5-53 同病相憎む



 普段の第六階層はおおよそ広大な地底空洞の姿をしている。

 掌握者アルト・イヴニルがラフディの地底都市をイメージしたため、周囲を照らすものは発光する呪石や岩壁にへばりつく光苔といった仄かな自然光のみだ。

 だが少なくとも今はそれだけではない。階層の外周境界壁付近に転移してきたユディーアたちを照らすのは眩い文明の灯火だった。


 それらは巧みに人の心に付け入り、惑わし、呪縛する浄界の輝き。

 湯気に覆われた温泉、風船舞う遊園地、欲望渦巻く繁華街。

 三つの景色が交差する一点を、稲妻のように死の幻視が穿つ。

 気が付けばユディーアは巨躯の猪人ブルータに片腕で担がれていた。加速状態で疾駆したチリアット=アテンプレクが魅了浄界から彼女を救出したのだ。


「アテン、チリアット先生?! 怪我っ!」


「にあ~」


 鮮やかな救出劇の直後、チリアットが低く呻いて片膝を突く。

 同じく救出されていた小さなセリアック=ニアが猪人の手の中から這い出し、心配そうに腕をさする。ユディーアを抱えていた左腕の火傷と裂傷。背中にへばり付いた怨念呪詛。黒鱗に覆われた右拳の流血。男は見てわかる部分だけで三か所は負傷していた。


 主観的な感覚で時を止めたチリアットはユディーアとちびニアを救出すると同時に敵集団に攻撃を仕掛けていた。驚嘆すべきは敵の反応速度。

 加速したチリアットの攻撃に防御を合わせ、その上でカウンターを成功させている。温泉浄界の使い手に至ってはメートリアンの救出を阻止しており、彼女はアストラル体のまま温泉にぶくぶくと沈んでいた。


「俺の姫ちゃんに何してくれてんの? 死ねよ。『泡子爆弾ソープベイビーボム』」


 ホスト男が片手に纏わせた怨霊の群れを圧縮し、無造作に投擲した。

 ユディーアの曖昧になっていた記憶が正しければ、浄界に誘う際にネオレインとか名乗っていたはずだ。おそらくかなり古典的なタイプの死霊術士ネクロマンサー


 大量の赤子が愛を求めて泣き叫びながら殺到する。咄嗟に手近にあった物で攻撃を防いだ。同時にちびニアが飛び上がっており、そちらはバルへリオンとかいう男の風船鉄球バルーンハンマーによる軽くて重い一撃を逸らすことに成功していた。


 ユディーアに迫っていた大量の怨霊は恐らく祝福されなかった赤子たちの霊だろう。水子と呼ばれるタイプの怨霊をあえて積極的に使役することで呪いの量を増大させているのだろうが、それにしても強力に過ぎた。赤子の数がひたすら多いのだ。


 これは防ぎきれないか、とある程度のダメージを覚悟した時、奇妙なことが起きた。

 反射的に掲げて盾にした『あるもの』に、怨霊が吸い込まれていったのだ。

 耳を引き裂くような墓の下の夜鳴きが収まり、場に静寂が満ちる。

 ユディーアは即席の盾を凝視した。

 やけに軽いトランクケース。こんなものを、自分は持っていただろうか?


「何これ」


 ふと思い出す。謎めいた再生者の貴婦人が忘れていったものだ。

 メイファーラの銀貨を持って行ったあの人の、おそらくは何らかの呪い。

 理由もわからないのにつきまとう恐ろしい運命。

 もう眷属種を選んだ後か選ぶ前かといった年齢にまで後退したユディーアの細腕でも持てるほど軽いトランクケースに封じられた何かは、きっと想像以上に重いものだ。


「へえ? 死霊術系の呪具? ディスケイムの秘宝か塔の骨董品あたり? これでも俺、落ち目のマウザよりは強い自信あったんだけど、ショックだな~。まじへこむわ。姫ちゃんたちに慰めてもらお~っと」


