんでいた。

 そのダメージの手ごたえを楽しんでいる顔で、裕子が続ける。


「先生の事を異常に崇拝しているせいで、変な脳内物質を自家製で作っちゃったんでしょ。だって、そうでもしないと、とてもあんな大人げない事出来ないよね」

「……何が大人げない」


 ブログよブログ、と裕子は言った。


「先生のブログに、浮田さん毎回毎回、長文コメント残しているでしょ。下手したら先生の本文よりもなっがーいなっがーい文章。あのさあ、ブログのコメントに長文って迷惑なの、知ってる? 講演会で最後の質問に、ダラダラと演者に質問する人いるけど、正にアレ。あのさあ、人のブログで、自分の存在アピっているんじゃないよって」


 キモチ悪い、と裕子は言った。


「何でもかんでも、そんな先生への媚媚態度。怪談もご進呈するって感じよね。怪談は供物かよ。怪談が好きっていうより、怪談で先生の前で目立ちたいだけでしょ」

「……あんた、じゃあ何でここにいるんだよ。嫌なら来るな」


 唸った。自分を制することが出来なかった。


「怪談がキライとは、言っていないでしょ」


 裕子が、鼻越しに利光を見た。


「何でもかんでも、幽霊だなんだっていう思考停止状態の方が、むしろ怪談に対して不真面目だと思わない? 事象を懐疑的に、一歩外から見たうえで、超常現象か否かを考える、それのほうが怪談に対して、むしろ忠実と思うけどなあ」


 利光は立ち上がった。裕子の勝ち誇った顔。壮三はそれを放置したまま、ただ黙ってふて腐れたような顔のポーズで、動かない。

 二人分の重い空気を、さっさと払うように裕子は壮へ向いた。


「ところで先生、次のイベントの司会の衣装、先生が出す「赤い服の女」の話に合わせて、赤いワンピースを着ろって陣内さんに言われているんですけど……」


 あーとかうーとか、壮三は口ごもり、ちらりちらりと利光に視線を投げる。

 利光は黙って外に出た。



 可愛さ余って憎さ100倍ではないが、自分の秘書の暴言から自分を庇ってくれなかった田中壮三へ、利光は家に火をつけに行こうかとまでに思い詰めた。

 心がけだの常識だの、どう言われようと、人から集めた怪談で本を書き、利光から聞いた話も使っているのだ。

 それでメシを食っている作家が、あの暴言を野放しとはどういうことだ。

 だが、壮三からメールが来た。


『耳野さんは少しばかりエキセントリックなところがあり、小生も手を焼くことも多々あります。しかし以前職場でいじめに遭い、会社を辞めたそのせいで、今でもカウンセラーにかかっているとの事。まだ気持ちに不安定さが残っているのでしょう。それを考慮し、失礼な発言も大目に見てあげて頂ければと、そう願います』


