第3話
「突如妻が家を出ていきまして、中三の息子と二人暮らしになりました。まだまだ親が必要な時期ですし、四ヶ月後には受験も控えておりますので、基本残業はなし、終わらない場合は家でテレワークで対応させていただきます。以上」
明けて月曜日。
部署の三十人で行う朝礼で、業務連絡のように大輔は言う。挙手をして話し出した大輔を、一斉に見つめた六十の目が、話が進むにつれてどんどん驚愕の色に変わっていくのが分かった。そして皆口をあんぐりと開けているなか、大輔は勝手に朝礼を切り上げて礼をする。それを見た社員達は我に返ったように慌てて頭を下げて、各々の席に戻っていった。
大輔も自分の営業部の次長席につこうとしたところで、勢いよく腕を引っ張られた。
「ねえっ!!」
あまりに勢いがよすぎて、背中を反らせながら振り返る。そこには同期の前野が眉をしかめ、怒ったような顔をしてした。
「奥さん出ていったってどういうこと!? 息子くんは?」
「……さっき言った通りだけど」
いつものことだが、前野の勢いに押され責められたような気持ちになり、大輔は頭を軽く下げる。
「えっなんでなんで? 奥さんすっごい美人だったよね、息子くんまで置いていくなんて……」
そんなのこっちが聞きたいよと大輔が言うと、あー奥さん美人だもんねと、前野は『美人』を繰り返した。
女の勘だろうか。口には出してこないが、前野の予想は多分当たっている。
「まあうちも息子いるしさ、困った時は声かけてよ。お互い様だしさ」
「ありがとう」
こういう時、深く詮索したりはしない前野のサッパリした性格は有難かった。同期で隣の特需課のバリバリ働く前野は、三才の息子がいるママでもある。育児と両立させている点では、色々教わることもあるだろう。大輔は、休日はともかく平日は深夜帰りが多くて、朝以外は暖斗のことを愛に任せきりだった。育児と仕事を両立させているとは言いがたかった。
愛と出会ったのは、東京に就職して間もなくの頃。帰省して、地元の茨城でみんなで集まった時だった。友達の友達だか、友達の友達の友達だったかで、愛がいたのだ。当時二十二才でフリーターだった愛は、上下三本線の入ったジャージにキティちゃんの健康サンダル姿で来ていた。地元の定番みたいな格好だが、とにかく美人であった。
「今度、東京に遊びにおいでよ」
当時の大輔は東京に就職したものの、その垢抜けなさがコンプレックスだった。それなのにカッコつけて東京風を吹かせると、愛は目を輝かせて言ったものだ。
「いいな、東京! ディズニーランド行きたい!」
ディズニーは千葉だが、愛は大輔に会いに来た。レンタカーでディズニーに行き、渋谷で服をプレゼントし、お台場に連れていき夜景を見せて、また東京に来たらディズニー……それを半年間繰り返していたら、愛は妊娠した。二人は東京で結婚した。
憧れのディズニーには近くなったが、茨城を離れた愛は徐々に不安定になっていった。地元の友だちにしょっちゅう長電話やメールをしていたが、それでも異郷の地での生活は孤独だったようだ。大輔も当時は残業をしないようにし、週末も家で過ごしていたけれど、母乳をあげなくなった途端、愛は毎晩缶ビールを数本空けるようになった。
暖斗が幼稚園に行き、そこでママ友が沢山出来て東京での生活が孤独ではなくなったとホッとしたのもつかの間、小学生になった暖斗がある日思いつめたように大輔に打ち明けてきた。
「あのね、学校から帰ると、ママがいつもお友達のママたちとお酒飲んでて嫌なの」
暖斗が学校に行ってる間に、愛はママ友を家に招き入れ、毎日のように飲酒していたのである。愛は寂しいから、東京に連れてきてしまったのは自分だからと、今まで家事ができていなくても、長電話を沢山しても、致し方ないと何も言いはしなかった。
だがさすがに昼間から飲酒を始め、夜中まで飲み続ける生活は認めるわけにはいかなかった。
「仕事でもしたらどうだ」
バイトでもパートでも、酒の絡まない仕事で、社会に貢献したらもっと健全な生活が送れると思って勧めたが、高校卒業後に少し働いたきりだった愛は首を縦には振らなかった。そこで給料を愛の好きなように使っていいと言ったら、数日後に新聞の求人広告を見ていた。そこで面接に行った小さな会社でパートとして採用され、事務を始めた。
給料を手にし、社会で必要とされるようになった愛はやりがいを感じたのだろうか。昼の酒を辞め、代わりに自分の金を使って休みの日は美容室やネイルサロン、エステに通うようになった。量販店の服だったのが、雑誌に出てくるような服を着始めた。数年後には社員に昇格し、愛の自己投資はどんどん高価なものになっていった。
元々美人だった愛は、更に美しくなっていったと思う。それは嬉しかったし、愛も生き生きしているように見えた。同時に大輔も同期の中では一番に課長、次長と昇進し、残業も増えていった。愛の夜の酒量は相変わらずだが、もう愛は孤独ではないだろう、大丈夫だろうと任せていた結果が──
これだった。
「はああ!? 会社でみんなに言ったの!? 奥さん逃げたって!?」
残業なしで帰宅し、初日ゆえに若干手抜きだが、何とか作った夕食を前に暖斗があんぐりと口を開ける。
「別に隠す必要ないだろ。事実だし、そう言っておいた方が都合がいいんだから」
驚く暖斗をよそに、大輔は平然と焼き鮭の切り身を口に入れながら話す。一方でやっぱり大根おろしを添えた方がいいな、などとぼんやりと考える。