 そう言ってネオレインが取り出したのはワインのボトルだった。

 開栓した途端、中から溢れ出したのは酒ではなく愛と呪い。

 着飾った女の怨霊が血まみれの包丁を握ってネオレインの名を連呼する。怨霊は大量の女の生首をまとめて掲げた。複数人の長い頭髪を握りしめた手は真っ赤に染まっている。


「ねえ他の女みんな殺したよ私が一番使えるでしょ私だけ見て私だけ私だけ私だけ」


「偉いね、素敵だよリアミン、えーとハミーだっけ? まあどっちでもいっか。姫の愛情、もっとちょうだい。俺、姫がいないと死にそうだよ。あの猪人が俺の邪魔するんだ」


「ネオレインのためならなんでもする誰でも殺すし何度でも堕ろす他の女は死ね死ね死ね」


 正気を喪失した怨霊が包丁を握りしめて絶叫する。片手で提げた多くの生首たちもまた似たような情念を滾らせており、自分たちを足蹴にした怨霊に呪詛を込めた視線を送っていた。呪いが呪いを喰らい、研ぎ澄まされた怨念が常人の霊体を怪物化させていた。


「『貢がせ蟲毒』って言うんだ。使い捨てだけどまだまだあるよ。便利だろ?」


「クズだね」


「その方が強いし儲かる」


 メートリアンならもっと強い罵倒を思いついただろうが、あいにくと彼女はまだ囚われの身だ。転生アプリによってユディーアのマテリアル体に定着しているわりに、メートリアンのアストラル体はやけに簡単に幽体離脱してしまった。恐らく彼女の独立した精神性と今後の呪術行使のための布石だろうが、それが裏目に出た形になる。


 厄介なことにラドリンという女の温泉浄界は時間経過と共にメートリアンのアストラル体を溶かしているように見える。固定型の浄界なら逃げられる心配はないだろうが、長時間放置しておけば取り返しがつかないことになるかもしれなかった。

 色々と気になることはあるが、どうにかして彼女を助け出さなければならない。


 だが温泉女のラドリンに辿り着くよりも前に、風船使いのバルへリオンとホスト死霊術士のネオレインから妨害されることは確実だ。その上、周囲を見れば遊園地のキャストやホストに扮した呪術師たちが大勢でこちらを取り囲んでいる。

 それだけではない。現実改変能力者である第六階梯の高位呪術師、いわゆる『達人アデプト級』と呼ばれる使い手が浄界使いの三人以外にも控えている。


「やはり擬死か。見えていたぞ、マレブランケのチリアット」


 大小の百目を禿頭に貼り付けた壮年男性。イナータルゴと呼ばれていた空の民が、胡坐の姿勢で上空に浮遊している。

 金を除く色とりどりの視線がこちらを睨みつけた。

 見た限りでは邪視特化型、おそらくはユディーア以上の知覚能力だろう。


「今なら交戦を無かったことにもできる。我らもガロアンディアンとの不必要な対立は避けておきたい立場だ。そのディスケイムの巫女を置いて去れ、チリアット」


「断る」


「強固な決意。過去の後悔に起因するもの。別の対象への友愛を投影、血縁者、なるほど父親との交友関係、ならばこいつもディスケイムか。冥府への親和性から見てティーアードゥ型の二次加護持ちの天眼猪人。牙猪の特性は死の直視。恐怖を誘発条件にした三眼瞬知が得意技だな。お前たち、殺意を消せ。手足は折ってもいい。呪術による捕縛に切り替える」


 交渉に見せかけた軽い『仕掛け』。

 帰ってきた反応だけで対象の中身を瞬時に丸裸にしたイナータルゴはチリアットの『追い込まれるほど加速する』という特性を即座に潰してきた。

 男が手を振り下ろした途端、周囲に控えていた数十人の呪術師たちが一斉に『空圧』や『螺旋』を掃射。低威力だが速度のある呪術でこちらにプレッシャーをかけつつ、バルへリオンとネオレインの猛攻が迫る。


 ちびニアが香水によって強化された『霧の防壁』を展開して攻撃を減衰させている間に、チリアットの右腕に寄生している黒亜竜ダエモデクが活性化。黒い竜の頭部が鎌首をもたげ、ユディーアと息を揃えて『吐息ブレス』を解き放つ。


