流転人形

洞見多琴果

第1話 山の中へ死体を埋めに

 第一話


  その人形は、木の根元に座っていた。

 鬱蒼とした山中、木の根元に座って二人の男を見つめていた。

 男二人は、黙々と穴を掘り続けていた。


 奥野健一は、後悔している。

 健司の目の前で、黙々と地面を掘っているのは柴田清治だった。

  中坊の時は、健一をタバコや昼休みの購買のパンを買う使い走りにし、中学を卒業してからは6年、いまだに喧嘩やイベントの人数合わせや運転手に、尊大な態度で健一を呼びつけてくる。

 縁を切りたくても、高校中退で中学から人間関係が更新されず、地元にいる以上どうしても関わりが切れない、ずるずるとした腐れ縁の相手だった。

 だが、今日はいつもと態度が違う。


『お前にしか、頼めねえんだ』


 いつもはエラそうに、餌を投げるように命令してくるくせに、昨夜の様子は違っていた。

声には暗くて不穏なものがあり、いつもと違う意味で、断ったら何か起きそうな不吉さがあった。

そして今も、黙々とシャベルを操って地面を掘り続けている。

普段、袋に詰め込んで口を縛りたいほど騒々しい男だというのに、今日は会ってからずっと、口をほとんど開かない。


「……ねえ、柴田さん」

「……」

「ちょっと、休みませんか?」


 汗が噴き出していた。

 朝早くに出て車で数時間、そして山の麓に到着してから山に入り、リュックを押し付けられてから、更に獣道のような山道を数時間登り、この場所にたどり着いた。

 そしてシャベルを取り出し、山奥でこの穴掘り作業だ。途中の山道から、もう健一の体力は無くなり、疲労で心臓は潰れかけていた。


「……しばたさん……」


 足元には、掘り起こした土の山がある。

 どれだけ地面を掘り続けているのか。

 まるで、地獄のへ通り穴を作るのかと思うほどだった。

 何度も石や木の根が、土の中で邪魔をする。作業に嫌気がさしてきたが、健司は柴田に逆らう事は出来ない。

 健一は何も考えないようにして、機械的に、罪人のように手足を動かす。

 ずっとシャベルを握り続けた手は、痺れてマメが出来た。

 背中は緊張と力作業で凝り固まっていた。


「これくらいでいいだろう」


 柴田の声に、健司はへたり込みそうになった。

 そら、と柴田は、リュックを健司へ蹴った。


「中身を出せ」


 紙に包まれた固まりが数個。

 新聞の包みは、棒状、球体、形も大きさもそれぞれ歪な塊だった。

 二人で合わせて13個あった。

 中身は分からないが、合わせたらかなりの大きさになる。

 掴むと、見た目より重量があった。カサついた紙ごしに、妙な弾力を感じた。

 柴田が命令した。


「それを埋めろ」

「何ですか? これ?」

「お前は知らんでもいい」


 それだけだった。その声はぞっとするほど深く、サメのような目で見つめられ、健一は生まれかけた好奇心を、すぐさま引っ込めた。

 持って来た包みを穴に放り入れた。

 二人で深く掘った穴は、包みでほとんど埋まった。土をかぶせ、平らに慣らしてから石を数個置いた。

 健一が人形に気がついたのは、ようやく一息ついて、背中の筋肉を伸ばした時だった。


 異物が、健一の目に飛び込んだ。

 小さな眼と健一の目が合った。

 木の幹にもたれるように座ってる人形に、健一は目を疑った。

 西洋人形だ。

 抱き人形だった。

 忘れ物か? だが、人形を持って登山する人間なんかいるはずがない。

 捨てられたのか? しかし、このくらいの大きさならゴミ箱で事足りる。


 わざわざこんな場所で、人形を捨てる理由が思いつかない。

 健一は、人形に一歩近づいた。

 作業中、薄い視線をずっと感じていた。うす気味悪さを気のせいと片づけたが、正体はこれだったらしい。

 生きた人間の目ではなかった事に、健一は安堵した。

 背中に、鋭い声が刺さった。


「おい」


 健一は振り向いた。

 柴田がシャベルを分解し、登山用のリュックに入れているところだった。

 柴田の暗い目が、自分に注がれている。慌てて健一は自分の使っていたシャベルを分解し、土がついたままリュックに押し入れた。


「ねえ、柴田さん、あそこ」


 リュックを腕に通しながら、健一は平然を装いつつ、横手をあごで示した。


「人形がありますよ」

「……」

「なんでしょうね、アレ」


 柴田は、ちらりと人形を見ただけだった。

 その不気味な大人しさに、健司はイヤな汗が伝い落ちる。

 そもそも、自分が柴田に一体何を手伝わされたのか、何を埋めさせたれたのか、絵が見えない。

 今までの万引きの片棒担ぎや、盗品や偽造カードの売買なんてものではなく、どう考えても比べ物にならない、ヤバいことの片棒を担がされたのは間違いなかった。


 不吉な虫がざわざわ這いあがり、針で肌をチクチク刺す。

 これ以上、柴田の傍にいたくない。

 この件に深入りしてはならないと、本能が騒ぎ立てる。

 バカを装うことにした。

 先輩の命令をホイホイ聞く弟分、何も考えもしない能天気な男。

 無害なトンマとして、何とか柴田から離れなくては。


「ガキの忘れもんすかねえー」


 健一はシャベルをリュックに入れた後、木に座っている人形を掴み上げた。

 大きさは50cmほどの、典型的なフランス人形だった。磁器で出来た顔、金髪に青いガラスの目で、緋色のドレスに同色の帽子をかぶっている。

 山中に放置されていたというのに、やけに小綺麗なままだった。

 放置されてそう日が経っていないのか、雨や風にさらされた汚れはほとんどない。

 ドレスも顔も、きれいなものだった。ついさっき誰が置いていったようだ。


「へえ、高そうじゃんか」


 背後の柴田を意識しながらも、健一は口を動かした。


「何でしょうね、これ」


 朝に連れて来られて、気がつけばもう夕方だ。葉や枝に遮られた日の光が、ゆっくりと明度を落とし、闇が濃くなっていく。鳥のさえずりも止んでいる。

 風が吹く。

 枝と葉がざわざわと嗤うなか、気温が一気に低くなった。

 健一は身震いした。震えは寒さだけではない。


 山には、二人きりなのだ。自分と柴田だけだ、それ以外誰もいない。

 考えたくないが、埋めたものはイヤでも頭にこびりついていた。振り払っても、灰色の包みは目から脳みそに転写されて、残像が消えない。

 神経質で偏執的に、新聞紙で幾重にも包まれた、いくつもの歪な塊。大きさもバラバラだった。


 何か解体した?

 短絡的だが、だが否定も出来ない想像が、ゆっくりと頭を冷やした。

 考えるな。

 健一は、へらへらと笑いを垂れ流した。


「もう、山をおりましょうよしばたさん、くらくなっちゃいますよ」


 ああ、とかうん、とか、くぐもった音声を柴田は漏らし、じっと健一を見つめ、足元に目を落とした。

 子供の頭くらいの大きさの、石が落ちている。

 太陽の光が弱くなり、柴田の表情が影る。感情の動きが見えなくなった。

 柴田は、足元を見つめていた。

 その石を見て、何を考えているのか、どんな想像をしているのか、影の中に表情は沈んで見えないが、不吉が健一の足を掴み離さない。


 背中が粟立った。それでも「俺は何も考えていない」とばかりにつくった薄っぺらい顔の表情筋を、健一はひたすら固定した……俺には関係ない。

 俺には関係ない。何をさせられたのか、全く頓着していない。中身だって、別に知りたくも無いしどうでも良い。

 無防備なバカのセリフを、命がけで健一は咽喉から押し出した。


「あー、おれ、すっげえはらがへった。しばたさん、かえりにラーメンでもおごってくださいよお」


 手と背中に、じっとりと汗がにじみ出す。

 柴田が一歩、こっちに向かって足を踏み出した。

 健一は息を止めた。

 俺は無害です、柴田に向けて無言で絶叫した。

 あんたが何をしようと関係ない、何を埋めたのか、知る気も無いし、詮索する気は全く無いです。


 柴田の靴が、石を通り過ぎる。

 柴田は言った。


「帰るぞ」


 山を下り、車に乗り、マンションの前に降ろされるまで、終始柴田は無言だった。

 健一は、自分から運転手を務めた。


「行きは、柴田さんに運転させたんで、帰りは俺がしまっス」


 ハンドルを握っている間なら、危害を加えられることはないと踏んだからだ。

 それでも沈黙したら何かが起きそうな気がして、押し黙ったままの柴田へ、健一は共通の知り合いのゴシップ、女や風俗の話をひたすら流し続けた。

 自分のマンションが見えた時、安堵の涙が薄くにじんだ。

 車を止め、ドアを開けた瞬間、ようやく柴田が口を開いた。


「今日の事は、誰にも言うなよ」


 わかりましたあと、健一は命を懸けたバカ返事をした。


「誰かにしゃべってみろ。殺す」


 脅迫に押されて、健一は車から転がり出た。

 柴田の車が見えなくなると、健一は足をもつれさせて走った。階段を駆け上がり、部屋に飛び込んだ。狭いワンルームに、震える指で鍵を閉めた。痙攣して、思い通りに動かない手でチェーンをかけた。

 柴田と外から隔絶された瞬間。一気に膝の力が抜けた。


「あー」


 腹は減っていたが、胃が重くて食べ物を受け付けない。

 動けない。

 動きたくない。汗と土で汚れた服のまま、ベッドの上で健一は突っ伏した。

 気が遠くなった。


 すぐに悲鳴を上げて、健一は飛び起きた。

 空辣に明るい蛍光灯が、自分を照らしていた。点けっ放しだ。

 すでに零時を過ぎていた。夜中の静寂の中、心臓だけがドクドクと厭なスピードを刻んでいる。

 汚れた顔を、健一はシーツに押し当てて心臓をなだめた。


 ……厭な夢だった。

 柴田に殺される夢だった。


 山に埋めた灰色の包みを思い出しかけて、健一はその想像を振り払った。咽喉がひび割れるほど乾き、水分を求めていた。

 冷蔵庫の中に、ビールがあった。それを思い出して身を起こし、健一は床にあるものに気がついた。

 雑誌や空き缶、スナックの袋に混じって、緋色の異物が落ちている。

 健一は、まだ夢うつつから冷めない頭でそれを見た。

 山で見つけたあの、西洋人形だった。



 ……女が、健一へ叫んでいる。

 醜くかった。女の顔は恐怖と憎悪で、顔の全てが引き歪んでいた。

 女の口は、健一へ向かって叫びと罵倒を口汚く繰り返している。

 女の赤い服が、灰色の背景のなかで、毒々しく浮かび上がっている。

 女だった。知人か他人か、それも分からないが女だ。女とだけしか分からない。

 この女に罵られる理由も分からない。


 だが、健一も、相手と同様、間違いなくこの女を憎んでいた。だが、自分がなぜこの女を憎んでいるのか、その理由が分からない。

 だが、憎い。

 殺してやろう。そうしよう。

 簡単に結論が出た。健一は女に向かって、手を伸ばした。

 指が女の首にかかる。

 首の骨の感触。咽喉を両の手で握りつぶす。

 女は暴れる。暴れながら笑い始めた


『ぎゃばばばばっばっ』


 呼吸を疎外された咽喉から、ぐえぐえぐええと空気が漏れる。

 女の口が三日月形に吊り上がる。


『うぅぐぐえぐええうえええ』


 断絶魔の笑いだった。健一への呪詛だ。

 健一は、女の咽喉をひたすら締める。全てのことを止め、女の咽喉を潰す事だけに集中する。

 でないと、俺が殺される。

 その一念で、健一は女の首を絞め続ける。

 頼む、早く死んでくれ。そう泣き、怯えながら。


 柴田と山に登った日から、この悪夢が続いた。

 毎日、出てくるのは同じ女だった。そして、健一は毎回女の首を絞める。死んでくれと泣き叫ぶ。 

 目が覚めると、心臓は恐怖で震えていた。汗はじっとりと下着を湿らせていた。子供のように、泣きながら起きる事もあった。


 こいつのせいだ、と健一は床に転がったままの人形を見た。

 悪夢は、この人形のせいだ。山での出来事と、この人形が妙に結びつき、無意識のうちに厭な影響が夢に与えられるのだ。それが悪夢に結びつくのに違いない。

 山から下りた日以来、金髪の緋色のドレスのビスクドールは、コンビニ生活の残骸、ビールの空き缶やプラスチックゴミと一緒に、床に転がり、虚ろに健一を見つめている。


 小さな眼は、暗い光をたたえている。

 目を合わせたくなさに、健一は人形から目を背けた。

 携帯が、床の上で放置されていた。着信のランプがせわしなく点滅していた。

 仲間からラインやメールが、積み重なっていた。


『明日に駅前のパチスロ、新装開店だ。一緒に並ぶか?』

『こないだ、あのキャバに新しい娘入ったって。行かねえ?』

『最近、来ないやん。ケンちゃんはなにやってんの?』


 パチスロや風俗の誘いに乗る気どこか、今は返信する気にもなれなかった。今、外に出たり誰かと会ったりしたら、何かが飛び掛かって来そうな恐怖があった。

 山中から死体が見つかったとか、誰かが行方不明とか、そんなニュースはネットにもテレビにもない。

 だが、今は動けなかった。まるで岩陰に隠れる、怯える虫のような生活だった。

 ようやく落ち着きを取り戻したのは、一週間を過ぎてからだ。柴田からの連絡も、警察も来ない事にようやく安心してからだった。


 何を埋めさせられたのか、結局分からずじまいだった。

 健一は、人形を部屋のゴミから持ち上げた。

 何でこんなものを持って帰って来たのか自分でも分からない。

 山の中で、健一は尋常でない柴田に怯えていた。あの不気味な佇まいに、口封じに殺される気がしたのだ。

 その恐怖によって、無意識に妙な行動を取った……それに違いない。


 しかし、人形を掴んで帰る健一に、柴田も気がつかなかったはずがない。それに対して、何も言わなかった彼も、やはり状態は普通ではなかったのだ。

 健一は、つくづくと人形を見た。


「なんか、キモい人形だな」


 緋色のドレスに帽子をかぶり、その下の肌は陶器だった。

 プラスチックにはない、しっとりとした艶と質感があるが、帽子をかぶった金色の髪には艶が無く、パサついている。まるで手入れの悪い女の髪のようだった。

 顔に傷はないが、全体的に古ぼけた印象だった。指先に塗装の剥がれや小傷があり、ドレスの生地にも傷みがある。

 しかし、眼は精巧に出来ていた。青い光彩は、正に人間そのものだった。

 小さな眼が、健一を見つめて光っている。


 まるで、呼吸をしない小さな生き物だ。死骸のようでありながら、眼だけが生きているようだった。

 気味が悪い。

 健一は人形を遠ざけた。

 山の中で、自分と柴田を見つめていた不気味な視線を思い出した。意志を持たない、ただの無機物のはずなのに、薄い体温を感じてしまう。

 そんな気持ちの悪いものを、傍に置きたくはなかった。


 捨ててしまえ、そう思いかけて考え直した。

 衣装や帽子は、素人目から見ても、随分と丁寧な造りで手が込んでいた。

 小さな足には、これもまた細かく作られたソックスと、革の靴まで履いている。

 人形から、ぷんと金の匂いがした。

 これは、売れるか? 健一は考えた。

 現在無職で、失業保険もとっくに切れている。実家の母親にずっと無心していたが、それにも限界がちらちら見える。


 だが、仕事はしたくない。探す気もなければ労働の気力もない。

 どうせ、山に置き去りにされていたものだった。忘れ物か捨てたのか、どちらにしても、持ち主が出てくることは絶対にあり得ない。

 健一の母方の叔母が、人形を集める趣味の持ち主だったので、こういった古いビスクドールに好事家がいることは健一も知っていた。

 子供の頃、従姉の家に遊びに行った家に、西洋人形に市松人形が何体も飾ってあったのを憶えている。


 コレクターから見れば、これは高い人形なのかもしれない。

 しかし、そんなコレクターの知り合いは健一には無い。

 遊び仲間や知っている女は、ブランドのバッグは好きでも、ビスクドールには全く興味はなさそうな人種ばかりだ。そのコレクターの叔母も、数年前に癌で死んだ。

 こういう類のものは、どんな店に持ち込めば高く買ってくれるのか、健一は知らない。


 ネットオークション? だが、出品するのは面倒臭い。

 さあ、どうしようかと健一は悩んだ。換金できそうな品物だが、それまでが面倒くさそうだった。だが、捨ててしまうには惜しい。

 その時だった。ふいに、山田サユリの顔が浮かんだ。

 そうだ、サユリにやってしまおう。

 一週間後、サユリに誕生日が来る。名案だ。


 サユリは健一の大事な金蔓だった。スポンサーではない、金蔓だ。間違っても本命の恋人にはならないし、そうなるくらいなら死んだ方がマシだと思わせる女だが、かけがえのない金蔓であることは、間違いなかった。

