第6話
翌日の帰り道の中央道、離れゆく富士山が名残惜しくて談合坂SAに寄ってみた。車から出た途端、暖斗は顔をしかめた。
「犬、多くない?」
言われて見回すと、確かにリードを繋いだ犬や犬を抱きながら歩く人がちらほらと見えた。まだまだ富士山に近いと思っていたが、談合坂は展望台に登らないと富士山は見えないという。そこに向かう途中、大きなドッグランがあった。犬が多いわけである。
少しだけ階段を上がって着いた展望台からは、八ヶ岳やアルプスに紛れて富士山が見えた。
「やっぱり近くで見る富士山がすごかったな」
談合坂から見る富士山も十分綺麗だったが、間近で圧倒された後なので物足りなさを感じたのも事実である。
「いいよ、また見に行こう」
大輔の提案に、暖斗は白い歯を見せて笑った。頬にえくぼができる。その笑顔で、本当に富士山を見に来てよかったと大輔は思うのだった。
そろそろ帰ろうと、展望台の階段を降り、二人並んでドッグランの脇を歩いている時だった。
大輔は目の前の出来事に、大きく目を見開き、息を呑んだ。
──こんな偶然があるだろうか。
大輔は身体中の血液が一気に無くなるかのような、冷えとめまいを覚えた。唇が、手が、足が震える。
大輔の視線の先に、愛がいた。
真っ白なふわふわした毛の子犬を抱き、隣の男と楽しそうに話しながら歩いてくる愛がいた。
明るい茶色の髪をして、ひげを生やした三十手前くらいの男は、愛よりも頭一つ分背が高く、愛の腰に手を回して歩いていた。
──あんな男が。
四十才の自分。背は低く、後退が始まった前髪で額の目立つ自分。なにもかもが自分にはないものだった。
結婚生活を送っている間は、自分に離婚の話を微塵もせず、面倒とばかりに何も言わずに消えた愛。
生まれた時から「はーちゃん大好き」と言い続け、写真をスマホの待受にしたり、Hのイニシャルネックレスまで身に付けていたのに、本当に好きな人ができたから仕方ないと、その暖斗を置いて出ていった愛。
出た途端、暖斗の苦手な犬を飼い出した愛。
言いたいことは沢山あった。身体の奥からせり上げてくるそれらの気持ちに押されるように、大輔は一歩踏み出す。
まだ名残惜しそうに斜め後ろの山々を見ながら歩いていた隣の暖斗に、顔を覆うように大輔は勢いよく抱きついた。
「な……っ!?」
不意を食らった暖斗は驚き、戸惑い、身体をよじらせて大輔から離れようとした。それでも大輔は、もう自分よりも数センチ背の高い息子の頭を押さえ込むように、きつくきつく抱き締めた。
本当はこの場で、自分でしたことの罪の重さを愛に怒鳴ってやりたかった。責任など何も感じていないような隣の男を、思い切り殴り飛ばしてやりたかった。
だけどそれ以上に暖斗に、愛と男の姿を見せたくなかった。
「なになになにっ?!」
突然強く抱き締めてきた大輔の意図が全く分からず、暖斗は大輔を引き離そうと腕をつかんでくる。大輔はそれに抗い、必死で暖斗の頭を自分に押し付けるように強く強く抱き締めた。
絶対暖斗には、母親の、自分を置いて出ていった母親の、裏切りの姿を見せたくない!
「暖斗……パパは絶対お前を守るからな!」
「はあっ!? なんだよ突然! どうしたんだよっ?!」
急に熱い言葉をかけられても混乱するだけなのか、暖斗は戸惑い、更に大輔の手を振りほどこうとする。背丈だけではなく、もうきっと力も敵わない。それでも大輔は歯を食い縛り、必死になって暖斗を押さえ込んだ。
これ以上暖斗を悲しませたくない! 絶対に!!