 ついては、お詫びに次の怪談イベントは無料で招待するので、来て欲しいという事だった。

 あの時のどっちつかずな態度でも感じたが、謝罪の真摯な対応というより、これ以上炎を広げたくないという保身が見える。

 裕子は秘書で、利光は大事な怪談提供者だ。

 壮三にとってはどちらにも肩入れはしにくい。

 しかし、利光は壮三には勘弁してやれても、あの耳野裕子は我慢できない。


 何が精神不安定だと思う。精神不安定の上に性悪が乗っているのか、性悪の上に精神不安定なのか、どちらにしても不愉快な女には違いなかった。

 そのせいなのだろうか。耳野裕子を殺す夢を見るようになったのは。

 赤い衣装をつけた裕子の、その首を絞めている夢だった。

 自分の手の中で、赤黒く変色する裕子の顔色、飛び出す舌と眼球。

 飛び起きて、利光は安堵の息を吐く。手に肉を締める感触まであった。

 夢は毎回生々しかった。


 目が覚めても、まだ夢とは信じられずに、夢と現実の境目を求め、しばらく起き上がれない鮮明さだった。



 田中壮三から浮田に依頼があったのは、そんな夢を見始めてからの事だった。


「あの、いつか話に出た古い人形貸してくれんか? 赤い服着たやつ」


 利光を招待した、夜に開催される怪談のイベントに使いたいという。

 今回、田中壮三が「赤い服の女」という演目を語るという。怪談本の中にも収録されているエピソードだが、今回この話を中心にしてプログラムを進めるといった。

 その話に合わせて、裕子の司会衣装は赤だ。そして物販の飾りつけにも、今回のキーワードとして、利光の人形を使いたいという。


「あの人形、やけに顔がリアルやし、赤いドレスで雰囲気十分や。商品の横に置いたら、良い色どりになる」


 当日に人形を持って行き、そのままスタッフに渡すことになった。

 イベント会場は100人収容の広さで、飲食店のある雑居ビルの地下一階にある。

 さほど広くはないロビーに、100人の客がたむろしている光景は正に人のごった煮だった。ファンの熱気と開幕の期待が渦巻いていた。

 怪談のイベントは、十数年ほど前に比べれば数も倍になり、集客数も増えている。だからこそ、壮三はこれからの怪談を、娯楽のジャンルとしてさらに発展させ、芸の一つとして広めようと考えているのだ。


 昔はイロモノだった怪談を、表舞台に出したいと思っている。

 それは、怪談を愛している利光も同じ思いだった。

 怪談は、ただ、幽霊が出れば良いと、幽霊を見世物にしているのではない。

 この世とあの世の隙間から吹く風や、空気が持つ異質感や違和感、そこから生まれ出る「恐怖」という感覚を楽しむものだ。

 それは、もっと文化的で洗練されたもので、殺人や事故を見て感じる恐怖とは、全く質が違う。


 恐怖とは、原初的な感情だ。その感情を「怪異」は独特のタッチで撫でていく。その感触は、中毒性がある麻薬にも似ていた。

 恐怖という感情を娯楽に出来るのは、人間だけだ。

 だが耳野裕子は、そんな奥深い部分まで、怪談を感じてはいない。

 表面をなぞっただけの演出、赤い服を着て舞台に立ち、壮三の語る怪談に「コワいですね~」と、安過ぎる合いの手を入れ、腐った愛嬌をまき散らしているだけだ。


「赤い服の女」は、ある登山好きの男性の体験談だった。

 北アルプスにある、有名な縦走コース上にある山小屋に宿泊した彼は、ザックの荷解きを終えて食堂に降りると、赤いワンピースを着た女とすれ違う。

 思わず、振り返ってしまったという。

 ここは標高3000メートル級の場所だ。そんな格好で登る登山者がいるはずないが、山小屋に宿泊中の部屋着としても、奇妙なものだった。

 その夜、彼は寝つけずにふらふらと山小屋に出た。


 白い月明りの下、浮かび上がる山の稜線。そこで彼が見たのは、赤い女が登山者の誰かの手を引いて、山小屋から遠ざかっていく光景だった。

 山の幻想的な描写や、体験者の山行中、ちらちらと山中に現れる赤い女の幻影が恐ろしい。


「え~、ワタシみたいな赤いワンピースですかあ?」

「じゃあ、アンタみたいなのがアルプスの山でうろついとるのか?」


 どっと笑い声が起きた。利光は笑う気にもなれない。むしろ、神聖な舞台が下らない笑いで汚されている気がする。

 あの首を絞めてやれば、もうこんな舞台を見ずに済むのだという考えが、突風のように頭に吹き抜けた。待てと理性部分がそれを押し留めるが、他人には見えず、聞こえない想像は、利光の中で動き始める。


