5-52 ピットイン




 テキストベース・サーキットにおけるピットインとは何か。

 普通の箒レースなら機体の整備、部品の交換、燃料の補充が行われる。

 しかし、この場で最重要視されるのは『文脈の充填』である。

 勝つ流れを生み出すため、選手たちはここで『自身の物語』を練り上げる。


 個人としての勝利の布石。

 自分こそが主人公であるという確信を現実に変えるための準備を行うのだ。

 虫王の庭におけるレースはリーナ・ゾラ・クロウサーの優勢で終わった。

 後続グループの追い上げは激しく、ビルメーヤとダウザールの競り合い、追い上げるパーンとファーガストの黒風争奪戦、不可解な大回りルートで再び最下位に転落したジーゼロなど幾つもの波乱がありつつもリーナの圧倒的な優位は揺るがないまま。


 長丁場のレースによって祝祭二日目の午後は瞬く間に過ぎていく。

 本来ならば選手たちはここで中継整備所に一時的に機体を預け、夜を徹して精神を苛め抜く過酷な夢界レースにアストラル体で参加することになっていた。

 だが、その予定はライラによる夢界拡大によって変更を余儀なくされてしまう。


 主催者側の公式発表は『演出の一環』『突発的な異変への対応力を問われる試練』というものだったが、現実と夢の融合という異常事態は些細な違和感や辻褄合わせの説明を覆い隠すほどに常識を破壊していた。誰もが現実感と時間の感覚を喪失し、微睡むように新たなステージでのレースが幕を開ける。


 夢のレースとは精神の飛翔。

 ここで選手たちが直面するのは心の強さを問われる試練だ。

 曖昧模糊とした朱色の雲を抜けていった先に、個々の精神世界が現れる。

 それは過去のトラウマであったり、未来への不安であったり、漠然とした恐れであったりする様々な脅威のイメージだ。


 緑天主ロードデンドロンは背後や足元から追い縋り、手足に絡みつこうとする蔦や茨から必死になって逃れようとしていた。

 威力竜巫女マルガリータは機械仕掛けの偽紀竜型重機オルガンローデによって老朽化した威力竜の寺院が取り壊される光景を見せつけられていた。止めようとするが、背後から現れた男に邪魔をされる。嫌らしい笑みを浮かべるパーンを、憎悪のまなざしで睨む。


 幻影のパーンと離れた場所では、選手である本物のパーンがダウザールと熾烈な争いを繰り広げ、一方で本物のダウザールは藍の天主と相対し、双子の魔女が使役する九柱の召喚獣たちの猛攻をぎりぎりの所で凌いでいた。その少し後ろで転生を果たした謎の魔女ビルメーヤがダウザールを睨みつけると、その背中に女性らしき半透明のシルエットが重なる。


 自分が廃棄される立体幻像呪文を周囲に展開しつつ、その内側では炎に包まれる亜大陸と殺し合う黒檀の民とティリビナ人という悪夢を見るジーゼロ。半身を削り取られる痛みに呻くエンハとナックスの兄弟。生まれた時から一緒にいたはずの愛馬が姿を消して取り乱すファーガスト。博打で全財産を失い、酒に溺れて妻と娘に暴力を振るったあと自己嫌悪に苛まれるクリーナー。


 そしてゾラの一族に生まれたにもかかわらず非才であったことを責められ、追い詰められた挙句に薬物注射ドーピングに頼った過去を見せつけられるリーナ。

 観客たちは選手たちが残酷な過去に苛まれる光景を固唾を吞んで見守る。

 その試練を乗り越えてくれるだろう、という期待を込めて。


「でもこれはお芝居だったわ。少なくとも、この分岐では既にレースは破綻していたの」


 十字の視線が夢の世界を見下ろし、冷ややかに断定した。

 全てが曖昧なこの空間にあって、小柄な身体を白い祭服で包んだ少女は不思議なほどに馴染んでいる。普段の姿が儚げでどこかに消えてしまいそうだから、というわけではないだろうが、朱色に霞む中空に漂う姿はなんだか元から夢の世界の住人であったかのようだ。

 私は、意を決して口を開く。 


「みんなが見ているのがそれぞれの過去とかトラウマみたいなのを総合した『そういう演出』なのは理解したよ。けど、それならさっき私が視たのは、なに?」


「あなたの運命。わかっているでしょう、アズーリア」


 先読みの聖女クナータの言葉は、いつもの彼女と違ってひどく直截的だ。

 そう、内容は理解できる。理解できないのはその意味だ。

 私はライラに巻き込まれてハグレスと戦うことになった。

 そこまでの経緯は覚えているけれど、そこからの流れがふわふわしている。

 まるで、記憶が丸ごと入れ替わってしまったみたい。


 実際のところ、私は戦力としてはほとんど不要だった。

 現実でのリーナ大活躍の影響でハグレスは大きく弱体化。クロウサーとして名乗りを上げたライラとダウザールにあっさりと追い詰められて、色々と抵抗はしていたみたいだけど最後には逃げ出してしまった。


 それでも複数の化身に分かれて四方八方に散らばったからとりあえずみんなで追いかけたけど、分裂したせいで更に弱体化したハグレスはお話にならないくらい弱かった。私の仕事は偽マロゾロンドになったハグレスをぷちっとやっつけておしまい。もうやった下りだから詳細は語るまでもない。相手が神を騙る悪魔だとわかればこんなものだ。


 問題はそのあと。

 クロウサー家が総力を挙げて動いたとなれば地上の情勢は大きく変化するだろう。

 既にハグレスの命運は尽きたと見ていいだろうけど、大神院や松明の騎士団がこれからどうなるのか、情勢を見極める必要がある。そう考えた私はいちど夢の世界から脱出しようとして、突然『ふらっ』とした感覚に襲われた。


 私はそこで、長い夢を見せられていた気がする。

 誰によって?

 唐突に現れた、クナータによって。

 どうして?

 それは彼女が、この事態に深く関わっている人物だから。


 私はそうして歴史と幻想が織りなす事実と虚飾の物語に誘われていった。

 第九階層の鈴国ジャッフハリムの旅。私とクナータは共に世界槍を歩んだ。

 果てなき矛盾史回想の果てに目にしたのはアイスナインの最深層。

 封じられた火竜メルトバーズの帝城。

 そして、メクセトの真実。


 千の英雄。三十一の魔女。無名の錬金術師。

 獅子王亡き中原を征服した栄光の英雄軍ゲルベークゼト

 その中でも特別な役割を持つ、中核たる五人の将。

 最初の魔将たちメクセス


 筆頭魔女である藍の天主。

 クロウサーの覇王ダウザールの子。

 リーヴァリオンの翼、生命の美を司るテテリビナ。

 ディスケイムの古老、地の元魔。

 そして氷の三叉槍を持つ仮面の槍士。


「あの景色は、何だったの?」


「来訪者たちの過去。そして、この祝祭はその再演」


 クナータは私にこの情報を与えることで、何かをさせたがっているようだ。

 けれど、その何かがわからない。

 この秘密は、私ひとりの身には大きすぎる。

 けれどこの聖女には確信があるみたいに見えた。


 おそらく彼女が欲しているのは私の左手に宿る寄生異獣、そして第一の魔将と呼ばれているフィリスのはず。だとしたら、いったい何を語り直そうとしているのだろうか?

 未来を過去として回想する全知にも等しい予見者が、わざわざ私の呪文を使って解釈をやり直したい過去があるとは思えない。そもそも彼女の過去はまだ見ぬ未来のはず。


「あっ」


 そこまで考えて、ひとつの可能性に行き当たってしまった。

 同時に疑問が浮かぶ。

 可能なのか、そんなことが?

 だが、フィリスとクナータの組み合わせならあるいは、ということも考えられる。

 言理の妖精が世界中に広がったとはいえ、『核心』は私の寄生異獣として同化したままだ。私が紀元槍の制御盤としてフィリスを運用すれば不可能は可能になるかもしれない。


「アズーリア。誰よりもフィリスと親和しているあなたにしか頼めないの。どうか、その呪文でわたしの一生のお願いを叶えて」


「お願いって、なに?」


 この状況でわざわざ接触してきた以上、簡単な依頼で終わるはずがない。

 私の返答次第で、未来が大きく変わる。

 覚悟を胸にクナータの瞳を見返す。十字の輝きは、どこか悲しそうに見えた。

 悲愴な決意。どこかで私は、こんな目を見てきた。


「わたしを救世主の母体として確定させて。そうしなければ最悪の場合、あなたはチョコレートリリーの仲間を三人も失うことになる。阻止したいでしょう? わたしたちの利害は一致していると思うの」


 ふと気付く。クナータは今、過去形で語っていない。

 意図的に使い分けている。彼女の語り方、時制の使い分けには明確なルールがあるように思えた。根拠はなく直感だけど、それはきっと正しい。

 私は彼女のことをほとんど何も知らない。けれど、これから知っていたような気がする。おかしな言い回しだけど、私の感覚だとこれが一番しっくりくる。


「これはね、私の未来回想に存在しない記憶なの。本来なら起こり得ない、私の意思によって捏造する矛盾した記憶。正史と重なり合う矛盾史。わたしはそれを作り出す」


 先読みの聖女。未来に遡る瞳。誰もがその奇跡を信じ、地上の希望と誉めそやす。

 誰も彼女を疑ったりしない。彼女が教えてくれる未来は人々に恩恵を与えてきたから。

 けれど、誰も本当の意味でクナータ自身にはなれない。

 だから真実は確かめようがないのだ。

 彼女が本当に、回想した未来を教えてくれているのかどうかを。


「そのために魔将役の『神の子』を集める。そのためにお芝居をする。そのために、わたしは未来を回想する聖女になる。その全てがなければ、私は本当の竜母になれなかった」


 たとえば、クナータ・ノーグが清らかな聖女でもなんでもなくて。

 そこら中にいる普通の人みたいに、嘘を口にする女の子だとしたら。

 共有された大前提は、あっさりとひっくり返る。


「嘘を本当に。死せる意思を理想に。わたしの並行矛盾史を完成させる最後のピースはあなたなの、アズーリア。どうかトライデントの最終選定で私を勝たせてちょうだい」


 確かなことがひとつ。

 本物は、本物になりたがったりしない。

 そんな夢を見るのは、偽物だけだ。





 『箒レースの選手リーナ』が幻視する過去は苦しみばかりだった。

 試練のために突きつけられる幻影だからこそ、それは当たり前のように痛い記憶だけを選んで形にしていく。観客たちは若き英雄がどのように試練を乗り越えるのかを手に汗握りながら見守り、声援を送っていた。


 そんな景色を、リーナはどこか他人事のように俯瞰している。

 意識の位置が高くなったようだった。誰もリーナの浮遊した精神には気付いていないようだ。ここには自分と、自分に等しいものたちしかいない。

 夢の中で、リーナという存在の魂は高次のレイヤーにひっぱりあげられている。


 自力ではない。

 数多くの手。やわらかな言葉。芯から温まるような真心。

 過酷な幻影など、リーナは全く意に介していなかった。それにはもう何の価値もない。

 もっと大きくて、大切な価値がここにはある。


 クラッカーが鳴る。広くて暖かい部屋は華やかに飾られて、色とりどりのクッション雲が漂う幸せな空間がそこにはあった。

 テーブルいっぱいのごちそうを用意してリーナに声をかけてくるのは知らないけれど知っている人たちだ。リーナの血がそれを教えてくれる。


 素敵な家族たちによる盛大な歓待が、どうしようもなく嬉しかった。

 ずっとこんなホームパーティーに憧れていた。

 大勢の親族。血のつながった誰か。青い血によって象られた幾つもの輪郭。

 手を伸ばせば自分まで融けてしまいそうな、大いなる血脈の源流。


「ようこそリーナ。歓迎しよう」


「ダウザールおじいちゃん」


 いまリーナの前にいるのは優しいおじいちゃんだ。

 孫を目に入れても痛くないほどに溺愛していて、どんな時でも味方になってくれる頼もしい大人。おじいちゃんのいう通りにしていれば、どんなことだって上手くいく。

 理屈のない安心感が命じるまま、リーナはダウザールを信頼した。


「リーナよ。お前が抱くクロウサーへの疑念は正しい」


 老人の言葉はまず若者の肯定から入った。

 理解と歩み寄り。対話の姿勢を示している相手を敵視することはリーナには難しかったし、『心地良い空間』に満ちた『やわらかな空気』は彼女の警戒心を解きほぐしていた。

 

「お前はこの世界の現状が許せないだろう。犠牲を許容し、理想の前で足踏みする老人たちが醜悪に映って仕方がないだろう。その感情は正しい。我らもそうだったし、我らが憤っていた者たちもまた同じであったのだ。我らには等しく力が足りぬ」


 言い訳であると切って捨てることは容易い。

 だが力なきリーナにはその言葉を否定できなかった。

 高みに立ち、大きな力を得てもなおリーナは無力だ。

 世界という複雑さを前に、個人はあまりにもちっぽけな存在でしかない。


「犠牲と理想の境界線上で我々は常に妥協を強いられてきた。往々にして全ての善き行いはその妥協可能な位置をわずかにずらす程度の影響しかもたらせないものだ」


 圧倒的な力を有するはずの巨人は、どこか恥じ入るようにそう言った。

 あるいは、リーナがそう思いたかっただけかもしれないが。


「良いか、若き魔女よ。全ての呪術アナロギアには限界がある。それはまじないを極めた巨人ほど陥りがちな落とし穴であり、この私でさえ例外ではない」


 ダウザールはリーナにとって見上げるような体躯の老人であり、彼が蓄えた経験と知識は年若い娘とは比較にならないほどに深い。その立場からの忠告は恐らく正しく、傾聴に値するものだ。いつの間にかリーナは未熟な学生としての心構えになっていた。


「誰も全能の外には辿り着けない。これが神に至らんとする巨人、すなわち『個』の限界だ。ゆえにこそ我らは仲間を作る。社会を築く。国家を欲する。そして、それら共同体の最も基本的で原始的な形が家族なのだ」


 直観的に理解ができる。ゆえに小さな反発としこりが生まれる。

 血の絆。それを無条件で肯定することも否定することも、リーナにはできない。


「お前の言いたいことはわかる。家族とてしょせんは他人よ。理解し合えぬことも、いがみ合うこともあるだろう。むしろ近しいからこそ、という矛盾さえ発生するものだ」


 意外にもダウザールはリーナの態度を否定しなかった。

 クロウサーの歴史で最も偉大な覇王は、もっと血族至上主義なのかと思っていたのに。

 驚く遠い子孫を見て、老人は苦笑しながら続けた。


「世界平和。相互理解。社会正義の実現。これら普遍的課題のいかに達成が困難なことか。太陰の翻訳技術や、共感性を利用した万能のテレパシー、『心話』がいい例だ」


 ダウザールが伝えてきたのは心的なイメージだ。

 こちらを見守ろうとする意思、歩み寄りの姿勢、理解を求める態度。

 リーナの心に浮かび上がった『おじいちゃん』の内心は孫に拒絶されることを不安がる、等身大の老人の姿だった。彼女の心に同情が浮かび上がり、その輪郭を即座に掴まれる。


 共感。心を繋げるために最も手っ取り早いツールは優しさだ。

 ダウザールの作り出したイメージは、鮮やかにリーナの優しさを引き出し、心と心を繋げることによって『心で通じ合えた』という実感をもたらす。『心話』はこの作用を利用した呪術的な共振だが、それは熟達した呪術師なら能動的に作り出せる程度の虚構でしかない。


「これで騙されるようでは先々が思いやられるぞ、リーナよ。いま一度この私への警戒心を思い出せ。お前が受けた仕打ち、血族の腐敗、ガルズの反抗。それらを思い出してから、ここまでに私が駆使した懐柔のまじないをひとつずつ解呪してみよ」


 指摘されてやっとリーナは気付いた。はっと息を呑み、自分がこれまでどんな風に感情を誘導されていたのか、そうなるために最適な雰囲気が作られてきたのかを理解する。そこまでの思考の流れまでもがダウザールの制御下にあると気付き、背筋が寒くなる。


「わかったな? 共感ベースでは『理解』に届かない。実際のところ、心話とは『己の言語/母語理解』に寄せた『我々の世界』における相互理解であり、『翻訳』という形で矮小化、劣化、零落させる呪いでしかない。『心話』を使い続けていればどこかで必ず『自分の価値観に寄せる』ことが起きる。あるいは『自分なりの解釈で他者の心を分かった気になる』という失敗がな」


 『やさしいおじいちゃん』としての表情が剥がれ、厳格な老賢者の厳しいまなざしがリーナに注がれる。呪文戦における他者のコントロールは呪術師にとっての基礎にして奥義だ。

 容易く手のひらで転がされたリーナは唇を噛み、ダウザールはやわらかな空気を瞬く間に掻き消していく。張り詰めた空気がリーナの背筋を伸ばし、それを見たダウザールは厳かに頷いた。緩急をつけたコントロール。まじないは継続しているが、抗えない。


「『理解』の逆である『神秘化』こそが黒血呪であり絶対言語だ。現代呪文学において仮説上の存在とされるそれは、お前たち呪文の座が目指す道であると同時に、我らクロウサーも辿っていた『空使い』の可能性のひとつだ」


 部屋の書棚から幾つもの分厚い魔導書を取り出した老人は、リーナの前にそれらを並べて見せた。『プロットレス・スペル』『物語を持たない呪文ものがたり』『エーゼンティウス仮説』『ラヴァエヤナ統呪論』『断絶された文明圏を超える、純化された理想のことば』といったタイトルはいずれも絶対言語に関連したものだが、リーナは中央に鎮座する魔導書にとりわけ目を惹かれた。


 タイトルは『宛先の無い言葉』。

 著者はミブリナ・ゾラ・クロウサー。

 リーナの祖先。最速の空使い。

 聞いた話では、リーナと言う名前は彼女にあやかったものだ。


「これについてはあとで当人と話すのがいちばん良かろう。もっとも、あやつは言葉で語ることを好まぬだろうがな。ゾラの真髄を伝えるという意味では、お前の相性が良いかもしれん。こればかりは私が言葉で伝えるわけにもいかぬ」


 不可解なことを言って、ダウザールは次の話題に移った。

 老人は引き続き世界や社会という大きなものについて語っていた。

 それをリーナはただ受け止めるしかない。

 それに対して何ができるかを、彼女はまだ確信できていないからだ。


「世界はいま、分断の時代にある。現状における最大のリスクは何だと思う?」


「『上』と『下』の戦争が続いて、共倒れすること?」


「そうだ。ではそれを防ぐためになにができる?」


「憎しみの連鎖を断ち切って、和平を実現する。第三世界槍は成功したんでしょ?」


「それも方向性としては正しい。だがそのまま実行するわけにはいかぬ」


「どうして?」


「現代ほど文明圏の力と大規模破壊呪術が発達した世界では、分断されている状態の方が安全だからだ。これは先ほど話した個を凌駕する集団の力、そして共感性の話でもある」


 そう言うと、ダウザールは立体幻像でひとつの動的なイメージを示した。

 それは天地に分かれた世界がひとつに統一された場合のシミュレーションだった。

 一時的に平和になったことで社会全体の交流が活発になり、文化模倣子としても振る舞う呪力はよりその量を増し、呪術文明は大いに栄えていく。


 だがある時点で長寿者や超越者、転生者や再生者といった呪術的人口問題が臨界点を突破し、更に限られた資源と空間、堆積していた歴史と文化のコンフリクトなどが連鎖して小規模な破綻が連鎖。遂には破局的な戦争が勃発してしまう。


「どうせまた争い出すからそのままにしておけってこと?!」


「違う。最悪の危険はこの先にある」


 ダウザールが示したのは、複数の国家が同時に巨大な呪詛を撃ち合う終末の光景だ。

 ひとつになった世界にはもはや遮るものは何もない。

 価値観や道徳の断絶が消え、利害や言語の壁がなくなった先にあるのは誰もが心を通わせる平和な世界だ。しかし最善の状態がひとたびバランスを損なえば、そこには呪力が満たされた火薬庫が残るだけとなってしまう。


 そこら中にある導火線が一斉に点火する。

 極大の破滅が世界を覆い、終わりのない大量死を互いに押し付け合う。

 それは紛れもない世界の終焉だった。


「国家規模の大呪殺は距離を無意味にする。集団の同質性が高まれば高まるほど、『個』の限界を突破した巨人の群れ、すなわち『神群』による『神話破局ラグナロク』が成立する余地が生まれてしまうのだ」


 グラデーションのように広がる単一起源型の巨大文明圏が有する共通言語は、相互に価値と意味を通過させてしまう。呪いは容易く伝播し、巨大国家同士の総力を挙げた超巨大呪詛は互いの国家を一夜にして破滅に導くことさえあり得た。


 ダウザールが語っているのは古典的な呪詛破局のリスク。

 『大断絶』の時代以前を知る者たちは誰もが相互確証破壊の不安定性を意識していた。

 一歩踏み外した先の大量絶滅、世紀末の空気感を肌で知っていたのだ。


「いまその危機感が薄れているのは、天地を隔てる『断絶』が異質過ぎる文明圏に対する共感性を引き下げているためだ。呪術という『理屈』が成立する余地がなくなれば、呪力は彼方までは届かない。皮肉なことに、我らは相互理解によって破滅のリスクを抱え、相互不理解によって破滅から逃れることができている」


 破局を遠ざけるという意味では、『大断絶』という文明圏を隔てる遠大な空隙には価値があった。延々と続く争いと積み重なる大量の屍に目を瞑れば、それ以上の大災厄、すなわち全てを終わらせかねない共倒れの可能性を完璧に予防できるのだ。


 リーナは言葉を返すことができなかった。

 呪術地政学、歴史学、国際政治学、軍事学、その他にも『塔』や大学でさわりだけ触れた知識の数々。九十分の講義に対してささやかすぎるノート。ほんのわずかなレスポンス。

 SNSで有識者に助けを求めれば誰かが反論してくれるだろうか?

 何を考えても、自分の薄っぺらさを自覚するだけだ。


 天秤に載っているのは確実な大量の悲劇と、可能性の上での終焉。

 犠牲に目を瞑ってでも後者を選ぶことしかできなかった。

 誰も綱渡りの上でのみ成立する危うい楽園を望みはしなかったし、全人類を巻き込もうとする自称唯一神の軽挙は他の神々によって諫められたからだ。


「さてリーナ。当然だがこれは悪しき現状を肯定するだけの言い訳に過ぎぬ。我らクロウサーはその権威に見合うだけの責任を果たし、より良き未来を築き上げる義務がある」


 ダウザールの言葉には世界を背負う巨人としての自負があった。

 リーナはいつしか彼の言葉に聞き入っていた。

 それは偉大なる先達に対する期待。

 幼く怠惰な甘えである。


「誰もが神たらんとする世界では、誰も絶対なる神にはなり得ない。それは我らクロウサーとて同じこと。ゆえに万人が、神々さえもが願うのだ。救世主の到来を」


 期待と甘え。

 どうしようもない難題に直面した時、人は大いなるものに救いを求める。

 それは祈りであり、願いであり、反射であった。


「その先に在るのは綱渡りの破局ではない。義国と鈴国、槍神教と竜神信教。どちらが先に破局呪詛を解き放ち、共倒れの結末を迎えるのかについて思い悩む必要などなくなる」


「救世主トリアイナには、何ができるの?」


「知っていよう。救済の名は真なる融血呪。二つの世界を正しく融け合わせる力。世界に作用する血の融合が成し遂げられた時、救世は果たされ新時代が到来する」


「血の、融合?」


「呪詛の遠隔作用は同一と見なされた対象の共振によって引き起こされる。髪の毛や爪、肉体の一部、あるいは血液。全人類が真の意味で家族になれば、呪う者と呪われる者は同一と見なされ、呪詛は個別の対象を見失い霧散する。全人類は個でありながら群という新たな相を獲得し、巨大な家族のまま多様性を広げていくことになるだろう」


 全ての血が混ざり合った自他の境界が曖昧な世界では、呪詛の対象が自分なのか相手なのかも定まらない。あるいはその矛先は第三者に向かうのかもしれないが、『特定個人』が『呪術的には全人類と同一である』と判断される以上は呪詛は全方位に向かい、拡散して希薄化してしまう。


 この場にパーンがいれば。

 家族と言う共同体における権力の存在と、本家と分家という個別の階層分けの意味、それらを対象とした『九族皆殺し』あるいは族誅呪殺に言及しただろう。

 しかし彼はこの場にはいない。リーナはガレニスの秘された歴史を知らず、ただ反逆を行い鎮圧された結果として滅びたとしか思っていなかった。


 リーナはそうした大規模な呪殺の知識はあっても、発想がなかった。あるいは、ガルズがマウザの血族に対して及んだ凶行を本能的に忌避していたのかもしれない。

 血の繋がった親族を皆殺しにするような恐ろしいことは、彼女にはできない。

 ダウザールにはできる。小さな孫娘を手玉に取るよりも容易く。


「救世主がもたらすのは大断絶時代の終わりではない。二つの世界を隔てる絶対空隙を乗り越えるための翼ならば我らクロウサーが既に手にしている。大いなるトリアイナがもたらす希望とは、世界を平和にした後の未来。お前たちが目指す場所の先なのだ」


 ハルベルトが目指す絶対言語による世界平和が実現すれば、戦いは終わるだろう。

 引き裂かれた世界が修復され、ひとつの安定した世界が成立したとしても、巨大な呪詛による破局リスクという課題が残っている。

 ダウザールが示すのはその解決策だった。


「そっか。末妹選定はゼロサムゲームじゃない。互いの目的を否定する必要はないんだ」


「むしろ救世主トリアイナの降臨は呪文の座が目指す平和な未来をより盤石にするだろう。お前たちにもそれぞれ譲れない事情はあろうが、その解決策も我らクロウサーならば用意することができる。その上で絶対言語の探究にも協力すると約束しよう。ミブリナを始め、歴代の空使いが積み上げた神秘は太陰の王女にとっても役立つはずだ」


 提示されたメリットを数えたリーナは、断る理由を見失う。

 いいや、最初からそんなものはなかったのかもしれない。

 自分の中で勝手に膨らませていた巨大なクロウサー家に対するイメージ。

 だがそれは複雑な集団を単純化しようとする安易な思考だ。


「クロウサーは巨大だ。ゆえに我らはひとつの社会に等しい。私もまた血族の一部に過ぎず、その中でお前だけが示せる役割もある。リーナよ、まずはそれを知るのだ」


 ダウザールは手を差し伸べる。

 賢者の手は、無知な魔女にはとても大きく見えた。


「共に往こう、リーナ。私は血族の先端を歩むお前に、世界の守護者としての自覚を促したいだけだ。無論、重責を背負わせるからには血族の総力を挙げて支えると誓おう」


 迷いはなかった。

 リーナはダウザールの手をとる。

 途端、周囲から割れんばかりの拍手。

 二人の対話を見守っていた『クロウサー』という集団が祝福の声を響かせる。

 いつの間にか、リーナの周囲は青い血で満たされていた。


 幸福な世界。

 クロウサーの血がどこまでも広がる、完全な青き大海。

 リーナが飛び続けた果てに、誰もが望む理想郷がある。

 こうして魔女は決意を新たにした。

 必ずや選定レースを勝ち抜き、必ず空使いになるのだと。


 


 夢に融けていく第五階層の隣界に呼応するように、冥府と化した第六階層にも夢のような光景が広がっていた。

 クロウサー家の追っ手によるユディーアとメートリアンに対する追撃。

 先ほどまで熾烈な戦いが繰り広げられていたとは思えぬほど穏やかな空気が流れている。


「ん~、分析を、しないと」


「いいじゃない、後でも~」


「や~たぶん境界面を不活性化させてる不定形タイプの浄界が~」


「ほらほら、お猪口持って~ぐいっと」


 勧められるままに何かを口から流し込む。

 途端、小柄な身体が脱力。

 メートリアンは思わず息を吐いた。

 ユディーアの肉体から一時的に遊離させたアストラル体がだらりと弛緩する。


 呪術戦のために一時的に有線分離しただけだが、この状態でも疑似的に構築した肉体感覚があるために自分を見失わずに済む。そのためか、リラックスの方法も現実に似ている。

 たとえば、あたたかいお湯に浸かるというような。


「いつもお疲れ様、ミルーニャちゃん。今日は私の温泉宿でゆっくり休んでね」


 視界のほとんどが湯気に隠された中で、艶めかしい肢体を晒した肉感的な女だけが存在感を有していた。蒸気と混ざりあうような存在感は高位の邪視者か精霊に特有のもの。仮に彼女が雲の巨人の亜種だとすれば、第七階梯の高位呪術師ということになる。

 だというのに、お湯に沈み込むメートリアンの思考は危機感を失っていた。


「ああ、心配しないで。私はラドリン。これでも放射線ホルミシス呪術の使い手なの。毒を以て毒を制す。このラドン温泉にじっくり浸かれば、癌だって完治しちゃうのよ」


「ああぁ~なんか言いたいことがあるけど上手く頭がはたらかない~」


「うんうん、野暮なこと言わない杖使いってお姉さんスキよ~」


 時を同じくして、少し離れた位置ではセリアック=ニアが小さな体躯を震わせていた。

 ぶるぶると揺れる指先と必死に何かを耐える様な表情。

 飛び出した爪は、敵意よりも好奇心を纏っていた。

 猫姫の視線の先にあったのは、色とりどりの風船である。


 空に浮かんでいく無数の風船、風船、風船。

 楽しそうな音楽、きらきらしたイルミネーション、かわいいきぐるみ、ふわふわした雲のアトラクション。箒ジェットコースターに、雲豆腐のふれあい広場。

 遊園地を前に、ちびニアの目がきらきらと輝いていた。

 そんな彼女の前に現れたのは、道化師のような恰好をした成人男性だ。


「僕はバルへリオン。ようこそセリアック=ニアちゃん、楽しい遊園地に! ここはいっぱいの風船で空を自由に飛び回れる素敵な雲の上の国だよ!」


 がっしりした体格、髭の似合う中年そこそこの年齢、幾つもの風船を手にした男の声は、見た目からすると意外なほどに高かった。

 にこやかな表情と口調も相まって、いかつい印象が薄れて子供でも親しみやすいユーモラスな雰囲気が生じている。ちびニアはたちまち警戒を解いた。


「それだけじゃないよ。風船をこんなふうにこねこねすれば、可愛い動物のお友達もいっぱいさ! ほら、僕と一緒に遊ぼうよ! 日頃の疲れを癒してリフレッシュ!」


 もう猫姫は持ち前の無邪気さと好奇心が抑えきれない。

 遊園地でわいわい遊び始めたセリアック=ニアは、戦いのことなどすっかり忘れていた。

 そして。


「やっぱみんな疲れてるんだよ。心のメンテが必要なわけ。そのための俺らっていうか」


 黒いスーツに柄物のシャツ、派手なベルト、パーマをかけたマッシュヘア。

 赤いネオンサインに照らされた夜の街を往く男は、自信に満ち溢れた口ぶりで女に囁きかけ、甘い言葉と蠱惑的な瞳で己の巣に誘い込む。

 彼の名はネオレイン。この歓楽街の夜を統べる『王』。


「こちらVIP卓の姫ちゃんより『サンレメ』頂きました~!」


 目の前に出されたのは聖レメスに由来する高級な発砲葡萄酒だ。

 ユディーアは酩酊感に包まれながら、テーブルに並んだ酒と薄暗い店内の空気を天眼で探ろうとした。こちらを覗き込む男、ネオレインの瞳はひどく魅力的だ。最低でも第六階梯クラスの邪視者。達人アデプト級の浄界到達者の魅了邪視は天眼の民であっても抵抗するのがやっとだ。浄界による有利な場の成立まで許してしまった以上、抵抗は難しい。


 だが問題はそれ以外にある。

 単一の浄界でユディーアが魅了にかかりそう、というだけならどうとでもなる。

 だが、メートリアンとセリアック=ニアまでもが同時に浄界に囚われているというのが不可解だった。原則として同じ視覚型の浄界は同じ空間に複数展開できない。異なる知覚部位を基点に展開するならまだしも、空間を占有する視認可能な浄界を同時に広げれば衝突してしまう。そうなればあとは押し合い、反発分離、融合破綻、内包吸収といった現象が起きて三つのうち最低でも二つは壊れるか縮小しているはずだ。


 だが、ユディーアたちを包み込む浄界は全てが問題なく成立し、その上で並存している。

 隣り合う浄界たちは互いを損なうことなく安定した状態を保っている。

 境界面は動かず、個我の活性化による呪力の暴走もないようだ。

 理屈がさっぱりわからない。メートリアンと連絡できれば何かわかったかもしれないが、今のところクロウサーの秘術かなにかだろうと推測するのが関の山だ。


 ユディーアはいつの間にか周囲の動きが騒がしくなっていることに気付いた。

 相手に支配されつつある肉体が勝手に応じているのを感じた。

 目の前には不安になるほど高く積み上げられたワイングラスの塔。

 どうやら、自分は敵の術者と共に上から発泡性葡萄酒を注ぐことになったらしい。


「本日もクラブネオンにご指名、ご来店頂きまして、まことにありがとうございます!」


 店中から男たちが集まり、ユディーアの前で勢いよくコールを始める。

 「それそれそれ」だとか「ぐいぐい」だとかのコールが絶え間なくホールに響き渡る様子を、ぼんやりとした意識で俯瞰する。


 なにやら男たちからちやほやされたり甘い言葉を囁かれたり優しくされたりしながら楽しくお酒を飲むというコンセプトのお店らしい。知識だけはあるが自分とは縁のない場所だと思っていた。あまりのミスマッチに少し楽しくなってくる。


 ネオレインが率いる男たちは統制がとれていて、一流の『軍勢』であることが知れた。

 店中から集まった彼らによる勢いのある呪文は何だろう、『頌歌』なのだろうか。 

 だとすれば恐るべき使い手だ。ユディーアの前にいるのは複数の系統を極めた超高位呪術師。英雄や魔将にも匹敵し得る、クロウサーの精鋭集団のひとりなのだろう。

 ユディーアは圧倒された。されるしかなかった。


「従業員一同で!」「ハイ!」「感謝の!」「ハイ!」「気持ちを込めて!」「ヨイショ!」「今夜も!」「ワッショイ!」「祭りだ!」「サイコー!」「素敵な!」「素敵な!」「姫ちゃんに!」「愛込め!」「センキュー!」「もいちど!」「センキュー!」「可愛い!」「超超!」「素敵な!」「最高!」「姫から愛情いただきまーす!」「そしたらせーので!」「グラスを持って~?」「素敵なサンレメいただきまーす!」


 盛大な乾杯。勢いに呑まれてユディーアは思わず財布の紐を緩めそうになる。

 コールの中には『財布』『感謝』『愛』をしきりに要求するようなものがあった。

 察するに『そういう呪術』なのだろう。

 手の内側で銀貨を弄びながら、あえて酒精を体外に逃がさず身体から力を抜く。


(ははあ、なるほどこういうのね。まあ魅了邪視をベースにした浄界としてはそこそこの完成度なのかな。騒がしいし、正直あんまりピンとこないけど)


「君は僕のお姫様だよ」


(浄界を併存させている仕掛けが読めないし、もう少し敵の手の内を探るべきかな)


「好きになっても、いいかな?」


 それはそれとして。

 そんなに悪い気はしないかもしれない。



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