05.呼吸
気付けば俺は、浜辺で海水を吐いていた。肺も喉も、身体も頭も全部が痛い。それでも咳き込んで、海水を吐き出して、酸素を取り入れる。
濡れた服は肌に張りつくだけではなく、重さもあって、気持ちが悪かった。
俺が落ち着いてきたところで、背後で「きしきし」という声が聞こえた。
それは笑い声だった。奇妙な笑い声で、まるで動物の鳴き声にも思えた。しかし、よく聞きなれた声でもあった。
振り返れば、岩場に魚の下半身を持つ人間に似た何かがいて、こちらを見ていた。俺がよく見る間もなく、彼女はさっと海に潜っていなくなってしまった。
そこでようやく、俺は理解する。
俺はあいつに、からかわれていたのだ。
まだそこに行くべきではない、と。
あるいは、あそこはそんな場所ではない、と。
俺が手を伸ばしたのは光で、あんなにも苦しかったじゃないか。
あそこで待っている人間も、優しさもなかったじゃないか。
立ち上がり、深呼吸をして海を見据える。
俺は呼吸をしていた。俺は生きていた。
海は濁っていて、空も重々しく曇ったままだった。
それでも俺は世界に立って、一人、生きていた。
あいつはそれを、思い出させてくれたのだ。
* * *
「釣りか? あそこじゃなかなか釣れないっていうのに、よく行くなぁ……」
海に向かう道中、漁村に住まわせてくれた男に言われた。
「そういえば、最近この海にまた人魚が出るようになったらしいんだ。あっ、お前は知らないかな、この海には以前、人魚がいてな。そいつは貴族に捕まったんだけど……とにかく、また人魚が出るようになったんだ。捕まえたらかなりの額で貴族に売れるぞ!」
ひとまず俺は笑顔を作っておいた。
浜辺にたどり着くと、いつも通り人の姿はなかった。ここは魚がなかなかいない場所のため、皆別の浜辺に行くのだ。しかし俺は、小舟を出して、海上で糸を垂らす。
やはり、思うようにひっかからなかった。釣れる時は釣れるのだが。
ぼんやりとしていると、大きな波もないのに、不意に小舟が傾いた。
きしゃあ、と声がする。あいつだ。
「よお」
俺が振り返れば、小舟の縁に、海から少女が身を乗り出していた。とはいっても人間ではない、淡い青色や桃色、黄色に輝く魚の下半身を持つ人魚である。白い肌の身体には鰭のようなものがいくつかある。指には長い爪。髪は長く黒く艶やかだが、顔を見れば頬に鰓孔があった。巨大な瞳は七色だ。人間の目とはまた違う。
いつもこいつを見て思うのだが、貴族達はこんな奴の肉を食おうなんて、よく思ったものである。
人魚はきしゃきしゃと声を発しながら、尾鰭で海を叩く。
「釣れねぇよ。お前の仕業か?」
返せば人魚はまたきしゃきしゃと声を上げて笑った。どうやらこいつは、人間の言葉を発せはしないものの、理解はできるらしい。
と、人魚はきしゃー、と鳴いて、小舟に乗り込むとしてくる。古い小舟は大きく揺れる。
「おい、それで一昨日ひっくり返したのはどこのどいつだ」
嗜めれば人魚は小舟に乗り込むのを諦めた。
俺は溜息を吐いて、釣りを続ける。
「このまま釣れなきゃ飯はなしだ……飢え死にだな」
ただのぼやきだったものの、人魚は首を傾げれば、海の中へ潜っていってしまった。
間もなくして、海から空へ、何かが跳ね上がる。ぼすん、と小舟に落ちる。
魚だった。一匹だけではない、次々に跳ね上げられ、小舟に落ちてくる。
「そんなに心配するなよ、そう簡単に死ぬもんじゃないんだから」
これでは多すぎる。魚がまだ生きているのを確認して、数匹を海に戻す。
人魚はと言えば、片手で魚を持って「きしゃ?」と首を傾げていた。
結局その日は釣れず、人魚が打ち上げた魚を持って帰ることにした。
浜辺に戻って振り返れば、尾鰭が海上で揺れていた。俺も軽く手を振る。
俺はもう迷うことなく、まっすぐに帰っていった。
【人魚の鱗 終】
人魚の鱗 ひゐ(宵々屋) @yoiyoiya
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます