邵の戦い

シイン達がジ国の首都安陽で学問を続けている間に、ユウ国ではカン公が亡くなり、タイ国ではブン公が立ったことは既に述べた。そしてジ国でも数年前にトウ王が崩御してその子であるヘイ王が治める世となっていた。この王もジ国を再興させる程の手腕はなく、近隣の国に面目を保つのがやっとであった。ジ国の周辺を王畿などと言うが、この王畿は主にジ国のけいなどがジ王から封土を賜ったもので構成されており、それぞれがそう大きくもないが高い格式と精強な兵、車を有していた。しかし、昨今の覇者などの台頭により彼らの力も相対的に弱まっていた。

そうした王畿の中に、セツという国があった。爵位は公爵で、嘗てのレツ国と国情はほぼ同じと言ってよい。

このセツ国の君主が現在のジ国の三公の一つ、「太傅たいふ」に就いていた。

三公という官職はジ王の次席とも言える地位であり、ジ王朝下での実質的な極位と言えるであろう。

因みにこの下に卿がくる。ジ国以外の国には三公は存在しないので、諸侯国下での最高官職は卿ということになる。この卿にも上下と格付けがある。例えばユウ国で絶大な手腕を振るったトウシュクは下卿であった。このように王朝内での官位制度は細かく、複雑である。


「ユウのカン公の次は、タイ侯か。」

セツ公は呟く様にして同席する二人へ水を向けた。

「キ姓とは言え、主家を乗っ取った傍流の家であるぞ。その様な者が台頭するとは、世も末ですな。」

「と言っても、無視をするわけにもいくまい。」

それぞれ相槌を打ったのが、三公の二人、ジン公とロウ公である。ジン公は太師たいし、ロウ公は太保たいほである。

先の政争を制した現タイ侯のジュウビ(ブン公)は、腹心の大夫らに恵まれたこともあって旭日の勢いで力をつけていた。既に他国の争いの仲裁に入ったりと、かつてのユウ国同様の存在感がある。

三公達は心情としては承服しかねるが、現実的にタイ国の力に頼らざるを得ない部分も出てきている。

「出自はどうあれ、タイ侯も今は我らが天子にもしっかりと勤めておる。ここは紐帯を締めておくに越したことはないであろう。バン国の例もある。」

セツ公がたしなめた。確かにジ国に忠を示すのであればその武力を借りて天下の安寧を図ることはできる。十数年前のバン国の様に野心を丸出しにして迫られるよりは遥かに良い。

彼ら三公の悩みは多い。

いつ頃からか衰えたジ国の影響力をこれ以上下げないようにと尽力しているのだが、それも砂上に楼閣を建てる様なもので、容易く崩墜していく。

王においても、感情的な言動で身を危うくすることもしばしばで、現に先代のトウ王も軽率な行為で国から逃げることとなり、結果命を短くすることになった。

内憂外患とはこのことであろう。嘆息することが多くなった彼ら三公だが、時代そのものの流れが少しずつ変化していることには流石に気が付かない。それはカン公やタイのブン公などが、爵位を超えて台頭してきているという事実である。もっと言えばカン公の下で力を発揮したトウシュクなどの存在も同様である。ジ国やその周辺国では上級官職は全て氏姓で決まる。出自の明らかでない者が要職を得ることは絶対にない。それはジ王という柱を支える確かな人物として、初代ジ王の近親者で固められたことから連綿と続いている。最も信頼の置けるものは血縁者、つまりは同姓の家ということであったからだ。

それ故ジ国の周りの国はそのほとんどがジ王と同じキ姓である。シインもその例外ではない。

この制度を礼という形でもって六百年以上も守り通してきたのだから、三公を始めとする中央の人間はその轍を外れた存在が朝廷に参入しようなどは全くの思慮外であったであろう。氏姓を超えて賢能を用いることが国にとってどれほど有益であるか、彼我の国力の差がそこから生じていることを認識出来ないところに落度おちどがあるのだが、それは立場上仕方のないことなのかもしれない。体制を改めることは英断と揺るぎない覚悟が必要である。王でもない彼らにそこまで求めることは酷であろう。しかし、時流は待ってはくれない。

そしてまた新たな火種がこの王畿にも撒かれようとしていた。



ジ国の西にコ国という国があった。この国の祖は八代目ジ王の同母弟にあたり、封国当初から強力な武力で近隣の国を圧倒した。当時はこのコ国の親政でジ王朝を運営しており、初期の覇者のような位置合いであった。しかし、やがてジ王とは反目するようになり、度々衝突を繰り返した。結局はジ国ともつれたまま、同じように没落していった。

