第七章 魔女の子ひとり


 夢のなかで、アデルは自分ではない人間になっていた。

 咄嗟に感じたのは、前までと違う、ということだった。これまでの夢――覚めると忘れてしまってはいたが――は、外側から俯瞰して眺めているような感じだった。だが、いまはアデルの視線そのものがだれか別のものだ。その証拠に、目線がいつもよりも低い。子どもの目の高さだ。

 棚、あるいはベッドの上に置かれた人形と細工物のおもちゃを鑑みるに、そこはどうやら女の子の部屋らしかった。アデルは壁にかけられた小さな姿見の前に立ち、陽気な鼻歌を歌っているところだ。

 少女だった。

 年齢は十三歳ぐらいだろうか。くるくるとした巻きぐせのある髪は灰色混じりの金、おおきな瞳は紫水晶のよう。あどけなさの残る顔立ちは華やかで、大人になればさぞかし人目をひく娘になるだろうという片鱗がすでにあらわれている。

 金の巻き毛の少女。その面影はアデルの記憶の中の誰かに似ていた。だが、アデルの意識はすでに少女と同化していたため、思考はうまく回らずに、途中でぶつりととだえてしまう。

 少女――アデルは上機嫌で鏡を眺めていたが、耳の上部に編みこんだ髪にほころびを見つけ、むっと顔をしかめた。おもむろに息を吸ってぱちんと右手の指を打ち鳴らすと、髪はするするとほどけ、ふたたびひとりでに編みこまれていった。

 髪がうまくまとまったところで黒いビロードのリボンを結び、もう一度鏡を確認してその出来映えに満足の笑みを浮かべる。

「どう?」

 子ども用タンスの上に腰かけた道化の人形に話しかけると、似合うよ、というように彼はぱちりと片目をつぶった。

 誉めてもらいたくて、アデルは部屋を飛び出した。廊下に出たところで、うまい具合に相手を見つけ、彼女は顔を輝かせる。

「お父さん、見て!」

 頬を上気させ、自分の編みこんだ髪を指さして言う。父はわずかに眉を動かし、理解できていないふうだったが、怒ったように「髪よ、髪型!」と示すと、ああ、と小さくうなずいた。

「誰かに結んでもらったのかい?」

 ううん、と首を左右にふり、得意満面で答えた。

「魔法でやったのよ」

 アデルの返答に、父親は露骨に顔をしかめる。

「魔法だと? おまえはまだそんなことを……」

「本当よ。自分でやったのよ。ほら、こうやって――」

 胸をはって、さきほどのように指を鳴らす。金髪の一房がふわりと浮かび、蛇のように宙で蠢きはじめる。

 それを目にした父親の顔が見る間に強張り、鋭く目尻がつりあがった。

「やめなさい!」

 怒鳴られたことに驚いて、アデルはびくりと身を震わせる。父は強い力で肩をつかんだ。

「そんな力、決して人前で使ってはいかん。魔女だの魔法だの、今はもう廃れきった古い存在なんだ。お前も、そんな力のことは忘れてしまいなさい」

 アデルはぶんぶんと首を左右にふった。つかまれた細い肩が痛みできしんだが、気にしてはいられなかった。

「おまえの母親もそんな力を持っていたせいで人々に恐れられ、心を病んで、最後には死んでしまったんだぞ」

 娘を産んですぐに亡くなった母が、古い因習に縛られた村に生まれたために、村人から疎まれていたことを少女も知っていた。しかしそれは、魔女に対して寛容なこの町に越して来るまでの話である。第一、そのころアデルはまだ生まれてもいなかった。

「おかあさんのことなんか知らない。顔だって見たことないもの」

父は顔をしかめた。

「聞きわけのないことを言うんじゃない」

「絶対、いや! だったらどうしてなおさらダメだなんて言うの。この力はおかあさんからもらったたったひとつのものじゃない!」

 抗う娘の頬を、父は打った。びいんと痺れるような痛みに視界がぶれ、すぐに左の頬が熱をもって疼きはじめる。床に倒れ、怯えきった目で見上げるアデルを、父は深い哀しみと冷たい怒りの宿る視線で見下ろした。

「おまえがその力を捨てないというのなら、勝手にしなさい。そのかわり、わしは魔女を自分の娘だとは思わない」

 吐き捨てるように言い、父親はアデルを残して去っていった。

 アデルは伏したまま身を震わせた。否定されたことが恐ろしくて哀しくて、どうしようもなく悔しかった。世が世なら、支配者にすらなれたかも知れない力を持っているのに、なぜ。

心臓に穴が空いて、そこからひゅうひゅうと冷たい風が吹き込んでくるかのようだった。ひどく寒い。あまりの寒さに、凍えてしまいそうだ。

(……おかあさん)

 生きていたら、母はきっと様々な魔法を教えてくれただろう。娘に素質があることを心から喜んでくれたに違いない。

(あたしは魔女よ。あたしには偉大な力がある。それなのに、どうして。どうして、こんなにさびしいの――)

 血が滲むほど噛んだくちびるの下から、こらえ切れずに嗚咽がこぼれる。床に爪を立て繰り返す呪詛は、アデルのこころを少しずつ蝕んでいく。

(……あの子に会いたい)

 思い出すのは、おなじ魔女だった友達のことだ。

(また会いに来ると約束したのに。同じ魔女として、もっともっと強くなっていけると思ってたのに。ねえ、あなたはいつになったらそばにきてくれるの)

 待っている。ずっと待っている。待っているのだ。

(はやく)

 こころが、永劫の闇に蝕まれてしまう前に。

 でも、さみしい。どうしようもなくさみしい。さみしいさみしいさみしい。アデルは身を引きちぎられそうな思いでつぶやいた。

(――たすけて)


         *


「アデルったら、もう! またぼうっとしてるわよ」

 名前を呼ばれ、アデルははっと意識を戻した。目の前に、心配そうな表情をしたカレッサがいる。

「……あれ?」

 いつの間にか、接客中に立ったままうつらうつらしていたらしい。ぼんやりとしているアデルの手に、カレッサは強引に銅貨を数枚押しつけてきた。

「ほら、これを買うわ。それで、あなたにあげる」

 ずいと差し出したのはフリーデの花の香り袋(サシェ)だ。安眠をもたらす効果がある。アデルは慌てて首をふった。

「そんな。お金なんてもらえないよ」

「いいから払わせなさい。ひどい顔色よ。悪い白昼夢でも見ていたの?」

「う……ん、どうなのかな」

 なんだか最近、とみに眠気がひどくなった。目をこすって、驚く。まぶたの淵がぬれていたのだ。

「哀しい夢を見てたの?」

「わからない。覚えてないの、何も」

 アデルは首をふった。泣きたくなるような夢だったのだろうか。幸か不幸か、その内容までは思い出せなかった。だが、胸にひんやりとした冷たさ――さみしさの片鱗のようなものが残っている。せめて内容を覚えていられたら、と悔しくなる。

「もし本当に、わたしが〈夢見〉トロイメリアだったら、うまく夢をあやつれるようになるのかしら」

 ぽつりとつぶやく。カレッサに問うたというよりは、独白に近かった。〈夢見〉の話を聞いてから、アデルはパトリの家にある魔女の文献にいくつかあたってみた。しかし〈夢見〉の存在は本当に希少だったようで、なかなか詳しい記述がない。昨夜も遅くまでノアと調べものに没頭していたが、結局めぼしい情報は得られなかった。

 カレッサはアデルの顔をじっと見つめ、眉根をよせた。

「あまり思いつめないほうがいいわよ、アデル」

「うん、そうなんだけど」

 ――お祭りの夜から明けて三日。あれ以来、〈石の目の魔女〉の気配はない。

 新月は過ぎたし、ソルジュの言う通り、しばらくは魔女も身を潜めるだろう。だが、姿をあらわさないからといって油断できるものでもない。

(いまのままじゃ、わからないことだらけだもの)

 なぜ〈石の目の魔女〉はわたしを引き入れようとしているのだろう。それにわたし自身も、逢ったことがないはずの彼女を、なぜ知っているように感じるのだろう。

ソルジュも何かを隠している。けれどそれをアデルに話すつもりはないようだった。哀しいというより、焦りを覚える。渦中にいるのに、自分だけ何も知らずにいるなんて。

「知りたいと思うようになったってことね」

 カレッサの言葉にうなずく。

「ねえ、それって誰かのため?」

 アデルは一瞬、返答に詰まった。誰かのため。――誰、の。

 どうしてか、思い出したのは祭りの夜のことだ。絶体絶命の危機に、助けに飛びこんできてくれたソルジュの姿が記憶によみがえる。アデルは慌ててぶんぶんと首を横に振った。

「だ、誰かのためとかじゃないわ。じ、自分のためよ」

 焦って早口で捲し上げたアデルに、カレッサは「ふうん?」とわざとらしく首を傾げる。その顔には、にやにや笑いとしか形容できない笑みが浮かんでいる。

「アデルもお年頃だもんねえ」

「そ、そんなんじゃない。からかわないで、カレッサ」

「からかってないわよ。誰かのためでも、自分のためでも、知りたいと思うことが第一歩なんだから」

 言いながら、カレッサは指先でこちらの額を軽くはじいた。痛くはなかったが、慣れない刺激にアデルは額をおさえる。

「ねえ、よかったら、もう一度試してあげようか?」

「え?」

「〈星読み〉よ」

カレッサの言葉に、アデルはなぜかぎくりとした。

「覚えてる? 私が初めてあなたの星を読んだとき、どんなことを言ったのか」

「うん、ぼんやりとだけど……いくつかは」

 人形に注意しろと言われたことは覚えている。いま思えば見事に的中したことになる。それから同胞、隠者、囚われ人。

「魔女らしくあれ、って言われたわ。『魔女らしい』がどういうことなのか、まだわからないけど」

 カレッサはうなずいた。

「私の〈星読み〉は、あくまでたくさんある可能性のひとつを示すだけ。必ず当たる予言ではないわ。それでもアデルが聞きたいなら助言程度にはなると思う」

 アデルはしばしのあいだ、真剣に考えた。自分に、いま、助言が必要なのかどうか。そして首を横にふった。

「……ううん、いい」

「いいの?」

「うん。少し、自分で考えたい」

「わかった。でも、私にできることがあったらいつでも言ってね」

「もちろんよ。頼りにしてるもの、いつも」

「もしかしたら、いまなら〈英知の館〉があなたの味方になってくれるかもね」

「味方?」

「そうよ。忘れたの? 〈英知の館〉はそこを必要としている魔女のもとにあらわれるのよ。あなたが求めるなら、英知の館はおのずとその扉を開いてくれるはず。ときを選ばずに」

「……どういう意味?」

 自分で考えなさい、ということだろう、カレッサはにっこりと笑って答えなかった。彼女はアデルに「贈った」サシェをアデルの手に握らせると、踵を返す。ひらひらと手をふって去って行った。今夜はちゃんと寝台で休むのよ、と言い残して。



 ――いまなら、〈英知の館〉が味方になってくれるかもしれない。

 カレッサの言葉が頭のなかにこだましている。アデルはふと店と奥の部屋をつなぐ扉をふり返った。

(〈英知の館〉なら、わたしが知りたいことがすぐに見つかるだろうか)

 扉の前で立ちどまる。以前迷いこんだときは、この奥が館につながっていたのだ。アデルはドアノブを握りしめる。意を決し、扉を開こうとしたその瞬間――、リン、と玄関のドアベルが鳴った。

(いけない。お客さまが)

 アデルは反射的にふり向いた。いつものように笑顔で客を出迎えようとして、その笑みが強張る。

「やあ、こんにちは、アデル」

 気さくに片手を上げ、挨拶してきたのは自称兄弟子だ。その顔を見たとたん、唐突に心臓の音が大きくなった。アデルはそんな自身に困惑しながら、いらっしゃいませ、とぎこちなく返事をする。

「な、何か御用でしょうか」

 緊張するあまり、思わずそんなことを訊いてしまう。もちろん客として来たのだろう、ソルジュは苦笑するかのように肩をすくめた。

「これはご挨拶な。用がなければ会いに来ちゃいけなかった?」

「いえ、あの、そういう意味では」

 慌てて首をふる。かっかと頬に熱が上ってくるのがわかる。見知った相手にこれほど動揺するなんて、一体どうしてしまったのだろう。

「前に買った薬草の焼き菓子、おいしかったよ。気に入ったからまた来たんだ」

「あ、ありがとうございます」

 ソルジュは開店初日に来て、ハーブ入りの焼き菓子をすべて購入してくれたのだ。まさか、あれだけの量――十袋はあった――をひとりで食べたわけではないだろうが、美味しかったと言われればすなおにうれしい。

