絶望の都

冦略を目的とした狼戎ろうじゅうとは違い、ヒン軍はまっすぐに王宮を目指していた。彼らの目的はヘイ王の首ただ一つである。

安陽には東西南の三方にそれぞれ郭門がある。この城門をくぐれば、市街地に入ることが出来る。

王宮に行くには、そこから更に壁を越えなければならない。郭内にはもう一重王宮を囲む城壁が巡らされているからだ。そこに侵入するには北壁に唯一ある宮門から進むしかない。流石に王都なだけあって、郭門から宮門までは距離が取られている。また王宮付近には貴族や卿などの邸宅が林立しているので、すぐに兵が出動できる様になっている。一筋縄では王の首元まで刃を届けることが出来ない。

(しかし、その為に奇襲という形を敢えて取った。)

戦の礼をよく知るヒン公であるので、今回の攻撃がどれほど卑劣な行為であるかは十分に理解していた。

(我が一族の名誉が地に落ちても構わぬ。その全てを捧げてヘイ王の首をむすめの許へと届ける。)

ヒン公の思考は最早この世の者のそれでは無かった。ヘイ王と自らをこの世から消し去ることだけを求める存在になっていた。

ヘイ王に逃げられる前に決着をつけなくてはならない。ヒン兵には宮門を破ることを最優先にするよう厳命している。

ヒン公の怨怒の炎にてられたヒン兵達もまた、猛獣の様に城内を奔走した。

しかしこの猛攻は宮門近くで初めて止められた。ヒン兵が進んできた大通りに何列も重ねて兵車が横倒しにされている。そこから多くの矢が発射されてきた。たてを持っていない兵はまともに矢を受けて昏倒した。

「二の矢、放てっ。」

兵長の合図で間髪入れずに第二射を撃ち込んでくる。

この兵はセツ公の兵を中心とした安陽の守兵達であった。いち早く防備を指令したセツ公の働きで辛うじて間に合ったのだ。

ここにおいて激しい戦闘が行われた。

守るセツ公の一団は必死の抵抗を見せた。

(寸刻でも長く耐えればそれだけ王の御命が救われるのだ。)

セツ公もこの場で命を投げ出す覚悟である。

互いが己が命を懸けて衝突する。時を追うごとに戦いは苛烈を極めていった。

後方から追いついたヒン公も矢が頬をかすめる程の近さで号令していた。

この襲撃の為にヒン公はほぼ全ての兵を動員している。およそ二万の軍勢である。それに狼戎が一万、奇襲には十分すぎるほどの数である。

対してセツ公は狼狽する兵をかき集めての衆勢であったので、その数は千程度であった。それでもすぐに崩れなかったのは市街地内での戦闘という特殊な環境であるが故である。安陽の構造を熟知しているセツ公は少数でも耐えられる場所をすぐさま選定していたのだ。騒ぎを聞きつけた他の卿などの兵も少数ながら合流してきていた。

しかし数による劣勢を覆すには無理があった。無限と思われるほどに後から湧いて出てくるヒン兵に少しづつ接近されている。何重にも敷いた兵車の塁壁も遂に最前線がヒン兵の手に掛かった。

「公よ、これ以上は耐えられませぬ。脱出をっ。」

「愚か者よ、わしはここに骨を埋める覚悟だ。撤退など思いもよらぬわ。」

激しい戦闘にセツ公も昂奮している。それでも従者は食い下がった。

「もはやヘイ王も城外へ逃げおおせておられるでしょう。これ以上ここを守る必要はありますまい。ここは一度自国へ退き、タイ侯へ救援の要請を出すべきです。この後の王宮奪回の策をお考えなさりませ。」

鋭い献策である。これを聞いたセツ公はここで少し冷静さを取り戻した。ここで落命する愚を悟ったからである。

「最もなことである。」

ここでセツ公は防塁としていた兵車に残らず火をかけるよう命を下すと、自身は親衛兵に守られながら脱出を図った。

大邸宅の間を縫う様に進んでいくセツ公達であるが、実際のところどう抜け出すかは不明なままでいた。王宮にはジ王が使ったであろう秘密の脱出路があるが、恐らくは追手を防ぐために途中で道を切って塞いでいるであろう。

