第八章 〈夢見の魔女〉アデリエル
水にたゆたっているような感覚だった。
アデルは図書館のなかを歩いている。えんえんと、どこまでも続く書架の並び。くすくすと笑う子どもの声がした。はっとしてふり向くと、床の上に道化の小さな黒い影が伸びている。
(道化の人形!)
アデルは追っ手の気配から逃れるように足早に移動した。だが、依然として背後から道化の笑い声がついてまわる。
果てしなく続くかと思われた一本道は、ほどなくして出口――一枚の扉の前で終わりを告げた。アデルはドアノブをつかみ、躊躇なく扉を開いた。扉のむこう側は、恐ろしく縦長に伸びた空間だった。
アデルが立っていたのは、階段の踊り場のような場所だ。下を見ればえんえんと続く螺旋階段、上を仰げば逆さになった回廊と柱、直線の階段。まるで三次元では決して成立しない騙し絵の迷宮のようだ。その空間のあちこちに、子ども用のおもちゃや人形、そして古ぼけた書物がふわふわと浮いている。
それらの手作りのおもちゃには見覚えがあった。小さな木馬やあやつり人形。そう――いくつかはブルーノの家で見た覚えがある。古書は魔法の入門書で、アデルも読んだ覚えがあるものばかりだった。
ふっと鼻先を甘い匂いがかすめた。フリーデの花の香り。アデルはその香りに導かれるように、階段を下へ下へと降りた。
しばらくして、小さな子どものような声が聞こえて来た。押し殺したような泣き声だ。どくどくと心臓が鳴り、アデルは足早に階段を駆け下りた。
階段の一番下では、小さな女の子が身をうずくまらせて嗚咽を上げて泣いている。痛ましい姿に、アデルは立ちすくんだ。
この子を、この幼い少女の名前をアデルは知っている。アデルにとって大切な、誰も知らないたったひとりの友達だった。
会いに来ると約束した。だからわたしを忘れないで、と。
夢のなかでは、時間の川は過去から未来へとは流れていない。そう言ったのは、たしかカレッサだ。
少女は顔を上げた。泣きはらして真っ赤に腫れた大きな瞳でアデルを見た。そして、たったひと言つぶやいたのだ。
『うそつき』
アデルは息をのんだ。無意識に、くちびるからぽろりと少女の名がこぼれ落ちる。
「……ロージィ」
そう、それはアデルが夢のなかだけで会うことのできる友達につけた愛称だった。少女の本当の名は。
――アルローズ。
名前とは、それ自体が強力な呪文である。瞬間、アデルはすべてを思い出した。忘れないでと言ったのは自分だった。きっとまた会いに行く、とも約束した。だというのに、実際に忘れてしまっていたのはアデルのほうだった。
(なんてことなの)
あふれてきたのは後悔と、とてつもない罪悪感だ。アデルは膝を折り、その場で顔を覆って泣き出した。
なぜ、こんなに大事なことを忘れていたのだろう。
「ごめんなさい。ごめんなさい、ロージィ」
もっと早く気づいていたら、きっとこんなことにはならなかった。自分が未熟でなかったら。魔女であることを恐れていなかったなら。力を知り、きちんとあつかう術を学んでいたら。自分を否定せずに、受け入れていれば。
苦い後悔に、あとからあとから涙があふれてこぼれ落ちる。己の弱さのために、今までたくさんのことを見過ごし、他人を苦しめていた。
そして知った。大切な人を傷つけたら、自分もひどく傷つくのだということを。
(――ああ、わたしは)
本当に、逃げてばかりいた臆病者だ。
*
嗅ぎなれた薬草のにおいがした。
うっすらとまぶたを開くと、狭い視界の中にいくつもの見慣れた顔が並んでいる。アデルが目覚めたと見るや、そのうちのひとつが叫びをあげ、首にすがりついてきた。
「……アデルっ!」
白くてあたたかな猫の体。ノアだ。
アデルは状況がよく飲みこめないまま、さかんに頭をこすりつけてくる白猫を受けとめた。無意識に上体を起こそうとしたところで、ようやく自分はベッドに横たわっていたのだと気づいた。
大きな手が背中にあてられ、起き上がるのを助けてくれる。手の主はブルーノだった。いつも穏和な笑みを浮かべている好好爺は、なぜかすまなさそうに顔をくもらせている。
「……ありがとうございます」
礼を言うと、彼はいっそう悲しげに眉尻を下げながら、首をふった。
「すまない、嬢ちゃん」
「え……なにを」
かすれた声で何を謝るんですか、と訊ねようとしたとたん、アデルは急激なのどの渇きをおぼえ、激しく咳きこんだ。すかさずカップが差し出され、「ゆっくり飲んで」とくちびるにあてられる。
言われるがままに口をつけると、蜂蜜入りのミルクだった。少しぬるかったが、いつか飲んだのと同じほのかな甘さにこころがほぐれた。半分ほどの量を飲みほし、ようやく息をつく。
「よかった、もう大丈夫よ」
そう言って微笑んだのは、ベッドの傍らに座るカレッサだった。
「カレッ、サ?」
確かめるように名を呼ぶと、彼女は安心させるかのようにアデルの手を握った。カレッサの隣にはブルーノが、そして肩には黒いカラス――ワズロアが止まっている。みな一様に、ほっと安堵したような表情だった。
「わたし……?」
置かれた状況を把握しようと思考をめぐらせようとしたとたん、みしみしとこめかみがきしむように痛んだ。
「……ああっ!」
「アデル!」
悲鳴を上げ、頭を両手で抱える。反動でノアがベッドのふちから転がり落ちたが、なんとか床に着地した。すぐに異変に気づいたカレッサがアデルの体に手を回し、感触をたしかめさせるように強く抱きしめた。
「だいじょうぶよ、安心して。ここは安全だから。恐れるようなことも、あなたを傷つけるようなものも何もない」
カレッサの言葉が鼓膜をとおして心に染みとおっていく。頭痛がようやくおさまってきたところで身をはなすと、カレッサは気遣うようにこちらを覗きこんだ。
「焦らないで、訊かれたことにだけゆっくりと答えて。……アルローズに会ったのね?」
うつむきがちに額を下げ、アデルはこくりとうなずく。ようやく思い出せた、すべてを。
「何かされた?」
アデルは激しく首をふった。
「か、かばってくれたから。わたし……、わたしが呼んでしまったの、彼を」
