第六章 人形たちの踊る夜



 翌朝も早くから、店に訪ねてきた人物がいた。

「おはよう、アデルねえちゃん!」

 派手な赤毛を揺らし、闊達に朝の挨拶をよこしたのはカレッサの弟、メリーだった。予想外の客に、アデルは目を丸くする。

「お、おはようメリー。どうしたの」

「カレッサ姉ちゃんから、これを預かってきたんだ」

 そう言って彼が差し出したのは白い封筒――手紙だった。

「カレッサから? ええと、とにかくお店に入って」

「お邪魔しまーす」

 突然の訪問にとまどいながらも、アデルは体をひき、客を招きいれた。



「今日は、カレッサはどうしたの?」

「姉ちゃん、星読みのお客が入ってたから。おれが伝言預かったんだ」

 訊ねるアデルに、客用の椅子に腰かけ、にこにこと笑いながらメリーは答えた。そこへ、客が来たのかと奥からノアがふらりと出てくる。

「あ、アデル姉ちゃんの使い魔猫だ。おはよう、こっちにおいでよ」

「うっ。お、おはようございます……」

 ノアはわずかに困ったような顔で主人を見たが、アデルがうなずくと、しぶしぶといった様子で客用のテーブルに飛び乗った。子どもらしい、物怖じしない好奇心をむき出しにしてメリーが構おうとするのを、ノアは渋面でされるがままにされている。

 猫らしく必要以上に構われるのを嫌うノアだが、メリーがアデルの大事な友人の身内と知っているので、がまんしているのだろう。ひとりと一匹が楽しそうにじゃれているあいだに、アデルはカレッサからの手紙に目を通した。

 手紙の内容は、端的に表すと、当夜祭にいっしょに行きませんか、というお誘いだった。

「よかった。お祭り、わたしから誘おうと思っていたところだったから」

「アデルねえちゃんもお祭り行くの?」

「ええ。カレッサにそう伝えておいて」

 テーブルの上に置いたクッキーに遠慮なく手を伸ばし、もぐもぐと咀嚼しながら、メリーはわかったとうなずいた。

「いいなあ。お祭り、おれも行きたいんだ」

「それじゃ、メリーもいっしょに来る?」

「うん、行きたい。でも、だめなんだぁ。姉ちゃんが、あんたは全然じっとしてないし、すぐはぐれるからいっしょに行くのは嫌だって」

「まあ、そうなの?」

「うん。だけどおれ、本当にじっとしてるの苦手だし、姉ちゃんとはぐれたことあるから仕方ないかなって。でもひとりでお祭り行ってもぜんぜん楽しくないし」

 そうよね、とアデルは相槌を打つ。

「そうだ! おれ、ノアといっしょに行ってもいい?」

「えっ」

 と声を上げたのは当のノアだ。

「ノアといっしょだったら、万一姉ちゃんたちとはぐれてもすぐに合流できるでしょ? ノアはアデル姉ちゃんの使い魔なんだし」

 言いつつ、メリーが「どう、ダメ?」と同意を得るように白猫をのぞきこむと、ノアは困り果てた様子で主人を見やった。必死でちらちらとこちらを窺うノアに、助け舟を出すつもりでアデルは言った。

「わたしのことなら大丈夫よ。使い魔だからって、いつも絶対にわたしのそばにいなくちゃなんて思わなくていいの。カレッサがいっしょにいてくれるし、心配いらないわ」

 心配ない、という言葉はつねに主人を気遣うノアに向けたものだ。少しでも負担を軽減させようと思って口にしたのだが、なぜかノアにはかえってショックだったらしい。彼女は耳を伏せ、うなだれて黙りこんでしまった。

「ノア?」

 しかし、使い魔が返事をするより先にメリーが嬉しそうに顔を輝かせた。

「やった! いいってさ、ノア。じゃあさ、おれが案内するから、いっしょにサーカスのテント見てまわろう」

 ノアも断りづらかったのだろう。困ったように首をかしげながら、小さな声ではい、と承諾したのだった。


         *


 ふだんならば、町のひとびとが仕事を終え、それぞれが家路につく夕刻。

 トロイメンの立派な庁舎がそびえたつ中央広場には、即席のテントがいくつも設営されている。その合間をぬって、蜘蛛の巣のように張りめぐらされたランタンが、行きかう客の顔を赤々と染めていた。

 東の空は早くも藍色に染まりはじめ、一日の終わりを告げる鐘の音が広場にも響きわたる。鐘の音が鳴り止むと、今度はとってかわるかのように軽快でひょうきんなメロディが流れはじめた。

 音の発生源は――と見てみれば、隅にある小さな舞台で玄人はだしの音楽家たちが客受けのする楽曲を奏で、浮き足だった場の雰囲気をさらに盛り上げている。

 そこかしこで披露される大道芸に、ときおりあちこちで歓声があがった。移動式の小さな舞台でくりひろげられる人形劇に子どもたちは目を輝かせ、小剣を投げては受け止めるジャグラーに若い男女のつれが拍手をおくり、すでに酒が入っているのか赤ら顔をした男が火を吐く大男に驚いて、がははと大きな口を開けて笑う隣のおかみさんの腰にしがみつく。

