後編
遂に決戦の日、もとい、新年祝賀の宴の日がやってきた。
「あらあらまあまあ、かわいいわぁ」
義母で魔王のローザが両手を頬に当ててうっとりした表情でアウゲを見る。ローザは今日も緑色のドレスだった。魔王が溺愛する、王配・ヴァイストの色。
「あの、陛下……やっぱり変じゃないでしょうか……黒の方が良かったかも……」
魔界に来てからも結局黒一色の服ばかり着ているアウゲは、鏡の中の輝くような青いドレスを着た自分に戸惑う。
「いいえ〜? とっても素敵よぅ?」
いつもののんびりした口調で言う。
「アウゲは肌が白くて綺麗だから見せた方がいいと思ったけれど、これも素敵ねぇ」
肩や背中を大胆に見せるデザインを提案されたがなんとなく気後れしてしまい、首周りからデコルテ、バック、袖を同色のレースで作ってもらった。薔薇の刺繍が施されており、華やかにデコルテと背中を彩る。袖の先はフィンガーレスグローブになっていて、手首の所に薔薇の花、そこから伸びた蔓がループに繋がっていて中指に引っ掛ける。絞られたウエストから広がるスカートは、何層にもチュールを重ねながら裾に向かって黒へグラデーションを描く。
「……」
アウゲは不安そうに鏡に正面を映してみたり、横を向いて後ろを確認したりしている。レースで覆われているとはいえ、腰骨のすぐ上あたりまで開いている大胆なデザインだ。まだ髪を結っていないが、髪を結い上げると背中がほぼ全部見えることになる。人前で肌を見せることに慣れていないので落ち着かない。
「大丈夫よぅ」
ローザは微笑む。ローザのドレスの鮮やかなエメラルドグリーンも、フリルを多用した華やかなデザインも、長く裾を引くマントも、全てがぴたりと似合っているのに、自分はといえば「着せられている感」が拭えていないのでは、こういった華やかな装いをしたことがないのがわかってしまうのでは、と心配でしかたない。
バタン!とドアが大きな音を立てて開かれる。
「ヴォルフ様、なんとお行儀の悪い」
後を追いかけてきたメーアメーアが小言を言っているのを無視して、ヴォルフは大股に部屋を横切ってきた。
「ヴォルフ。もう……いやねえ、男の子は。乱暴なんだからぁ」
母の言葉も無視して、ヴォルフはアウゲの正面に立つと視線を頭のてっぺんから爪先まで何度も往復させる。
「……」
「あの……」
何も言ってくれないヴォルフにさすがに不安になってきて、アウゲが何かを言いかける。
「綺麗です、姫さま……。特殊な布とか使ってるんですか? なんかこう、キラキラってしてて……。周りに星が見える……」
ヴォルフはアウゲの両手を取ってうっとりした表情で言う。
「いいえ。普通よ。人の国にある材料よ」
「信じられない。空の星が降りてきたのかと思いました……」
「大袈裟よ。褒めてくれるのは嬉しいけれど」
アウゲは困った顔で手を握られている。
「大袈裟なんかじゃありません……。なんて素敵なんだ、姫さま……」
ヴォルフはアウゲの手を握ったまま、全身を視界に収めようと少し身体を離す。
「……ありがとう、嬉しいわ。でも、変じゃないかしら。なんだか『着せられている』のが透けて見えるというのかしら……。あと、これでダンスを踊れるかも不安なの……」
「大丈夫です。心配しなくたって姫さまは世界一素敵です。ダンスも、ドレス着てても完璧に踊れるまで、あんなに練習したじゃないですか。いつもの強気はどこに行ったんです」
「ええ、そう、そうよね。戦う前から気持ちで負けているなんて、らしくないわよね」
「そうですよ。姫さまはほかの誰にも負けてません。おれが保証します」
「いいえ」アウゲはヴォルフの顔を真っ直ぐ見て、きっぱりと言う。「私が負けたくないのは、私自身よ。自分自身こそが、常に最も狡猾で最も困難な敵なのよ」
「……姫さま、時々伝説の英雄みたいなこと言いますよね」
「真面目に言っているのに茶化さないで」
アウゲは形のいい唇を少し曲げて、むくれた表情を作る。
「おれも真面目です」
「さあさ、まだ準備は終わってないの。出ていってちょうだいな」
ローザが仕方なく2人の間に割って入る。
「靴を磨けばいいだけの男の子と違って、女の子にはまだ準備があるんだから」
