第十六話 別れ

〔16〕


 俺達はワン老師の店を後にし、いつもの屋上にいた。青い空を見上げつつ、二つのビーチチェアにそれぞれ腰を下ろす。

「また会えるとは思わなかったよ」

 そう笑い掛ければ、マックスは上半身を起こし、こちらに身体を向ける。

「実は午後の飛行機に乗らなくてはならなくてね。その前に会って、きちんと謝罪したかった」

 小首を傾げれば、マックスは少し眉を下げてみせる。

「任務とはいえ、きみを騙してしまうような形になったから。だけど、俺はきみと九龍城砦で過ごせて良かったと思う。そして、これからも出来れば、君の友人でありたい」

 彼の正体には驚いたが、俺の話に真摯に耳を傾けてくれたり、迷う俺に掛けてくれた言葉に、嘘はなかったはずだ。

「俺もマックスを友人だと思っているけど、確かに、騙された気分ではあるかな」

 すまなそうな顔をするマックスに、俺は揶揄うように笑う。

「へっぽこな振りをして、実はあんなに強かったなんてさ」

 軽く片目を瞑ると、マックスがほっとしたように笑みを浮かべ、おどけるように言う。

「言ったはずだよ。自分の身は自分で守れるよ、って」

「確かに言ってたね」

 同時に小さく笑い、マックスが「そうだ」と思い出したように、持っていた鞄から封筒を取り出して、こちらに渡す。

 中を見れば、それは数枚の写真で、夕日に照らされた違法建築のビル群や、ウォン先生の元でリリーと一緒に撮られたもの、この屋上で頭上すれすれに飛ぶジェット機を指差す俺の姿など、中にはいつ撮影されたか分からないものもあった。

「本当、偽カメラマンのわりに上手に撮れているよね」

 思わず感心して言うと、マックスは「偽カメラマンとは、酷いなあ!」と朗らかに笑ってみせる。

「カメラは元々、趣味でね。それに、九龍城砦の皆さんの暮らしを撮影したかったのは、嘘ではないよ」

 マックスがふと腕時計に目を落とす。きっと、そろそろ行かなくてはならないのだろう。彼が腰を上げ、俺も向かい合うように立つ。

「きちんと挨拶しておきたかったから、会えてよかった」

「それは、お別れの挨拶?」

 マックスは「いいや」と首を横に振ってみせる。

「またいつか会おう、の挨拶だよ」

「うん。よぼよぼの爺さんになる前に会えるといいね」

「そうだね。お互いの顔が分かるうちに必ず」

 マックスは可笑しそうに肩を揺らしてみせ、ふと思いついたように身を乗り出す。

「その時は、きみの作った鴛鴦奶茶えんおうだいちゃが飲みたいな」

「分かった。その時は丹精込めて淹れたものをご馳走するよ」

 マックスがふいに腕を伸ばし、俺の背中を引き寄せる。ふわりと抱き締められ、俺も彼の背中に腕を回す。

「それじゃあ、また」

「うん、またね」

 それは以前、東頭村道トン・タウ・ツェン通りでの抱擁と同じく、ひたすら優しく友情に満ちたものだった。

 その時、ジャンボ機がエンジン音を轟かせながら空港に向けて飛んでいき、俺達は目を細めながら空を仰いだ。


 一週間後。

 俺とチャンは東頭村道トン・タウ・ツェン通りに向かって歩いていた。

「案外、持っていくものは、少なかったね」

 そう日用品などを詰めたスーツケースを見やりつつ言うと、チャンは軽く肩を竦める。

「ここから持ち出さなくても、全て新品で揃えても良かったんだぞ?」

「捨てるのは勿体ないから」

 チャンが「家計のやりくりは安心して任せられるな」と微笑み、俺は妙に照れくさくて僅かに俯いてしまう。ふと視界に入った彼の手首には俺が贈った腕時計が巻かれている。金時計は彼の役職を引き継いだホンが付けている。

