最終話 1994年、香港

〔17〕


 1994年。

 開店前の冰室カフェは静寂を保ち、大きなガラス窓から差し込む朝日が優しく降り注いでいる。俺は入り口のドアを開け、タイル張りの床にモップを掛け始める。

「よう、ラウ! 準備はどうだ?」

 顔を上げれば、そこにはキットがおり、俺は少し驚いて彼を見やる。

「キット! 自分の店はいいの?」

「まあ、カミさんにバイトもいるからな、平気だろ。それより手伝うよ」

「ありがと。じゃあ、テーブルをお願い」

 キットが「あいよ」と厨房から濡れた布巾を持ってきてテーブルを拭き始める。

「ようやくオープンだな」

「……うん」

 俺は頷きつつキットを見やる。

「これも、キットや、奥さん達のお陰だよ」

 するとキットが「よせよ! 全ては、お前が頑張ったからだよ」と照れくさそうに笑い、ふとその手を止める。

「きっと、チャンも空の上で喜んでると思うぜ」

 俺は大きな窓の外に広がる抜けるような青空を見上げる。

「だといいなあ。もう……あれから、十四年も経ってしまったんだね」

「そう考えると、俺達の付き合いも長いよな」

 キットがくしゃりと笑ってみせる。

 突然、チャンが撃たれて亡くなり、俺は失意に沈んだまま、九龍城砦に戻っていた。

 新しい棲み処だったアパートは13Kサップサンケイの持ち物だったので、俺は住む場所を失っており、ワン老師の厚意で彼の元に身を寄せていた。

 チャンを失った事にショックを受けて、涙も枯れ果て、抜け殻のようになっていた時、キットがワン老師の漢方薬局を訪ねてきたのだ。

「ワン先生! ご無沙汰してます!」

 快活に彼が笑い、ワン老師が「やあ、キット。久しぶりだね」と懐かしそうに目を細める。

「なんだかんだ店が忙しくて、中々、伺えなくて……ああ、そうだ。実はカミさんの悪阻が酷いんですよ。効く薬はあります?」

「勿論あるよ。お子さんは何人目だったかな」

「四人目なんですよ。長男はやんちゃ坊主で、下が双子の女の子なもんで、毎日が戦争ですよ」

「賑やかで良い事だ」

「暫くしたら、もっとうるさくなりますよ」

 そうキットと呼ばれた男が可笑しそうに笑い、ふとカウンターの隅でぼんやりと二人の会話を聞いていた俺に、くりくりとした瞳を向ける。

「えっと、あんたがラウさん?」

 まさか彼が俺の名前を知っているとは思わず、俺は「え、ええ」と頷く。キットは、まじまじと俺を見つめて、少し悪戯っぽく片目を瞑る。

「チャンの言う通りの綺麗な顔だなあ。俺はキットっていうんだ。チャンとはガキの頃からの腐れ縁でね」

 チャンの名前が出てくるとは思わず目を瞬かせると、キットは哀しそうに眉根を寄せる。

「チャンの事、俺も哀しいよ。あいつが秘密結社の一員になった時から、今回みたいな……仇討ちや、抗争なんかで命を落とすこともあるかもしれない、って覚悟してたんだ。多分、本人もそれは重々、分かっていたと思う。そのせいか、チャンのやつ、ちょっと刹那主義っていうかさ……どこかいつ死んでもいい、みたいな雰囲気だったんだけど……」

 ふとキットが口を噤んで、少し懐かしいような顔をする。

「少し前に俺の店に来た時に、その雰囲気がちょっと柔らかくなっててさ。ははあ、これは恋人でも出来たな、ってからかってやったんだ。そうしたら、チャンのやつ、どうかなって妙に楽しそうに笑ってたぜ。それで、ある人の事を頼みたいって言うんだ。俺、あいつから頼まれ事なんかされたことなかったから、驚くやら嬉しいやらでさ」

 そうキットが笑みを浮かべ、その目元に涙が滲んでいるのに気づく。俺は驚愕して彼の話をじっと聞き入る。

「もし、自分が想いを寄せるその人に振られたら、その人が新しい生活を始められるよう、手伝ってやってくれないか、って言うんだ。そして、万が一、自分に何かあった時も助けてやってほしいってな」

 言葉を失う俺に、キットは人懐っこい笑みを浮かべる。

「その人の名前はラウだ、ってチャンが言ってた。つまり、あんただろ?」

「そ、そんな……」

 信じられない……と呆然と呟く俺にキットは「本当のことだぜ?」と眉を上げてみせる。

「俺、尖沙咀チムサーチョイ茶餐廳チャーチャンテン(大衆食堂)をやってるんだ。これでも、味の良さで繁盛してるんだ。で、さっきも話した通り、カミさんの腹には赤ん坊がいるし、一人いる住み込みの従業員は、結婚して田舎に帰るっていうんで、人手が足りないんだよ。そこでだ、あんたにうちの店で働いてもらえないかな、って思ってさ」

 俺は突然の事についていけずに、微かに口を開けたままキットを見つめる。

「……俺が、あなたの店で……?」

「まあ、お洒落なバーとはいかないけどさ。あんた、料理も上手いって聞いたし、うちとしては大歓迎だよ。おまけにあんた、顔がいいから女の客が増えそうだ。そう思わないですか? ワン先生!」

