動地
レイ国は先の戦いにも参加した小国である。今は首都の
ヘイ王も古礼に倣い、戦勝の祭を行うことにしたのである。
この行幸には三公も付き従い、レイ国の君主と共に盛大に祭が執り行われた。
山岳神に納める犠牲の羊は
久しい快勝に上機嫌であったヘイ王は宴の席では大いに飲み、かつ饒舌であった。
「畿内でも随一と言われたコ国の兵も見る影もなかったな。あっさりと退いていきよったわ。」
「率いる将で兵の強さは変わるものでございます。ボク公は驕りが過ぎ、兵も愛想を尽かしていたのでしょう。」
「なるほど、それならばあの時のコ侯の強さも頷けるというもの。疾風の様に攻め来んでいたからの。」
コ侯とは勿論シハクのことである。今はもうコ国の君主として君臨している。
「そういえばレツ公も良い働きであったな。巧みな用兵は流石、古来武で為るレツ国である。いや、無論レイ公の活躍も聞いておるぞ。」
「恐れ入ります。」
下座に控えるレイ公は首をすぼめる仕草をしながら頭を下げた。
ヘイ王は戦の興奮がいつまでも冷めないらしい。
この話も今に始まったことではない。三公達には聞き飽きた内容である。
笑いの絶えない宴も
「その方、顔を上げてみよ。」
急に呼び掛けられた女はびくりとした。周りも思わずヘイ王に目線をやった。
女は困惑しながらもヘイ王へ向き直り、深く頭を下げた。身分の低い者は高位の者の顔を見ることは禁じられている。直視することは無礼であるとされる。
良いのだ、とヘイ王に促されてもまだ女は顔を上げない。
「構わぬ、面をあげよ。」
身動きしない彼女に、彼女の直接の主であるレイ公が声を掛け漸く顔を上げた。それでも視線は伏せがちにする。流石にレイ公にしっかりと教育されているものであった。
ここで初めてヘイ王は女の顔を見た。
(なんとも、これは…)
なるほど、目元は流れるような
「レイ公よ」
女から視線を外さぬまま、ヘイ王はレイ公を呼んだ。
「はい。」
「この女を引き受けたいのだが、良いか。」
「はっ…、…は」
レイ公は思わず反問した。同時に三公達も眉をしかめた。引き受けるとはこの場合、
舞を舞う女等は献上されても良いように出自の明らかな者を取り揃えているが、給仕の者は只の下女である。諸侯ならまだしも、王が手を出すなどとは言語道断である。
「しかし、その者は…」
「良い。出などは構わぬ。」
「構わぬ、とは参りませぬ。王たる者が節度を守らねば、一体誰が天下の礼を遵守していきましょうや。」
そう制したのはセツ公である。
「構わぬわ。これなる女は天が此度の勝利を祝して特別にわしに遣わしたものである。拝して受けねばかえって祟りがあろうものよ。」
物は言い様である。ヘイ王は大仰に天へと拝する仕草をした。
(いくら酔っていても許されぬこともある。)
なんとか諫めたいセツ公であったが、レイ公は既にどう話を
(これでは必ず天に背かれる。)
セツ公は頭痛を覚えた。しかしこの場にいる者は誰一人としてセツ公を擁護しないままであった。
岐山への祭を終えたヘイ王らは帰国した。
その後、レイ公は急ぎ支度を整えた。女の名はヨウと言ったが、レイ公はこれを自らの養子とし、その上で入嫁させることにした。これで名目上諸侯の
それからのヘイ王のレイ后への入れ込み様は相当なものであった。
ヘイ王には既にこの時、正后であるヒン后がいた。この后は名の通り、ヒン国から来ていたが、ヘイ王はこのところ全く彼女に顔を見せることが無かった。その寂心をヒン后は国のヒン公へ届けていた。
ヘイ王の熱烈な愛情を受けたレイ后は、翌年身籠った。さらに翌年に無事男子が産まれた。子が産まれるのは喜ばしいことだが、これが男子であったことは醜争の始まりであることを意味した。
レイ后の子が二才になった年、俄に王宮が騒がしくなった。
春官の集まる宮殿にもその話題は波及してきていた。
「どうやら、王が遂にヒン后を廃退なさる決意をされたそうな。」
囁き合う官人らの顔はみな険しい。同じく春官を務めるシンカンも同様である。