「……見てていいでしょ?」
ヴォルフが救いを求めるようにアウゲの顔を見る。
「だめに決まってるでしょう。いやねえ、もう。あなたったらいつまでたっても情緒を理解しなんだからぁ」
ローザはヴォルフを強制的に回れ右させるとドアの方へ押しやった。
「おれも姫さまが変身するところ見たい。ずるいですよ、母上だけ」
ヴォルフは首だけで振り返ってローザに文句を言う。
「おほほ、女の特権を今使わずいつ使うというの? さぁ、男の子は退室の時間よぅ?」
「さ、参りますよ、ヴォルフ様。まったくちょっと油断した隙に貴婦人のお支度に乱入するなど。そもそも……」
ヴォルフはメーアメーアに小言を言われながら、背中を押されて連行されていった。
「んもう、支度の途中を見ちゃ意味ないじゃないのねえ? メーアメーアには、ちゃんと首に縄をつけて椅子に縛りつけておくように言ったのよぅ?」
「首に……?」
「ええ。首に」
それが何か?と言いたげにローザは首を傾げる。
「お気遣いいただいて……」
何と言っていいかわからず、アウゲはそれだけを言う。
「あ、そうだわ」ローザは思い出したようにぽんと手を打つ。「今夜、人の国に『里帰り』してもらうことになるの。ヴォルフ1人送り込めば十分と言えば十分なんだけれど、でも、ご両親のお顔も見たいでしょう?」
「……」
「あら、お嫌だった? 絶対ではないわ。もし……」
「いえ、嬉しいです、陛下。ありがとうございます。でも、どうやって……」
「うふふ、勝手によそのお城に入り込むのは、あの子の得意技よ。心配なさらないで」
ローザは意味深に笑って、自身も準備があるからとアウゲの支度部屋を出ていった。
「姫ぎみ、どうぞこちらへ……。お化粧とお髪を仕上げて参りますので」
「あ、ええ。わかったわ」
アウゲ付きの侍女がすっと近づいてくる。ローザやヴォルフの乱入で予定時刻を過ぎているにもかかわらず、焦ったり苛立ったりした様子は全くない。そもそも、それらを折り込んだスケジュールだったのか。不慣れなアウゲにはわからないことだらけだ。
「わたくしは、人の国の王宮で侍女としてさまざまな作法やこうした美容技術を学んだことがございまして、実はその折り、ご幼少の姫ぎみにもお目にかかったことがございます」
椅子に座ったアウゲにケープをかけながら侍女が言う。
「そうなのね。全く気づかなかったわ。人の国には、人が思うよりもよほど多くの魔族の方が暮らしているのね」
「左様でございます。こちらのドレスを仕立てました『サラ』にも」
「ええ、聞いて驚いたわ」
王都で一番のドレス工房「サラ」でアウゲとローザのドレスデザインを担当したのは魔族の女性だった。そうと言われてもアウゲには全くわからなかった。それもそのはずで、メーアメーアの変化の術で年齢や容貌を変えており、アウゲが会った女性は白髪の混じる年配の女性だった。メーアメーアはこの術を提供する代わりに、異界への行き来が許されているのだ。
アウゲは大人しく髪を結われながら、メーアメーアが「アウゲ」というのは異界のとある国の言葉で「目」という意味だ、と言っていたのを思い出す。今夜、自分はまさに「目」だ。ただし、ヴォルフの。
ソファに背筋を伸ばして浅く掛け、ダンスの曲を聴きながら目を閉じて流れをおさらいしていると、ノックがしてメーアメーアに伴われてヴォルフが入ってきた。
アウゲは微笑んで立ちあがる。
「いよいよね」
あとは本番で練習の成果を見せるのみだった。
「……さっき見ておいて良かった。これが初見だったらおれ、多分気絶してました」
「なんのこと?」
「でもこんな麗しい姫さまを他人に見せなきゃいけないなんて、おれはどうすれば……」
「アウゲ姫、本番では練習の8割の成果を出せば上々と申します。どうぞ失敗を恐れずに」
「ええ、ありがとう。頑張るわ」
「ヴォルフさま……は、あまり頼りにならないかもしれませんが」
そう言ってメーアメーアは、うっとりとアウゲに見とれているヴォルフの方を見やる。
「……なんだよ、その『しょーがねーなコイツは』みたいな顔は」
ヴォルフは不満を露わにする。
「それ以外に何があるとおっしゃるのです」
(「しょーがねーなコイツは」みたいな顔……?)
