第5話
「あのさ、俺一応受験生なんだよね。中三の十二月にサボりってどうなの」
「まあ堅いこと言うなよ」
大輔は助手席の暖斗をちらりと見て微笑んだ。外は真っ青に晴れ渡った冬の空。遠くには秩父や奥多摩の山々もはっきりと見え、まさにドライブ日和である。
昨日は泣き疲れた暖斗をリビングのソファに寝かせ、大輔も片づけたのちにソファの下で寝た。同じ部屋で隣り合って寝るなど本当に久しぶりのことだった。
目覚めて昨夜の出来事を思い浮かべたのか、腫れあがったまぶたで照れたように薄く笑う暖斗に、大輔はいつも通りの朝食を出して言ったのだ。
「旅行にでも行こうか」
「は?」
昨日の今日で、木曜で、しかも受験を控えた大事な時期でもある。当然暖斗は眉をハの字にして、あきれ果てたような声を出す。大輔はそれを無視し、学校と会社に電話を入れた。相手の状況と気持ちを一番に尊重する大輔には、あり得ない強引さであった。かくしてビリビリに破けたカーテンと、傷だらけの床をそのままに、突発的な男二人旅が始まったのである。
車は中央道を西へと走り抜ける。紅葉シーズンも終え、年末にはまだ時間のある十二月初旬、道は空いていた。二人を乗せたミニバンは軽快に走っていく。
「どこ行くんだよ」
相変わらず父親の真意が見えない暖斗は、警戒と不満がないまぜになったように口を尖らせる。大輔はそれを横目で見て、思わず笑みをこぼす。
「富士山見たいんだよ」
「はあ!? 家からでも見えるじゃん」
埼玉との境に近い練馬にある家からも、富士山は十分見える。突然何を言い出すのだと、暖斗は更に眉間に皺を寄せた。
「そばで見たいんだよ。本当はずっと見てみたかったんだけど、愛は富士山よりディズニーって言うから行けなかったんだ」
大輔の言葉に、暖斗は大きく目を見開く。しかしすぐに目を細めて、ふんと鼻で笑った。暖斗の前で『愛』と呼ぶのは初めてだった。
鼻で笑ったきり、暖斗は横を向いて車窓からの景色を眺めていた。時折ガラスに映る顔は、なんだか微笑んでいるようにも見えた。
「ねえ、車買い換えようよ」
唐突な暖斗の提案。大輔は口の右端を上げてニヤリと笑みを浮かべる。
「何にする?」
「スープラかロードスター!」
勢いよくツーシーターの車種を口にする暖斗に、大輔は思わず声を上げて笑う。
乗ってる車は数年前に買った、七人乗りのセレナだった。別に七人乗せるためではなく、地元の茨城が大好きだった愛のために、頻繁にこれで帰省しようとゆったり乗れるミニバンにしたのだった。
もう茨城に頻繁に帰る必要はない。自分たち二人以外に誰かを乗せる必要もない。
「じゃあ家も引っ越すか」
大輔も負けじと提案する。昨日の騒ぎで床も壁も傷ついてしまって、査定は大幅に下がるだろうが。愛はもう戻ってこない。愛が戻るための家は必要ない。
「じゃあリビングと、もう一つ部屋があるアパートでいいよ」
暖斗の提案に、大輔は目線を前にしたまま目をしばたたかせた。中央道は小仏トンネルを越え、カーブの多い箇所にさしかかっている。
「それじゃあ、暖斗と同じ部屋に寝ることになるけど」
「だって広い家ならその分お金かかるだろ」
殊勝なことを言う。
「でも自分の部屋がないだろ。お前えっちな動画はどこで見るんだよ」
「……パパでもそんなこと言うんだ」
大輔の今まで聞いたことのない類のギャグに、暖斗は上を向き手を叩いて大笑いした。
1LDKに男二人では息が詰まりそうだが、昨夜同じ部屋で隣り合って寝て、少し落ち着いたのも事実だ。ひげも生えて来たし、脂ぎってきて、自分よりも背は高くなり、もう『むさい』と言ってもいいような息子。だがやっぱりまだまだ可愛い息子だと、昨夜その寝顔を見て改めて思ったものだった。
とはいえ、さすがに二人の生活が慣れてきた頃、同じ部屋なんて嫌だよ、パパはリビングで寝ろよと言われても困る。