現在の君主はボク公である。彼にはシハクという異母弟がいた。ボク公は即位の際にこの弟と君主の座を争った過去がある。シハクはこの政争に敗北し、今はジ国へと逃れている。

このボク公もあまり聡明な人物ではなく、勝手な振舞いをしては国内の大夫達の反感を招いていた。

やはり君主には相応しくない、とコ国の大夫らは相談し、シハクを国に迎え入れようと画策を始めた。


安陽の都は巨大である。方十五里(約六キロメートル)という広さで、これは勿論当時最大級のものである。その中で、宮殿に仕える大夫らの住まう区画に三公らの邸宅がある。三公は采地さいちを与えられているが、王の輔佐をするために別途安陽内に大邸宅を与えられる。その邸宅の一つ、セツ公邸に入っていく人影があった。


日も傾きつつある邸宅内は、既に灯りがともされている。

「この度はお目通り叶いましたこと誠に幸いの限りでございます。」

辞を低くして挨拶をするのはコ国の卿の一人、シヒョウという者である。

「珍しいことであるな、シヒョウ殿がわざわざ我が邸宅に参るというのも。」

そういいながら目を細めるセツ公には若干の疑惑の色がある。これまでのジ国との関係を思えば訝しむのも無理はない。

「これまでの我が国との事を思えばそう思われても仕方がありますまい。しかし、そのわだかまりりも今日で無くなるものと思われます。」

セツ公の片眉がわずかに反応した。

「ほう。それは如何なるわけかな。」

シヒョウは最近のコ国の情勢を説明した。

「既に我が君公の声望は尽き、民はその命を聞いてはおりませぬ。このままでは腐れた実が枝から落ちる様に我が国は自然と滅びるでしょう。」

「ふむ。」

セツ公は先を促した。

「そこで我々は公を追い、このジ国に居られるシハク様に還っていただくつもりです。」

シヒョウはまっすぐにセツ公を視た。既に腹は決まっている様である。

「そうか、そういえばシハクどのが居られたか。…して、貴殿の謀は分ったが、それが私にどう関わりがあるというのかな。」

シヒョウは腹中で舌打ちをした。

(分かっておるというのに、あくまで知らぬ体か。)

面倒事は避けたいセツ公にシヒョウは食い下がった。

「是非とも出師すいしのお願いを致したく存じます。我らの兵のみでは心もとなく、シハク様へも兵をお借りしたい。それにジ国が出るとなれば畿内の他国へも要請が容易くなります。ジ国も出る戦となれば勝ちを確実なものにし、ジ王の威光をより強固なものにしたいのです。」

「ふむ、そこまでお考えか。」

そこで、セツ公は腕を組み小さく息を吐いた。

「しかし、頼み事とはいえ、王自らが狩りをして供物を得られぬのであれば祖廟を祀ることもできぬ。」

言外に、ジ国の利益は何処にあるのかと問いかけている。

(来たな。)

勿論シヒョウも相手がこう出てくることは百も承知である。

「シハク様がお戻りになられた際には、我が国のえんきょうを献上致します。」

偃と况は共にジ国とコ国の境界にある邑である。偃に関して言えば、もともとはジ国の領地であったものを過去にボク公が掠奪したものである。

これを悪くない条件だとふんだセツ公は肯首した。

「そこまでされると言うのであれば、こちらも否とは言えますまい。早速明日王に奏上致そう。結果はこちらから使者を出しお伝えいたす。」

「お聞き入れ下さり、誠に感謝の言もございません。」

シヒョウは謝辞を述べると速やかにセツ公の邸宅を発ち、その足でシハクの邸宅へと向かった。

シハクが隠棲している邸宅はセツ公のものと比べると劣るが、それでも十分な広さを有している。シヒョウはやや周囲を気にしながらその門をくぐった。

シヒョウが来訪を告げると、直ぐ様奥へと通された。

その先の部屋では、既にシハクが座しており、シヒョウが入るや声高に呼び掛けた。

「どうであったか。」

この様子ではシヒョウがセツ公に面会している間、きっとどこにも腰を落ち着けずに屋内中を徘徊していたのであろう。

シハクも壮年である。今のボク公よりも十ほど年が離れてはいるが、それでももう若いとは言えない年齢である。その分の焦りもあるのであろう、最近とみに性急な質となっていた。

