豊洲地下オデッセイ

foxhanger

第1話

 闇の中だった。

 目覚めたとき、枕頭の時計は14時を表記していた。周囲はいつも真っ暗で、24時間表記でないと夜も昼も区別がつかない。

 手探りで、照明を付けた。

 コンクリートの壁がずっと続いている。昨日目覚めたときと変わらぬ光景がそこにはあった。

 昨日もずっと歩いていた。

 スマートフォンの万歩計を見ると、もう3万歩も歩いているようだ。距離に換算すれば、20キロ以上になるはずだ。

 おかしい。

 この空洞が、こんなに広いわけないじゃないか。

 それとも、同じところをぐるぐる回っているのか。リングワンダリング。冬山遭難の定番原因。

 かつては、「キツネに化かされた」とも言われたそうだ。キツネの悪戯で片足だけ、ほんの少し短くされてしまったのが原因。そのため、まっすぐ歩いているつもりでも歩みはカーブを描いてしまい、いくら歩いても同じところへ戻ってしまう。いつまでも同じところをぐるぐると、ぐるぐると回り続ける……。

 思えば、おれの人生もずっと、キツネに化かされているようなものだろう。

 ペットボトルに汲んだ水を飲み干すと、寝袋をたたんで、リュックに入れた。

 今日も歩こう。それしかない。

 視界はライトの照らし出す範囲だけだった。

 一定間隔で水道の蛇口があり、水に困ることはなかった。

 食べ物だが、惜しみ惜しみ食べれば10日は保つ。それまでには、出られるだろう……。

 がりっ。

 そのとき、足に異質なものを踏んだ感触があった。コンクリート片とは、違う。

 ライトを足下に当てる。

 肌色の物体が転がっていた。人間のそれとはあきらかに質感が違う。

 マネキン? ……違う。

 機械の一部のようなものが、その端から覗いている。腕、足、それに胴体。球形のものは頭に載っていたのか。

 棄ててあるのか?

 その物体には奇妙なデジャ・ヴュを感じた。


 どうしてこんなことをしているかと言えば、それは夏の終わりまで遡る。


 運河の向こうに、コンクリート製の箱が並んでいる。団地だ。もう建てられてから半世紀になろうとしている。

 近づいてみると、外壁ももうぼろぼろだ。ひび割れたコンクリートには、錆の色が染みついている。

 おれは小さな頃、この団地に引っ越してきた。両親ともに東京生まれの自分は、年末年始やお盆に「帰省」するところはない。

 中学校に進学して、窓際の席で外に視線を遣ると、茶色い丘が緑道公園のはるか向こう側に見えた。その上空には、無数の鳥が舞っている。

 あそこは中央防波堤埋め立て地。東京中のゴミが集められている場所で、鳥は生ゴミを狙っているカモメだと、後に知った。

 田舎、ふるさとというものは自分にはない。

 どこでも居心地悪く生きてきた。学校でも、家でも。

 学校を出てからいくつかの会社に入っては辞めた。待遇は次第に悪くなり、やがて、ボーナスも社会保障もない派遣仕事で口に糊するようになった。

 そのうち、自活できる収入もなくなった。実家である団地の一室に帰るしかなかった。

築半世紀のコンクリート製の箱は、さらに古く、狭くなっているようだった。

 しかし年老いた両親と、狭い2DKの家で暮らすのは気詰まりだった。

 二言目には、働いていないことの嫌味ばかり聞かされ、お互い不機嫌になっていく。

 近所でアルバイトを捜した。しかし、なかなかいい返事はない……。

 気晴らしに映画を見て、その話をしたら「遊ぶのは仕事を決めてからにしろ」と苦い顔をされた。その仕事が決まらないから、ストレスが溜まるんだよ。

 いつしか、昼のあいだは周囲を歩いて時間を潰すようになっていた。


 団地は四方を水に囲まれている。どこへいくにも、橋を渡らなければならない。

 運河にかかった橋の向こうには、近年建てられた高層ビルが幻のように目に映る。

 かつては、工場や流通倉庫、それに古びた団地しかなかった豊洲や東雲は、高層ビルが建ち並ぶ地帯へと変貌を遂げていた。

 豊洲へ渡る東雲橋のたもとには、ボロボロの木造住宅が一軒だけ残っている。

(この家だけは昔から変わらないな)

 子供の頃は、まだ地下鉄もゆりかもめもなく、バスだけが周囲と結ぶ足だった。

 この道は慢性的に渋滞していた。築地や銀座方向のバスに乗っていて渋滞に捕まると次の停留所で降り、そのまま進行方向へ歩くと、何台も先に走る同方面のバスに乗ることが出来たのだ。

 豊洲は変わった。当時造船所があった場所には映画館を併設したショッピングモールが、セメント工場があった場所にはマンションが建っている。

 歩き疲れて、ベンチに座った。ベンチは分銅を大きくしたような奇妙な形をしている。

 かつて造船所で使われていた錘を再利用したものだという。こうして「この街にかつてあったものの記憶」を残している、というのだが……。

 ここには古いものは何もない。どれもついこの間に出来たものばかりだ。一定の時間が経てばスクラップアンドビルドされ、「歴史」はそのたびリセットされる。

 図書館の入っている豊洲文化センターの向こうは豊洲六丁目だ。六丁目は東京湾に突きだした半島のようになっている。その突端に向かって歩いて行った。

 子供の頃、この一帯はガス工場の敷地で、立ち入ることは出来なかった。いまでは再開発が盛んで、ライブハウス、ガスの博物館、背の低い円柱のような変電所の建物が立ち並んでいる。

 ゆりかもめの「市場前」駅に、新橋方面から来た車両が滑り込む。

 降りた客はいないようだ。昇ってみると、駅の構内もがらんとしている。

 名前の通り、豊洲市場のために作られた駅だ。開業していない以上、現在ここに用のあるものはほとんど居ないから、だれもいないのは当然とは言える。


 ブルルルル――。

 うしろからエンジンの爆音が聞こえてきた。

 オートバイか。

「!」

 すぐ横を行き過ぎる。

 ライダーはヘルメットで顔は見えないが、身体にフィットした黒い革のつなぎに身を包み、そのラインは女のもののようだ。ヘルメットの首の部分からは長い髪がたなびいている。

 酷く場違いな感じだった。

 バイクは、走り去っていった。

 そのバイクを見た途端、異様な胸騒ぎがした。おれは、あとを追っていった。

 人通りのない通りを歩いていくと、道路のすぐ横に、マンホールの四角形の蓋がずらされ、開いているのが見える。

 ここにはなにがあるのか。

 備え付けられていた鉄製のはしごをつたって、ゆっくり下に降りた。

 狭い部屋があって、扉を開くと地下へ続く階段があった。ぐるぐる回る、螺旋階段。その深さは、ビルの三階分はありそうな感じがした。

 扉があった。

 開けてみると、向こう側は真っ暗だ。

 スマートフォンのライトを点けて、あたりを照らしてみる。向こう側まで、光が届かない。

「ここは……」

 豊洲市場の地下にある空洞、ではないか。

 有害な水が溜まっていると一頃騒がれた、あの空間である。

 しかし、足下は乾いている。

 それを報じるニュース映像で見たところは、たしか、床に水が溜まっていたはずだったが。

 天井は思ったより高く、開放感があった。

 暗闇の中にたたずんでいると、なんとも言えず心が安らぐのを感じた。ひんやりとした空気に包まれ、地上の雑事から切り離される。何をするでもなく、夕方までそこにいた。

 スマホの時計を見ると、もういい時間だ。おれはうち捨てられた団地に帰った。


 それからおれは、毎日歩いて豊洲に出て、この空間に通った。コンクリートの床に座り込んで、午後を過ごした。

 何もかも変わってしまったようなこの街で、ここだけが心安らぐ空間だった。

 アルバイトをしていないのは、程なくして親に知られた。

「出ていけ!」

 この家に居られるはずもない。おれが行くところはひとつしかなかった。

 あの、地下空間だ。


 豊洲駅の裏手には、再開発前からの商店街がまだ残っている。スーパーの勝手口に廃棄してあった段ボールを二,三枚拝借してくる。

 あの螺旋階段を降り、乾いたコンクリートの床に段ボール箱をばらして敷き、暗闇の片隅に身を横たえる。

 その日から、この地下空間がそのまま、おれのねぐらになった。

 降りてきたところの向かいの壁に、水道の蛇口と排水口があった。洗い場のようだった。ためしに蛇口をひねると水が出た。近くにはコンセントがあった。こちらも通電していた。

 電気水道の無断使用は泥棒と一緒だし、これが生きているということは誰かが来る可能性があるということだが、見つかったとして、そのときは、そのときだ。

 スマートフォンで通販サイトから注文し、コンビニ受け取りで、寝袋やアウトドア用品を買った。豊洲には、日本最初のセブンイレブンがある。

 こんな生活で気にしなくてはいけないのは、衛生だ。まず、百均で買ったハサミと剃刀で頭を丸坊主にした。お湯をタオルに浸して、毎日それで全身を拭いて風呂の代用にした。

 どうしても風呂に入りたければ、近くの小学校に併設されたスポーツ施設がある。シャワーが浴びられるし、プールは銭湯よりも広くて安い。

 段ボールでついたてを作って、壁に面していない部分を囲った。身を横たえる空間と荷物を置く空間、二畳ほどが自分の領域になった。

 ビバホームでホットプレートと電熱式の魔法瓶を買ってきた。ご飯は炊けているのを買えばいい。ここでは裸火は使わない。火災報知器が生きているだろうから。

 だが、下の用だけはいかんともしがたかった。流すところがなかったから。寝ていて我慢できないときはペットボトルやバケツを使ったが、なるべく外に出ているときに済ませることにした。とくに、大きな方はそちらのほうがはるかに快適である。

 銀行で、虎の子の定期預金を解約した。身の回りのものを整えて、口座の残金を確認する。切羽詰まる前にアパートを引き払って親元に戻ったので、手元には当分やっていけるだけの金はある。カードを使えば、もう少し伸ばせるだろう。

 冬は越せたとして、それから先は……。おそらくその前に追い立てを食らうだろうが。

 しかし、この暗闇の中にうずくまっていると、不思議な安心感があった。

 ここなら怪獣が攻めてきても、彗星が墜ちてもだいじょうぶだ。

 捨て鉢な気持ちも、あきらめとその言い換えである安らぎも、おれの中にはなかった。身体のうちにみなぎるのは、奇妙な高揚感と精力だった

 ここで生きよう。


 それからしばらくは、せわしなく過ごした。

 目が覚めて外に出ると、夜が更けていたり、真っ昼間だったりした。

 秋は深まり、どんどん日は短くなっていった。

 あちこちを歩き回り、図書館で本を読んだり、月島や門前仲町の界隈にも足を伸ばした。

 燃えるごみの日は団地やマンションの周囲を回り、使えそうな粗大ごみや本のたぐいを拝借した。本以外にもCDやDVD、ゲームソフトが捨ててあることもあった。本はねぐらで仕分け、ちゃんとした値段がつきそうなものは神保町に、そうでない文庫本や雑誌、漫画本は新古書店に持っていった。自分で読みたい本は手元に残すこともあった。

 本を売ったりして臨時収入があったときは、ららぽーと豊洲のユナイテッド・シネマに行き、映画を見た。足を伸ばして美術館や博物館に行くこともあった。

 気ままな毎日は一月ほど続いた。

 その日も、昼か夜か分からない空間で眠りについていたところだった。

 異様な音がどこからか聞こえてきた。

 エンジン音だ。この前も聞いたバイクのものか……爆音はあっという間に大きくなり、空間一帯に響き渡った。

 どうして、こんなところに……。

 バイクは、上半身を起こしたおれの真横を通り過ぎた。ライダーは……黒ずくめで、ヘルメットの下から髪をたなびかせている。あのときの、女なのか。

「……!」

 起き上がった。

「おい、待てよ!」

 向こうに何があるんだ。

 おれは好奇心に駆られた。

 荷物をひっつかんで、おれは暗闇の向こう側へと駆けていった。帰り道は、見えなくなった……。


 歩きながら、おれは、この都市が出来た頃に思いをはせた。

 太田道灌が江戸城を築いたとき、すぐ目の前の日比谷まで入り江が迫っていた。

江戸城は海岸の城だったのだ。豊洲の属する江東区は、北端の亀戸近辺しか海の上に出ていず、今の深川界隈まで干潟や葦原が拡がっていた。

 この地が「深川」と呼ばれるようになったのは、新田開発のため摂津国からこの地に移り住んだ深川八郎右衛門にちなんでいる。徳川家康が鷹狩りでこの地に赴いたとき、案内をした八郎右衛門にこの地の名前を問われ、「ありません」と応えたので、その名字をこの地の名前にするよう命じられたいきさつがある。

 その頃からずっと、江東区は埋め立て地によってその面積を拡げてきたのだ――。

 現在「豊洲」と呼ばれている地域は、主に大正から昭和初期に関東大震災で発生した瓦礫や、浚渫土で埋め立てられ、造成された地域だ。

 造成した当初はたんに東京湾岸の5番目の埋め立て地を意味する「5号地」と呼ばれていたが、港湾局職員の懸賞で募集され、「豊洲」と名付けられた。

 戦中から戦後にかけて造船所、鉄工所、セメント工場などが建てられ、貨物線も敷設され、工業地帯として栄えることになった。豊洲埠頭は石炭や鉄鋼の積み卸しで賑わい、東京電力の発電所が操業を開始した。その隣には東京ガスの工場、閉鎖後の跡地には豊洲市場が作られることになる。

 港湾を擁する重工業地帯だった豊洲が、その姿を変え始めたのは、1988年に営団地下鉄(当時)有楽町線が開通し、豊洲駅が誕生してからのこと。

 折からのバブル景気に伴う地価の高騰で、比較的都心に近く、広大な敷地の工場があるこの地域に注目が集まったのだ。

 次々工場は移転、閉鎖され、跡地にはオフィスビルが建った。

 この街を去った工場の代わりに街の風景の主役になったのはNTTデータ、日本ユニシスなどの超高層オフィスビル、それに少し遅れてタワーマンションが次々に建った。

 そして造船所も廃止され、跡地は映画館などが入るショッピングセンターになった。

 林立する巨大なタワーマンションには、子育て世代の一家が入居し、少子化に悩むこの国では珍しく「子供の人口が増えている地域」とメディアに取り上げられるような街になった。

 晴海や有明に直通する橋が掛けられ、交通の流れも変わった。街はその姿を一新したのだ。

 その仕上げが、築地にある東京中央卸売市場――魚河岸の豊洲新市場への移転、だったはずだ。

 しかし築地の伝統を愛する、と称する者たちが異論の声を上げた。ガス工場の跡地なので、土壌汚染の可能性がある、と。

 そこに乗じたのがスタンドプレー好きの都知事だった。数年前、ごたごたの末以前の都知事が辞任し、代わって当選した彼女が、その功名作りの手始めとしてやり玉に挙げられたのが、この市場だ。

