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ダイニングに入ると、ふわりと揚げ物のにおいがした。「いいにおいだね」と春臣が呟くと、食卓に刺身を並べていた母がこちらを向いてぱっと笑う。
「ハルが帰ってくるから、ちょっと奮発しちゃった。今朝とれたお魚を裏のおじいちゃんが捌いてくれたのよ。さ、食べて食べて」
「裏のおじいちゃん、まだそんなに元気なんだ?」
「そうよお。朝なんか毎日ラジオ体操かランニングをなさってるわ。会ったらお礼言っておきなさい」
「うん、わかった。ありがとう、母さん」
「あそこのおじい、いっつも元気よね。あ、春臣、座るついでにこれ運んで」
ひょいとカウンターキッチンから冬花が渡してきた皿の中身を見て、春臣は思わず微笑んだ。皿には春臣の好物である玉ねぎのかき揚げが山盛りになっていた。
食卓には、そうめんと玉ねぎのかき揚げ、さまざまな種類の魚の刺身が並べられている。おひたし等の入った色とりどりの小鉢がそこに追加されれば、なんとも賑やかな食卓になった。三人はそれぞれの席につくと、揃って手を合わせる。
春臣は真っ先に玉ねぎの天ぷらにかぶりついた。口の中にじゅわっと広がる玉ねぎの甘さに頬を緩ませる。油との相性は抜群だ。
にこにこしながら二個目に箸を伸ばす春臣に、冬花が「ふふ」と笑う。
「アンタ、相変わらずそれ好きねえ」
「だってうまいよ、これ」
「その玉ねぎ、すみれちゃん家のよ。朝、おすそ分けしに来てくれたの」
「すみれさんが?」
思いもよらない名前に、春臣は思わず聞き返してしまう。冬花は少し意地悪な笑み浮かべて「そうよ」と頷いた。
「すみれちゃんね、福岡の大学に出たんだけど、結婚して旦那さんと一緒にこっちに帰ってきたんだよ。実家の農家を継ぐためだって。誰かさんとは大違いだね」
冬花の皮肉に、普段の春臣であれば曖昧な苦笑で誤魔化していたのだろう。しかし、今はそれができずに、春臣はただ機械的に食事を続けていた。
──結婚。すみれが。
「へえ、そうなんだ」
春臣は内心の動揺を悟られないように、なるべく平坦な声で返した。母の隣、春臣の斜め向かいに座っている秋実が、眉を下げながらこちらを見ているのにも気づかないふりをする。
「何さ、春臣。アンタ、知らなかったの?」
意外そうに片眉を上げる冬花に、春臣はそうめんを啜りながら頷いた。
「すみれさんとは、中学校の卒業式以来会ってないんだ。連絡先も交換してないし」
「そうなんだ。仲良かったのにね」
「子どもの頃の話だよ」
そうだ。子どもの頃の話だ。半ば自分に言い聞かせるように言って、春臣はまたかき揚げをかじる。
──ああ、どうしよう。
こっそりと唇を噛んで、春臣は箸を置いた。味がしない。
「そうだ、ハル。回覧板の次の家がすみれちゃん家なの。懐かしいだろうし、あなた持って行きなさいよ。お返しに東京土産でも持って、ね。」
気遣うように言う母の声に、春臣はやっと曖昧に笑って頷いた。
◆
中学三年生の夏だった。その日は花火大会の日で、春臣とすみれは連れ立って会場である海岸へと出かけていた。
この時の春臣には、すみれと二人で出かけるということに特別な理由などはなく、ただ毎年そうしているからそうするというだけだった。なんとなく、今年も一緒に行くのだろうと思っていたし、結局そうしているのだから、春臣がそこに特別な意味を見出すことはなかった。
中学校の近くから出るシャトルバスに乗る前に、春臣とすみれは棚田を眺めに行くことにした。春臣にそのつもりはなかったけれど、すみれがそうしたいと言ったためだった。
棚田までは中学校から歩いて十五分ほどかかる。二人は一時間ほど早めに出て、夕日の映る棚田を眺めていた。まだ青い稲を揺らしながら、橙色と紫色の美しいグラデーションに染まる田んぼを、春臣もすみれも黙って見つめていた。
空に群青色が交じり始めた頃、春臣は思い出したように父から借りた腕時計を見た。いつの間にかシャトルバスの出る時間に近づいていた。
「すみれさん、そろそろ──」
バス停に行こうか。そう続けようとした言葉は、隣の少女の横顔を見てかき消えてしまう。春臣は思わず息をのんだ。
すみれはじっと棚田の景色を眺めていた。整った横顔をかろうじて差し込む橙色の光が彩り、その長いまつ毛は沈みかける夕陽をうけてきらきらと輝いている。
その日のすみれは浴衣を着ていた。夏らしい紺色の生地を、濃い色の向日葵が彩る浴衣だった。活発なすみれらしい柄だと春臣は思った。紺色の生地は白い肌が良く映える、とも。
──僕の幼馴染は、こんなにもきれいだっただろうか。
春臣はその時初めて、すみれのもつ美しさに気づいたのだった。
「春兄、なんか言った?」
ふと、すみれがこちらを振り返る。中学生になってから伸ばし始めた髪の毛が華奢な肩の上でふわりと揺れている。
「あ、いや……そろそろ、バス停に戻ろうかって言おうとしたんだ」
「もうそんな時間? うん、行こ」
くるりと踵を返したすみれの手が春臣の手を掴んだ。きゅっと握ってくる指の白さに、細さに、春臣の心臓はどくどくと早鐘を打つ。
「春兄?」
その場から動こうとしない春臣に、すみれが首を傾げる。
「なんでもないよ、すみれさん」
言いながら、春臣はそっとすみれの手を解いた。
それからの春臣は、もう花火大会どころの騒ぎではなかった。すみれのしぐさ一つ一つに注視し、動揺し、胸を痛くさせるのに忙しくて、花火など見ていられなかった。
「春兄! 見て、スターマイン! きれいだねえ」
「──っ!」
大好きなスターマインに興奮したすみれが、ぎゅっと腕に抱きついてきた時にはもう卒倒してしまいそうになったものだ。
ああ、こんなのおかしい。昨日まではこんなことなかった。すみれの白い首を見てどきどきすることも、指先が触れ合うのにびくつくことも、全然なかったのに。
春臣が何よりもうろたえたのは、すみれの一挙手一投足にいちいち反応してしまう自分自身だった。すみれの微笑みにぎゅうっと締めつけられる心臓も、すみれが近づくたびにその花のようなにおいを嗅ぎ取ってしまう鼻も、すみれが触れるたびに過剰に跳ねる体も、全部が自分のものではないようだった。
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