「でも、ごめんなさい。焼き菓子は今日の分がぜんぶなくなってしまって」

「なんだ、そうか。残念だ」

 あながちお世辞でもない様子で、ソルジュは肩を落とした。目当てのものがないと知って、すぐ帰るかと思ったが、意外にも彼は店内をくまなく見まわし、うーんと首を傾げた。

「じゃあせっかくだから、アデルによく眠れる薬でも調合してもらおうかな」

「眠れないんですか?」

「うん、そうなんだよ。近ごろは特に」

 ソルジュは曖昧な――嘘とも本気ともつかないような表情で薄く笑った。それからひょいと気軽に距離をつめ、アデルが手に握りしめているものを指さした。

「それ、何を持ってるの?」

「あ、ああ。これは」

 急に近づかれて、アデルはどきまぎしながら答えた。

「香り袋です。フリーデの」

 カレッサが買って、アデルによく眠れるようにと渡してくれたものだ。開いて見せると、彼はかすかに眉をよせた。

「もしかして、この花は苦手ですか?」

「うーん、少しね。匂いが嫌いなわけではないんだけど」

「そうですか……」

 アデルは残念に思った。フリーデには花にも茎にも鎮静作用があり、安眠薬を作るときにはまず欠かせない薬草である。もちろん効果自体は別の薬草で代用できるし、香りだけを消すように調合することはできるが、なんといってもこの花はアデルのいちばん好きな花だからだ。

「アデルもフリーデが好きなんだね。おれの大切な人も、この花が好きだったんだ」

 ――大切なひと。

 ふたたび心臓が大きく跳ね、アデルはひどく動揺した。今度はさきほどとは違う、いやな跳ね方だった。

 そうだ、と思い至る。このひとはおとなの男のひとだ。恋人のひとりやふたり、いたっておかしくない。いままでそんなこと、考えもしなかった。

(それが、なぜ急にこんなに気になるの。どうしてこんなに、いやな気持ちになるの)

「……アデル?」

 顔色を変えたアデルに気づいたのか、ソルジュはこちらを覗きこんできた。びくっと過剰に反応してしまい、思わず後ずさってしまう。

「あれ、急に警戒してるね。はじめて出逢ったときに戻ったみたいだ」

「け、警戒なんかしてません」

 緊張してるだけです、とアデルは思った。じりじりと少しずつソルジュとの距離を開ける。彼はこちらの変化を見てとり、小さく苦笑した。

「傷つくな。この前はあんなに強く抱きついてきてくれたのに」

祭りの夜のことを思い出し、アデルはかっと赤面した。

「あ、あのときは混乱してたんです!」

「ふうん、そう。それは残念」

 アデルのあからさまな態度の変化に気づいているのか、にやにやした笑いをくちびるに刷く。

(もう、どうしてこんなにすぐ顔に出るの!)

 情けなさと恥ずかしさで、アデルは地団駄を踏みたくなる。自分が「子ども」だと否が応にも思い出される。

 ソルジュはおもしろがるような笑みを顔にはりつけたまま、大股で一歩近づいてきた。アデルとの二歩分の差は、彼の一歩であっという間に縮められてしまう。腰から下の長さが違うのだ。

「なんで逃げるの」

「逃げてません! 何をする気ですか?」

「別に何もしやしないけど。それとも、……何かして欲しいとか?」

 ほとんど悲鳴に近い声に彼はしれっと答え、こちらの反応を試すようにじりじりとにじり寄ってきた。

「ち、近づいてこないでください!」

「だってきみが下がるから。うーん、参ったな。なんだか妙な気分になってきたよ」

 可笑しがるような声音で言い、ソルジュはアデルがそれ以上退けないようにじわじわと壁際に追いつめた。ざわっとアデルの首筋が総毛立つ。逃げ場はない。

「そんな怯えた瞳で見ないほうがいいよ。ますますからかいたくなるから」

「……かっ」

 鼓動は胸の内でどうにかなりそうなぐらいに打ち鳴らしている。まともに、息もできない。おかしい。なぜこんなに急に彼の存在を意識するようになってしまったのだろう。

 間近で見るソルジュの顔は、とても端正だった。光の加減で灰色にも紫にも見える不思議な色合いの瞳にとらえられ、アデルは慄きにくちびるをふるわせた。

 ソルジュはアデルの手首をつかむと、袖口をまくりあげた。そこに彼から渡されたお守りがはめられているのを眺め、満足そうにほほ笑む。

「こうして大事にしてもらえるとうれしいものだね」

アデルの手の甲にくちびるを落とした。

「――――っ」

 趣味の悪い冗談だ。アデルの全身が羞恥でふるえる。

 ソルジュは喉の奥でくくっと笑った。囁くように言う。

「やめて欲しい? それとも、続きをしてあげようか?」

「……ノ」

「の?」

「――ノア!」

 耐えきれずアデルが叫んだその瞬間、小さな影が彼女の足元をかすめて現れ、ソルジュの顔に飛びかかった。

 ばりっ、と形容しがたい嫌な音があたりに響きわたる。

「うわあぁっ!」

 たまらず顔を押さえて悲鳴を上げ、ソルジュはよろよろとアデルから後退した。その顔に名誉の引っかき傷を残したノアは、床に見事に着地する。忠実な使い魔は、いつだって主人の助けには応じるのである。

「大丈夫でしたか、アデル?」

「ノア!」

 窮地を救った使い魔の姿に、アデルはほっと安堵の息をつき、へたへたとその場にくずおれた。

 傷つけられた顔を手で抑えたソルジュが、指の間から非難がましい声を漏らす。

「い、いたのかい、ノア。問答無用で顔を引っかくなんて、いくらなんでもひどすぎやしないか?」

「何がひどいものですか! まったく、油断も隙もない。ワタシの主人に悪趣味なちょっかいを出すのはやめて下さい」

 ノアはつんとすまして尊大な口調で言い放った。ソルジュは肩をすくめ、右手で傷をなぞった。それだけで、まるで何事もなかったかのように傷はきれいに消えてしまう。

「やれやれ。悪趣味なちょっかいとは失礼な言い草じゃないか。おれは真剣に口説いていたつもりなんだけど」

 肩をすくめ、アデルに迫っていたさっきとはうってかわった陽気な声で言う。

「口説くですって? うぶなアデルの反応を面白がっていらしたでしょう」

「うん、それは正直言って否定できないな。アデルがあんまり素直に反応してくれるものだから」

「うちの主人で遊ばないで下さい。というか近づかないで下さい。今度ヘンなことしたら、引っかくだけじゃすみませんからね」

「脅しかい? まったく、きみの忠実なる友は手厳しいな。そう思わないかい、アデル?」

「……お、思いませんっ!」

 壁に背中を張りつけ、顔を真っ赤にしたまま力いっぱい叫ぶと、くすくす笑いながらソルジュが手を差し出した。

「ごめんよ、調子に乗りすぎた」

 何かひと言でも言ってやりたかったのに、舌がもつれるようでうまく出てこない。

半分腰がぬけた状態のアデルは、しぶしぶその手をとって立ち上がる。ソルジュが可笑しそうにしているのが小憎たらしかった。

(わたしみたいな田舎娘を彼が本気で口説くわけがないのに……)

