番外編

第零話 あの空に

 明李あかりは唸っていた。


 右手には墨の付いた筆。目の前には薄紅色の短冊。


 そう、近日、明李の暮らしている家の近くの村で七夕祭りが開催されるのである。


 野暮用でその村へ行ってきたという養祖父の昌武まさたけから「何か書け」と短冊を手渡されたのだ。おそらく村の店かどこかに置いてあったのだろう。ちゃっかり拝借してきたのだ。

 置いてあったのなら「ご自由にお持ちください」的な物だとは思うが——むしろそうでなければ昌武は盗人になってしまう——その村の住人でもないのに勝手に持ってきてしまっていいのだろうか、と明李は戸惑う。とはいえその短冊は明李の手に収まり、持ってきた犯人は早々にどこかに行ってしまい、わざわざ返しに行くほど律儀な心は持ち合わせていなかった明李は、溜め息ひとつ、願い事とやらを書くことにしたのだった。


 決心したまでは良かった。

 いざ向き合うと何を書いたらいいのかわからない。


 短冊は一枚。下手な願い事は書けない。間違うこともできない。

 唸る。


 いや。でも。

 落ち着け。願い事なんて、今まで叶ったことがあっただろうか?

 あの時神様に願ったことは?

 出生地の七夕で書いた願い事は?

 どれも叶っていないじゃないか。

 この能力ちからは消えていないじゃないか……!


 ミシッ、と右手から軋む音がする。

 明李は慌てて力を抜いた。

 握りしめていた筆が折れていないことを確認し、ほっと息を吐く。

 ようやく能力をコントロールできるようになってきたのだ。感情に任せて、まだ上手く使いこなせなかった前回同様筆なり箸なりへし折るような、これまでの努力を水の泡にするような無様な真似は言語道断である。


「……くだらない」


 願い事なんてくだらない。どんなに願ったって叶いっこないのだから。

 叶わない願いを書くくらいなら、現状可能な物事を書く方がいい。


 明李は、迷いなく筆を動かす。さらさらと短冊に文字が書かれていく。

 最後の文字を書き終えたところで、昌武がどこからか戻ってきた。


「何書いたんだ」


 無遠慮に短冊を奪いしげしげと見る。

 ややあって、「かっ」と呆れたとばかりに吐き出した。


「ちいせぇ願いだなァ!」


 それを聞いた明李はムッとする。


「なんだよ、『じいちゃんの海鮮ウルトラライスボールまた食べたい』のどこが小せえんだよ!」


 ウルトラライスボールとは、昌武の手の平いっぱいの大きさの握り飯のこと。具が新鮮な生魚の場合、手前に海鮮と名がつく。

 これは明李の大好物だった。だから小さいなどと言わせない。言わせてたまるか、と明李は言い返す。

 しかし、それは昌武からすれば些細なことである。いつでも作れるわけではないが、作ることはできるからだ。


「ンなこと書く奴にゃ今後一切作ってやらねぇ」

「なんだよそれ!」


 せっかく書いた願い事を否定され、明李は憤慨する。これがだめなら、他に何を書けばいいというのか。


「いいか、これは空へ上るんだ。あのデケェ空にだ。だからこんなモンじゃねェ、もっとでけぇモン書かなきゃダメだ! 空にいる奴らに手ェ貸させるくらいデケェ願いだ!」


 なんだ、それ。言葉が出なかった。

 何を言っているのかいまいち理解できないが、明李の視線は昌武の指差す空へ自然と吸い寄せられていた。


 広がるのは、澄んだ青。悠々と泳ぐ白。


 あの空へ、この願いを。

 いや、この願いでは小さい。あの雲に埋もれて見えなくなるだろう。

 それよりも大きな願い。昌武も納得するくらいの大きな願い。

 あの雲よりも。あの空よりも?

 わからない。だが、明李にとってそれに匹敵する願いはひとつしかない。


 どんなに願っても叶わない、たったひとつの願い事。


「人間になりたい」


 そう、怪力なんて意味不明な能力を持たない普通の女の子に。


 ぽつりと呟かれた言葉に、昌武は満足そうに笑った。











 墨の滲んだ色褪せた紙を手に取る。

 こんなに小さかっただろうか。あの時手にした短冊はもっと大きかったはずなのに。


 裏表から書かれた文字は読めたものではない。それでも記憶が文字を浮かび上がらせる。

 人間になりたいと、大逸れたことを願ったあの日の記憶。


 この短冊がここにあるということは、結局空には届いていないじゃないかと明李は苦笑する。嘘を吐くなと怒ってやりたくもなるが、その相手は今ここにいない。仕方がないのでこの怒りはいつか再会できる日まで大切にしまっておこう。そう思える心の余裕くらいできている。

 あの日から数年経った今、嘘を吐いてまでこの願いを書かせた理由が、明李にはなんとなくわかるから。


 どんなに願っても叶わないなら、自分から叶えに行けば良い。

 本当に叶えたい事を忘れるな。

 諦めるな。


「叶えてやるよ。それで飛びっきり笑わせてやる」


 短冊を引き出しに戻し、必要最低限の荷を持って家を出る。物音に気が付いた勝由かつよしが顔を上げた。


 数日前、明李の家を訪ねてきた少年、勝由。自分も生贄だと、不老不死の能力があると明李に話した。


「お前と会ったのも偶然じゃねぇんだろうな」

「急になんだよ」

「別に」

「……行くか?」

「ああ」


 もうここに思い残すことは何もない。

 願いへの一歩を踏み出すだけだ。

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生贄者〈ササゲモノ〉 滲宙 @nijimizora

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