終章



 午後の陽射しが窓辺をあたためている。このところめっきり冬めいた気温だったのだが、まるで一足飛びに春になったようにあたたかい。

 空は青く高く澄んで、鳥の羽毛のように薄い雲が刷毛でひとふりしたように空を彩っている。旅立ちには相応しい日だ。

アデルが師と仰いだ魔女がひっそりと息をひきとったのは、そんな日だった。

――未来を見通せる〈星読み〉の力を持つ魔女パトリシア。彼女は自分の死期が近いことを知っていた。いずれ自分が愛弟子のあとを追うように眠ってしまうだろうことも。だからこそ、彼女は未熟な新しい弟子にすべてを託すしかなかったのだ。

危うい賭けだったが、彼女はその賭けに勝った。

「……ごめんなさいね。あなたには、私の知っている魔法も魔女の秘儀も、ほとんど何も教えてあげることができなかった」

 寝台に身を沈め、パトリはかすかな声でそう謝った。彼女の枕元には、彼女の使い魔である赤い羽根のオウム――メリーが横たわっている。使い魔は、魔女である主人とともに生きる存在だ。パトリの命の火が尽きようとしているこの瞬間、彼もまた永い眠りについたのだった。

いいえ、と師の手を握りしめ、アデルは泣きながら首をふる。

「師匠(せんせい)にはたくさん、たくさん大切なことを教えてもらいました。あなたはわたしにとって、本当に偉大な師匠です」

 パトリはかすかにほほ笑んだ。アデルの背後に立つソルジュと、さらにその隣に静かに佇むブルーノを順に眺め、目を細める。

「この子のこと、頼みましたよ」

「ああ、まかせておくれ」

「……おれが、決してひとりにはしません」

 パトリはうなずいた。

「私は本当に、幸せな魔女でした。誇りに思います、あなたたちのような弟子を持てたこと。それから、こうして親しい友に見送られて眠ることができること」

そして静かにまぶたを閉じる。

「……ありがとう」

 それが、彼女の最期のことばだった。


         *


「それじゃあ、行ってきます」

 家の前でふり返り、アデルは小さく頭を下げた。

 足元に白猫。頭につば広の帽子、手には旅行かばんを提げている。黒い服――喪服だが、期せずして最初にトロイメンへ来たときと同じ格好になった。

 アデルの見送りに来た、ブルーノとソルジュがそれぞれに答えてうなずいた。

「まさか嬢ちゃんまでもいなくなるとはな。さびしくなる」

 道化師の人形を腕に抱いたブルーノは、消沈したように肩を落としている。近ごろめっきり老けこんだ様子だが、無理もないとアデルは思う。彼はひとり娘を亡くしたばかりか、続けて長年の友も喪ったのだ。だが、彼にはまだ――家族が残されている。

老爺の手をとって、アデルは首をふった。

「必ずここに戻ってきます。約束します」

「うん、そうだな。気をつけてな、嬢ちゃん」

アルローズの道化人形は、ブルーノによって新品同様に修復された。使い魔という身分から解き放たれた彼は、ただ静かに眠っているかのようだ。

「本当はおれもついていきたいところだけどね。いじめられるんじゃないかと心配だから」

 ワズロアを肩に乗せたソルジュが神妙な声で言い、アデルはようやく小さく笑った。

「まあ、おれはここでのんびりきみの代わりに店の番でもしてるとするよ。じいさんも、ひとりじゃさびしいだろうしね」

 ソルジュが祖父である老人をふり返ると、ブルーノはくしゃりと顔を歪めた。

「何を言うか小僧。いまさらおまえがおらんでも、わしは気にせんわい。長いこと家にも戻らずふらふら放浪しおって」

「そりゃひどい言い草だな。だけどお互い様じゃないか、おれだっていろいろと複雑だったんだよ。母さんのこともあったし」

「……母親を追いつめたわしを恨んどるのか」

「別に恨んじゃいないさ。恨むとしたらそっちのほうだろう。おれが母さんを見捨てたようなものなんだから」

「わしは、おまえを恨んだりはしとらん」

 ややぎこちないふうの祖父と孫を眺め、アデルはあらためて感じることがあった。

血の絆を軽んじることはできないし、縛りつけられてもいけない。だがどうしたって否定できるものではないのだ。それもまた自分を形成する、大切な要素なのだから。

アルローズのことは、ソルジュとブルーノがそれぞれに、折り合いをつけていかねばならない問題なのである。

 そして、アデル自身も。

「お母さんたちと話し合ったら、すぐに戻ってきます。冬になる前に」

 手をふって彼らにしばしの別れを告げ、アデルはノアをともなって石畳を歩きはじめた。



 さんさんと、陽の光が道に降りそそいでいる。高く弧を描く空を仰ぐと、渡り鳥らしき翼を広げた大きな影がふたつ、悠然と舞っているのがわかった。まるで、旅立ちを見守ってくれているようだとアデルは思う。

 目を細めるアデルの足元で、ノアが感慨深くつぶやく。

「何年ぶりでしょうね、実家に帰るのは」

 そうねえ、とアデルは相槌をうった。

「はなれてずいぶんになるものね。何しに帰って来たんだってお母さんには怒られるかも。叔母さまにもよ。親不孝者だったんだから、覚悟しなくちゃ」

「緊張してますか?」

 まさか、と首をふる。

「家族に会うのに、緊張なんてしてないわ。それになんと言われようと、わたしはわたしだもの」

 いまさらと怒られたら、誠意を尽くして謝罪しよう。帰って来るなといわれたら、お世話になりましたと礼を言おう。自分にはもう、戻るべき場所があるのだ。

かつて魔女の町と呼ばれたここには、アデルにとって大切な、ふたりの魔女が眠っている。いずれまた何年もすれば、ふたたび魔女たちがここへ集まってくるようになるのだろうか。

「魔女であってもなくても、おちこぼれでも、全部わたしだから」

 アデルは闊達に笑った。一度だけ背後をふり返り、そしてまたまっすぐ前に向き直る。

ノアはそんな主人を眩しそうに見上げた。

「こういう言い方は変かもしれないですけど……なんだか、とても魔女らしくなりましたね、アデル」

「そうかもね」

 何かが吹っ切れたように、晴れ晴れとした顔でアデルはうなずいた。

はじめてこの町にやってきた、陰鬱で、頼りなげな様子の少女の面影はもうそこにない。喪である黒衣をまとっていてさえ、希望に輝いている。背筋をはり、胸をそらし、まっすぐに前を見すえた姿は開花した花のよう。

 ――のちの世に、〈夢見の魔女〉あるいは〈夢の救い主〉と呼ばれることになるアデルは、今かぎりない未来に向かって歩きはじめたばかりだった。



                                      (終)

       


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夢見る魔女~アデリエル~ 朝羽 @asaba202109

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