「やっぱり各自部屋は必要だ。パパだってえっちなのは自分の部屋で見たい」
大輔のジョークに、暖斗は再び手を叩いて爆笑した。
──目の前で見る富士は雄大だった。
独立峰で広い山麓を持つ、眼前に迫る佇まい。青にも透明にも見える山肌は近くで見るとごつごつしており、頂に雪を被るその姿は、誰をも惹きつける一方で、誰も寄せ付けないような孤高の美しさがあった。
河口湖畔に車を止めて外へ飛び出した二人は、その眺めに息を呑んだ。言葉も出ないままぼうっと眺め続けていた。
東京よりもずっと空気は冴えざえとして、耳も鼻先も痛いほどに冷えきっていったが、二人は立ち尽くしていた。時折真っ白な息が口から漏れるだけで、言葉は何もなかった。
目についた旅館に飛び込み、一部屋取ってもらった。露天風呂自慢の宿で、風呂から富士山が目の前に見えると聞き、早速二人で浸かっていた。頂きに夕陽がかかり、さっきまで透き通るように青かった富士山は紅色に染められ、また違った表情を見せている。自身の頬も夕陽に照らされた暖斗がポツリと言った。
「来てよかったな」
「学校サボったけど?」
大輔は横目で隣の暖斗を見ながら、口を横に広げてニヤリと微笑む。
「中三の十二月に学校サボって旅行に連れていく父親、息子を置いて若い男に走る母親……頭おかしいわ、二人とも」
暖斗のぼやきに大輔は声を上げて笑った。露天風呂には誰もおらず、二人の貸し切り状態だった。
暖斗の顔を改めてみると頬はこけ、湯船から出ている肩のラインが以前より薄くなっているのが分かった。
「……痩せたな」
大輔の言葉に富士山を見ていた暖斗は、チラリと視線を寄越し、鼻から大きく息を出した。
「当たり前だろ。こんな状況で」
夕暮れのせいか、影が頬のくぼみを強調する。以前は少し太っていると言えるくらい、頬は膨らみ身体のラインも丸みを帯びていた。
「……って言いたいけど、半分は食事のせいだな」
「えっ!?」
食事のせいと言われて大輔は驚き、頭の上のタオルを落としそうになる。色々旬の野菜やタンパク質を取り入れるよう、料理サイトを見て作っていたが成長期の身体には栄養不足だっただろうか。
すまんなと詫びる大輔に、暖斗は目を細め頬を膨らませた。
「なんで謝るんだよ、逆だよ逆!」
暖斗の言葉の意味が分からず、大輔は目をしばたたかせた。
「パパが遅い時、あの人はご飯作んなかったの! 俺に千円握らせて『コンビニで好きなもの買ってきてね』って。自分は飲んで食べると太るからって、ご飯は食べなかったし。それか最近は飲みに出ることが多かったし!」
「え……なんだそれ」
初めて聞く話である。大輔は口をあんぐりと開けて顔を歪ませた。
「好きなものって言われると、カツ丼とかカルボナーラとか、あとカップ焼きそば。それにコーラとお菓子買ってさ。そうするとあの人褒めてくれるんだ。買い物上手ねって。おつりはお小遣いにしていいわよ、だけどその代わりこのことは二人の秘密ねって。小四の頃からかな。最初は単純に褒められて嬉しかったし、それにあの人は夕飯食べてないから申し訳ない気もして……まあ結局、その分塩舐めながら酒飲んでたんだけどさ」
「……」
六年もそんなことが続いていたのに、全く気がつかなかったとは。
確かに朝ゴミを出すときに、プラ容器に目が行くことはあった。だけど料理が苦手で、仕事をしている愛は惣菜を出してるからだと思い込んでいたのだ。
「さすがに友達の家の夕飯の話を聞いて、最近はおかしいなと思い始めたけど。だけどお菓子もお小遣いも欲しかったし、今更パパにチクることも出来ないよなって」
「……すまなかった」
大輔は勢いよく、水面ギリギリまで頭を下げた。白いタオルが頭から滑り落ち、温泉に浮かんだ。
「だから別にやつれただけじゃなくて……」
「──そうじゃなくて、全然気がつかなくて」
頭を下げたまま、暖斗の言葉を遮る。少しの沈黙のあと、ため息が頭の上で聞こえた。大輔は顔を上げる。
そこには泣きそうな、でも笑ってるような、眉と目尻を下げて口角だけを上げている暖斗がいた。
「しょうがないよ、パパ、あの人のこと信じてたもんな。あの人が好きだったから、好きなようにさせてあげたくて、だから裏切ってるなんて思わなかったよな」
大輔の顔の筋肉が、自ら意思を持ったかのようにぐにゃりと下がるのを感じた。口角も眉も下がり、視界が狭くなって揺れてきた。
そうだ、信じていたのだ。
そして好きだった。最初に見たあの日からずっと。喜ぶ愛が大好きで、好きだから喜ばせたくて、愛が求めるようにした。
好きだから、信じていたのだ。
愛が求めることを自分はしているから、決して自分を裏切ることなどしないと──
「ぼくだって!」
大きな水音をさせて、暖斗が勢いよくお湯の中に顔を突っ込んだ。
「おいっ」
誰もいないとはいえ、突然の息子のマナー違反に大輔は慌てて声をかける。
暖斗は温泉から勢いよく顔を振り上げた。髪からほとばしるお湯が空中に弧を描いた。
「バーカ!!」
正面の富士山に向かって叫ぶにはあまりに品のない言葉だったが、大輔は今度はなにも言えなかった。
「……バカだよ、ほんっとに」
暖斗は吐き捨てるように呟き、大輔の方を向く。顔は温泉で濡れ、顎から前髪から雫を滴らせていた。
「あの人もぼくもパパも」
「俺もバカか」
力なく笑う大輔に、暖斗は頷いた。
「パパはあの人の言うこと、聞きすぎたんだよ。見ていてちょっと恥ずかしかった」
「……恥ずかしい」
バカの次に恥ずかしいと息子に言われ、大輔は胸に突き刺さるものを覚える。
「どうしてなんでも聞いてあげるんだろう、許してあげるんだろう。酒飲んでばっかでも、朝全然起きてこなくても、何で怒らないんだろう。情けないなってずっと思ってた」
大輔こそお湯に顔を突っ込みたくなってきた。
恥ずかしくて情けない父親か。
こんな男だから、愛も若い男に逃げたのか。
暖斗に頻繁に千円握らせてコンビニに行かせていたなどと知ったら、ガツンと言えただろうか。
いや、そもそも知ろうとしなかった。なんとなく違和感を覚えても、愛がそんなことするはずないと、自分の愛する愛はそんなことするはずないと、勝手に思い込んで現実から逃げていたんじゃないだろうか。愛をそしりたくないばかりに、気づこうともしなかったのだ。暖斗のことなど置き去りにして。
確かに情けない父親だ。夫としても父親としても不完全で。
「あのさ、結婚ってお互い好きで結婚するんだろ。夫婦って対等じゃないのかよ! 何が怖かったんだよ、何に遠慮してたんだよ、パパは!!」
直球過ぎる思春期の放つ青臭い正論に、情けないと言われ落ち込んでいる大輔は更に口ごもる。
「いや、だって、愛は本当に美人で。背が低くて大してパッとしない俺と結婚してくれたのに、東京まで着いてきてくれて、申し訳なくて」
「それでも! あの人は、パパを選んだんだろ?! 自信持ったら良かったんだよ! 一方的に好き放題させるのが愛じゃないだろ、夫婦じゃないだろ! だからあの人いなくなったんだよ! 良かれと思ってるんだろうけど、何しても許されるなんてそんな関係おかしいじゃんかっ!!」
──ああそうか、そういうことか。
大輔はこの前、工業高校に行きたいと暖斗が言い出した時に言われた『だから捨てられたんだよ』の答えが今、心にすとんと入っていくのを感じた。
いつまでも子どもだと思っていた暖斗。いつの間にか随分と大人になっていた。もうあと数年で、愛とは違った形で、やっぱり手の届かないところに行くのだろう。
大輔は空を見上げた。空には細く長い月が、紫色に染まり始めた空に浮かんでいた。
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