04.本当の海
エジリオ海は思った以上に遠かった。
最果てであるはずの駅で列車を降りた先、歩いて進むこともあり、乗合馬車を使うこともあり、夜になれば安い宿を借りる。持っている金は少なく、しかし目的地に着いた時にほぼ尽きたのだから、ちょうどよかった、と言っていいだろう。
上り坂を進んで、ようやく海が見えてきた。きらきらと輝くような海ではなかった。青色の泥水を思わせた。漁村も見えるものの、寂れた様子がここまで感じられる。
しかし穏やかな場所に違いなかった。
「ここにはもう人魚はいないよ、あんたも人魚を見に来たんだろ?」
海に向かう途中、漁村の漁師に言われた。俺は頭を横に振る。
「海を、見に来たんだ」
「そうか。桟橋はぼろいから気をつけろよ。もし海に落ちたのなら気をつけろ、この海には、恐ろしいほど深い穴があるんだ」
適当に進んでようやく浜辺にたどり着く。波の音だけが眠りを誘うように聞こえていた。人の姿も何もない。
俺はあの小瓶を取り出して、空と海に透かして見る。重たい色をした海に対して、空も重々しく曇っていた。それでも鱗はまるでシャボン玉みたいに輝いて、小瓶の中で揺れていた。
固いコルクを抜く。これで、鱗は瓶の外に出られるだろう。
俺は果たしてこれが本当に人魚の鱗なのか、そうだったとしても海に還せば本当に戻るのか、そんなことを疑うこともなく、あっさりと小瓶を海に放り投げた。
ぽちゃん、と音が聞こえた。さざ波にすぐにその音は消える。
何も起きなかった。
しばらく待っても、何も起きなかった。
波の音に、いよいよ俺は強い眠気を覚え始める。俺は再び、どうしたらいいのかわからなくなった。やることはやったのだ。ここから先は、どうしたらいいのだろうか。
仕方なく、ふらふらと踵を返そうとした時に。
笑い声が聞こえたのだ。夢の中で何回も聞いた、あの笑い声が。
とっさに振り返る。海は相変わらず濁って見えた。
しかしその中に、あの輝きが見えた。輝きは魚の下半身の形をしていて、海上でゆらりと揺れて海の中へ消えていく。輝きの残像が、確かにそこにあった。
気付けば俺は、海に歩き出していた。靴が海水で濡れる。ズボンも濡れて重くなる。それでも進んで腰まで海に入って、歩くのが難しくなれば泳いで進む。
海は思ったよりも冷たく、豊かでも美しくもなかった。ひどく濁って何も見えない。生き物の気配も感じられない。
人魚の輝きはあっという間に消えてしまった。一度俺は海上に頭を出してみる。すると、まるで手を振るかのように、先の海上で尾鰭が揺れていた。
俺は再び泳ぎ出した。何度も人魚を見失ったが、その度に人魚はまるで手招くように尾鰭を見せてくれた。
ところがついに、完全に見失ってしまった。大分泳いだところだった。どこを見てもあの輝きはない。海の上にも、中にも。
代わりに、海の中で、闇が口を開けていた。
大穴。闇が深くまで続いている。
夢で見たものと、全く同じものだ。
人魚を見失って不安を覚えていたものの、どこまでも続く闇を見て俺は安堵する。
ああ、ここだ。
ここに行けば、俺の旅は終わるのだ。
ここは還る場所なのだから。
俺は闇へと泳ぎだした。
俺はきっと、死に損なったのだ。だから。
沈んでいく。沈んでいく。そこは優しくも温かくもないけれども。
しかしどんなに泳いでも、どんなに進んでも、どんなに手を伸ばしても。
俺は闇に、触れることができなかった。
血を吐くように吐き出したのは空気だった。冷たい海水が、身体の中に流れ込んでくる。
とたんに俺は苦しくなった。否、苦しさを思い出した。
自然と手を伸ばしたのは、闇ではなく光。どうしてだろうか。
だがもう間に合わない。
――美しい輝きが、どこからともなく、流れ星のように駆けてきた。俺の身体を抱きしめれば、光の方へと泳いでいく。
人魚は意外にも、温もりを持っていた。
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