家路についたのは、日付が変わった後でした。私はいつもよりも早足で帰りました。その日も妙な違和感がありまして、バイト中もうわの空。簡単なミスをしては怒られっぱなしでした。つくづく思いますよ。嫌な予感は当たるものだと。

 最初は、自宅の鍵が空いていたことでした。灯りが漏れてませんでしたから、友人は寝たのだと思っていましたが、布団も空。便所にもいない。


 するとね。聞こえてきたのです。

 キィキィ……キィキィ……キィキィ……、と。


 もしかしたら、猫に夜の水やりをしたまま、可愛くて遊んでいるのかもしれない。夜中に遊びすぎるのは良くないと言っていたのに、仕方のないやつだ、と私は思いました。その時はその程度の楽観でした。

 荷物だけを置いて、私も隣室へ行きました。案の定鍵は空いていましたけれど……。ええ、隣室も真っ暗闇で、どんよりとした重たい空気が私を包み込んだのです。夏の夜のじめじめした空気ではなくって、べっとりとへばり付くような、嫌な感じでした。

 恐る恐る電気を付けてみるとですね。その隣室はえらく閑散としていて、畳まれた布団と卓袱台ちゃぶたいが1台だけ。友人もいませんでした。


 そこで見つけたのです! ああ、そうです。見つけてしまったのです! 部屋の隅に横たわる、ボロボロの布切れのような猫のを!


は、キジトラの猫のぬいぐるみでした。首輪がしてありまして、ネームタグには「シノブ」と書かれている。力なく倒れていましたが、目は生きていました。そんな感じがしたのです。


 怖くなって隣室を跳び出した私は、無我夢中て自室の布団に潜り込みました。見てはいけないものを見てしまった。猫は本当はいなかった。いたのはシノブと名付けられた猫のぬいぐるみだったのです。


 昨日、見送ってやったアベックの笑顔が浮かんできました。精悍な青年にお淑やかな彼女。絵に描いたような理想的なーーいや、ごくごく普通の人間にも、触れてはいけない心の闇があったのです。


 理由は分からない。なぜ、隣の青年は猫のぬいぐるみをあたかも生きている飼い猫のように私に告げたのか。オーナーにも内密にしてくれと頼まれた。ゲェジまで用意していたのに。私にはその一切が分かりません。分からないからこそ怖いのです。


 しばらく布団から出られませんでした。夏の暑い夜なのに、私はカチカチと歯を震わせていました。やがて、頭が少しはに働くようになったところで、私は友人の不在について考えられるようになりました。その時は猫のぬいぐるみで頭が支配されてましたから、他には何も思いつきませんでした。だからこそ、少しばかり冷静になれたからこそ、次なる恐怖が私の頭のその隙間に流れ込んで来たのです。


 聞こえてきたのですよ。

 キィキィ……キィキィ……キィキィ……、と例の音が。

 

 隣の青年は飼い猫の遊ぶ音だと言った。しかし、猫は本当はいないはず。ならば、この音の正体な何なのか?

 友人も言っていたではないか。隣の猫がいかに可愛いのか。朝晩と水やりをしてくれた彼は気が付いていたはずなのに、彼もまた、ぬいぐるみではなく生きた猫として私に語ってくれていました。


 キィキィ……キィキィ……キィキィ……。


 なぜなのか?

 人間とは愚かなものです。この世には知らなくても良いことなど腐るほどあります。不明瞭なものにあえて光を当てなくても良いのです。なのに知りたがる。それは怖いからです。理由わけが知りたい。理由なんて、無いことが多いのに。


 私は布団を出ていました。音の正体を探そうと考えたのです。じっと目を閉じて、暗闇に耳を預けていました。そこで初めて気がついたのですが、その音は隣室からではなく、自室のーーそれも脱衣場の方から聞こえてくるのだ、と。


 キィキィ……キィキィ……。

 間違いありません。脱衣場の中から聞こえてくる。いよいよ脱衣場のドアを開けてみると、私は自分の目を疑いましたよ。


 先に言っておきますが、その後アベックがアパートに帰ってくることはありませんでした。オーナーに聞いても連絡が取れないと苦い顔をしていましたから。猫のぬいぐるみの正体も分かりません。


 ですが、ひとつだけ分かったこともあります。

 怪談話なんかでよくある呪いとか怪奇現象とか、そのほとんどに明確な理由や原因なんてないのです。幽霊だのお化けだの、この世の不可解な現象に名前を付けただけなのです。そういうものなのです。幽霊だって気まぐれなのです。幽霊こそ気分屋なのです。未練、恨み、嫉妬、人間の一番不確かで厄介な感情というもののせいで成仏できないのですから。こうすれば呪いは避けられるなんて綺麗な模範解答なんてない。私たちにできる事といえばせいぜい気をつけることくらいなのです。


 だから、どうして友人が脱衣場で首を吊っていたのかも分かりません。

 彼のポケットからはみ出した隣室の合鍵が壁に擦れて、キィキィと音を立てていました。その音がどうして彼が生きているうちから聞こえていたのかも分かりません。


 あのアパートで起きたこの不可解な事件について、その正体は今でも分からないのです。




(了)

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隣音 和団子 @nigita

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