 だからこそ、サユリの誕生日を祝うのだ。

 大事なクレジットカードであり、無制限のATMである。


 だからこそ、メンテナンスは大事だ。気分よく金を吐き出させるために、手を惜しんではならない、重要な仕事だ。

 誕生日という、個人だけの特別な日。そこで恋人からのプレゼントは外せない。

 サユリにとっても、健一に大きな期待を寄せているに違いなかった。

 それを素通りすることは出来ない。例え鼻をかんだ後のティッシュでも、何かをサユリに与える必要がある。


 最後にサユリと会ったのは三週間前だった。


『バースデーバースデーるんるんるんるん、●月〇日はさゆりんのひっ』


 気持の悪い歌を、ずっと横で歌っていたのを思い出した。

 だが、今の健一にはプレゼントの金が無い。

 どうするか悩んだ挙句、仕事が入って会えない事にした。そうやって時間を稼ぎ、どうにかしようと思っていたところだった。

 だからといって、サユリのためにバイトをする訳ではない。

 そんな気力など、微塵も起きなかった。稼ぐ理由が女と遊ぶためではない、動物のエサ代である。

 やる気の出なさには、自分でも困っていたところだった。


「丁度良いや」


 この人形をくれてやろうと、健一は笑みをこぼした。

 ビスクドールは、頻繁に出回っている商品ではないので、その金銭的な価値も計りにくい。

 そして、手に入りにくいレアものの人形だと言い張れば、品物の古さも誤魔化せる。

 頭の弱いサユリは、良いように思い込んでくれるだろう、そんな計算もあった。




 サユリの誕生日に会いたい、渡したいものがあるからとメールすると、30秒後に返信が来た。


『うれしい! いつもの場所で待ち合わせ♥』


 15時に待ち合わせだった。

 健一が仕事を抜け出すという名目である。

 人形の処分方法がきまると、一気に気が楽になった。

 これで悪夢からついに解放される。

 サユリと会う当日も、目覚めの良い朝だった。気分良いついでに、新装開店したパチスロ店へ行く。


 あっという間に3万円溶かしたが、今日はサユリと会うので、口惜しさも腹も立たない。

 サユリが損失補填してくれる。いくら負けても構いやしない。

 財布をポケットに突っ込み、ついでに家の鍵を指先で確かめた。

 以前、同じようにパチスロからサユリとの待ち合わせに行った時、途中で鍵を失くしたことがあった。


 鍵を開ける業者に部屋を開けてもらったのだが、身分証明に手間取り、手痛い時間のムダと出費だった。鍵に付けていたグッチのキーホルダーも、昔の彼女にもらって気に入っていたものだった。あれ以来、鍵をちゃんと確かめるようにしている。

 電車に乗っていく。約束の場所は、市内中心部にあるホテルである。

 毎回、サユリはこのホテルを待ち合わせに指定してきた。

 家族御用達のホテルでもあるらしい。

「いつも、パパやママがお仕事で使っているし、私もこのホテルの雰囲気に慣れているから」


 ホテルのフロントは、吹き抜けだった。

 周囲は、男女ともにスーツ姿が多い。そして革靴にハイヒール、その中で、健一は安物に身を固め、汚れたスニーカーでロビーの噴水前を横切った。

 待ち合わせのティールームへ向かう。

 ティールームは、大理石の床に高い天井、ガラス張りの壁を通して庭園が見えた。 

 目の前には、都会の中では贅沢なほどの樹々や花の小道が見える。

 御影石の壁を、人工滝の水が滑り落ちる。

 その豊かな白いしぶき。生まれたての新緑と、枝を彩る白い花が目にまぶしい。


 客より身なりの良いウェイターが、健一を席に案内した。健一は待ち合わせである事を伝えると、テーブルの上で、中古で買ったノートパソコンを開いた。

 パソコンが起動した瞬間、健一は売れっ子のフリーライターに切り替わった。

 高校中退で職を転々とした挙句、今は無職の男ではない。

 安くて無頓着な服装は、ライターの優秀さの裏返し、ネクタイの無い自由業の特権と、健一の脳内は己の姿を変換する。


 健一は鷹揚にコーヒーを頼み、パソコンの前で目を閉じて瞑想した。

 今の健一は、思考と知識の海から言葉と真実を選び出し、頭の中で文章を組み立てるプロだった。

 約束の時間が来た。

 健一は、薄目を開けてティールームの入り口を伺った。

 スカートのフリルが、目の端に入った。

 来た、間違いない。サユリだ。


 そして、もう一度目を閉じて瞑想を装う。

 振動する空気が、そして圧迫感が迫って来た。


「おまたせぇぇぇ」


 女のアニメ声が、控えめなクラシックのBGMを吹き飛ばした。


「ケンケン、待ったぁ?」


 ゆっくりと息を吐き、目を開けると、ピンクと赤、白のフリルと、花柄で固められた巨体が出現している。

 ホテルのロビーだった。上品な無関心を装った周囲の視線が刺さる。

 それは沈黙しながらも波打っていた。

 サユリはスカートのフリルをカーテンのように舞わせた。岩のような尻が落下し、椅子が重量で軋んだ。

 ウェイターが注文を取りに来た。


 健一と目が合った瞬間、客商売の無表情の奥で、憐れみと嘲笑がちらりと見える。

 健一も、無言でウェイターへ嘲笑した。

 教えてやろう、お前の月給がいくらか知らないが、俺はこの女と一度顔を合わせるだけで、セックス抜きで、それ以上の金を毟り取っているんだぜ。

 サユリがケーキセットとプリンアラモード、ミックスサンドイッチを注文しているその間に、健一は、仕事を中断するフリをして、ノートパソコンを閉じた。


「ごめんな、急に呼び出して」


 ううん、とサユリはブンブンと顔を振り回した。

 波打つ頬の脂肪、うねる髪の前で健一は続けた。


「出版社の打合せがあったんだけど、急に向こうがスケジュールの変更を言ってきたんだ。少しだけど時間が空いたから、俺、どうしてもサユリに会いたくなった。だって、今日はサユリの大事な日だろ」


 眉間にしわをよせ、アンニュイなため息をついて見せる。


「本当はね、俺はサユリの誕生日に仕事なんかしたくなったんだ。何とかして断ろうとしたんだぜ。なのにさ『ANAN』の編集長が、絶対に俺に特集記事を書かせたいって、無理を言ってきかないんだ。奥野をその気にさせられないなら、お前ら全員クビにする、雑誌も廃刊にするって言い出してさ、それで社員たちが大慌てだよ。奥野さん、お願いします、あなたが引き受けてくれないと、僕らがクビを切られます、ANANも終わりですってオンオン泣きながら皆で土下座してくるんだぜ。参っちまったよ」