 再調査によって、盛り土がしてあるはずだったところが巨大な地下空間になっていることが暴かれた。

 てんやわんやの末、移転は「当分凍結」ということで手打ちになった。新市場への移転業務は中断され、あとには巨大な空間だけが残された……。


 暗闇を歩きながら、ずっと考えていた。

 怒り? そのとおりだ。勝手な思惑に振り回され続け。だれもフォローをしないで放り投げた。

 金を出すのは無駄だ、と? ふざけるんじゃない。

 カネも出さないやつらが何を言っている。

 あんたらが誇らしげに見せびらかす「文化」やら「歴史」やら「伝統」やらは、所詮、後生大事に貯め込んでいた既得権益に過ぎなかったんだろう。

 パイが小さくなれば、こちらにお恵みをあげるわけにもいかないだろうさ。


 畢竟この一帯を、いらないものを押しつけるところ、としか考えていなかったんじゃないのか。


 返せ。

 おれの未来を、返せ。


 口惜しい。


 いくらビルが建ち並ぼうと、「東京」には迎え入れられない

 結局、よそよそしいものでしかなかったということか。

 まるで、おれの人生のようじゃないか……。


 廃墟か。

 破滅も廃墟も、もういいよ。

 おれたちはあのとき、破滅を目の当たりにしたんじゃなかったのか。

 それはかつて夢想した甘美な終末ではない、単なる破壊、喪失、欠乏と呻吟……日常の喪失でしかなかった。

「終末」の夢が成就することはなかった。おのれの無力さに酔うだけではない。被災地にさらなるダメージとスティグマを与えただけだった。

 少なからぬひとびとは、もういちどこの社会を作り直すこと、破滅を回避することを選んだはずなのだ。

 ここは廃墟じゃない。方舟でもない。ただの空間だよ……。

 とりとめない思考を頭に貯め込みながら、おれは今日も歩いて行った。


 ひたすら、ひたすら歩みを進める。

 コンクリートの壁が連なっている。

 低い、うなるような音がどこからか聞こえてくる。風の音か。

 いつの間にか、足下には水がひたひたと押し寄せてきた。浸みだしてきた地下水が、ここではまだ排水されていなかったのか。

 あのとき、ヒ素やベンゼンだのとおどろおどろしく報じられたものだろうが、多少身体にかかったくらいでは問題ないに違いない。

 そのまま歩いて行った。水はどんどん増え、靴の中にまで入ってくるようになった。

 さらさらと水の流れる音がする。

 泥が沈殿し、足下はぬめっている。注意深く足を踏み出す。

「……!」

 泥に足を取られた。仰向けに転倒し、泥水が溜まったコンクリートの窪みに頭を突っ込んだ……。


 気がついたときは、畳の上だった。

 男の声が聞こえた。

「だいじょうぶか」

 枕頭にはランタンが置かれ、ガラスの向こう側で炎が揺らめいている。

 バラックの内部のようだった。

 土に何本か柱を立て、板きれを打ち付けて囲いを作った、間に合わせの建物である。

 畳は、じかに土の上に置かれているようだった。わずかにずれて、その下から地面が覗いていた。

 枕元に男がやってきた。かがみ込んで声をかける。

 おれは起き上がった。男の背はおれより低いが、がっしりした体型だ。

 そして男に問うた。

「ここでひとを見たのは、はじめてだ……あんた、ここに住んでいるのか」

 男は頷いた。

「何をしてるんだ?」

「ただの財宝掘りさ」

「?」

「見慣れないところに灯りを見つけた。寄ってみたら、あんたが倒れていたんだ

「……ありがとう」

「礼には及ばん」

 コンロに火をつけた。

「あんたも、財宝目当てかね」

「?」

「知らないのか、ここがどうして、豊洲と名付けられたのか」

「いや……」

「ここはもともと、関東大震災で発生した大量の瓦礫が埋め立て処分され、出来た埋め立て地だ。瓦礫の中には、火事で熔けてしまった貴金属、そのままの姿の宝石や骨董品が、たくさん埋まっているんだ。豊かな州――宝島という意味なのさ」

 そういえばかつて、埋め立て地で何故か、江戸時代の小判が見つかったという話も聞いた。

 終戦直後、ここからもほど近い越中島の川底に、大量の金塊が沈められていたこともあった。軍の資産が進駐軍に接収されるのを恐れ、隠匿したものだったという。

「ご覧よ」

 三〇センチほどの泥まみれの仏像のようなものを見せた、泥がついてない箇所は鈍い金色に光っていたが、おそらくメッキだろう。

「いくらでも、ざくざく出てくるぞ……それに、お台場には、幕府が隠した財産があるという話だ」

 男が口にした「お台場」とは、近年になってテレビ局やレジャー施設が建てられた、あの一帯をさしているのか。いや、それは男が知らないことのようだった。

「まっすぐ行けば、お台場に出る」

「トンネルを、ですか」

 男は頷いた。

 台場どうしが、トンネルで連結されていたというのか。

 いつ、そんな工事が。


 そういえば、目の前の男は、今ではどこで売っているのか定かではない服を着ている。

 詰め襟の上着はカーキ色で、見るからに安っぽい布地だ。

「まさか、この空洞はあんたが掘ったんじゃないだろうな」

「とんでもない」

 煙草をふかした。

「おれはただ、空襲から逃れてきたんだよ」

(……何のことだ?)