「セツ公の許諾は得られました。あとは王が善しと言われるか否か」

「そこは心配ない。毎々に私が面会し、手元の少ない宝物を捧げて訴えてきておるからの。三公さえ抑えればこちらのものよ。」

シヒョウが言い終わらぬ内に畳み掛けるようにシハクは答えた。シヒョウはこれにほんの少し不愉快さを覚えた。

「なれば次の手は、レツ国など周辺の国々へも出師の誘いを訴え、コ国を孤立させましょう。」

「なるほど、それは妙案である。すぐに取り掛かるがよい。」

既にシヒョウが直臣であるかの様な態度である。これに対してもシヒョウは引っかかるものを感じたが、今はそれからは目を背けた。


セツ公はシヒョウの請願を聞いてから数日の後に折を見てヘイ王へ上奏した。

「なに、コ公を逐う計画があるとな。」

「左様でございます。今このジ国に避難しているシハクを新たに立てる為、王の出師及び軍をお借りしたい、とのことでございます。」

「なるほど、シハクは熱心に我の下に来ては帰国の願いをしてきておったからの。それに今のボク公は先代の怨みもある。これを機にコを叩くことにしようか。どう思う、シベンよ。」

シベンはセツ公のあざなである。

「善きご決断かと。既にシハクの代わりにコの卿が王畿の国々へ向かっておるようです。」

「ならば我の名をもって呼びかければすぐに万乗の車が集うことになろう。この旨その者にも伝えるがよい。」

「わかりました。ではすぐに通達いたします。」

王が立つと触れ渡れば、後は速やかであった。従う国はセツ、ジン、ロウ、レツ、ショ、レイ、イなどである。セツ、ジン、ロウは三公の国、レツはシインのいた国である。

事ここに至り、コ国もこの動きを察知した。やや後手に回るものである。

シハクがジ王の援助を得たと知ったボク公は苦々しい表情を浮かべたが、過去にジ国とは戦で勝利しているのでその態度は落ち着いたものであった。

「小石がいくら集まろうとも、山どころか、岩にもならぬわ。」

ボク公はすぐに戦の準備を進めるように臣達に下命した。


コ国という国は交通の要衝とも言える重要な地を占めており、それ故古来より往来の盛んな所でもあった。

ここから、東に行けばジ国、西へ向かえばユウ国、北はバン国、南はタイ国と、殆ど地形的な妨げを受けずに行くことか出来る。ジ国の隣ということもあり、物品が自然と集まり、商人の力も他国よりも強い。

この経済的な強さがコ国初期の国力を後押ししていたが、近年ではこの交通の良さが仇となり、強国化した列強に真っ先に狙われる様になっていた。

現在ボク公の代にはユウ国へくみしている。レツ国がバン国に強襲された時には、すぐにバン国へ靡いている。その後ユウ国がバン国に戦いを挑み勝利すると、今度はユウ国に付いた。他国からしたらこの節操の無さには立腹していることであろう。

しかし強国に対してはこの様であるが、畿内ではまだまだ力関係で劣るものではない。


季節は冬の中頃である。両軍はしょうという地で対峙した。

この地はジ国の領域内で永河の北縁に近い。ここから東進すればジ国へと入ることが出来るが、そこには険阻な山々がり出してきており、侵入路は狭くなっている。ジ国はこれを天然の要塞として利用していた。

ジ王とジ国の兵を借りたシハク、そして連合軍は総勢一万六千、対するコ国のボク公は一万と数の上では劣勢であるが、統率の面ではこちらの方に分があった。


コ軍の進軍の鼓により両軍の戦端が開かれた。

連合軍上軍にはセツ公などの三公が布陣していた。まずこの軍とコ軍の下軍が衝突した。両軍ともに戦歴を積んだ勇兵揃いなだけあり、その戦闘は激しいものとなった。その様子を見たコ軍のボク公は支援に入る形で下軍の背後に詰めるべく移動を開始した。


それを対角で俯瞰していたシハクは、

「あれに見えるがシユウ(ボク公)か。」

とボク公を認めるや、俄に軍を発してボク公のいる中軍に突撃した。性急な質はここでも露呈した。

進軍の鼓をせわしなく鳴らさせて、自らの兵車を全速力で押し出した。

周りの兵は驚いて後を追う。その勢いのままにボク公へと殺到した。

「シユウはいずこか。」

シハクは大声で叫びながらボク公を名指しで捜し回った。ジ王から兵を借りて負ける訳にはいかない。この機会を逃がせばコ国へ返り咲くことは一生出来ないであろう。彼にはそういう焦りもあった。

