愛のコトバ

もちもち

愛のコトバ

「来たねえ」


 そう言いながら彼女は真っ赤になった鼻を空に向ける。

 凍りつくなどとは生易しい。豪雪地帯などで育った経験のない自分たちには、マイナス20度などという数値は未知数過ぎて、その過酷さを想像もできなかった。

 結局、彼女とあれこれとウェブやアウトドア用品店で聞いたアイテムを揃え、ひとまずは無事に極寒の地に降り立つことができた。

 あたしと彼女が立つここは、今、極夜が横たわる。辛うじて太陽の残滓が届く空は、東にビーナスベルトを帯びていた。

 その少し上空。オパールの遊色にも似た虹色のたなびく雲が流れている。


「綺麗ね」


 同じ空を見て、彼女はぽつりと呟いた。その声には感嘆と畏怖、そしてどこか厳しさを含んでいる。

 夜明け前で時間を止めた景色の中で、切り取られたような彼女の横顔。まっすぐ虹色の雲を見つめる彼女に、あたしは一つの歌を思い出していた。

 彼女が愛している、あるアーティストの歌だ。タイトルを『愛のコトバ』という。



 ”


 夜明け前の炎の中を、僕はあの子のいる家に帰るため走っていた。

 落とされた爆弾の炎が倒壊した家々を舐めるように渡っていく。町のシンボルでもあった教会の鐘楼が、遠く音もなく崩れていくのを見た。いつもなら寒さに手を擦り合わせる頃なのに走る僕の背中には汗が流れている。

 熱さばかりの汗ではないだろう。煙で空が塞がれてしまうだろうか。光源ばかりはすっかり足りてしまっているけれど。

 襲撃は突然だった。

 夜明け前の美しいビーナスベルトからはやってきて、僕たちの町の上にいくつもの星を降らせた。聞くところによれば、遠くの高台から眺めるとそのはゆっくりと光の尾を引いて落ちていく綺麗な光景なのだと言う。

 目の前のどう見てもこの先の続かない光景を生むには、あまりに皮肉が効きすぎている。

 僕は記憶の中の町を投影しながら、見慣れているはずの見たこともない町の中を走った。徐々に火の手に包囲され始めているのを感じていた。

 だが、足を止めるわけにはいかなかった。


 ”



 極成層圏雲。別名『真珠母雲』。

 その名の通りアコヤ貝の内側に見られる遊色が浮かんでいるように見える。オーロラや夜光雲と間違われることもあるらしい。確かに見た目の美しさはオーロラや夜光雲に匹敵するだろう。

 目の前に流れる虹色の雲は夢のように綺麗だ。

 冬季の極域に発生する大規模な大気の流れに、極域の大気は周囲の大気から孤立する。

 そこに真珠の雲は発生するのだ。懐に塩素原子爆弾を抱きながら。

 この塩素原子は太陽光により雲に含まれる硝酸が変化したもので─── オゾン層を破壊する触媒となる。


 もうすぐ、あたしたちの頭上には目に見えない大きな穴が開く季節になる。そこからこぼれ落ちてくるのは逃れようのない終末の光だ。


 雲を見つめるあたしの手がキュッと縮んだ。いや、隣の彼女が手を繋いだのだ。


「怖い顔をしているね」

「終わりを見ている気分」


 いたずらめいた表情であたしの顔を覗き込む彼女へ、正直なところを返した。彼女は「ふふ」と笑うと繋いだ手をもっと強く握る。

 分厚い手袋越しに伝わるはずのない彼女の熱を感じた気がした。


「終わりはあるだろう、何にしろ、必ず」


 歌うように寒さに少し血色の引いた彼女の唇から紡がれる声。

「雲を見に行こう」と彼女は最初に言った。見晴らしの良い丘にでも行くのかと思った。

 まさか世界規模で南の果てまで来るとは思わない。


 あたしと彼女は血の繋がりは無いのだが、よく似ていると言われる。顔立ちが似通っているからだろうか。意識はしてないが服装も髪型も被るが多く、「また同じにして」と笑い合ったりもする。

 双子なのかと尋ねられかけることもあるが、目の色を見てすぐに察するようだった。彼女は混血だ。ルーツを外に持つ彼女の目は、綺麗な冬の空色をしている。


 そんな経歴を持つからか、彼女の精神は海のように深く広い。

 その包容力は華奢な外見からは想像ができない。あたしがマイナス20度を想像できなかったように、今まで出会った誰の中にもその深さと広さを見たことが無かったからだ。

 彼女の言葉を聞いていると物事の善悪や美醜、正義や正解が分からなくなってしまう。すべてを否定するのではない、逆だ。彼女はこの世界で起きるあらゆる事象を頷くのだった。

 たとえば、目の前に流れる虹色の雲。その正体を知ってもなお彼女は美しいと言う。



 ”


 戦禍の靴音が僕らの町にも聞こえ始めた頃、あの子は言っていた。

 青い空を詰めたような目で、あの子は伏せていたベッドの上で僕に笑いかけた。


「怖がることはないさ。良かれ悪しかれすべてには終わりがある。

 しかしそのとき、ただ悲しいばかりが終わりでもない」


 この言葉を抱いて僕は炎の中を走った。たとえ、その先にあの子の亡骸を見つけたとしても。

 救いだったのはあの子の顔が眠っているようだったことだ。本当に眠っていたのかもしれない。夢から覚めることなく…… 倒壊した家屋に半身を挟まれたのか、あの子の体は欠けていた。

 僕は細い体を抱え上げ再び走った。すでに火の手は目を焼かんばかりに迫っている。

 視界が白い。光のせいなのだろうか。

 僕は走っているだろうか。熱を失っているはずのあの子の体から暖かさが伝わってくる気がした。

 煙の匂いがする。

 僕はあの子の体を抱き締めた。強く強く抱き締めた。

 このまま溶け合うのかもしれない。僕は白い光の中で終わりを見つめながら、

 あの子の言葉を繰り返していた。


 ”



「その終わりは、けれど今ではないし、怖いばかりではない。…… かもしれない」


 終末を齎す雲を前に彼女は言う。

 そうして彼女は空色の目であたしを見て笑うのだ。あたしを慰めているわけではない。慰めるならもっと暖かく希望に近い言葉を使うはずで、彼女がその言葉を知らないはずがない。


 彼女が愛している歌には『愛のことば』という歌詞が繰り返し出てくる。あまりに何度も彼女が口ずさむので、あたしは原曲を知らないまま彼女の声でその歌を覚えた。

『愛』という言葉が使われているが、どうやら彼女が歌うその曲は恋人同士を歌うようなラブソングではない。

 彼女が歌うからなのか、あたしにはその『愛』がもっと広い時空間意味を持っている気がした。


 それは過去から繋がれた光だ。

 それは今も尚繰り返す苦悩だ。

 それは未来への確かな誓いだ。


 彼女がその歌を愛している理由のすべてが籠められている気がするのだ。絶望も苦悩も、その先に求める希望もすべてを包容する『愛のことば』。

 彼女は『愛のことば』を確かめにここまで来たのだろう。今横たわる終わり苦悩となる可能性を確かめに。

 果たして虹色の雲の中に彼女は答えを見つけられただろうか。探すことが出来ただろうか。

 あたしを見て微笑む彼女の瞳の中に、あたしもまた探していた。


「綺麗な雲だね」

「…… そうだね」


 柔らかな彼女の声に、今度はあたしも頷く。


 もしかしたら致命的なタイミングを迎えているのかもしれない。

 これ以上先には進めないのかもしれない。

 だが、あたしはまだ探していた。繋がれた手の熱を確かなものとして。

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