「『彼』って、ソルジュのことか!?」
切羽詰って訊ねたのはワズロアだ。アデルは再びうなずいた。
「実の子だなんて知らなくて、信じたくなくて。ひどいことを言って傷つけたのに。だけど、ソルジュはわたしを……」
混乱が尾を引いて、冷静に喋ることができない。言っていることが支離滅裂だとわかっていたが、止まらなかった。
彼があの場から自分を逃がしたのだと、今はっきりとわかった。ソルジュは最後までアデルを守ろうとしてくれたのだ。
「利用されたんだって勝手にひがんで、聞かなかったの。わたしは弱くて、愚かだったから。気づかなくて、せんぶ――」
言葉がだんだん嗚咽に変わってゆく。こらえきれず、ついにしゃくりあげてしまったアデルを両腕に抱きしめ、泣きやむまでカレッサはずっと背中をさすってくれていた。
「……ソルジュは、どうなったの?」
ようやく感情の昂ぶりがおさまったアデルは、カレッサに体をあずけたまま疑問をもらした。訊いても誰にも答えられないと知っていたが、それでも問わずにはいられなかったのだ。
「わからないわ」
カレッサは痛ましげに首を小さく横にふった。
「たぶん、あいつはもう母親に囚われちまったはずだ」
答えたのはワズロアだ。ブルーノの肩に大人しく止まっている姿は、心なしか消沈しているように見える。
アデルは顔を上げた。
「囚われるって、どういうこと?」
「ソルジュは言ってた。〈石の目の魔女〉は新しい『いれもの』を探してるって。パトリ様と闘って敗れ、退散したときに体を失っちまったから」
思うところがあったのか、カレッサがわずかに顔をしかめる。
「だけど、ふつうの人間じゃだめだ。魔女の血が流れてなきゃ。〈石の目の魔女〉はずっとソルジュを狙ってた。あいつは実の息子で、母親の血を継いで強い力を持ってる。これ以上の身代わりはない。だけど、あいつは母親に乗っとられるのを嫌がって逃げまわってたんだ。パトリ様の保護下にあってもずっとな。だけど、そんなときあんたがパトリ様の新しい弟子としてトロイメンにやって来ることを知った」
「…………」
「あんたにも魔女の血が流れてる。若くて未熟だが、そのぶんソルジュとくらべてずっと乗っとりやすいだろうし、当然〈石の目の魔女〉も興味を持つはずだ。そうすればソルジュとあんた、両方に意識がむいて、逆にひとつひとつが手薄になる。そのぶん隙もできる。あいつはそう考えたんだ。そういう意味では、たしかにあんたを利用してたよ。だけど、あんたを自分の身代わりに母親に差し出すなんてことは、これっぽっちも考えちゃいなかった」
ワズロアの苦渋に満ちた声がアデルの胸に突き刺さるようだった。
「けど、もう手遅れだ。あいつはあんたを守るために魔女の手中に落ちちまった!」
「おやめなさい、ワズロア」
鞭のように、空気がぴしりとしなる。カレッサの厳しい声音にワズロアは口をつぐんだが、アデルはぎゅっと手を握りしめた。尽きぬほどの後悔がこの身にのしかかってくる。すると、それまでずっと黙していたブルーノが間にわって入り、かばうようにアデルの肩を抱いた。
「嬢ちゃんを責めんでやってくれ。責められるべきは、このわしだ」
そして老人は重い声でみずからの罪を告白した。
「アルローズが力に固執したのは、ほかならぬ父親であるわしが、あの子を否定したからだ」
「父、親……?」
呆然と聞き返したアデルをすまなそうに見つめ、彼は言った。
「そうだ。アルローズは、わしの娘だ」
驚きの告白に、息をのむ。アデルの脳裏に閃くものがあった。あの道化人形と同じかたちの、操り人形――。
「そう、嬢ちゃんも覚えてるだろう。あの娘の手元にある道化のあやつり人形は、わしがむかし、この手でつくってあの子に渡したものだったんだよ」
ブルーノは淡々と語る。
「わしはアルローズがふつうではないことを認めんかった。認めたくなかった。自分の娘が死んだ妻と同じ魔女だと。そのことが、かえってアルローズを魔女の力に固執させた。アルローズがああなってしまった原因はわしにある」
ブルーノはそう結び、静かにうなだれた。打ちひしがれた老人に、誰も声をかけることができなかった。
「ごめんなさい。頭が……、痛い」
アデルはぽつりとつぶやいた。たてつづけに知った事実に、思考が完全に混乱している。
これ以上何も話したくないし、聞きたくなかった。理性ではなく感情が、受け入れるために時間を必要としている。
「そうね。少し眠りなさい、アデル。ソルジュのことは明日考えましょう」
カレッサは目を伏せ、アデルを横にさせた。素直に目を閉じると、すぐに睡魔が腕を広げ、夢すら見ない深い眠りにアデルを引きずりこんだ。
――次にアデルが目を開けたとき、そばについていたのはカレッサだけだった。ノアはベッドの上で身を丸め、すうすうと寝息を立てている。窓の外に目をむけると、すでに日は落ちたのだろう、漆黒の闇だけが広がっていた。
カレッサは書き物机に向かい、本を読んでいるふうだったが、アデルの視線に気づいて立ち上がり、すぐそばに寄って来た。
「起きたの。具合はどう?」
「だいぶよくなったわ」
身を起こし、アデルは答える。
「カレッサ、聞いて欲しいことがあるの」
「なに?」
「前に話した夢のことなんだけど……わたし、ぜんぶ思い出したの」
「ぜんぶというのは?」
「今までに見た夢を。わたし、ずっと〈石の目の魔女〉に会っていたの。でも、いつも目が覚めるたびに忘れてしまっていた」
「それをすべて思い出したのね」
「ええ。今ごろになって、どうしてなのかわからないけど」
「それはきっと、あなたのこころの準備ができたから。あなた自身が受け入れようと決めたからよ」
「準備……?」
カレッサはうなずく。
「前にもすこし話したけれど、あなたは〈夢見〉、そして〈夢渡り〉の魔女よ、アデル。あなたのお母さまや叔母さまが気づかなかったのも無理ないわ。かぎられた場所でのみ発揮される力だし、あなたは夢のことをお母さまたちに相談したことはなかったでしょう」
「ええ」
図星だったので、恥じ入ってうつむいた。一度も夢のことを話さなかったのは覚えていなかったせいもある。だがもし、いまここに母や叔母がいたとしても、アデルは相談しようとは思わなかっただろう。
カレッサはアデルをなぐさめるように首をふった。
「けれど、無理やり目覚めさせるようなことをしなくてよかったと思うわ。夢は個人差があるし、無意識の領域にあるから特に未熟な魔女にとっては危険なの。前に話したでしょう? 夢のなかは現実よりもはるかに自由が利かない空間よ。その一方で、〈夢見〉以上に自由にふるまえる人間はいない。〈夢見〉は肉体を置き去りに、精神だけを遠くへ送ることができる。時間も距離も飛び越えてね」
過去も、それから未来も。
「いまのあなたが、誰かのむかしに出会うことも、またその逆も可能なの」
アデルが出会った夢の少女は、自分を姉のように慕ってくれた幼いロージィは、アデルにとっての「いま」存在している人間ではなかった。
だから、気づかなかったのだ――というのは、おそらく言い訳なのだろう。
アデルは胸元をおさえた。深呼吸してから、こう切り出した。
「……カレッサ。わたし、あなたのことも夢で見たの」
「ええ」
「全部知っています。だからもう、本当のことを教えていただけませんか。――パトリ師匠(せんせい)」
その名で呼ばれても、カレッサは驚かなかった。
親にいたずらが見つかった子どものように困った笑みを見せ、寝台のふちに腰を下ろす。
「いつ気づいたの?」
「さっきです。前に一度、あなたがあの庭に立っている姿を夢で見たことがあるから。それに、〈石の目の魔女〉のことを『アルローズ』と。わたしが気づくように、わざとそう呼んだのでしょう」
「その通りよ。仕向けたのではなくて、気づいても気づかなくてもどちらでもいいと思ったからだけど。あなたはちゃんと見抜いたわね」
「どうして今まで黙って……いいえ、別人のようなふりをしたんですか?」
「前に言ったでしょう。あなたと友達になりたかったからよ。師と弟子ではなく」
「わたしに同じ年ごろの友達がいなかったからですか?」
皮肉ではなかった。カレッサは肩をすくめ、たしかに、と認めた。
「それもあるわ。だけど、私がもし最初から師として接していたら、あなたがこころを開くのにもっと時間がかかったのではないかしら?」
その指摘は正しいと思った。だが納得がいったわけではない。
「アルローズとわたしが似ているから、彼女と同じようになることを恐れたのですか?」
カレッサ――パトリはアデルを見つめ、「そう思う?」と問うた。アデルはかぶりをふる。
「思いません。むしろまったく逆だと。でも、アルローズはわたしたちは似ていると言いました」
「そうね。真逆だからこそ、磁石のように引き合ったとは考えられないかしら」
アデルがパトリを見つめ返すと、彼女は確信を深めたようにうなずいた。
「精神の相似、とでも言うのかしら。あなたとアルローズはまったく対極の存在で、だからこそ共通点が多くあったのよ。自分の力に自信があるために孤独だったアルローズ。逆に自信がないために孤独だったあなた。鏡を好むアルローズ、鏡を厭うあなた。亡き母親への憧憬と、実母への反発。そして何より、唯一の共通点はあなたたちがどちらも魔女だったということ。〈英知の館〉は孤独だったあなたちふたりの前に、その扉をひらいたの」
場所も、時空も超えて、ふたりの魔女を引き合わせた。なぜなら、〈英知の館〉はそこを必要としている魔女のもとにあらわれるからだ。
「母はおらず、父からは魔女と見なされなかったアルローズは、自分の孤独を理解してくれる『友達』を長い間ずっと欲していた」
脳裏に、泣き叫ぶ幼い少女の姿がよみがえった。魔女であることに固執してしまったがために、ほかの価値を見出せなくなってしまっていたアルローズの姿が。
「白状するとね、私はあなたに期待していたの。同じ孤独を抱えたあなたになら、アルローズを救えるのではないかと思って。決してあなたを危険に晒すつもりはなかったのだけど、彼女とあなたがふたたび出会うように仕向けたことは否定できないわ」
驚いて、アデルはパトリを見つめた。
「じゃあ、〈英知の館〉のことを示したのも、あの祭りの夜も……」
パトリはごめんなさいね、とさみしそうに微笑む。
「そう。あなたには怒る権利があるし、なじってくれていいわ。でも私にとって、アルローズはいまも大切な弟子なの。あなたと同じに。できるなら、こんなふうに道を違えたくはなかった……」
パトリは両手を広げ、顔を伏せた。と同時に、背が丸められ、見る見るうちにその姿が縮む。鮮やかな赤毛は毛先から根元にむかって白く萎びてゆき、手足は枯枝のように節ばった細いものへと変化していく。
ひとまたたきの間にパトリは老婆の姿へと変貌を遂げていた。言葉をうしなったアデルに、彼女は苦笑した。
「これが私の本当の姿ですよ、アデル。アルローズを止めようとした際に、私も力の多くをうしないました。あなたの前ではつねに若い娘の姿を保ってなければならなかったから、なかなかの苦労でしたよ」
たしかに〈石の目の魔女〉は、パトリから若返りの魔法を教わったと言っていた。しかし、実際に目にすると衝撃も大きかった。
「じゃあ、あなたの弟だという……あの、メリーは?」
「あの子は人間ではないわ。術で姿を変えた、私の使い魔ですよ」
アデルははっとした。そういえば、純粋な魔女であるカレッサから、使い魔の話を一度も聞いたことがなかった。
使い魔の力は、その主人の持つ力に比例する。パトリの使い魔ともなれば、人間に姿を変えられても不思議はない。そこまで考え、アデルはベッドの上で眠るノアに目を向けた。
「まさか、ノアは知っていたんですか……? メリーがあなたの使い魔だって」
ええ、とパトリは言いづらそうに目をそらした。
「メリーが伝えました。私がパトリシアだということも。そのうえできつく口止めしていたのです」
「ど、どうしてですか?」
もうこれ以上驚くことはないと思ったのに。度重なる衝撃で、頭がどうにかなってしまいそうだ。