「なんだか実感がないな」

 チャンが目顔で問い、俺は頭上にケーブルが走る湿った路地を眺める。

「今日、九龍城砦を出ていくなんて、まだ嘘みたいだ」

「新しい生活が始まれば、すぐに慣れるだろう。もしかして寂しいのか?」

「そうだね、ここは俺の生まれ育った場所だからね。でも、明日からの新しい暮らしにワクワクしているよ」

 そうチャンに笑い掛ければ、彼も淡く微笑み、そっと俺の髪を撫でる。そろそろ東頭村道トン・タウ・ツェン通りに差し掛かった時、チャンが何かに気付いたように僅かに眉を上げる。視線の先にはホンをはじめ、手下達が待ち構えており、俺達は顔を見合わせる。

「見送りはいらんと伝えたんだがな……」

 チャンが吐息を漏らし、俺は「部下に慕われている証拠だよ」と微笑む。九龍城砦の外の大通りに出ると、マーとホーが泣きそうな顔……いや、大分、泣き腫らした目でチャンに言う。

「チャン兄貴! お元気で……!」

「お前たちもな」

 そうチャンが少し面映ゆそうに二人の肩を軽く叩き、マーとホーがくしゃりと泣き顔になる。ホンが、今にもチャンに抱き着きそうな二人を後ろに押しやる。

「チャンさん、尖沙咀チムサーチョイでもお元気で。来月の会合、よろしくお願いします」

「ああ。分からない事があれば、いつでも連絡をくれ」

「ラウ、チャン兄貴の事、くれぐれも頼んだぞ」

 そう目元と鼻先を赤くしたマーとホーに言われ、俺は「分かったよ」と苦笑しながら返す。

 手下達に見送られ、俺達は車が停められた路地を目指し、彼らに背中を向ける。

「なにも、今生の別れじゃないんだがな……」

 チャンが少し照れたように言い、俺は思わず小さく笑ってしまう。自然と互いの手が伸び、その指先が触れ合った瞬間、パンッパンッと乾いた音が連続して大通りに響き渡る。

「……え?」

 俺は呆然と囁く。隣のチャンの胸部から何かが弾け出るような衝撃が走り、直後、血しぶきが散った。

 そんな……撃たれた……!?

「……チャン!」

 俺の声が大きく響き、背後からホン達の怒号や慌てふためくような声が重なる。

 チャンは目を見開いたまま、がくりと膝から崩れた。

「そ、そんな……! チャン……!」

 倒れたチャンの身体を掬い上げるようにし、俺は必死に彼に呼びかける。

「チャン! チャン、しっかりして……!」

 チャンの着ていたシャツの胸元に血がみるみるうちに広がり始め、俺は抱き起した彼の頬を軽く叩く。

「チャン、すぐに助けがくるから、しっかりして……!」

 彼はぼんやりとした目で俺を見つめ、唇の端を上げる。

「ラ、ウ……」

 俺は彼の手を握りしめて頷く。チャンが喘ぐように声を絞り、俺は彼の口元に耳を寄せる。

「ラウ……お前……は――」

 吐息と共に囁かれた言葉に、俺はハッと彼を見つめる。チャンは慈しむように微笑むと、そっと俺の頬を囲むようにし、そのまま、深く息を吐き出す。

 まるでスイッチを切ったようにその瞳に光が消え、チャンの手が滑り落ちる。瞬間、彼が事切れたのが分かった。

「そ、んな……待って……駄目だ……チャン……目を覚まして……」

 俺は祈るように囁き、チャンの身体を強く抱き締める。まだこんなに温かいのに、死んでしまったなんて、そんなの嘘だ……!

「チャン……! 嘘だ……こんなの嫌だよ……チャン!」

 俺の慟哭めいた声が虚しく大通りに響いた。

「イム兄さんを殺した報いよ!」

 呆然と肩越しに振り返れば、手下達に取り押さえられた女が目に入る。

 それが見覚えのある……少し前に娼婦の面接を受けるというので、光明街クゥオン・ミン通りへと案内した人物だと気づく。

 イム兄さん……? 彼女はメイの恋人だったイムの妹なのか……!? 彼女の殺意と憎しみに満ちた顔に、やり遂げたような満足げな笑みが受かんだ。

「誰か、医者を呼べ……!」

「チャン兄貴ー!」

 ホンや手下達が弾かれたようにこちらに駆け寄り、俺は茫然としながらチャンの亡骸を抱き締める。

 こんなの……嘘だ……!

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