 いぶかしげに男の眼をのぞき込んだ。

「昭和二十年三月十日未明。下町一帯をB29の編隊が襲った。東京の東半分は焼夷弾に焼き尽くされた。おれたちは、炎に追われて逃げ惑ううち、この埋め立て地に逃げ込んだ。埋め立て地なら爆弾を落として壊すものは何もないし、海に囲まれているから火が回らないだろう。うろつき回ったあげくに、この空洞を見つけたのさ」

「外のことは、知らないのか」

「知らないわけじゃない……」

 俯いたまま応えた。

「でも、関係ないさ。おれたちの街は、焼けてしまったのだから。今更戻る気もない……」

 そして煙草をもみ消した。

「あんたもどうだい? 土を運ぶくらいなら、今すぐにでもお願いするよ」

「いや」

 ガリンペイロになる気はなかった。

「そうか」


「おれは行くよ、ありがとう」

 男と別れて、歩きながら訝った。

 あの男は、いくつなのだ?

 空襲から逃れたという話を信じるならば、どんなに若くても八十前後だろう。

 しかし、どう見ても男は五十くらいにしか見えなかった。

 それに、あの出で立ち……。

 今はいったい、いつなのだ?

 スマートフォンはスイッチが入らない。電池切れを起こしてしまったのか。

 気がついたら、トンネルの壁や底はコンクリートから土になっていた。

 足下はぬかるみだ。コンクリートの床もない。

(このままじゃ、お台場に立てこもっていた幕臣も出てきそうだよ)

 だいたい、埋め立て地の地下に、こんな洞窟が掘れるはずはない。

 出来てから数十年しか経っていない埋め立て地の地盤は、ようやく固まっている絹ごし豆腐のような極めつけの軟弱地盤だし、それが乗っているかつての海底、沖積層というのは、まだ東京湾に流れ込んでいた利根川や、荒川、多摩川が運んだ泥が積もっているだけだ。

 ちょっと強い地震に見舞われれば、液状化してぐしゃぐしゃになってしまう。

 この界隈に超高層ビルが建てられるのは、基礎として何十メートルも下の岩盤に杭を打つことが出来るようになったからだ。

 まさか、この洞窟はそんなにも深いのか……。

 歩いていくと、光が見えてきた。

 なんてことだ。おれを化かしていたのは、キツネじゃなくてタヌキの方だったのか。

 木製の扉を押し上げる。出入り口を塞ぐように灌木が生い茂っていた。

 押しのけるようにして外へ出る。

 そこは、石垣の直下だった。出口は大きな石に囲まれている。

 正面に見えるのは、海だ。


 台場とは、もともと砲台のことである。

 ペリー率いる黒船の来航に仰天した幕府は、江戸の守りを固めるための砦を、急遽、江戸前の海、品川沖に作ることを決めた。

 そして品川の八ツ山や御殿山を切り崩し、品川から海に向かって点々と人工の島を作っていったのだ。しかし六つ目まで作ったところで、幕府は開国政策に転じ、意味をなくしたのだった。

 第六台場は、東京湾奥で最後に残った無人島だ。

 子どもの頃、よく台場を見渡す公園へ釣りに行った。

今はフジテレビが建っている正面の砂浜は、

ハゼをバケツいっぱいも釣りながら、目の前に浮かぶ緑に覆われた無人島を見ていた。

 しかし臨海開発が進み、芝浦と結ぶレインボーブリッジが出来た。橋には遊歩道が作られて、この無人島を頭上から俯瞰できるようになった。立ち枯れの木しかない丸坊主の島だった。不忍池からやってきたカワウの巣になり、降り注ぐ大量の糞が木々を枯らしてしまったのだった。

