5-55 獣、森、洞窟




 勝敗は決した。運命という巨大な流れはクロウサー家によって掌握されている。

 いまや空使い選定レースという競い合いは形式的な儀礼セレモニーでしかない。

 天空神にも等しいダウザール。巨大血族が長い年月をかけて築き上げてきた盤石の布陣。入念に準備されていた大神院の掌握計画。存在が秘されていた『下』の血族と恐るべき数の実力者たち。

 加えて紀人レメスが復活したとなれば、もはや尋常な手段では抗いようもない。


 この勝負は最初からクロウサー家が勝利するように組み立てられているし、リーナ・ゾラ・クロウサーは巨大な『家』の歯車として順当な結果を得ることが決まっている。本人の意思とは全く関わりなく、それは定められた決定事項だ。

 この状況でユディーアやメートリアン、セリアック=ニアにできることは何か?


「恐れながら申し上げます。偉大なる空の狩人、犬を友とする御方よ」


 神と相対するのは初めてではない。白昼夢の如き託宣の場で、ユディーアは幾度か紀神シャルマキヒュと言葉を交わす機会があった。もっとも、あれが本当にシャルマキヒュであったのかどうかについては疑問ではあるが。

 重要な点はひとつ。上位存在と力比べをしてはならない、ということだ。


「あなた様の仰る通り、我が父祖はダーカンシェルでございます。しかしながらわたくしめは紀竜の巫女、魂を亜竜王の神殿に捧げた身。祝祭が終わるまで、このユディーアは竜と神、人と世のための祭具も同然。あなた様のご温情を賜る機会を逃すことは惜しくありますが、どうかこのひと時のみ、雄々しき生の昂ぶりを抑えていただけますよう、伏してお願い申し上げます」


 神は畏れ、敬い、奉るもの。

 正しい作法は『縛り』だ。

 荒ぶる自然、理解不能な神秘、世界という災いを、『理解可能な呪術儀式』に落とし込む。そのために自らを型と成し、超越的なものを中に押し込める必要があった。

 霊媒としての振る舞いで跪き、自らを下位者として定めれば、神と人の関係性が確定する。ユディーアの所作から意図を読み取ったレメスは目を眇めて言った。  


「紀竜の巫女か。その感じはクルエクローキ? 竜母の『備え』なら儀式中は舞台裏で待機してないといけないよね。父上ダウザールの顔を潰すわけにもいかないし、儀式が成就するまでは君にちょっかいを出すのはやめておくべきか。なるほどね」


 ふむふむと頷き、数秒だけ考え込む。

 これは交渉の余地があるかもしれない、とユディーアが希望を抱いたのも束の間、若き神はにっこりと笑ってこう続けた。


「けど嫌だ。理性よりも射精。この第五階層に虹国ヴァルニアを顕現させ、大乱交アニマルランドで豊穣祭を行うことは決定事項だ。覆ることはない。レースとは生存競争のメタファーであり、精子が卵子に向かうのと同じ絶対のルールだからね。同時に行われるからこその必然性がある。この意味がわかるね?」


 いや全くわからない。

 わからないが、正直に言うわけにもいかないので首を縦に振るしかない。


「空に至る儀式は後半に差し掛かった。残る要素は『獣』『森』『洞窟』だ。言うまでもなく獣将国コース、ティリビナ森林コース、冥府コースを意味している。冥道は産道で、冥府は子宮だよね? つまり箒レースはセックスであり、その逆でもある」


「その、先ほどの獣将国への浄界構築は『計画通り』だと?」


「そうだね。だがここからは未確定だ。流石に緑の天主や地の元魔の領土に手出しはできない。君ならこの意味がわかるだろう、ディスケイムの娘ユディーアよ」


 冗談のような言動で惑わされそうになるが、レメスはクロウサー家の中核。

 彼はダウザールと同格、あるいはそれ以上の重要人物と言える。

 線の細い美貌や穏やかな口調の裏に油断ならぬ本質を隠しているのは明白だ。


「君はぼくの代行者として大乱交アニマルランドの女王になるのは嫌らしい。万の獣を言祝ぐ道を避け、竜母たる宿命はあくまでも他人に譲ると。なるほど君は『個我』を冠にできない王というわけだ。ダーカンシェルとは似ていないね。王の器とは言えない。それともディスケイムという家が君の欠落を広げてしまったのかな。もっと伸び伸びと育てればよかったのに。かわいそうだね」