「あなたの成長を促すためですよ、アデル。あなたがひとりでも強く在れるように、使い魔がいなくとも自信をもてるように、距離をおきなさいと私が命じたからです。ノアを責めないであげて。この子はあなたに隠し続けることでずっと苦しんでいたから」
「ノア……」
いっとき、ノアの様子がおかしかったのはそのせいだったのだ。責めるなど、とんでもなかった。彼女もずっと秘密を抱えながら、アデルのために口をつぐんでいてくれたのだ。
(ごめんね。わたし、何も気づいてあげられなかった。いつも一番近くにいたのに。本当に、甘えてばかりだった)
大切な友を、なんども慈しむようにそっと撫でた。しかしノアは深い眠りの中にあるようで、目覚める兆候はなかった。もしかしたら、ふたりきりで話すためにパトリが魔法を使ったのかもしれない。
――このままではだめだ、とアデルは思った。
(変わらなければ。ノアが信じてくれるに値する、ふさわしい主人にならなくちゃ)
アデルはあることを決意した。そして、必死に思考を働かせた。〈石の目の魔女〉、アルローズ、鏡、夢の中で手に入れた情報、疑問、そしてほかならぬこの家にある――『開かずの間』。
頭のなかに、閃くものがあった。
「教えて下さい師匠(せんせい)。この家にある開かずの間。あそこに封印されているものは一体なんですか?」
パトリは一瞬、息を止めたようだった。不意をつかれたためか、狼狽がはっきりと顔に表れている。
「アデル。それは……」
「わたし、ずっと不思議に思っていたんです。師匠が用意してくださったこの家は本当になんでも揃っていたけど、鏡だけはなかった。鏡は生活の必需品、とりわけ魔女には重要なものです。なのに、どうしてだろうって」
「…………」
「アルローズは鏡を使った魔法を得意としていました。ここからは完全に私の推察ですが、開かない扉のむこうには鏡がある。それも、アルローズが最初に逃げこんだ、彼女そのものとも言える鏡が。違いますか?」
かまわずアデルがひと息にたたみかけると、ずっと沈黙を守っていたパトリは深々と嘆息した。
「……まったく、大した推察ですね。それだけでも充分に魔女の素質がありますよ、アデル」
「師匠」
パトリは肩を落とし、あなたの言うとおりです、と認めた。
「ええ、そうです。あの扉のむこうにはアルローズの鏡がある。けれど、あの扉は開きません。外側の封印はたしかに私のもの。けれど扉の内側からアルローズ自身が誰にも脅かされないために封印を施しているの。だからアルローズでなければ、あそこには立ち入ることはできません」
アデルには切り札があった。
「では、『夢のなか』なら、どうですか?」
「アデル……!?」
何を言いだすの、とパトリは目をみはる。
「〈夢見〉は夢のなかで、意識だけを遠くに飛ばすことができるんでしょう。時間も距離も関係なく。ならば扉も封印もおなじ、意味などなさないはずです。ちがいますか?」
「…………」
アデルの問いに、パトリは黙秘をもってこたえた。だが皮肉なことに、それ以上雄弁な回答はなかった。
揺らがぬ決意の柱を胸に立て、アデルは手のひらをぎゅっと握りしめた。
「わたし、行ってみます。アルローズと会って、もう一度話すために。そして彼を――ソルジュをとり戻すために」
*
アデルの決意を聞くと、パトリはすぐさま隣の部屋に行って、小さな陶器の壷をとってきた。壷を部屋の四隅に設置し、そこに満たされた香油に火をともす。細い紫煙が壷から立ちのぼり、たちまちのうちに室内が甘い芳香につつまれる。
「魔女の使う香壷です。精神を落ちつかせる効力があります。少しでも助けになれば。もし夢に惑い、行く先を見失ったら、この煙を道しるべにするのですよ」
アデルはうなずいた。フリーデの花の香り。この花が、いまもむかしもアデルを夢へと導いてきた。
「アルローズもこの花が好きでしたよ。おそらくあなたの影響でしょうね。……本当に、行くのですか?」
アデルははいと答えた。意思は変わらなかった。
「行きます。アルローズに会わなくちゃ。それに、ソルジュをこのままにしてはおけません。彼はわたしを助けてくれました。今度はわたしの番です。逃げるのも、何も知らされずに守られるのも、もうたくさんだから」
「……あなたは魔女としてはまだ新米なのですよ」
「わかっています。それでも――」
自分に〈夢見〉の、そして〈夢渡り〉の力が本当にあるのなら、とアデルは続けた。
「できるかぎりのことをします。やっとわかったんです。甘えるのはもう、終わりにしなければならないって。これ以上、わたしは自分を嫌いになる理由を増やしたくない」
「決心はかたいようですね」
再び寝台に横になるアデルの枕元に、パトリは静かに腰を下ろした。老いた手が、そっとアデルの額を撫でる。目を伏せると、閉じたまぶたのむこうから穏やかな声が話しかけてきた。
「私もあなたを信じて託します。あなたがあの子を、アルローズを苦しみから開放してくれることを」
「はい」
「私はここであなたを見守ります。もし眠るあなたに何か異変が起きれば、すぐさま叩き起こしますからね」
その物言いに『カレッサ』の名残を感じて、アデルはかすかにくちびるをほころばせた。
「何かあったら、すぐに戻ってきなさい。どうか無理しないでね、アデル」
アデルはうなずく。瞳を閉じていくらもたたないうちに、アデルはするりと眠りのなかへ落ちていった。
*
気がつくと、アデルは廊下にひとりで佇んでいた。どうやら部屋の前らしいということはわかるが、視界に映る壁の線ができの悪い抽象画のようにぐにゃりと歪んでいる。おまけに同じ形をした扉が両側に幾つも並んでおり、どちらへ進んでいいのかもわからなかった。
思えば、夢のなかを無意識ではなく、自分の意志で「歩こう」とするのはこれがはじめてだ。力が未熟なために、ひずみが生じているのかも知れない。アデルが迷っていると、ふっと甘い香りが鼻先をかすめた。と同時に、足元を紫煙が漂い、ふわふわと細い糸のように特定の方向へ流れていく。アデルは迷わずその後をたどった。