 輝く目で健一を見つめるサユリは、もう30を超えている。

 家庭内純粋培養、今までバイトすらしたことが無い家事手伝いは、いつまでも『パパとママ』に庇護された娘のままだった。

 家族以外の他人の目や物差しに、触れることのない女の頭の中は、自分は愛くるしい少女として成長は止まっている。

 さゆりがアニメ声を上げた。


「すごいよねえ、ケンケン。こないだはロイター新聞の記事でしょ、ああん、さゆりん読みたいけど英語わっかんなあい。で、次がANANの仕事って? なんの記事書くの? 有名人に会うの?」


 キラキラとした目で自分を見つめ、尊敬を垂れ流すサユリが、この時ばかりはわずかにいじらしくなる一瞬だ。

 健一は鷹揚に頭を振った。


「いくら大事なサユリでも、内容は言えない。これでもプロだ、守秘義務だよ」


 えー、そうなのお、とサユリは口を尖らせた。目がキリのように細くなった


「まさか、ケンケン、占いとか開運とか、そんな特集じゃあないよねえ。そんなのさゆりんが許さないゾ!」


 サユリは『大宇宙真実教』という宗教の家族ぐるみの信者である。

 子供の頃、体が弱かったサユリのために、両親が入信したのだそうだ。

 健一にとっては初めて聞く新興宗教だった。教祖は80才を超える老婆で、信仰の対象の神は「大宇宙神ジョバンニ様」というらしい。

 教祖様の教えによれば、大宇宙神ジョバンニ様は、天界を散歩中に、その御手の小指を一本お切りになり、その小指から銀河系からこの世界、全てをお造りになったそうだ。


 つまりはジョバンニ様が、この世界の純然たる創造主で、仏陀もイエスもアラーもゼウスも、ジョバンニ様がお造りになった世界の中の一つ、ネジや歯車の一つに過ぎない。

 いわば世俗の民が神と崇めているのは、大宇宙神ジョバンニ様の下についている手下である。そんな小物を称える信者たちの魂のレベルも、未熟で矮小であるらしい。

 出会いのきっかけも、その「ジョバンニ様」だった。


 宗教仲間と居酒屋で飲んでいたサユリを、仲間同士の飲み会の罰ゲームで声をかける羽目になったのが、健一だった。

 サユリが健一に一目ぼれした。その時、本当ならこの出会いは飲み屋の悪夢の一つになるはずだったが、サユリは相手に対し、警戒心が全く無い大人子供だった。

 この日の健一の飲み代どころか、仲間たちの飲み代も、全てサユリがクレジットカードで払った。

 その瞬間、サユリが放つむせ返るカネの匂いに、健一の中の悪夢は裏返った。

 サユリは健一のことを自分のソウルラバー(魂の恋人)だと言った。


 ソウルラバーとは、フツウの人間とは比べ物にならないほど、高尚な魂を分かち合う男女の結びつきで、限りなく精神的な恋愛関係らしい。

 それを聞かされた健一は、脳みそが腐食するかと思った。

 しかし、ソウルラバーは、肉欲という淫らなもので汚されてはならない。そこを聞いた瞬間、健一はそのソウルラバーを聞き入れた。

 金を引き出す餌のために、この脂肪と寝なくてよいのだ。


「まさか、俺がサユリの神様に背くはずはないだろう。約束するよ」


 メッキの笑顔。偽りの優しさを、健一はサユリへ放り投げてやる。


「大宇宙神ジョバンニ様以外は、邪神か小物だ。そんな奴を少しでも称えるような事、いくら仕事でも、俺が書くはずがないだろう? ライターは真実以外書いちゃいけないって、俺は自分と約束しているんだ。アメリカ大統領に頼まれたって、書かないよ」


 どんな小さな嘘も大きな嘘も、バレなければ真実だ。


『ライター・奥野健一』の名刺を印刷屋で適当に作り、適当な雑誌の、署名の無い記事を見せて「俺が書いた」と言えば、それでサユリはあっさりと信じた。

 サユリは、健一を女性誌から海外のメディアまで、なんでも手掛ける売れっ子ライターと思い込んでいる。いつかはジョバンニ様を、ライターの健一が本にして、真実の信仰と真の神を、世間に広めてくれると、そう信じている。

 だからこそ、金をいくらでも出してくれるのだ。


 取材には金がかかると同情をさせて金をむしり、記事を訴えられたと裁判費用を無心し、取材旅行の経費と言って、今まで稼がせてもらっている。

 サユリは健一を全く疑おうとしない。たまに、恐ろしくなるくらいに。


「そーお、さゆりん、あんしんしちゃったあ」


 破顔した。だが、それは脂肪に埋もれた目鼻と口がうねる、正に「破顔」だった。


「それにねえ、さゆりんのたんじょうび、ケンケンに会えるの諦めてたから、すっごくうれしいゾ!」


 健一は微笑みを固定した。


「実はね、今日も裁判所に出頭するはずの時間なんだけれど、サユリのために放り投げてきた……例え、そのせいで刑務所に入ったとしても後悔はない」

「ええ! ケンケン、刑務所って何? 訴訟って?」

「大したことじゃない。それ以上に、こんな汚い話は清らかなサユリの耳には入れたくないんだよ」

「ええええ!」


「大したことじゃないよ……書いた記事のせいで、名誉棄損だとか何だとかって言いがかりをつけられて、裁判にねじ込まれるなんてライターにはよくあることだよ」

「……」

「まあ、金がかかるのが厄介だな。解決金に80万くらいかかりそうだ」

「80万?」

「ああ、それだけの金を相手の目の前に叩きつけてやれば、向こうはぎゃふんと言って矛を引っ込めると思うんだ……でも、俺は……」


 ここで、健一は表情を「苦渋」に動かす。


「やめよう、サユリの前で、こんな無粋な話をしたくないんだよ」

「何言ってるのよ、ケンケン!」


 サユリの声が裏返った。


「80万、それだけあったらケンケンは、そいつに勝てるのね?」

「勝てるさ。でも……」


 健一は上目遣いに小百合を見た。

「俺にとっては、大金だよ」

「さゆりんに任せて!」


 サユリは声を張り上げた。


「いつもの口座に送金する! だからケンケンはガンバレ!」


 内心、腹を抱えて笑い転げている。毎回毎回、こんな背景の無い雑な作り話、ほら話で大金が口座に入金されるのだ。

 この瞬間、間違いなくこのサユリは健一にとって女神そのものだった。


「ありがとう」

 健一は、身を乗り出してテーブル越しにサユリの頭を抱きしめた。

「愛してるよ、サユリ」

「けんけん……」


 甘い味のヘドロのような声をサユリが出す。

 人目を無視した、大げさで映画の演出のような愛情表現。

 それが女の虚栄心と見栄を蜜漬けにする。

 例え男の愛情が誠でも偽りでも、この瞬間の陶酔が女にとって全てだ。


「ありがとう……会えてよかった。いや、この待ち合わせじゃなくて、出会いそのものに俺は感謝しているんだ」

「ケンケン……」

「この出会いに感謝を込めて」


 健一は、箱を取り出した。


「サユリにはどうしても会いたかった理由がこれだよ。大事なサユリに誕生日のプレゼントは、直に会って渡したかったんだ」

 サユリが黄色い声を上げ、椅子の上で尻をドスドスと跳ねさせ、足を踏み鳴らした。


「えええっ、プレゼントなの? さゆりん、うれしいいっ」


 サユリの目の前で人形を入れた箱を取り出し、テーブルの上に置く。

 50cmの人形を入れる箱を探すのは多少苦労したが、まさかコンビニの袋に入れるわけにはいかない。


「えええぇ、これがぷれぜんとぉ?」


 テーブルの上の箱に、がばっとサユリが覆いかぶさった。


「ずっと前に、雑誌で紹介した輸入雑貨店のマスターに、何か良いもの入ったら連絡をして欲しいって、頼んでおいたら……」

「うわああ、なんだろ」


 サユリが箱のガムテープをバリバリとむしり取った。

 しかし、箱から出てきたビスクドールを見た瞬間、サユリの手がピタリと止まる。


「ものすごく、レアな人形らしい」


 箱の中身をじっと見つめるサユリへ、高価な物だと思い込ませるためのセリフを、健一は畳みかけた。


「俺にはよく分からないけど、店のマスターが……」

「すっごおいぃっ」


 サユリが箱から奪い取るように、人形を取り上げた。

 うわぁ、とサユリがため息をついた。


「『ブリュ』じゃないの、これ!」

「ぶりゅ?」

「やっだぁあ、ケンってライターのくせに『ブリュ』知らないのぉ? こらっ、ダメだゾ! ちゃんとべんきょーしないとぉ」


 知らねえよ、健一に内心吐き捨てられているのを知らず、サユリは続けた。

「ブリュはねえ、フランスの人形工房なの」


 1866年から1899年まで活動があったビスクドール会社で、当時の人形は日本の市松人形の影響を受けて、子供らしい顔になり……とサユリが、役にも立たない知識を垂れ流す。