きっと一連の応酬も彼にとってはささいな遊びでしかないのだろう。そう思ったとたん、なぜかきりりと胸が痛んだ。

「きみの忠実な使い魔が怖いから、今日のところは退散するよ。おれのために、よく眠れる薬を作っておいてくれるとうれしいな」

 ソルジュはそう言い残し、文字通りしっぽを巻くような勢いで退却していったのだった。



 ところが、である。その日からソルジュは頻繁にアデルの店に顔を出すようになった。それも、ちょうどほかに客がいない時間や、ノアが散歩に出ている隙を狙うように、だ。一度など、どういう事情なのか、ブルーノが店に訪ねてきた瞬間に姿を消したこともあった。

「アデル嬢ちゃん、いま、ここに誰かお客がいなかったかね。話し声が聞こえてたんだが」

「え、ええと……」

 怪訝そうなブルーノに、困ったアデルは曖昧に笑ってごまかすしかなかった。

 神出鬼没なのは初めて出会ったときからだったが、最近はそれに拍車がかかっているような気もする。

 翌日もさんざん会話をひきのばし、結局店じまい近くまで居座っていた。

「それじゃ、また来るからよろしくね」

「もう来なくていいです!」

「あ、ありがとうございました」

 ひらひらと手を振って店を出るソルジュに、ノアはしっしっ、と追い払うように後足を切り上げ、アデルはぺこりと頭を下げた。いちおう来るたびに薬草石鹸だのハーブ菓子だの、何かしら買って行ってはくれるので、上客ではあるのだが。

「まぁったく、あのナンパ魔女め! 一体なんのつもりなんだか」

 ソルジュが帰るなりノアは肩を怒らせ、だしだしと後足で地団駄を踏んだ。塩でも撒きかねない勢いだ。アデルは嘆息した。

「もう、いい加減にしなさい、ノア。どうしてあの人にだけそんな態度をとるの」

「うさんくさいからですよ!」

 ノアは間髪入れずに答えた。

「あの男は信用できないと、ワタシの使い魔としての第六感が告げているんです!」

「信用できないだなんて、彼のことを詳しく知っているわけでもないのに」

「だから、でしょう。よく知りもしないのに馴れ馴れしいのはあの男です。第一、はじめて出会ったときから、こちらのことを知っている態を装っていたじゃないですか」

「それは、ソルジュが師匠せんせいの知り合いで、わたしの兄弟子みたいなものだからで……」

「その話が真実だって証拠はどこにあるんです?」

 うっ、とアデルは返答に詰まった。

「パトリシアさまの知り合いだっていうのがそもそも嘘かもしれない。第一アデルだって、あの男が苦手でしょう」

 ずばりと言い当てられ、アデルは口をつぐんだ。苦手――なのではない、たぶん。彼がいい人なのは知っている。ただ、そばにいられると落ち着かないのだ。

「苦手というか、緊張するだけよ」

 ほら見なさいとばかりに、ノアはふんぞり返った。後ろの二本足で立ち、びしりと前足の一本を主人に突きつける。

「いいですか、アデル。自慢にもなりませんがワタシたちは田舎ものですし、女系家族で育ったたあなたにはまったく異性への免疫がありません」

「う、うん。そうね」

 褒められたことではないが、紛れもない事実である。

「ですから、用心しすぎるくらいで良いんです。あなたに近づいてくる虫はこのワタシめがことごとくこの爪でひっかいてやりますからね。ええ、こう、バリバリっと」

「そ、そう」

 どう言えばいいものか。アデルは結局うなずくだけに留めたのだった。



 翌日は朝から雨が降っていた。じめじめと湿度が高く、なんとなく憂鬱で、アデルは店を開けたくない気分だった。

「お店、お休みにするんですか?」

「うん。最近ずっと開けてたから、一日くらいいいかなって」

 井戸水で洗った朝食の皿を棚に片づけながらアデルが言うと、ノアは嬉しそうにうなずいた。

「いいですね、そうしましょう。閉店していればあの男も顔を出さないでしょうし。今日はどうします?」

「作業室で薬の調合でもしようかな。アロエの軟膏が少なくなってきたし、ソルジュに頼まれた安眠薬も作らないと」

 兄弟子の名を出したとたん、ノアが猫に可能なかぎりの最大限で顔をしかめてみせた。

「まったくアデルはあの男には甘いんですから……」

 ぶつぶつと呟くノアに、アデルは苦笑する。食卓を拭いて後片付けをすませると、食卓のある部屋を出た。

「甘いとかそういうのじゃないわ。だけど、彼が今まで何度もわたしを助けてくれたのも事実でしょう?」

「それはまあ、そうですけど」

 アデルは作業室のある二階への階段を上がる。ノアはなんだかんだ文句を言いながらそのあとをついてきた。

「ワタシが心配なのは、アデルを助けたことも、あの男の作戦のうちなんじゃないかと思えることですよ」

「作戦ってどういうこと? わたしを何に利用するというの。わたしは魔女としてもなんの力もない落ちこぼれなのに」

「それは――」

 作業室の扉を開けようとドアノブを回したアデルは、その場でぎくりと立ち止まった。

「アデル、どうしたんです?」

 首を傾げたノアが、ひょこっとアデルの足元から顔を出し、「ニャッ」と驚きの声を上げた。目の前には無数の書架が並んでいる。

 ふたたび〈英知の館〉と道が繋がってしまったらしかった。



「またここですか」

 ややうんざりした様子でノアがつぶやき、躊躇した様子でうしろへ下がった。ノアはこの場所にあまり良い思い出がないので、仕方ないかもしれない。だが〈石の目の魔女〉がらみで怖い思いをしたにもかかわらず、アデルにとっはふしぎと厭な場所ではなかった。

(どうしてかしら。やっぱりこの場所は、とてもおちつく)

 一歩なかへ踏み出すと、どこか埃っぽいような、かび臭いような古書の匂いに包まれる。この場所はアデルにとって、特別で安全だったはずなのだ。

 確固たる足どりでアデルは書架と書架の合間を歩く。おいて行かれるわけにはいかないと、ノアもしぶしぶという様子でうしろをついてくるのがわかった。無意識に棚に並ぶ本の背表紙を眺め、そのうちの一冊にふと視線が止まる。

 ――『〈夢見〉の魔女とその力について』。

 深藍の背表紙に金の文字で表題が書かれた本に、アデルは手を伸ばそうとした。身長より少し高い位置にあるそれを棚から抜き出そうと、背伸びしたその瞬間、

「夢に興味があるの?」

 真後ろから声がして、アデルはその場で飛び上がった。驚いてふり返ると、すぐ後ろにソルジュが佇んでいた。いったいいつの間にやって来たのだろう。まったく気づかなかった。

「どっ、どこからどうやって入っていらしたんですか?」

「え? あっちからだけど」

 と彼はアデルのやって来た扉とはまったく逆の方向を指さした。たしかに書架が並ぶ奥に、もうひとつ別の扉があるのが見える。

「こう見えて、おれもいちおう魔女の端くれだからね。〈英知の館〉に入る資格はあるし、来たいときにはいつでも来れるんだよ」

「すみません、失言でした」

 アデルはうつむいた。なぜだろう、まともに彼の顔を見ることができない。血がどんどん頭に上って、頬がかっかと火照ってきた。

「きみが読みたかったのはこれ?」

 本棚から一冊の本がふわりと浮きあがった。重たげな書物は滑るように下り、ソルジュの手のなかに収まった。

 深藍色の表紙を一瞥し、彼は言った。

「〈夢見〉の魔女か。トロイメリアに興味があるのかい、アデル」

「か、勝手に!」

 とり返そうと駆けよると、本は逃げるようにアデルの手をすりぬけ、ソルジュの頭上よりも高い位置でぴたりと静止した。

「ソルジュ!」

 思いがけず非難するような口調になった。ソルジュはふしぎそうに首をかしげる。

「おれは興味があるかどうか訊いただけなんだけど。そんなに怒るようなことだった?」

「怒ってなんて……」

 怒っているわけではないが、ひどく動揺している。くちびるを噛んでうつむくと、目の前に本が差し出された。

「背伸びがつらそうだったから、代わりにとってあげようと思ったんだ。遊ぶような真似をして悪かったね」

 本をうけとりながら、わけもわからず泣きたくなる。胸の中では複雑な感情が渦を巻いていて、切ないのか嬉しいのかあるいはその両方なのか、それさえもわからない。ただ、意味もなくふりまわされるのはいやだった。

「とりあえず、背後にいるきみの使い魔に、その鋭い爪をしまうように言ってくれるとありがたいんだけど」

「またワタシの主人を傷つけるつもりなら、今度は全身に引っかき傷をつけてやりますよ」

 苦笑する兄弟子のさらに後ろで、ノアがいまにも飛びかからんと姿勢を低くして唸った。

「傷つける? おれがきみのご主人様をかい? まったく、何をどうすればそうなるんだ」

 参ったな、と妙に芝居がかったような仕草でつぶやくと、彼はくるりとこちらに踵を返した。

「とんでもない誤解だよ、ノア。おれはむしろいつでもアデルを護れるところにいたいだけさ。またいつ〈石の目の魔女〉が手出ししに来るともかぎらないからね」

 ひげをそよがせ、ノアはフン、と鼻を鳴らす。

「へええ。理由は? 兄弟子みたいなものだからですか?」

「そのとおりだよ。妹弟子の危機は見過ごせないじゃないか」

「信じられませんね! だいたい、そんなにアデルのことを気にかけてくださるなら、なぜ〈石の目の魔女〉自体をどうにかしないんです? 襲ってくるのを追いはらってばかりじゃないですか。あなたは強いんでしょう? いっそのことあんな難儀な魔女、すぱっとやっつけて下さればいいんですよ。そのほうがこの町も平和になるでしょうに」

 アデルは彼らのやりとりをはらはらしながら見守っていたが、ノアのこの暴言にはさすがに顔色を変えた。

「ノア、軽々しくそんなことを言っちゃだめよ」

「アデル……」

 ソルジュは残念だけど、と肩をすくめた。

「おれじゃ彼女をどうにかすることはできないんだ」

「〈石の目の魔女〉のほうが、あなたよりも強いからですか?」

「うん、もちろんそれもあるけどね」

 小馬鹿にしたようなノアの問いにあっさりと答える。ソルジュはアデルに向きなおった。

「――ねえ、アデル」

「な、なんですか?」

「きみは自分がどういう力を持っているか考えたことはある?」

「……ちから?」

 どきりとした。あなたには力がある、と〈石の目の魔女〉に言われたことを思い出したのだ。

「そう。魔女としての力さ」

「あ……ありません。わたしに力なんか」

「そうかな? だってきみは代々優秀な魔女の家に生まれたんだろう」

「ええ。母や叔母、いとこは優秀な魔女ですが、わたしは」

「気づいていないだけかも知れない」

 そんなことはありえない、と首を激しく横にふった。ソルジュはそんなアデルをやれやれといった顔で眺め、苦笑した。

「ふしぎだね。きみはいつも自信がなさそうなのに、自分を否定するときだけははっきりと断言できるんだから」

 痛いところを突かれ、アデルはぐっと詰まった。

「お母さんに落ちこぼれだと否定されて育ったか、それとも叔母さんにいとこさんと比べられるようなことを言われたか。あるいは、もし本当に力が備わっていたとして――魔女として生きる責任を負うのが恐いからかい?」

 切りこむような問いに、ぎくりとする。こころの奥底にある核心に、触れられた気がした。

「きみは臆病なんだね、ようするに。お母さんに疎まれているのは魔女として落ちこぼれだから、そういう『言い訳』が欲しかったからじゃないのかい?」

 すっとアデルの全身から血の気が引いた。

「きみには力がある。だけど、そう認めたくない気持ちが魔法を否定しているんだ。認めてしまったら、自分が疎まれている理由がなくなってしまうから」

「――ちがいます!」

 とまどいが反抗心にかわり、無意識に口から強い否定が飛び出していた。つねにない主人の激昂に、ノアが驚いてアデルを見上げる。

「わ、わかったようなことを言わないで下さい。あなたに何がわかるんですか!」

 アデルは癇癪を起こした子どものように全身をふるわせた。

腹が立つのは、それが図星だったから。否定したくなるのは、自分でも事実だと認めているからだ。そして何より、それを見破ったのが他でもない彼だったことが、アデルの動揺にいっそうの拍車をかけた。