「とにかく郭を目指せ。」

セツ公は側の者にそう告げた。郭は最外の城壁である。何処かの出入り口は通れるであろう。そう見越している。

しかし、その楽観に反して郭付近には多くの狼戎が跋扈ばっこしていた。これでは出口を探すところではない。セツ公は進退窮まった。

(これまでか…)

これはヒン公の手際の良さを褒めねばなるまい。セツ公自身我が身のことを処することしか出来ず、ヘイ王や他の卿達がどうなったのか知る暇も与えなかった。

「こうなれば蛮族共を一人でも多く道連れにして死のうぞ。」

そう親兵達と謀っていた時に、視線の先にある小屋からこっそりと手を振っている者を見た。

咄嗟にセツ公達はその方へ走り、その矮屋へ転がり込んだ。

「失礼ですが、あなた様はセツ公様でございますか。」

駆け込んで来たセツ公に平身低頭してその男は尋ねた。甲姿を見るに夏官の様である。彼の問にセツ公はやや鷹揚おうように答えた。

「いかにも。して汝はここで何をしておる。」

「はい、街はこの有様でありますので、妻子を城外へ逃そうと舟を用意しておりました。そこへ公をお見かけ致しましたので…」

この小屋の裏手には細い水路が流れている。かなり狭い水路だが、小さい舟なら辛うじて城外へ下らせることが出来るであろう。この水路は生活用水に使うもので、普段は舟など浮かべるところではない。

セツ公は側近達と顔を見合わせた。僥倖ぎょうこうである。

「これは天祐てんゆうであるか。正に我らも城外へ出る手立てを探しておったところだ。王は既に出奔なされた。かくなる上は一度我が国へ帰り、策を練るつもりであった。」

セツ公に一縷の希望が下ろされた。あとはこれを断つことなく手繰り寄せることが出来るか、そこにかかっている。

「さすがは公でございます。既に次の手をお考えであったとは。されば、この舟をお使い下さいませ。お乗りいただきましたら御無礼でありますが、舟に柴などを被せ、外の兵に見つからぬように致します。」

セツ公は驚いた。

「なんと、そこまで整えておったのか。なに、身体はすでに砂塵に塗れておる。気にするでない。汝の言うとおりにしようぞ。」

セツ公ら一行は小舟に乗り込んだ。その時ふとセツ公は思い出したように、

「まだ汝の名を聞いていなかったな。名は何と申す。」

「は、ヒソウ、と申します。」

ヒソウはそう答えると、また深く頭を垂れた。

(実直な男よ。)

セツ公は密かに彼に好感を抱いた。

「そうか、ヒソウよ。この度の混乱で汝もどうなるかわからぬ。その上は我が国へ参り我に仕えぬか。」

一瞬はっと顔を上げたヒソウであったが、我に返るとすぐにまた面を下げた。脱出を試みていた彼だが、実のところ行くあてなど全くなかったのだ。この出会いは彼にとっても天佑であった。

「それは、真に有難きお言葉で…よろしいのですか。」

「遠慮は必要ない。我は汝のこの抜け目なさに救われたのだ。その才を欲したまでよ。」

それを聞いたヒソウはいよいよ地面に叩頭して感謝した。

「妻子を迎えたら共に我が国へ来るとよい。じゅ兵(国境の守備兵)には汝のことを伝えておく。途中狼戎に襲われぬ様気をつけることだ。」

「はい、はいっ…必ず。」

彼は感動に肩を震わせながら答えた。

セツ公らは舟の中で半ば折り重なる様にして横になった。そこに上からヒソウが柴などをかけて瓦礫であるように偽装した。

「ヒソウよ、恩にきるぞ。汝も直ぐに出よ。」

柴山の中からセツ公は声を出した。舟はゆっくりと進んでいく。

それを無事送り出したヒソウは再び小屋の外の様子を伺った。彼は妻子をここに連れてくるようにたった一人の従者を送り込んでいた。後は賊に襲われずにここまで来ることが出来るか。下手に動くこともできず、彼は気を揉んで待機した。


激しさの増す城内でヒソウは永遠とも思える時をじっと耐えた。もし既に妻子が不運にも敵の手にかかっていたとしたのなら、一刻も早く脱出をしなければならない。この建物に賊が来ないということなど無いのだ。

れに焦れた末に、遂に我慢の限界を迎えたヒソウは舟を出す支度に取り掛かった。

(無念だが…)