 人々は芸や見世物に足を止め、ときに銀貨や銅貨を楽器ケースや帽子の中に投げ入れる。拍手に歓声、調子っぱずれな歌声に、ときおりからかいまじりのヤジも飛ぶ。

ふだんの雑踏とは違う、独特のざわめきと人いきれ。くらくらするような祭りの雰囲気に飲まれそうで、アデルは目を何度も瞬かせた。

「お祭りのときって、いつもこんなふう?」

「そうよ、賑わってるでしょ。どこも騒がしいし、お客さんでいっぱいなの」

 焼き栗の屋台で栗を求め、紙に包まれたあつあつのそれを受けとりながら、カレッサは苦笑した。ふたつ買ったうちのひとつをアデルに手渡しながら、

「お腹がすいたでしょう。おやつよ。皮を剥いて食べるの」

 黒く焦げた皮を言われた通りにぱりぱりと指でむき、実を口にした。柔らかい触感の栗の実は、噛むとほのかに甘かった。

 おいしい、と自然に笑みがこぼれる。

「ふしぎね。これだけの人、いつもはどこに隠れてるのかしら」

 広場の中央から少し離れた道のあちこちに、みやげ物屋や食べもの屋、トロイメンの名産品であるからくり仕掛けのおもちゃを並べた屋台が並んでいる。物見遊山な観光客や、菓子や玩具を親にねだる子どもが群がり、どこもけっこうなにぎわいだ。

「言っとくけど、アデル。私たちもこの人ごみの一部なんだからね」

「うん、それはもちろんわかってるけど……」

「ほらほら、行くわよ。迷わないでね」

「ま、待って」

 カレッサに手を引かれ、慌ててその後を追う。広場に来る前はノアとメリーもいっしょにいたのだが、たどりついて早々にはぐれてしまっていた。このままカレッサまで見失っては大変だ。

 雑踏に混じってあちこちひやかし、テントの合間を縫うように歩いていると、前方でなにやら人だかりができていた。

「一夜かぎりの夢芝居、さあ、みなみなさまも足を止め、ご覧になられてください。今宵は宴なれば、ただ人形たちの魅せる劇にひととき酔われ、俗世を忘れて楽しまれますように――」

 朗々とした前口上が、人々の後頭部の向こうから聞こえてくる。興味を覚えたアデルがカレッサの腕を引くと、彼女も気づいて立ち止まった。ふたり並んで、人垣の合間からどうにか顔をのぞかせる。

 人垣の前方は背の小さい――おもに子どもたちが車座になっており、好奇心に満ちた彼らの視線の先には、移動式の車輪がついた小さな舞台がある。緋色の幕で覆われた舞台には木で枠組みが作られ、屋根の部分に書かれた〈人形座〉という文字を、ランプの灯が煌々と照らしている。

「人形芝居みたいね。よっていく?」

「うん!」

 カレッサが尋ねると、子どもに負けないほどの期待に顔を輝かせ、アデルはうなずいた。

 上部から吊り糸つきの操り人形が二体、舞台の中央にするすると降りてくると、客の間から期待を込めた歓声がわっとあがった。

 緋色の幕を背に、舞台上で向かい合うのは〈踊り子〉と〈笛吹き〉の人形だ。

両者がそろって頭を下げると、景気づけのように観客たちから拍手が送られる。やがて急速に場が静まると、〈笛吹き〉が横笛をくちびるにあて、足でタンタンとリズムをとりはじめた。同時に緋幕のむこうから、本物の横笛の演奏が流れてくる。三拍子の軽快なメロディ。

 その即興の旋律にあわせ、〈笛吹き〉はまるで本当に笛を奏でているかのように身をよじらせながら、袖のほうへと下がっていく。〈踊り子〉に舞台をゆずるためだ。

〈踊り子〉は舞台中央に進み出ると、器用にドレスの裾をつまみ、ちょこんとお辞儀をしてみせた。

 リズムにあわせ、三日月形の靴がかかとをそろえ、足をはねあげる。〈踊り子〉は軽やかに宙を舞い、音楽の節目と同時に床に着地。片足を軸に回転すると、薄桃色のひらひらとした衣装が鮮やかに残像をえがいた。

 操られているとは思えないほどなめらかな動きに、アデルは夢中になってその動作を追った。

 腕をのばし、足を上げ、回転し、舞台せましと飛びはねる。ふたたび舞台中央へ出たとき、〈踊り子〉は両手を差しのべ、求めるように天を仰いだ。

 と――、

〈笛吹き〉が演奏の絶頂で手をとめる。同時にぶつり、と音が途切れた。だがまさにその瞬間、〈踊り子〉が床にくずれ落ちた。頭を伏せ、手足をバラバラに、四方に投げ出す格好で。魂を燃やしつくし、踊りきったさまを表現しているかのように。

 舞台の上に、しん、と沈黙がおりる。

 そして一瞬後、割れんばかり歓声と拍手がその場に満ちたのだった。



 アデルは夢中になって手を叩いていたが、ふと隣でカレッサが顔をこわばらせているのに気づいた。

「カレッサ?」

 どうしたの、と問うと、彼女は小さな声で答えた。

「あの人形たち、人間の手で動かしているんじゃないわ」

「え? それってどういう……」

 アデルは問い返そうとした。しかし、再び大きくなった拍手の音に、思わず舞台に気をとられてしまう。

 座興は終わりとばかり、〈笛吹き〉と〈踊り子〉がお辞儀をして舞台上から退くと、間をおかず緋色の幕が開かれた。

 一目でトロイメンとわかる町の背景を従えて現れたのは、二体の人形だった。一体は老婆のように腰を折り曲げ、長い黒髪で顔を隠している。漆黒の帽子に同色のローブを身にまとい、手には曲がった樫の杖をにぎり、いかにも昔話に謳われる魔女の姿そのものだ。

 もう一体はそれとは対照的に、白いケープと帽子を身につけ、背筋をぴんと伸ばした若い娘の人形だった。前者との共通点は杖を持っていることで、つまりはこちらも魔女なのだろう。