(ここ最近の朝廷は本当に暗い話しか出てこない。)
ユウ国のカン公など新たな実力者の台頭や、それに伴う王権の低迷、どれもこのジ国には一つも益のない事柄ばかりである。
「と言うことはやはり、レイ后が正后へと昇るのであろうな。」
最早ヘイ王のレイ后への傾倒ぶりは王宮内では周知のことであった。男子が産まれた時点でこの事態は想像し得たことである。
「三公は何をしておられるのだ。」
シンカンはやや憤りながらこの会話に参加している。
「セツ公とロウ公は機を見てはお諌めしておられるとのことだが…」
事実、この二人は愚直に諫言を繰り返していたが、ヘイ王は、
「既に決まったこと。」
と、まるで耳を貸そうとしない。
「…この事はヒン公もご存知か。」
シンカンのこの問いに、同僚の者達は顔を見合わせた。
時を同じくして、急な降格を告げられたヒン后は身も世もなく泣き腫らしていた。彼女からしたらそうなるのも当然である。正に青天の霹靂と言える事態であった。
王が他の后を愛するのは構わない。いや、実際のところそれもヒン后はいい気分ではないのだが、よもや正后を取り換えるまでするとは、天下の長たるジ王のすることではない。ジ王がこれでは、一体正道をどこに見出だしたら良いのか。
ヒン后にも子はいた。十歳になる娘と、八歳の男子である。ヒン后はこの幼い男子が次のジ王になると信じて疑わなかった。
(それが一夜で…)
止まらぬ涙を拭うことなく、彼女は父であるヒン公へ書簡をしたためた。
馬を飛ばして僅か二日で届けられた書簡に目を通したヒン公は直ぐさま安陽へ向かった。
ヒン国はジ国よりすると南西に位置し、タイ国に接する小国である。
旅塵を落とすことも厭い、そのままヒン后と会ったヒン公は我が目を疑った。
僅か数日で娘の身体はすっかり痩せ衰えていた。生きる気力が全く感じられない。それでも涙だけは流れ続けている。
その側で二人の孫が心配そうに寄り添っていた。
この二児は健気に母の涙を拭き取っている。
この様子を見たヒン公は
(一体王は何を考えているのだ。)
ヒン公は心中でヘイ王を罵倒した。
彼はそのままの姿でヘイ王の元へと向かった。 尋常でないヒン公の様子に取り次ぎの官人は肝を潰し、転がるようにして王の下へ走っていった。
その官人に呼び出されたヘイ王は心底嫌そうな顔をした。
(やはり来たか。)
ヘイ王の考えは自らが継がせたい者を次代の王にするのが当然である、というものである。
ヒン后の男子よりもレイ后の方が良いと判断したのだから、それに異論を差し挟む余地はないではないか、と思っている。
ただ肝心のレイ后の子はまだ数えで二才である。一体何をどう判断出来るというのであろうか。
ヘイ王はさらに
「祖霊もこの子が善いといわれておる。」
ここまで出てしまってはもう誰に何を言われても覆ろう筈もなかった。
ヒン公が宮殿へと参上した。いくら怒りがあっても、上下の礼を忘れないところが、ヒン公の美徳と言える。
「恐れながら、此の度はわが娘が至らぬばかりに王のお側を離れることになったとの由、これも我が身の不徳ゆえかと存じ、急ぎ参じた次第でございます。」
「うむ、遠路大儀である。」
ヘイ王は中々本題には入らない。
「此度の
「后に落ち度はない。後継ぎが決まったゆえ、その母を正后に据えたまでじゃ。」
この間もヒン公は顔を伏せたままでいる。王の顔を見るのは無礼であるからである。しかしその顔が徐々に上がりつつある。
「落ち度はなく、別の男子を後継にするためにそうなされた、と。」
「そう申した。」
ヒン公は先代ジ王の時に君主となっている。ジ王とは年は親子ほども離れている。
「正后の子が後継ぎになるがジ国の古くからの習い。それを跡継ぎさせる子の為に母を正后にするは逆さまでございます。容易く倣いを破るは夷狄の族にも劣る行い。全ての国の長たるジ王がこの様に進んで礼を破るとあっては一体この天下に礼を守る者がおりましょうや。そうなってはもはや世人が勝手な振る舞いをしても咎めることは出来ず、末は上下の分を弁えぬ者を増やすばかりです。」
