ナナフシとカメレオン

藤 夏燦

……

 下唇に小指の爪をたて、僕はその微かな痛みで緊張をほぐしていた。大学の演劇サークルに入部して一年。ついに僕はキャストに抜擢されたのだ。


 セリフはもちろん、他のキャストとの間や細かな目線さえ間違えることは許されない。新入生勧誘の公演とはいえ、立派な一本の芝居だ。舞台監督や演出、さらには主演の先輩たちの目が光る。


 僕の役には名前がない。主人公の友人の一人である。物語は大学に入学した新入生がいろいろな部活に勧誘されつつ、自分の道を見つけるコメディタッチの青春ストーリーだ。


 舞台が暗転し、僕の出番がくる。いよいよだ。間違えることは許されない。満員に近い小さな劇場のなか、僕は舞台のうえへ飛び込んでいった――。




「桂先輩の演技。本当に魅了されました」


 それから1か月、ジュースを囲んだ新入生歓迎会で一年生の女の子がそう言った。桂先輩、すなわち桂ゆかなは僕らの学年のエースで、ヒロイン役を務めた女子学生だ。太い眉にきりっとした顔立ち、美人かどうかは分からないが、演劇向きの顔をしている。高校時代から演劇をやっていたらしく、その演技はプロ級だ。


「それからアメフト部部員の人も、すっごく面白かったです!」


「ああ、しんちゃんのことかな? しんちゃん、褒められてるよ」


 ゆかなが隣のテーブルにいる進藤の名前を呼んだ。「しんちゃん」と呼ばれている進藤遼太郎は、今作ではコメディリリーフの役を担当した。演劇は未経験だったが、持ち前の明るさと勉強熱心さを武器に今では見事な役者になっている。もともとアメフト部だったので、適役と言ってもいいだろう。


「まじ? ありがと!」


 進藤は僕らのテーブルに見えるように大きな声でそう言うと、嬉しそうに手を振った。ゆかな以外は演劇未経験の同期ばかりだが、新入生からの評判は非常に良い。ただひとり、僕だけを除いては……。




 僕の役には名前がない。




 台本には「友人B」とだけ記されている。「A」ですらない。ちなみに「A」役のキャストは「友人さん」と新入生から呼ばれている。部員数も多いうちの部活では、初めのうちは名前ではなく役名で覚えてもらうことが基本だ。僕らのときもそうだった。だが僕だけが新入生たちの印象に残らず、キャストとして出たにも関わらず、裏方だと思われていることもあった。


 一年前、何者かになりたくて、演劇部に入った。「演じる」ということはある意味、「変身」だと思ったからだ。


 普段は明るく振舞えない自分でも、舞台の上では別人になりきれる。そんな期待を抱いて僕は演劇部の部室のドアを叩いた。仲間や先輩たちはいい人ばかりだけど、僕の望みは叶えられてはいない。


「友人B」は僕そのものだった。


 所詮、演劇一年未満の学生が中心となって作った作品だ。ゆかな以外の同期は「素」の自分に近いキャラクターを演じている。それが演じているのかは分からない。素のままを出せは、自然と良い演技ができる。その点では僕も「友人B」になりきれていただろう。僕は「友人B」にぴったりの配役だ。でも変われない。僕は僕のままだ。