 ワン老師は「かもしれないな」と穏やかに頷いてみせる。

「で、でも……俺でいいんですか?」

「いいから、こうして会いにきたんだろ? チャンは自分に何かあっても、ラウ、あんたには新しい世界で生きてほしいって思って、俺に頼んだはずだ」

 それがチャンの願いなんじゃないかな? そうキットが笑い、俺は目の前が、じわりと滲むのを感じる。

 ラウ、お前は生きろ……

 それは、あの日、死の間際にチャンが俺に囁いた言葉だった。堪えきれずに溢れた涙が頬を伝い、嗚咽を洩らす俺にキットが狼狽し、ワン老師が宥めるように俺の頭を撫でる。

「ラウ、こういうのをご縁というのだよ。キットと、そしてチャンの厚意を受けてはどうかね?」

 俺は涙を流しながら、キットに「よろしくお願いします」と頭を下げた。

「まさか、九龍城砦が無くなっちまうなんて思わなかったよなあ……」

 追憶から引き戻されて顔を上げると、壁に飾った写真をキットが眺めていた。それは、九龍城砦の夕日に照らされた違法建築群を写したものと、九龍城砦の屋上で俺が飛行機を指差している写真だった。

 俺も彼の隣に立ち、懐かしさと哀しさが綯交ぜになった気分で写真を見上げる。

 キットの言う通り、九龍城砦は去年、取り壊されてしまったのだ。なんでも1987年には取り壊しの予算が組まれており、1992年には全ての住人を移転させる予定で計画されていたらしい。

 しかし、九龍城砦の住人も簡単には立ち退きに賛成せず、政府が補償金を払うということで、半数の住人は納得し出て行ったが、中には拒否をして暮らし続けた住人もいた。

 1991年十一月には、政府担当者と警察官が強制退去させようとして、住民とぶつかり取り押さえられた者もいたと報道された。

 九龍城砦に多くあった歯医者や診療所は、大概は無免許だったため城外での営業は認められなかった。噂では13Kサップサンケイの息が掛かっていたウォン先生の診療所は、早い段階で閉鎖し、今も香港のどこかでやはり闇医者として活躍しているらしい。

 当然、九龍城砦の応竜インロンの事務所も撤退していった。

 そしてワン老師……彼は九龍城砦の城主と言われるだけあって、ぎりぎりまで反対運動に賛同し、九龍城砦に残っていた。しかし、1992年の立ち退きが完了する頃に彼を訪ねた時は、香港島の親戚の家にお世話になると話していた。

 漢方医はやめてしまったが、香港島でたまに詠春拳を指導しながら、ゆったりと過ごしているとつい最近に貰った手紙には綴られていた。

 そして、1993年の四月。近隣の住人達が見守る中、巨大な解体用の鉄球が違法建築のビルの外壁を崩していった。

 いとも簡単に崩れていくビル群や工場などの建物……取り壊しはあっという間だった。

 俺は、その様子をテレビの中継でぼんやりと眺めていた。なんだか、フィクションのような……何かの映画でも見ているような気分だった。

 密集していた建物はすぐさま無くなり、唯一、衙門だけを残して跡地は公園になるそうだ。

 礼拝所の地下にあったあの金の龍はどうなったのだろう? もしかすると13Kサップサンケイが回収していったのかもしれないし、そのまま地下に埋まったままかもしれない。

「九龍城砦の金の龍、か……」

 まるで、あの一連の出来事は……いや、九龍城砦での生活の全てが夢だったような気さえする。

「うん?」

 キットが不思議そうに首を傾げ、俺は「なんでもないよ」と小さく笑う。九龍城砦を出た俺は、キットの元で働きながら、数年後には学校にも通い、こうして長年の夢だった自分の店を開店することになったのだ。

 九龍城砦を出て、今日という日に辿りつくまで、本当に色々な事があった。幸せな事も、哀しい事も、時に怒りを覚える事だってあった。

 しかし、キットや新しい世界で出会えた人達のお陰で、俺はなんとか生き延びてこられたのだ。

 チャンが願っていたように、俺はこの世界で生き続けるのだ。

「あっ! そういえば、カミさん特製の蛋牛治卵ビーフサンドイッチを持ってきているんだった! 朝飯、まだだろ?」

「うん。奥さんの蛋牛治卵ビーフサンドイッチ、久しぶりだから嬉しいな」

「しまった、車に置いてきちまった。ちょっと、とってくるわ」

 そうキットが店を出て、モップを掛け終えた俺は、飲み物などの支度をしようとキッチンへと向かう。その時、人の気配がして、もうキットが戻ってきたのかと振り向く。

「キット、早かった……」

 言い掛けて、息を呑む。店の入り口には、プラチナブロンドの髪と、灰色に近い青い瞳が印象的な男が人懐っこい笑みを浮かべていた。

鴛鴦奶茶えんおうだいちゃはメニューにあるかな?」

 俺は泣きそうになるのを堪えながら、彼の元に駆け寄った。



〔了〕

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