そうして柴を掻き集めていたヒソウの背後で突然扉を蹴破る音がした。驚いた彼は顔を引きらせて振り返った。

果たしてそこには息をきらした従者と妻子がいた。

「無事であったか。良かった。」

彼らは束の間の喜びを分かち合った。

「ヒセキさまの行方がわからず、時がかかりました。」

従者は額の汗を拭いながらそう答えた。

「丁度外出をしておりましたので…。」

そう言ったヒセキは涼しい顔をして立っている。

なんとヒソウの息子はあのヒセキであった。

「よし、みなその舟に乗るがよい。これで安陽を脱出する。」

まぁ、と妻は驚いた。夫がこの様な手を打っていたとは思わなかったのだ。それは息子のヒセキも同様であった。

「これも日々真面目に務めていたお陰、と言ったところかの。」

舟をぽんと叩きながらヒソウはニヤリと笑った。

表に出さないながらも内心は父に冷眼を向けていたヒセキだが、この時は舌を巻いた。それでも、

「しかし、ここを出て一体どこへ行くと言うのです。」

と冷ややかであった。しかしヒソウの笑みは変わらない。

「ふふ、それも案ずるでない。セツ国へ行く。」

「セツ国…そう遠くはないですが、何故そこに行くのです。そこより近い邑は幾つかありますよ。」

ヒセキのその問いにもヒソウは得意顔である。

「実はそなたらが来る前にセツ公をお助けし、先に舟でお出ししておる。その礼に私を召し抱えると言ってくれたのだ。」

ヒセキもその話には流石に驚いた。一生下級官であると思っていた父に、急に栄達の道が開けたのだ。

「さ、今は話は後にしよう。柴を被せる。先に乗るのだ。」

先のセツ公の舟同様、瓦礫の塊に似せた舟でヒセキらは安陽を脱出した。

息を潜めていく舟の中でヒセキは、

(この父にこの様な事があろうとは。これも天命というやつか。しかしこれで我が望みも一つ歩を進めることが出来た。あの憎たらしい貴族も消えたことだろうしな。)

と、一人ほくそ笑んでいた。


こうしてセツ公とヒセキらは窮地を脱した。

対して先に安陽を抜けたヘイ王はどうであったか。



猛火の如く侵攻したヒン公の軍は手こずったセツ公の一団を退けるや、速やかに宮城へ入りヘイ王の姿を探した。しかし、既にもぬけの殻であった。

ヒン公の命を携えた大夫の一人が人を遣って抜け道の入り口を見つけ出した。

(場所はわからぬが、抜け道の一つや二つは構えているであろう。)

そう睨んでいたヒン公は敢えて宮殿内に入らず、外へ出て城を囲んでいた。

城内の様子を聞いたヒン公は直ぐさま兵車を駆り進軍させた。脱出先の目星は付いている。

安陽の近くには永河の支流である渉水しょうすいという河が流れている。それを東に真っ直ぐ遡って行くと一つの邑がある。雄丘ゆうきゅうと呼ばれるこの都市は安陽に次ぐ大邑であり、平時ジ王が祭祀などで頻繁に通う場所でもあった。

(ヘイ王はそこに逃げ込むに違いない。)

この雄丘を含む東の地はジ王朝の故地である。過去幾度も遷都を繰り返してきたジ王朝は徐々に西進し、今は安陽に落ち着いている。雄丘も古くは首都であった。

絶対にヘイ王を捕斬するつもりのヒン公は駆けに駆けた。ヘイ王は少数に違いないので、こちらも精鋭だけ付いてきたらそれで良かった。とにかく速度を落とさぬ進軍を敢行した。

一方辛くも安陽を脱出したヘイ王であるが、その先の渉水では舟が見つからず、やむなく御車で進む事になった。しかし、急ぎ過ぎた為か途中で車輪が壊れ、徒歩で行かねばならなくなった。