これは暗にユウのカン公やタイのブン公の出現をジ王の落ち度であると非難している。この時にはもうヒン公の顔は上がり、真っ直ぐヘイ王を見据えていた。その眼はヘイ王の顔面に穴を空けんばかりである。
このヒン公の皮肉は流石のヘイ王にも通じている。
「この話はもう決まったこと。祖霊への卜も吉と出ておる。ということは先祖も異論はないという証じゃ。もはや覆すことなどはせぬ。」
ヒン公の視線を振り払う様に、ヘイ王は顔を背けた。
この後はヒン公がどれだけ問い質しても無駄であった。
うんざりしたヘイ王は適当に話を切り上げ、さっさと奥へ引き払ってしまった。
その日ヒン公からの話を聞いたヒン后は、横になったまま起き上がらなくなった。聞けばもはや食事も摂っていないとのことであった。
心配したヒン公は数日看病のために滞在したが、その甲斐もなくヒン后は失望の色を湛えたまま息絶えた。
ヒン公は悲嘆した。これではヘイ王が殺したようなものである。彼はヘイ王にヒン后の容態を伝えてはいたものの、遂に王はヒン后の元を訪れなかった。
二日後にヘイ王からの使者が訪れた。
「
正后でないとはいえ、后の一人である。葬られるならジ国で葬送を行うのは当然である。
それをしないということは、
(
あまりの仕打ちにヒン公は震慨した。沸き上がる怒りのために全く震えが止まらない。
(これでは我が女の生は何だったというのだ。)
いいように振り回され捨てられた。それだけの人生であったというのか。
(もはや許さぬ。)
この時からヒン公の顔つきは全く変わってしまった。それはまるで復讐に取り憑かれた鬼神のようであった。
その後ヘイ王の元にはヒン公からの受諾の使者が訪れた。
(やれやれ、これで片が付いたわ。)
ヒン公の顔を見ていないヘイ王に、ヒン公の変心を気取ることは出来ない。
ヒン公は安陽の
ヒン公が安陽を去ってから一月後、安陽では変わらぬ日々が続いていた。春の陽光は眠気を誘う。そんな
この日もシインはランソクと共に学舎へと通っていた。
学舎から戻ると、
「おや、シインさま、お帰りなさいませ。」
少し白髪の混じる年となったこのランソクの父は、今でもシイン母子に付き従ってくれている。
老いた身で今さら出仕など、と固辞するものの、その立ち振舞いに衰えはない。
「今日の晩御飯は何かな。」
庭に漂う匂いを嗅いでシインは空腹を覚えた。
既に厨では晩御飯の支度を始めている様だ。
「鳥を料理すると言っておられましたな。シイン様の好物ですな。」
にこやかに答えるランキの言葉を聞いたシインは、帰宅もそこそこに厨へと走った。
そこにはいつもの様に母シンユウが側の者と共に料理をしていた。
「あら、早いお帰りですねシイン。」
てきぱきと支度をこなすシンユウは手を止めてシインに向かった。シンユウもまた歳を感じさせない麗しさがある。
「今日は鳥だとか。ランキが言っておりましたよ。」
「そうですよ。たまにはそなたの好物も作らなくてはね。今から丁度鳥を買いに向かわせるところでした。」
「それなら、私が行ってきます。その方が早いでしょう。」
まあ、と言ってシンユウは笑った。
「そんなに急いで作らなくとも、料理は逃げませんよ。」
当のシインはもう用意にかかっている。
「大きくて良い鳥は逃げ足も早い。他に買われる前に行ってきます。」
ランソクが急いで後を追った。
「シインさま、私も。」
「いい、ランソク。ちょっと行って来るだけだ。待っていてくれ。」
そう言いながらシインは軽快に邸を後にした。
シインがそうしている頃、安陽の城壁にいる守兵は退屈そうに外界を眺めていた。ジ王のいる都市なだけあり、ここが危険に曝されることなど皆無である。そういう事もあってか、彼らの緊張感は全くと言っていいほどない。
交代の時まで我慢をすれば、あとは帰って酒肴を楽しんで寝るだけである。この者の日常はそれの繰り返しである。