 激しい感情をあらわにしたアデルを見ても、ソルジュは特に感慨を抱いたふうもなく肩をすくめただけだった。

「わかるよ。たぶん、おれときみは似ているから」

「あなたもお母さんを恐れていたからですか?」

「いいや。おれも逃げることばかり考えている人間だからだよ。おなじ臆病者はすぐにわかる」

「似てなんかいません。わたしとあなたは……」

 アデルは否定の言葉をつまらせた。胸の奥でさまざまな感情が暴れまわり、今にも爆発しそうだ。かつて経験したことのない種類の怒りがアデルを激しく苛立たせ、同時にこころを深くえぐった。

 なぜ、どうしていま、彼に責められなければならないのだろう。からかったり優しくしたり、かと思えばこうして言葉のナイフで正確に急所を突いてくる。

 どうせこちらの動揺など彼にはつつぬけだ。振り子のごとくアデルが一喜一憂に揺れるさまを眺め、面白がっているのだろうか。――おぼこい田舎娘と侮って。

 そう思うと悔しさに涙がにじんだ。もうこれ以上、ふり回されるのはたくさんだ。アデルは乱暴に目元をぬぐうと、ソルジュに背を向けて走り出した。

「アデル!」

 ノアが名を呼んだが、ふり返らなかった。文字通り、逃げたのだ。自分を傷つける恐れのある、すべての可能性から。


        *


 書架の並ぶ部屋を駆け抜け、ばたんと扉を閉じる。閉じた扉に背をあずけ、アデルはずるずるとその場に座りこんだ。立てた膝の上に、顔をうずめる。

 ソルジュもノアも追っては来なかった。当然だ、彼らを締め出したのは自分なのだから。

(ばかみたい。……これじゃ本当に、ただの子どもの癇癪だわ)

 呆れたものだ。母親に叱られて図書室に逃げこんでいたあの頃から何も成長していない。

(カレッサのおかげで、わたしはこのままでもいいんだって、ようやく思えるようになったのに……)

 自己肯定も、はかない砂の城に過ぎなかった。もっと根本的な何かがアデルには足りていないのだ。

(魔女の家系に生まれたただのアデルではなく、魔女としてのわたし)

 わたしのちから。

 気づいていないだけかもしれない、とソルジュは言った。否、彼だけではない、〈石の目の魔女〉は断言したのだ。アデルには力があるのだと。

 魔女の家系に生まれ、一族の血を受け継いでいるというそれだけの理由で、アデルは漠然といつかは自分も魔女として目覚めるだろうと思っていた。しかしいつまでたってもその兆しは見られず、いつしか才能がないのだとあきらめ、自分をなぐさめてきた。

 だが本当は、ずっと腹立たしくてたまらなかったのだ。魔女の力がないというだけで、まるで人間としても劣った存在だと見なされているようで。

(――優秀でなければ、愛してもらえないの?)

 こころの奥底に深くしまい込んだ、臆病で小さな子どもがそう囁く。ずっとずっと母にそう訊きたかった。だが訊くのも恐ろしかった。もしもそうだと肯定されたら、アデルは存在していられなくなる。

 認めてほしかった。落ちこぼれであっても、魔女でなくても、アデルがただアデルでさえあればいいと。

(わたしはただ、愛されたかった。誰でもいい、誰かに必要とされたかった)

 だからあの日も、あの子のところへ向かったのだ。彼女なら、自分を必要としてくれると知っていたから。

(……あの子?)

 アデルははっと顔を上げた。そして驚き、恐怖で悲鳴をあげそうになった。

 そこに、――一枚の大きな姿見があったのだ。



(まさか、また〈石の目の魔女)の仕業?)

 アデルは慌てて立ち上がった。考えごとに意識をとられるあまり、〈石の目の魔女〉の脅威をいっときでも忘れてしまうなんて、なんと愚かだっただろう。

恐怖に喉が干上がる。だが、鏡のなかに〈石の目の魔女〉の姿はない。映っているのは自分だった。重たい黒髪を無造作に伸ばした、青白い肌の小柄な娘。その面差しは頼りなく、途方にくれているように見える。

 何度も言うが、アデルは鏡が苦手だ。なぜなら、自分を見るのが嫌いだから。なんの価値もない存在だと、その度にまざまざと思い知らされるようで。反射的に目を逸らそうとして思いとどまった。逃げるなと自分を戒め、真正面から鏡とむき合う。

(なんてみすぼらしいの)

 客観的に見てそう感じた。外見だけではない、内面の印象だ。自信のなさをまわりのせいにし、つねに能力のある他人を羨みながら積極的に変わる努力をしてこなかった。自分を疎ましく思いながら、一方で愛してくれない周囲を恨んでいた。

(嫌われて当然だわ)

 愛想ひとつ返すこともできぬくせに、他人が手を差し伸べてくれるのをただ待っているだけ。こんな娘に、いったい誰が好意をよせてくれると言うのだろう。

 手を伸ばして鏡の表面に触れようとした。すると、鏡の中のアデルがニッと唇をつり上げる。

『そう。これがありのままの、真実のあなたよ。私が見せているまぼろしではなく』

嘲笑うような顔がずるりと溶ける。黒髪は次第に色をなくし、灰色まじりの金の髪へと変貌をとげる。あらわれたのは、美貌の魔女だ。

『わかっているんでしょう。あの夜あなたに見せたのは、たしかにあなたの願望をかたちにしたものだけれど、完全な虚構ではないの』

魔女はひたとアデルの瞳を見つめ、決定的な一言を口にした。

『教えてあげましょうか。あなたをいちばん嫌っているのはあなた自身よ、アデル』

「…………」

 アデルは否定も肯定もしなかった。

『でも、私ならあなたを本当の意味で理解することができる。なぜなら私も孤独の深さを知っているからよ。誰にも理解してもらえないことがどんなにさびしくて辛いことか、お互いにわかっているんですもの』

 騙されまいとして、アデルはかぶりをふる。

「あなただって、わたしを利用しようと思っているだけよ」

『いいえ、それは違う。私の孤独が理解できるのはあなただけだし、あなたのさみしさを知っているのも私だけよ』

 そうかも知れない、いや、きっとそうなのだろうとアデルは思う。同胞の魔女たちからも恐れられ、鏡のなかにしか逃げる術を持たなかった〈石の目の魔女〉に、アデルならば寄り添えるのかもしれない。

「でも、あなたも『母親』なのではないの? 子どもがいると、以前そう言っていたはずよ」

 思わぬ反撃だったのか、〈石の目の魔女〉は顔をしかめた。口を滑らせてしまったと後悔しているのかもしれない。

『子ども。そうね、いたわ。でも今はいない』

「いた? まさか亡くなったの?」

 目を伏せ、逃げたのよ、と魔女はつぶやいた。同情をひくための演技ではなく、本当に気落ちしているように思えた。怪訝に思い、アデルは訊き返す。

「逃げたってどういうこと?」

『文字通りよ。あの子はずっと私を恐れ、嫌悪していたから。何度か呼びもどそうとしたけれど、決して応じようとはしなかったわ。私を憎んでいるはずよ』

「憎んでる?」

 しかしその問いには魔女は答えず、

『あなたもそうではないの、アデル。あなたも実の母親が嫌いで、苦手で、ずっと逃げていたでしょう?』

「わたしは追い出されたのよ。逃げたわけじゃ……」

 かぶりをふりながら、自分でもこころのどこかで嘘だと感じていた。

家に居たあのころ、いつも母親と顔を合わさずにすむよう、ひとりになれる場所を探していた。叔母にあずけられてもそれは変わらず、結局は近しいひとたちから逃れるように、このトロイメンにまでやって来た。

 否応なしに命令されたからというのは言い訳だ。帰ろうと思えば、いつでも帰れた。そうしなかったのは、アデル自身が戻ることを望まなかったからにほかならない。

「嫌っていたのはわたしじゃない。お母さんが私を疎んでいたから……!」

 ちがう、ちがう、ちがう。それは、嘘だ。

 激しい動揺がアデルを襲った。足場がぐらぐら揺れているような錯覚にかられ、ふらつきそうになったアデルの腕を、鏡の中から伸びた白い手が掴み、ぐいと引きよせた。

 至近距離に魔女の美貌が迫り、アデルの耳元で赤い唇が囁いた。

『偽ってはだめよ、アデル。あなた自身がそうやって偽るから、あなたも周囲に騙されるの。そしてそのことに気づけないままなのよ』

「どういう、意味……? 何が言いたいの?」

『あなたはずっと騙されている。利用されているのよ、あなたが慕う人間たち全員に』

 ――利用されている?

 アデルの喉がごくりと鳴った。

『おかしいと思わなかったの? あなたがこの町に来てから、すべてがあなたのために用意されていたこと。あなたがひとり立ちできるような店、あなたが頼りにできる隣人、それから、ずっと欲しかった友達も』

「……うそ」

 小さくつぶやき、アデルは首を左右にふった。信じられない、信じたくない。

 これは〈石の目の魔女〉お得意の計略だ。そう思うのに、足のふるえが止まらなかった。

『みんな、あなたに親切にしてくれたでしょう? 力になると甘言を吐きながら、あなたを励ましたり焚きつけたり。それはね、あなたが本物の魔女になる必要があったからよ』

 本物の魔女。

 アデルは全身の血が冷え切っていくような錯覚を覚えた。心臓がきりりときしむ。胸に小さな穴が空いて、そこから毒を注入されたかのように、鈍い痛みがじわじわと全身に広がっていく。

「どういうこと……」

『好意を抱いているように見せかけた、ただのお芝居よ。それともあなた、本当に自分が好かれているとでも思ったの? わかっているはずよ、自分がどんなに醜い人間なのか』

 膝が砕けた。しっかりと床を踏みしめて立っていられず、アデルはその場にしゃがみこむ。

 白い、血が通っているとは思えない手が、アデルの腕をつかんで引き上げた。袖の下からちらりとのぞいたのは、ソルジュからもらったお守りの腕輪だ。

「そんなこと、ない」

『いいえ、認めなさい。アデル』

 頭がガンガン鳴っていた。鼓膜の奥を物凄い速さで血が流れていくのがわかる。

 愛されないのは辛い。独りきりは哀しい。さみしいのは、もういやだ。

 いやだ、誰か、誰か――。

(た、すけて)

 アデルはいやいやをするように激しくかぶりをふった。白い両手がアデルの首をつかむ。しめつけられ、吸いこんだ喉がひゅうと鳴る。魔女の視線がアデルの瞳をとらえ、逸らすことを許さぬようにからめとる。

『あなたを理解してあげられるのは私だけよ。さあ、アデル。はやく私の名を呼んで――』

 重い暗示に、もがこうとする腕から力が抜けていく。息が、できない。耐え切れず空気を求めてあえいだ喉が、音を伴わずに相手の名を呼んだ。

「――アデル!」

 瞬間、締めつけられていた拘束がゆるみ、崩れ落ちたアデルの体を誰かが支えた。ぐん、と背後に引きよせられ、〈石の目の魔女〉との距離が開いた。

焼けつく喉をおさえて激しく咳きこむと、冷たい床にそっと下ろされ、座らされた。

「しっかりしろ、アデル。落ちついて、ゆっくり息をするんだ」

 遠のきかけた意識が、その声にひきよせられてもどってくる。

 視界に映る、焦った様子の青年の顔。彼は片腕にアデルの肩を抱き、もう片方の手で頬に触れ、必死にアデルを呼び覚まそうとしている。

 ああ、なんてことだ。彼を呼んでしまった。あんなにひどいことを言ったのに。助けてもらう資格なんか、どこにもないのに。

(ごめんなさい)

 そう言いたかった。だが喉が痛み、声はかすれて言葉にならない。申し訳なく思う気持ちの一方で、理不尽な悲しみも湧いてくる。なぜ助けになど来たのだ、と。

(ほうっておいてくれたら――)

 苦しさからだけではない涙が目ににじんだ。こんな身勝手な小娘のことなど、かまわなければいいのだ。好意をよせているわけでもないなら。

『やっと、姿を見せた』

 くすくすと笑う声が聞こえ、アデルはのろのろと顔を上げた。アデルを支えるためにかたわらに片膝をついていたソルジュも、じっと前方を睨んでいる。

 魔女は、鏡の中で艶然と微笑んでいた。その瞳はすでに、アデルではなくソルジュに向けられている。

『久しぶりね。会いたかったわ、私のソルジュ』

 強調された「私の」という表現にアデルは動揺する。ソルジュの表情が苦いものになった。そこにもっとも強く表れていたのは嫌悪、そして戸惑いと畏怖だ。

『この私から、どこまで、いつまで逃げ続けるつもりだったの?』

「アルローズ」

 魔女は眉根をよせ、不機嫌さをあらわにした。

『あら、その名前で呼ばれるのはいつぶりかしら。でも、あなたが呼ぶべきはそうじゃないはずよ』

「……母さん」

 しぼり出すような声でソルジュは呼んだ。母と。

 アデルは目を瞠った。どうして、という衝撃と、相反してやっぱりという諦めに気持ちが引き裂かれる。

「おれは逃げつづけていたわけじゃない」

『いいえ、否定しようとしてもむだよ。おまえはずっと私から逃げまわっていた。あまつさえ、せっかく魔女の血に目覚めたというのに、おまえはその力を捨てようとしたのよ』

 たび重なる驚きにアデルは胸を押さえたが、ただ黙って彼らの動向を見守るほかなかった。

『あのころ私はすでにパトリと対立していた。そして彼女に対抗するために、私があらゆる手段を講じるだろうと考えた。おまえは私が実の子をも利用するのではないかと恐れた。だから、私のもとを去ったのよ』