 東京に最後に残された神秘の島は、その聖性を喪失した。

 しかしここは……。


 ここが第六台場なら、頭上には、レインボーブリッジがあるはずだ。しかし、頭上にそれらしきものはない。

 岸辺の方に視線を遣る。

 そこにはフジテレビの本社ビルも、その手前にあるダイバーシティもない。

 砂浜と公園。

 豊洲、晴海、有明など、その向こうに林立しているはずの超高層ビルは、まったく見えない。

 ここは、臨海開発が始まる前のお台場、だというのか……。

 波打ち際には、ゴミが打ち寄せられていた。マンガ雑誌があった。

昔に流行ったマンガのキャラクターが表紙にでかでかと印刷されている。

 表紙に印刷されている日付は

「昭和60年8月25日号」

まさかおれは、80年代にタイムスリップしたのか。あの穴はタイムトンネルだったのか。

「もし」

 うしろから声がする。

「誰なの。誰かいるの?」

 この台場を守っている幕臣か。夷狄と思われて斬りつけてくるのか――違う。

 女の声だ。

「ようやく、ここについたの」

 照らしてみた。長い髪の、二十代くらいの女だ。

「……!」

 どこかで見覚えがある、ような……。

「あんたは、誰だ」

「わたしは、ここに住んでいるのよ」

「?」

 立ち入り禁止の場所のはずだ。住めるはずがない。

「こうして、真夜中にこっそりやってきて、気分を味わっている

 波打ち際にはゴムボートが舫われて、わずかな波に合わせて上下しているのが、かすかに見える。

 女は問うた。

「あんた、どこから来たの」

「未来から」

「ふふっ、面白いことを言うねえ」

 たしかに、ばかばかしいだろう。こちらもつい、口がほころんでしまった。

「まあ信じるか信じないかは、あんた次第だ。それよりあんたこそ、なんで、こんなところにいるんだ」

「いいじゃない」

 この女は、あの、バイクに乗っていた女じゃないか――

 それは口に出せなかった。

 女はいった。

「ここは東京で、最後に残された場所」

「ただの無人島だよ」

 その返事に、女はちょっと驚いた顔をした。

「この辺には詳しいの?」

「詳しいというか、地元だよ」

 実家のある団地の名前を挙げた。

「あそこに住んでいたの」

 そういって海の向こうを見た。暗闇にぼんやり浮かび上がるのは、陸――まだ「港区台場」になる前の、十三号地だ。

 向こう岸にぼんやり光るのは、街灯だろうか。

 お台場海浜公園は闇の島だ。フジテレビやアクアシティ、デックスお台場などが放っているはずの照明のきらめきは、見えない。

 その有様を見て、不意に思い出した

(自分は、ここに来たことがある)


 確か小学校の、四年生か五年の頃だった、と記憶している。

 ある晩、両親が外出して、ひとりで翌日まで留守番をしなければいけなくなった。

 ちょっとした冒険心から、真夜中、家を抜け出した。

 その頃、読んでいた漫画の影響で釣りを始めた。親に連れられて、この近辺でハゼやスズキを釣っていた。しかし行くのは昼間に限られていて、一回「夜釣り」というものをやってみたかったのである。

 しかしひとりで行くわけにもいかず、親に言うのも憚られた。

 今晩なら念願の「夜釣り」が出来る。ひとりで自転車をこいで、この十三号地までやってきた。

 竿を出そうとするとき、声を掛けられたのだ。

 女だった。声で分かったが、ヘルメットで覆われていた。

印象的だったのは、ヘルメットからはみだした髪が長かったこと、自分よりも背が高かったことだった。

「きみ、何してるの?」

「釣りだよ」

「向こうの島に、渡ってみたくはない?」

「……」

「おいで」

 そして、女のこぐゴムボートに乗って、島へ渡ってみたのだった。

 はじめて乗るゴムボートは足下がぶよぶよして頼りなく、今にも沈むように思えた。波に揺られて、ときおり水しぶきがかかった。

 そして、上陸した。荒れ果てて草や灌木が生い茂る

 ひとには言えない冒険をしているようでドキドキしたが、暗闇のなかにいると、だんだん、怖くなってきた。釣りどころではなく、草いきれの中で、ただ、立ちすくむしかなかった。