「なんで? 恥ずかしくないの!? プライドないの!? 逃げられたんだよっ」
両手を握りしめ、テーブルの上に乗せながら、暖斗は顔をしかめて叫ぶ。唾を飛ばし、大輔にかみつかんばかりの勢いだ。そんな暖斗の反応も、まあ分からなくもないが。
「そりゃ妻に逃げられるなんて、恥ずかしいし情けないけど。だからって隠すわけにはいかないだろ。暖斗の学校のこともあるし」
「え?」
自分のことを言われて、虚をつかれたかのように暖斗は目を丸くしてポカンとする。
「中三の十月っていったら、これから面談もあるし。受験勉強で大変な時期に、夜中まで家に一人で居させるわけにもいかないだろ」
「……」
暖斗が黙り込んだので、大輔の味噌汁をすする音がリビングに響き渡った。煮込まずにレンジだけで作れるという肉じゃがをつまみ、初めての割には上手くできたなと思ったところで相変わらず反応がないことが気になり、ちらりと上目遣いで向かいに座る暖斗を見つめる。
「探さないのかよ」
見つめた瞬間、それを待っていたかのように暖斗が口を開く。
「ママはいなくなりました、さようならっておかしくないか」
「別にさよならとも言ってないけど」
さすがに箸を置き、背筋を伸ばして暖斗の大きな二重の目を見た。美人の愛にそっくりの可愛らしい目。
「自分からいなくなったのに、探し出したところで戻ってくるわけないだろ。ましてや男といるのに」
「男がいたってだけで、もしかしたら今はママ一人でいるかもしれないじゃん」
「一緒にいるよ。ママが一人で生活していけるとは思えないね」
「……」
大輔の断言に、暖斗は口をつぐむ。
愛は大輔がいるから実家を出て東京に来た。大輔が外で働き、容認するから好きなように生活していた。大輔の給料で生活し、働き出してからは自分の給料で自由に自分自身に金を使っていた。そんな愛が一人で暮らしていけるとは到底思えなかった。
「今朝、ママの会社に電話したけど、先週急に辞めてたらしいよ」
予想通りというか、案の定、会社に愛はいなかった。通勤できない程遠くに行ったのか、単に会社を辞めたかったのか。退職した人間へ電話をかけてきた夫に、愛のかつての同僚は少しの同情と好奇心と苛立ちがないまぜになった口調で、先週突然退職しましたけど、と言った。『突然』に憤りが込められているのを感じたので、大輔は謝罪をして電話を切った。きっと急に申し出てさっさと辞めたのだろう。
「俺、工業高校に行きたいんだ」
「へっ?」
愛の退職には一切触れず、唐突な申し出をする暖斗に大輔は素っ頓狂な声を出す。
「だから、N工業高校」
大輔の反応は気にもしない様子で、暖斗は畳みかけるようにもう一度言った。おかげで大輔の頭の中でも愛のことは片隅へと押しやられ、あと四ヶ月ほどで受験のある暖斗の進路が中心となる。
「え、そこのO高希望じゃ」
何故工業高校などと突然言い出したのか。確かレベル的にも場所的にも行きやすい普通科のO高を志望校にしていたはずだ。
暖斗はテーブルの上に置いていた手を下げて膝の上に乗せ、じっと大輔を見つめた。
「技術でラジオを作った時、はんだごてがすっごく楽しかったんだ。だから高校でもはんだやりたくて。工業高校行きたい」
初耳だったし、そんな風には全く見えなかったから大輔はただただ驚いた。何かをやりたいとか、進みたいなど自ら言い出したことは、今まで特になかったと思う。テニス部だって、友達が入るからとか愛にかっこいいわよと言われたとか、そんな感じで入部を決めたはずだ。
「いいんじゃないか。好きなことなら極めたらいい」
口を横にきゅっと結び、どこか緊張したような面持ちの息子に、大輔は目を細め微笑んで言った。
「……なんでだよ」
暖斗の求める答えを言ったと思ったのに、暖斗自身は口を尖らせて目線を下に落とす。頬を膨らませて、不満そうに呟いた。
「反対しないのかよ」
「反対?」
大輔は、暖斗の気持ちが全く分からなかった。希望に賛成したのに、不満げにこちらを責めだすとは。
「ママにこの前言ったら、速攻反対されたんだ。工業高校なんてヤンキーばっかだし、技術なんて科目で進路を決めるなって」
「……」
そんな根拠のないことを言って反対したのか。そもそも愛自身が、田舎のヤンキーではなかったか。
「ヤンキーなんて、頭いい学校じゃなきゃ別にどこでもいるだろ。大体いたところでどうだってんだよ。それより自分がやりたいことを勉強するほうが大事じゃないか。せっかくやりたいこと見つけたのに」
今度は大輔が口を尖らせて、眉をひそめた。その表情と言葉に暖斗の眉間の皺が緩み、口を半開きにする。
「──なに」
暖斗の呆れたようなその表情に、息子が何を考えているのか全く分からず、大輔は尋ねた。
「パパのそういうところだよな、ママがいなくなったのって」
喜ぶと思ったのに、ため息交じりで暖斗は呟いた。
「え? どういうことだよ、それ」
大輔は意味が分からずテーブルに両肘をついて身を乗り出したが、向かいの席の暖斗は目を合わそうとはしなかった。下を向いたまま箸を再び手にして、もう冷めてしまったであろう味噌汁に口をつけた。
「別に。取り敢えず学校にはN工業で希望出しておく」
もう聞いてくれるなと言わんばかりに短く簡潔に言うと、暖斗は何も話そうとはしなかった。下を向き、大輔が帰宅後に大急ぎで作った夕飯を黙々と食べ続けた。
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