「…………」

『おまえは遠く離れた地で師を求めた。だけど魔女の力は捨てられなかった。それも当然のこと、力は魔女の血によって継承される。全身の血を抜きでもしない限り、一度目覚めた力は捨てられない』

 ソルジュは無言だった。肯定はしないが、否定もしない。

『別の師の庇護下にあれば私の手からは逃れられた。そしてその直後、私はパトリに敗れ、力を失い、撤退を余儀なくされた。それでもおまえは戻らなかった』

 たたみかけるように魔女は非難を続ける。

『それからすぐに、おまえは魔法の手ほどきをしてくれた師を亡くした。庇護を失ったおまえは、あろうことかパトリのもとに身を寄せた。私が完全に滅んだわけではないと知っていたから』

 肩に触れたソルジュの手がかすかにふるえていることに、アデルは気づいた。

『おまえは逃げた。母に怯え、逃げつづけた。私が魔女であることに執着し、よりいっそう強大なものを求めて生きながらえていることに怖れを抱いていた。だけど、そうこうするうちにやってきた、アデルが』

 魔女の瞳がこちらに向けられる。正面からその視線に射ぬかれ、アデルは息をのんだ。

『無力な魔女の子。けれど、その血は本物。いまやすっかり減少してしまった稀少な力を持っている。貪欲な私が、この娘を見逃すはずはないとおまえは考えたのでしょう?』

 ソルジュは〈石の目の魔女〉からアデルを守ろうとするかのように、その視線の延長上に立ちふさがる。しかし、そうすることで必死に自分を鼓舞しているかのようにも見えた。

『だからこの娘に近づいた。私への生餌に使えると思って――』

「ちがう!」

 魔女の言を遮ってソルジュは叫ぶ。だが隠しきれない狼狽がその声にはにじんでいた。

「生餌にするつもりなんかなかった。おれはただ、本当に」

『知っていて近づいたのだから言い逃れはきかないわよ。それに、弁明は私にではなくアデルにしたらどう? はたして、偽りだらけの兄弟子を、アデルは許してくれるかしらね?』

 せせら笑い、魔女はあごで彼の背後を示した。

 ソルジュがふり返り、目線がかちりと音を立ててぶつかった。恐怖がむき出しになった顔。対鏡のようになった灰紫の瞳の中に、アデルは自分とまったく同じ感情が広がっていくのを他人事のようにながめていた。失望、諦観、そして哀しみ。最後にあらわれてくるものも手にとるようにわかる。――絶望、だ。

 ああ、やはりそうだったのか。彼が優しかったのは同情でも共感でもなく、妹弟子に対する責任感、ましてや好意などというものではなかったのだ。

 期待など抱いていなかったのだから、傷つくほうがおかしい。なのに、息ができないほど苦しいのはどうしてだろう。

 優しくしたりからかったり、励ましたりまもってくれたり。さんざんふりまわしておいて。

(わたしに、じゃない。わたしが特別だったわけじゃなかった)

 たまたま利用できそうな魔女がやって来たから。なんて滑稽なのだろう、彼の言動に一喜一憂して、最後には傷ついて。

(道化は、わたしだった)

 眼窩からあふれたものが頬をつたってぽたりとこぼれ落ちる。自分の愚かさを笑いながら、こころがどんどん冷えていくのを感じた。

 ソルジュの顔に動揺が走った。彼の手が反射的にこちらに伸ばされる。

「アデル」

 この期におよんで同情など欲しくなかった。アデルはそれをはらいのけ、後退った。明確な拒絶に彼の目は見開かれ、背後で魔女が勝ち誇ったような笑みを浮かべる。

 ふりはらわれた手を見つめ、ソルジュがひどく傷ついた顔になる。

「黙っていてごめん。でも大事なのはうそじゃないんだ。せめて、それだけは――」

 何事かを早口で伝えた。否、唱えた。それは呪文だった。アデルの手首が急に火傷したような熱をもったかと思うと、ぐんとうしろへ引っぱられる。〈石の目の魔女〉がしまったとつぶやき、続けて何か叫んだようだった。

 ソルジュと〈石の目の魔女〉の力がアデルの目前でぶつかりあって弾け、稲妻にもまさるすさまじい閃光と衝撃をその場にもたらした。視界は真っ白に灼かれて見えなくなり、手首に巻いていたお守りの石が粉々に砕け散る。

「……!」

 アデルは悲鳴を上げる間もなく衝撃で弾き飛ばされた。一瞬にして、視界いっぱいに薄水色の空が広がる。

 ソルジュと〈石の目の魔女〉の魔法がどんな作用を起こしたのかわからなかったが、とにかくアデルは〈英知の館〉から宙へと投げ出された。全身が衝撃で麻痺しているため、はっきりとした実感はないが、おそらく今、自分はものすごい速さで空から落ちているのだろう。だが不思議なことに、恐怖も何も感じない。

 触れそうなほど雲が近いのに、手はむなしく宙をかいただけだった。ぐるりと世界が反転し、今度はトロイメンの全景をその目で見ることになった。同じ色で統一された街並、くもの巣のような形をした道、まるでおもちゃのような小さな家々。その向こうにつらなる、緑の丘。

(まるで箱庭のよう)

 パトリの家と、ブルーノの家の並びが見えた。どこもよく似た造りの家なのに、なぜか隣り合うそのふたつだけはすぐにわかった。アデルの焦点が猫の額ほどの小さな庭に、ぐんと迫る。

 庭に誰かが立っている。鮮やかな赤毛を風になびかせ、厳しい表情でこちらを見上げている。足もとに一匹の白猫、そしてブルーノが家の窓から顔を出し、空を指差して必死で何かを叫んでいる。

 あれは。――彼女は。

 庭の中央に立つそのひとが、手を伸ばし、天にむかって呪文を唱える。

 ふわりと、羽のように柔らかな感触が体を包んだ。覚えているのはそこまでで、アデルの意識はとぎれ、闇のなかに沈んでしまった。

 薄れていく意識のなか、信じてほしい、というソルジュの懇願だけがなぜかはっきりと耳の奥でこだましていた。



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