第17話 映画『TAR/ター』クラシック音楽界の因習と解放
あらすじ 指揮者であるリディア・ターは大学で教え、財団と組んで女性音楽家を後援し、そして世界でも有数のクラシック音楽のプロ・オーケストラであるベルリン・フィルの常任指揮者でもあった。そのベルリン・フィルと共に行ってきたグスタフ・マーラー交響曲全曲録音の完成まであと1曲まで来た彼女は権力に酔い思うがままに振る舞ってもいた。そんな中で腐敗が芽吹き少しずつ足元が崩れ始める。
以下、劇中に登場する気になったキーワードについてまとめてみた。
◆カバノー 米連邦最高裁判事。トランプ政権の時に指名されたが性犯罪行為の告発があり連邦上院での任命承認に際して告発者に対する攻撃など起きた中で連邦乗員は共和党多数だったために彼の人事は賛成多数で通過した。なお連邦最高裁判事は終身職で当人の希望による事実上の引退か死去以外では通常交代は起きない制度となっている。
本作で背景に用いられている現実の性加害事案・ハラスメントの中でクラシック音楽界に由来しないのはカバノー判事だけ。この違和感が冒頭にぶつけてくる所で話には由来があると示しているように思える。
◆レナード・バーンスタイン 指揮者にして作曲家という二足の草鞋を履きこなし、クラシック音楽での指揮、映画やミュージカル、交響曲や合唱曲など様々な作曲も行っている。ミュージカルと映画両方を手がけた『ウエストサイドストーリー』は世界中で演奏され続けている。歴史的な指揮も多く、ベルリンの壁崩壊直後のベルリンでのベートーヴェン交響曲第9番演奏会でも振っている。若手育成などにも貢献した優れた音楽人だった。妻と子供がいたが同性愛者でもあったという。
◆レニー レナード・バーンスタインの愛称
バーンスタインは50歳前後だというリディア・ターの師匠とされているがその生涯の最後まで現役の音楽家であったバーンスタインと年齢的には噛み合わない指摘は多い。本作では劇中で彼女がなぜレニーを敬愛しているのか示すカットはあるが、見えすぎた嘘という指摘はあるが、主人公の思い入れと音楽の原点を示すためにあえてその懸念を無視して導入したように思える。
◆ショスタコーヴィチ交響曲第5番 第4楽章は何故かテンポについて様々な解釈が存在しており指揮者によって演奏のされ方に違いがあった。超高速で演奏を開始してオケを見事に従わせる指揮者もいれば、テンポを落としてオケが追従できるようにする安全策を取る指揮者など様々。
◆J・S・バッハ 言わずと知れたバロック音楽で多くの楽曲を残した巨匠。この時代の宗教合唱曲の歌詞は女性蔑視が強く劇中の激烈な批判も一理はあるが、音楽としては今日につながる様々な試みを残したのもまた事実である。
◆グスタフ・マーラー ウィーン出身の指揮者にして作曲家で交響曲は演奏され続けている。1911年死去。年の離れた妻のアルマは夫から作曲を禁じられていたというエピソードは有名。そんなアルマは1964年にアメリカで亡くなっている。
◆ヴィルヘルム・フルトヴェンクラー ベルリン・フィルの常任指揮者。カラヤンの先代で戦前から戦後にかけてその座にあった。そのため非ナチ化に巻き込まれた。敗戦までの彼の振る舞いは彼が亡くなるまで批判の的でもあった。
彼は作曲家としても名を残したい願望があり実際に交響曲など書いているが、彼が指揮したベートーヴェンなどの録音音源は今でも聴かれるが彼の交響曲が演奏される機会は多くはない。
◆ベルベルト・フォン・カラヤン フルトヴェンクラーの後継者としてベルリン・フィルを率いた指揮者。ウィーン・フィルでも振っておりフルトヴェンクラー以後の世界に君臨した人物でもある。
仮採用→仮入団→団員投票というプロセスを飛ばしてクラリネット奏者(女性)を採用しようとして楽団員と確執となってカラヤンが亡くなるまで影響を与えた。新人チェロ奏者抜擢のところはこの事件と似た要素がある。
◆グレン・グールド ピアニスト。バッハのゴルドベルク変奏曲のレコーディングで世に広く知られた。当初はオーケストラとの協奏曲共演など含めコンサートをこなしていたが、録音と編集を駆使する事を重視して演奏会からは引退した。そんな彼がゴルドベルク変奏曲の新録音を制作、全く異なる解釈、テンポでの演奏を行なった事で知られる。そしてその録音が遺作となった。