 広域呪文によって敵集団をまとめて蹴散らしたが、負傷した者たちは取り出した水薬を飲んで即座に回復している。霊薬にしたって異常な治癒速度だ。もはや時間の巻き戻しや現実改変型の治癒術に近い。謎の水を飲み干しながら得意げにネオレインが言った。


「無駄だよ。クラウビューラさんの水素水ポーションがあるから俺らは不死身なわけ」


「くそ、メートリアンが正気なら突っ込んでくれそうなのに!」


 自分でもよくわからないまま相手の理不尽さに憤り、ユディーアは若干だぼっとしたサイズ感の袖の中で拳を握った。いつのまにか短槍を無くしているし、この状況では吐息や鉤爪を出し惜しみするわけにはいかない。


 しかし問題はアルティウスにかけられた幼児化の呪いだ。おそらく、亜竜としての特性を思い出すたびにユディーアの魂は『前世』に引きずられていくだろう。これ以上縮めば戦闘どころか逃走さえままならなくなる。


 どうにかして戦いを回避したいが、メートリアンを見捨てるわけにはいかない。

 迷いに心が揺れる中、ユディーアのジレンマを見透かすようにチリアットが厳しい口調で提案してきた。


「ユディーア様。この場を離脱してディスケイムの陣に逃れましょう」


「来てるの?!」


 背中合わせで攻撃を防ぎながら、ユディーアは驚きのあまり一瞬だけ手を止めてしまった。途端、加減された呪詛と捕縛バインド呪文が直撃。持ち前の剛力と気合で即座に砕く。呪術の才に恵まれた血統作品でなければ今ので行動不能になっていたところだ。

 自覚してうんざりする。すぐ近くまで『同類』や『管理者』たちが来ているのだ。


「階層間を移動する際に特有の彩域紋が視認できました。この連中はディスケイム式の色号術を感知して偵察に来たクロウサーの部隊と思われます」


 つまりユディーアたちが襲撃されたのはそのとばっちりとも言える。

 だんだん腹が立ってきた。見えない所で勝手に潰し合ってくれればよかったのに。


「転移門や大階段は遠く、この集団を正面から撃破するのは難しい。今はディスケイムの庇護下に入るのが最善です。合図をしたら私の加速域に入って下さい」


 意図的にメートリアンに言及しなかったチリアットを責めることはできない。彼には彼の優先順位がある。だからといって受け入れることもできないが。

 反論しようとして、ふと盾代わりに使っていたトランクケースに視線を移す。


 思わず動きが止まる。無防備なユディーアにネオレインの怨霊が刃を振り下ろしてくるが、あっさりと空振りした。物質霊である呪われた包丁が即座に解呪されて消失し、複数の生首が反旗を翻して怨霊を喰らう。一塊の怨霊呪弾ゴーストミサイルとなって解き放たれ、水子の怨霊たちの制御を次々と奪って術者に呪いを返す。


 使役していたはずの怨霊たちに群がられ、絶叫しながら地面を転がりまわるホストを呆然と眺める。恨みを的確に浄化され、怨霊化したアストラル体が個我を取り戻している。死霊術士の支配下にある怨霊のコントロールを奪取するなど、普通なら考えられない離れ業だ。