アウゲはメーアメーアの顔をじっと見るが、蜥蜴型魔族の彼の縦長瞳孔の黄色い目も、唇のない口もいつもどおりで、そこから何の感情も読み取ることはできなかった。
「お時間です」
前にも見た女性の近衛騎士が控えの間にやってくる。今日は彼女も金の髪を美しく結い上げて、近衛騎士の礼装に身を包んでいる。物語に出てくる王子様のようだ。
そうだ、出会った頃のヴォルフも近衛騎士だった。初めは妙に人懐こい、変わった騎士だと思った。誰もが礼を失しない程度に距離を置いているアウゲのことを恐れる風でもなく、ごく普通に話しかけ、微笑みかけてきた。でも、その「普通」に、どれだけ救われただろう。去年は遠いところから人々が笑いさざめくのを見ているしかなかったのに。自分の人生にこんな日がやってくるなんて。今でも時々これは夢ではないかと思うことがある。現実味が後退したような感覚の中、差し出されたヴォルフの肘に指先を置く。
ヴォルフをちらりと見ると、その視線に気づいたヴォルフが微笑み返した。今夜の彼は普段下ろしている前髪を上げて額を見せており、また、服装も黒の礼装である。アウゲと対になるように、袖口や襟にはアウゲのドレスと同色の青い糸で薔薇が刺繍されている。なんだか普段とは別人のようで、どことなく落ち着かない。
「緊張してますか?」
ヴォルフが尋ねる。
「いいえ。平気よ」
アウゲは普段どおりの表情と声音で答える。しかし肘に置かれた指先にほんの僅かに力が入っていることに、ヴォルフは気づいていた。だがそのことを指摘したりはせず、頷くにとどめる。
ローザとヴァイストが控室から姿を見せる。メーアメーアに先導されて巨大な大広間の扉の前に立つと、扉はひとりでに開いた。魔力で制御されているのだ。
広間に魔王の出座を告げる音楽が流れて、歓談を楽しんでいた魔族たちは一斉に礼の姿勢を取る。故郷の王宮と違って、王族の座はフロアよりほんの少し高くなっているだけだった。
「今年もみなの働きで、
そして、みなに報告があります。わたくしの嗣子ヴォルフが、人の国から伴侶を迎えました。アウゲ・ギュンターローゲ姫、王配ヴァイストの子孫に当たります。この機に見知りおくよう」
紹介されたアウゲは礼の姿勢を取り、そして背筋を伸ばして真っ直ぐに前を向いた。
そのタイミングで音楽が流れ始める。もう数えきれないほど聴いた、あのワルツ。
ヴォルフがアウゲの手を引いてホールの真ん中に進み出る。向かい合って手を組む。ヴォルフの顔を見上げる。彼の深い青の目が優しくアウゲを見返していた。アウゲのドレスと同じ色。最初のステップは、緊張のために身体が硬くなっていて僅かに動き出しが遅れた。ヴォルフが背中に回した手に僅かに力をこめる。
「大丈夫、おれの方を見て。あなたは素敵だ。この世界の誰よりも」
ダンスを完璧にリードしながらアウゲの目を覗きこむように微笑む。頭の中心がくらりとなる。アウゲをいつのまにか捉えていた、甘い甘い蠱毒。世界から音が消える。2人しかいないような錯覚。ただヴォルフの後ろで大広間を照らす照明が流れていく。
気がつけばダンスは終わっていた。間違えずに踊れたのかどうか、全く記憶がなかった。拍手が起こり、音楽に乗って人々が次々にフロアへ出てくる。その波に押されるように2人はフロアの中心から外れた。
「私、ちゃんとできていたかしら……。何も覚えていないわ」
アウゲは心配そうにヴォルフを見上げる。
「大丈夫、練習どおりでしたよ」
ヴォルフは笑って答えた。
「さすがはアウゲ姫、完璧でございましたね」
