一編の動画。溢れる想い。
伊吹梓
一編の動画。溢れる想い。
「動画、消えてる…」
一回だけ。
たった一回、再生しただけだった。
それだけで、なぜか心が熱くなった。
SNSの相互フォロワーさん。そのタイムラインに投下された、一編の動画。
たった5秒に満たないその動画は、ただ一言を読み上げるだけだった。
映像はテロップだけ。それだけの、シンプルな動画だった。
透明な、摩周湖の水面のように透明な女性の声。
そう。透明。心に浸透する声音。そして儚い。なのに、どこか温かい。
すぅっと浮き上がるように吸い込まれ、ゆっくり静かに霧となり、やがて消えて行く。
消え行くその僅かな時間、柔らかな温もりと潤いを放つ。
たった5秒に満たないその動画に、私の心がそんな感覚に包まれ、揺さぶられたのだ。
再生したあとの十数分。じっと動けず放心してしまった。
気が付くと、鼻の奥がツンとする。泣きそうになっていた。
気を取り直し、寝支度を整える。そしてベッドに身を横たえ、動画の声音を思い返す。
ただ儚さを感じただけじゃない。
あの動画に、あの声音に、それ以上の何かを見たんだ。
この数ヵ月に失った、それまで心の一番大事なところに置いていた、けれど今は蓋をしなければいけなくなった、何かを見たんだ。
涙が込み上げてきたのは、その証。
頭の中のもう一人の私が、そう語りかける。
そうね。そうかもしれない。
もう一度聴いたら、涙ではなく、その先にある何かを感じられるかもしれない。
そして、その大事なものを、あるべき場所に戻せるかもしれない。
そう思い返し、寝入る前にもう一度再生しようと、スマホ画面に映る再生ボタンをタップした。
でも…。
再生できなかった。
『この投稿は既に削除されております』
そんなポップアップが表示されただけだった。
(なんで…?)
分かってはいる。なんで、もなにもない。
もしこれが投稿者ご自身の声なら、すぐに下げてしまうなんてよくあることだ。
声の仕事でもしていない限り、録音した自身の声は、そう簡単に慣れるものじゃない。背筋がゾワッとするくらい、不快なものですらある。
でも。
どうしても、あと一度だけでも、聞きたかった。
どうしても、取り戻す切っ掛けが欲しかった。
*********************************
この数ヵ月の私は、何年もかけて築いたものが端から崩れ落ちていくような、虚しさしかない時間を過ごしていた。
家族に大きな問題が起きたのだ。
一人暮らしの母の、認知症の悪化だ。
会えなかったこの一年ちょっと。その間に、激しい速度で認知症が進んでいた。
もちろん、連絡は取り合っていた。けれど、電話の短い会話では気付かなかった。
やっと会える時期が訪れ、接してみると、まったく会話が成立しない。それどころか、強烈な妄想を語り出す。
これは、長期戦になる。
年単位の覚悟が必要な戦いになる。
母の行く末。私のこの先。ここまで築いてきたもの。
全てが崩れていくような思いが沸き上がり、目の前が真っ暗になった。
私は本業の仕事以外に、ささやかながらも「演奏家」として活動していた。
楽器はギターだ。主にクラシックギターでポップスの伴奏をしている。
ポップス業界では、クラシックギターをメインに弾く人はあまりいない。殆どがスチール弦の
クラシックギターを弾き慣れており、その音質に合ったPA機材設定も、小さなライブハウス向けの機器レベルなら指示出しも扱いも慣れている。エフェクターやその他機材も、生楽器方面の人間としては比較的扱い慣れている。
そんな私は、そこそこサポートで呼ばれ、重宝されていた。
他に、介護施設や保育園でも、たまに演奏していた。
クラシックギターならではの柔らかい音。私の歳の割に、童謡や唱歌、欧米民謡が好きなこと。
私のギターは、クラシックギターの中でも硬質な音が鳴り、大きな音量が出るモデルだ。
それを私が弾くと、音量はそのままに何故か柔らかい音が鳴る、とギタリスト仲間からは不思議がられていた。
そんな丸い音質なこともあって、介護や保育施設の方面でも重宝されていた。
人に音楽を教えてもいた。僅かながらも生徒と呼べる人もいた。
講習のオンライン化やライブ配信の機材・技術もいち早く整えてマスターした。
世の中の混乱の先を見越した活動の準備も、万全だった。
認知症の悪化が発覚したのは、そんなタイミングだった。しかも、尋常でない速度で進行していたのだ。
いま手を打たなければ、手遅れになる。そのギリギリのラインだった。
分かってからすぐ、私は「演奏家」としての活動を停止した。方々にキャンセル連絡を入れ、スケジュールを一旦真っ白にした。
教える方面も「どうしても教わりたい」「不定期で良いから」と言う二人を残し、生徒の募集を停止した。
本業も、シフト制のバイト扱いに変更し、母の介護を優先できるようにした。
迷いが無かったか? と問われれば、もちろん無いわけがない。
しかし、母の命の残り時間と、私の今。この瞬間に優先すべき時間はどちらか。未来はどちらにより多く残されているのか。
考えるまでもない。即答で出せる結論だ。
考えるまでもないことは、一度考えるだけでいい。だから、迷いは絶ち切った。
こうして私自身の準備を整え、それらが一段落したのち、母の介護の環境を整えた。
はじめは役所の手続きだ。これがとても時間がかかる。
介護の業者を介護保険で利用できるまで、数か月を要する。
もどかしかった。なぜなら、その間も認知症の進行は待ってはくれない。
認知症の進行の加速は、死へのカウントダウンが指数関数的に早まることを意味する。
救い上げた砂が、すうっと指先、手の隙間から零れ落ちるような時間だった。
しかもそれは、命の砂だ。
泣いても笑っても怒っても、どんなに踏ん張っても、待っている間に命の砂は零れ落ち続けるのだ。
*********************************
それから数ヵ月。
介護保険の手続きが済み、リハビリやヘルパーさんの手配も完了し、利用が始まった。やっと私や家族だけでなく、外部の手を借りられるまでに環境が整った。
けれど、私は疲れきっていた。
体の疲労だけじゃない。むしろそれは、大した問題じゃない。
笑顔を失っていた。
心が空っぽになっていたのだ。
このまま、母のその時を迎えるまで、この心に笑顔が戻るなんてことはない。
そうとしか思えないほど、心の光を失っていた。
「迷い」だけを絶ち切ったと思っていたハサミは、私の感情も、存在証明をも切り刻んでいた。
*********************************
そんなある日。
その動画を目にした。
空っぽの心に、涙と温もりが一気に溢れた気がした。
そう。私は、これが欲しかったんだ。
いつも見てるよ。
そんなありきたりの言葉でも、私は一言でいいから、言葉をかけて欲しかったんだ。甘やかしでもいい。柔らかい言葉をかけて欲しかったのだ。
もちろん、その動画は私に向けられたものじゃないなんてことは、百も承知だ。
どちらかと言えば、甘い想いを予感させるようなトーンだったから、届ける対象は全く違うだろう。
でも、それでも良かった。
今のこのタイミングでそんな動画が観れた。そんな言葉が聞けた。
それだけで良かった。
空っぽの心に、沢山の涙と温もりが溢れたような気がした。
でもまだもう少し。もう少しだけ、温もりが欲しい。それがあれば、私は何かを取り戻せるかもしれない。
だからもう一度、再生しようとしたのに…。
削除のポップアップを見て、落胆した。
他人の都合なんだから、落胆自体がお門違い。しかも、私個人に向けられたものじゃない。ますますお門違い。
そんなことは分かっている。
分かっているけど…。
もう一度。もう一度だけでいい。
あの声を聞きたい。
私は伝わらないことは百も承知で、文字でこう投稿した。
『消えてる…。寝る前に、一瞬だけ聞こうと思ってたのに』
その人が、この投稿の意味が分かることもないだろうな。それ以前に、気付きもしないかもしれない。そもそもこの動画、私や私みたいな人に向けたものでもない。
正直に言えば、相互フォロワーだと言っても、その方のパーソナリティは何も知らない。
パーソナリティに関することは、プロフィールにも殆んど出ていない。書いてあるのは、凡その年齢だけ。性別も住む土地も、どんな人柄かも、全くわからない。
しかもその人は、掌編をアップするだけ。
フォロワーも四ケタ。私はそのうちの小さな小さな一人、というだけの存在だ。特別に意識されることなんて、あり得ない。
コメントのやり取りもしたことがない。
ただ「いいね」を押しているだけだから、私など尚更「その他大勢」の一人だ。
DMでも送れば、とも考えた。
だけど、ただ「いいね」のやり取りだけの人には気が引ける。
何よりその勇気が絞り出せない。
(これで伝わって!)
どうしようもなくヘタレな方法だ。
そう。今の私は、わざわざ可能性を消すやり方しか出来ない、ヘタレだよ。
全部失って、自信さえも豆粒より小さくなって。
いつの間にか、人と関わり持つことも恐れるようになって。
たった一つの願いも、1%も伝わらない方法しか取れなくて。
でも、伝わるなら…。
その人は、私の投稿に、いつもいいねをしてくれる。
だから、投稿は見てくれている。たぶん。
そう信じるしかない。
何とか、伝われ…。
*********************************
目が覚めると、もうお昼だった。寝すぎて頭が痛い。
ズキズキ痛む頭を抱えながら、ふとスマホを見る。
するといつものように、その人がつけた「いいね」の通知がある。
昨夜、その人にこっそり向けた投稿にも、「いいね」がついていた。
…もしかしたら。
急いでタイムラインを見に行く。
すると。
欲しかったあの動画が、声音が、言葉が、改めてアップされていた。
「…つ、伝わった?」
それは分からない。
他の方からも要望があったのかもしれない。いや「かもしれない」じゃない。きっとそうだろう。
なんせフォロワー四ケタ。その言葉を欲する人は、私だけな訳はないんだ。
それに。システムの仕様でキャッシュが残っていただけかも知れない
けれど。
それでも良かった。
私の空っぽの心が、温かさと…、
「癒し」で満たされたのだから。
そう。失ったものは、それだ。
自分が癒されることだけじゃない。
誰かを、心が窮屈になってしまった、感情を失ってしまった誰かに、たとえ一瞬だけでも温かい何かを感じて欲しい。
音楽だって、そんな想いを抱いて演奏してきたんだ。
私の心に、原点の想いが戻ってくる。
いつの間にか、頭痛もスッと消えていた。
動画が誰に向けたものだって構わない。
いま私が、私を取り戻した。その結果が全てだ。この体の反応が、全てなんだ。
「ねぇ。今日の夜、一人の時間もらえるかな?ちょっと、練習演奏配信、別アカで再開したいからさ」
横でゴロゴロと寝返りを打つ夫に、10か月ぶりの演奏配信の再開を宣言する。
夫は恐らく、心境の変化も何も、よく分かっていない。
でも、分からないながらも、笑顔で頷く。
こうして、私の新たな一日が始まった。
一編の動画。溢れる想い。 伊吹梓 @amenotoriitouge
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