ふと時間が気になって、春臣はスマートフォンの画面を見た。時刻は午後六時半を過ぎたあたり。頭上の太陽は、日中よりはやわらかになった気もするけれど、未だ燦々と輝いていた。夏は日照時間が長い。前方で揺れる麦わら帽子を見ながら、自分も帽子を持ってくれば良かったと春臣は思った。


 すみれの家は棚田に田んぼを持っていた。歩いて行くには二十分ほどかかる道を、春臣とすみれはまるで通学班のようにして歩いていた。


「岡田のじいちゃんが、棚田に田んぼを持っていたでしょ。じいちゃん、去年腰を痛めちゃってね。継ぐ人もいないっていうから、うちの旦那が貰ったの」

「へえ、岡田のおじいちゃんが。大丈夫なの?」

「うん。日常生活は普通にできるくらいなんだって。でも、田んぼは手がかかるでしょ」

「そうだね」


 道中、二人はぽつぽつと離れていた頃のことを話していた。

 春臣は、高校一年の夏から二年の冬にかけてオーストラリアへ留学したこと。留学先で世界の広さを知り、海外に興味を持ったこと。商業大学を出て、今は東京の貿易会社に勤めていることを話した。


「そのうち、父さんの会社を継ぎたいと思ってるんだ」

「そっかあ。春兄は頭が良かったし、英語もペラペラだったもんね」

「まだまだ学ぶことは多いけどね。すみれさんは?」

「あたしのことなんかいいよ」

「ううん。聞かせてよ。すみれさんと、旦那さんのこと」


 我ながらなんて硬い声なのだろう。言いながら、春臣は苦い顔をした。

 すみれは立ち止まると、ゆっくりと振り返る。


「旦那と出会ったのは、大学の部活。大学なんて行くつもりなかったけど、あたし、高二の時にバドミントンで全国大会出たんだ。それで、スポーツ推薦もらえて」


 濃紺のワンピースを揺らしながら、すみれはぽつぽつと夫との出会い語り始めた。

 実家の農家を継ぐため、中学卒業後、すみれは農業高校へ進学した。本当は高校卒業後、すぐに家業を継ぐつもりだったけれど、そこでバドミントンの才能を開花させ、顧問と両親に勧められるまま大学の農学部へ進学したという。大学のバドミントン部で出会ったのが今の夫になる人物だった。その人は米農家の三男坊でもあり、すみれの家の家業を一緒に継いでくれると言ってくれたそうだ。


「いい人、なんだね」

「……うん。すごく」


 ひらめく濃紺色の隙間に白い肌がちらつく。ふわりと微笑んだすみれは本当にきれいで、春臣は眩しいものを見るかのように目を細めた。


「そうだ! 春兄、連絡先教えてよ。ずっと結婚報告したかったのに、あたし、春兄の連絡先知らなくって」


 すみれの提案に、春臣は戸惑いがちに自分のスマートフォンを見る。断り切れずに頷くと、すみれは「やったあ」と言いながらスマートフォンを取り出した。その手に光る指輪を見つけて、春臣はハッと目を見開く。

 左手の薬指を彩る銀色。華奢なデザインはすみれの細い指によく似合っている。


 ──ああ、見たくないな。


 思わず目を逸らした自分に気づいて、春臣は唇を噛んだ。

 今も昔も、自分はこうして逃げている。見たくない物から目を逸らして、見なかったふりをして。ああ、本当に、ばかやろうだ。



 棚田に着く頃、黄金色に輝いていた太陽はぼんやりと橙色に滲み始めていた。橙色に染まる青い稲に、春臣はいつかの夏の日を思い出していた。


「あ、いたいた。父ちゃん! 歳行としゆき!」


 田んぼで作業をしている影に向かってすみれが手を振る。それに気づいたのか、田んぼの影もこちらに向かって手を振り返した。影に向かって棚田を降りていくと、その影の主のかたちがはっきりと見えてくる。一人はすみれの父親で、もう一人がすみれの夫になった男だ。


 春臣は自分よりも少し背の高い男とすみれが話すのをそっと見つめた。ふと、男と目が合って軽く会釈をする。男も会釈を返してくれた。少し強面だが、精悍な顔立ちの良い男だった。


「おお、春臣! 久しぶりだな。時臣さんが全然帰って来やしねえってぼやいてたぞ!」

「あはは。父さん似なもので。お久しぶりです、おじさん」

「言うようになったじゃあねえか、お前!」


 大きな声で笑いながらバシバシと肩を叩いてくるのに、春臣はされるがまま揺さぶられていた。少し老けたが、変わらないすみれの父親に春臣は眉を下げて笑った。


 すみれの父親は談笑しているすみれとその夫を見て、春臣にいたずらっぽく笑いかける。


「見てみろよ春臣ぃ。お前がすみれを放っておいたせいで、こんな色男に取られちまったぞ」

「な、何を言ってるんですか。すみれさんは妹みたいな人なんですから」

「……そうだったな。俺ァな、春臣。お前とすみれが一緒になるもんだと、本気で思ってたんだぜ」

「僕じゃあ、農家は継げませんから。それに──傷があっても嫁の貰い手に困らないと言ったのは、おじさんですよ」


 ちらりとすみれの父親の目が春臣を見た。すみれと同じ、大きな黒目がじとりと春臣を射抜く。それに目を逸らすことなく、春臣はにこりと微笑んで返した。すみれの父親は何も言わなかったが、ひとつだけ小さくため息をついて目を伏せてくれた。