「ねえ、ほら見て、分かるでしょ、この子のドレスと帽子は、本物のシルクよ。光沢が全然違う。このレースの繊細な事、ホントお姫さまだわ……」


 うっとりとサユリが人形の髪を撫でた。


「ママンが持っているのはジュモ―だけど、さゆりんはブリュの方がスキ。この少し怒ったお顔が、高貴な女のコそのものなのよ……ねえ見て、ステキでしょ。おんなのこはね、自分に似たお人形をスキになるのよ」


 この人形、売ったら値段はどれぐらいだ、とすんでのところで健一は聞きかけた。


「すごぉい、ホントの髪の毛使ってる。ほんものの金髪だぁ」

「え?」

「ずうっとずっと昔のおにんぎょうだもん、あたりまえだよお」


 寒気がした。髪の毛は本物の人毛、つまり今は死んでいる奴の一部分ではないか。


「ねえ、あなたのおなまえ、何ていうの?」


 サユリが、人毛の古ぼけた人形に語りかける。

 子供であれば無邪気で愛らしいが、花柄とフリルの巨漢、スリーサイズは全て100cmの30童女がそれをすれば、ホラーの一種だった。

 周囲の目も、今日はいつになく刺さる。

 人形は沈黙している。


「うわあ………」


 サユリは、深いため息をついた。


「この子、何かサユリに訴えたいことがあるみたいだ。なんだかいっぱいお話したがっているよぉ」

「お話? この人形が?」

「うん、さゆりんには分かるよ、だってさゆりんはフツウの女の子とは違うの。さゆりんはね、魂が妖精さんに近いの。だからね、タダの霊感とか、そんなじゃなくて、もっといろいろなものが見えるし、精霊ともおはなしも出来るんだよ」

「……」

「ねえ、はじめまして。わたしはさゆりっていうの。さゆりんって呼んでね。あなたの名前はなんていうの?」


 人形の副産物に、厭なものを引っ張り出してしまったようだった。

 健一は、黙ってアイスコーヒーを飲んだ。


「ねえ、何かおはなししたいことあるんでしょ? 黙っていてもわかんないよ」


 サユリは執拗に人形に語りかけ続けた。


「ねえ、どうしたの? あなたのおなまえだけでも、おしえてちょうだい?」


 モノ言わぬ人形に、ひたすら話しかけていたサユリが、突然鼻をすすり始めた。

 健一はぎょっとなった。

 何故、泣く?


「この子、かわいそう……なんだか、いっぱいこわい目に遭ったんだよ、すごく怖がって怯えてる、この子の悲しい気持ちが、たくさんサユリの中に入ってくるよお」

「……」


 どういう意味だよと、気軽に聞ける空気ではなかった。

 だらだらと涙を流しながら、サユリは人形へ訴える。


「ねえ、なに? なにがあったの? もうこわいことなんか無いんだよ、だいじょうぶだから、さゆりんおねえちゃんがいるからね、ちゃんとおはなししてよ、びびあんぬ」


 びびあんぬ? 

 泣きながら命名している。健一は我知らず体を引いた。

 鼻をすすり上げる湿った音は、やがて高くなり、低くなり、オンオンという咆哮に変わる。

 高級ホテルのティールームが、1人の女の泣き声に汚染された。


「あぁうぅ、わかった、つらいきもちはもう分かったから、何なのかおしえて、びびあんぬ、さゆりんおねえちゃんにオハナシしてちょーだい!」


 サユリの顔は、涙で溶け崩れそうだった。

 涙も鼻水を拭おうとはせず、おいおいと泣き続ける。

 人形を抱きしめ、ほおずりして咆哮するサユリの姿は、誰が見ても痴話喧嘩ではないのは明白だったが、それ以上に異常で危険だった。鬼気迫るものだった。

 泣き喚くサユリを、若いウェイターが注文の品をトレイに持ち、愕然と見ている。

 客席全ての目が、関心が、サユリを、そして健一を襲う。


 正に恥辱の公開処刑だ。嘲笑と恐怖視線の矢が四方八方から突き刺さり、健一はハリネズミとなった。

 逃げ出したかった。だが、独りでここを逃げ出そうにも、コーヒー代の金が無い。

 そして、生活費が底をついていた。金がどうしても必要だ。親友が金銭トラブルに巻き込まれている。窮地に落ちた親友を救いたいというシナリオで、何としてでもサユリから金を引き出さなくてはならない。