「拝島くん、ちょっといいかな?」


 6月。部活を終えた僕を笹山先輩が呼び出した。うちの部活で脚本を担当している、眼鏡をかけた短髪の先輩だ。頭がよく、後輩からの信頼も厚い。


「はい、なんでしょうか?」


「今度の公演なんだけどさ、拝島くんを主役にしたいと思っているんだ」


 僕は笹山先輩の言葉に耳を疑った。同期で一番影の薄い僕が、主人公だなんて。


「本当ですか?」


「うん。演出や部長にも相談済みだよ」


「ありがとうございます。頑張ります」


 僕は胸が熱くなるような感じがした。嬉しい反面、恥ずかしさと不安もある。


「これ脚本だから、来週までに読んで答えを聞かせてほしい」


「分かりました」


 僕は笹山先輩からA4用紙の束にまとめられた台本を受け取った。タイトルは『無色で透明』。なんとなく胸がざわついた。




 またしても僕の役には名前がなかった。




 台本を何度も読み返す。確かに主役だ。セリフの量も多い。でもこれは僕だ。僕自身だ。何者にも慣れない若者を何者にもなれない奴が演じる。


 この役が僕に適任なのはすごくよく分かる。だけどこれが、僕が望んでいた「変身」なのか。舞台のうえでも僕は僕じゃないか。


 ああ。なんだこの感覚は。僕はどこにいる。


 そう問いかけたとき、頭の中に最悪の答えが見つかった。この台本の主人公。これこそが僕だった。


 僕は笹山先輩から受け取った『無色で透明』の台本を手にとると。親指と人差し指に力を込めて一気に引き裂いた。びりっ、びりびりっ、しゅっ、つっ、つぉ。紙を破く音は次第に小さくなり、文章は単語になり、そして文字になって、文字ですらなくなった。


 もう僕はどこにもいない。


 それから僕は部活に行かなくなった。




『拝島、大丈夫かー?』


 無断で部活を休み続けていた僕のところに、進藤から連絡がきていた。進藤以外からも心配する連絡が入る。


『うん。ちょっと家庭でいろいろあって、部活やめるかも……』


 適当に嘘をついて、そう返信した。どうせ僕がいなくなったって誰もなんとも思わない。進藤は悲しむかもしれないが、3日もすれば気にもしなくなるだろう。


 笹山先輩にも同じように嘘をついて、主演を断ることにした。どうせやるならゆかな辺りに任せたほうがいい。彼女ならどんな役でも演じてくれるはずだ。


 そんなことを思っていたら、授業おわりに廊下でゆかなに出くわした。


「あ、拝島くん。おつかれ」


「おつかれ。あのさ、笹山先輩の脚本のことなんだけど」


「うん。なに?」


「主演を、変わってほしくて」


「えっ? なんで?」


「部活を続けるのが、難しくなったっていうか」


 ゆかなは困ったような顔をした。役を任されるのが嫌ではなく、僕がいなくなるのが嫌みたいだった。


「そうなんだ……。それなら仕方ないね」


「うん。ごめん」


「拝島くんが謝ることじゃないよ。それに私も、この役にすごい興味があったから」


「さすが桂さん。今までやったことない、難しい役柄だもんね」


「ううん。そうじゃなくて、この役、私と似てるなって思ってて」


「え?」


 ゆかなの言葉は僕に衝撃を与えた。何者でもなれる彼女が、こんな透明な主人公と似ているはずがない。


「演劇でいろんな役をやっていると、本当の私がどれだか分からなくなっちゃって、常に誰かを演じているような気持ちがしてね。だからこの主人公の感覚もすごく分かるの」


 僕とは真逆ではるか遠くにいるように見えたゆかなの存在。でも同じような悩みをもっていた。何者にもなれるからこそ、自分を失ったゆかなと、何者にもなれず自分を失っている僕。


 カメレオンとナナフシのような。変身が得意な二つの生き物のような。


「でも拝島くんもこの役ぴったりだと思うけどな。ダブルキャストとかではだめかな?」


 ゆかなのその言葉に、僕の心の何かが動いた。「僕」をみんなに見てもらおう。そう思った。




夏公演の本番。僕とゆかなは交代で主演をつとめた。二人ともリアルな演技だと、観客からの評判も良かった。


 カーテンコールでゆかなと二人、手をとりあって頭を下げたとき、スポットライトの眩さに思わず目がくらんだ。


 僕とゆかなの陰は、はっきりと舞台に刻まれていた。


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ナナフシとカメレオン 藤 夏燦 @FujiKazan

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