47 届け!

 俺の視界の四隅から、闇が広がってくる。

 俺の身体が急速に、どこかに引きずり込まれていく。

 狭くなる視界の中で、ヴィオレーヌが俺にほほ笑みかけ、手を振っている。もう何も思い残したものはないといった風に。満ち足りた様子で。


 満足なんかするなよ、ヴィオレーヌ。


 俺は薄れゆく意識の中、遠ざかる彼女に向けて必死に左手を伸ばした。

 手を伸ばしながら、彼女に語り掛ける。今までの彼女の姿を思い浮かべながら。


 俺はな、お前のことなんか、大嫌いだったんだ。

 お前はわがままで、傲慢で。

 人使いが荒くて、口も悪くて。

 いつも無茶ばかりして。

 だからそばにいる俺はいつも、大変だったんだぞ。

 だけどお前は、頑張り屋で、へこたれなくて。

 正直で、真っすぐで。

 不器用で、自分の気持ちを表すのが下手くそで。

 実は寂しがり屋で弱気なところもあって。

 そんなもんだから、俺はお前のことがほおっておけなくなっちまった。

 お前のことが、好きになっちまったんだ。

 お前のことを救いたいって、本気で思うようになった。お前が死んでしまうことは確定事項で、それがどうしようもないということがわかっていても、それでも救いたいと、思ったんだ。


 だからヴィオレーヌよ。こんなところで満足するな。俺は満足じゃない。俺は、お前を救うぞ。


 そして俺は彼女に向けて精一杯伸ばした左手に力を込める。


 届け、この想い! つながれヴィオレーヌと!


 俺は歯を食いしばり、目をいっぱいにこじ開けて願う。魂が削れるほどに。命をすり減らすほどに。


 俺の左手首が、紫色に発光する。光は強くなったり弱まったりする。その光が消えてしまわないように俺は、こめかみが破れそうなほどに力を込めて叫ぶ。


「ヴィオレーヌー!」


 その時、ふと俺の左手に、誰かの手が添えられた。華奢な、白い手。いや透きとおっている。それがジョセフィーヌさんのものだと、俺は直感的に思う。それと同時に、紫に発光する俺の手首に、力がみなぎる。


 届け!


 最後の力を振り絞って俺は叫ぶ。そして俺の意識は完全に途切れた。



   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 目を覚ますと、俺は自分のアパートの部屋の中にいた。


 時間はまだ午前中だろうか。厚い方のカーテンは開いていて、内側の薄いレースのカーテンが、白い光を散らしながら風に揺れている。風に乗って、開いた窓の隙間から数片の桜の花びらが舞い込んでくる。窓の外で奏でられる小鳥の鳴き声がにぎやかだ。


 少し体を動かしてみる。腕も腹もどこも痛くない。どうやら傷は全くなくなっているようだ。だが、そんなことはどうでもよかった。


 俺はベッドにあおむけに寝たまま、枕元に転がっているはずのゲームのパッケージに手を伸ばした。それと思しき箱が手に触れ、それを頭上に掲げて見上げる。しかし、それは無地の白い内箱だった。どういうわけか、キャラの絵の描いてある外箱は見当たらなかった。


 それでも俺は、手をはなして、その箱を顔の上に落としてみる。


「いて……」


 ぺちん、と間抜けな音を響かせて、それは俺の顔から落ちる。何も起こらない。

 二度、三度と、同じことを繰り返す。それでも何も起こらない。何事もなかったかのように、陽光の差し込む部屋にはカーテンが揺れ、小鳥が外でさえずっている。


 俺は起き上がり、机まで移動した。

 机の上には開いたままのノートパソコンが置いてある。あのゲームを入れっぱなしにしてあるはずのノートパソコン。俺はそれを起動してみる。画面にはちゃんとリバージュ伝のアイコンがある。俺はホッと息をついてそれをクリックする。


