echo

望月あん

echo

 ドアを開けると小学生くらいの少年が眠っていた。

 部屋を間違えたかと思ったものの、たったいま鍵を開けて入ったはずなのだ。それにこの部屋には見覚えがある。間違いとは思えなかった。

 玄関には濡れて骨の折れた黒いこうもり傘があるだけで少年の靴は見当たらない。明かりをつけると六畳一間の狭い部屋が隅々まで照らしだされた。壁際に段ボール箱と毛布が一枚あるだけで他にはなにもない。

 部屋が明るくなっても少年が起きる気配はなかった。もう春だというのに毛糸のセーターと長ズボンをはいている。靴下がひどく汚れていたので、どうやらこのまま外を歩いていたようだ。

 すぐ横に腰をおろして、少年の不揃いに伸びた前髪をかきわける。顔立ちだけ見れば十歳くらいだったが、痩せっぽちなせいでもっとおさなくも見える。唇の端は切れて青くなっていた。誰かに殴られでもしたのだろうか。

 スマートフォンをとりだして、けれど思い直して上着へ戻した。普通なら警察へ通報するべきなのだろう。それは頭ではわかっていた。だがそれは普通の、一般人の話だ。

 いつのまにか握りしめていた煙草のパッケージは濡れていて中にまで水が染みていた。透明のセロファンとのあいだには桜の花びらがひとひら張りついている。ここにはいつもライターを入れているはずなのにと、記憶をたどろうとするとひどい頭痛がした。

 畳をこする音に顔をあげると、少年が起き上がっていた。とてもさっきまで眠っていたとは思えない強く澄んだ眼差しでこちらを見ている。どこかで見たことのある少年だと、そのとき気がついた。

「おまえどこかで会ったことあるか?」

 少年はかすかに微笑むだけで、なにも言わない。

「ここはおれの部屋だ。どこから来たか知らないがさっさと家に帰るんだな」

 言葉は理解しているようだったが、少年の返答は変わらず沈黙と微笑だけだった。

「口がきけないのか」

 それにはすこし悲しそうな目をする。

「なんなんだよ……」

 困り果てて顔を手でおさえると、そこへ少年の冷たい指が触れた。なにか、言葉以前の重みのようなものが直接流れ込んでくる。会ったことがあるとかないとかではなく、自分たちはそれ以前にすでに知り合っている。だがそれがどういうことなのかはわからない。わからないけれど不快ではなかった。

 顔をあげると少年が不安げに見つめていた。

「おまえ、名前は」

 問いかけながら、自分は彼の名を知っているという確信があった。左右不揃いな八重歯をのぞかせて少年が声なく告げる。その口の動きや、手から伝わってくる印象に、けいし、と声をあてた。少年はほっとした様子でやわらかな笑みを浮かべた。

 やがて夜が深まり少年はふたたび眠りについた。少年が寒がるので毛布は譲り、畳のうえに寝転がる。だが一向に眠気は訪れなかった。寒くはないし、空腹も感じない。古ぼけた天井を見上げていると不思議な感慨が胸にじんわりと広がった。自分の部屋のはずなのに懐かしい。ここはいまの住まいではない。ずっとむかし、家族で暮らした狭いアパートだった。だがなぜいまここにいるのか。考えようとすると記憶は泥のように混濁した。

 鳥の鳴き声、新聞配達のバイクの音、荷を運ぶトラックの振動。ほんのわずか夜が後退しただけで朝はみるみる世界に行き渡る。裏手にあるアパートの壁が近く迫って、窓からはほとんど空が見えない。窓を開けて体を乗り出したところで細長い空が東から西へと天頂を隔てているだけだ。それでも凍りついたように透徹とした空はうつくしかった。

 背後で身じろぐ音がする。振り返ると少年が起き上がっていた。

「わるいな、寒かったか」

 少年は目をこすりながら首を振る。

「腹減っただろう。なにか食いにいこうか」

 けれどそれにも少年は首を振る。冷えた指先が手に触れる。

「ああ、そうか。靴がないのか」

 まっくろに汚れて穴があいた靴下からは、しもやけで腫れた小指がのぞいていた。そっと手で覆ってやる。

「おれも昔はよくなったもんだよ」

 おとなはしもやけにならないと子どものころに聞いたとおり話すと、少年は羨ましげにため息をついた。はやくおとなになりたいと呟いたようだった。

 少年に背を向けて、ほらと手招きをする。

「おぶってやるよ。ファミレスでも行こう」

 少年は顔を輝かせて背中へ覆いかぶさってくる。そのときベルトに挟んだ黒い鉄のかたまりに気づいたようだったが、こちらへなにかを伝えてくることはなかった。

 町の様子はかつてのまま、アパートの道向かいにはほったて小屋に毛がはえたようなスナックが数軒並んでいた。どれもおもての照明は消えて、閉まっている。むかし、父親とまだ一緒に暮らしていたころ、よく連れられてはママやホステスにかわいがられた。こんなに小さな子がいるんだからいい加減その世界から足をあらいなさいと、父はよくホステスたちに諭されていた。飲むと泣き上戸だった父はもうこんな生活とはおさらばしたいと家へ帰ってからも泣いていた。最後にはいつも母の名を呼んで泣き疲れて眠る、そんな子どもみたいな人だった。いまはもう、生きているのかどうかもわからない。小学生のころ突然いなくなってそれきりだった。