たなびく煙はただひとつの扉にたどり着くと、ここだと示すように床の上でとぐろを巻いた。示された開かずの部屋の前で立ち止まったアデルはごくりと喉を鳴らす。
(いまのわたしは精神だけ。わたしは夢見の魔女。だから、できるはずよ)
戸の表面に手を伸ばした。実際には触れていないはずなのに、なぜかそこに堅い木の感触がある気がする。わずかにためらい、アデルは思いきって腕を差しいれた。
(通れる。通れるはずよ、自分を信じなさい)
呪文のように何度も唱え、アデルはぎゅっと両目を瞑った。そして、ぐぐっと体を前に押しこむ姿を思い浮かべる。おかしなことに、ちりちりと肌の表面が痺れたような気がして、水の抵抗にあったようにほんのわずか体が押し戻される。しかしすぐに反発は消え、通れたという確信がアデルのこころをつらぬいた。
恐る恐る目を開くと、がらんとした何もない部屋の中央に立っていた。成功したのだ。
窓は厚い板に裏打ちされ、従って光源もないはずが、なぜかはっきりとその全容を目にすることができた。広さはアデルの使っている部屋と変わらないが、室内はどこか漠として寒々しく感じられる。家具らしい家具も、たったひとつを除いては何も置かれていない。――すなわち、部屋の正面奥に立てかけられた、アデルの背丈ほどもある巨大な姿見以外には。
それを見た瞬間、アデルはあっと息を飲んだ。
鏡の表面に浮かび上がっていたのは、まるで眠っているようなソルジュの上半身だった。
「ソルジュ!」
名を呼んで駆けよる。彼の体はガラスの表面から生えたようになっていた。腹部より下、および右腕の途中からは鏡の中に消え、まるで磔にされた囚人のようだ。触れようとするが、指はすり抜けるだけで何も起こらない。
アデルは心臓をつかまれたような心地がした。
「ソルジュ、しっかりして! 目を覚まして!」
焦燥に駆られ、悲鳴のような声で名を呼びつづける。ややあって、ソルジュのまぶたがぴくりと反応した。うっすらと開かれた灰紫の瞳が、焦点を定められずに宙をさまよう。
「アデル……?」
意識をはっきりさせようと首をふり、彼はひどく憔悴した声でつぶやいた。
「どうして声が聞こえるんだ……せっかく、逃がしたのに」
(彼の目には、わたしの姿が見えていないの?)
そうと気づき、アデルは彼の名を呼んで、ここにいるのだと訴えた。
「信じて、ソルジュ! わたしはここよ!」
手を伸ばしてソルジュの頬に触れ、焦りながら何度もくり返す。そのうち、ようやく空耳や幻聴ではないと彼は思い至ったようだった。
「まさか、本当にそこに居るのか?」
「いるわ。夢を通って来たの」
「だめだ、いけない……今すぐ離れるんだ。ここには、母、が」
言葉が途切れ、彼は苦悶の表情を浮かべた。顎をのけぞらせて喉をさらし、短く息を吐き出したかと思うと、がくりと首を折る。
「ソルジュ!」
アデルが悲鳴を上げると、その声に反応したように彼は再びゆっくりと頭をもたげた。目を細め、薄い微笑をくちびるに刷く。ソルジュの目線は今度はしっかりとアデルを認識していた。そこにわずかな違和感を覚える。
「あなた……アルローズね?」
確信を持ったアデルの問いに、彼は――彼女は口角をつりあげた。
「正解よ。〈夢の通い路〉まで作って、わざわざここまで来たのね。ねえ、私の言ったとおりだったでしょう? あなたは力を持っているって」
「あなたにはわたしが見えているのね。ソルジュは、彼をどうしたの!」
叫ぶアデルに、アルローズはここよ、と自分の胸を指ししめした。
「いまは眠っている状態。正確には、私が浸食しつつあるけれど」
「体を乗っとろうというの? 彼を解放して!」
肩を揺らし、アルローズはくくっと笑った。
「無理な相談ね。これは私から逃げた罰なんだもの」
「どうして! 実の子なんでしょう!」
「だからよ。それに血の繋がりを持ち出すなら、最初に私を見捨てたのはこの子のほうだわ」
アデルはぐっと詰まった。
「ソルジュはどうなるの」
「安心して、別に死ぬわけじゃないわ。私の意識下で眠りつづけるだけよ、ずっとね」
それが言葉の綾などではなく、文字通り『ずっと』なのだとアデルは悟った。
でも、それは。永遠に眠りつづけるなら、死んでいるのと同じではないのか。
「そんなにソルジュが心配? この子が好きなの?」
青ざめたアデルを、あざ笑うかのように魔女は問う。
正直なところ、自分でもこの気持ちがそうなのかよくわからなかった。ただ助けたいという想いだけは本物で、逡巡したのち、アデルははっきりとうなずいた。
「わたしは、ソルジュを助けたい」
「……そう、いいわ。じゃあアデル、あなたの体を私にくれる? そうすれば、この子は解放してあげてもいいわ」
「あげようにも、わたしの体はここにはないわ。いまのわたしは精神だけで夢を通ってここへきたのだもの。どうやってあなたに明け渡せばいいの?」
「簡単よ、あなたがこの鏡へ入ればいい。そうすれば私はここを出て、あなたが来た路を逆に辿っていく。そうすれば入れかわりが可能になる」
追いつめられたアデルはくちびるを噛んだ。アルローズはまるで玩具をねだる子どものように、狡猾な笑みをひらめかせる。
「私は別にどちらでもかまわないのよ。あなたでも、ソルジュでもね」
アルローズが鏡に埋没していない左腕を伸ばし、アデルの髪に触れた。瞬間、びくりと身が震え、アデルは思わず後退する。
(だめよ、恐れては)
自分を叱咤し、アデルは答えようと口を開いた。
「いいわ、わかっ――」
「……だめだっ!」
返答を遮るように、ソルジュのくちびるから彼自身の肉声が飛び出した。仰ぎ見ると、焦燥の滲んだ灰紫の瞳がはっきりとこちらを睨んでいる。
「承諾するな、アデル。他人が自分に成りかわるんだぞ。それは魂の牢獄に他ならない。『ここ』は、凍えるように寒いところだ。こころだけ永久に縛りつけられるなんて、死よりもつらいことだ」
「ソルジュなの?」
「ああ、だけどもう時間がない。じきに母にのっとられる」
ソルジュは苦渋に満ちた表情で、首をうな垂れた。
「もとはと言えば、これはおれが自分で撒いた種だ。孤独だった母を理解しようとせず、恐れて見捨てようとした。これはその酬いだ。贖罪になるなら、おれは喜んで母に体を譲るよ。おれのことは……きみが覚えていてくれたらそれでいい」
「――いやよ!」
とっさに口から悲鳴のような声が漏れた。アデルは激しくかぶりをふる。失うことを考えただけでも、胸が張り裂けそうなほど辛かった。
「どんな理由であれ、おれはきみを利用しようとしたんだ。どうか、ゆるしてほし――」
「だめ、待って、ソルジュ!」
必死で縋りつこうとしたアデルの手首を、ソルジュがつかむ。だが、つかんだその意思はすでにアルローズのものだった。
「まったく、強情な子ね」
悪態をつきながらも、魔女はくちびるを舐めた。アデルを見つめ、細めた瞳はむしろ、置いていかれた子どものようにさみしげだ。
「アデル、いっそのことあなたもここへ来る? ひとりなら辛くても、ふたりならきっと、耐えられるでしょう?」
実際に鏡の表面に触れているわけではないのに、指先がひやりと冷えたような気がした。アデルの背筋に悪寒が走る。ソルジュがここは凍えるほど寒いといったわけがようやくわかった、この氷の檻は魔女のこころそのものなのだ。
そう悟った瞬間、胸がしめつけられるような思いがした。
(こんな冷たいところに、ずっとひとりで――)
真逆だからこそ、磁石のようにひきよせられたのではないかとパトリは言った。父には自らの存在を否定され、師とも袂を分ち、実の子にすら背をむけられたアルローズは、自分のこころを、その孤独を理解してくれるものを長いあいだずっと待っていたのだ。
わたしと、おなじだ。
――そうだ。アルローズはわたしの鏡なんだ。
ようやく、はっきりとそう認めることができた。〈英知の館〉がときを超えてアデルとアルローズをひき会わせたのも。
(似ているからだ、本当に。わたしたちは)
「ロージィ」
声に出して名前を呼び、アデルは両腕をひろげ、抱きしめるかのようにその腕をのばした。驚いたように、彼女が目をみはる。アデルの体は宙に浮き、同化するようにするりと鏡のなかへと溶けこんだ。
そこは真っ暗な闇だった。と同時に、ひどく寒かった。
アデルはアルローズを両腕に包んでいた。だが、抱きしめた体はまるで氷のようだ。
まさか自分から飛びこんでくるとは思わなかったのだろう、とっさに反応ができなかったアルローズもされるがままだ。
「ごめんなさい。わたし、やっと思い出せたの、あなたのこと。忘れていたけど、でも、夢のなかではずっとあなたの声を聞いていたわ」
相手が腕のなかでちいさく息をのんだのがわかった。ややあって、そうよ、と小さなつぶやきが聞こえた。自信に満ちた魔女のそれではない、幼い子どもの声だった。
「……私、ずっとあなたを待っていたのよ。だって、あなたがそう言ったから」
そうだ、アデルが言ったのだ。待っていてくれと。ソルジュが彼女を見捨てたというのなら、自分も彼女との約束を違え、裏切ってしまったことになる。
「憶えているわ。それなのに、忘れてしまって――いままであなたを恐がって、本当にごめんなさい」
「何を……」
いまさら、と嘲笑うかのような声が、しかし弱々しく響く。
彼女のなかの、深いかなしみと憎しみが静かに溶けだしてきたのか、抱いている体までもがどんどん縮んでいくような感覚があった。
「同情なんかいらないわ。アデルが助けたいのはあの子なんでしょう?」
アルローズの指がふっと闇の奥を示す。そこに、鎖につながれたソルジュが佇んでいた。アデルを見つめ、なぜ来たのだと言うように悲しげな顔をしている。
「ソルジュのことは助けたい。でもそれ以上にわたしは、あなたに伝えたいことがあって来たの」
わたしね、とアデルは切り出した。
「ずっと鏡がこわかった。でもそれは、鏡そのものがこわいのじゃなくて、そこに映る醜い自分を見るのがイヤだったの。あなたが言ったとおり、わたしはずっと自分がきらいだったから」
「…………」
「自信を持つということがわからなかった。自分が嫌で変わりたかったけど、一体どうすれば変われるのかもわからなかった。だけどね、こんなわたしを、自分ですら好きになれなかったわたしを、『好き』だと言ってくれた友達がいたの」
魔女だからじゃなく、力があるからじゃなく、アデルがただのアデルであっていいと。
「自分を好きになるのって、本当はすごく難しい。だって自分だから。いいところよりも、悪いところのほうがたくさん見つかる。他人よりも優れたところがなければ、存在してはいけないみたいな気持ちになる」
びくりと、抱きしめた体が怯えたように肩を揺らした。
「でも、そうじゃない。わかったの。変わりたいって気持ちは、自分を否定することじゃない。いまの自分を受け入れて、そのうえでもっとすてきな自分になりたいという願いなんだって」
アデルは腕に力をこめた。その体はもうすでに、自分よりもだいぶ縮んでしまっている。
「わたしはわたしが嫌いだったから、言ってもらうまできっと気づけなかった。だから、今度はわたしがあなたに伝えたいの」
「何を……?」
「ロージィ。わたしは夢のなかの〈英知の館〉であなたと逢っていたとき、ずっとあなたに救われていた。母に追いだされたときでさえ。わたしが孤独になりきらなかったのはあなたのおかげなの。本当にありがとう、ロージィ」
「…………」
「あなたがわたしを慕ってくれたから、わたしは自分を否定せずにすんだ。いつも真剣に話を聞いてくれたあなたのために、知っていることはなんでも教えてあげたかった。本当に、できることなら、あなたの魔女の師匠になりたかった。あなたが大好きだったから」
うそ、とふたたびつぶやく声がある。
「私は、〈石の目の魔女〉よ。ずっとひとりぼっち。誰にも愛されず、誰からも背かれる。……永遠に」
「それはちがうわ。今度こそちゃんとあなたと向き合いたくて、あなたに気持ちを伝えたくて、来たの。わたしがいま、ここにいることがその証明」