「さあ、今度はふたりの魔女のおはなしだ――」

 どこからともなく口上の声が聞こえ、聴衆は手を止めてしんと静まりかえった。



 むかーしむかしの そのまたむかし

 んん? いやいや、ちょっと待てよ 

 ひょーっとすると そんなにむかしでもないかもしれない


 善きちから 正しきちから 強きちから 

 ひとびとを導く幸いなるちからが

 この地上に満ち満ちていたころ、

 世界にはたくさんの魔女が

 住んでおりました

 

 空飛ぶちから 火を起こすちから 未来を見通すちから

 魔女たちは決して驕ることなく、

 ひとびとを幸福に導くために魔法をつかい、

 ひとと魔女はなかよく平和に

 暮らしておりました


 ところが ところが、

 ときの流れとは無常なもの

 数百年、幾世代と年月をかさねるうち、

 ひとびとは知恵をつけ

 知識を吸収し

 生活を豊かにするための技術を

 どんどん向上させてゆきました

 機械にからくり 蒸気機関

 とき同じくして、世に満ちていた幸いなるちからはどんどん薄れ

 魔女たちは急速に数を減らしてゆきました

 そして、ひとびとは長きの平和で助けてもらっていた恩も忘れてしまい、

 だんだんと 魔女を必要としなくなっていったのです


 存在を否定された魔女たちは

 ますます減少の一途をたどりました

 もはや血は絶えるのみ、そう懸念したまさにそのとき

 黒い魔女が、おごった人間たちを懲らしめてやる、と言いました

 しかし、白い魔女は首をふります

 ひとびとを恨んではなりません、

 魔法がこの世からうしなわれるのは自然のことだと

 意見を違えたふたりの魔女は争いました

 戦いは三日三晩続きました

 しかし、我らが偉大なる白い魔女は、

 ついに黒い魔女をしりぞけ、その力を打ち破ったのです――



 劇が終わったとき、舞台上に立っていたのは白のケープを着た魔女のみだった。悪役である黒い魔女の人形は床に伏しており、正義が悪に勝ったという、至極わかりやすい構図を描いている。観客たちは単純に喜び、人形たちに惜しみない拍手をおくっていた。しかし。

『こんなふうにおさまれば、物語としてさぞかし美しかっただろうに』

 口上を述べていた男とも女ともつかない不思議な声が、唐突にアデルの耳に聞こえた。

 今のは、と思わずカレッサを見やると、彼女は顔色を変えていた。アデルの手をにぎりしめ、眉根をきつくよせて舞台を凝視している。

「……アルローズ」

 カレッサのくちびるから、小さなつぶやきが漏れる。その声に反応したように、倒れ伏した黒い魔女の人形がぴくりと身じろぎしたように見えた。

 不吉な予感に、冷たい汗がアデルの背中ににじむ。緊張した面持ちでなりゆきを見守っていると、舞台に倒れていた黒い魔女の人形が膝を立て、糸で操られているとは思えぬほどなめらかな動きで杖をふるった。

 とたん、白い魔女の人形がぼうっと燃えさかる炎に包まれ、驚いた観客たちはいっせいに悲鳴をあげた。

「きゃああ!」

「うわあああっ」

 逃げるもの、腰をぬかすもの、最前列にいた子どもたちは恐怖と混乱で泣き出し、慌てた親たちが彼らを火の粉から遠ざけようと人波をかきわける。場はまたたく間に騒然となった。

 混乱のさなか、黒い魔女の人形はおのれを縛めていた糸を断ち切ってふわりと宙に浮かんだ。ぐるりと居並ぶ観客を見わたし、ある一点で動きを止める。

 こちらを眺め、人形がニィィと奇妙にくちびるをつり上げたのを、アデルは驚愕とともにただ見つめた。その笑みには覚えがあった。――あの道化人形だ。

『見ツケタ』

 その声と同時に、手が強く引っぱられる。

「――逃げるわよ、アデル!」

 カレッサの一喝でようやく呪縛がとけた。アデルは引かれるままに急いで踵をかえす。人ごみをかきわけるようにして、ますます混乱の大きくなっていく現場から逃れた。肩越しにうしろをふり返ろうとすると、前を走っていたカレッサが急に方向を変えた。そのはずみで、繋いでいた手が離れてしまう。

「カ……」

「来て、こっちよ!」

 テントとテントの隙間に、カレッサは身を躍らせた。すぐさま続こうとしたアデルだったが、ぬうっと背後からのびた手に髪の一部をつかまれ、がくんと顎をそらされる。

 アデルの髪をつかんだのは、あの道化の人形だった。真っ赤なくちびるをニヤニヤとうす気味悪い笑みに歪めているのを見て、アデルは悲鳴をあげた。

「……っ、はなして!」

 嫌がると、面白がるようにますます強く引っぱられた。うなじのあたりで根元からぶちぶちと髪が切れた音がする。頭を押さえ、必死にもがくと、ようやく拘束がとけた。

 カレッサの姿を見失ったアデルは、とにかくこの状況から逃れたい一心で、手近なテントの中に飛びこんだ。誰かに助けを求めよう、そう思って。

 しかしそこは、がらんとした空間だった。

 色とりどりの衣裳や靴があちこちに脱ぎ散らかされている。見回すと、たくさんの衣裳箱と曲芸のためのボール、獣使いたちが使う鞭、楽器やナイフ、そういった様々な道具の類が壁際に山と積まれていた。荷物置き場であると同時に、芸人たちが衣裳を着替えるためのテントなのだ――そう気づき、アデルは動転した。

(誰もいない……?)