変わらぬ景色をつまらなそうに見ていた彼であったが、ふと気づくといつもとは違う砂塵を認めることが出来た。
目を凝らしてみると、砂塵の中には人馬が見える。
(
狼戎とは安陽の南方域を拠点とする遊牧民族である。古くよりジ国の征伐の対象となってきた部族で、気性の荒さは周辺国によく聞こえている。
同僚を呼びに走った彼が再び戻ってくると、さらに違う砂塵が現れていた。
今度は人馬の間に流旗も見える。
「あの旗はどこのものだ。」
「良くは見えないが…ヒンのものではないか。」
新たに来た守兵の言うとおり、この軍団はヒン国のものである。
実のところこの軍団は彼らの守る南方だけでなく、東方、北方からも進軍してきていた。だが、この大軍団は何故か荒々しさはなく、整然と進み出てきている。そこに異常なものを覚えた城壁上の守兵たちは、今一つ危機感を覚えることが出来ず、しかし各所への報告は行った。
この日、安陽内にはセツ公が参朝していた。普段通りの政務を宮殿内でこなしている。
そこに、静かに連絡が入った。
「先ほど城壁からの報告で、狼戎が安陽に向かっているとのことでございます。」
「なに。この地を荒らしに来おったのか。」
「いえ、そのようなことでは無い様子、との報告でございます。」
奇妙な報告にセツ公は首をかしげた。そうで無いなら一体何事であるというのか。
その後すぐに別の者が入室した。
「狼戎と合わせて、ヒンの軍も来ているとのことです。」
「ヒンが…」
しばらくこの状況を己の中で咀嚼していたセツ公は、突然はっとして立ち上がった。
(ヒン公が攻めてきた。)
来訪者の意図を看破した彼は、同時に全身から大量の汗が吹き出してきたのを感じた。
「まずい。直ぐに王に退去の準備を申し出よ。汝は城門へ走り、必ず開門するなと厳命せよっ。」
そう言い残すや、セツ公は自らも戦いの準備に取りかかるよう周りの者に命令した。
このセツ公の命令は拙速であった。既に城門下までヒン軍は詰め寄せていたのだ。
「当方はヒンの旅(軍)である。戎族の投降に随伴して参った。ヒン公も参上されておる。即刻門を開けられたし。」
そう言われればなるほど、林立する旗はヒンのものであるし、狼戎が騒がずに行軍してきたのも投降であるならば頷ける。守兵は疑うことなく首肯した。
ヒン公までも来ているならばこちらも粗相は出来ない。一先ず城門を開きその上で改めて誰何すべく、守兵の長は部下に開門の命令をした。
重く大きな扉がゆっくりと開かれた。
最初に城門を出た守兵は眼前のヒン兵が戈を構えていることの意味が理解出来なかったであろう。
瞬く間に囲み込まれ、その群がりの中で絶命した。
雄たけびと共に状況が一変した。決壊した堤の水のように怒濤の勢いで侵入するヒン軍と狼戎は手当たり次第に破壊、襲撃を行った。それは危険を報せる速さを超えていくものであった。城門付近にいた民はその殆どが驚きの声すらあげる暇もなかった。
勢いを失わないヒン軍はそのまま王宮へとひた走り、略奪を目論む狼戎たちは街下へとなだれ込んでいった。
シインはその騒音を遠くで掴んだ。彼がいる市場はヒン軍らが強行した南門からは少しく離れている。
しかし、シインは常ならぬ空気に、
(これは何かおかしい。)
と敏感に感じ取った。
何者かに侵入を許したと直感した彼は、手に持った鳥を放り投げて騒ぎの方へと駆け出した。このあたりの危険察知力はジ国の守兵とは違い卓抜したものである。これは或いは、物心つく頃に一度経験している過去の惨事の
しかし彼が走り出した真の理由は、その方の街にはテキ、シン、ガンたちの家があったからだ。
何かあれば助けに行かなければならない、そうした思いが考える前にシインの体を動かしていた。
彼らの家まではそれなりに遠い。全速力で走っていては途中で息切れしてしまう。それでもシインは構わず駆け抜けた。
徐々に騒ぎを聞き付けた街の者達が表に出て来ては、逃げる支度に取りかかっていく。その者達とは逆行するようにシインは搔い潜り進んだ。
