5-54 虹弓のレメス
湯気立ち上る温泉の風景が、より広大な海に呑み込まれて融け落ちる。
浄界の破綻。百目のクロウサー、イナータルゴによる調和さえ塗りつぶして、青い血が全てを呑み込んだ。
濁流の発生源はメートリアンの右目。
空っぽのトランクケースを前に、呆然とへたり込む白い少女のアストラル体に異変が起きていた。ユディーアのマテリアル体から一時的に幽体離脱していただけの不安定な存在だった彼女が、いまははっきりと自律した呪的生命に変化している。
あるいは『そういう種族になった』と言い換えることもできるかもしれない。
「え、なんですかこれ、私の身体がある?」
困惑するメートリアンはぺたぺたと素手で身体に触れている。
座り込んだ姿勢のままふわふわと浮かぶ半霊半物質の状態は空の民に近い。
だが、そうだとするとメートリアンは純粋なアストラル体から物質化したことになってしまう。普通ならあり得ない現象、それこそ紀神や紀人のなせる奇跡だ。
ユディーアは息を呑んだ。
いつのまにか加速浄界が解けて霧散し、軍勢たちの勢いが減じている。
その奇跡が何を意味しているのか、彼女は知っていた。
「ほんとうの、融血呪」
ドロドロのミックスでも、継ぎ接ぎのキメラでもない。
おそらく、最終段階の一歩手前。
二つの存在を掛け合わせることで別の物質に組み替えるという完成に限りなく近い領域。メートリアンが得意とする錬金術的な考え方をするなら、『
(あれはガルズだ。細胞の『右目』だった、最後のマウザ。どうして彼が? 何かを形にしようとしていた? けど何を? 国家? 種族? 言語? それとも別の何か? いったいどんな再定義を、いや、それよりも先に確認することがある)
「メートリアン、禁呪の代償は? 個我は安定してる? 記憶の混濁は? 肉体に変化を感じる? 何と混じったかわかるっ?」
「え、ええっ、何ですか急に」
物凄い剣幕で詰め寄るユディーアにたじたじになるメートリアン。
反応を見た感じだと、彼女自身も己の異変を把握しきれていない様子だ。
浮遊や実体化の他にも明らかな変化が生じているが、それは当人には知覚できない。だが、ユディーアはそれこそがこの変容の中心だと直観した。
メートリアンの右目。
その瞳は、マウザ・クロウサーの特徴である金眼と化していた。
(金の瞳。そうか、じゃあ自分の弱った霊体を吸収させる形で? ぶっつけ本番で成功させるなんて。何かの準備をしていなければ、いや待て、確か)
なぜトランクケースの中に『彼』がいたのか。謎めいた再生者の貴婦人はどうしてユディーアに託したのか。この状況は誰が仕組んだものなのか。
それらの謎は不明なままだが、ユディーアはかろうじて古い記憶を呼び起こし、現在の状況と結びつけることに成功した。
(骨の花。野心ぎらぎらだった頃のメートリアンがあたしたちを裏切ってフィリスを奪おうとした時に、途中で乱入してきたガルズ・マウザ・クロウサーの使い魔! 結局は負けちゃって、メートリアンの中に取り込まれたって話だったけど)
今にして思えば、妙な話だ。
タイミングもそうだが、あまりにもやり口が手ぬるい。曲がりなりにも『上』で有数の死霊術士であったガルズが、あの程度のちょっかいを出すために使い魔を差し向けて、ただ敗北したとでもいうのか?
(何かを仕込んでたの? この状況を見越して? まさか。そうじゃない、たぶん、リーナに近い位置にいるメートリアンに対する保険みたいな。真意まではわからないけれど、ガルズはメートリアンに何かをさせたがってる? それはなに?)
