翌朝、さっそく隣室のチャイムを鳴らして青年に告げました。青年は友人の心配もしてくれました。早く医者に見せた方が良いとも言ってくれました。


「友が大変なのにすまないね」

「いいのですよ。困った時はお互い様だ。それに小さなゲェジに長いこと入れて猫に窮屈な思いをさせるのも気が引けますし」


 アベックはちょうどその日に里へ帰る予定だったらしく、玄関には大きな荷物と飼い猫を入れるためのゲェジも置いてありました。


「では、シノブをよろしく頼みます。餌は小皿に入れて、無くなったら補充で構わないが、水は毎日朝と夜の2回は必ず新しいのをやってください」


 あと暇ならたまに遊んでやってください、と青年は付け加えて、合鍵を渡してくれました。

 そうして私はアベックを見送ったのです。おめかしした彼女も私にぺこりと小さく挨拶をしてくれました。仲睦まじい2人の背中を見ると、私は良いことをした、と気分が良くなりました。その時は、ね。


 ああ、戻れるならその時に戻りたい。すみません。水をもう一杯だけ。……ありがとう。


 その日は私はバイトが入っていましたので、猫のことは友人にも伝えました。


「遅くなるかもしれないから夜の水やりは君にお願いするよ。それと、もし気分が優れたら猫と遊ぶと良い。ペットは人の心を豊かにしてくれるから」


 そして私は預かった合鍵を玄関ドアの内側に引っ掛けてから、支度をしてバイトに出掛けました。夏休みすぐということもあって、店はいつもよりも大きな賑わいでした。案の定帰りが遅くなってしまいましてね。帰宅したのは日付が変わる寸前でした。帰ってくると友人は珍しく布団から出てたのですよ。具合はどうかと聞いてみたのですが、彼は「夜の水はやったよ」と答えるだけで、どこか上の空でした。頬は痩せこけてしまってあばらも浮いていました。


 深夜1時になると、その夜も隣からキィキィと猫の爪音が聞こえてきました。


「どれ、寝れないなら遊んでやるか」


 私が布団から出ようとすると、友人も起きていたらしくて、私の腕をおもむろに引いたのです。


「夜中に遊びすぎるのは猫を疲れさせるから、かえって良くない」


 消え入りそうな声で彼はそう言いました。か細い声とは裏腹に、私の腕を掴む力は強く、目もひん剥いてましたから私は怖気づきましてね。「そういうものなのか」とだけ言って再び布団に入りました。


 なぜ、あの時友人の腕を振り払って隣室に行かなかったのか。ええ……今でもひどく後悔していますよ。


 翌日、昨夜のバイトでの重労働が堪えたのか、私は昼前まで寝坊してしまったのです。時計を見て跳び起きると友人はすでに布団を出ていました。


「朝の水やりは済ませておいたよ」

「そうか、それはありがとう。ところで体の調子はどうだい?」

玩具おもちゃの紐を振ってやるとさ、前足を器用に使って掴もうとするんだぜ。猫って案外可愛いものだな」


 友人には私の声が届いていないのか、これまた見当違いなことを言ったものです。いくら具合を聞いても、小さな舌で水を飲むのが可愛いだとか、足にすり寄って甘い声を出すのだとか、猫のことばかりでした。

 そうこうしている内にバイトの時間が来たものですから、今日も帰りが遅くなるかもしれないと伝えて玄関を開けようとすると、玄関ドアに引っ掛けた隣室の合鍵が無いことに気が付きました。

 友人に在処を聞くと、朝の水やりの際にそのままポケットに入れたままにしていたらしい。彼は得意気に合鍵を取り出して振って見せてきました。そして、まるでダイヤモンドでも見つめるような恍惚な眼差しでその合鍵をずっと、ずっと眺めていたのです。


 はあ、そしてです。その日の夜でした。ええ、忘れもしませんよ。決して。

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