「仰っていることが、よく」


「わかっているはずだよ? 苛ついているんだから」


 ユディーアは思考を凍らせ、必死に『そのこと』を考えないように努めた。

 全てを見透かすような神の瞳から内心を隠し通すことは不可能だ。

 耐えることだけが唯一の抵抗で、それさえ哀れみの前には惨めさに堕する。

 幸いにも、レメスはさしてユディーアに興味がなかったようで、すぐに話題を切り替えてくれた。


「さて、消極的でナイーブな少女にぼくからの提案だ。君には『洞窟』における友好の懸け橋になってほしい」


 字面をそのまま受け止めた場合、洞窟というのはユディーアたちが立っているこの場所のようにも思えるが、それだけであるはずもない。

 『獣』はレメス。『森』はティリビナ。ならば『洞窟』はノゴルオゴルオだ。

 レメスはユディーアの背後にディスケイムを見ている。


「いま、ディスケイムはクロウサーの主力と交戦中だ。そこで君にお願いなんだけど、和平の使者となって争いを止めてもらえないかな」


 柔らかな命令は有無を言わせぬ強制力でユディーアの意思を縛った。

 凄絶なまでの神話的美貌と魅了のまなざし。

 神託を受ける霊媒という関係性で規定してもなお抗いがたいオーラが、ユディーアのちっぽけな思惑を強引に捻じ伏せようとしていた。

 拒否権はない。事実上、クロウサー側の捕虜となって人質交換の材料にされる形と言っても良いだろう。


(今は従うしかない。けど、このままディスケイムとクロウサーの抗争に付き合っていたら間に合わなくなる可能性がある。あたしとニアちゃんはともかく、メートリアンだけでもレースに合流させないと)


「そしてもうひとつ。君の傍にいる白い金瞳マウザの娘を引き渡してもらえないかな。それはぼくを死者の逆さ城に封じ込めるための鍵だ。悪いけど、ディスケイムに預けておくわけにはいかないんだ」


(来た)


 ユディーアは密かに拳を握る。

 これで予想は確信に変わった。ガルズの『右目』を継承したメートリアンはいまやクロウサーに対する重要な切り札となりつつある。

 上手くやればレメスを封じることさえ可能かもしれない。

 それはこの状況ではメートリアンに危機をもたらすだろう。

 だが、この場を切り抜けたなら話は別だ。

 不確かな根拠は確実な交渉カードに変わった。


「それから、さっきからやっている小細工は無駄だよ。付け焼き刃の融血呪で閉鎖結界に穴を開けようとしていただろう? まだ小さいけれど、すぐに修復可能なレベルだ。イナータルゴ、すぐに塞いでおくように」


 レメスに油断はない。当初の企みを見抜かれ、瞬く間に対処されてしまう。

 横目で景色の歪みが修正されていくのを確認し、ユディーアは密かに安堵した。

 青い血を操ってクロウサーの浄界に脱出用の穴を開ける。その思惑は失敗した。

 わずかな浄界の隙間は小さすぎて、この中で最も大きなチリアットはもちろん、小柄なメートリアンが通過することさえかなわないだろう。

 そして、それで十分だった。


「いや、待て。イナータルゴ。ぼくが来た時には既に手遅れだったな?」


「レメス様、それはどのような」


「そこの猫。もう射殺したよ」 


 言葉よりも早く虹の矢がセリアック=ニアを貫き、その後で神は弓を引いた。死に気付いた小さな身体が引き裂かれ、より小さな『ちびニア』となってわたわたと短い手を動かす。当然ながら、二匹のちびニアのサイズは縮んでいる。

 そう。分裂したちびニアであれば、わずかな隙間を通過できる。更にその場にセリアック=ニアを残したまま、ちびニアを別行動させることさえ可能だった。

 レメスが現れる前に実行済みだったのが幸いした。メートリアンの迅速さとちびニアとの連携が上手く行った形となる。

 致命的なミスにイナータルゴが蒼白となり、レメスは激昂する。


「増えるならセックスをしろぉおおおおお!!! 分裂をするんじゃぁないっ!! これだから猫は嫌いなんだ! わんわん! あるいはおうまさん! うしさんも好きです! 猫はぼくの言うことを聞いてくれないから嫌だ! 神より上のつもりなのかいい加減な連中め!! 外宇宙で集会とかするな電波がうようよする!!!」


 ここまでの穏やかな表情を一変させたレメスが喚き散らす。

 超越者の視点から、ここからの流れが読めてしまったのだろう。

 一手の遅れを取り戻せないと確信したからこその激昂。

 それは強大なレメスと言えど全能者ではないことの証左だった。


「今です!」


 メートリアンの合図と塞がりかけていた浄界の穴が震え、歪み、亀裂を広げた。

 そのわずかな隙間をこじあけて、小さな猫姫の手引きによって招き入れられた脅威がクロウサー陣営に混乱をもたらした。

 半分は賭け。だが事前にあった家からの連絡とクロウサーの動きから可能性は高いと踏んでいた。ゆえにユディーアは符牒をちびニアに託したのだ。

 もう恥も外聞もない。

 手段を選ばず、ディスケイム陣営をこの場に呼び寄せることが唯一の解決手段だ。


(強大な来訪者には同格の来訪者をぶつけるしかない。あとはもう勝手に戦え!)


