花火大会の終わりを告げるアナウンスを聞きながら、すみれがゆっくりと春臣を見る。その視線にすら、春臣は後ずさるほど動揺してしまう。


「春兄、帰ろ?」

「あ、う、うん……」


 返事をする声がいやに掠れていた。春臣の喉はもうカラカラだった。

 帰りのシャトルバスの中でも、ろくに会話もできないまま、春臣とすみれは中学校前のバス停に降りた。途中で買ったペットボトルのお茶を片手に、街灯がぽつぽつと照らす帰り道を歩いていく。


「──あのさ」


 ぽつりと言って、すみれが立ち止まる。一歩前に出ていた春臣はゆっくりと振り返った。


「今日の、春兄、なんか変だった……よね? あたしの勘違いなら、いいんだけど」


 おずおずといったようすで尋ねてくるすみれに、春臣は返す言葉が見つからず「そうかな」と曖昧に笑った。

 そんな春臣を見て、すみれはぎゅっと唇を噛みしめる。


 ああ、これはまずいかもしれない。本能的に思った直後、春臣はドンという衝撃に体を揺らした。自分よりも頭一つ低い位置で、ふわふわの黒髪が揺れている。濃い黄色の向日葵が街灯によって燦然と照らしつけられていた。


 ぎゅっと腰に回る細い腕。春臣は自分に抱き着くすみれを信じられないものを見るような気持ちで見つめていた。


「ねえ、はるおみ」


 聞いたこともないような、やわらかく、甘やかな声が自分の名前を呼んだ。これはいったい、誰の声だろう。すみれの顔で、すみれじゃない声を紡ぐこの人は、誰だ。


 ああ、僕の幼馴染は、どこへ行ってしまったのだろうか。妹のように思っていた少女は、いつ、どこで、そのかたちを変えてしまったのだろうか。春臣は頭を抱えてうずくまりたくなるのを必死でこらえた。


 ──怖い。


 そう思った刹那、春臣は自分に抱き着く女の体を思い切り突き飛ばす。

 走ってもいないのに息が切れていた。汗でびしょびしょに濡れたシャツが気持ち悪い。


 すみれがその大きな瞳を見開いて春臣を見つめていた。


「……ごめん、すみれさん。びっくり、して」


 取り繕うように紡いだ謝罪に、すみれは眉を下げて笑う。


「ふふ。春兄は、やっぱり、怖がりさんだね」


 ぎこちない声に、春臣は俯いて唇を噛んだ。


  ◆


 青い空を見上げながら、春臣はため息をつく。あの日、花火の下で感じた得体の知れない恐怖の正体も、大人になった今ならばわかる。


 ──僕は、少女から女性に変化していくすみれが恐ろしかったのだ。


 妹のように思っていた少女が、徐々に女の姿になっていくのを、見ていられなかった。親愛とは別の愛情を望んでいるすみれの、その真意がわからなくて怯えていた。

 春臣はくしゃりと前髪をかき上げる。空の青さがどうしようもなく目にしみた。


 あの花火大会の後、春臣はすみれに対して距離を置くようになった。春臣の素っ気ない態度に、初めのうちは戸惑いつつも今までどおりに接しようしてくれていたすみれだったが、春臣を呼ぶその声が少しずつ、けれど確実にぎこちなく強張っていくのが春臣にはわかった。春臣の受験勉強が本格的に始まったこともあり、二人の距離は少しずつ離れていった。


 ちょうどあの後、進路の最終決定をするための面談が行われた。あの頃の春臣は、家から通える普通高校か、少し遠いが留学のできるグローバル教育に特化した高校で悩んでいた。父と担任と三人で行った面談で、春臣は留学のできる高校を選んだのだった。そのことを、春臣は最後まですみれに伝えることはなかった。


 ただ、すみれから離れたいという一心だった。


 あれから、すみれはどのような人生を送ったのだろう。どんな人に出会って、どんな恋愛をして、今はどんな人と一緒にいるのだろうか。そんなことを考えて、春臣は力なく首を振った。


「ばかだなあ」


 ぽつりと呟く。本当に、今も昔も、自分はばかだと思う。



 昔ながらの民家の前に立ち、春臣は「変わらないなあ」と微笑んだ。すみれの家は彼女の曾祖父の代から立っている古民家だった。後付けであることがひと目でわかるインターホンを押すと「はあい」と女の声がする。


「回覧板です」

「はあ。今、行きます」


 少し戸惑いがちな声に、春臣はおやと首を傾げた。

 よく見れば、風よけの隅っこに回覧板と書かれた木箱が置かれている。やってしまったと春臣は頬をかいた。ここに突っ込んでおけばいいだけだったか。


 がらがらと音を立てて引き戸が開けられる。そこから現れた女に、在りし日の少女の面影を見つけて、春臣は目を見開いた。


「すみれさん……?」

「はる、にい……」


 ぱちりと長いまつ毛に縁取られた瞳が瞬く。草花のにおいを纏う風が、女の着ている紺色のワンピースを揺らした。ふわりと香る花のにおいに、春臣は眩暈を覚えた。


 すらりとしている白い手足も、ふわふわの髪の毛も、記憶の中のすみれとよく似ていた。しかし、記憶のすみれより、背も髪もずっと伸びている。その顔立ちから幼い可愛らしさはなりを潜め、凛とした美しさが際立っていた。それでも、ちらりと前髪の隙間から覗く右のこめかみに残る小さな傷跡が、この女性は確かにすみれなのだと春臣に知らしめてくる。


「や、やあ、久しぶり。これ、回覧板」

「あ、ああ。うん、ありがとう」


 差し出した回覧板を機械のような動作で受け取り、すみれは頬にかかる髪を耳にかけた。そのしぐさがなんとも色っぽくて、春臣は息をのむ。


「こっち、帰ってきてたんだね」

「うん。今日の昼過ぎくらいに着いたんだ」

「そっか。本当に……久しぶり、だね」


 曖昧に笑うことしかできない春臣に、すみれは一瞬だけ目を伏せた。しかしすぐにぱっと顔を上げ、にっこりと太陽のように笑う。


「これから、田んぼに父ちゃんと旦那を迎えに行くの。よかったら一緒に行かない? 父ちゃん、春兄に会えれば喜ぶと思うよ!」

「え、そうかな……」


 言葉を詰まらせる春臣を後目に、すみれは玄関にかけていた麦わら帽子を手に取る。彼女は流れるようなしぐさで長い髪を一つに纏め、麦わら帽子を被ると「もちろん」と頷いた。


「久しぶりに会えたんだから、少ししゃべろうよ。あと、旦那も紹介したかったんだ。──結婚したの、あたし」


 ざわっと吹いたひと際大きな風が春臣の髪を揺らす。

 じっと見つめてくる大きな黒目に、春臣は目を細めた。


「冬姉から聞いたよ。おめでとう、すみれさん」


 黒目がゆっくりと瞬きをする。


「ありがとう、春兄」


 微笑む女の声は、歌のように響いていた。

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