疑問を考え出すときりがないし、答えを知るのは死者だけだ。
ただし、この死者は問いかけに答えてくれる可能性がある。
ユディーアは覚悟を決めて過去視を試みる決意を固めた。重要な技能関係の
ユディーアは切り札のひとつを使って包囲を崩したが、これはその場しのぎでしかない。依然としてクロウサーの戦力は圧倒的だ。
「この、空気の読めぬ馬鹿どもがああああ!!」
温泉巨人ラドリンの裏切りによってチリアットに倒されたイナータルゴが起き上がり、無数の目を血走らせながら絶叫する。ユディーアは手の中で濡れた髪を握りしめようとしたが、呪物は力を失い灰になっていた。これでもうラドリンを支配することはできない。ユディーアの軍勢呪術・『
呪力の宿る髪房を切り落とすという行為そのものが『裏切り』であり『無力化』に繋がるという『
(なぜなら、勇士ユディーアの裏切りエピソードは故事成語レベルで常識になっている『神話』だから!
もう一度チャンスがあれば。
今度は使い魔にやらせるのではなく、自らの手で奴らの髪を切ることさえできれば、クロウサー家を裏切らせることも、無双の巨人を無力化することも可能だ。
勝算はある。あとはどうやって成功の道筋を見つけるかだ。
「大いなる意思に! 世界の必然に! なぜ抗おうとする!」
敵の気迫はこれまでにないほど苛烈であり、警戒心は最大級に膨れ上がっている。
更に悪いことに、激情に駆られたためなのか、これまで配下の支援に徹していたイナータルゴの浄界が完全な姿を現そうとしていた。
広がっていく光景は無数の情報が渦巻く書庫とスクリーンの融け合う奇景。
ここではないどこか。遠い戦場の空が、男の背後に展開された。
「真に偉大なものを知らぬから愚行を重ねる。本当の驚異を想像できぬから『自分こそが』などと思い上がる。私も! お前たちも! ダウザール様でさえ! 所詮は凡庸な超越者、ありきたりな神のイメージしか描けぬ凡夫に過ぎぬというのに!」
勢いあまって口を滑らせてしまった、不遜な発言。
というわけではなさそうだ。
イナータルゴは、おそらくクロウサー家の頂点であるダウザールを頂点とは見なしていない。なぜだろう。ユディーアはとてつもなく嫌な予感がした。
「空気を読め! 真理を悟れ! 神の奇跡を前に打ち震えろ! 変革の時は今なのだ! 古き大神院は崩れ、偽りの槍神は折れた! 最上位の紀神に至るべき我らが主人は復活の時を迎えようとしている! 見よ、我らが天を!」
恐らくは呪文も兼ねた長広舌を遮るためにチリアットが横槍を入れ、それを吹き荒れる風が妨げるという攻防が繰り広げられる。
クロウサーの手勢はまだ数多く残っている。牙の折れたチリアットだけでは厳しいと判断し、ユディーアは己の軍勢に命じてクロウサー陣営にぶつけた。
ユディーアは素早くメートリアンの手を引いて立たせると、耳に顔を近づけて内緒話をした。身体が縮んだ今となっては、身を屈める必要もない。
「メートリアン、移動の準備をしながら聞いて。その身体は空の民みたいな状態だけど、本質的には何かの
「は? 私が
「ああいや、
「ふわふわした説明ですが、何かの大呪術による作用ってことですね? この青い流体呪力の形からして、おそらくは融血呪がらみ」
「がらみっていうか、つまりそれ」
どうしても説明が抽象的になってしまうが、要約した結論はシンプルだ。
メートリアンは融血呪と適合している。それも、これまで濫用されてきた『失敗』ではなく、限りなく『成功』に近い形で。
「さっき湯気のお姉さんの温泉浄界を融かしたみたいに、青い血を操ってクロウサーの浄界に穴を開けることができるかもしれない。ぶっつけ本番で悪いんだけど、やってみてくれない?」
「無茶ぶりの不平を言っていられる状況じゃなさそうですね。いいですよ、やってやります。時間稼ぎは任せますからね!」
メートリアンの右目が黄金の光を宿して強く輝き始める。
ユディーアは極度の集中状態に置かれている仲間を守るために戦況を再確認するが、チリアットたちは優勢とは言い難かった。
上空で暴風が吹き荒れる。猪人と相対するイナータルゴは口から唾を飛ばす勢いで激情を風に乗せて叩きつけていた。
「私には物事の本質が見える。お前の業もだ、チリアット=アテンプレク」
それでいて、冷静さを失っているわけではない。
精神攻撃。多くの物事を『読める』がゆえに、イナータルゴはチリアットという男の心を言葉によって揺さぶることができた。
「お前を『下』の善き秩序は否定するだろう。ディスケイムもまた受け入れまい」
「戯言を!」
呪文への対抗策として『相手に付き合わない』というものがある。
問答無用の拳による対話拒否。暴力による呪文の破壊は、しかしより強大な暴力の持ち主であれば退けることが可能だ。
イナータルゴは、暴力によって呪文を押し通せる強者の側だった。
彼はクロウサー。その言葉は荒れ狂う嵐に等しい。
「そうかそうか。だから亜竜王の魂を宿す者を守っているのだな? ダーカンシェルの権能が目当てなのだろう? 『動物に魂を与える力』を!」
「違う!」
「違わぬよ。その業、その性癖では焦がれるのも無理はない! どうだ、いっそお前、こちらに来ないか? クロウサーは理解があるぞ! とりわけ我らディパーシュとプラパーシュはその道を突き詰めることを選んだ血統なのだから」
ユディーアは内心で首を傾げた。
自分に関係した話をしているようだが、意味がいまひとつ理解できない。
戦っている両者はそれを理解しているのだろうが、チリアットの強い否定の裏には焦りが見える。何か、知られたくない秘密でもあるのだろうか?
妙なのは、イナータルゴがそのことについて好意的な意思を示している点だ。
「私はお前が気に入ったぞチリアット。我らの真の主はお前のような者たちの救世主だ。天の御殿より彼が解き放たれた時、世界は変わる。お前たちを疎外し否定する世界は終わりを告げ、生命の可能性をどこまでも追求する新時代が幕を開けるのだ!」
牙と右腕を呪物として消費したチリアットの戦力は大幅に削られている。
マレブランケ有数の剛力と俊敏性を兼ね備えた牙猪であっても、イナータルゴほどの達人を相手に食い下がり続けることは難しい。
だが、チリアットが劣勢に陥りつつあるのはそういった理由よりではない。
揺れている。呪いのような言葉が、じわじわとその心を軋ませていた。
「お前の痛みが良く見えるぞ。叶わぬ恋の傷、醜い欲の毒」
「黙れ」
「魔将マーネロアであろう? お前の叶わぬ願い。歪んだ欲動の向かう先は」
「黙れっ!」
拳が弾かれ、神速は受け流される。
いまや場を掌握したイナータルゴは己の浄界で周囲を制圧した。
背後に広がる空は別の場所に繋がっている。
ここではない空を示しながら、男は誇らしげに叫んだ。
「我らの真なる主がいま現世に蘇る! 歴史的な光景を目に焼き付けろ!」
立体幻像のスクリーンに映し出されていたのは『上』の風景だった。
天上の秩序を司る二つの権力、大神院とクロウサー家の内紛。
空使い選定レースという新たな当主を選ぶ儀式とタイミングを合わせた、計画的なクーデター。武力行使によって陥落しつつある聖地だったが、槍神教を統べる枢機卿や聖人、聖典の写しである義人たちはいずれも巨人の階梯に到達した怪物だ。クロウサーが大戦力を動員しても簡単にはその厚みを崩すことはできない。
だが拮抗した戦況はクロウサー側の一手によって覆った。
上空から降り注いだ一条の光が、巨人の一体を貫いたのだ。
天空には逆さの城があり、そこから橋のような虹が伸びている。
全能を謳う巨人は、震えながら己の心臓に突き立った矢を凝視した。
「こ、この矢、まさか」
「ああ、見えたのかい? さだめの矢が。なら、弓を引いてあげないとね」
じゃらり、と鎖の音がした。
涼やかな声は戦場には似つかわしくない。優し気な響きは安堵さえ感じさせる。
直に耳にすれば、その音は眠気さえ誘うかもしれない。
全てを終わらせる、永遠の眠りを。
「やめろ、やめてくれ、確定させるなっ! 頼むレメス!」
「だめだよ。
矮小な術者であれば容易く踏み潰せるであろう巨人が必死に命乞いをするが、慈悲や慈愛といった言葉が似つかわしい声は柔らかに死を決定した。
城内から現れたのはサンダルと腰布だけを身につけた線の細い青年だ。
癖のある巻き毛、優しそうな垂れ目と長い睫毛、血色のいい頬、柔和な笑み。
気象現象たる巨大な虹そのものを弓として携えた男性は、楽器を鳴らすような優雅さで光の弦を長い指で爪弾いた。
「やめっ」
弓を引いた瞬間、命中していた矢が巨人を瞬く間に消滅させる。
現実を改変し、浄界という全能の領域を構築可能なはずの巨人は、矢による死を否定し、遠ざけようとしていたはずだ。
それなのに、虹弓の青年はちっぽけな全能など意にも介してない。
「
戦場にあることを忘れたかのように遠くを見る青年。
その麗しき姿を見上げる大神院の重鎮たちは混乱と恐怖のただ中にあった。
「あれはレメス、あのレメスだ!」「なんてことだ」「おわりだ」「やはりダウザールは約定に納得していたわけではなかった」「理不尽な!」「ではどうすればよかったのだ!」「やはりクロウサーなどを引き入れるべきでは」「そうしなければトロスはおろか聖地を奪還できなかったであろうが!」
槍神教という巨大な勢力が、たったひとりの男を恐れている。
あるいは、クロウサー家という巨大な陣営全体よりも。
この美しい紀人こそが真の恐怖であるかのように。
「すぐに封じろ! 今なら城に押し返せる! われらの総力をもってあの異常者を天の冥府に叩き返せ! 手遅れになる前に!!」
中心にいた巨人が叫び、世界有数の呪文使いたちが一斉に行動を開始する。
高位の神官たちが口にしているのは、広く知られているレメス神話。
目の前の現実を否認するように。呪文で世界を書き換えるために。
自分たちが広めた『神話』によって、実像を歪曲させようとしているのだ。
新しき神レメス。
それは弓を持つ虹の神であり、槍神教においては『聖人』や『守護天使』という位置づけがされている紀人位階の実在する高位呪術師である。
神話はこう語る。
レメスが虹犬種族を創り出したと。
『犬を素材に、虹と雲、雨上がりの泥から捏ね上げた』と。
「友よ。君と共に失われた『動物のことば』が恋しくてならない。ああ、ダーカンシェル。君が一緒にいてくれたなら。この愛をことばにできたのに」
いつの間にか、変化が起きていた。
レメス神と呼ばれていた青年の姿が、標準的な霊長類型から変わっていたのだ。
腰布に覆われていたはずの下半身の前方に、獣の姿がある。
遠目には、上半身が人で下半身が獣という神話にありがちな姿にも見えた。かつて草の民が人馬一体と語られてケンタウロスの幻想が生まれたように、レメスもまた似たような神話的性質を持つのだろうか?
青年の下半身はいつの間にか出現していた犬と一体化しているようだ。
それを見た大神院の巨人たちが焦り、絶叫する。
「奴め早すぎるぞ!」「うおおおお隠せ隠せ隠せええええ」「どこから召喚しおったあのうつけものめが!」「封印から解き放たれた途端にこれか?」「エクリーオベレッカは世界中の霊魂を束ねた奈落だぞ!」「絶対なるデストルドーによる封印でさえ、奴のリビドーの前には無力なのか」「疫病の始祖どもがまた増長するだろうが死ね!」
様子が、徐々におかしくなっていた。
映像を見ていたユディーアたちは当然、常識としてレメス神のことは知っている。
虹の代名詞であり、虹犬種族を示す『ヴァルレメス』という言葉は確かレメスの子とかレメスのしもべとかいうような意味合いであったはずだ。
常識で考えれば、神とは偉大な存在であるべきだろう。
人類の庇護者。強さと優しさを併せ持つ大いなるもの。
レメスは一見してそのイメージに当てはまっているようで、何かが違った。
「時代は変わったね。下界がずいぶんとよく見えるよ、槍のしもべたち。『殺せ、奪え、勝ち取れ』とは随分と穏当な表現だ。政治的正しさというやつかい?」
レメスは弓を引いていない。
だというのに、既に巨人たちは全員が矢で射貫かれていた。
愕然としつつも必死に抵抗を続ける超越者たち。
その抵抗を存在していないかのように涼しげに受け流しながら、美しい青年はとんでもない言葉を舌に乗せた。
「
瞬間、巨人たちが爆散した。
誰一人として抵抗できなかった。
上方勢力を支配していたはずの超越者たちは、ただ一柱の神に敗れたのだ。
レメスは腰を突き出し、胸を逸らせ、天を仰いだ。
前方に押し出された犬の身体が甲高い鳴き声を響かせる。
「そうさ! クロウサーこそ真の! 究極の意味での! 出生主義者だ! 誰も否定することはできない! 生まれること、可能性を有すること、祝福を与えられること! なあ君たち、シコシコ人間同士でなかよしごっこをしてるだけで本当に少子化問題を解決できると思ってるのかい!?」
ユディーアは空のスクリーンを見上げながら思った。
なんかやべー奴が出てきちゃったな、と。
「この世界の全人類に問い掛けるよ、人間だけでつまんないセックスしてるだっさい動物童貞って生きてる価値ある?! 可能性が先細りしてる種族、ちゃんと多様性を追求してる?!
おかしいと思ったんだよなあ、とユディーアはちびニアの目を覆いながらため息を吐いた。半獣タイプの形態は頭部にあたる部分から胴体が生えているのが普通だ。しかしレメスは腰から犬の全身が生えているように見えた。
というか、おそらく近くで見ればレメスの腰と犬の腰が繋がっているのがはっきりするはずだ。はっきりして欲しくないので、ユディーアの脳が自動的にケンタウロスなどを連想していたというのが真相だった。
つまり、レメスという紀人の正体はこうだ。
「久しぶりの外! 久しぶりの世界! 久しぶりのわんちゃん! かわいいかわいいどうぶつはみんな好きだけどやっぱりわんちゃんがいちばん! ああっ、あっあっ」
ユディーアの両手が塞がっていたので、メートリアンの両手がちびニアの耳を抑えてくれた。二人は顔を見合わせ、全く同じ感想を共有する。
「も~」「勘弁して下さい」
美しき青年神は超性欲をその身に宿した神話級の『犬好き』だったのだ。
神話らしい種族創造エピソードは、『子供にも聞かせることができる神話』に過ぎない。大神院による情報操作と歴史改変呪文が真実に蓋をしていたのだろう。
(ギャグみたいな奴だけど、やってることは破格だ)
呆れながらも、ユディーアはレメスが規格外の存在であることを理解していた。
種族が異なる人類と動物は子を為すことができない。
血統の実験場たる博物城においても、例外的な成功例が奇跡としてわずかに存在している程度。存命しているのは、魔将として名高いマーネロアただひとり。
ぱっと見は腰を振り、欲望を解放しているだけ。
だがレメスは極限の高みに到達した邪視者だ。
交雑不可能な獣との境界線を紀に到達するほどの確信で突破している。
邪視者の極点たる浄界、そして超リビドーによる『人類』呪文の詠唱により、虹犬という種族を生み出すという偉業さえ成し遂げた。
種族の創造さえも可能とする極限の性欲。
それがレメスという神の真実だった。
イナータルゴがそれを答えとして示そうとしたのがチリアットであることから、ユディーアはひとつの可能性に思い至る。
境界動物解放戦線。かつて彼女の父と共にチリアットが参加していたという、第八階層の魔将が率いる勢力。
チリアットは、なぜ自分の居場所を離れてしまったのだろうか。
もしかすると、それは。
「アテンプレク先生。マーネロアのことを、動物として見ていたの?」
振り返ったかつての師の目を見て、ユディーアは思った。
問うべきではない言葉というものが、世の中には確かに存在している。
恐怖に震える男から目を背け、ユディーアは天上の脅威を睨みつけた。
遠方での戦いは、この場には無縁であるようにも見える。
だが相手は紀人だ。現象、法則、概念に近い呪術そのもの。
距離など関係なく、世界そのものに対して影響を与えてしまう。
いま、この世界に満ちているのはこれまでにないほどの生殖圧だ。
溢れる
「混沌派の血脈。クロウサーの時代が始まろうとしている」
ディスケイムの一員であるユディーアにはわかるのだ。
レメスはクロウサーだ。
血統がどうこうではなく、存在そのものが『血脈』という概念を体現している。
そんなものが封印から解き放たれてしまった以上、世界は不可逆な変質を強いられるだろう。おそらく、選定レースにも影響してくるはずだ。
「おや、視界を繋げてくれているのはイナータルゴかな。久しぶりだ。相変わらず気が利くね。そっちに存在を届かせればいいのかな?」
案の定、男はこちらに干渉してきた。当然だ、そのためにイナータルゴは遠方の光景を見せていたのだから。ユディーアも軍勢を率いて妨害を続けてはいたが、態勢を立て直しつつあるクロウサー側の抵抗が激しく、相手の作戦を崩せない。
巨人の群れを踏み潰す、圧倒的な超越者が迫りつつある。
ぞわりと背筋が凍る感覚。
レメス神の目が、彼方からユディーアに向けられている。
目が合った。最悪だ。なかったことにしたい。
しかし、本当の悪夢はここからだった。
「おお、まさかそこにいるのは僕の親友、ダーカンシェルじゃないか?」
ユディーアを左右を見て、真正面を見て、該当者がひとりであることを確認する。
竜王国ガロアンディアンの建国者アルト。
彼の父祖は『動物に言語を与える』という権能の持ち主、ダーカンシェル神だ。
間違われる心当たりはあったものの、ユディーアは即座にとぼけることに決めた。
「いえ、人違いです」
「ではその血を受け継ぐ者だね! 親友の子孫は我が子も同然! 我が娘にして大親友ダーカンシェラよ、共にケモハーレムを築こう! 君には大乱交アニマルランドの女王となる資格がある! なるべきだ! なりなさい! もうなったよ!」
「嫌ですその資格は本当にいらない。変な名前もいらない」
「遠慮は不要さマイフレンド・シェラ! ああ、近くになつかしい土地が再現されているようだね! ようしそこは今から
レメスが手を一振りすると、遥か遠方の空間が撓み、一瞬で塗り替えられた。
恐るべきは浄界構築の練度だった。おそらく、この点においてレメスを上回る存在は世界の柱たる紀神や紀竜のみだろう。
彼が見ていたのは選定レースの次なるステージ、獣将国だ。
険しい渓谷や雄大な河川、広がる草原といった自然に満ちたステージは『下』の西方に広がる虹国ヴァルニアと融合していく。
広大無辺の大地はどこか牧歌的な色彩の絵本じみた夢と混ざり合い、龍脈に浸食された渓谷と呪力流の道は桃色の光に包まれて妙な雰囲気を醸し出す。
レースの流れはクロウサーが掌握し、サーキットは既にレメスの浄界と化した。
「そう、つまりはみんなが幸福になれる、
ユディーアはこれが世界の危機であることに気付きつつあった。
レメスが好き勝手に振る舞えば、クロウサーが世界を支配するとかそれどころではない事態が始まってしまう可能性があった。これに比べると今までのクロウサー家はまだしも穏当だったと思えてくるほどに、レメスという男は飛びぬけてヤバい。
(けど、考えようによってはこれはチャンスだ)
これほど規格外の存在がユディーアたちだけに注意を払っている状況というのは、逆に言えば相手の手が狭くなっているということでもある。
そしてなんということだろう。
ユディーアは、この悪化する一方の状況に対抗できそうな材料が手札に揃っていることに気付いていた。イナータルゴがここで自分たちを排除しようとしているのも、レメス神を呼び出して直接対決に持ち込もうとしているのも、その流れを読んでいるからこそなのだと今わかった。
「これ、冗談じゃないんですよね?」「どうかな~」「にあ、みえない!」
黄金に輝く
そしてレメスと同質の『動物に対する特権』を有した血統。
あとなんかこの世の理から外れた動物ならざる動物、猫。
世界の命運は、なんかユディーアたちに託された、らしい。
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