『エラー このファイルは開くことができません』


 というメッセージが画面の真ん中に現れる。何度も、何度もやり直すが、どうしてもあのゲームを起動することができない。


 俺はまたベッドに身を投げ出す。

 静かだった。ここは日本なのに。東京の真ん中なのに。あののどかなブルジヨン村よりも静かだった。住んでいる人の多さとか、人口密度とか、そういうものは関係がなかった。そういうこととは関係なくあの人はもういないのだった。俺のドアをたたいたり、勝手に入ってきて小言を言ったり、用もないのに呼びつけてみたり、あるいは本のページを静かにめくっていたり……。それをしていたあの人がいない。そういう静けさだった。もう二度と逢うことができない。そういう寂しさの染みこんだ、静けさだった。


 俺は静けさに耐えきれず、アパートの部屋から外に出た。


     〇


 よく晴れた春の街は明るくて、どこか浮かれているような感じだ。

 陽光の降り注ぐ道を行きかう人々は、みんな笑顔だ。住宅地のところどころには桜の木々がたたずみ、狭い路地をピンクに染めている。もう盛りを過ぎた枝々が、風がそよぐたびに花びらを散らし、それが俺には雪のように見えた。

 ふと、そういえば俺は、あの世界で雪を見ていないと気づく。そして思う。あの人は、きっと雪が似合っただろうなと。


 河川敷まで歩いた俺は、土手の斜面の草わらに寝転んだ。

 目の前には広い川が流れ、その向こうにもビルが立ち並び、その上に広がる青空に、柔らかそうな雲がたゆたっている。

 その景色を眺めているうちに、川が、広大な湖にみえた。

 湖畔にはモルガンの城がある。周囲には、よく名前の知らないラッパの口のような花が咲いている。

 しかし、それはすぐに溶けて消えてしまう。


 川は川で、鉄橋がかかっていて、川の向こうにはビルが立ち並んでいた。

 ふと突然、どうしようもない気持ちが俺の胸にこみあげ、身体が震えた。俺は起き上がって膝を抱える。そのどうしようもない気持ちと身体の震えに耐えきれず、俺は言葉にならない声で吠える。


 背後から声をかけられたのはその時だ。


「何、やってるの?」


 聞き覚えのある、陶器をはじいたような澄んだ声。

 俺は二度目の遠吠えを飲み込む。しかし、振り返ることができない。

 でも喜びに、胸が大きく波打つ。頬が溶けるようにほころんでしまう。

 彼女だ。

 心がはしゃいでいることを悟られないように、俺は前を向いたまま、わざと落ち着いた、そっけない口調で彼女に語り掛ける。


「傷は、大丈夫なのか」

「傷は、なくなってたよ。ねえ、それより、こんなところで何をやっているの。タケル」

「何って。なにも。君こそ、何しにきた」

「あなたを、むかえに」

「どうして。そんな義理はないだろう」

「お父さんが、そうしろって。あなたを家に迎え入れたいって。お父さんは、あなたのことを天使だと信じているから」

「違うんだ。俺は……」

「天使じゃ、ないんでしょ」


 俺は口を閉じ、こらえきれずに振り返って彼女を見あげた。

 紫色のドレスを着た彼女は、春の光を浴びて俺にほほ笑みかけていた。そのつややかな黒髪のところどころに、桜の花弁がくっついている。風にそよいだ毛先が、白い頬にかかっている。エメラルドグリーンの瞳を細めた彼女は、細い小さな笑い声を漏らして、俺に手を差し出した。


「いいから来なさい。でないと、私が帰れないのよ。他のみんなも待ってる。ジセンも。アルベルトも」


 俺は彼女の手を握って立ち上がる。

 握り返してくれたヴィオレーヌの手のあたたかさ、そして柔らかさを、かみしめながら。




   おわり

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悪役令嬢の召使い ~元の世界に戻りたいので、彼女の出世ためにこき使われてみます~ 一柳すこし @kubotasukoshi

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