◆ギルバート・キャプラン 実業家でマーラー研究者。マーラーの交響曲第2番『復活』だけ様々なプロオケで指揮をしているという特異な人物でもあるが、音楽家からは顰蹙を買った行為でもあった(劇中登場する架空の人物エリオット・カプランのモデルではないかと推測)。
◆マイケル・ティルソン・トーマス 「MTT」呼ばわりされていた人。アメリカの指揮者でバーンスタインが亡くなった後のアメリカクラシック音楽界を牽引している人物とも言われている。同性愛である事を公表している。
◆ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ アセルヴァイジャン出身のチェロ奏者・指揮者。ソ連時代から世界的に名を知られていたがアメリカへ亡命して音楽活動を続けた。ソ連崩壊後のロシアに戻った。妻のガリーナ・ヴィシネフスカヤは声楽家で彼女の歌唱ピアノ伴奏も行っている。
◆ユーリ・シモノフ ロシアの指揮者。レニングラード・フィルを鍛え上げたムラヴィンスキーの助手など務めた事もあるソ連クラシック音楽の歴史に触れた人物の一人。
◆ベルリン・フィル 世界的に著名な歴史あるオーケストラ。第二次世界大戦以前からあって、それ故に戦後の非ナチ化論争にも巻き込まれた。
◆ジュリアード音楽院 世界でも著名なアメリカの音楽大学。
◆奏者の特殊配置 交響曲の演奏は通常舞台に楽器奏者が配置されるが、演出意図で舞台裏や階上の観客席に奏者が置かれる時がある。ホルスト『惑星』では合唱隊が舞台裏に配置されて扉を閉めていく事でミュート効果を得たり、ブリテン『戦争レクイエム』では天使の声として児童合唱隊を配置するといった演出が用いられる。
◆作曲家のクロスオーバー 現代においても交響曲は書かれていて世界初演など行われている(頻繁ではないがオーケストラなどの委嘱で作曲されて演奏されている事が多い)。このような曲を手掛ける作曲家は映画やドラマ、アニメーション作品の劇伴音楽、ゲーム音楽なども手掛けており越境して作曲をしている。指揮者はというとクラシック音楽を振る人はなかなか劇伴音楽の管弦楽指揮をする事は稀。オケも同様で映画音楽だと専門のオケが担当する事も多い。クラシック音楽のプロオケが劇伴音楽演奏を受けたとしても指揮者も奏者もクラシックの定期演奏会とは異なる事がままある。本作のラストシーンはこのような差別的な音楽観を持つ人とそうではない人で全く異なる印象を与えるものとなった。
『2001年宇宙の旅』の劇伴音楽として「ツァラトゥストラはこう語った」が使われているが音源はクラシック音楽で知られるレコードレーベルDECCAから出ていたカラヤン指揮・管弦楽ウィーンフィルのもの。オリジナルサウンドトラックが発売された際はこの音源は入らず他のものが入っており、さらに映画で音源クレジットも出なかった。これはDECCAの担当者が映画での使用許諾はした際に「名前を出すな」ときう謎の対応を取った事が引き金だった。その音源を制作したDECCAの名プロデューサーのカルショーは本でこの事について会社のおかしな対応の一つとして自嘲気味に書かれていたけど、映画を下に見たからこんな対応が起きたとすればクラシック音楽界にある意識が現れたエピソードでもある。
◆交響曲全曲演奏 英語だとCycle、ドイツ語でZyklus(チクルス)と呼ばれる特定の作曲家の全曲演奏会を意味する(1日でやるものもあれば複数年掛けて分けてのものもある)。交響曲の録音音源が発売されるようになってからは全曲録音版の発売企画もこの言葉で呼ばれるようになった。ベートーヴェンやブラームス、マーラー、ショスタコーヴィチなどほどほどの曲数の作曲家交響曲全曲録音を一つのマイルストーンとして手がける指揮者は多いが、一つの楽団と一緒にというものもあれば複数の楽団でというものもある。ベルリン・フィルのような世界的に著名な楽団で常任指揮者がマーラー全曲録音となればその指揮者にとっては誇れる成果になり得るのは確か。
マーラーの交響曲全曲録音の順序、5番は早い段階で行われる事が多いという(2、3、4、8番は声楽パートがあり純器楽曲である5番は手をつけやすい曲の一つ)。本作でのリディアの解説は映画の都合上の虚構だと理解しておいた方が良さそう。
映画と小説 2022- 早藤 祐 @Yu_kikaze
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