「こっちにおいでよ」

 横に座った。対岸の明かりに照らされて、水面が揺らいでいるのが見える。女は問うてきた。

「あなたが大人になる頃、東京はどうなっていると思う?」

「このへんにもビルが建つよ。鉄道も通る。団地以外何にもない街じゃなくて、普通の東京の街になるんだ」

「そう」

 女は話を続ける。

「私はこう思うの。見渡す限りビルが建ち並んで、どれもキラキラと輝いてるけど、そこにはだれもいない、美しい廃墟になっている……」

 じっと見上げた。女はどこかうっとりした表情をしている。

「わたしは、ここからそれを見守るの。あなたもどう?」

 おれは首を振った。女はすこし、つまらなそうな顔をしたように見えた。

 そして声をかけてきた。

「……そろそろ、帰る?」

 うなずき、対岸までボートで戻った。そのまま自転車に乗って、家に帰った……。


 おれは、まじまじと女の顔を見た

「……あのときの」

 頷いた。そして問うてきた。

「未来は、どんなところ?」

「まあ、悪くないよ」

 口をついて出た言葉に、自分でもすこし意外な気になった。

下る一方だったのに。くそったれな世の中だと思っていたのに。なぜ、思いっきりの呪詛を垂れなかったのか。

 しかし、彼女に嘘をつく気にはなれなかったのだ。

「地震も起きたよ。原発も吹っ飛んだ。でも、君らが夢見ていたことは起きない。そこにあるのは日常。日常なんだ。

「そうなの」

 彼女はちょっと怪訝な表情をした。

 そして、おれはいった。

「……帰らなきゃ、いけない」

「そう」

「さようなら」

「バイバイ」

 女は、子どものように胸の前で小さく手を振った。

 おれは穴蔵の中へ戻っていく。

 トンネルは行きとは打って変わって狭く、長かった。

いくら進んでも、あの広大な地下空間に行き着くことはなかった。

 小一時間ほど匍匐前進すると、行き止まりに達した。木の板で塞がれていたが、推すと簡単に外れた。

 コンクリートが打たれた空間に出る。その傍らには、ステップがあった。

 鉄板を押し上げると、ひんやりとした外気が入ってきた。

 夜だった。

 ビルの灯り、街灯の明かりが眼に入る。

 そこは、21世紀だった。

 昭和大学付属豊洲病院の裏手に、おれは立っていた。

(おれがいた時代なのか)

 公園を横切り、ゆりかもめの駅の方へ歩いて行った。


 市場へ通じる道には、引っ切りなしにトラックが走っていた。

 市場前の駅からは、ぞろぞろとひとが降りてくる。

 うち捨てられた廃墟だったはずだが、ついに移転が本決まりになったのか。

 豊洲市場がついに動き出すならば、築地の市場跡は解体され、2020年の東京五輪を目指して再開発が行われるという。

 オリンピックの空疎な騒ぎの後、彼女がいっていたきらびやかな廃墟が現出するのか。それとも……。

(彼女はずっと廃墟を夢見ているのだろうか。同じ馬連の馬券を買い続けるみたいに)

 そんな考えが浮かんで消えた。

 夜が明けてきた。

 帰ろう、と思った。

 繁栄の夢に陶酔したまま、甘美な破滅に至るわけにはいかない。そんなものはなかったことが、この20年、この5年、思い知らされてきたことだ。

 東雲橋を渡ると巨大なイオンモールが見え、その向こうに高層マンションが立ち並んでいる。

 おれがいた団地は、この道を曲がったところにあるのだ。辰巳橋を渡る。建て替えが始まった団地は暗く沈み、窓の光は疎らにしかともっていなかった。

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