「……勝手だわ」
「ええ、その通りよ。でも、もしもあなたが許してくれるなら、もう一度わたしと友達になって。ううん、許せないならそれでもいい。身勝手だけど、わたしはわたしの意思であなたを助けたい」
それから、とアデルは続けた。
「ブルーノ……あなたのお父さんは、あなたを否定してしまったこと、ずっと後悔してる。いまでも苦しんでるの」
「…………」
「そして、わたしがあなたと出会うように導いてくれたのはパトリ師匠よ。信じられないかもしれないけど、師匠もあなたが大事なの。師匠はずっとあなたを愛していたのよ、アルローズ」
アルローズがはっと息をのんだ。否定の声は、今度は聞こえなかつた。
「わたし、夢で師匠とあなたが言い争っているところを見たわ。師匠はずっと、あなたに『ありのままの自分を愛しなさい』とつたえようとしていた。そして今度も、わたしがあなたを開放することを信じて送り出してくれた」
「開、放……?」
「わたしがあなたを連れ出す。ここはあまりに冷たくてさみしい場所だもの。いるだけで、もっともっと悲しくなる。もちろん、ソルジュもよ」
名を呼ぶと、彼は顔を上げた。灰がかった紫の瞳が信じられないというふうに見開かれている。
「ムリよ」
苦い囁き声に、アデルは視線を下げた。アルローズの姿ははじめて出会ったあのときと変わらない、十歳の少女(ロージィ)の姿に変わっていた。
「出られない。言ったはずよ、私の体はもうないの。この鏡が、いまの私の器なんだもの」
「ここは、わたしにとって『夢のなか』なの」
アデルはきっぱりと言った。
「わたしは〈夢見〉の魔女よ。ここが夢なら、わたしの力で変えてみせる。わたしはあなたたちふたりを絶対にここからつれ出すわ」
アデルは右手と左手を、それぞれソルジュとアルローズに差し出した。
「おれはきみを信じるよ」
ソルジュがうなずき、アデルの右手をとった。
「ロージィ、信じて。わたしと一緒に、ここを出ましょう」
ためらいがちに、アルローズがちいさくうなずいた。そしておずおずと、彼女の指がこちらにむかって伸ばされる。アデルはそのどちらも、しっかりとつかんだ。絶対に離さないという決意をこめて。
まさにその瞬間――ピシッと甲高い音を立て、周囲に亀裂が走った。
「!」
アデルとソルジュは同時に驚いて顔をあげる。亀裂は無数に枝わかれしながらまたたく間にひろがり、やがて闇そのものがガラガラと音を立てて崩れだした。
「行きましょう、こっちよ!」
出口がどこなのか、アデルにはわかっていた。ソルジュとアルローズと三人でしっかりと手を繋ぎあい、崩壊をはじめた檻のなかから、外に向かって飛び出した。
*
最初にアデル、そして次にガラスのなかに半分埋没していたソルジュの肉体が這い出てきた。
衰弱した彼の体を支えようとふりむいたそのとき、左手からするりとアルローズの指が離れたのを感じた。
「! ロージィ!?」
アデルの背丈ほどもある巨大な姿見には無数のひびが入り、そこに映る魔女の姿をひどく歪ませていた。アルローズの顔には何もかもを受け入れたような、静かな表情が浮かんでいた。
「いいのよ、アデル。本当は、体が欲しかったわけじゃないの」
「待って、ロー――」
「迎えに来てくれるのはあなただと思っていた。だって、そう約束したんだもの」
まるで、殉教者のような瞳――、アデルがそう思ったとき、アルローズがうすく儚げな微笑を浮かべ、さよなら、と言った。
「来てくれてありがとう。最初で最後の――私のともだち」
ぴしり、ぴしりという音とともに、小さな亀裂が増加していく。同時に、ばらばらと卵の殻のように剥離した破片が床に落ちていく。
アデルは鏡の破片を手で受け止めようとしたが、ガラスは手のひらを素通りして粉々に砕けてしまった。
「ロージィ! どうして!」
「う……」
小さくうめき、意識をとり戻したソルジュが自力で立ち上がったとき、変化は起こった。
彼らの背後、アルローズによって内側から封じられていた〈開かずの間〉の扉が突然開き、小柄な人影が飛びこんできたのである。
「道化人形!?」
身構える暇もなく、人形は恐ろしい形相で鏡に突進すると、硬い木の両腕を突然おおきくふりあげた。
――ガシャン、と派手な音とともにガラスが割れ、かけらが床に落下して砕かれる。人形は、さらにそれを足で踏みつけて粉々にした。
「やめて、何をするの!」
アデルは悲鳴を上げた。しかし人形はこちらに注意を払うことなく、破壊行動を続ける。つり上がった眦、耳の近くまで裂けたくちびる、狂気そのものといった恐ろしい形相で、一心不乱に鏡を砕いていく。まるで、砂遊びに夢中になる子どものように。
「いや、やめて! ロージィが……!」
人形をつかもうとしたアデルを、ソルジュが後から抱きとめようとした。
「アデル、止めなくていい! あいつは、わざと砕いてるんだ」
「わざと? どういうことなの?」
アデルは耐えきれずソルジュに訴えたが、彼は憂いに満ちた表情で首を横にふるだけだ。
「鏡を粉々にするんだ。そうすれば何も映らない。アルローズもここから開放される」
「そんなの開放じゃない! わたしはロージィをもとの世界へつれ帰りたいの!」
「あの道化はアルローズの使い魔だ。作り出された使い魔は、主人の望みに従ってしか動かない。鏡を砕いているのはアルローズの意思だ」
ソルジュの言葉に息を飲む。
「……本当なら、アルローズはとうの昔に死んでいたはずなんだ」
その言葉には、おさえ切れない苦渋とかなしみがにじんでいた。
「だけど、鏡という道具のなかでむりやり生きながらえていた。きみがありのままの母を受け入れようとしたから、母もまたあるべき自然なかたちを受け入れたんだ」
「そんな……」
アデルは聞かん気の強い子どものように激しく首をふった。
「いやよ、わたしはロージィを……」
やっと、迎えに来たのだ。会いに来たのだ。小さなあの子を。アデルにとって、はじめての弟子であり、大切な友達を。
(――ロージィ)
遅すぎたの? 助けられないの?
アデルはそれでも、道化人形を止めようとした。鏡の破片を受けようとした。だが、肉体の伴わない精神体ではどうすることもできなかった。銀の破片が散乱する床の中心に、力尽きた道化の人形が静かに膝を折り、事切れるように倒れ伏してしまうまで。
*
「ロージィ……」
主人を失い、動かなくなった道化の人形を前に、アデルは声を漏らした。人形を抱きあげたくとも、この体ではかなわない。涙さえ、こぼれることもない。
アデルの肩を抱こうとして、だがやはり触れることはかなわずに、ソルジュも痛ましげな表情で目を伏せる。
「おれもいま、やっとわかった。アルローズは、本当は孤独でいることを知ってほしかったんだ。会いに来てほしかったんだ、きみに。だけど、きみと母は存在する時間が違っていた。だから、どんな方法を使ってでも待つしかなかったんだ」
道化の人形は、ガラスを砕いたためにぼろぼろになっていた。服は裂け、頭部にも手足にも無数の切り傷ができている。頬に描かれた青い涙型の化粧だけがくっきりと鮮やかに残り、まるで本当に泣いているかのようだ。
「でも、母は本当はひとりなんかじゃなかった。こいつだけはずっと、そばにいたんだから……」
アデルは触れられない指で、そっと人形の顔をなぞった。
「最後まで、この子はロージィのために動いてたわ」
「そうだ。なんてことだ、結局アルローズもわかっていなかったんだな。おれたちはみんな、お互いの家族を一番信じていなかった。よく似てるよ、まったく。おれも母も、それから祖父も――」
「……だって、家族だもの。そうでしょう?」
ソルジュははじかれたようにアデルを見た。深い息をつき、そうだね、とようやく微笑みを浮かべてうなずく。彼は母親と同じ色の瞳を細め、
「ありがとう、アデル」
真摯に頭を下げた。複雑な感情のこめられた、重い礼の言葉だった。
「おれはきみに助けられた。そして母も、きみに救われたんだ。彼女の最後の言葉がそれを証明してると信じてほしい」
アデルはためらった末に、小さくうなずいた。迎えに来てくれてありがとうと、最初で最後の友達だと言ってくれた。孤独という牢獄につながれたまま、ひとりでずっと長い時間を生きていた魔女。
――できるなら、もっと違うかたちで彼女を救いたかった。
「正直言うと、おれも助けに来てくれるなんて思ってなかった。てっきりきみに嫌われてしまったと思っていたからね」
「だって、それは……放っておけなかったから。あなたには何度も助けてもらったもの」
しどろもどろに答えると、「それだけ?」とソルジュは苦笑した。
「なんだ、残念。さっきはあんなに必死でおれを口説いてくれたのに。またいつものきみに戻ったみたいだね」
「く、口説くとかそういうわけじゃないわ。わたしは、あなたたちを助けたかっただけ」
「うん。きみのおかげで、少なくともおれはいまこうしていられる。抱きしめたいけど、いまのきみには触れられないからな。――ねえ、目が覚めたら今までのことも全部覚えてないなんて言う?」
アデルはううん、と首をふった。
「今度は忘れないわ。アルローズのことも、この人形のことも、あなたのことも」
「よかった。じゃあ宣言しておこう。きみが目覚めたら、一番先にきみの名前を呼ぶのはおれだよ」
この発言にはアデルもようやく笑みを浮かべた。
「それは、難しいかも」
「なぜだい?」
「だって、きっとパトリ師匠が、すぐそばでわたしの目覚めを待ってるから――あ」
ふと何かに気づき、顔をあげたアデルに、ソルジュは「どうしたの?」と訊ねた。
「呼ばれてる気がする。わたし、そろそろ起きなくちゃ」
「そうか」
ふり向いてそう言うと、ソルジュはうなずいた。彼の顔をながめ、アデルはちょっと考えた。これは夢だから、と自分に言いきかせる。
(ちょっとぐらい思いきったことをしても、きっと平気)
アデルの視界がふわりと宙に浮く。勇気を奮ってソルジュの額に、自分のくちびるを意識だけ重ねた。もちろん、実際には触れられなかったが。
呆気にとられてこちらを見返す彼に、アデルは言ってやる。
「眠りを覚ますのは、むかしからこの魔法でしょう?」
生身でなくてよかったと思った。そうでなければ、今ごろ心臓が破裂してしまうところだ。
それが精いっぱいの意趣返しだとわかったのだろう、ソルジュはまぶしそうにアデルを見つめ、参った、と両手を上げた。その顔は、はっきりと赤かった。
「おれの負け」
そして、降参したまま彼は笑った。
「――次に目を開けたときから、新しいきみがはじまるね。アデル」
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