 沿道の桜はまだ蕾のままかたく閉じていた。息をひそめて、鬱血のように花の色を幹に押しとどめている。おさめきれなかった色が枝先から滴って、腕を伸ばした少年の指を濡らしていた。花の淡さからは想像もつかない、濃く赤いぬめりだった。

 早朝の閑散としたレストランで少年はオムライスをほおばる。朝の白い光がさす窓際のテーブルで、トマトソースのたっぷりかかった鮮やかな薄焼き卵はつやつやとして宝石のようだった。スプーンを突き立てるとケチャップライスがこぼれて白い陶器に散らばった。だがまばたきのあとには、傷ひとつないオムライスに戻っている。少年がほおばっても、ほおばっても、まばたきすればオムライスは蝋細工のようにつやつやとしたまま皿のうえで輝いていた。

 少年の指がちょんと手の甲を突っつく。

「そうだな、行こうか」

 レストランのトイレからスリッパを拝借して、駅のほうへと向かった。細い道が続くふるい住宅街を抜けると商店街のなかほどに突き当たった。左へ折れると駅まで繋がっている。角の喫茶店からは淹れたてのコーヒーの香りがした。

 通勤や通学の姿がある。道先の交差点から出てきた自転車がベルを鳴らす。急いで少年の手を引いた。その手は氷のように冷たい。

「寒いのか?」

 少年は首を振る。むしろ頬は紅潮して、額にはうっすらと汗をかいていた。道行く人々のなかにはマフラーを外して手に持つ人もいる。学生服の少年はコートを脇に抱えていた。

 自分の手を見おろす。おかしいのはこちら側らしい。

 駅前のベンチに座って少年は駅から出てくる人をひとりひとり見ていた。誰かをさがしている。母だろうか、父だろうか。どちらにせよ、彼らはもうこの町へは帰ってこない。

 電車はたくさんの人を吐き出してはおなじだけたくさんの人を飲み込んで走り去っていく。五分おきに繰り返される光景を眺めていると、どこかへ行くための乗り物なのにどこへも行けないような気持ちになる。どこまで行ったところで結局ここへ帰ってきてしまうのだと突きつけられるようだった。

 商店街へ戻るとテントのしたで福引会が行われていた。からんからんと当たりの鐘が鳴る。少年は立ちどまりその様子をじっと眺めていた。手には券を二枚持っている。あと一枚足りないのだ。

「そうは言ってもな……」

 財布をひらいてみたところで福引券があるはずもなく、なにか買い物をしてやろうにもおそらくこの紙幣では叶わない。千円札も五千円札もまだこの時代にはない絵柄だ。

 少年が立ち尽くしているとひとりの婦人が近づいてきて福引券を一枚その手に握らせた。あまってしまったからよかったら使ってという。少年は一度はためらったが、ありがとうとこたえて受け取った。婦人が行ってしまうのを待ってこちらを振り返る。その顔にさきほどのしおらしさはない。

「一回勝負だな」

 少年はうなずき、気合いを込めてレバーに手をかける。からりからりと抽選器をまわす。はたして転がり出てきたのは白い玉だった。残念ながら鐘は鳴らされない。係りの女性が大きな透明の箱を差し出した。子どもの手が通るくらいの穴があいている。なかには色とりどりの飴玉やキャラメルが詰まっていた。ひとつきりではなく、掴めるだけ掴んでいいという。少年はひときわ大きな飴玉に狙いを定めてメロン味とイチゴミルク味を二つ掴み取った。

 なにをするでもなくふたりでふらふらと町を歩いた。疲れたときには公園に立ち寄って水飲み場で水をかけあった。藤棚の椅子に寝転がると、血管のように枝が空を覆っていた。眺めているうち、青く澄んでいた空がみるみる赤く染まっていく。血が流れてとまらないのだ。はっとして起き上がり、腹をおさえる。濡れた服の感触はあれど、どこにも血のにおいなどしなかった。

 アパートへ戻る道すがら大きなメロン味の飴玉を渡される。甘いものは苦手だと断ることもできたはずだった。せっかく貰った飴なのだから自分で食べればいいと話せば傷つけることもない。けれど包み紙をつまむ親指と人差し指が震えているのを見てしまっては、手を差し出して応えるしかなかった。