 健一は耐えた。

 それ以外に、健一には金を稼ぐ方法は無かったからだ。



 事態は悪化した。

 人形は、売ってしまうか、捨てれば良かったと、健一は後悔した。

 毎日、サユリからの連絡が襲ってくる。

 出てくるのは、あの人形の事ばかりだった。


「ねえ、ケンケン、さゆりんどうすればいいんだろう、びびあんぬがね、何だかとってもこわがっているんだよお、それなのに、いくら聞いてもさゆりんにおしえてくれないの」

「ねえ、ケンケン、さゆりんはどうすればいいんだろ、どうすれば、びびあんぬは、さゆりんに心を開いてくれるのかなあ」


 サユリは、あの人形の『びびあんぬ』ならぬ『ヴィヴィアンヌ』の心をどうにかして開かそうとしている。

 彼女が持つ憂いを取り除くのが、特別な魂を持つ自分の使命だと思っている。

 ヴィヴィアンヌは特別な人形らしい。人形の彼女は、何だか重大な秘密と事情を抱えており、ヴィヴィアンヌは運命に導かれて、サユリの元に来たというのだ。


「うるせえ、このクソデブ! 自分の脳みそ食って糖尿で死んでしまえ!」

 そう怒鳴りたいが、出来ない。サユリは健一の金蔓に過ぎないが、その金で生活している以上、角度を変えて見ればサユリは健一の生命線である。

 サユリから離れたい、だが金蔓を手放せない。

 サユリと手を切るのなら、働かなくてはならない。

 だが健一は、生活のために働きたくなかった。


 地元の底辺校を、素行不良で中途退学。その後はバイトすら続かない、そんな人間に、やりがいのある仕事や、重要な仕事は回ってくるはずがない。

 健一は、すでに働く事に対して夢などない。労働は苦役だ。

 独りでワンルームに住んでいるが、その金は母親から出たものだった。

 健一の両親は離婚し、母親は再婚したが、義父と健一は毎晩喧嘩するほど折り合いが悪かった。高校退学がきっかけで健一は家を出た。


 母親が健一に、マンションを借りる資金や生活用品代を全て負担して、『自立支援金』というまとまった金額を寄越した。そのおかげの独り暮らしだ。

 退学以来、ずっと地元でくすぶっている。だが、いつまでもこうやっていることに、苛立ちがあった。時々、部屋の中に独りでいると、閉塞感で頭が窒息する。

 生活は、いつまで経っても変わらない。

 大学進学も、就職という機会がなかった健一には、地元にへばりついたまま、人間関係が更新されないのだ。


 中学の頃から、交友範囲は変わらない。ヤンキー時代がいつまでも続き、遊びも話題も何もかも同じだ。

 だから柴田のような男に、いつまでも従うしかない。

 大学進学で、地元から出て行った同級生を見かけたことがあった。

 中学生時代、ひどい吃音だった。それをタネにして健一は彼を散々いじめたが、その同級生が、妻らしい女と一緒に買い物袋を抱えて、子供二人を車に乗せていた。

 その時、健一は頭をかきむしりたくなるような、凶暴な劣等感に襲われた。

 高校を退学以来、変わらない自分と日常。


 いや、変わらないではなく、澱んだ沼の中にずっと浸かっている。

 パチンコとスマホゲーム、課金、コンビニ、時々風俗。

 風が吹くとしたら、サユリだ。金を引き出すために、サユリの前でライターを演じるのが、せめてもの風だった。


『ケンケンっ、ケンケンっ びびあんぬが、びびあんぬがこわいよおお』


 悲鳴の携帯がかかってきた。


『びびあんぬとさゆりん、やっとつうじあえたんだよ、びびあんぬがさゆりんの中に入って来たの、そしたらね、そしたらっ』


 お気にいりの、お笑いバラエティ番組を観ていた途中だった。

 携帯を叩き切ってやりたい。

 だが、それをすれば、後に執拗な着信と、恨みと懇願のメールの嵐だ。

「どうした?」テレビを観たまま、返事を投げた。

 あれ以来、もう人形とサユリのコンビには、ウンザリを通り越し、殺意さえも生まれ始めている。


『びびあんぬが、びびあんぬ、とってもコワイことをさゆりんに見せてくるの、ねえねえ、どうしよう、こわいよおお』


 キチガイ豚、人形を抱えて肥溜めで溺れ死にしろと、本心は言えない。


「こわいって、何が?」


 テレビの中で、どっと沸いている客が虚ろに映る。

 泣き喚くさゆりの声と鼻をすする音で、鼓膜が汚れそうだった。


『さゆりんはね、ようせ……ヒック、妖精に近いから、びびあんぬと同調しちゃうんだよう』

「……」

『きゃああああっ、びびあんぬ、やめて! もう怖いものを見せないで! さゆりんコワイよ、ケンケン、助けてえ!』


 携帯ごしに、サユリの独り演技が響く。


「ナニが見えるって?」

『人が、おとこのひとが、オンナの人殺してるの! ギャアあああっ こわい、やめてえ!』

「……」

『びびあんぬは、人殺しを見たんだよ、それをさゆりんに教えようとしているの、怖いよー、真っ赤な服着た女のヒトが、男に殺されたんだ! どうしよう、わあああああん』


 思いも寄らない言葉が、健一を貫いた。

 去来したのは、人形が家にいる間、ずっと見ていた人殺しの夢だった。

 酷く生々しく、肌に迫る夢。

 毎晩、赤い服を着た女を殺した。絞殺される間中、笑い続ける女。

 三日月形の口からはみ出す舌と、女の死の口臭までが鮮やかに蘇った。


『びびあんぬは、ひとごろしをさゆりんに教えたいんだ! きっと、犯人がつかまっていないとか、何かあるんだよ、うわああああーんっどうしようっ』


 言葉が無くなった。

 お笑いバラエティ番組が、いつのまにか終わっていた。すでに始まっているニュースが、健一の目に入った。

 行方不明、とニュースのテロップが流れ、若い女の写真が出た。

 知っている女だった。写真の赤い服が、目に突き刺さった。

 アナウンサーが口を動かしている。その後に出てきた写真に、健一は驚愕した。


『シバタ容疑者は、殺人の容疑は認めていますが、遺体はまだ見つかっておらず……警察は共犯者はいないか、今後も取り調べを続けると共に……』

 あの柴田だ。

 間違いなかった。あの新聞紙の包みが頭に浮かんだ。

 ごうっと血が、音を立てて逆流した。

 サユリが絶叫した。


『びびあんぬは、ひとごろしを見たんだ、何かをさゆりんにおしえたいんだ、でもコワイよっ見たくないよ、もうやめて! びびあんぬっ』


 柴田に、罠にかけられた気がした。

 あの新聞紙の包みは、やはり死体だったのだ。知らぬとはいえ、バラバラ死体の処理を手伝わされた自分に、吐き気さえ催した。

 そして、あの人形。あの人形は、一体何なのだ。

 サユリの神がかり的な言動は、今に始まった事ではなかった。

 自己顕示欲に現実の自分が追いつかず、それでも何とか人の注目を集めたい、自称霊感少女の妄想みたいなものと片づけていたが、サユリが見ている幻覚と、健一が見せられていた悪夢が共通している。


 サユリの妄想を切り捨てることが出来なくなった。

 人形がそうさせているのか。偶然と言い切れないほど、悪夢は細部まで似ている。

 柴田にサユリ、人形。

 健一は、息が詰まった。

 閉塞感どころではない。見えないバケモノが、口を大きく開いて自分を食おうとしている。

 柴田は黙秘している。まさか、共犯者にされやしないだろうか。巻き込まれるのはまっぴらだ。


 もう嫌だ。

 全てを捨てたい。逃げてリセットしたい。人間関係も、生活も、全て。

 渇望する健一に、チャンスが垂れ下がった。

 中学時代の同窓会だった。



「地元の奴、全員集まるんだよ。健一も来るだろ? どうせヒマだろ」


 中学時代の仲間のラインを読んだ時、うるせえ、と怒鳴ってやりたかった。

 だが、出ることにした。柴田は同じ中学の上級生だ。殺人事件の情報が、他の同級生から手に入るかも知れない。

 同窓会は、クラスの一人が経営する、近所の居酒屋で行われた。

 出席者は、当時の担任教師と合わせて一五人。

 20坪の和食居酒屋は、騒音で埋め尽くされた。


 自己紹介に、健一は、職業はライターだと名乗った。笑った奴が大勢いたが、ウソと知っている奴がいようといまいと、どうでも良い。

 担任教師の後藤は、当時は厳しかったが、50を過ぎた今は只の親父に成り下がっていた。

 生徒たちに囲まれて、焼き鳥を肴に上機嫌で酒を飲んでいる。

 健一はそれを横目で見ながら、遊び仲間の一人を捕まえ、聞いてみた。


「なあ、柴田の話、お前は知ってるか?」


 おうっ、すっっげえよなあと、仲間は目を剥いて言った。


「殺した女は、元カノのフジタリョーコだろ。殺した理由ってのが、マリファナだってさ」

「……マリファナ?」

「柴田がスガノセンパイから預かって隠していたマリファナを、あの女が柴田の留守中に家に忍び込んで、盗み吸っていたんだとさ。たまたま家に帰ったら、元カノが大事なマリファナ吸ってラリってる。それ見た柴田の奴、頭にきてレンチで殴ったとか」


 フジタリョーコなら知っていた。

 他の中学出身のヤンキー上がりで、いつも全身赤い服を着ていた、頭のネジと色彩感覚がすれた女だった。

 所有権の範囲が狂っていて、万引きの常習犯。

 身に着けている物の八割は盗品という噂だった。

 そんな女が、マリファナなんて御馳走に手を出さないはずがない。そしてマリファナを盗み吸いした恋人を殺す。あの柴田らしい動機である。お似合いのカップルだ。

 しかし、そうなると、あの新聞紙の包みの正体が生々しくなった。


 健一は気分が悪くなった。

 トイレに立ち、洗面所で顔を洗う。

 鏡の中に、首に赤い線が入ったフジタリョーコが映りそうな気がする。もう帰ろうかと、トイレから出た時だった。


「奥野くーん」


 陽気な声が背中を止めた。

 中学時代、一緒に学校の図書委員をした、菊地真理恵が立っている。

 やりたくてやったのではなく、クラスのくじ引きで決められた図書委員だった。もちろん熱意もやる気も湧き上がることなく、仕事のほとんどは真理恵に押しつけ、委員会も毎回さぼった。