 燕尾服やシルクハット、乗馬服、黒いマントなどの衣裳がぶら下がるいくつもの簡易タンス。そしてその真ん中に立てかけられていたのは、一枚の大きな姿見だった。

恐怖のためか、足が縫いとめられたように動かない。逃げなければと思うのに、身体はまるで鉛になってしまったかのように重かった。

 数歩分の距離をおいて、アデルは正面から鏡と対峙した。だが、そこに映っていたのは自分ではない者の姿だ。

 鏡のなかの彼女は、金の髪を指で弄びながら、待ちかねたように言葉を発した。

『こんばんは。待っていたわ、アデル』

 アデルは、ただ呆然とその姿を見返すしかなかった。


        *


 悲鳴を上げようにも、恐怖で声が出ない。のどがからからに干上がってしまったかのようだ。長い沈黙。だが実際はそれほどの間でもなかったのだろう。

 アデルはようやく声を絞り出した。

「あなたが、石の目の……魔女……?」

 その名で呼んだ瞬間、鏡のなかにいる彼女は嫣然と微笑した。

『思っていたのとは少し印象が違うわね。――けれど、あなたに会えて嬉しいわ』

 魔女は想像していたよりもはるかに若々しく、そしてうつくしかった。

 見た目はせいぜい二十歳を過ぎたあたりか。くっきりとした目鼻立ちに、意志の強さを表すきりりとした眉。肉厚の唇はまるで紅をひいているかのように赤く妖艶で、透けるような白い肌に映えていた。豪奢な金の巻き毛が耳の後ろで渦を描き、美貌と呼ぶにふさわしい顔を額縁のごとく飾り立てている。

 話に聞いていたような恐ろしい魔女とは、とても思えなかった。

『あまり歳をとっていなくて驚いたの? 実は、これも魔法なのよ。若返りの術なんて、いまはほとんど使える者はいないけれど。そうそう、この魔法は私の師であり、そしてあなたの師でもあるパトリから教わったのよ』

 彼女は遊ばせていた指を髪からはなした。

『パトリは言うにおよばずだけど、私もこう見えて結構な年齢なの。少なくとも、あなたのお母さまよりは年寄りでしょうね。知っていて? 私には血を分けた子どももいるの』

「こ、子ども?」

 はじめて聞く事実にアデルが目をみはると、〈石の目の魔女〉はくすりと笑った。女性としての、そして力を持った者としての自信に満ち溢れた笑み。だがそれは、アデルの記憶の誰かを連想させた。

(わたし、このひとを知ってる……?)

 いつかどこかで、たしかに出逢ったことがある。だが、誰なのか思い出せない。

 とまどうアデルに、魔女はふくみがあるかのようにいっそうくちびるをつり上げる。

『あなたも知っているでしょうけど、魔女の力は魔女の血によってのみ受け継がれるもの。私はあなたをずっと待っていた。あなたが必要なのよ。ねえ、アデル。私に力を貸してくれない?』

 その誘いは予想だにしないものだったため、アデルは驚いた。

「力を貸す? わたしが、あなたみたいな魔女に……?」

 何よりも先に疑問が浮かび、アデルはそのまま口に出した。

「わたしにはなんの力もないのに」

『あら、あなたのそれは思いこみだわ。あなたにも魔女の力はあるわよ。とても限定された場所でしか発揮されないものだから、誰も気づかなかっただけ』

「限定された……場所?」

 魔女はうなずき、芝居がかった仕草で片手をふる。

『魔法をじゅうぶんに発揮するためには、場所や道具も重要なのよ。たとえばね、ご覧のとおり私は鏡を使ったまじないを特に得意としているの。道具として、とても相性がいいみたい』

 魔法に得意分野があるのと同じで、道具との相性というのはたしかに存在する。アデルは逆に、鏡というものがとても苦手だ。

石の目ローセリナスなんて異名がついたのもそのせいよ。〈ガラス目の魔女〉じゃ、少し変だものね』

 おかしそうにくすくすと笑う。ひとしきり肩を揺らしたあと、彼女は唐突に笑いをおさめ、くちびるをゆがませた。

『――だけど、皮肉なものね。今はごらんのとおり、〈石の目〉そのものになってしまったわ』

 薄ら寒いものを感じ、アデルは怯みそうになる。

「あなたは……本当にパトリ師匠と争ったの? 師匠から離反して?」

 魔女はうなずいた。

『ええ、そうよ。さっき、人形芝居を観たでしょう? あれは実際に起こったことよ。私は魔女の力をこの世に知らしめたかった。いまでこそ迫害を受けなくなったとはいえ、魔女が日陰の存在であることは変わらないわ。だから、このトロイメンを足掛かりにして、町の外にも魔女の存在を広めようと思ったのよ。私たち魔女はその気になれば天候さえも動かせる。力を束ねれば、天変地異を起こすこともできる。――ああ、実際にそうするわけではないわよ。ただ、人間たちに私たちの強さを示せればよかったの』

「…………」

 アデルの脳裏に、「力を持つ怖さを知っている」と言ったカレッサの顔が浮かんだ。彼女はこうも言ったのだ、それってすごいことなんだよ、と。

『けれど、パトリは反対した。力におぼれること自体がとても危険なのだと言って。理解できないのなら、仕方ないと思ったわ。止めるなら、全力で抗うつもりだった』

 それで――、と魔女は目を伏せた。

『結果的に、私の肉体はパトリに敗れたときにうしなわれた。私も彼女の力の大半を奪ったから、完全に負けたとはいえないけど、〈鏡〉のなかに逃げこむのが精いっぱいだったの。だから、いまの私は半分亡霊みたいなものね』