突如、角から騎馬兵が現れた。
「夷狄かっ。」
何者であるかは身なりから用意に伺い知ることができる。
何も武器を持たないシインは相対することを避けた。今はとにかくテキ達の安否を知りたい。そこから裏道を使って進んだ。
細い裏路地を走りながらもシインは考えを巡らせた。
夷狄の者達は一体どうやって城内に侵入したのか。正面から堂々攻め込んだのならば、ここまで混乱した状況にはならないだろう。城門をくぐるまでは穏便に事を運んでいたことになる。
(まさか、地の底を掘って進んだ訳でもあるまいし。)
そうなるとやはり裏で手引きをした者がいたことになる。
(かつてのレツと同じような状況であるということか。)
最近になってシインはランキからレツ国の
(なぜ。)
この疑問は今の状況への問いへと重なる。
この世の出来事は様々な人の思惑が複雑に交錯して顕現するものである。
その深奥さはまだ十代半ばのシインには考えの及ぶところではなかった。
不意に裏路地へ駆け込む人影が現れた。
(あれは、)
見た顔である。シインと目があったのはヒセキであった。
常にシインに冷眼を向けてきたヒセキであるが、この時ばかりはそうも言っていられない。
彼も息を切らせながら、
「お前がなぜここに来ている。」
と問うた。シインの住む区域はいわゆる貴族層のところになる。
こんな下級層の区に用はないだろう。ヒセキの言葉にはそうした意味が含まれている。
「友を探している。」
シインは真っ直ぐにヒセキを見た。
ヒセキはその澱みない視線を逸らすことなく受け止めた。この会話はほんの一瞬のやり取りである。
その一瞬にヒセキの冷たい脳はくるりと回転した。
「お前の友人らはまだ家の前にいたぞ。」
ヒセキは家の所在はおろか、その友人の名すら覚えていない。ただ、そう言うことでシインが迷いなく襲撃のただ中へ赴くことを推察した。狙いはシインの被害それのみである。この男の悪意に満ちた機知は凄まじいものがあった。そしてこのヒセキの一言が、その後のシインの運命を暗く転落させるものとなった。
「すまない。礼を言う。」
シインは欠片も疑うことなく、ちらりと笑顔を向けてテキ達の家のある方へ再び駆け出していった。
それを色のない目で見届けたヒセキはより人気のない方へと姿をくらましていった。
速度を早めて走り出したシインはすぐにテキの家に辿り着いた。
しかし、肝心のテキ達がいない。
(もう避難したあとか。)
入れ違いになった可能性がある。シインは必死に彼らが取った道がどちらかを考えた。
その時、後ろで悲鳴がした。振り向くと老婆が地に伏せている。騎乗した狼戎に襲われたのであろう。
シインは咄嗟にその老婆の方へ駆けつけた。放ってはおけない。彼はそういう人間である。
「大丈夫ですか。」
老婆は少し片腕を切られていたが、深くはない。シインは老婆を安全な場所へ移そうとした。しかし、そうしている間に新たな狼戎が接近してきた。
迎え撃つべく周りをみたシインは、近くにあった手ごろな棹を掴んだ。
聞き慣れぬ声を上げながら敵が走り寄ってくる。彼らは曲刀を好んで使う。それを駆けながら馬上から振るうのである。
シインはその素早い攻撃に合わせて棹を繰り出した。シインの一撃は馬上の刀が振り下ろされるのとほぼ同時である。彼は攻撃を躱しながら反撃していたのだ。そしてシインから放たれた棹は的確に狼戎の喉元を抉りこんだ。
敵は馬から転がり落ち、そのまま起きることはなかった。
これがシインの初めての実戦であった。殺意あるものとの対峙、しかし彼はそれをものともなく攻略した。
(我も十分戦える。)
彼は湧き上がってくる熱い高揚を覚えた。自分の技が通じる。これならもう戦場に出ても遅れは取るまい。
そう確信した時、突如視界が黒く吹き飛んだ。
突然のことに、シインは後頭部を殴打されたことも認識出来ていなかった。
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