「奥野君の自己紹介聞いて、すっごくびっくりした。ライターだって?」


 仕事の帰りなのか、真理恵は紺色のスーツ姿だった。


「本嫌いの図書委員が、大人になってライターって結構ウケるよね」


 真理恵がコロコロと笑う。

 スーツ姿が新鮮だった。サユリにない日常性と、普通さがまぶしい。

 二次会へ行く? と笑顔で誘われた。

 そのまぶしさに、健一は頷いていた。

 二次会で、二人はカウンターで隣り合わせに座っていた。

 真理恵は、大学進学後に出版社に入ったと話した。

 誰でも知っている、大手の出版社だった。同じ中学に通っていたとは思えない就職先に、健一は驚愕した。


 だが健一の記憶の中で、菊地真理恵は休み時間になると、いつも本を読んでいた。本を読みながら弁当を食べていた。確かに本好きだった。


「本に振り回されているの。活字好きがふるいに分けられて入社して、更に活字の奴隷となれるか、今、仕事で試されてるの」


 東京に住んでいるが、出張や仕事の都合で、たまにここに戻ってくるという。

 健一は、その場の勢いで口を開いた。


「今は、駆け出しのライターだけど、いつかは署名記事を書きたい。それから、いつかは本を出すのが夢なんだ」


 ドギュメンタリーを書きたいと、世の中の不正を暴き、人間の真実の姿を書きたいと夢を語った。

 ライターも本も、現実の健一とは縁が無い。ドギュメンタリーも、一冊も読んだこともない。だが語るうちに、自分でも本当のように思えてくる。

 しかし、真理恵の人の良さは、健一から仕事を押しつけられた図書委員の頃から、変わっていなかった。


「じゃあ、東京に来る?」


 真理恵の一言に、健一は呆けた。


「仕事柄、事務所とか付き合いがあるの。優秀なライターを欲しがっているところは多いからさ、奥村君さえ本気なら、どこか紹介するよ」


 真理恵の言葉は、健一のアルコールを一気に蒸発させた。

 目の前に横たわる、サユリと柴田という真黒い岩が吹き飛ぶ。

 夢どころか、将来の展望も見えない無職。このままずっと続き、これからも続く惰性と倦怠の沼に、希望という花が咲いた。

 真理恵が出版社の名刺をくれた。健一も、ライターの肩書が入った名刺を渡した。

 健一は、本を読まない自分でも、日本人なら誰もが知っている出版社の名刺を、食い入るように見つめた。


 例え、真理恵にとっては酔った勢いの言葉であっても、逃がさないつもりだった。何が何でも、東京での足場を作るのだ。とことん利用し、役に立ってもらう。

 二次会から三次会へ、同窓会が終わった時刻は、午前零時を過ぎていた。

 ゆらゆらゆれる酔っ払い達に混じって、真理恵は上機嫌で健一に手を振った。


「おくのくーん、東京で待ってるよぅ。一緒に仕事しよーねえ」


 真理恵から、メールが来たのは2日後である。

 再会できてうれしかったという挨拶の下に、簡単に記されていた。


『東京で仕事したいのは、本気?』


 もちろん本気だと、健一は返信した。

 引っ越しをしなくては。

 東京のどこに住もうかと、健一は目を皿のようにして、ネットの不動産情報をつぶさにチェックした。

 本腰を入れて調べて見ると、東京の家賃は、思っていた以上に厳しかった。

 このマンションよりも条件は悪いくせに、家賃は倍とられる現実に直面し、落ち込みかけて、気を取り直した。

 母親に金を無心すればよいのだ。


 真理恵とライターの仕事を引き合いに出せば、きっと東京へ行く資金を、喜んで出すに違いない。

 真面目になるのだと、健一は己に宣言した。

 東京へ行けば、人間関係は一新される。中学からの腐れ縁も切って、これから新しい自分に生まれ変わるのだ。真理恵の人脈を利用して、本当のライターになる修行をしよう。


『ケンケン、びびあんぬが怖いよう』

『ねえ、返事くれないのどうしてよ? さゆりんにきらわれてもいいの?』


 津波のように押し寄せるサユリからの連絡は、同窓会以降、全て無視で切り捨てた。

 サユリが腹を立て、絶交してくれることを期待した。だが、甘くはなかった。

 着信とメールの件数が一日200件を超えた。ひっきりなしに、着信に震える携帯を見ている内に、健一の中で恐怖心が沸き上がった。

 着信拒否の設定にした。携帯の振動が止まり、静かになった。

 これでサユリが腹を立て『ケンケン』をサイテーな男と見なして、捨ててくれることを切に祈る。サユリとのことは、人生から焼き捨ててしまうつもりだった。


 健一は吐息をついた。

 金を引き出すために、サユリとの間にセックスという道具を使わなかったのは、実に賢明で、実に幸運だった。



 ようやく、広さも家賃も折りあえる物件が見つかった。

 東京なだけあって、やはり家賃は高かった。ここより狭く、駅からも遠いし、条件は全て落ちる。だが、これは新天地の第一歩だった。

 この後どんどん昇りつめていくのだ。

 高揚感を込めて、東京の不動産屋へ内覧の予約メールを送信した。

 入れ違うように、菊地真理恵からのメールが来た。


『件名・仕事見本の依頼』


 健一が過去に書いたライターの文章や仕事を、コピーなどがあれば送って欲しいという。

 ファンファーレが轟いた。真理恵は本気で、ライター事務所に健一を紹介してくれるつもりなのだ。

 健一は、すぐさま実家へ飛んで帰った。母親に東京行きを話して、金を無心した。

 東京の住居費、当座の生活費の必要経費を聞かされた母親は、仰天し、そして健一を罵りだした。


「冗談じゃない! あんたみたいなポンコツが東京へ行ったって、何もなりゃしないよ! クズはアメリカ行こうが宇宙へ行こうが、クズ以外に何も出来やしないんだ! どうせ最後はロクでもない事に巻き込まれて、殺されてしまうのが関の山だ! それがここか、東京か、沈められる海が変わるだけだよ!」


 独り暮らしをさせて以来、スーパーのパート代のほとんどを、息子の生活費に取られている母親は怒り狂った。義父には隠しているが、貯金も健一のせいでほとんど残っていない。