 浄界が割れる。ユディーアにとって懐かしくも忌まわしい古なじみたちがその場に現れ、クロウサーに牙を剥く。

 混迷を極める状況が更なる混乱に見舞われる。

 破局の渦の中心で、ユディーアは不敵に笑って見せた。

 つもりだったが、実際は自棄に近い。どうにでもなれの精神である。


「君を誤解していたよ、ユディーア。先ほどの評価を訂正しよう」


 押し寄せる呪力の波濤に押し流されていくイナータルゴを見下ろして小さく笑いながら、レメスがユディーアに声を掛ける。少しだけ楽しそうに。


「反抗できない娘かと思っていたが、やるじゃないか。君はやっぱりダーカンシェルの血を受け継いでいる。うん、悪くない」


 仮初の身体に浄界と軍勢と滅びの呪文が殺到し、レメスの幻像が乱れていく。

 中継しているイナータルゴがダメージを受けるにつれて遠ざかっていく神の気配が、最後にユディーアにだけ声を届けた。


「もうちょっと頑張ってごらん。もしこのぼくが恋するくらい素敵なところを見せてくれたら、特別にプレゼントをあげちゃおうかな」


 仮初の勝利に酔うことすら許さない、それは呪いのような祝福だった。

 魅入られるようなレメスの美貌が笑う。

 見入られている。ユディーアは、どういうわけかこの神に気に入られてしまった。


「天なるぼくから地なる支配者に、国家を統べる権利を授けよう。虹国ヴァルニア。大乱交アニマルランド。竜王国ガロアンディアン。名前は何だっていい。君は王を目指しなさい。資格があるものは競い合うべきだ。生存競争とは万人に与えられた原初の権利なのだから」


 神の気配が消えた。

 だというのに、ユディーアは身体の奥底に視線と熱を感じたままだった。

 レメスは紀人。世界に組み込まれた根本原理の一柱だ。

 ゆえに彼は遍在する。ユディーアの中にも、それは確かに存在している。


「また会おう、かわいいぼくのユディーア=ダーカンシェラ。君の失われた恋と偽りへの怒りは美しい。燃え残った灰のような欲望と殺意を心から応援しているよ」


 瞬く間の邂逅はユディーアの心に深い爪痕を残していた。

 恋情と殺意。

 焦がれるような喪失感情と、全てを灰にする攻撃衝動。

 レメスの言葉が意味するもの。

 それはユディーアが燻らせていたものが獣欲も同然であるという指摘だった。


(うるさい、黙れ、なんて口にできるか)


 傷痕は過去のものだ。失われた約束はもう戻らない。

 認めれば、気にし続けていることを意識してしまう。

 感情は塞いだ。そんなものはもう傷でもなんでもない。

 それでも、彼女は肉体から逃げられない。

 神々が祝福と呼ぶそれは、やはり呪いに違いなかった。




 レースは後半に差し掛かり、選手たちは夢の試練を越えつつある。

 物語的な位置エネルギーを再充填し終えた者から順に夜へと飛び立ち、機甲箒が次々と夢界コースへと漕ぎ出していった。

 ライラとレメスによって塗り替えられた朱色の夢は既に現実と地続きだ。

 かつて獣将国と呼ばれていたその大地は虹国ヴァルニア、あるいは大乱交アニマルランドという奇妙な呼び名そのままの姿に変貌を遂げていた。


 吼える、歌う、叫ぶ。

 嬌声の合唱、求愛の闘争、尾を重ねての舞踏、生命を求める動物たちの営みが天地を埋め尽くす大自然の日常。それらが淡い桃色の光によって彩られていく。

 悪い冗談のような世界はさながら夢魔ラハブが見せる淫夢のよう。

 どのくらいの酷さであるのかを具体的に描写すると、選手たちのビジュアルが白いおたまじゃくしに置き換わっていた。

 というより、どう見ても精子だった。

 ハグレスが絶望的な表情で呟く。


「終わりだ」


 ライラ・ラプスが恍惚とした表情で叫ぶ。


「ああ、お父さま! この時を一日千秋の想いで待ちわびておりました!」


 無論、選手たちがいきなり精子に変貌してしまったというわけではない。

 テキストベース・サーキットにおける記述という名の風、その『行間を読む』ことで読者がそのような解釈が導き出せるようになった、というだけのこと。

 そうなるように、ライラとレメスが誘導した。


 生命が躍動する獣たちの王国であるからこそ、このような解釈が成立する。

 次の森林ステージに移動すれば選手たちと機甲箒は風に舞う花粉や綿毛、あるいは鳥や虫といったテクストを与えられることだろう。

 ならばその次。『洞窟』では? 

 冥府において、生存競争とはどのように表現されるのか?


「最悪だ! ライラ、レメス! なぜ大人しくしていられないんだ!」


「愛は秩序より優先されるからです!」


「性欲だろうが! 混沌の生殖狂いどもめ!」


 激昂するハグレスの槍で命を砕かれながら、ライラは高らかに鳴いた。

 招集された『餓犬の軍勢』が空に架かる虹を伝って殺到する。

 数多の神々に姿を変幻させる万能の邪神は、百と一匹にも及ぶ獣たちと死闘を繰り広げながら舌打ちをした。ハグレスは負けないが、このままでは身動きがとれない。


 このままクロウサーを放置すれば『上』の秩序と風紀は崩壊する。

 そうなれば、かつてハグレスと大神院が歴史の闇に葬った暗黒の時代が蘇ってしまうだろう。それだけは阻止しなければならない。

 かつて強大な言語支配者として君臨したレメスとダーカンシェルは、文字通りに言語を掌握し、被支配者たちに『喋る権利』を与えた。

 獣に言葉を与え『悦ぶ動物』『愛を受け入れる動物』『都合の良い動物』を作る。

 それによって『一方的な動物性愛』を『愛のある営み』へと変質させたのだ。


「これぞ理想の世界! 私たち虹犬すべてにとっての福音です!」


「やりすぎたんだよ、君たちは!」


 そう、レメスとダーカンシェルの性欲はヤバすぎた。

 よってハグレスが動いた。

 疫病と性倫理と器物破損と窃盗と家畜文化の破壊と霊長類型の性癖の偏りと少子化をなんとかするために疫病の王カズキスとその息子ダーカンシェルを打倒し、クロウサー家と渡り合ってどうにかレメスの封印を成し遂げたのだ。


 ハグレスは思う。我ながら偉業であったと。

 少なくともあの瞬間、確かに彼は救世主であり世界の守護神であったはずだ。

 特にレメスの対処は難航した。ただでさえ強大な力を持っていた上に後ろ盾がクロウサーだ。しかしあのまま行けば虹犬で世界が埋めつくされそうだったしダーカンシェルを見習って他の動物にも手を出しそうだった。


 その当時、既にハグレスはダウザールとの友誼を結んでいた。

 彼とて友の息子を殺したり零落させたりはしたくない。

 その上で選んだ妥協案が列聖という名の封印処置だ。

 無尽蔵の生の欲動を抑えるために大量の死の欲動で相殺するという計画。

 天空御殿エクリーオベレッカに封印して、世界最大の性欲を抑え込むことでダウザールと合意した。その当時はどうにか説得できたと思っていたのだ。


 列聖して紀人として認めた上で、ハグレスはレメス当人から話を聞いて神としての役割を代行するメッセンジャーになることを申し出た。

 ハグレスとしては最大限の譲歩であったのだが、ダウザールは偽りの友情を演じながら密かに恨みを募らせていた。その結果が今回の裏切りに繋がったわけだ。

 

「これ僕は悪くないだろ? 親友の息子だからさ! かなり配慮したんだよ?!」


「まだ自分が善と正義の体現者だと信じているの? 可愛いわね、愚かな小神」


 犬の群れに気を取られていた神の背後から、声と同時に斬撃が迫る。

 咄嗟の防御と槍による迎撃。

 反射的に引き出された仕草がハグレスの輪郭をひとつに規定する。

 定まらないはずの姿が『旅慣れた軽装の少年』に固定されていた。


 糸を引き、柄と繋がった剣を手元に引き寄せながら襲撃者がせせら笑う。

 死の如き白皙の肌と高い鼻梁が印象的な女だった。

 銀の片翼をふわりと動かしながら、血のような瞳に殺気と歓喜を漲らせているのは、ハグレスにとって馴染み深い相手だ。


「クレアノーズ。下界に介入し過ぎじゃないか?」


「奇遇ね。同じ釘を刺しに来たの。お前を呪い殺したくなったから」


 挑発より先に空気が爆ぜる。

 刃がぶつかり合い、遥か天上で死闘が幕を開けた。



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