 小さく肩をすくめる仕草は、若い娘のような容貌とあいまって、あどけなく無邪気に見える。――だがそれゆえに、とても危険な気がした。

『誰にも気づいてもらえない、ひとりぼっちの亡霊よ』

「亡霊……」

『そう。ここはとても、さみしいところだもの』

 アデルは知らず知らずのうちにその声に引きこまれている。愛らしいかんばせに、気づかぬうちに魅入られる。さびしげな風情を見せられれば、情が湧く。

 美も一種の魔法だ。人を惹きつけ、目を釘づけにし、いつしかその心すらも支配してしまう。そしてそのことを、〈石の目の魔女〉は熟知している。鏡の中から目に見えない蔦が伸び、アデルの全身に絡みついてくるかのようだった。

『ねえ、アデル。もっとこっちに近づいて来て。顔をよく見せてちょうだい』

 魔女が呼ぶ。アデルは意識をつなぎとめようと、必死に抗った。

「あ、あなたはどうして……最初から、わたしの名前を知っていたの?」

 金の髪の魔女は、にっこりと少女のように微笑んだ。

『あら、名前だけじゃないわよ。あなたのことならほかにもたくさん知ってる。……たとえば、そうね。薬草術が得意なこと、本を読むのが好きなこと。自分を落ちこぼれだと思っていて、母親に疎まれていると思っていること。そのために、ずっとあなたが孤独を感じていたことも』

 アデルはぎくりと顔をこわばらせた。なぜ。

『さびしかったでしょう、ずっとずっと。いいえ、もしかしたらいまも――かしら』

 やさしく、柔らかな声音でそう続ける。

 甘い香りのするバラに棘があるように、彼女の言葉には毒があると、アデルは本能的に悟った。騙されてはだめだ。聞き入れてはいけない。だが、意思に反して抗う力はだんだんと薄れてゆく。

『私ならあなたの孤独を理解してあげられる。私にはあなたが必要なのよ。ねえ、アデル。力を貸してちょうだい』

 朦朧としながら、ゆるゆるとアデルは首をふる。

「あなたも……、わたしを利用しようとしているだけだわ」

『信じてもらえない? じゃあ、こんなのはどう? あなたが望む夢を見せてあげる。ほらこんな風に――』

 魔女の指が誘い、声が途切れる。

 視界が暗転し、アデルがはっと気づいたときにはどこかの部屋に佇んでいた。暖炉と来客用の小さなテーブルセットに見覚えがある。――ここは居間だ。それも、実家の。

 里子に出されてから一度として帰っていない家だった。何年も離れていたのに、意識が麻痺しているのか、懐かしいという感情も湧かない。

 室内にはアデルのほかに、ふたりの人間がいた。黒髪と鳶色の髪をした、どちらも三十代なかば頃の女性で、どことなく面差しが似ている。アデルのよく知る人間――母のイレーナと叔母のエスニダだった。

「お母さん!?」

 思わず叫んでしまい、慌てて口をふさぐ。しかし、ふたりがアデルに気づいた様子はまったくなかった。自分の姿は彼女たちには見えていない。どうやらいつも見ている夢に近い状態らしい。

 母は椅子に座っており、向かいに座るエスニダとぽつぽつと言葉をかわしている。久しぶりに会ったのか、話の内容はもっぱら互いの近況のようだった。母の顔が心なしかやつれている気がしたが、理由はわからない。ふたりの会話をもっとよく聞こうと近づきかけ、ふと別の気配を感じてアデルは戸口をふり返った。

 扉がほんの少しだけ開いている。そう、のぞき見するのにちょうどいい幅に。その隙間からこの部屋をうかがっている人物がいることを、アデルは知っていた。

(あそこにいるのは……わたし?)

 戸の隙間からのぞく、今よりも幼いアデル。

 重たげな黒髪は肩のあたりで切り揃えられ、現在のそれよりもだいぶ短い。黒目がちの目を凝らし、不安げな表情を浮かべ、開いた戸の隙間から固唾をのんでうかがっている。

 記憶がよみがえってきた。これは、姪のアデルを引きとるために、数年ぶりに叔母が訪ねて来た日のことだ。今でもはっきりと思い出せるあの日の情景が、目の前でくりひろげられようとしていた。

『今日ここへ来てもらったのは、あの子をあなたに預けるためなのよ』

 そんな言葉が聞こえ、アデルははっと母をふり向いた。同時に扉の向こうにいる小さな自分がぎくりと肩を揺らしたことにも気づく。

 あの子、という言葉が誰を指すのか、どちらもわかりすぎるぐらいわかっていた。

『手紙でも書いていたけど、姉さん、本気なの? アデルをわたくしに預けるなんて……』

 叔母の問いに、母は小さくうなずいた。

『よく考えて決めたのよ。どうか、あの子を――アデルを引きとってちょうだい』

 はっきりと言い切る母に胸が痛む。同時に、扉のむこうにあった気配も消えた。突きつけられた事実に衝撃を受け、過去のアデルがこの場を去ってしまったのだ。

『どうしてなの? 自分の子どもでしょう』

『……だめなのよ、どうしてもわからないの。アデルは難しい子だわ』

 責めるような妹の言葉にも、イレーナは疲れたように首をふるだけだ。

 わかっていたことだったが、改めて直接的なことを言われると、想像以上に胸にこたえた。自分の存在はそんなに重荷になっていたのかと、母の様子にこころが痛む。

『アデルはわたしが何を言っても、とたんに口を閉ざして喋らなくなってしまう。しまいには図書室に逃げこむし。何度叱っても聞かないわ。ひっこみじあんなのはわかるけれど、母親のわたしにまでそんな調子なのよ。いつも、じっと黙ってあの黒い目で見上げられると、なんだか責められているような気がして』