 これ以上、息子を増長させていたら、こちらが破滅する。もう息子を突き放し、縁を切る以外に、経済的に助かる道はない。

 母親だけあって、健一の本質は知り抜いていた。

 意志薄弱で、そのくせ自意識過剰で享楽的。そんな息子の都会行きを許したら、間違いなく増長する。


 転落どころか、あんたは東京で犯罪者になるとすら罵る母親に、健一は真理恵からのメールを見せた。そして、大手出版社の名刺も。

 母親の態度が裏返った。


「定期預金、明日解約に行くわ」


 大手出版社、ライター、この二つが健一の将来なのだと思い込んだ母親は、鬼の形 相から天女の歓喜に変わった。資金は確約された。

 帰り道の居酒屋で健一は祝杯を上げた。

 新天地での夢が、ビールと一緒に脳に駆け巡った。住処も決まった。家賃や敷金、  礼金に生活資金、まとまった金も手に入った。仕事も真理恵からもらえる。

 東京でライターとしての生活を始めるのだ。


 ライターとしての成功する想像は、豪華マンションと、業界人やタレントとの華やかな交際の場面まで広がった。

 ここから、間違いなく出て行ける。全てが変わる。

 極彩色の将来と、甘やかな夢を肴に、健一はしたたかに酔った。

 店に出て、夜空を見上げた。透きとおった闇に、光の欠片が散乱している。

 酒で火照った顔と頭を、涼しい夜風に優しく撫でられながら、健一は歩いた。

 住処が見えた。


 自分の部屋に、明かりが灯っている。

 首をかしげたが、ただの消し忘れだ。深く考えることなく、健一は、ポケットから鍵を出しながら部屋に向かい、ドアの前に立つ。

 手にした鍵が止まった。無人の部屋に音がした。

 泥棒か? しかし、鍵はちゃんとかけて出た憶えがある。

 だが、すでにドアは開いていた。


 かかっていない鍵に、健一は狼狽した。まさか、ちゃんと鍵をかけて出たはずだ。だが現実には開いている。

 鍵はピッキングしにくいディンプル鍵だった。そう簡単に開くはずがない。

 しかし、鍵をかけた記憶は確かにあった。状況と記憶がずれている。

 たいして金目のものは無いが、今の健一にパソコンは重要なアイテムだった。これがないと、今後真理恵との仕事に影響が出る。

 不安と共に、健一はドアを開けた。

 絶句した。


 ドアの真正面の壁に沿わせ、ベッドを置いている。

 そのベッドの上に、赤く、巨大なものがあった。


「……なっ」


 健一の咽喉は、一瞬で干からびた。

 目の前にいるものを、脳みそが拒否する。

 なぜここにいるんだ。

 認めたくない、認めてはならないと、脳みそは己を脅迫するが、動かしようも、誤魔化しも出来ないのが現実である。

 名を呼ばれた。


「ケンケン」

 何故ここに、と健一は口を動かした。

 何故、ここにお前がいる? どうやって入った? 後ずさった足が踏みつけた何かを見下ろし、健一は縮み上がった。

 グッチのメタルフレームのキーホルダーだった。以前、パチンコ屋とホテルの間で紛失したと思っていた、部屋の鍵だ。

 多分、知らない間にサユリの前で落としていたのだ。問題はその後だ。それをこいつが盗っていたのか。


「ケンケン!」


 ベッドの上に、サユリが仁王立ちになっていた。

 赤いベビードール姿だった。

 透けたレースの布地から、脂肪と肉の段々がはみでて押し上げていた。肥大した胸の谷間に太腿という女の武器は、違う意味での最終兵器だ。

 その片手に、ビスクドールの「びびあんぬ」を掴んでいる

 サユリが吼えた。


「このひとごろしいいいいいいいいっ」


 咆哮は、健一の鼓膜と部屋の壁を大きく振動させた。その音声爆弾よりも、内容に健一は魂を一瞬抜かれた。

 ――ヒトゴロシ?


「びびあんぬが、このこがおしえてくれたのよ! アンタはヒトゴロシだって!」


 無表情な人形を、ぐいと突き出されて健一は後ずさりした。コンビニ弁当の食べ残しを踏んだ。

 スナック菓子が、足元で散乱した。小さな死体の眼が、健一を見て黙っている。

 思考が混乱でシェイクされた。サユリの出現、しかもなぜ下着なんだと、底知れない不吉さに健一は恐怖した。

 人形が健一をヒトゴロシと糾弾する、その意味も理解不能だ。

 ただ、破滅は理解できた。奈落が見えた。足元が揺れる。舌が咽喉に貼りついて動かない中で、健一はただひたすら、頭を横に振った。


「びびあんぬが教えてくれたわ! ケンケン、あんたは赤い服を着たオンナをコロした!この子はそれを見たのよ、だからさゆりんから逃げていたんだ!」


 サユリに掴まれた人形は、無抵抗に空に揺れ、沈黙している。


「びびあんぬは、あんたが山の中で、何か埋めているのをみたって!」


 ……柴田の顔が、そして赤い服を着たフジタリョーコが健一を貫いた。

 サユリが咆哮する。


「殺したんだね、ケンケン!」

「ちがう!」


 叫ぼうとした健一の前で、サユリの目に涙があふれだした。


「ちがうというの? じゃあ、なんでさゆりんのでんわに出てくれなかったの? びびあんぬのまえで、違うって言える? 嗚呼、なんて悲劇! びびあんぬがこわがっていたのがケンケンだなんて、さゆりんも信じたくなかったよおおっ」


 意識が遠のきかけた。だが、ベッドから飛び降りたサユリの振動に、我に返った。


「でも、さゆりんはケンケンを愛しているの! ケンケンも、さゆりんから嫌われるのがこわくて、ずっとにげていたんでしょ! だから、だからっ」


 サユリがベビードールを引き千切った。

 凶暴な裸体が、剝き出しになった。


「いっしょに地獄に堕ちるのよ! ヒトゴロシのケンケンと一緒に、タマシイを汚すことはさゆりんには出来ないけど、いっしょに肉体を汚すことなら出来る!」


 乳房と腹を上下に揺らし、サユリが突進してくる。

 共に肉体を汚す。

 その意味は脂肪と生殖器の映像と絡まり、脂肪に犯される自分が見えた。

 脳みそを引き千切るほどの嫌悪感に襲われた。


「あああああああっ」 


 怪鳥のような声で、健一は部屋から飛び出した。

 健一は走った。残っていたアルコールで、頭が割れそうだった。

 足がもつれ、心臓が潰れそうだが、恐怖から逃れるためだけに、足が駆けた。


「ちがう、ちがうちがうちがうちがうぅ」


 マンションの外に出た。街灯が照らす夜道へ、健一は逃げ込んだ。

 サユリが追ってくる。雄叫びが追いかけてくる。


「まてええええええっ」


 捕まったら終わりだった。身の破滅ではない、身の終わりだった。

 ひいぃとごろしいいいいぃと、雄叫びが響き渡った。

 ちがうちがうちがうと、健一は泣きながら走った。

 俺じゃない、俺は殺していない。

 あの人形が、一体何をサユリに見せたのか。

 そしてサユリがどう解釈したのか、あの二人はどういう状態で通じ合っているのかと、一向に分からない。理解も出来ない。


 互いの目に映るそれは、同じものか否か、どう解釈するのか、誰にも手出しできない領域だった。健一が見た悪夢と、サユリの幻影は同じものであるのかどうか、それすらも分からない。

 サユリは妖精の魂でもって、人形の言葉を聞き、健一の手の届かない領域で、あの赤いオンナの悪夢を解釈した。

 たすけてくれ。


 東京が、菊地真理恵が、将来が崩壊していく。

 アスファルトの上を駆け走る。

 疲労と酔いで足がもつれるが、原動力は恐怖だった。

 何かにつまずいた。体がアスファルトの上に叩きつけられていた。

 鈍い痛みとショックで朦朧となる。背後から振動が押し寄せる。


「ぐぁあっ」


 立ち上がろうとした背中に岩が乗った。地べたに内臓が潰されると思った時、後ろ襟ごと顔を引きずり上げられた。

 馬乗りになったサユリが、背後から人形のヴィヴィアンヌを、健一の顔に切り刻むように押しつけた。


「さあ、謝るんだあああっ」


 顔が変形するほどの力で、人形が頬に押しつけられた。涙を人形に塗りつけながら、健一は怒鳴った。


「ちがう、ころしてない!」

「うそだ、うそだぁっ」

「おれは、おれはヤツを埋めただけだあああ!」


 住宅地に響き渡った。

 健一は身をひねり、サユリを見上げた。

 段々腹と垂れ下がる乳房は、吐き気を催すほど醜悪だった。


「この腐れぶたああ!」


 サユリがたじろいだ。

 限界までに力を使って、健一は背中のサユリを振り落とした。

 ゴロンとサユリが転がった。沸騰する怒りで押し流されるまま、健一はサユリの腹にのしかかる。

 恐怖は殺意に転じた。首に手をかけた。くわっとサユリの目が見開かれた。


「俺は、ころしていないぃっ」


 夜道に響き渡る声に、あちこちの家の窓が、そろそろと開く。


「殺してない! 埋めただけだああ」


 サユリの顔が引き歪んだ。口が三日月形に吊り上がる。目には歓喜の色があった。


「……ごろじて、げんげんっ……いっじょにじごく……」


 憎悪が噴き上がる。殺さなくてはと思う。それは願望ではなく義務だった。引き千切った赤いキャミソールが、毒々しく波打つ裸体に絡んでいる。

 既視感が絡んだ。

 いつか見た悪夢が、健一の脳みそを赤く染め上げた。


「ぎゃばばばばっばっ」


 さゆりが嗤い出した。健一に握りつぶされる咽喉で、ひしゃげた空気を笑いの形にする。

 身をよじり、暴れた。笑いながら暴れる姿は、歓喜のダンスだった。


「うぅぐぐえぐええうえええ」


 健一への呪詛でもあり、断絶魔の笑いだった。

 しんでくれ、たのむ、しんでくれ。

 泣きながら、殺しながら健一は懇願した。サユリの顔が赤黒く膨れ上がり、舌がはみ出す。

 指に力を込めた。指の骨が砕けそうなほどに。

 ……パトカーのサイレンが近づく。

 健一は、泣き願いながらサユリの首を絞め続けた。

 人形が、アスファルトの上に転がっていた。

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