ボク公の方も迫るシハクを見つけるや、

「見苦しく我が地位を求めるシハクよ、汝のような貪欲な者は今ここで討ち果たしてくれよう。」

馬をシハクへ向けて、弓矢をつがえた。

舗装されていない平野で兵車に乗りながら射撃を行うのは、相当な熟練を要する。混戦となれば尚更である。

何度か撃ち込まれたボク公の矢はシハクの身体を辛くもり抜けた。シハクも黙ってはおらず、反撃の矢を放った。彼らは互いに旋回しながら、激しい応射の一騎打ちを繰り広げた。


このシハクのいる中軍の中には、レツ国の軍も組み込まれていた。率いるのはシインの叔父にあたる、かのシコウである。突発的な進軍に遅れまいと急行して先塵を追っていた。

「この様な無謀な戦いぶりでは、危うい。」

彼はこの時も表立った行動ではなく、援助し危険を回避する方法を考えていた。嘗てのレツ国時代の長く染み付いた癖の様なものである。

この頃のレツ国は、コ国と似たような環境にあった。先のバン国の侵攻にって、二国とも降らざるを得なかった。ただ、強硬に抵抗したレツ国に対して、コ国はあっさりと降った点は大きく異なる。

その後、ユウ国の台頭を受けて、二国ともバン国からユウ国へと乗り換えた。しかし今度はユウ国に蔭りが見え始め、代わりにタイ国が世を席巻している。こうなると今度はタイ国の顔色も窺わねばならない。そういう日和見をしなければならなくなっている。

加えてシコウには父や弟たちを裏切ったという過去がある。

その自責の念がシコウを悩まし続けてきていた。

その陰は彼の相貌にも表れていた。やつれ気味で暗さを纏わす姿に嘗ての威風は見られない。

(国を思えばこそ、仕方のないことであったのだ。)

(あの勇ましい先代やシキョウと共に誇りを持って全うすべきであったか。)

この二つの自問を延々と繰り返す日々を彼は過ごしている。


(しかし私にはこのレツ国を存続させる義務がある。)

シコウには何人かの子供がいる。そのうちの一人はシインと同じ年頃の男子であった。シコウはこの男子に跡を継がせる気でいる。

それまでは必ず国は残す、と心に決めている。


シコウは猛進するシハクの軍の行き先を推察しながら、採るべき行動を考えていた。

今回の戦いの為に各国の軍は一度集会していた。そこで盟を行い、目的を明らかにしてから進軍するのが当時の習いである。

その際にシコウもシハクに会っている。彼から見たシハクの印象は「短慮」であった。

(シハクは常にボク公のみを意識した様子であった。ならばこの軍の向かう先は中軍のボク公の軍であろう。)

そのコ国の中軍が下軍の後援に回る所までは確認している。

流石に直ぐにはシハクの軍も崩れないであろうと予測したシコウは、後を追う途中で進路を変更した。

「我らは下軍へ突入する。鼓を打て。」

シコウはシハクの軍が縦列した敵の中、下軍へ斬り込むことで敵軍が分断され、結果、先に立つ下軍が連合軍の上軍とシハクの軍とに挟撃される形になると読んだのだ。事実、コ国の下軍と中軍の一部はシハクにより背後を断ち切られた様な形になっていた。

シコウの軍はその動揺を見逃さず、この軍の横腹に痛撃を加えた。

三方に敵を迎えた下軍は持ち堪えられるはずはなく、逐われる形で後退を始めた。

下がる下軍を見たボク公であったが、執拗に食らい付くシハクのせいで思うように指揮がとれない。

そうしているうちに、遂にシハクの執念の矢がボク公の右胸に突き立った。

車上に伏したボク公を見た中軍の兵はもはやこれまでと撤退の構えを見せた。

こうなっては勝敗は決したようなものである。ボク公はそのままコ国へ入らず更に西のキュウ国へと逃れた。

この邵の戦いでシハクはコ国へと入り、そのままジ国の働きかけもあってコ公になった。もとより声望の低かったボク公であったので、コ国の民はこれを歓迎した。


こうしてコ国の政変はこれで落着したのだが、火種はこれでは収まらなかった。

その宿命の炎はシインの足下にも及ぼうとしている。

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