もしかしてこれは、やっぱり現実に蓋をして逃げているだけなのかもしれない。本当はどんなにつらくても、向き合うべきなのかもしれない。
だけど、俺は暖斗を守る。俺のもとにいるうちは、もう傷つけはしない。悲しい思いはさせない。
今まで気がつかなくて申し訳なかった。
愛を想う一方で、その想い方のあまりこんな結果になって本当に悪かった。
情けない、恥ずかしい父親で悪かった。
だけどこれからは違う!
暖斗のことを、全力で守るんだ!
やっぱり身体も大きい十五才の暖斗は、もう大輔よりも随分力が強いようだ。力を込めて歯を食い縛るせいか、大輔の目の端から涙がこぼれてきた。
「ちょっと、パパっ?!」
押さえつける大輔の手を振り払うように、暖斗は今度は大きく首を振った。暖斗の力強さに、弾かれるように大輔の手はずり下がった。
──抵抗していた、暖斗の動きが止まった。
その間は、三秒だったか、三十秒だったか。
ひどく短くも、ひどく長くも思えた。
「はる……」
大輔が声をかけた途端、背中に力強く暖斗の腕を感じた。今度は暖斗が大輔を、強く抱き締めてきたのだと分かった。
「……パパ、ありがとう。ぼくの味方でいてくれてありがとう」
十五の、自分より図体のでかい息子からの抱擁に大輔の顔は一瞬にして崩れた。大粒の涙が目から溢れてくる。途端に喉は大きく震え始め、しゃっくりをあげる。
愛がいなくなり、つらかったのに泣けなかった。何故か涙は目からこぼれ落ちてこなかった。
それが今、涙は止めどなくあふれでてきた。大輔の意思では全く止められなくなっていた。
愛を許さない。
話し合うことなく自分を捨てた愛を許さない。
一方的に暖斗を置いて出ていった愛を許しはしない。
絶対に。
──だけど。
この世に暖斗を生み出し、ここまで育ててくれたことは感謝しよう。
俺の手元に残してくれたことには感謝しよう。
これから先、この出来事が彼を苦しめ、心が折れることもあるかもしれない。
道を逸れることもあるかもしれない。
俺に反抗的な態度を取ることもあるだろう。
それでも俺は暖斗を守り続ける。
いつか自分の手を離れていくその日まで、全力で守り続ける。
愛のことは許しはしない。
だけど、感謝はしよう。
暖斗と二人、どれくらい顔を寄せあって抱き合っていただろうか。まだ少し震えが残ってる声で暖斗が言った。
「パパ、デカい男二人が抱き合ってるのなんて変だよ。やっぱ気持ち悪くない?」
「いいだろ、親子なんだから」
変と言いつつ、暖斗は離れようとはしなかった。
頬を寄せたままで話すから、暖斗の息が時折かかる。頬が暖斗の少し生え始めたヒゲに触れ、くすぐったかった。
「親子に見えるかなあ。似てるかなあ」
暖斗はくっきりとした大きな瞳が目立つ、愛そっくりの顔立ちだった。背だってこれからもっと伸びるだろう。対して大輔は、少し垂れたつぶらな瞳で、背も低かった。それでも、暖斗と大輔は親子だ。間違いなく親子なのだ。
「一緒にいれば親子に見えるさ。当たり前だろ」
気がつくと日は落ち始め、辺りは夕陽が影を長く落としていた。身体を離し、暖斗を見上げる。涙でぐちゃぐちゃになった顔は笑いであふれていた。頬にえくぼができる。これは大輔の頬にもできるものだ。
暖斗は大きな目を細め、白い歯を見せながら言った。
「パパに似てるなら、髪の毛に気を付けないとなあ」
そう言って、自分のおでこに手を当てる。大輔は上を向き、手を叩いて大きく笑い声をあげた。
二人旅に誓おう 塩野ぱん @SHIOPAN_XQ3664G
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