『責められてる?』

『そう。「母親のくせに、どうしてわからないの」って』

『そんな。姉さん、アデルはまだ小さいのよ』

 母はかぶりをふった。

『少なくとも、あの子はわたしを嫌っているわ。怯えているように見えるときもある。そんな態度をとられるのが、ひどくいらつくの』

『考えすぎよ。それに、わたくしに預けられると知ったら、アデルはもっと頑なになってしまうわよ。母親に捨てられたと思って、もっとこころを閉ざしてしまうかも知れないじゃない』

『捨てるんじゃないわ、あの子と一度距離をおきたいだけよ。ねえエスニダ、お願いだから、わがままをきいて。あなたのほうが、アデルもこころをひらくかも知れない』

『でも……』

 なおも渋るエスニダの言葉を遮るように、それにね、と母は言った。

『あの子にもなんらかの潜在的な魔女の力があるはずなのに、その兆しがまったくないのはわたしの教え方が悪いのかもしれない。でなければ、わたしとはまったく違う分野の力なのかも。できれば、それをあなたに見つけて欲しいのよ。魔女としてはあなたのほうがわたしよりも優れているから』

 叔母は考えこんだ。

『わたしのためじゃないわ、あの子のためよ。それはわかって。アデルが自分から帰りたいと言ったら、わたしはいつでも迎えいれるわ。だからそれまでは』

『……わかったわ』

 渋っていたエスニダはついに折れた。あきらめたような表情で首をたてにふる。

『だけどもし、わたくしにも懐かなかったらどうするの? アデルが帰りたいと言わなかったら? そして万が一、魔女としての才覚が見いだせなかったら?』

『そのときはまた別の師を探すわ。……ごめんなさい、わたしにはもう、限界なのよ』

 知らずにいた二人の会話に、アデルは呆然と立ちつくしていた。

 嫌われ、疎まれているのだと物心ついたころから思っていた。思いこんでいた。気持ちの齟齬に、母がこれほど苦しんでいたことにも気づかなかった。

 ――でも。

(それじゃ、……あきらめなければよかったの?)

 いつか母にも気持ちが通じると、アデルの孤独を理解してもらえると信じ続けていればよかったのか。たとえ無理だと手をふり払われても、息のつまるようなあの場所で。

 うちに帰りたいと、ただそう望みさえすれば本当に戻ることができたのか?

(わたしは……)

 混乱におちいったアデルの内情そのままのように、目の前の光景がぐにゃりとゆがんだ。母も、叔母も、見慣れた我が家も、熱せられた鉄のごとくどろりと溶け出して流れていく。色も、音も、それから時間も。

(――ちがう)

 こころのどこかが否定する。これは夢だと、アデルの望む夢を見せると、他ならぬ〈石の目の魔女〉が宣言したではないか。これが現実のことなのか、それともアデルの願望を酌み、魔女がつくり出した虚構なのか、今は確認する方法がない。

(術にとりこまれてはだめ!)

 アデルは幻を遠ざけようと、両手で頭を抱え、激しく首をふった。

 偶然服の袖口がまくれあがり、左手首に巻いたお守りがあらわになる。その瞬間、偶然吹いた突風のために、テントの裾が大きく広がった。

 ばさっ、という音。

 ほんの一瞬だが、どこからか祭のざわめきが聞こえてきた。人々の気配、歓声や騒がしい即興曲、息づかい、足音、はじけるような笑い声。瞬時に呪縛が解け、アデルの意識が戻った。

『まあ、残念。破られちゃったわ』

 面白がるように魔女は言った。残念だと口にしながら、自信に満ちた笑みは崩れない。

 アデルの聴覚に届いた現実の音はあっという間に不明瞭になってしまった。耳をよく澄まさなければ聞こえない、かすかな音だけに意識を集中し、それを頼りにアデルは出口の方向を定める。

(逃げなくちゃ。早くここから)

 じりじりと後ずさりするアデルに、魔女はほんのわずか顔をしかめた。憐れむような微笑を浮かべ、できの悪い教え子を諭すような口調で言う。

『無理よ、アデル。諦めなさい』

「わたしは、あなたの言いなりにはならない!」

 アデルはその言葉をふりきり、急いで踵を返した。

しかし、テントをめくり、おぼつかない足取りで外へ飛び出したとたん、アデルは絶句して立ちどまった。

 外はすっかり暮れて暗くなっていた。またたく星をいくつも抱えて横たわる空の下に、大小さまざまなテントが並んでいる。角灯の飴色の光がぽつぽつと浮かぶなか、広場の中央に、即席で組み立てられた回転木馬が浮きつ沈みつしながら回っている。しかし周辺には誰ひとりとして人の姿はなかった。

(さっきまで、あんなに賑わっていたのに)

 焦燥を覚え、アデルは広場を小走りで横切った。あちこち見渡すが、人間どころか猫の子いっぴきの姿もない。まるで影絵か、紙芝居の世界に迷いこんでしまったかのようだ。

「カレッサ! ノア!」

 声を嗄らして名前を叫ぶ。だが、どこからも返答はない。さっと何者かがそばをよぎった気がしてふり向くと、自分の服の影がテントの壁に映っていただけだった。

 背後には、トロイメンの庁舎と時計塔がぬっとそびえ立っている。こちらを押し潰すかのような巨大な影に、アデルはかすかに身震いした。

 光を求め、アデルはもっとも明るい広場の中央へと足を向けた。ランタンに照らされた、からくり仕掛けで動く回転木馬。どこからか聞こえてくるオルゴールの旋律が、距離が近づくごとに音量を増していく。

 しかしその途中、アデルははっと足を止めて凍りついた。上下する木馬たちの輪の前で、小さな人影が彼女を待ち受けていた。

『ココカラハ逃ゲラレナイヨ』

 赤と黄色の派手な衣装は、いっそ滑稽なほどこの場に似つかわしかった。道化師はアデルを見つめ、嬉しそうに笑う。無垢で残酷な幼子のように。

 人形は後ろ手に何かを隠していた。あれは、――手鏡だ。見なくてもわかる。そしてそこには、〈石の目の魔女〉がいる。

『コッチニオイデ』

 血の気がひき、アデルの全身に鳥肌が立った。必死で首をふる。恐怖で頭がどうにかなってしまいそうだった。

 ふっとアデルの視線が下方に吸い寄せられた。手首に巻いた、お守り。魔女から身を守れるようにと、彼が渡してくれたもの。彼。

「……ソ」

 一向になびかないアデルに、人形は不満を覚えたようだった。ギギ、とぎこちなく眉を寄せ、こくりと首をかしげる。

『ネエ、オイデ』

 誘うように声をかけ、足を踏み出す。同時にアデルも踵を下げた。

「……ソル、」

 のどが干上がり、舌がもつれる。人形の背後で、木馬たちが狂ったように回転の速度を上げる。彼方から聞こえる音楽も同じようにはやさを増した。ネジを巻きすぎて、濁った音程を奏でるオルゴールのように。

 上下する木馬の影がアデルの顔をかすめる。光と影。影と光。

 道化は腰の後ろに隠していた腕をそろそろと動かした。その手に握っているものを――

『コッチヘ、オイデ』

 アデルは息を吸いこみ、のども割れよとばかりに声をはり上げた。

「――ソルジュ!」



 その名前をアデルが口にしたとき、空をつき破り、ほうき星と見紛う黒い何かが飛来した。それはまるで放たれた矢のような勢いでアデルの隣をかすめ、人形に激しく体当たりをする。

 誰かの声が早口で何かを叫び、一瞬、目もくらむような閃光が視界を覆う。アデルは反射的に腕で目をかばい、まぶたを強く閉じた。叫ばれたのは呪文だということだけはわかったが、混乱のただ中にあったため、それ以上頭が働かなかった。

 まぶたの裏を白く染め上げるほどのひかりが徐々におさまり、おそるおそる薄目を開いたときには、自分をとり囲む世界のすべてが一変していた。

 がやがやという喧騒。話し声、笑い声、調子はずれの即興曲。気がつけばアデルは、人ごみで賑わう往来で呆然としていた。体の左右を、人の流れが通りすぎていく。

「アデル、こっちだ!」

 よく通る声がアデルの名を呼んだ。視線がそちらに吸いよせられる。テントとテントの隙間から銀髪の青年が現れ、来いというように手招いている。

 見知った顔を見つけ、アデルのなかで何かがはじけた。人波をかきわけ、無我夢中でソルジュが広げた両腕に飛びこむ。すかさず受けとめられ、強く抱きしめられた。

 たしかな感触に涙が出るほど安堵する。藁をもつかむとはこんな状態を言うのだろう、アデルは恐怖から逃れたい一心で、ソルジュのぬくもりに縋りついた。

「無事でよかった」

「……っ!」

 安堵とともにつぶやかれる声に、はっと我に返る。思わず腕をつっぱって、アデルはソルジュから身を引きはがした。

 動揺と羞恥からの行動だったが、相手からすれば拒絶同然だっただろう。一瞬、わずかに傷ついたような表情をしたソルジュに、アデルは慌てて弁明した。

「ご、ごめんなさ……、あの、いやだったわけじゃなくて」

「いいよ、わかってる」

 こちらの言葉を遮って、ソルジュは心配いらないというように微笑んだ。

(わたし、いま、なんて言おうとしたの)

 そのことに思い至ると、急に頬が火照った。――嫌だったのではなく?

 とっさに飛び出した言葉だから、本音だったように思う。赤面したことに気づかれたくなくて、アデルは下を向いて顔を隠した。胸のなかで心臓がおおきく跳ねる音がする。

 そんなこちらの動揺を知ってか知らずか、ソルジュはぽんと軽くアデルの肩をたたいて励ました。

「きみがちゃんとおれの名前を呼んでくれてよかった。そうじゃなかったら助けにいけないところだった」

 彼の言葉に、アデルは自分の手首を見下ろす。正確にはそこに巻かれた腕輪を。

「もしかして、これがあったからですか?」

「そう、このお守りはきみの居場所を見つけるための目印だからね。おれを引きよせたのはきみの血だ」

「わたしの血?」

「そう。魔女は魔女を呼びよせる。だから名前を呼ぶ際には充分気をつけなきゃいけない。それは知っているだろう?」

 アデルはうなずいた。

「『魔女の名ひとつ唱えるとき』は?」

「『なべカマ暖炉にふたをしろ』」

 ふたり同時に声をそろえ、顔を見合わせてふふっと笑いあう。それだけのことがうれしくて心地よく、アデルはふしぎなほどどきどきした。

「ところで、今日はいつもとずいぶん雰囲気が違うね」

 指摘され、アデルははっと気づいて顔を赤らめた。せっかくのお祭りなんだからと、カレッサに見立ててもらった若草色の新しい服を着てきたのだ。ごくわずかだが、うすく化粧もしている。

「明るい色もよく似合ってる」

「え、あ、その……」

 うろたえて俯いたとき、バサバサと羽ばたきの音がした。見上げると、一羽のカラスが舞い降りてきたところだった。

「ああもう、こんなところにいやがった。こんなひとの大勢いるところで、勘弁してくれよソルジュ。オレ、いくら使い魔ったって鳥目なんだぜ」

「おかえりワズロア。ご苦労だったね」

 主人の差し出す腕に止まるカラスは、どことなく疲れて見えた。夜そのものをまとったような羽根の色に、アデルの脳裏で何かが繋がった。空をつき破って飛来してきたあれは。

「さっきのはもしかして――ワズロア、あなただったの?」

「そうだよ」

 ワズロアはきょろりと目玉を動かした。

「あんたがソルジュを呼んだから、あいつらが作った空間に風穴を開けられたんだ。オレはその裂け目から飛びこんで邪魔してやっただけ。魔女の術を破ったのはソルジュだぜ」

 アデルはソルジュの薄い紫の瞳を見上げ、「ありがとうございました」と礼を言った。短い言葉だったが、それが万感をこめたものだということがちゃんと伝わったのだろう。どういたしまして、とソルジュはこたえる。

「ワズロアもありがとう。また助けてくれて」

「別に。あんたはソルジュの命綱だから仕方な――、っと」

 ワズロアはいかにも口が滑ったとばかり、両の羽根でくちばしを隠した。

(……命綱?)

 疑問に思ったアデルが口を開く隙をあたえず、ソルジュが尋ねる。

「人形はどうした?」

 カラスにできる最大限の表現で肩をすくめると、ワズロアは首をふった。

「あっさり退きやがったぜ。あいつ、逃げ足だけはやたらと早いからな。まあ、追いついたところでオレにはどうしようもないけど」

 魔女との対話を思い返し、アデルは無意識に両腕をさすった。

 アデルを知っているという魔女。そしてアデル自身も、彼女を知っていると感じた。だが、どこで出逢ったのか、どうしても思い出せない。

(どうしてなの? あんなに強い印象のある女性を忘れるわけがないのに)

 顔を曇らせたアデルがこめかみをおさえていることに気づいたのか、ソルジュは心配ないよと小さく肩をたたいた。

「おれが魔法を破ったことで、相手は多少なりとも痛手を受けたはずだ。彼女は力を失うことを極度に怖れているから、また身を潜めるだろう。今夜は新月だから多少の無理はできたが、しばらくはそれも叶わない。安心していい」

 また襲われるのではないかとアデルが不安がっていると思ったのだろう。そのことを懸念していたわけではなかったが、アデルはうなずいておいた。

「はい」

「よし。それじゃあ、せっかくのお祭りだし、いっしょに見て回らないか? 年頃のお嬢さんがひとりでいたら何かと不安だろうし」

 なにやら言いにくそうに視線をそらしたソルジュがそう訊ね、アデルははっと息をのんだ。肝心なことを思い出した。

「そうだ、カレッサ! カレッサたちを探さなくちゃ」

 焦ってテントの間から飛び出そうとしたアデルを、ソルジュがつかんで引き止める。

「待ってくれ、アデル。急にどうしたんだ。カレッサって?」

「友達です! ここには友達と来たんです。ノアと、それからカレッサの弟もどこかに居るはずだから探さないと」

 途中までいっしょにいたのに〈石の目の魔女〉の襲撃を受けてはぐれてしまったのだと必死になって説明する。彼はわずかに考えこむと、「……ああ、そういうことか」と納得したようにうなずいた。

「わかった、おれも捜すのを手伝うよ。大丈夫、彼女たちはきっと無事だ」

 自信をもって断言すると、ソルジュはさりげにアデルの手を引いてうながした。

「ワズロア、おまえは上から捜してくれ。使い魔同士だ、白猫のお嬢さんならすぐに見つけられるだろ」

「ええー、もう。またかよ。カラス遣いの荒い……」

 やれやれと呟きながら、ワズロアが空へと羽ばたいていく。だが、動揺しているアデルはそれどころではなかった。ソルジュが握った手に、どうしても意識がいく。それに、なんだか頬がとても熱かった。

(な、なにかしら、これ……)

 いきなり早い速度で打ちはじめた鼓動の音に、アデルは戸惑い、心ひそかに狼狽したのだった。



 ワズロアが上空から捜索にあたってくれたため、ほどなくしてカレッサを見つけられた。ノアとメリーもすでに合流しており、アデルの姿を目にするなり全員で駆けよってきた。

「アデル! よかった、無事だったのね!」

 叫びながらしがみついてきたカレッサを、アデルはどうにか受けとめる。

「見失ったあと、ずっと探してたのよ。どうして手を離しちゃったんだろうって、すっごく後悔して――」

「ごめんね、心配かけて」

 申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになる。アデルはカレッサの背中に手を回し、ぎゅっと強く抱きしめた。

「アデル……」

 メリーに抱えられていたノアが、身を乗り出してアデルの腕にすりよってきた。ほんの少し別行動をとっていただけなのに、なぜか何年も離れていたような気がして、アデルはくしゃりと顔をゆがめる。

(もっと強くならなきゃって思ったばっかりなのに)

 ノアを見ただけで泣き出してしまいそうになる自分が情けなかった。

「心配しましたよ」

「……うん。ノアも、ごめんね」

 柔らかい艶のある毛並みを撫でてやると、彼女は喉を鳴らした。

「ねえ、はぐれたあとどうなったの。うしろを見てもどこにもいないんだもの、驚いたわよ」

 抱きついていた体をひきはがし、カレッサが訊ねてきた。アデルが状況を簡単に説明すると、カレッサは素っ頓狂な声を上げ、アデルの両肩をつかんだ。

「〈石の目の魔女〉に襲われたですってっ!? な、何かされてない!?」

「無事よ。される前に逃げたし、彼が助けに来てくれたから」

 激しく揺さぶられ、戸惑いながらそう言うと、カレッサは訝しそうに首をかしげた。

「彼って?」

「うん。ほらそこに――」

 カレッサに紹介しようと背後をふりかえったアデルは驚いた。自分を危地から救い出してくれた魔女の青年は、使い魔のカラスとともにすでに姿を消していたのだった。



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