 飴玉を受け取って、強く握る。冷たく濡れたように感じるのは、夜半過ぎから降り出した雨のせいだ。

 雨。そうだ、雨が降っていたはずなのに、なぜこの空はよく晴れ渡っているのだろう。

 少年の手が、かたく握ったこぶしに触れる。流れ込んでくる声や感情はかたちを持たず、自分のもののように生々しい。少年とのあいだには他者という垣根がない。思考がすべて繋がっている。時間という断絶を越えて現前している。ずっと響いていた予感を受けとめる。少年は、かつての自分自身だった。

 小学生のころ職員の目を盗んで施設を抜け出したことがある。さいわいバスの行き先に自宅周辺の地名があったのでバスを追い、バス停をたどってアパートまで戻った。たどり着いたころにはすっかり日が暮れていた。ひとりきりの部屋はひどく寒かった。畳からだけではなく壁や天井からも染みだしてくる冷たさは、これがいつまでも続くような、絶望に繋がる静けさを胸のうちに呼んだ。結局翌朝には施設の職員がやってきて、すぐに連れ戻されたのだった。

 オムライスも、朝の散歩も、福引きも、ほんとうはそんな思い出は存在しない。どれもすべてかつての自分が見た夢にすぎない。

 少年の手を握り返す。まだ小さい、けれどひとりで生きることを怖れない、手。たとえ夢であったとしても、あの日の自分がすこしでも凍えずにすんだなら、すこしはこの人生も悪くなかったのかもしれないと思える。

「よくやった、よくやったよ」

 よくやった……、よくやったよ……。

 かけたはずの言葉が返ってくる。長いときを飛び越えて、こだまする。まるで子どもみたいだと思うけれど、苦しくなるほど嬉しかった。

 体が足もとから濡れそぼっていく。それがじわじわと体を這うように染みて、苦しさのもうひとつの理由に気づく。たまらず咳きこむと、まっかな血があふれた。視界が暗転する。次に目を開けると、そこにはもう少年の姿はなかった。

 雨が降り続いている。全身がずぶ濡れなのはそのせいだった。あたりは暗く、目の前は車道だが車通りもない。深い夜の底にいた。

 視界のほとんどはアスファルトで埋まっていた。どうやら道に倒れこんでいるらしい。だが起き上がろうにも体に力が入らなかった。胸や腹のあたりがひどく熱を帯びていた。誰か、と声を出そうにもなにかが喉につかえてままならない。すぐそばには火の消えた煙草とライターが落ちていた。水たまりのなかに投げ出された手にはぐっしょりと濡れた煙草のパッケージを握っている。こわばった手をほどくとセロファンには桜の花びらが張りついていた。

 遠く、激しく争う音が聞こえてくる。そのなかに自分を呼ぶ声もあった。水を蹴りあげながら足音が駆け寄ってきて、体を抱き起こされる。その拍子につかえていた血を吐いた。

啓史けいしさん、しっかりしてください啓史さん!」

 閉じようとする目蓋を懸命に押し上げて、声のあるじを見やる。

「ああ、タカか……。どうだ、親父さんは無事か」

「はい、叔父貴の車で出たところです。いま兄貴たちが撃ったやつを追いかけていきました」

 タカはひどい涙声でようようそれだけをいう。目が合うと、まだおさなさの残る顔をぐしゃぐしゃに歪めた。

「すみません、啓史さん。おれが見張り変わってもらったばっかりに……」

「それじゃあおまえが撃たれてただけだ」

「でも……!」

「タカ、おまえもあいつらと一緒に行ってこい」

「できませんよ。いまから救急車呼びますから」

 珍しく聞き分けずにスマートフォンをとりだすタカの手を渾身の力で掴む。

「電話くらい、自分でできる」

「啓史さん……」

「いいから行け」

 車が停まっているほうからタカを呼ぶ声があった。ほら、と目で促すと、タカはスマートフォンをしまって頭をさげた。

「かならず、かならず生きてください」

 そっとアスファルトのうえに横たえられる。微笑んでみせようと思っても口の端がわずかに痙攣するだけだった。タカは唇を噛みしめて走り去っていった。

 暗い空をまっすぐ見つめていた。雨のつぶてが目に触れても痛みは感じなかった。さあっという音が聞こえてくるが、それが雨の音なのか流れ出ていく血潮の音なのかはわからない。動かない体は重く、肉体として認識できる範囲は呼吸をするたび狭く小さくなっていった。もはや腹から下の存在はないも同然だった。

 視界をときおり光がよぎった。雨に打たれながらはらはらと降る。どうにか頭をめぐらせると、そこには桜の木が花を散らせていた。

「よくやった、よくやったよ」

 こだまが聞こえる。

 子どものころに暮らしたあの町からはずっと離れた場所にいる。まさかおなじ桜ではない。だが桜は接ぎ木で広がったという。ならば彼らがいまも繋がっていたとしてもなんら不思議はなかった。

 ジャケットからスマートフォンをとりだそうとして、片手になにかを握っていることに気づく。指をひらくと緑色をした丸い飴玉があらわれて、そのあとすぐにアスファルトのほうへと転がり落ちた。

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