皮肉な事に、後から追ったヒン公の軍の方が彼らを追い抜いて先に雄丘へ着いてしまっていた。

まだヘイ王がこの地に至っていないことを知ったヒン公は、休むことなく馬首を巡らし来た道を引き返した。

途中で追い抜かれたヘイ王は林などにに身を隠して進んでいたが、雄丘へ向かうことを悟られたと知り、道を換えた。

「レイへ行く。」

レイ国はかの愛后であるレイ后のいた国である。レイ国の都ろく邑は雄丘を越えた先にあるが、そう遠くない位置にある。どこかで一夜を過ごせば翌日には徒歩でもたどり着く。

追手の目を盗みながら更に東方を目指したヘイ王はその途中で小さな邑を見つけた。

疲労困憊のヘイ王は逃げ込む様にその邑へ入り、わずかに持っていた財をその邑の長へ与え、その長の邸を宿とした。

突然の王の来訪に邑の者達は驚倒した。それと同時に邑の主だった者たちで集まり額を寄せて話し合った。しかしその内容は穏やかなものではなかった。

「ヘイ王の度重なる出兵のせいで、我らは我らの貴重な働き手を失っている。」

「そうだ、俺の家も男手を二人も失っている。残ったのはまだ幼い子供ばかりだ。」

「このまま素直に送り出してよいものか。」

王の失政による怨みはこんな辺境の邑にも暗い影を落としている。

「しかし我々が王に手をかけるのは余りに畏れが多い。そのような事はしたくない。」

それを聞いた一人の男が更に声を低くした。

「それがどうやらヒン公が後を追っているらしい。どうだろう、人を遣り、ヒン公を招き入れては…」

ヘイ王が疲弊しきって抜け殻の様に眠っている裏で、邑の者達はひっそりとヒン公へと人を派遣した。辺りはすっかり暗くなっていた。


一方必死に後を追うヒン公はここにきてヘイ王の足取りが掴めなくっていた。

雄丘から少し戻った岐路に簡単な陣を張り、そこから四方に偵察の兵を放った。確実にヘイ王を捕らえるという執念は彼の心に冷静さを忘れさせないでいた。

しかし数刻に渡り何の情報もないまま、彼は陣中に深く座すことになっていた。

(途中壊れた車を見た。王は徒歩で移動しているに違いない。ならばそう遠くには行かれまい。背中に羽でも生えてこない限りな。)

日も暮れてこのまま一夜を明かすかと思われた頃、一人の偵人が委縮した村人を伴って帰還した。

「ついに見つけたかっ。」

偵人と村人から報告を受けたヒン公は直ぐ様出発した。兵に炬火を持たせての行軍である。

村人の邑はここからそう遠くないところにあるらしい。

暁を見る前に着く事が出来そうである。

ヒン公の一団は再び闇の中を進んでいった。


安陽から休むことの出来なかったヘイ王は寝床を得たことで緊張の糸が切れたのか、泥のように眠っていた。

それ故、ヒン公の襲撃にも気が付かず、目が覚めた時には既に両手は縛られていた。随行していた者達も姿が見えない。ヘイ王は完全に見捨てられていた。

観念したヘイ王はそのままヒン公の下へ引き据えられた。

「出来ればこの様な事になる前に、王には行いを正して頂きたかったものです。」

「諸侯の分際で王に手をかけるか」

ヘイ王の顔は醜く歪んでいる。

「王たる者は正道を踏み、礼節でもって民を導くべきでございます。それを行えぬ者は士大夫はおろか、民すらその身を仰ぎ見ることはないでしょう。今の王の様に。」

供は一人もなく、髪や衣服の乱れたヘイ王にはヒン公の言う通り、威風は欠片としてない。

悄然としたヘイ王を見たヒン公は、自分の心裏に憐憫の情が湧くのを感じた。しかし、その情に傾く自分を振り切る様に決然と配下の者に殛誅きょくちゅうを命じた。


朝日が顔を覗かせた頃、ヘイ王の屍体は兵車の車輪に仰向けに縛り付けられて曝された。

大地に死屍を置くと復活する、とこの時代では考えられている。毎年緑が芽吹く様に、大地にはそれだけの力があるとされているのである。

その為、二度と復活出来ぬ様、こうして大地より離して曝すという行為がされる事もあった。

ヒン公にすれば、死後も自らのむすめに近づくことの無いようにという思いもあったであろう。

因みに車輪に括り付けるのは車輪を太陽に見立て、天に捧げるといった意味合いもある様である。


復讐を遂げたヒン公は粛々と帰国し、その足で祖廟へ赴きそこで自らの命を断った。復讐の為に王に手をかけたことへの清算である。

その跡は嫡子が継いだ。

これをもって、この一連の騒動は幕を下ろした。

後に残ったのは安陽の瓦礫ばかりである。


その瓦礫の中を一人の女性が蹌踉そうろうとしていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

烈国記 @dokuryu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