二人旅に誓おう

塩野ぱん

第1話

 朝起きたら妻がいなかった。

記入済みの離婚届と、一人息子を残して。



 大輔だいすけは、リビングにあるテーブルの上をぼんやりと眺めていた。自分の目に何かが映っているのは分かるのだが、それが現実だとは到底受け入れられなかった。


 日曜、八時過ぎ。白いカーテンからはリビングに向けて、まばゆい太陽の光が差し込んでいる。爽やかな朝、着こんだグレーのスウェット姿で呆然とたたずむ大輔。


「なにしてるの?」


 突然横から声をかけられ、反射的に右手で離婚届をつかむ。しかしそれは遅すぎたようである。

「パパがボーッと立ってるの後ろで見てたよ。それ、離婚届だろ」

寝起きのボサボサ頭の暖斗はるとが、動揺することもなく大輔の手元を覗き込みながらしれっと言った。呆気にとられる大輔をよそに、暖斗は投げやりにも見える様子でソファに落とすように身体を預けた。


「暖斗……驚かないのか?」

ドラマでしか見たことのない離婚届が、いきなり朝、テーブルの上に置かれているのだ。息子だって当事者だというのに、何故そんなに落ち着いているのだ。大輔は目を見開いて、脚を大きく開いて前に投げ出している息子を見つめた。もう大輔よりも長くなった二本の脚を。

 暖斗はちらりと大輔を見てその表情を確認すると、再びそっぽを向いた。腕を組み、口を尖らせて不貞腐れたように言う。


「ママ、男がいるよ。パパ知らなかったの?」


 まだまだ幼さが顔に残る息子が、パパとママの単語の間に挟んだ『オトコ』という違和感にあふれた言葉が、ざらりと大輔の耳を刺激する。


「……男?!」

暖斗が放った衝撃的な言葉をうまく受け止めきれない大輔に、暖斗はスウェットのポケットからスマホを取り出し、下唇を突き出しながら操作しつつ言った。

「よく飲みに行ってたじゃん。あれ、男とらしいよ」

その衝撃に、文字の一つ一つは捕らえられるのだが、言葉は上滑りするかのように大輔の頭をすり抜けていき、全く意味が分からない。

「……え?」

息を漏らすようにひとこと呟く。

「なにそれ。よく飲みに行った? 男と!?」

ああ、頭が痛い。いや背中も腰も。

身体の芯から力が抜ける感覚を覚え、大輔はすぐそばにあったダイニングチェアにへたり込んだ。

「知らなかったの? パパ。じゃあパパのいない隙を狙ってたのかな」

「なんだよそれ!」

大輔は顔を歪め、後退し始めた前髪に指を突っ込み力一杯握りしめる。


 大輔は大手電気メーカーの営業次長だった。仕事柄、週の半分以上が深夜帰りの残業か会食だ。そんな時は愛の負担を思って、大輔は前もって予定を伝えて帰る時はLINEを入れていた。それで大輔がいない夜に出歩いていたというのか。大輔が帰宅すると愛はいつも、何事もないように迎えてくれた。出かけていたなど微塵も感じさせない雰囲気で。いつも家で飲んではいたが。


「いや、でも暖斗、飲みに出てたことはともかく、男ってなんだ。なんで暖斗が知ってるんだよ」

前髪から手を離し、顔を上げて暖斗を見る。暖斗は椅子の横にあるソファで相変わらずつまらなそうにスマホをいじっていた。

有汰ゆうたの母ちゃんが居酒屋で見たんだってさ。ママと若い男が二人で飲んでるところ」

有汰は暖斗と同じテニス部の友達だったはずだ。相変わらず暖斗が放つ『オトコ』という響きが引っ掛かるが、いやだけど、と大輔は口を開く。

「別に男の人と二人で飲んでたって……仕事関係の人かもしれないじゃないか」

「仕事の話で、手を握りながら酒飲むかよ」

「……」

我ながら女々しいと思いながらも抵抗してみたが、暖斗の中学生とは思えない口調に、一縷の望みも蹴散らされた。


「手を握りながらってなんだ……? そんでそれを有汰くんのお母さんに、そんなとこ見られていた……?」

再び頭を抱えて大輔は呻くように呟く。

「駅前の居酒屋によく二人で行ってたらしいよ。三組の田中沙季のねーちゃんがバイトしてる店」

「そんなすぐ近くで……」

大輔は暖斗の言葉に絶句する。呆れるやら情けないやら、もうなんと言っていいか分からない。そしてその三組の田中沙季の姉にも見られていたということか。


「はあ」

何も言葉が出ずに、口から大きなため息だけが出る。近所の人が目撃して、息子はそれを聞いていたというのに、自分は全く気が付かなかったなんて。


 もしかして知らないのは自分だけで、暖斗の学校の友だちはみんな知っていたのだろうか。ママ友の多い愛はむしろみんなに全部話していて、みんなで愛のこと応援していたんじゃないだろうか。

 

 疑心暗鬼と自己嫌悪が腹の奥からあふれ出てきて、喉の奥へ重くて苦い塊が押し寄せてくるような感覚になる。


「ねえ」

再びテーブルに両肘をつき頭を抱え込んだ大輔に、暖斗が話しかける。大輔は声を出さずにそっと顔を上げた。暖斗は小さくため息をついから、口を開く。

「パパ、おなかすいた」

その健康的な言葉に、大輔は拍子抜けし、そして少しの安堵感を覚えた。

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