メーアメーアがそう言いながら、真っ白な毛皮のショールをアウゲに着せかける。魔界は気温が年中安定しており、ドレスアップ以外の目的で毛皮が必要になることなどなかった。そしてこのドレスはショールを羽織ることを想定してデザインされたものではない。
「……これは?」
「おや、陛下からお聞きになっていらっしゃいませんか? 伝えておくとおっしゃっていたのですが」
メーアメーアはぺろりと眼球を舐める。
「あ……もしかして、『里帰り』することになるとおっしゃっていた、そのことかしら」
「左様でございます。さ、お早く」
同じ毛皮で縁取られた手袋を渡されて、それも身につける。
ヴォルフとアウゲは華やかな音楽が流れる大広間を足早に後にした。
人の国への扉は、城の中心部、大広間の真下にある。長い廊下の先、何枚もの扉をくぐってたどり着いたそれは、それまでの細かな意匠の施された扉に比べれば、疑ってしまうような古ぼけた木の扉だった。
「さ、行きましょう」
ヴォルフがアウゲの手を引いて扉を開ける。その先は真っ暗闇だった。手を引かれるままに、思い切って一歩を踏み出す。
カツン、とつま先が石の床を踏んだ感覚がして、気づけば薄暗い小部屋の中に立っている。懐かしい雰囲気。
小部屋から出た先は、王宮の回廊だった。まだ人々の間で生活できていた頃は、ここに飾られた甲冑や絵を見て回るのが好きだったことを思い出す。
人の国でも新年祝賀の宴が開かれる夜のようだ。着飾った人々が向かう先は大広間だ。みなそれぞれの社交に忙しく、2人を気に留めている者はいない。久しぶりの、骨まで染み入るような寒さにアウゲはふるりと身を震わせ、ヴォルフに寄り添う。
「……案外気づかないものね」
アウゲが隣のヴォルフに囁く。
「堂々としててください。その方が却って紛れられます。そもそも姫さまは、ここのお城の正当な姫ぎみじゃないですか」
「まあ、そうなのだけれど……」
「それに、誰も姫さまの『素顔』は知らないわけでしょう?」
「……それもそうね」
喜んでいいのか悲しんでいいのかわからないが、ヴォルフの言うとおりだった。誰もアウゲのマスクを外した顔は知らない。両親である国王夫妻さえも。
「近衛騎士がいるわ。それとあれは……下級の紋章官ね。貴族たちの紋章を調べている。どうするの?」
大広間へ通じる入り口を固めている者たちに気づいてアウゲが言う。
「平気です」
ヴォルフは余裕の笑みを浮かべる。
紋章官は各貴族が用いる紋章に精通しており、今夜の宴に参加する貴族たちが身につけている紋章を見て大広間へ入る資格がある者かどうかを検査しているのだ。
「……」
何の紋章も身につけていないヴォルフとアウゲを見て、中年の下級紋章官は怪訝な顔をする。
「ギーゼン伯爵とその妻」
それを聞いてアウゲは思わずヴォルフの顔を見上げる。
紋章官の顔から一瞬表情が消え、すぐにハッとした顔になる。
「大変失礼いたしました。どうぞ……」
2人は当然のように大広間に足を踏み入れる。大広間付きの執事がさっと近づいてきて、アウゲの手袋とショールを預かった。
「ギーゼン伯は今、王弟でもあられる辺境伯が兼務している爵位よ。それを知らないはずないのに……」
そう自分で言ってアウゲはハッとする。
「『得意技』を使ったの?」
「ええ。素直な紋章官で助かりました」
「なによ。私の我が強すぎると言いたいのかしら?」
アウゲはヴォルフを軽く睨む。
「あはは。なんてったって、今までおれの術にかからなかったのは、母上を除けば姫さまだけですからね。そういや、子どもの頃は父上に使っておやつをもらってたんですけど、それが母上にバレてめちゃくちゃシバかれましたね」
「……それで罰として崖の上の牢屋に閉じこめられている間に、なぜか翼竜族の王子を誑かしていて、2人で辺境まで冒険に行って大騒ぎになったっていう?」
ローザが遠い目になりながら話してくれた昔話だ。その一件の後、人型魔族と翼竜族の関係は微妙な雰囲気になってしまい、回復に骨が折れたと言う。
「誑かしてません。普通に仲良くなっただけですよ。術は母上に封じられてましたからね。母上は相変わらず口が悪いな。あと、あいつとは今でも友だちです」
蝋燭の灯りと熱に満ちた大広間に入る。まさか「こちら」から新年祝賀の宴を見ることになるとは。
人々の会話を邪魔しない程度に流れていた音楽が止む。次に演奏が始まったのは、王族の出座を告げる曲だ。
「去年はあそこにいたんですもんねえ。マスクをつけて」
会場の端から、あの時アウゲが座っていた場所を2人並んで見るのは、奇妙な気分だった。
そこはもちろん空だったが、きちんと席がしつらえられていた。両親がそう指示したに違いないと思うと、アウゲは胸が詰まって、鼻の奥がツンとする。
「貴族たちは興味本位で姫さまの噂話をしてたけど、姫さまは真っ直ぐ前を向いていましたよね。何を考えてたんですか?」
「何も。ただ負けたくないと思っていただけよ」
「変わらないですねえ、姫さまは」
「変わったところもあるわ」
「どこですか?」
「あの頃は」アウゲはかつて座っていた場所を見る。「負けたくはなかった。けれど、私を待ち構えている運命は恐ろしかった……。でも今はもう、何も恐ろしくはないわ。全て、あなたのおかげよ」
アウゲはヴォルフを見上げて微笑んだ。
ヴォルフはアウゲの腰に腕を回して抱き寄せようとしたが、王と王妃の出座のために礼を取らざるを得ず、目的は果たせなかった。
ヴォルフは礼の姿勢を解いたアウゲの横顔を盗み見る。その目がいつもより照明の光を反射して煌めいている。
王の言葉の後、アウゲの長兄に当たる王太子と王太子妃のファーストダンスが始まった。
「一曲踊りたいところですけど、それは後のお楽しみですね」
ヴォルフはアウゲの手を取って壁際のソファに導いた。まだ宴は始まったばかりで、そこで休んでいる者はない。
「ここにいてくださいね」
「どういう……」
理由を聞きかけたアウゲの唇に、ヴォルフは軽く人差し指を触れさせた。
「……見てください」
ヴォルフの視線を追って、アウゲも天井のシャンデリアを見上げる。心なしか、大広間が暗くなっている気がする。あんなに煌々と灯りが灯っているのに。
(煙……? では、ない……)
天井付近に真っ黒い靄が溜まっている。一瞬火事を疑うがそうではないらしい。その証拠に、誰もその存在に気づいた様子はない。靄はどんどん溜まっていって、下の方へ降りてくる。
王太子と王太子妃のダンスが終わって、人々がダンスフロアに出ていこうとする、その時――。
鋭い女性の悲鳴が上がった。
ダンスフロアに靄が凝集しつつある。靄の先端が床に触れ、とぐろを巻き、円錐を形作る。そこに頭部らしき部分と2本の腕が現れた。この場の者には、見えている者とそうでない者がいるようだった。混乱が始まる気配が一気に高まる。
「静まれ! 何人も動くな!」
ヴォルフが大広間に朗々と響く声で命じる。その声を聞いた全員が固まった。
「姫さまもここにいて、動かないでくださいね」
ヴォルフはにっこり笑う。アウゲは頷いた。
「ちょっと借りるよ」
ヴォルフは、微動だにできないでいる近衛騎士が帯びている剣を抜く。近衛騎士は目だけでその動きを追った。
ヴォルフは大広間の中央に進み出て、今や人の形をとっている黒い靄と対峙する。手の中の剣をくるりと回して、重さと重心を確認した。靄が動くたびに、煙のようなものが剥がれて空気中に溶け込んでいく。
「母上さては、わざと見逃したな……。イタズラ好きなんだからほんとに」
ヴォルフは独りごちながら剣を構える。
「ねえ、おれと戦っても勝てないよ。大人しく帰ったら?」
靄の
フォン、と剣が空気を切る音がしてヴォルフが動きを止める。
「ありがとう。いい剣だね」
ヴォルフは戻ってきて、近衛騎士の鞘に剣を戻す。そしてアウゲの隣に立ち、再度あの朗々と響く声で命じる。
「今宵そなたたちは、見るはずのないものは何も見なかった。宴を続けよ」
その言葉をきっかけとして、その場の人々が夢から覚めたように動き始める。みな楽しげに言葉を交わしあい、微笑みあっている。先程の騒ぎなど何もなかったかのように。
「……あなたって、時々ずるいわよね」
アウゲはソファに掛けたままヴォルフを見上げる。
「ずるいって?」
「……いいえ、なんでもないわ」
アウゲはふいと顔をそむけてしまう。
ヴォルフはアウゲの前に膝をついて手を差し出した。
「麗しい青薔薇の姫ぎみ、どうか、あなたの騎士に褒美を。私と1曲踊っていただけませんか」
「……」
アウゲはすぐに返事ができずに、ヴォルフの顔をまじまじと見る。
「……あれ? 頑張りが足りませんでした?」
「あ……いいえ」アウゲははっとしたのも束の間、すぐに気取った微笑みを浮かべた。「よろしい、騎士ヴォルフ、褒美を与えます」
そう言ってアウゲは差し出されたヴォルフの手に指先を乗せた。
ヴォルフにエスコートされて、ダンスフロアへ進み出る。鼓動が早い。頬に熱が集まっているのを感じた。向かいあってポジションを取るが、背中に回されたヴォルフの手を意識してしまうし、ヴォルフの顔を正面から見ることができない。
所在なくヴォルフの上着の胸に目をやると、薄い青で刺繍された、薔薇ではない可憐な花に気づいた。
「あ……これ」
「気づいてもらえました?」
ヴォルフは言いながら、最初のステップを踏み出す。
「ロッタの花ね」
「そうです。あの時、おれは真剣に告白したつもりだったのに、姫さまは渋々って感じでしか受け取ってくれなかったから、伝わらなかったのかなぁって思ってました」
ヴォルフはアウゲの背中に置いた手に僅かに力をこめる。
「あの時は、あなたは外国暮らしが長かったと言っていたから、本当の意味がわかっていないんだと……」
「じゃあ、どうしてカードにして持っててくれたんです?」
ヴォルフは全てを見通している笑顔でアウゲの目を覗きこむ。
「あの、それは」
かぁっとますます頬が熱くなって、アウゲは動揺した拍子にステップが乱れて久々にヴォルフの足を踏む。
「あ、ごめんなさい。でも、あの時私があなたを受け入れると言ったら、どうなっていたの? あるいはあなたと逃げていたら?」
「おれは」ヴォルフは真剣な顔でアウゲを見つめる。「魔族であることを捨てるつもりでいました。人間界で伴侶と婚姻を結ぶと、魔族は人間になります。姫さまは蠱毒の者ではない、普通の人間に。それでいいと思ってました」
「そんな」
「母上はそれがわかっていたから、正体を知られるなってことと姫さまに指一本触れるなってことを人間界に行く条件にしたんでしょう」
なんでもないことのような、軽い調子でヴォルフは言う。
「……いいわけがないでしょう」
やっとの思いで口にする。視界が歪む。アウゲは顔を見られないように、ヴォルフの肩口に額をつけた。
「おれはなんだっていい。姫さまと、アウゲといられるなら。どこにいるかなんてことは、大した問題じゃないんだ」
ただ、とヴォルフは言葉を継ぐ。
「魔族でいた方が寿命が長いから、その分姫さまと長く一緒にいられる。そういう意味では、姫さまが魔界に来てくれて良かったです」
「……ばか」
曲が終わり、2人は動きを止める。周囲の人々も、この、美しく仲睦まじい2人に目を奪われていた。王族席の方へ向けて礼をする。顔を上げると、国王が僅かに腰を浮かせているように見えた。王妃も明らかに2人を見ている。
「……帰りましょう。私たちのいるべき所へ」
アウゲは端へ下がろうとする人々の流れに向かう。
「いいんですか? おれの力を使えば、挨拶する程度のこと、わけないのに」
「私と両親は、既に分かたれた存在だもの。『見るはずのないものは何も見なかった』。あなたが言ったのよ」
「でも」
ヴォルフの言葉にアウゲは首を振る。
「新年祝賀の宴で踊る女性に、もうここにはいない娘の面影を見た。それでいいのよ。それに……」
アウゲはヴォルフを振り仰いだ。
「2回目の別れの悲しさには多分、お互いに、耐えられないから。だから、ね?」
アウゲは精一杯笑って見せた。その目には涙がいっぱいに溜まっている。
「……わかりました。春の女王の宴にも来ましょう。今度はロッタ色のドレスで」
「そうね」
目を伏せた拍子に、アウゲの頬を涙の粒が転がり落ちる。ヴォルフはそれを指先で拭った。
「ご両親の代わりには到底なれないけど、おれが一緒にいます、アウゲ。命が終わるその瞬間まで」
「ええ。だから私はもう、何も恐ろしくはないの。ただ少し、あの時の気持ちを思い出してしまっただけなの」
アウゲはそっとヴォルフに身体を寄せた。
魔界に戻ると、人々は何事もなかったかのように宴を楽しんでいた。楽器が奏者もいないままに音楽を奏で、給仕もいないままに、テーブルには食事が並ぶ。
「あら、早かったのねぇ?」
魔王ローザが報告にやってきたヴォルフとアウゲに言う。
「ここ最近では一番楽な相手でしたよ。……わざとですよね?」
「なんのことかしらぁ? それはそうと、アウゲはご両親に会えたかしら」
「はい。2人とも息災にしている様子で安心しました」
「良かったわねぇ」
「はい、陛下」
「……」
ヴォルフはアウゲの横顔をちらりと見たが、何も言わなかった。
「こっちはもう片付いたんですか?」
「ええ。見てのとおりよぅ」
「片付いた、というのは?」
2人が何について話しているのか、アウゲはわからない。
「魔界の最深部には、冥界って言われる場所があることは知ってますよね? 人の国で一番夜が長くなる日は、冥界の影響を一番受けやすい日でもあります。魔界と背中合わせである姫さまの故郷は特に。なので、冥府の者が人の国に出ていかないように、ここで待ち伏せがてら宴を開いてるわけです」
「待ち伏せがてら?」
「ええ、待ち伏せがてら」
「なのだけど、数が多いからどうしても討ち漏らしが出てしまうのよねぇ。そこで、あなたたちに人の国に行ってもらったというわけなの」
ふふっ、とローザは首を傾げて笑った。
「今はさしずめ、最後の一働きの後の打ち上げというところねぇ」
「……」
アウゲはフロアでダンスに興じたり、酒を飲んで笑い合ったりしている人たちを見た。ダンスしている人の中に、あの女性騎士を見つける。ドレス姿の令嬢と踊っている。丁度曲が終わったが、見ていると既にダンスの番を待っている別の令嬢がいる様子だった。
「お疲れさまでございました」メーアメーアがやってくる。「姫、ヴォルフさまはちゃんと働いておいででしたか」
「なんで姫さまにきくんだよ」ヴォルフは口を尖らせながらアウゲの方を見た。「ちゃんとしてましたよねえ?」
「ええ。とても」
「……にわかには信じられませんが、姫がそうおっしゃるなら」
「なんだよその不満そうな顔」
(「不満そうな顔」……?)
アウゲはメーアメーアの顔を注意深く見るが、いつもの彼の顔と何ら異なるところは見つけられなかった。
「2人とも、今夜はご苦労だったわねぇ。退がっていいわ。ゆっくり休んでちょうだい」
「じゃ、お言葉に甘えて、御前失礼します」
ヴォルフが胸に手を当てて礼をする。アウゲも慌てて礼の姿勢を取った。
「行きましょう、姫さま。疲れたでしょう?」
「え? あ……」
正直なところ特に疲れは感じていなかったが、有無を言わせぬヴォルフの雰囲気に押されて、差し出された手を取る。そのまま、よくわからず大広間から連れ出された。
「あの、ヴォルフ……私は別に疲れてはいないわよ? 今日はダンスをほんの少し踊っただけだもの」
これまでの猛特訓の日々のことを思えば、今日は「ほんの少し」だ。
「ええ、知ってます」ヴォルフはあっさり言う。「でも、早く2人になりたい。おれが。いいでしょう?」
「……だめとは言っていないわ」
アウゲはふいと顔をそらす。収まっていた熱がぶり返してくる。握られている指先からもヴォルフの熱が伝わってくる。
胸の内を喜びと悲しみが半分ずつ渦巻いている。両親は今夜、娘によく似た名も知らぬ令嬢に何を見ただろう。どこか遠くの地で愛され大切にされている娘の姿か。それとも、運命を背負って姿を消した、あるはずだった娘の姿か。もしかしたら今夜姿を見せたことは、却って両親を苦しめる結果になったかもしれない。そんなことは望んではいなかったのに。
「大丈夫ですか?」
ヴォルフがアウゲの様子に気づいて足を止める。
「……」
大丈夫、と言おうとした声は言葉にならなかった。アウゲはヴォルフにしがみついて、彼の胸元に顔をうずめる。ヴォルフはそっとその薄い背中を撫でた。
「国王陛下と王妃殿下は、あれが姫さま自身だって、きっと気づいてます。だって、姫さまのお父上とお母上なんですから」
「……ありがとう、ヴォルフ」アウゲは涙に濡れた顔を上げる。「私、あなたが好きよ。そして私、今、とても幸せなの」
「おれもです。愛してます、アウゲ。次は、きちんとご両親に会いましょう。幸せだから心配ないって、そう伝えましょう。ね?」
「その時も、一緒にいてくれる?」
「もちろん」
ヴォルフは両手でアウゲの頬を包み込むと、掬いあげるようにして上向かせ、唇を重ねた。誰もいない魔界の王宮の廊下には、微かに大広間から漏れ聞こえる音楽が流れている他は、何の物音もしなかった。
蠱毒姫番外編〜新年祝賀の宴@魔界〜 有馬 礼 @arimarei
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