「そうだったな。おい、すみれ、トシ。お前ら先帰って、春臣に野菜持たせてやれ」

「はあい」

「だめですよ。今日、玉ねぎいただいたばかりなんですから。おいしかったです」

「玉ねぎがいいってよ。帰りに畑寄りな」

「うわあ、そうじゃないですってば!」


 春臣と父のやり取りにけらけらとすみれが笑う。

 こうなったら受け取るしかないかと苦笑したところで、すみれとその夫がこちらにやってきた。


「春兄、この人があたしの旦那。歳行って言うの。歳行、この人は春臣さん。あたしの幼馴染で、兄貴分みたいな人」

「初めまして。松尾まつお春臣です」


 にこりと笑って手を差し出すと、がっしりしたてのひらが春臣の手を握り返した。


「おう、話は聞いてる。佐竹さたけだ」

「もうちょっといい感じにあいさつできないの? 怖がられちゃうでしょ」


 無表情のまま返されるあいさつに、春臣が戸惑う前にすみれがぷりぷりと怒りだす。佐竹は面倒くさそうに「いいだろ」とすみれをあしらっていた。


「ごめんね、春兄。悪い人じゃないんだよ。ちょっと顔が怖いだけで」

「あはは。そんなことない。大丈夫だよ、すみれさん」

「じゃあ、畑行こうか。帰り道の途中だから」

「うん。よろしく」


 後始末をしてから帰ると言うすみれの父親にあいさつをして、春臣は若い夫婦に連れられるまま田んぼを後にした。


 振り返った先には橙色と紫色のグラデーションを反射して輝く棚田が広がっている。あの日と変わらない景色だ。ただ、今のすみれの隣にいるのが、自分ではないだけだ。


 春臣は夕陽に照らされる夫婦の背中を見た。並んで歩く二人の左手には、銀色の指輪が輝いている。そのようすは、この町の景色といやにかみ合っていて、春臣はまるでお前はのけ者だと言われているように感じた。事実、そうだとも思った。


 好きだった。すみれのことが、好きだった。それは彼女も同じだった。


 ──けれど、僕にはすみれのあの瞳に向き合う勇気がなかった。


 ぬるま湯に浸るような心地良い関係から抜け出すのが恐ろしくて、向き合うのを拒んだ。すみれは真っ直ぐ自分を見つめていたのに。


 すみれが振り返る。逆光で影になる表情の中、どういうわけか彼女の瞳だけがきらきら輝いて見える。

 この瞳に真正面から向き合って、彼女の傷を癒した男が、今彼女の隣にいる男なのだ。


「あのね、春兄」

「うん。どうしたの、すみれさん」

「私ね、いま、妊娠しているの」


 心臓が跳ねる。春臣はすみれの横でこちらを見ている男を見た。


「年明けには産まれるのよ。ねえ、産まれたら、連絡してもいい?」


 尋ねる声は少しだけ震えていた。縋るようにこちらを見つめてくる黒目。


 ──今度こそ、逸らすものか。


 春臣はその大きな黒目をじっと見つめて「もちろんだよ」と微笑んだ。


「連絡、待ってる。絶対に見に行くよ、すみれさん。おめでとう。本当に、おめでとう。君と歳行さんの子どもなら、きっとかわいいんだろうね」

「春兄……」

「きっと見に行くから。お祝いを持って、絶対に行くから。だから、すみれさん、君の子どもを、僕に抱かせておくれよ」


 すみれ。かわいい妹分。今度こそ、兄貴分として、君のそばに寄り添いたい。


 自分は今、きちんと笑えているのだろうか。そんな不安を抱えながら、春臣はゆらゆら揺れるすみれの瞳を見つめた。


「うん。絶対に、抱いてあげてね」


 ひどくうれしそうに微笑んで、すみれはゆっくりと頷いた。

 それから、春臣は畑で夏野菜をしこたまおすそ分けしてもらうと、若い夫婦に別れを告げた。「重てえから、家まで持って行くか」と言ってくれた佐竹をやんわりと断り、代わりに今度飲みに行こうと誘ってみる。佐竹は無表情のまま頷いてくれた。きっと、これがこの男の標準なのだろうと春臣は笑った。


 夕陽はいよいよ沈もうとしていて、空はほとんど群青色に染まっていた。手を振ってくるすみれの影に、春臣も手を振り返す。


 ──ああ、君が好きだよ、すみれさん。だからどうか、幸せに。


 意気地なしの自分には、すみれへの恋心を伝える権利なんてあるわけがない。だから、せめて、すみれの幸せだけは祈りたかった。


 群青色の空の下、春臣は青かった頃の自分を思う。


 こんな時も故郷の夕陽は美しくて、少しだけ泣いた。

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橙色の二人、群青色に一人 すが @voruvorubon

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