46 決着
「提案? 何ですのそれは」
クラリスは剣の柄に手をかけたまま訊ねる。
ヴィオレーヌは振り向いてアルベルトに目配せをした。彼はひとつうなずいて、己の背に負っていた二振りの剣を抱え、彼女に差し出す。真剣ではない。試合用の模擬剣だ。
実は、膠着状態に陥ったときのために、俺たちはもうひとつ策を練っていた。ただし、勝つか負けるかは五分と五分。だけど、誰も命を落とすことのない作戦だ。
アルベルトから剣を受け取ったヴィオレーヌは、そのうちの一振りをクラリスに渡した。
「私と試合をしましょう、クラリス。顔や頭は狙わない。先に倒れた方が負け。そして負けた方が、おとなしくこの国から出ていくの」
クラリスの表情から笑みが消える。真顔でしばらくヴィオレーヌを見つめてから彼女は、また柔らかくほほ笑んでいつものように朗らかに言った。
「まあ。ヴィオレーヌ様ともあろうお方が、ずいぶんお優しいこと。そんなお優しい気持ちで、この私に勝てるのかしら」
そして手を差し出す。どうやら、試合に応じるようだ。
両軍の兵がひく。紅色と紺色の集団の間に試合のための空間ができ、そこに午後の光がスポットライトのように降り注ぐ。その光の中に、ヴィオレーヌが、続いてクラリスが進み出て、剣を構えた。
〇
試合が始まっても、両者は剣を構えたまま少しも動こうとはしなかった。
剣を伸ばせば届きそうな至近距離で、ただ、にらみ合っている。極度の緊張と集中で、空気がピンと張り詰める。見ている者さえ息苦しくなる。動かないのではない。動けないのだ。
やがて、ヴィオレーヌが静かに、大きく息を吐いた。目を半開きにして、剣の切っ先を下げてゆく。対するクラリスの姿勢は変わらない。正眼に構えて、そんなヴィオレーヌをじっと見据えている。
ヴィオレーヌの剣の先が床につきそうになって止まる。
ヴィオレーヌの目とクラリスの目、お互いをうかがう二人の目が同時に見開かれた。
二つの剣の軌跡が交錯する。
クラリスの水平斬りが真っすぐに、一本の線のようにヴィオレーヌの身体に襲いかかる。
その攻撃に臆することなく踏み込んで振り上げたヴィオレーヌの剣が、クラリスの胴を裂くように半月を描いた。
時が、とまった。
渾身の一撃を繰り出し終わった二人は、その姿勢のまま微動だにせず、彫像のように固まっている。ただ光の中に浮かぶ塵だけが、小さく瞬きながら、彼女らの周囲をゆっくりと漂っていた。
やがて、二人のうちの片方が、光の這う床に静かに倒れた。
倒れたのは、クラリスの方だった。
床に突っ伏した水色のドレスアーマーを、ヴィオレーヌは肩で息をしながら見下ろしていた。
終わった。ヴィオレーヌの勝利だ!
「やったな。ヴィオレーヌ!」
俺は両手を広げて彼女に駆け寄る。
振り向いて俺の姿を認めたヴィオレーヌの顔に、ようやく笑みが灯った。彼女も剣を放り投げ、俺に歩み寄る。頬にえくぼを浮かべ白い歯を見せて、握りしめた右手を高く掲げる。金メダルを取ったオリンピック選手のように。勝利を俺に、その場の皆に宣言するように。
「タケル、やったよ。これで……」
しかし彼女の声はそこで突然途切れた。
光の中に血が飛び散る。
笑みのまま表情を固まらせたヴィオレーヌの口から、血がこぼれ出る。
「え……。どうして……」
彼女はさび付いた機械のようなぎこちなさで顔を伏せる。その視線の先の彼女の腹からは、血まみれの剣が突き出ていた。彼女を背後から刺し貫いた剣の切っ先が。あの模擬剣じゃなく、真剣の。
ヴィオレーヌは己の傷を確認すると、また顔をあげ、俺を見て手を伸ばした。
「タ……ケ……」
剣が引き抜かれる。それと同時にヴィオレーヌの身体が床に沈み、代わりに血まみれの剣を手にしたクラリスが、荒く息を吐きながら立ち上がった。
「私は、あんたを殺すつもりでここに来てるのよ。あんなお遊びで、決着つけられてたまるもんですか」
今まで聞いたことがないような憎々しげな声でそう言って、クラリスは床に倒れたヴィオレーヌを見下ろし、そして高笑いした。その表情には今までのような柔らかさや優しさは微塵もない。歪んでいて、残酷で、そして狂気をはらむ、恐ろしい笑顔だった。
「これがとどめよ。死になさい、ヴィオレーヌ!」
クラリスが笑いながら剣を振り上げる。
「やめろぉー!」
彼女はすぐ目の前。俺の身体は反射的に動いた。石も弾も、もうない。左手を必死に突き出す。しかしそこに紫の光は灯らない。力を使い切ったのか。ならば、俺の身体を盾にするしかない。もはや俺の身体だけだった。俺は、自分の身体を石に、弾にして突進し、ヴィオレーヌの身体に覆いかぶさる。まだ暖かい彼女の体温を感じながら俺は目を閉じる。ヴィオレーヌすまない。そう、謝りながら。
〇
クラリスの剣が背を切り裂くまでの一瞬を、俺はずいぶん長く感じた。
そして実際、その瞬間はなかなかやってこなかった。
不審に思い俺は目を開け振り返る。視界に入ったのは、手を縛られて身動き取れなくなっているクラリスの姿だった。
どうしてクラリスが縛られている。それに、あの縛っているものはなんだ。そう思いながら俺は目を凝らす。それには見覚えがあった。どうやら、鞭のようだ。鞭……だと。まさか……。
「遅くなった。すまない、諸君」
声の方を向くと、いつの間にか集団から抜け出ていたクラリス側のひとりの兵が、鞭の柄をもって、歯を食いしばっている。彼は口の端をあげて、おもむろに兜を脱ぎ捨てる。
「ジセン!」
俺は思わず彼の名を叫んでしまう。
ジセンだ。あいつ、クラリスの兵に化けて助けに来てくれたのか。ヴィオレーヌが最後まで信頼し続けた彼は、土壇場でその力を示してくれたんだ。やってくれるぜ。あいつめ。最高の怪盗紳士だ。
彼は、鞭を引っ張りクラリスの動きを封じたまま、俺たちに呼びかける。
「この隙に早く逃げろ。急げ」
「しかしお前は……」
「吾輩のことは心配するな。この娘には借りがある。博物館で捕まった後、吾輩は何も言わなかったのに、吾輩が吐いたことにしてヴィオレーヌ殿の罪をあることないことでっち上げたんだ。クラリス嬢。君は吾輩の名誉を汚した。許しませんぞ」
「ジセン。すまない」
「はやく、いきたまえ」
そして彼は片頬だけでほほ笑み、ウインクしてみせた。
俺はうなずいて起き上がる。ヴィオレーヌを抱き上げようとするが力が入らない。手に触れた血の感触が、俺の力を萎えさせる。
俺は焦りながら震える足を叱咤する。
動けこの足。動け!
その時突然、ふわっと、俺とヴィオレーヌの身体が宙に浮いた。
「遅い。俺が連れて行ってやる」
アルベルトだ。彼は俺とヴィオレーヌの身体を軽々と抱え上げて、獣のような勢いで裏部屋へと飛び込んだ。
「そこで待っていろ。すぐにかたをつけて医者を連れてくる」
そして人差し指と中指をそろえて額に当て、俺に敬礼してみせる。そのはるか後方で、クラリスが金切り声をあげている。「はやく。はやくあの女を殺すのよ」と、叫んでいる。
「ヴィオレーヌ様を、頼んだ」
そう言い残し、彼は扉を閉めた。
〇
二人残された広い部屋の中で、俺はただヴィオレーヌを抱きしめていた。彼女の身体はまだ暖かい。その震える唇からは苦しそうな呼吸が漏れている。しかし俺は、彼女に何もしてやれなかった。治療も。勝利の歓声を聞かせてやることも。
「すまない。ヴィオレーヌ。すまない」
そんな俺の頬に、彼女の血まみれの手があてられる。
「タケル……。こっちをむいて」
俺は身をおこし、彼女の顔を見た。
口から血を流し、頬を蒼白にした彼女はしかし、安らかにほほ笑んでいた。そのエメラルドグリーンの瞳が穏やかな光をたたえて揺れる。秘境の森の奥に湧く泉のように。深く、神秘的に。
その目を細めて、彼女は静かに言った。
「タケル……。今まで、ありがとう」
そして優しく……、とても優しく、俺の右頬をはたいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます