ありがとうの味がする

日月烏兎

ありがとうの味がする

 カリカリとペンを走らせる音。

 ページをめくる音。

 時計の音。

 静かな音だけが響く空間に、ホラーじみたむやみで無粋なノックが響く。

 集中力が切れるのと、部屋の扉が開いたのは同時だった。


「はーい、お姉さまの入場」


 太一が参考書から目を離すと、お盆を片手に仁王立ちする姉の京子の姿があった。

 普段はポニーテールでまとめる髪も今はばっさりとおろし、見覚えのないクマの着ぐるみみたいなパジャマを着ている。

 それが小柄で幼い顔立ちの京子によく似合っているのだが。

 これが来年社会人になる大学生かと思うと、何となくがっかりしてしまう太一だった。


「……せめて返事するまで待てよ」

「返事はどうせ『はい』以外許されないのに?」


 鍵をつけたいと反抗期の頃は切に願ったものだが、権力者たる母の一声によりその願いが叶うことはなかった。

 その結果が今のこれである。

 思春期も抜け出て来たとはいえ、高三の年頃の男子にしていい行いではない。

 うっかり何かがあったらどうする気なのか。


 たぶん大笑いするのであろう。


 そこまで想像がついて、勉強疲れだけでない溜息が零れた。


「暴君め」

「そんなこと言ったらこの夜食は私が食べるけど」


 勝手に侵入してきて、頼んでもない夜食を人質に取られていた。

 確かに時計は24時を手前を指し、空腹を感じないかと言われるとそんなことはない。食べ盛りの太一の腹は何なら今から焼肉でもイケると訴えている。


「別に何の問題もないわ」


 しかし素直にその夜食を受け取れるほど、反抗期を脱してはいない。


「折角受験勉強を頑張る太一に私が作ってあげたのに!」


 これ見よがしに傷ついた表情をしているのがまた癪だった。

 何より、恩着せがましい顔をしているがお盆の上で湯気を立てているのは。


「カップ麺じゃねぇか」


 お湯を注ぐだけの簡単料理。全人類の味方だった。

 恩を感じられるかは人に寄る。


「何、私の手作りがいいの?」

「受験前に体調不良はお断りだわ」


 実際そこまで腹を壊すような料理を出された覚えはない。

 ちょっと食べるのに苦労する様なオリジナルレシピの何かが出てきたことは何度もあるが。

 どっちにしろ夜食として食べたいものではない。

 そんな太一の心情を理解しているのか「でしょ」とばかりに頷く京子。太一としてはそれならレシピ通りに作ってくれと言いたい。


「ほら、安心して食べなさいよ。今夜は緑のたぬきよ」


 見慣れた緑のカップ蕎麦。確かに味は保証された安心の夜食だ。

 味に関しては何の不安もないが、それより気になることがあった。


「……年越しそば的なやつ?」

「年越しそば的なやつ」

「俺、赤いきつねの方が好きなんだけど」

「あれうどんじゃないの」

「この時間にそばの時点でそんなとこに拘りないだろ?」


 日付は12月31日。

 時刻は23時55分。

 テレビではカウントダウンに盛り上がっている頃だろう。

 そんな時間に、蕎麦。

 太一としては別にそんなところに拘りもないので別に構わないのだが、姉のポカンとした表情を見るにおそらく知らないのだろうと察する。


「……たぶん賢いお姉さまは知ってると思うけど。年越しそばは年越す前に食べるもんだからな。まぁ良いけどさ」

「……年越ししながら食べるものじゃないの?」


 半分以上嫌味を含んだフォローは、少々抜けた姉には通用しなかった。


「そうだよ、年越す前だよ。厄落とし的な理由だったはず。この時間だと厄持ち越しじゃねぇか」


 他にもいろいろ意味はあるし、別に問題ない気はするけど。とまでは説明しない。突っ込まれたら太一とて詳しいわけでもない。

 そんな太一の脳内会議を尻目に、京子はやってしまったと顔を覆った。


「受験落ちたね」

「落とすな!」


 指の隙間から覗く顔は笑っている。

 姉じゃなかったら殴っているところだ。受験生にさらっとえげつないことを言う。デリカシーも何もない。


「あれだよ、私が傍にいるよ。的なやつで」

「姉ちゃんが傍にいても何の応援にもならないんだけど」


 いろいろと勉強には不安の残る姉を太一は一切信用していない。

 分からない問題を聞きに行ったら楽勝顔で盛大に間違いを教えられた過去の教訓を太一は忘れてなどいない。


「受験と言う一人ぼっちの戦いが、独りじゃないと思えるだけで」

「姉ちゃんが傍にいると邪魔しかしなそう」


 横でひたすら喋りかけてくるのは目に見えている。

 できるなら遠い場所で、例えば太一の部屋の外とかでひっそりと応援していてほしい。


「まぁ安心しなよ。太一の厄は私が持っていってあげるから」


 腹の立つドヤ顔である。

 むしろお前が厄だと言いたい。

 そこまでは酷いか、と言葉を飲みこむあたり、仲の良い姉弟であった。


「不運な姉が不憫です」


 でも嫌味は言う。


「不憫って不便?」

「どっちかって言うと不毛かな」


 どっちが何と何の話なのかは二人とも分かっていない。


「太一のおでこじゃあるまいし」

「だとするならこれは姉ちゃんからの多大なストレスが原因だからな」


 この受験期に入り、ちょっと生え際が気にはなっている。

 まだ大丈夫だとは思うが、父親そっくりの自分の顔と、父親の日々争う生え際の攻防戦を思えば安心はできない。

 この歳でこんな心配をしたくなかった。


「ストレス社会を生き抜く弟に。五分経ったよ」


 ぺりぺりと京子はカップ麺の蓋を剥がす。

 部屋にふわりと出汁の良い香りが広がった。雑談に紛れていた空腹が、早く寄越せと太一の腹を叩いている。


「はぁ……自由だなぁ。まぁ、ありがと」


 京子の親切に、一応の礼を言う。

 へらっと笑う京子の顔にほっとしてしまう辺り、何だかんだと受験のストレスを抱えているのを感じながら、太一は割り箸に手を伸ばした。


「はーい。じゃあお邪魔虫は退散するよ。無理しない程度に寝なよ?」

「ん、気をつける」


 どうせ寝ないであろうことを見越した姉の心配に、太一は雑に返事をした。京子とて素直に寝るとは思っていない。

 ただ優し気に笑って、ゴミを纏めて立ち上がる。


「太一」

「何?」

「ファイト」


 一言だけ。

 余計なことはひたすら喋るくせに、そういうことはシンプルに。

 返事も聞かずに、静かに扉を閉めて出て行ってしまう。

 さっきまで聞こえなかった時計の音が帰ってくる。京子がいないだけで、随分と部屋の中は静かだ。


 勢いよく入ってくるのはそうでもしないと休憩しないから。静かに出ていくのは気分転換の終わった太一の邪魔をしないように。

 京子らしい、何とも言えない気遣いに、太一は苦笑する。本当に不器用でお馬鹿な姉だと思う。


「……旨いよなぁ」


 何度も食べてきた、慣れた味のはずで。

 何なら赤いきつねの方が好きで。

 だが不思議と、今日の味は忘れられないのだろうと。

 ほう、と漏れた息はきっといつもより幸せを含んでいるような気がした。

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