「クソアマ」


 声がした。

 思わず、利光は席から飛び上がった。独り言がつい漏れたと思ったのだが、自分ではない。

 どこから聞こえてきたのかと、利光はさりげなく首を左右に回し、背後の席を見たが、声はもう聞こえてこなかった。

 だが、あの悪態は間違いなく、裕子へ向けられたものだと利光は確信した。

 自分以外に、あの女を嫌っている客がいるのだ。

 そう思うと、気が晴れた。


 イベントが終わった後は恒例の、ファンと壮三の懇親会が開かれる。

 今回は、壮三自らのメールで誘われていた。

 そうすると断る事も出来ず、利光は物販に群がる客を眺めながら、会の時間まで少し離れた場所で待っていた。


「ゆうこターン! 来たよお!」


 物販の陳列台の前で、うるさくアピールしている男たちがいる。


「舞台、すっごく可愛かった!」


「うっそー、来てくれたんだー」裕子の声。

 あれが、裕子を姫と呼んでいる古代史マニアらしい。裕子目当てで来たのだろう。

 利光にとっては、縄張りに汚いものが入って来た気になった。

 壮三のサイン本、お清めの塩などが並ぶ陳列台に、耳野裕子が赤いワンピースを着て立っていた。利光の人形を抱きながら、客に愛嬌を振りまいている。


「みなさーん、ありがとーございまぁす!」


 まるで、サイン会に出たアイドルのような表情だった。


「まだ、未熟ですけどお、これからもガンバって司会しまーす! 応援して下さいねえ」


 まるで、このイベントの主役のように叫ぶ。

 利光の中で、何かが乗っとられた気がした。これは自分にとって神聖な怪談のイベントで、耳野裕子なんかのお披露目会ではない。

 赤いワンピースの色が毒々しく、裕子の笑顔が醜く歪んで目に飛び込んできた。

 その時だった。

 あの夢が、今の瞬間と重なり合った。

 利光の中で薄暗い感覚が沸き起こった。手に、裕子の首を絞める感触が蘇る。


 憎悪が這い出てきた。あれを排除しなくてはという義務感が、利光を押した。

 怪談が、壮三のイベントが、あんな下種な目立ちたがり女のパフォーマンスに汚され、利用されるなど、許されない事だった。

 あの女を駆除するのは、犯罪ではなくて正義だ。法律や道徳の枠を超越した、己の世界を守る自衛行動だ。


「これからも、ユウコを応援してくださいねっ」


 裕子が抱いている、赤いドレスのアンティーク・ドールが無表情な笑顔で利光を誘う。

 裕子が陳列台の外に出て、人形を抱いてポーズを取った。

 客と一緒に写真を撮っている裕子へ、利光は向かう。

 客の壁に割り込んだ。裕子へと接近する、その時だった。

 利光の反対側から、客の壁が壊れた。どよめきが起きた。


「この売女があぁっ」


 男の叫びだった。

 悲鳴がつんざいた。男はまっすぐに裕子へ突進する。

 誰も止められなかった。男は獣のように裕子の首に襲い掛かった。


「何が怪談だ! この女、古代史を捨てやがって!」


 男は、涙と鼻水を噴きながら怒鳴った。


「このクソアマがああっ! 何がチャンスだ、アイドルだ!」


 圧し掛かられ、首を締めあげられる裕子の顔が赤黒くなった。

 周囲が男を止めようとする、その中に利光は飛び込んだ。

 裕子を助けようとする人間を振り払った。突き飛ばした。


「殺せ、早く殺すんだ!」


 利光は男へ叫んだ。


「そのクソったれ女の首を、早く折って殺してしまえ、息の根を止めろ!」


 飛び出た裕子の眼が、利光へ突き刺さる。死相が膨れ上がり、抵抗する手が空をかいた。

 利光は裕子へ叫んだ。


「ざまあみろ!」


 利光への怨念に、裕子の眼球が血走った。

 何本もの手が、腕が利光を捕まえた。

 裕子を助けようと、客たちが殺到する。

 誰かが転倒し、ドミノ倒しが起きた。締め上げられている裕子の首に、殺到する客たちの圧力が重なって、あらぬ方向に折れた。

 男が肉の壁に圧し潰された。利光の上にも、大勢の人間の塊が圧し掛かってくる。

 あばらごと内臓を潰される利光が最後に見たものは、ロビーの隅で腰を抜かしている壮三だった。


 その横に座っているのは、あのアンティーク・ドールだった。まるで裕子の腕と混乱からすり抜けてきたように、平然と座り、こちらに顔を向けている。

 利光と、人形の目が合った。

 人形がけたけたと笑った。

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