鎮圧
初夏。
シェーンブルン宮殿のバルコニーの下を、松明を持った国民兵が、行進していく。
ヨーハン大公妃アンナは、バルコニーに立ち、それを見下ろしていた。
赤々と燃え盛る松明が、きれいだと思った。
彼女は、国民守備隊の発起人として、名を連ねていた。つい先日も、隊旗授与式に参加したばかりである
「メラン伯爵夫人に感謝を捧げる!」
「我らが国民守備隊の守護者、美しきメラン伯爵夫人、万歳!」
メラン伯爵夫人というのは、アンナのことだ。ヨーハン大公との間に生まれた息子が与えられた爵位により、彼女も、こう呼ばれている。
メラン伯爵の名を提案したのは、メッテルニヒだった。メランというのは、南チロルの景勝地の名だ。
その頃既に、政治能力のない皇帝を傀儡に、旧弊な姿勢を崩さないメッテルニヒは、時代からの乖離を自覚していたのだろう。
敵も増えるばかりだった。
彼は、国民に人気のヨーハン大公を、味方につけたいと考えたのだ。
メッテルニヒは、自分がさんざん「監視」をし続けた、アルプス王ヨーハンに、いざとなったら、頼る腹づもりだった。
「メラン伯爵夫人、万歳!」
「心からの感謝を。万歳!」
歓呼の声は、鳴り止むことをしらない。
若々しい声だった。兵士たちの大半は、学生たちだ。
国民軍は、皇帝の命令で作られた、半ば官製の軍隊だ。王族守護を建前としている。
しかし、民衆である彼らは、たやすく、
国民軍を、皇室の軍隊と共存させ、皇室警備に当たらせるために、アンナは、一役買ったのだ。
ウィーンに革命の起きた今、民衆を宮廷に繋ぎ止めることは、彼女にしか、できなかった。
アルプスの郵便局長の娘にしか。
かつて、ヨーハン大公の、村の情婦、田舎妻と蔑まれ、宮廷に居場所のなかった、彼女にしか。
ヨーハンは、部屋の中から、妻の後ろ姿を見守っていた。
メッテルニヒがいなくなった後、国民に人気の高いヨーハン大公が、摂政についた。
彼の甥である
バルコニーの下から、国民兵たちの、歓声が上がった。妻が、それに手を振って、応えている。
ヨーハンは、窓辺へ近寄った。
昼間なら、室内からでも、地平線に浮かぶグロリエッテ(シェーンブルンの庭園にある、ギリシア風の記念碑)が見える筈だ。だが今は、遠景は闇に沈み、ただ、松明の灯りのみが、時ならぬ明るさで燃え盛っている。
漆の部屋へと続くこの部屋は、かつて、ナポレオンが占拠し、陣頭指揮を取った部屋だ。
ヨーハンと、兄のカールが負けた戦いで。
そして、
フランツなら、どうしたか。
3月この方、ヨーハンは、考えずにはいられない。
あの時、荒れ狂う群衆の中に進み出たのが、アルブレヒトではなく、フランツだったら。
群衆は、彼に、投石しただろうか。
陣営に戻り、フランツは、民に銃を向けることを許したか。
無益な問だった。
フランツは、とうの昔に死んでいる。
……彼は、ウィーンにいては、いけなかったのだ。
「夜露は体に毒だ。そろそろ中に入りなさい」
ヨーハンは、バルコニーに出ていった。妻の横に、並んで立つ。
「いいえ、あなた。みんながこんなに喜んでくれるんですもの。ここを離れることなんか、できないわ」
兵士たちに手を振り続け、アンナは答えた。
突然現れたヨーハンの姿に、兵士たちの熱狂は、いや増すばかりだ。
「若いのね。みんな、すごく若いわ……」
手を振りながら、アンナはつぶやいた。
「あと10年もしたら、私達のフランツも、こんな風になるのかしら……」
二人の息子、フランツ・ルードヴィヒは、まだ9歳だ。
「兵士にはしたくないな」
ヨーハンは答えた。
「皇室を守る兵士には、特に」
◇
10月に入ると、逃亡中の皇帝の名で、オーストリア全土から、ウィーンへ、軍隊が差し向けられた。
血なまぐさい戦闘の末、皇帝軍は、ウィーンを制圧した。殺されたのは、その多くが、郊外に住む、貧しい
年末、皇帝フェルディナンドが退位した。18歳の甥、フランツ・ヨーゼフが、後を襲った。
数年後には、全てが、元に戻った。あんなに憎まれたメッテルニヒさえ、ウィーンに帰ってきた。
皇帝フランツ・ヨーゼフの治世は、実に68年間にも及ぶ。
ウィーン革命の翌年、大公ヨーハンは、妻を伴い、シュタイアーマルクへ帰っていった。
真の意味での、彼の故郷へ。
そして、死ぬまで、アルプスの民に囲まれ、アンナと共に暮らした。
フランツ・ルードヴィヒは、ヨーハンとアンナのたった一人の子どもだった。
だが今や、この「シュタイヤアーマルクのプリンス」、メラン伯爵には、900人以上もの子孫がいるという。
fin
*~*~*~*~*~*~*~*
お読み頂き、ありがとうございました。
このお話は、130万語にもおよぶ大河小説のサイドストーリー集となっています
「ナポレオン2世 ライヒシュタット公」
https://kakuyomu.jp/works/1177354054885142129
また、人気の高かったゾフィー大公妃とのお話は、別立てにしました。
「ライヒシュタット公とゾフィー大公妃」
https://kakuyomu.jp/works/16816927859493291159
また、Novel Days さんには、彼の幼少時代を扱ったチャットノベルがあります。
「ナポレオン2世ライヒシュタット公―スウィートフランツェン」
https://novel.daysneo.com/works/3e4f3649d09f9258ae65e5ada3f9bebb.html
参考文献はブログにまとめてあります。
https://serimomoplus.blog.fc2.com/blog-entry-78.html
黄金の檻の高貴な囚人 せりもも @serimomo
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます