45 想いをのせて
真っ暗な頭の中のどこかから、誰かの声が流れてくる。
女の人の声だ。息も絶え絶えのか弱いその声は、必死に俺の名を呼んでいる。
タケル……。タケル。どうか、ヴィオレーヌを、頼みましたよ。
ああ。ジョセフィーヌさんだったか。
俺は心の中で彼女に謝る。
(ジョセフィーヌさん、ごめん。俺には、無理だったよ)
(そんなことありませんよ。あなたは、こんなものではない。まだまだ、もっとすごい力を発揮できる)
(俺の、一体どこに)
(ここに……)
俺の左手首を涼やかな空気の塊がなでていく。その時、耳元で今度は別の声がした。ジョセフィーヌさんのそれよりももっとはっきりと。彼女の……ヴィオレーヌの声が。この世界では三年前、俺の胸の中で子供のように泣いた彼女の、涙にぬれた声が!
「タケル……。どうか、私から、離れないで!」
その瞬間俺は身をおこし、左手を敵に向かって突き出した。
〇
紫色の光がはじける。
紫の光の幕に覆われた俺の左手は、今まさに振り下ろされたグレゴリーの剣の刃を難なく受け止めていた。
「な……、何だこれは」
グレゴリーは両手で剣の柄を握りなおし、力を込める。その腕が力みで震えているが、その圧力は俺には全く感じられない。スポンジでも乗せられているみたいだ。
俺がちょっと力を入れてはじき返すと、グレゴリーの身体は数歩も後ろに後退した。グレゴリーは素早く体勢を立て直して俺に立ち向かってくる。突き。斬り。払い。俺をにらみつける奴の顔には先ほどまでの余裕は見られない。剣筋も鋭くて、明らかに本気だ。しかし不思議なことに、俺には少しも恐ろしく感じられなかった。奴の動きがスローモーションのように見える。その攻撃のことごとくを左手だけではじく。痛くもかゆくもない。
何回目かの攻撃をはじき返されると、グレゴリーは俺から逃げるように距離をとって立ち止まった。その額から大粒の汗を流している。肩を大きく上下させている。もう下卑た笑い声をあげることもない。いまやその目に浮かぶのは、ただ驚きと、微かな恐怖の色だけのように俺には思えた。
「な、何なんだ。その力は」
「お前みたいなやつにはわかるまい」
「知ったような口をきくな。お前みたいな下郎が……」
「下郎、下郎と、うるさいな!」
グレゴリーが口をつぐむ。俺は一歩一歩、奴に近づきながら言葉を続ける。
「確かに、地を這う者かもしれない。俺も。ヴィオレーヌも。だけど、空を見上げて何が悪い。飛ぶことにあこがれて何が悪い。そのために頑張っている奴を応援したいと思って、何が悪い」
グレゴリーが一歩後ずさる。
「何、泣いていやがるんだ。お前は。なんだその力は。お前は一体、何なんだ」
奴に言われて、俺は初めて自分の目から滂沱と涙が流れ落ちていることに気がついた。しかし、それをぬぐおうとは思わなかった。
「俺はタケル。日本の腐れ大学生で、ヴィオレーヌのために遣わされた、光の天使だ。お前にはわかるまい。この力は……」
俺は紫色に発光する左手を握り締めて前に掲げる。この手首から体内に流れ込んでくる哀しみに、胸を締め付けられながら。
「これはな、願いの強さだ。己を闇に沈め、命を削っても大事な人を守りたいという、想いの強さだ」
ジョセフィーヌさんの最後の姿が脳裏によみがえる。部屋に差し込む光の中で弱々しく浮かべていたほほ笑み。白い歯。えくぼ。ささやくような声。彼女が消えてしまった後に残った、金色の無数のきらめき……。
ジョセフィーヌさんが、ここにいる。ごめん。あきらめそうになってしまって。だけどもう大丈夫。俺は、ヴィオレーヌを守るよ。
そして俺は構える。両足を踏ん張り、左肩をひいて、今や紫の雷と化した腕に力を込める。
「こい。クソ暗殺者。お前はヴィオレーヌを殺せない。今から俺に倒されるからだ」
「な、なにをぉー」
グレゴリーは雄たけびを上げて俺に切りかかってくる。
目の前に迫った剣の切っ先に向けて、俺は渾身の左ストレートをうった。
厚みを増した左手の光の膜に触れた瞬間、グレゴリーの剣は床にたたきつけられた豆腐みたいに砕け散った。
剣を粉砕した左手から火花のような光が散る。その光は俺の腕を中心に回転をはじめ、発光しながら激しく渦を巻く。まるで小さな竜巻のようだ。俺はその左腕に宿った竜巻を、ためらうことなくグレゴリーの胴体にぶち込んだ。
一瞬、すべてか静止する。突きを繰り出した俺の姿勢も。それをまともにくらったグレゴリーの身体も。奴の苦痛に歪んだ表情も。
次の瞬間、堰がきれたように空気の奔流が俺の背後から押し寄せた。木っ端のようにグレゴリーの身体が吹き飛ぶ。ほんの瞬きをする間に奴は廊下の壁にたたきつけられる。背負っていた弩が砕け散って、その破片が飛ぶ。放射状にひびが入ってへこんだ壁に、磔のような格好でめり込んだグレゴリーは、なんの捨て台詞を吐くこともなく、ガックリと首を垂れた。
〇
シャルルはいつの間にか泡を吹いて気絶していた。
二三発ぶんなぐろうと近寄りかけて、しかしやめた。捨てておこう。こんな奴を殴っている時間はない。この危急の時に、そんな時間を費やしてやる価値は、こいつにない。
玄関ホールの方向から、無数の足音と、金属の触れ合う音が流れてきた。かすかな響きと振動。不穏な空気はひそやかに、しかし胸を圧迫するような重苦しさで迫ってくる。
俺は謁見の間へと急いで引き返す。まだだ。まだ、終わっていない。はやくクラリスの奇襲をヴィオレーヌに知らせなければ。
「ヴィオレーヌ下がれ。親衛隊は前へ! 奇襲だぞ」
通用口から謁見の間にとび込むなり、俺は叫んだ。
奥の壁の左右にある二つの扉がはじけるように開き、とびだしてきた親衛隊がヴィオレーヌを守るように陣を組む。それとほぼ同時に正面扉が開く。入ってきたのはブロンド碧眼の女。クラリスだ。クラリスだけではなかった。兵隊。数人ではない。数十人の紺色の軍服を着た兵隊が、謁見の間へとなだれ込んできた。
ヴィオレーヌを背にかばったアルベルトが剣を抜く。他の親衛隊員たちも一斉に、重々しい音を鳴らして剣の切っ先をクラリスに向けた。
「あらまあ、ひどいですわ、ヴォレーヌ様。私を殺すつもりでしたの」
水色のドレスアーマーを装着したクラリスはそう言って、にこやかにほほ笑んだ。
「あなたの方こそ。クラリス」
ヴィオレーヌも、顎を少し上げクラリスを見下すように見つめながら、紅い唇をゆがめる。
クラリスは口に白い手をあてて目を細め、上品に笑った。
「そう。私、あなたを殺すつもりだったの。万が一にも打ち漏らすまいと多めに兵隊を連れてきたのだけど、困りましたわ。これでは、この場が戦場になってしまう」
「あなたと違って、私は血を好まないの。でも、戦うというなら受けて立つわ。どうする? この場で殺し合いをしますか」
吐き捨てるように言ってから、ヴィオレーヌは少し考え込み、そして一歩前に進み出た。
「この場で戦えば、お互い無事では済まない。クラリス。提案があるの」
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