「え、何? このケースを温泉に入れればいいの?」


 言語化されたわけではないが、何かの意思を確かにユディーアは感じ取っていた。

 このトランクケースの中にはとんでもない秘密が隠されている。

 それを理解したのはこちらだけではなかった。上空でイナータルゴが叫ぶ。


「何だ、読めん。この私が読めないというのがまずい。優先目標にあのトランクケースを追加だ。亜竜人と共にあれを奪取せよ。『開門』による死霊術は厳禁とする!」


 激化する敵の攻撃。殺意があれば即座に圧殺されているところだが、チリアットの存在があるため攻め手は緩い。そのおかげで彼は牙を抜かれてしまっているわけだが。

 ユディーアはふと思いついてだぼだぼの袖の中に隠していた指先で貫手の形を作る。


「メートリアンを見捨てられるわけない! ひとりで逃げて! さもなくば死ね!」


 怒則気上。点穴による感情制御で激昂し、発生した本気の殺意をチリアットに叩きつけた。死の恐怖に怯えた牙猪の目が血走り、彼の体感時間が引き伸ばされていく。

 三眼瞬知。超加速状態に突入したチリアットが疾走する。

 逃走はしない。ユディーアの意を汲んだ彼が目指すのは、温泉浄界の中だ。


 ラドリンが操る高熱蒸気の『霧の防壁』を掻い潜り、温泉に飛び込もうと跳躍したチリアット。だが次の瞬間、彼は強烈な『空圧』を受けて吹き飛ばされていた。

 同じ速度域だ。ユディーアは思わず目を瞠った。百目の男イナータルゴが、チリアットと全く同じ加速倍率で行動している。


「チリアット。なるほどまことの名は『アテンプレク・ディスケイム』。ガロアンディアンに潜んだ間諜、ではないな。そこにいる紀竜の器を護衛しているのか?」


 無数の目がぎょろぎょろとせわしなく動き、周囲の何もない空間から何かを読み取っている。イナータルゴは天眼による三眼瞬知の使い手なのか? ユディーアは即座に違うと判断した。この男は時間差で走り出そうとしたユディーアの加速域にも同調し、その上でチリアットとユディーアという異なる世界観を矛盾なく調和させている。


 浄界と浄界の融合。だが双方の性質がそのままである以上、むしろ溶接とでも形容するのが適当だろうか。敵の邪視者たちが同時に浄界を使えていたのは同じ血族だからという相性の良さもあるだろうが、それ以上にこのイナータルゴという男の術に違いない。

 よく観察すれば、本来なら鬩ぎ合うはずの浄界の境界面が未知の力場に覆われているように見える。恐らくはあれがイナータルゴの浄界だ。


 詳しいロジックはわからないが、浄界と浄界を溶接するような繊細な離れ業を実現するためには幾つもの条件をクリアしなければならないはず。個々の世界観を破綻させないように庇護浄界で境界部分を包み込んでいるのだろう。


 確かなことがひとつ。

 イナータルゴは浄界に対しての『加工技術』を持っている。

 それはつまり、敵対者の浄界に対して優位性を持つということでもあった。

 この男には加速術が通用しない。


「一度、じっくりと観察させてもらった。汎用浄界がベースとなれば干渉は容易い」


 即座に態勢を立て直し、二人がかりで挟撃を試みる。

 静止時空の内部ゆえにイナータルゴは孤立無援だ。

 しかし百目の男は空中に静止したまま紫電を迸らせ、チリアットの拳とユディーアの貫手を軽々と回避していた。


 『神経支配インナーベイト』の呪術だ。生体電流の制御を行うことで自己の反応速度を強化する術だが、熟達した使い手は接触した生物の支配さえ可能とする。

 わずかな接触で二人は敵の支配下に置かれた。貫手がチリアットの脇腹に深く突き刺さり、黒い亜竜の腕が小さなユディーアの胴体に直撃、大きく吹っ飛ばす。倒れた二人を襲う痺れと硬直、筋肉を己の意思で動かすことができず、時折びくんと身体が跳ねる。

 イナータルゴは二人を見下ろしながら口を開く。


「ダウザール様はこの段階でのディスケイムとの全面対決は避けるべきというお考えだ。ガロアンディアンとの関係を踏まえるとここでチリアットと戦うことも望ましくはない」


 圧力。まじないを唱えるまでもなく、目が口ほどにものを言う。

 表情、口調、場の雰囲気。男が支配するのはそうした見えない何かだ。

 無数の目がせわしなく読み取っているのは、ただの空気ではない。

 イナータルゴの頭部周辺で大気が揺らぐ。浮かび上がってきたのは、膨大な情報の渦だ。


「私は空気が読める方でな。非言語的な関係性の気流、その乱雑さを魔導書化できる」


 無数の眼球が爛々と輝くと大気が物質化していく。

 それは書物のページだった。周囲の空間にびっしりと文字列が出現し、絶え間なく変動し続ける情報の乱流を片端から百目が処理している。


「より巨視的な観点から『事象の流れ』を読み解いても結論は同じだ。ここではお前たちを見逃すのが正しい。癌になりうるミルーニャ・アルタネイフと理解不能なトランクケースを確保できれば良い。お前たちは放置し、我らはここで撤退するのが最善だろう」


 欲を言えば欲しい、という言外の言葉を視線に滲ませながらユディーアに絡みつくような束縛邪視が押し付けられる。血統に価値を見出すクロウサーは、大断絶より前の時代には敵対するディスケイム家の血統作品を抗争の過程で強奪してきたという。あるいはこの男はそういう野蛮な時代の生き残りなのかもしれない。


「だが、私は理性に逆らいあえて空気を読まないことにする。お前たちは捕縛し、私の管理下で封印する。状況に介入できないまま祝祭期間は眠っていろ」


 反論したいが舌が動かない。隠している切り札は幾つかあるが身動きがとれない状態では成功率が低い。呪文が紡げない以上、肉体に由来する呪術を使うしかない。

 鉤爪か吐息。あるいは血と銀貨。いずれにしても幼児化のリスクを伴う。


「論理的な理由などない。ただの勘だ。お前たちを放置しておくのは良くないと思った。我らディパーシュ家の気風に合わせればこの場では交戦と略奪が正解だった。それだけの話だ、分かってくれるな?」


 喋りながらもイナータルゴは淀みなく束縛呪術を組み上げ、ユディーアとチリアットを封じ込めていく。これが終われば加速浄界の外で戦っているちびニアも囚われ、メートリアンは温泉の中で取り返しのつかないことになってしまうだろう。

 やるしかない。自分の身がどうなるとしても、こんな形で友達を失うのは嫌だった。


「ダウザール様からのお叱りは甘んじて受けよう。だがクラウビューラ様ならば分かってくれるはずだ。そもそも我らは、本来なら対ディスケイム要員なのだからな」


 独断専行の言い訳もまた個我を強固なものとするための自己暗示だったのだろう。

 イナータルゴの周囲で渦巻く文字列の風と浄界を覆う浄界が触手のように伸びてユディーアの周囲に絡みつき、じりじりと溶解させていく。封印儀式が始まったのだ。

 同調を迫る無言の圧力。言語化されないはずの暗黙の了解が大気の魔導書という形で具象化し、ユディーアの思考を支配するための呪文として瞳の中に流し込まれていく。


「さあ、空気を読め」


 イナータルゴの言葉はどこまでも重く圧し掛かり、ユディーアの自由意思を徐々に奪っていく。彼の浄界に包まれたものが視界に入った。

 青い。それは流動する血液。虚空から溢れ、万物の境界を融かしていく世界の流血。


「そして紀なる光よ、形を成せ! 平伏せよ、世界を束ねるクロウサーの融血呪に!」


 そう、この青い血はトライデントの禁呪である融血呪。

 などでは、断じてない。

 ユディーアにとっては耐えがたい侮辱だった。クロウサーの愚劣さと傲慢さ、欺瞞を欺瞞のまま利用しているセレクティフィレクティへの怒りが湧き上がる。


 こんな一方的な支配と同化を融血呪と見なして実行するのは、言震ワードクェイクで大切な価値を毀損するために黒血呪を使うようなものだ。

 ありえないほどの本末転倒であり、本質からの逸脱でもある。


 確信した。やはりクロウサーに救世主の守護者たる資格はない。少なくとも、青い血をこうやって使う連中にトリアイナを『正しく導く』なんて無理だ。

 ユディーアがそうであるように。

 胸に灯る怒りと憎しみは、己の心まで焼いている。ひどい自己嫌悪。最低な自分と同類であるのなら、こいつらはきっとろくでもない。そんな価値判断しかできない自分が惨めでしょうがなかった。それでも、この不快感は紛れもない真実だ。


 もはや躊躇している時間はない。覚悟を決めて祖霊を参照し、先祖返りと同時に完全な亜竜人形態に変身しようとしたその時だった。

 すぐ近くに倒れていたチリアットが、腹の底から響くような咆哮を轟かせる。


「ここで、立ち上がれずに、何がヴァラーハかぁっ!!」


 漆黒の右腕が膨張し、本体からは独立した動きでチリアットの口の中に突っ込んだ。

 即座に自切。高位の亜竜人は髪の毛や牙、爪、尾を呪物として扱うが、時には痛みを堪えながら眼球や腕さえも生贄に呪術を実行する。かつて黒き痩せ竜ダエモデクは誰よりもそれを得意としていた。


 反射的な嚥下。生体義肢の血肉を取り込んだ途端、猪人の全身に力が漲る。

 止めようとしたイナータルゴの動きが停止。真下から迫り出した大地が百目の男の尻を強烈に突き上げる。身体の軽い空の民はたまらずに上空へと打ち上げられていく。


 見れば、チリアットは倒れた状態で下顎から伸びた牙を大地に突き刺していた。四肢が動かせない状態でも自由に呪力を込められる部位。それが牙や角や爪だ。

 牙猪の反り返った四本の牙は、彼らの視覚型邪視と深く結びついている。

 死を直視する邪視。冥府と結びついたその力は、冥界として解釈できる第六階層の大地への干渉を可能とした。代償として牙の一本が砕け散る。


 大地の操作という隠し技を見せたチリアットは呪縛を強引に破壊し、迷わずに己の下顎に残ったもう一本の牙を折り、ユディーアに向けて投擲。虚空で火花を散らして大気が焼き焦げていく。衝撃の後、同調を強いる無形の魔導書が霧散。


「空気を読まない男め」


 天井近くから反転したイナータルゴが高速で落下してくる。

 降り注ぐ突風と紫電を避けながら、ユディーアたちは視線を交わす。

 この場からの脱出を主張していたチリアットだが、もはやユディーアを説得するつもりはないようだった。理性的な判断ではなく、彼もまた直感を信じて行動している。


「行きなさい! 友を助けられぬ後悔など、背負う必要はない!」


 あるいは、それはユディーアの父親に対する想いが言わせた言葉であったのか。

 分からぬまま少女は頷き、それぞれが動き出す。

 チリアットは上空のイナータルゴを迎撃しに。

 ユディーアはメートリアンが囚われている温泉の方に。


 それを見越していたイナータルゴは既に手を打っていた。湯気に覆い隠された女の周囲を浄界が覆い尽くし、加速時空と温泉浄界が溶接されていく。

 大量の情報が大気に刻まれたページとなって裸身の女に叩きつけられた。即座に状況を把握した空の民は豊満な肉体を膨張させ、雲の巨人となって立ちはだかる。


 高熱の蒸気と沸騰寸前の温水を自在に操る巨人に対して、ユディーアは即座に切り札のひとつを用いることに決めた。

 ユディーアという個を特徴づけるサイドテールの髪房を、伸ばした指を一閃させて切り落とす。髪は呪物で、角は誇りだ。


「来たれ我が軍勢レギオン。『勇士サムソンの髪秤』!!」


 天眼の民に伝わる汎用軍勢術『ジャスマリシュ傭兵団』は神への誓願と兵士たちへの正当な対価の支払い契約によって集団に呪的権威を与えるというもので、各地の民間軍事会社や小国の契約部隊がよく使用する呪術だ。


 ユディーアの軍勢はそのようなまっとうな使い魔の倫理を無視している。

 かつて戦乙女ユディーアは紀神シャルマキヒュを裏切り、聖妃レストロオセに忠誠を捧げるために髪房を切り落としてその証とした。

 ゆえにこれは裏切りの契約。

 正義に背き、新たな主君に仕えるための心変わり。


 『裏切りの戦乙女ユディーア』の権能が時空を超えて勇士たちを召喚。

 その場に輝く召喚円が次々と現れ、真下からせり上がるように人影が形を作っていく。

 銀貨で支配していた使い魔たちを一挙に召集したのだ。


 この軍勢召喚は伝統的な傭兵契約とは似て非なるもの。力を宿した銀貨を渡した上で、その中には裏切りの呪いを仕込んでおくという悪辣なる罠。自分を除いた任意の対象を裏切らせ、支配し、自在に呼び出して操るというユディーア最大の切り札のひとつ。


「屑には屑を。クロウサー流にはディスケイム流で対抗するよ」


 手放していた銀貨は『報復』『空圧』『安らぎ』『生命吸収』『殺戮』『凍視』『灰神干渉』『過去視』『言理の妖精』そして『メイファーラ』の十枚。大半は手放した直後に再習得したのでさして困っていなかったが、軍勢召集によって至近距離で支配下に置けばこれまでに積み重ねた経験値が戻ってくる。呪術の精度と習熟度が格段に増すのを感じた。


 呼び出したのは迷宮刑罰者集団『ゴーリーズ』のメンバーが二人、レナリアの配下が二人、探索者のジュティアとミナ、クロウとオーテスの八人。

 ティリビナ人のダルヤルだけは支配しないという誓約呪文があるため不在。

 死者もいるが関係ない。ここは冥府だ。戦乙女は勇猛な魂であれば屍だろうと抱きしめて戦場に誘い、共に戦うことを強いる猛々しき花嫁たちである。


 困惑する彼らの自由意志を奪って強制的に支配下に置く。彼ら本来の意思や真の主など関係なく、ユディーアの権能は強制的に銀貨を手にした者を裏切りに走らせる。

 そして、それさえこの軍勢の本領ではない。


 『裏切り』とは関係性に対する破壊と再生。神話伝承と呪術の古典的ルールに基づいた髪房を巡る再演儀式。誓約と契約。関係性を拡張する使い魔の奥義は、『裏切り』の対象を強制的に拡張することができる。


 高温の蒸気や熱湯による火傷にも怯まず、無双の英雄たちが巨人に挑む。

 ユディーアの支配下にある軍勢は彼女の加速時空で当然のように動けていた。

 というより、強制的にユディーアの世界観に同調させられているのだ。

 

 巨人化できる第七階梯の怪物には劣るとはいえ、ユディーアが操る探索者たちの中には第六階梯の達人が複数混じっている。そこにユディーアの援護が加わったことで力関係の天秤が傾く。死霊と成り果てたミナは純粋な炎天使への新生を始めており、ジュティアは邪神の呪縛から解き放たれ妖精神との正しい親和性を取り戻しつつある。ミナは真正面から巨人と打ち合う力強さを発揮し、燃える槍を振り下ろして巨人を引き裂いた。続けてジュティアが放った邪視の魔弾が巨大な女の顔を掠めて濡れ髪を穿つ。


「調子に乗らないで! 『アルファレイ・バースト』!!」


 劣勢を覆すべく切り札らしき呪術を放つ湯気の巨人ラドリンは愕然と目を見開いた。

 必殺の呪術があらぬ方向に飛んでいったからだ。

 それも、離れた位置でチリアットと死闘を繰り広げていたイナータルゴの背に直撃するという最悪の形で。


「なぜ裏切る、ラドリン?!」


「ちがっ、私はっ」


 ありえない援護射撃に助けられたチリアットの剛腕が百目男の顔面を捉えるのと同時、ユディーアの口から咆哮として放たれた『空圧』が巨人の女を吹き散らす。

 使い魔に回収させた巨人の濡れ髪を握ったまま、ユディーアはトランクケースを鳥人クロウから受け取る。既に遮るものはない。

 走り寄る時間も惜しく、そのまま振りかぶって投擲した。


 砕け散った水面が波紋を広げていく。

 謎めいたトランクケースが温泉の中に沈み込み、メートリアンのアストラル体に接触。

 その瞬間、封印されていたケースがあっさりと開いた。

 内側から溢れたのは金色の輝き。燐光がわずかな間だけ水中に広がり、そして消える。


 やや時間を置いて、メートリアンの閉ざされていた瞼がゆっくりと水中で開かれた。

 白い少女の右目から、どろりとした青い血が溢れ出す。

 周囲の全てを侵し、取り込み、融かすために。




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